狂人失格


遅ればせながら中村うさぎの『狂人失格』(太田出版)を読みました。奥付をみると、第一刷発行が2010年2月24日ですから3年近く前の本です。私は、中村うさぎの本は比較的よく読んでいるほうだと思いますが、なぜかこの本は見逃していました。

『狂人失格』は、太田出版の季刊誌『hon-nin』に、「自分強姦殺人事件」というタイトルで連載されたエッセイ風の小説です。

この本に登場する「優花ひらり」は、自称「元京大のアイドル」で「小説家志望」の、ネットでは有名な「電波さん」です。中村うさぎは同業者の茶飲み話で「優花ひらり」の存在を知り、以来彼女に並々ならぬ興味を抱くのでした。そして、「共著で本を出しませんか?」とメールを送ったはいいが、結局「優花ひらり」の「狂人ナルシシズム」にふりまわされてとん挫する、その顛末記です。

「私が私である」という「自意識」にどうしてこんなに拘泥し苦しまなければならないのか。中村うさぎの「優花ひらり」に対する興味はその一点に尽きます。それはある意味で女性特有のものでしょう。

他者の目など一切気にせず、素っ裸で獣のように生きていたアダムとイブは、「知恵の実」を食べたばかりに羞恥心が芽生え(すなわち、「他者の目から見た自分」という自意識が芽生え)、イチジクの葉で下半身を隠した。神はイチジクの葉で身を隠したアダムを見て怒りと失望を覚え、彼らを「エデンの園」から追放した(略)


このように、「旧約聖書創世記第三章」にある有名なエピソードを、「自意識の芽生え」すなわち「他者の目という客観性」を人間が獲得した物語ではなかったか、と中村うさぎは解釈するのでした。そして、(キリスト教ではこれを「原罪」と呼ぶのですが)「自意識」や「客観性」をもつことは「罪」になるのか、と中村うさぎは問いかけます。であれば、他者の目や客観性をいっさいもたない「優花ひらり」は、「神に選ばれた無垢の人」になるのではないかと。

一方、自分は、間違いなくエデンの園から追放され荒野をさまよう「イブの娘」だ、と中村うさぎは言います。

 私は間違いなくイブの娘である。私はいつも「他者」を求めていた。自分を確認するために、「他者」は必要不可欠な存在だった。あのブランド物狂いも、ホストへの狂恋も、美容整形もデリヘリも、そしてそれらを執拗に書き綴る露悪的な行為も、すべては「他者の目」に向けた私の「自己確認」作業だったのだ。私はずっと、こう叫び続けていたのだ。

「私を見て! あなたの目に、私はどう映っている? あなたたちの目に映った私を検証することで、私は初めて私という生き物を確認できるの! ねぇ、私は生きている? 私はちゃんと存在してる? 私は醜い? 私はイタい? 私はどんな生き物なのか、誰か教えて!」


「優花ひらり」はもうひとりの自分だ。「優花ひらり」のなかにいるもうひとりの自分をみてみたい、と思っていた中村うさぎですが、しかし「狂人ナルシシズム」にふりまわされるうちに、「優花ひらり」は自分の対極にいるのではないか、と思うようになるのでした。

「自意識(過剰)地獄」か狂気の世界か。いや、作家というのは、そのどちらもみずからに引き受けることを運命づけられた人間なのではないでしょうか。

私は、この『狂人失格』を読んだあと、モデルになったと言われている女性のブログも読みましたが、彼女の”天然ボケ”が悪意の塊たるネットで格好のエジキになっている光景は、やはり痛ましいものがありました。これでは中村うさぎが、売文のために彼女を利用した「無慈悲な人間」にみえるのは仕方ないのかもしれません(真偽のほどは定かではありませんが、モデルになった女性が中村うさぎを訴えたとかという話もあるようです)。

ただ、作家というのは、ときに人の道にもとるようなことをする人間でもあるのです。たしかに、『狂人失格』は、読む進むうちに「いやな気分」になるような本ですが、そういったことも含めて、やはり作家のものだとしか言えないのです。

作家というのは、市民社会の公序良俗の埒外にいて、本来なら編笠をかぶって往来を行き来しなければならないような存在なのです。いわば畜生にも等しいような存在なのです。誰をネタにしようが知ったこっちゃないのです。「(勝手に書いて)許されるのか」などという”良識論”が通用するはずもないのです。普段は差別しているくせに、人を指弾するときだけ建前論を振りかざして良識ズラする、そんな市民社会のウソ臭さに唾を吐きかけるのが作家なのです。そのために、道を歩けば石つぶてが飛んでくることだってあるのです。吉本ばななや川上弘美や小川洋子のような、”市民としての日常性”をただ糊塗するような作家だけが作家ではないのです。

むしろ、この本がどこか尻切れトンボで、不完全燃焼のような印象を受けるのは、そんな作家としての”覚悟”が中村うさぎに足りなかったからだと思います。作家だったら、もっと「優花ひらり」の心の奥深くにまで踏み込み、彼女の「狂人ナルシシズム」を我が身に引き受けるべきだったのです。しかし、その”覚悟”が足りなかった。優花ひらりを自分の対極に置くことで、彼女の「狂人ナルシシズム」から逃げたのです。それが読み物として失敗した理由のように思います。

追記
その後もひきつづきモデルとなった女性のブログを読んでいたら、どうも私の認識が間違っていたんじゃないかと思うようになりました。
コメント欄は、罵倒と中傷のコメントであふれ、おぞましささえ覚えるほどですが、そんなコメントに対して、彼女は「どう羨ましいですか?」などとわざと挑発して煽るようなフシさえ見受けられるのです。それに、ホントにコメントが嫌なら管理者権限でコメントを「承認」しなければいいのです。それが彼女に与えられた自衛策です。でも、彼女はあえて「承認」しているのです。
そう考えると、もしかしたら彼女のほうが一枚上手なんじゃないか。売文のために彼女を利用したと非難された中村うさぎや、来る日も来る日も飽くことなく悪罵を浴びせつづけるネット住人たちや、そして私も含めて、みんな彼女の掌の上で遊ばれているだけじゃないのか。ネットではこういうのも「あり」かもしれない、と思ったりもするのでした。(2013/2/20)


>> ネットは小説より奇なり
2013.01.27 Sun l 本・文芸 l top ▲
早稲田文学5号


「abさんご」に再び挑戦しましたが、やっぱり読めませんでした。芥川賞を受賞したのですから、少なくとも「文学的にすぐれた」作品なのでしょう。だとしたら、もう私は小説を読む資格はないのかもしれません。

これは単行本の帯にも引用されていましたが、蓮実重彦氏は、早稲田文学新人賞の選評で、つぎのように書いていました。

誰もが親しんでいる書き方とはいくぶん異なっているというだけの理由でこれを読まずにすごせば、人は生きていることの意味の大半を見失しかねない。


なんだか「映画評論家」が新作映画のポスターの宣伝文に引用されるのを想定して書いたような文章ですが、それにしてもすごい文章です。さしずめ私などは、「生きていることの意味の大半を見失しかねない」愚かな人間ということになるのでしょう。そもそも文学に対して、未だにこんなこけおどしが通用すると思っている感覚からしてすごいなと思います。

「abさんご」は、芥川賞の発表から1週間も経たずに文藝春秋から単行本化されましたが、「abさんご」を買った人たちで、この小説を最後まで読むことができる人は何人いるのだろうかと思いました。まして、コピペではなく、自前の感想文が書ける人がいたら、(私のような凡人からみれば)”天才”ではないかと思います。

既にネットにちらほら出ている感想文も読みましたが、いづれも蓮実氏の選評を口真似して、「文学の可能性」「文学の豊饒さ」などといったお定まりのことばを並べただけの、ありきたりなものでした。こういった表記の実験に対して、ほとんど意味が擦り切れたような凡庸なことばでしか感想が書けない、その滑稽な光景にこそこの作品の性格が表れているような気がしてなりません。

たとえば、テレビで三流経営評論家のような陳腐なことばでご託宣を垂れている村上龍が、この作品を云々できるほどの言語感覚をもっているとはとても思えないのです。”原子力ムラ”と同じような”文壇ムラ”があって、そこには抗えない空気が流れているのではないか、と思いたくもなります。それは、川上弘美だって小川洋子だって山田詠美だって同じでしょう。

電事連ご用達の原発芸人・ビートたけしを「世界のたけし」に持ち上げたのも蓮實重彥氏ですが、なんだかまたしても蓮實氏にしてやられたという気がしないでもありません。そのうちビートたけしや太田光などが、さもわけ知り顔に「いや~、あの小説はなかなか面白かった」なんて言い出すのかもしれません。

いろんな意味で、この作品に対する”天才”たちの批評が待ち望まれます。
2013.01.23 Wed l 本・文芸 l top ▲
物語消費論改


先日、産経新聞に「結婚も自立も難しく…社会問題化する親同居未婚者」という「論説委員兼政治部編集委員」河合雅司氏の署名記事が出ていました。

記事によれば、親と同居する「35~44歳の未婚者は、2010年には男性184万人、女性111万人の計295万人」に上り、「同世代人口に占める割合は男性19・9%、女性12・2%」だそうです。その背景には、結婚したくても結婚できない経済的な事情があるのだとか。

国立社会保障・人口問題研究所の第14回出生動向基本調査のデータによれば、「20~34歳の独身者男性の3割弱が年収200万円未満」だそうで、それでは結婚なんて及びもつかないのはわからないでもありません。ただ、私のような地方出身者からみれば、一方でやはり「甘え」ということばを思い浮かべざるをえないのです。

いくら収入が低くても親のスネをかじれない地方出身者は、正規雇用が望めなければアルバイトをかけもちして生活費を工面するのが普通です。また、たとえ年収200万円であっても、安アパートに住んで共稼ぎを前提に、結婚する人間は結婚しています。

私のまわりもみても、親と同居している人間ほど「気楽な」フリーター生活から抜け出せずにいるケースが多いのですが、しかし、この記事に書いているように、「彼らを養っている親が高齢化して亡くなった途端に、彼らの生活基盤は崩れる」のです。やがて彼らが「気楽」ではない状況に立ち至ることは目にみえています。

また、これは予断でも偏見でもなく、彼らには程度の差こそあれ、オタク、あるいはオタクっぽい志向の持ち主が多いのも事実です。一方でオタクたちが、ネットを通して最近とみにネトウヨ化している現実があります。

折しも私は、大塚英志著『物語消費論改』(アスキー新書)を読んだばかりなのですが、この本では、彼らオタクが「日本」や「愛国」という、大塚氏が言うところの「大きな物語」に動員されていくメカニズムが、氏独特の語り口で解析されていました。ちなみに、この『物語消費論改』は、著者のことばを引用すれば、2001年刊の『物語消費論』(角川文庫)を「web以降』の文脈の中で検証し、清算するために」あらためて書かれた本だそうです。

まず、現在の「web以降」の状況について、著者はつぎのように書いていました。

webが新たにもたらしたものは、第四の権力としてのメディアを含む既存の権力が「ユーザー」に支配される、という独裁者不在のファシズムだ。しかも、「ユーザ-」たちは自らを「権力」化するために「天皇」やプチ独裁者を自身のアバターとして担ぎ上げる。しかし考えてみれば、おそらくファシズムとは本質的にはこのような独裁者を一種の偽王として祀り上げるシステムであり、従って、その枠の外から見ればヒトラーにせよ金正日にせよ、そして幾年か後に振り返れば、橋下徹も含め、あのような陳腐で滑稽な人間に人々は何故熱狂したのかと不思議に思うはずだ。このように「受け手」の欲望が物語消費論的に肥大し、権力化し、権力を「操作」していくのが「愚民」社会であるということになる。


一つの素材が「情報」として(それが「事件」であっても「フィクション」であっても)、メディア間を横断することによって案外と容易に虚実の境界を越えることが可能である。情報(言説と映像)は「組み合わせ」によっていくらでも事実を「虚構化」し、「現実」を装うこともできる。webはそのような操作性を万人に開いてしまった、といえる。


著者も「錯誤」だと書いていましたが、歴史との回路を切断された虚構の現実(セカイ)がどうしてこんなにいともたやすく捏造され、それがあたかも「本当の真実」であるかの如く跋扈するのか。「人生がうまくいかない」人間たちが、負の感情を元手に「夜郎自大な人間」に変身していく「物語消費」のメカニズムも含めて、そこにウェブが大きな役割をはたしているのは言うまでもありません。

ただ、このメカニズムの仕組みは、「web以前」の80~90年代に既に用意されていたと著者は言います。そこにあるのは、宮崎勤とオウム真理教の存在です。私は、それを読んだとき、まさに我が意を得たりと思いました。

オタクたちは、宮崎勤やオウム真理教(麻原彰晃)の呪縛から未だ自由ではない、と私も常々思っていました。「web以降」も”オタクの「仮想」の時代”は連綿とつづいているのだと。上記の記事で言えば、親がかりのニートやフリーターがオタクになったのではないのです。オタクが親がかりのニートやフリーターになったにすぎないのです。

宮崎勤の裁判に関わってきた著者は、宮崎勤の特徴は「私」の不在だと言います。宮崎勤の「私」には、「私が私である」という個別具体性が欠けているのだそうです。「私」という「外殻」がないのだと。他人によって自分がどう語られるか、そのなかにしか「私」を見出せない。それは、ネットなどにみられるように、他人の評価の集積で「私」が定義される今の状況と通底していると言います。そういった「私」は、かつて鈴木謙介氏が『ウェブ社会の思想』(NHKブックス)で、<遍在する私>として指摘していたのと同じでしょう。にもかかわらず(いや、当然と言うべきか)、他人に承認されたいという欲求だけは強くあるのです。

 結局、宮崎勤という人間を十年間観察してわかったことは、一見、ポストモダン的に見える「私」をめぐるリストや「誰かの語り」の中で自分を立ち上げようとするふるまいは、この国の近代が回避してきた「社会的な私」に対する回避の手段にすぎない、ということだ。そこでは「私」を立ち上げる手間暇や責任は忌避され、しかし他人に承認されたいという欲求だけは行使される。(原文は、引用文すべてに傍点あり)


一方、麻原彰晃は、英雄史観と陰謀史観を梃子に「大きな物語」を「陳腐に、しかし低次元でわかり易く提供して見せた」のでした。それは、「例えば『国を愛する』と言った瞬間、そこに『大きな物語の中の私』が至って容易に立ち上がる」ような安直なものでしかありませんでした。このような安直さによって(であるからこそ)、宮崎勤のようなオタクの、ただ他人に承認されたいだけのつたない「私」は、「ジャンク」の寄せ集めのような「大きな物語」にいともたやすく取り込まれていったのでした。そして、そのメカニズムは、昨今のナショナリズムの台頭にも通底しており、決して「終わった」話ではないのです。

ブログやTwitterやFacebookで日々垂れ流される「私」語りとしての「内面」。でも、その「内面」は所詮文体によってつくられたものにすぎないと著者は言います。個別具体性を欠き、自他の境界を持たない「内面」は、ただ増殖し浮遊するだけです。それでは、歴史との回路を切断された虚構の現実(「大きな物語」)に容易に回収され、動員の思想に組み込まれていくのは自明のように思います。

英雄史観でも陰謀史観でもない歴史はひどく退屈で、ただの日常の集積である。その日常を経験し身体化することが耐えがたく、彼らはオウムという虚構の歴史的身体を求めたのであろう。けれど、あまりにつまらない結論かもしれないが、人が歴史に至る手だては、退屈な日常を経験し身体化し、言語化していくしかないではないか。


前にも書きましたが、なにより大事なのは、この人生や生活を誠実にしっかりと生きて、日常のなかから個別具体的な「私」のことばを獲得することです。退屈な日常のなかにこそホンモノがあることを知ることです。そうすれば、おのずと歴史的な回路も生まれるはずです。「いい年していつまでもフリーターをやっているんだ」「いつまで親に甘えているんだ」というもの言いは、案外バカにできないのです。

>> 宇多田ヒカル賛
2013.01.19 Sat l 本・文芸 l top ▲
一昨日、第148回芥川賞の発表があり、史上最年長75才の黒田夏子氏の「abさんご」が受賞しました。

実は、私は「abさんご」が掲載された『早稲田文学』(5号)は買っていたものの、「abさんご」はまだ読んでいませんでした(正直言って、読むのがちょっとしんどかったのであとまわしにしていました)。「abさんご」は、第24回早稲田文学新人賞の受賞作でもあるのですが、選考委員の蓮實重彦氏は、この作品について、「選評」でつぎのように書いていました。

「固有名詞」やそれを受ける「代名詞」をいっさい使わずに、日本語で何が書け、何が語れるか。「個性」的な黒田夏子が直面するのは、おそらくこれまでいかなる作家も見すえることのなかった言語的な現実である。


早稲田文学新人賞の選考委員は蓮實氏ひとりだけですから、言い方はよくないですが、蓮實氏の独断と偏見で選んだという面もなきにしもあらずです。ましてこういった”実験小説”が芥川賞を受賞したこと自体、驚きですし異例です。

もしかしたら75才で受賞という話題性を狙ったのではないかとうがった見方もしたくなります。作家は忖度が得意なので、選考委員たちはそういった勧進元(文藝春秋社)の意向を忖度したのかもしれません。

でも、(作品そのものはまだ読んでいませんのでなんとも言えませんが)文学は若者だけのものではないはずです。文学表現の根源にある”生きる哀しみ”は、むしろ死を前にした老人のなかにこそあるとも言えます。あざといだけの若者の文学にうんざりしているのは、私だけではないでしょう。もっと老人が小説を書くべきです。

今回の受賞をきっかけに、”老人文学”が花開けば、それはそれで意義があるのではないでしょうか。
2013.01.18 Fri l 本・文芸 l top ▲
明治神宮01


朝、明治神宮に”初詣”に行ってきました。時間がはやいということもあったのでしょうが、参拝客は思ったより少なくて、普段の平日とほとんど変わりませんでした。

心境は”初詣”というより「苦しいときの神頼み」といった感じですが、しかし、凡夫はどこに行っても凡夫で、浮世の垢を拭うことはできないのでした。お賽銭箱に100円玉を入れたつもりがうっかりして500円玉を入れてしまったのです。お賽銭を投げ入れた格好のまま一瞬止まり、思わず「あっ!」と声が出てしまいました。

お参りを終えて参道を引き返していたとき、中年のサラリーマン風の男性が、携帯電話でなにやら話しながら私の前を歩いていました。その声が聞くともなしに聞こえてきました。

「申し訳ございません。なんとかしますから」
「はい、私のほうのミスです。申し訳ございません」

どうやらクレームの電話のようです。でも、その男性にしても、つい先ほどお参りしたばかりなのです。「今年も平穏無事にすごせますように」と祈願したのかもしれません。神様はなんと理不尽なんだろうと思いました。

もっとも、キリスト教やイスラム教のような一神教であれば、神は唯一絶対的な存在なので、神から背を向けられたら絶望するしかないのですが、この日本は八百万の神の国です。だから、捨てる神もあれば拾う神もあるのです。

携帯電話を耳に当てたままペコペコ頭を下げている男性をみながら、私は、「拾う神」を求めてつぎの神社を参拝したほうがいいんじゃないか、なんて不謹慎なことを考えました。

今や初詣のテレビCMが流れる時代ですし、またアニメの”聖地”などと言ってオタクに秋波を送る神社まで出てくる時代です。恋愛や病気や商売繁盛などご利益を特化して他と差別化をはかる神社もあります。文字通り、神様の世界も資本主義の洗礼を受けているのです。

「神はまず悲哀の姿して我らに来たる」と綱島梁川が言うときの”神”と、初詣のときに拝殿の奥に鎮座まします”神”は、なんだかまったく別のもののようにさえ思えてきます。たしかに、日本中にある神社は、その土地の”偉人”、つまり「大きな物語」を担った”偉人”を顕彰するという側面もあったのでしょう。

そう考えると、私たちが手を合わせるべきは、拝殿の奥に鎮座まします”神”より、まず自分の謙虚な心のなかにある”神”のほうではないか。仏教で言う「念仏申さんと思ひたつこころ」こそが大事ではないか。それが「八百万の神」の基底にある考え方ではないか、と困ったときだけ神頼みをする不信心者は思ったのでした。


明治神宮02

明治神宮03
2013.01.17 Thu l 東京 l top ▲
大倉山雪1

関東地方をおそった大雪。

もっとも、このブログでも何度か積雪の写真を掲載していますが、東京と言えどもそんなに大雪がめずらしいわけではありません。もちろん毎年あるわけではないですが、何年に1回くらいはあります。そのたびにマスコミは、カマトトぶって「雪に弱い東京」とかなんとか驚いてみせるのでした。

道路が大渋滞になったり、凍結で転倒者が続出して多くの負傷者が出たりというのは、要するに東京が過密都市だからです。雪が降らなくても渋滞しているのですから、雪が降ればさらに渋滞するのは当然でしょう。電車通勤のため、雪が降っても革靴やハイヒールの人が多く、朝、雪の舗道を急ぎ足で会社に向かえば、「滑って転んで大分県」になるのも当然でしょう。

ただ、実際に転倒して負傷するのは、東京より横浜のほうが多いそうです。なぜなら横浜は坂道が多いからです。この積雪のなか、山手のような丘の上の住民たちはどうしているんだろう、どうやってあの坂道を行き来しているんだろうと思いました。

「雪に弱い東京」というのは、いわゆる”常套句”です。いつも雪が降ると、「雪に弱い東京」という”常套句”が使われるのですが、でも、そうやってなにかを語っているようで、実はなにも語ってないのです。そこには、あらかじめ用意された「お定まりの現実」があるだけです。

午後から渋谷に行かなければならない用事があったのですが、雪だけでなく風も強くて、むしろそっちのほうが難儀でした。しかも雪のなか、都心で車を運転するはめになったのですが、環七や山手通りなど幹線道路の至るところで、路肩に車が「放置」されていて、それがよけい渋滞を招いているのでした。そもそも雪が積もった道路をノーマルタイヤで走るなどというのは、「雪に弱い」とか言う以前の問題です。そんな常識のない人が半端なく多いのも東京なのです。


大倉山雪2

大倉山雪3
2013.01.15 Tue l 東京 l top ▲
083716表参道


朝、原宿に行く用事があったので、そのまま原宿駅から渋谷まで歩きました。

駅を出てすぐの表参道の舗道に、長い行列ができていました。よくみると、大半は男性で、しかも、こう言っては失礼ですが、早朝のパチンコ屋に並んでいるようなタイプの人たちが目につきます。

場所柄、初売り(バーゲン)に並んでいるようにもみえるのですが、まさかラフォーレの初売りの行列が原宿駅まで伸びているということはないでしょうし、なんのバーゲンなんだろうと思いました。

もっとも最近は、ネットで売る商品をバーゲンなどで仕入れる人たちもいるみたいなので、行列のなかに場違いな人たちが混ざっているのも不思議ではないのかもしれません。

私の知り合いで、オークションで落札した商品を再びオークションに出品して利ざやを稼いでいる人間がいますが、本人の話ではヘタなアルバイトより稼げるのだそうです。まったくネットというのは、「虚実入り混じった」変なところです。

表参道は、ほとんどの店はまだ開店前で、歩いている人もまばらでした。あらためて舗道沿いの店をみると、大半はファッション関連の店で、それも大小さまざまなブランドの直営店ばかりです。

「モードの時代は終わった」という声もありますが、原宿をみる限り、まだモードは人々の心をとらえつづけているかのようです。人々がモードにとらわれるのにはいろんな解釈があると思いますが、なによりそこに資本主義の”原理”が凝縮されているのは間違いないでしょう。

先述した『資本主義の「終わりの始まり」』によれば、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、「資本主義とは永遠の経済成長という非合理な宿命を強迫のように背負わされた宗教だ。」と言ったそうですが、モードにとらわれた人々はまるでそんな宗教の信者のようです。

スローフード、スローライフなどと言っても、それが観念的なスローガンにとどまっている限り、「脱原発」と同じような”運命”をたどるのは目にみえている気がします。『資本主義の「終わりの始まり」』の著者・藤原章生氏は、いやそうではない、「大事なのは、二十万人もの人々が少なくとも一度は官邸前に集まったという事実だ。もし、仮にもっとひどい政策がなされたとき、おそらくさらに多くの人々が一カ所に集まる反政府運動のポテンシャル(可能性、潜在力」)が示されたことだ。」と言うのですが、私にはそれはやはり、おためごかしだとしか思えません。

反原発の「官邸デモ」は、野田首相(当時)との会見に象徴されるように、結局は60年代後半に否定されたはずの古い政治のことばをよみがえらせただけではないのか。そういう方向に収れんさせることによって運動のエネルギーを奪っていったのではないか。非常に言いにくいのですが、そのようにしかみえません。

考えてみれば、永遠の経済成長、つまり永遠の拡大再生産なんて、私たちの商売と同じで、「そうなればいい」「そうならなければ困る」という希望的観測にすぎないのです。案外、日本は資本主義というモードの最先端を走っていて、私たちは、「永遠」がもう「永遠」ではなくなりつつある資本主義の、その波頭に立っているのかもしれません。原宿の光景だって、マッチ売りの少女がみるうたかたの夢にすぎないのかもしれないのです。

しかし、私たちにはつぎの準備がなにもないのです。GDPがじわじわと減りつづけ、借金の比率が高まっていく。そうやって徐々に空気が薄くなっていくと、最初に影響を受けるのは体力のない人たちです。そのとき、「成長が続くという幻想が消えた」ことを知る最初の世代であり、労働人口の最高齢にいるはずの40代はどう反応するのか。日本以上に「労働の流動化」、つまり非正規雇用が進むイタリアの例をとりながら、藤原章生氏は、つぎのように問うのでした。

人間同士の関係を重視し、自身のエゴをうまく抑え、貧者に対して最低でも生きていける程度の富を分け与え、少ない仕事を共有するような形へと落ち着くのか。


既に露骨な「ナマポ」叩きがはじまっている日本の現実を考えるとき、とてもじゃないけど、これは夢物語のようにしか思えません。なにより、「つぎの準備」がこのような(まるで宗教のお題目のような)願望によってしか表現できないことに愕然とせざるをえないのです。

渋谷に着いてしばらく時間を潰したあと、開店したばかりのGAPで、予備がないと不安症候群の私は、カーディガン2色をそれぞれ2枚づつ買って帰りました。


084144表参道

083832表参道
2013.01.05 Sat l 日常・その他 l top ▲
2013年謹賀新年

あけましておめでとうございます。

正月3が日は完全休養でした。と言えば聞こえはいいですが、年越しのカウントダウンで山下公園に行った以外は、文字通りの寝正月でした。

今年はプライベートでも仕事でも課題山積ですが、それでも例年どおり今日できることを明日に延ばして、怠惰にやりすごすのだろうと思います。

最近は「無理しても仕方ない」と半ば開き直っています。性格にしても、大半は脳内物質の分泌量の違いで決まるみたいで、自分ではどうにもならないのです。無理すると、メンヘラではないですが、どこかにひずみが出てくるのはそのせいなのでしょう。無理しないのがいちばんです。

今の生活パターンでは、どうしても深夜遅くまで起きていることが多いのですが、深夜はずっとインターネットラジオのradikoでラジオを聴いています。

最近のお気に入りは、平日の早朝4時から5時55分まで(月のみ5時から開始)、TOKYO FMで放送されている「SYMPHONIA」というクラシック音楽の番組です。

私は、クラシック音楽はまったくの門外漢で、今まで一度もコンサートに行ったこともありません。ところが、この番組を聴いているうちに、なぜかクラシックの旋律が自然と耳に入ってくるようになったのです。最近はこの番組を聴くためにわざわざ朝まで起きているくらいです。

「SYMPHONIA」について、TOKYO FMのプレスリリースでは、「ジョギングや『朝活』など、早朝の時間を有意義に使う風潮が高まっている中、クラシック番組をBGM=“インテリア音楽”とすることで、爽やかな朝を過ごしていただくべく、良質なプログラムを厳選してお届けしています。」と謳っていますが、怠惰な私には、そんな健康的な聴き方とはまったく無縁です。

でも、夜明け前の時間に聴くクラシックの旋律はとても叙情的です。そのゆったりとした旋律のなかにいると、いつの間にかいろんな思いがこみあげてきて、ときにしみじみとこの人生をふりかえりることもあります。

文字通り馬齢を重ねているような人生ですが、しかし、そうは言っても、「誰の手も借りずになんとか今日まで生きてきた」という自負のようなものもどこかにあります。自分の人生をふりかえるに、そんな自己嫌悪と自負心がない混ざったような気持があるのです。

昔聴いたフォークソングの歌詞ではないですが、今日まで、そして明日から、自分なりのスタイルで無理せずに生きていくだけです。それしかない。

そんな抱負にもならないような抱負を抱いた正月でした。

今年もシールマニアともどもよろしくお願いいたします。
2013.01.04 Fri l 日常・その他 l top ▲