
遅ればせながら中村うさぎの『狂人失格』(太田出版)を読みました。奥付をみると、第一刷発行が2010年2月24日ですから3年近く前の本です。私は、中村うさぎの本は比較的よく読んでいるほうだと思いますが、なぜかこの本は見逃していました。
『狂人失格』は、太田出版の季刊誌『hon-nin』に、「自分強姦殺人事件」というタイトルで連載されたエッセイ風の小説です。
この本に登場する「優花ひらり」は、自称「元京大のアイドル」で「小説家志望」の、ネットでは有名な「電波さん」です。中村うさぎは同業者の茶飲み話で「優花ひらり」の存在を知り、以来彼女に並々ならぬ興味を抱くのでした。そして、「共著で本を出しませんか?」とメールを送ったはいいが、結局「優花ひらり」の「狂人ナルシシズム」にふりまわされてとん挫する、その顛末記です。
「私が私である」という「自意識」にどうしてこんなに拘泥し苦しまなければならないのか。中村うさぎの「優花ひらり」に対する興味はその一点に尽きます。それはある意味で女性特有のものでしょう。
他者の目など一切気にせず、素っ裸で獣のように生きていたアダムとイブは、「知恵の実」を食べたばかりに羞恥心が芽生え(すなわち、「他者の目から見た自分」という自意識が芽生え)、イチジクの葉で下半身を隠した。神はイチジクの葉で身を隠したアダムを見て怒りと失望を覚え、彼らを「エデンの園」から追放した(略)
このように、「旧約聖書創世記第三章」にある有名なエピソードを、「自意識の芽生え」すなわち「他者の目という客観性」を人間が獲得した物語ではなかったか、と中村うさぎは解釈するのでした。そして、(キリスト教ではこれを「原罪」と呼ぶのですが)「自意識」や「客観性」をもつことは「罪」になるのか、と中村うさぎは問いかけます。であれば、他者の目や客観性をいっさいもたない「優花ひらり」は、「神に選ばれた無垢の人」になるのではないかと。
一方、自分は、間違いなくエデンの園から追放され荒野をさまよう「イブの娘」だ、と中村うさぎは言います。
私は間違いなくイブの娘である。私はいつも「他者」を求めていた。自分を確認するために、「他者」は必要不可欠な存在だった。あのブランド物狂いも、ホストへの狂恋も、美容整形もデリヘリも、そしてそれらを執拗に書き綴る露悪的な行為も、すべては「他者の目」に向けた私の「自己確認」作業だったのだ。私はずっと、こう叫び続けていたのだ。
「私を見て! あなたの目に、私はどう映っている? あなたたちの目に映った私を検証することで、私は初めて私という生き物を確認できるの! ねぇ、私は生きている? 私はちゃんと存在してる? 私は醜い? 私はイタい? 私はどんな生き物なのか、誰か教えて!」
「優花ひらり」はもうひとりの自分だ。「優花ひらり」のなかにいるもうひとりの自分をみてみたい、と思っていた中村うさぎですが、しかし「狂人ナルシシズム」にふりまわされるうちに、「優花ひらり」は自分の対極にいるのではないか、と思うようになるのでした。
「自意識(過剰)地獄」か狂気の世界か。いや、作家というのは、そのどちらもみずからに引き受けることを運命づけられた人間なのではないでしょうか。
私は、この『狂人失格』を読んだあと、モデルになったと言われている女性のブログも読みましたが、彼女の”天然ボケ”が悪意の塊たるネットで格好のエジキになっている光景は、やはり痛ましいものがありました。これでは中村うさぎが、売文のために彼女を利用した「無慈悲な人間」にみえるのは仕方ないのかもしれません(真偽のほどは定かではありませんが、モデルになった女性が中村うさぎを訴えたとかという話もあるようです)。
ただ、作家というのは、ときに人の道にもとるようなことをする人間でもあるのです。たしかに、『狂人失格』は、読む進むうちに「いやな気分」になるような本ですが、そういったことも含めて、やはり作家のものだとしか言えないのです。
作家というのは、市民社会の公序良俗の埒外にいて、本来なら編笠をかぶって往来を行き来しなければならないような存在なのです。いわば畜生にも等しいような存在なのです。誰をネタにしようが知ったこっちゃないのです。「(勝手に書いて)許されるのか」などという”良識論”が通用するはずもないのです。普段は差別しているくせに、人を指弾するときだけ建前論を振りかざして良識ズラする、そんな市民社会のウソ臭さに唾を吐きかけるのが作家なのです。そのために、道を歩けば石つぶてが飛んでくることだってあるのです。吉本ばななや川上弘美や小川洋子のような、”市民としての日常性”をただ糊塗するような作家だけが作家ではないのです。
むしろ、この本がどこか尻切れトンボで、不完全燃焼のような印象を受けるのは、そんな作家としての”覚悟”が中村うさぎに足りなかったからだと思います。作家だったら、もっと「優花ひらり」の心の奥深くにまで踏み込み、彼女の「狂人ナルシシズム」を我が身に引き受けるべきだったのです。しかし、その”覚悟”が足りなかった。優花ひらりを自分の対極に置くことで、彼女の「狂人ナルシシズム」から逃げたのです。それが読み物として失敗した理由のように思います。
追記:
その後もひきつづきモデルとなった女性のブログを読んでいたら、どうも私の認識が間違っていたんじゃないかと思うようになりました。
コメント欄は、罵倒と中傷のコメントであふれ、おぞましささえ覚えるほどですが、そんなコメントに対して、彼女は「どう羨ましいですか?」などとわざと挑発して煽るようなフシさえ見受けられるのです。それに、ホントにコメントが嫌なら管理者権限でコメントを「承認」しなければいいのです。それが彼女に与えられた自衛策です。でも、彼女はあえて「承認」しているのです。
そう考えると、もしかしたら彼女のほうが一枚上手なんじゃないか。売文のために彼女を利用したと非難された中村うさぎや、来る日も来る日も飽くことなく悪罵を浴びせつづけるネット住人たちや、そして私も含めて、みんな彼女の掌の上で遊ばれているだけじゃないのか。ネットではこういうのも「あり」かもしれない、と思ったりもするのでした。(2013/2/20)
>> ネットは小説より奇なり