三宅洋平氏について、同世代の横須賀市議会議員・小林のぶゆき氏が、ブログで「三宅洋平の衝撃」と題して、「こういうホンモノの言葉、言霊の力を見せつけられてしまうと、うわべばかりの言葉をしゃべっている政治家の出番は、どんどん無くなっていくでしょう」と書いているのが目にとまりました。

三宅洋平氏が選挙フェスのMCのなかで、20代後半に荷揚げのアルバイトをしながら音楽をやっていた体験から、「(月の収入が)15万円だと心がすさぶ。この社会では20万円ないと心がすさぶと思った」と言ってましたが、こういう(若者の)生活実感に基づいた等身大のことばで政治を語るのが彼の魅力です。

老後のことを考えなければならないような年齢になると、20万円稼がなければ生活できない社会というのは、恐怖ですらあります。まして若い人たちはなおさらではないでしょうか。必死で15万円稼いだのに、それでは安心して生活できなくて「心がすさぶ」というのは、どう考えても理不尽な話です。

アベノミクスで景気がよくなった、株があがった、経済成長がはじまる、日本を取り戻す、なんて言われていますが、しかし、どう考えても、それは、20万円どころか30万円も40万円も50万円も稼がなければ安心して生活ができない、”過酷な社会”の話のようにしか聞こえません。それでは15万円しか稼げない非正規雇用の若者や年金暮らしの老人は、ますます「心がすさぶ」だけでしょう。

大震災や原発事故で、私たちの幸せは経済成長だけではない、経済成長を前提とする私たちの生活というのは、実はすごく脆いものだということを学んだはずでした。経済成長というのは、「拡大再生産」ということばに象徴されるように、飽くなき成長をつづけなければならない”宿命”を負っています。でも、必ず限界がある。それをバブル崩壊や大震災や原発事故が示したはずでした。

しかし、最近のアベノミクス礼讃一色の風潮を見るにつけ、結局なにも学んでないんじゃないかと言いたくなります。グローバリズムは、(アメリカの)「拡大再生産」をより合理化するために捏造した方便(アメリカのアメリカによるアメリカのための市場主義)にすぎず、グローバリズムに飲み込まれたら、私たちの生活なんてひとたまりもないことくらい、少しでも考えればわかるはずです。

朝日新聞デジタルに出ていましたが、ユニセフ(国連児童基金)が発表した「先進国の子どもたちの貧困」という報告書では、日本の子ども(18才未満)の相対的貧困率は14.9%で、OECD加盟国を中心とする先進35カ国中悪いほうから9番目だそうです。

ちなみに日本より貧困率が高い国は以下のとおりです。

27・日本
28・リトアニア
29・イタリア
30・ギリシャ
31・スペイン
32・ブルガリア
33・ラトビア
34・アメリカ
35・ルーマニア

日本で貧困層に入る子どもは、305万人もいるそうです。これでホントに豊かで、子どもたちが未来に夢をもてる国だと言えるのでしょうか。にもかかわらず、一方でテレビやネットでナマポ(生活保護)叩きが行われ、セイフティーネットが逆に厳格化し縮小されようとしています。これで世界からリスペクトされる「やさしい国」「美しい国」と言えるのでしょうか。

政治というのは、無定見に市場原理主義や欲望のナチュラリズムに追随するものではなく、むしろ15万円でも生活できる社会を構想し、それを私たちに問うものではないでしょうか。選挙が終わった途端、株価は下落し、福島第一原発では汚染水や放射性物質など深刻な現状がつぎつぎとあきらかになっています。まるで選挙が終わるまで操作され封印されていたかのようです。どうしてこんな子どもだましのような愚劣な政治に、人々はいともたやすくイカれてしまうのか。

人にやさしい政治とはなんなのか。「吾唯知足(われただ足るを知る)」生き方とはなんなのか。それを右や左の政治のことばではなく、なんの気負いも衒いもない自分たちのことばで主張する若者たちが出てきたことの意味は大きいと言えます。

非正規雇用やブラック企業など「失われた世代」の悲哀を味わいながら、マスコミやネットにいいように煽られ、この国を牛耳る保守オヤジたちにいいように操られている若者たち。自分たちの生活の場であり生活の糧でもある市場をアメリカに売り渡し、自分たちをさらに「心がすさぶ」状況に追いやる政治に、日の丸の小旗を打ちふりながら拍手喝さいを送る若者たち。そんな若者たちの倒錯した現実のなかから、「ストリートの思想」を背景に、等身大のリアルな声があがりはじめたことの意味は大きいのだと思います。


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月光に踊る

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唯一の収穫

※タイトルを変更しました(7/30)。
2013.07.29 Mon l 社会・メディア l top ▲
先日、新聞各紙につぎのような記事が出ていました。

週刊文春:上原多香子さんの記事 名誉毀損で賠償命令
 
 週刊文春の記事で暴力団関係者と交際しているかのように書かれ、名誉毀損されたとして、「SPEED」のメンバー上原多香子さんが発行元の文芸春秋側に計3000円の損害賠償などを求めた訴訟の判決で、東京地裁は24日、110万円の支払いを命じた。
 問題となったのは、2011年9月15日号の「暴力団排除条例に狙われる『黒い芸能人』」とする記事の見出しと中づり広告。上原さんが、暴力団関係者が訪れる東京・西麻布の飲食店に出入りしている、という内容。
 畠山稔裁判長は「上原さんはテレビでこの飲食店を紹介した際に一度訪れただけで、暴力団と関わりがあるとはいえない」と指摘。(共同)
(毎日新聞 2013年07月24日 18時21分)


高級ラウンジ「西麻布迎賓館」のオーナーは、いわゆる闇社会とつながりが深いと言われる一方で、芸能界にも幅広い人脈をもっていた不動産会社社長(のちに競売妨害で逮捕・有罪判決)でした。それで、『週刊文春』が、日本テレビの「ヒルナンデス」で「西麻布迎賓館」をレポートした上原多香子をとりあげ、普段から「西麻布迎賓館」に出入りしていて、あたかも暴力団関係者と付き合いがあり、東京都でも施行された暴力団排除条例に抵触しているかのような記事を書いたのでした。

『文春』の記事に対しては、アクセスジャーナルの山岡俊介氏も、当初からなんの根拠もないただの憶測記事(人身攻撃)だと批判していました。たしかに、とかく噂のあった「西麻布迎賓館」を紹介するコーナーを企画した日本テレビがやり玉にあがるのならわかりますが、どうして日テレではなく上原多香子だったのかという疑問は残ります。

問題は『文春』だけではありません。こういった記事が出ると、それがJ-CASTニュースのようなミドルメディアに思わせぶりに紹介され、さらにネットのまとめサイトなどに転載、拡散されるのが常です。そして、「ネットこそ真実」と信じて疑わないネット住人がブログや掲示板などにコピペすることで、ターゲットにされた人間の負のイメージがネットでひとり歩きをはじめるのです。しかも、いったんネットにアップされると、Google でいつでも検索可能になり、永遠にネットで晒されることになるのです。

これがマスコミとネットの共犯によって生み出される”私刑”の構図です。現在はなんでも関東連合と関係があるかのように書く”関東連合ネタ”が盛んです。

オヤジ週刊誌が生み出すネットネタというのはお笑いでしかなく、なによりネット言論なるもののお粗末さを象徴していると思いますが、しかし、そこには笑って済まされない問題が存在していることもたしかです。

もっとも、『文春』にしても所詮は、団塊の世代とともに消えていくメディアにすぎません。こういうメディアは一日もはやく消えてもらうのが「世のため人のため」かもしれません。『文春』が消えたら、林真理子や小林信彦や伊集院静や中村うさぎやミドルメディアの編集者やまとめサイトの管理人や2ちゃんねるの住人は困るかもしれませんが、私たちはちっとも困らないのです。

それに忘れてはならないのは、『文春』は上原多香子や安藤美姫のスキャンダルはこれ見よがしに(でっち上げてでも)書くけど、林真理子や小林信彦や伊集院静や中村うさぎのスキャンダルや、「横田めぐみさんは誰か偉い人のお妾にされているに違いない」と放言した石原慎太郎氏の「お妾」スキャンダルを書くことは絶対にない、ということです。

いつもの『週刊文春』なら、石原発言に対して、<石原慎太郎「横田めぐみさん」「お妾」発言の裏でささやかれる 「銀座ホステス」「劇団女優」を「お妾」の過去>(やや週刊新潮風ですが)なんていうスカートの裾をめくるような記事が出てもおかしくないのですが、絶対に出ることはないのです。
2013.07.26 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
商売人が政治と宗教の話をするのはタブーですが、また懲りずに床屋政談です。

参院選の結果は大方の予想どおりでしたが、私は、(反語的な言い方をすれば)はっきりしてよかったんじゃないかと思いました。

人間というのは、観念ではなく身体なのです。革命は胃袋の問題だと言ったのは故・竹中労ですが、多くの人たちはそれなりにものが食えてそれなりに幸せなのですから、消去法で自民党に票が集まるのは当然と言えば当然かもしれません。

「改革」なんて言っても、私たち自身のことを考えればわかりますが、せっぱつまった状態にならない限り、今日できることも明日に延ばし、今を糊塗してやりすごすのが人間の”習性”なのです。

とは言え、一方で、さまざまなハンディを背負って生きている人たちがいることも忘れてはならないでしょう。それはもしかしたら明日の自分の姿かもしれないのです。

自民党の麻生太郎副総理は、選挙期間中の街頭演説で、民主党の支持母体である連合(日本労働組合総連合会)を、こう揶揄していたそうです。

我々自民党は労働組合とぶつかる(組織の)はずだったのが、給与を上げてほしいと(企業に)言っている。連合の仕事じゃないの? 連合は非正規社員を正規にするという話を全然しない。それで、選挙は民主党、賃金の値上げは自民党。調子良すぎるんじゃないの?
(朝日新聞デジタル 2013年7月14日17時34分)
http://www.asahi.com/politics/update/0714/


傍から見ても、痛いところを衝いているように思います。

一方、連合は、「私たちはなぜ、民主党を応援するのか?」というパンフレットで、次のように訴えていました。

連合は基本的人権、労働基本権を守り、働く人々や生活者の生活向上を目指す団体であり、決して既得権益を代表する団体ではありません。


ホントにそうなのか。

連合の組合員数は、1989年の結成時に約800万人で、2013年2月現在で675万人です。一方、総務省統計局の「労働力調査」(基本集計)によれば、2013年5月分で、就業者数は6340万人、雇用者数は5554万人です。連合で組織されているのは全労働者の1割程度にすぎないのです。ちなみに、非正規雇用は、1891万人で、雇用者数(役員を除く)の36.3%、です。

実際に職場でも、組合が非正規社員の労働条件の改善を働きかけているなんて話は、一部の例外を除いてほとんど聞きません。むしろ会社と一体となって、非正規社員を差別してこき使っているのが実態ではないでしょうか。別の統計(国税庁の平成23年度「民間給与実態調査」)によれば、年収200万円以下の人たちが1069.3万人もいますが、その多くも非正規雇用なのでしょう。

昔からこの国の労働運動は本工主義で、本工・下請工・臨時工(期間工)の二重三重の差別構造の上に成り立っているという指摘がありましたが、その構造は今も変わらないのです。

ヘイトスピーチのネトウヨたちが、左翼や労働組合はめぐまれた既得権者で、彼らを攻撃する自分たちの運動はあらたな階級闘争だ、と主張する気持はわからないでもないのです。

それでも民主党には数百万票の連合の固定票があります。それが「サンクコストの呪縛」になり、自身の改革すらおぼつかないのが実情なのでしょう。でも、もう民主党なんてどうでもいいのです。民主党のことを語ること自体、トンチンカンな気がします。

そんななかで、アジカン(ASIAN KUNG-FU GENERATION)の後藤正文やいとうせいこう氏もエールを送っていましたが、選挙運動に”選挙フェス”というあたらしいスタイルを持ち込み注目された緑の党の三宅洋平氏のような、等身大のことばで政治を語り、困難に果敢に立ち向かう若者が出てきたことに、おじさんは一条の光を見た気がしました。

「ガーナでは、5才や8才や10才の少年たちが裸足でナタをもって一日10何時間もカカオを取る仕事をしている。しかし、やつらはチョコレートを食べたことがないんだって。明治や森永はそうやってチョコレートを作っている」
「あなたの財布のお金が3千円減るか5千円減るかは地球には関係ない。本質はそこにある」
「オーガニックのTシャツはユニクロのTシャツの倍くらいの値段がする。しかし、その背景の生産システムが人を傷つけてるか傷つけてないかを考えて選んでほしい」
「安倍さんは、10年間で年収を150万円アップすると言っている。しかし、おれたちが求めているのはそういうことではないんだよ」
「バブル以降に育ったおれたちは、お金や社会の恩恵に与かってこなかったから、違う豊かさを見つけられたんだよ」
「知らず知らずに買った家電製品や知らず知らずに預けたメガバンクの利益が、アフガンやイラクで人殺しに使われているような、そういうねじれを国会のねじれより先に解消しようではないか」
「もうボブ・マーリーもいらない。チェ・ゲバラもいらない。みんなフラットだ。ひとりの重さは変わらない」

こういったことばはおじさんの胸にも熱く響いたのでした。たまたま横浜と渋谷で”選挙フェス”を見ましたが、「ネットのバカ」だけではないこんな若者たちもいるんだと思うと、なんだか希望を見つけたような気がしました。公安に24時間監視されていると言ってましたが、それも勲章だと思えばいいのではないでしょうか。観念では政治は変わらないけど、そのうち彼らのような若者の出番がきっと来るはずです。「未来の子供たち」とつながっているのは、間違いなく彼らでしょう。

私にとっても、このような若者に遭遇できたのが、今回の選挙で唯一の収穫でした。
2013.07.22 Mon l 社会・メディア l top ▲
AKB検索


コラムニストの小田嶋隆氏が、参院選に関する朝日新聞のインタビュー記事のなかで、雑誌編集者は「読者はがきは読むな」と教えられると言ってました。どうしてかと言えば、「読者はがきを書くのは、右よりの雑誌では極右、左よりの雑誌では極左の読者が多い。つまり少数派の極端な意見で、それに引きずられてはいけない」からだそうです。

これはネットのコメントにも言えるように思います。最近はネットのニュースサイトなどで、コメント欄を設けているサイトが多いのですが、私にはコメントを求める理由がよく理解できません。実際にYahoo!ニュースなどに書き込まているコメントを読んでも、2ちゃんねるレベルのバカっぽいものばかりです。

考えてみれば、普通に仕事をしている人たちは、ネットのニュースにいちいち脊髄反射してコメントを書き込むような暇などないでしょう。コメントを書き込む人たちは、おそらく一日の多くの時間をネットに費やし、あちこちのニュースサイトにコメントを書き込んでいる人たちなのではないでしょうか。

コメント欄を設けることによって、「私たちは一方通行ではなく、読者の皆さんとコミュニケーションをとっています」「ネットはさまざまな意見が飛び交い、それを集約する民主的な場です」とでも言いたいのでしょうか。でも、ネットの現状を熟知しているはずのネットのプロたちが、今さらそんな幻想を抱いているとはとても思えません。だから、私には理解できないのです。

中川淳一郎氏が最新刊『ネットのバカ』(新潮新書)で書いているように、「子供でもバカでもツイッターやフェイスブックをやる時代において」「数年前までまだあったであろうネットへの過大な幻想はもはや捨てなければならない」のです。昔、嫌がらせ電話やいたずら電話をするには、ある程度の勇気と決断が必要でした。しかし、ネットだとそんなものは必要なく、敷居が著しく低くなったのです。

誰でもネットをするということは、当然、そこには常識に欠けた人たちや性格が病的にゆがんだ人たちや極端に偏向したものの考えをもっている人たちだっているはずです。あるいは特定の政治的宗教的意図をもって組織的に書き込みをする人たちもいるでしょう。そういった現実に対して、ネットはあまりにも無防備なように思います。

誰でもネットをする時代には、Googleの「数学的民主主義」もただのないものねだりの幻想かもしれません。むしろ現実は、水は低いほうに流れる”衆愚化”のほうが顕著になっているのではないでしょうか。

検索エンジンには、次の検索候補として入力されたキーワードを頻度の高い順に表示する、「サジェスト検索」(グーグルの場合)という機能があります。たとえば、Yahoo!で「AKB」と検索すると、上の画像のように、検索リストの上に、虫眼鏡マーク付きで「AKB 速報」「AKB48 恋するフォーチュンクッキー」「パチスロ AKB」「AKB48」と表示されますが、それが「サジェスト検索」です。

ところが、最近、ヘイトスピーチに批判的な人たちの名前で検索すると、「クルクルパー」「在日」「帰化」「反日」などといったキーワードで表示されるケースが多いのです。おそらくそういったキーワードで表示されるように、意図的に(集中的に)書き込まれたのでしょう。Googleの「数学的民主主義」の考え方やその仕組みは、性善説に基づいたきわめて単純なものなので、そのように悪用されやすいのです。

それは、Yahoo!をはじめネットに配信されるニュースに産経新聞の記事が多いため(MSNなどはもろに「産経ニュース」ですし)、記事を真に受けたネット住人たちの意見が、一般的な世論に比べて非常にバランスを欠いたゆがんだものになっているという、いわゆる”ネット言論”の問題も同じでしょう。

2006~2007年頃、日本のネット界は『ウェブ2.0』や『集合知』といった言葉がキーワードとなっており、ネットで人々が発言をすることによって、画期的な知のパラダイムシフトが起こると信じられていた。しかし、結局はバカが大暴れしたり、(略)妙な排外主義がはびこり、彼らが街頭に出る結果をもたらしたのである。寄付や助け合いなど、ポジティブな動きは生まれるものの、それ以上に救いようのない状況が生まれた(略)。
(『ネットのバカ』)


それが現実なのです。

ネットにはびこる「私刑」も同じです。安藤美姫の”出産騒動”に関して、『週刊文春』がネットで、「安藤美姫選手の出産を支持しますか?」というアンケートを実施しようとして批判され撤回した出来事に対して、北原みのり氏がWEBRONZAで、「仕事か、子育てか? なんて小さな選択をつきつける狭量なオジサンならば、いない方がいい」と批判していましたが、『文春』の姿勢は「狭量」なんてレベルのものではありません。

あれはあきらかに売らんかな主義による「私刑」を狙ったものでしょう。『文春』の編集者ならば、「読者はがきは読むな」というのは常識のはずで、ましてネットでアンケートをとればどういう結果になるかわかっていたはずです。ここにも「ネットとマスメディアの共振」が作り出す「『私刑化』する社会」の構図が透けて見えるのです。

>> 私刑の夏
>> 「数学的民主主義」
2013.07.20 Sat l ネット l top ▲
アメリカ国家安全保障局(NSA)によるネット監視を暴露したエドワード・スノーデン氏に対して、ベネズエラやニカラグアやボリビアなどが亡命の受け入れを表明しているにもかかわらず、アメリカ政府の妨害によって、スノーデン氏は依然としてモスクワの空港から動くに動けない状態にあるようです。

今日、スノーデン氏がロシア政府に亡命申請したというニュースがありましたが、もしそれが事実であれば、今の膠着した状態を打開する当面の策として、ロシア亡命が選択されたのは間違いないでしょう。

それにしても、まさに手段を選ばないようなアメリカ政府の強硬姿勢には、「アメリカンデモクラシー」を標榜する国家の、その裏にあるデモクラシーもクソもない凶暴な一面を垣間見た気がします。日本風な言い方をすれば、衣の下から鎧がのぞいた感じで、これこそが<帝国>たるアメリカの本当の姿なのでしょう。

一方、“対米従属愛国主義”とでも言うべき、ナショナリズムまでもが対米従属を前提にしているこの国で飛び交っているのは、スノーデン氏は中国のスパイだとかどうだとか本末転倒した話ばかりで、自分たちのネット情報が国家や企業にのぞき見されているという認識すら持ってない(持てない)かのようです。どこまでおめでたいんだと言いたくなります。

マスコミの報道も焦点がボケたような手ぬるいものばかりですが、そのなかで朝日新聞が連載している「特集データーセキュリティー(盗み見られる個人情報)」は、私たちが置かれている「ネットの時代」の現実を知る上で、タイムリーで秀逸な企画だと思いました。

「そんなことはわかっている」「今さらめずらしい話ではない」などとわけ知り顔に言うネットの事情通たちは、今まで「グーグルはすごい!」「フェスブックはすごい!」となんでも「すごい!」「すごい!」と言い続けてきたのです。そういうお粗末な感覚もネットの特徴だと言えます。

スノーデン氏が持ち出した機密資料を分析したイギリスのガーディアン紙によれば、GoogleやマイクロソフトはNSAの監視に積極的に協力していたそうです。なんのことはない、アパートの大家がのぞき魔に手を貸していたのですから、あいた口が塞がらないとはこのことでしょう。それに対して、米Yahoo!が監視ソフトの「PRISM」に、かなり抵抗していたという意外な事実もあきらかになっています。

いわゆるジャスミン革命に、Googleやフェイスブックが関与していたことは、当のGoogleやフェイスブックも認めていますが、私はそれを聞いて、どんな方向であれGoogleやフェイスブックのような企業が政治に関与すること自体、あってはならないことだと思いました。一方、無定見にジャスミン革命を賛美するこの国の左派やリベラル派に対しても、私は違和感を覚えていました。

NSAとGoogleの関係からみても、ジャスミン革命=アラブの春に<帝国>の意向がはたらいていたことは事実でしょう。今のエジプトの動乱もその脈絡でとらえるべきなのです。

ネットは自由ではないし、ネットでは民主主義は育たない。たしかにネットは便利なツールですが、それ以上でもなければそれ以下でもないのです。ましてネットは政治のあり方や人の生き方を決めるものなんかではないのです。ネットはそんなものとは関係ないのです。

>> ビッグデータと総監視社会
2013.07.16 Tue l ネット l top ▲
連日35度を越すような猛暑がつづいていますが、特に東京のような大都会では、ビルの空調システムや自動車などによるいわゆる「人工排熱」とアスファルトの照り返しで、文字通り灼熱地獄のようです。

熱中症のニュースも飛び交っていますが、それにしても驚くのは、この炎天下で、体育祭や球技大会や持久走などが行われているという学校現場の”過酷さ”です。熱中症で生徒が救急車で運ばれても、学校は「暑さ対策は充分とるように指導していた」と弁解するだけで、この酷暑のなかで体育祭や球技大会などを行うことが、もはや「暑さ対策」の範囲を越えているという疑問や反省は、まるで存在しないかのようです。

聞けば、先生たちの多くも個人的には疑問を抱いているそうです。しかし、”前例主義”という役人的発想に基づく管理体制がそれを許さないのだとか。そこには日本社会特有の”抗えない空気”があるのでしょう。そして、去年も一昨年も同じことをくり返したように、来年も再来年も同じことをくり返すのでしょう。

昨日、知人の知人(!)のアメリカ人と会った際、高校野球の話になったのですが、彼は、日本の高校野球について、「scary(薄気味悪い)」「doubt(おかしい)」「funny(滑稽)」というような単語を使って首をひねっていました(実際は肩をすくめていましたが)。

ベースボールの母国の人間から見れば、「一球入魂」なんてことばにすごい違和感を抱くのだそうです。もしかしたら、「ボールに魂を込める」というような精神論のなかに、イスラム原理主義と同じような”カルト的要素”を見ているのかもしれません。たしかにクラブ活動で野球をやっているにすぎないのに、どうして「純粋無垢な高校球児」になるのか。高校野球だとただのボールではなくなぜか「白球」になり、「白球を追う姿に感動する」ことになるのです。

この灼熱地獄のなかで高校野球大会が開かれ、それを朝日新聞やNHKのようなマスコミが、「白球を追う」「純粋無垢な高校球児」の感動話に仕立てて報道していることに対して、「doubt」「funny」と思うのはむしろ「正常な感覚」と言うべきでしょう。ヨーロッパではバカンスのシーズンなのに、日本では高校生が熱中症と戦いながら「白球」を追って、その姿が称賛されるのです。

鴻上尚史氏も、『週刊SPA!』に連載の「ドン・キホーテのピアス」でつぎのように疑問を呈していました。

 もはや亜熱帯と言ってもいいのに、今年もまた、サラリーマンは背広を着せられ、結果、会社では冷房をガンガンに入れ、女子社員は冷え性に苦しみ、エアコンの排気熱で都会はさらに灼熱の亜熱帯になり、そんな炎天下で生徒の体調をまったく無視した高校野球がおこなわれ、試合終了と共に脱水症状で担ぎ込まれる選手が日本各地で続出し、しかし球児の健全な生育と行動を求める高野連は何人倒れようとスケジュール通りに試合を進行し、日本人は必死に仕事を続けるのです。
http://nikkan-spa.jp/462476


鴻上氏が言うように、なにより「優先されるのは社会の規律」なのです。もっとも最近の風潮では、「だから日本人はすごいのだ」「だから日本人は世界からリスペクトされるのだ」と「自演乙」するのがオチかもしれません。

しかし、この灼熱地獄の精神論こそが、ワ●ミやユ●クロなどのブラック企業の背景にある死ぬまで働け式の精神論や、ひきこもりやニートの若者を海に蹴落として、そこからもがいて這い上がれと”教育”する戸塚ヨットスクールのような精神論と通底しているのです。そのいかがわしさや滑稽さに、日本人もそろそろ気づいてもいいのではないでしょうか。
2013.07.12 Fri l 社会・メディア l top ▲
一昨日、仕事の関係で帰りが遅くなり、新宿のホテルに泊まったのですが、結局、一睡もせずに朝を迎えることになりました。私は見かけによらず神経質なところがあって(一方で無神経なところもありますが)、よそに行くと寝付けないことが多いのです。

ホテルでは高橋源一郎の『銀河鉄道の彼方に』を読んで時間を潰しましたが、読み疲れたら窓のカーテンを開け、きらびやかなネオンが瞬く新宿の街を眺めたりして朝を待ちました。『銀河鉄道の彼方に』は非常に長い小説なので、読み終えたらまた感想を書くつもりですが、小説のせいなのか、ふと二十歳の入院していたときのことを思い出しては、ちょっとセンチメンタルな気分になっている自分がいました。

それは私にとっては三度目の入院でした。大学受験に失敗して東京の予備校に通っていたのですが、病気が再発したため、一旦九州に戻り、地元の国立病院に入院したのでした。

国立病院は街を見下ろす高台にあり、私のベットは窓際でしたので、そこからは、至るところに湯けむりが立ち昇る温泉地の街並みとその前に広がる別府湾の海原を見渡すことができました。

私は、いつの間にか、みんなが寝静まった深夜にベットに腰掛けて、海に沿って帯状に伸びる街の灯りを眺めるのが日課になっていました。そのため、同じ病室の人たちは、私が我が身をはかなんで「泣いているんだろう」と思っていたそうです。

買い物のために外出して駅前通りを歩いていたら、カメラを構えて写真を撮っている同級生の女の子を偶然見かけたことがありました。彼女は地元の大学に進んだので、おそらく大学で写真のサークルにでも入ったのでしょう。しかし、私は声をかけることもなく、彼女に気付かれぬようにその場をあとにしました。「エッ、なんで別府にいるの? 東京に行ったんじゃないの?」と言われるのがつらかったからです。

でも、今考えれば、たしかに病気は深刻だったけど、それでも夢もあったし希望もありました。「明日」を信じることもできたのです。だから、どんなに苦しくても恋もできたのです。

老人病院のベットの上から外を眺めて朝を迎えるなんて、あまりにも悲しすぎて想像したくもありませんが、しかし、私たちに残っているのは、もうそんな現実だけかもしれません。『銀河鉄道の彼方に』のなかに、「真の悲しみとは、ただなにかを失うことではなく、それが存在していた時に自分を浸していた豊かな感情が再現されることだ」という文章がありましたが、老いるということは、そうやって「真の悲しみ」を知ることでもあるのかもしれません。「悲しみに負けた時」「希望を失った時」(『銀河鉄道の彼方に』)、私たちはなにを支えに立ち上がり再び歩みはじめればいいのか。もう一度あの頃に戻ってそれを知りたいなと思います。若い頃の思い出はせつないものがありますが、しかし一方で、どこか心のよすがになっているような気がするのは、そこに間違いなく「明日」があったからでしょう。

>> 二十歳の夏
>> 「銀河鉄道の夜」
2013.07.09 Tue l 日常・その他 l top ▲
資本主義という謎


先日、今年度の「国民健康保険料額決定通知書」が届いたのですが、それを見て、一瞬我が目を疑いました。たしかに前年よりいくらか収入は増えたものの、それにしても保険料の上がりようが尋常ではありません。計算間違いではないかと思って市役所に問い合わせたのですが、間違いではないということでした。そう言えば、4月だったかに、国民健康保険料の計算方法が変更になるという「お知らせ」が届いたのですが、それがこの大幅な引き上げの予告だったのかと思いました。

収入に対する保険料の割合が「異常」と思えるくらいアンバランスで、とても現実に合致しているとは思えません。特にボーダーラインの近くにいる世帯にとって、この重い負担は深刻な問題でしょう。

所得に対する国民全体の租税負担と社会保障負担の合計額の比率を「国民負担率」と言いますが、日本の場合、「国民負担率」は42%だそうです。つまり、収入の42%が税金等に取られているのです。もちろん、高負担・高福祉のヨーロッパの国に比べれば、比率は低いのですが、しかし、私たちの生活実感からすれば、重税感を抱かざるを得ません。

水野和夫氏と大澤真幸氏の対談集『資本主義という謎 ー「成長なき時代」をどう生きるか』(NHK出版新書)が指摘するように、今のようなグローバリゼーションの時代では、資本にとって国家は足手まといでしかないのですが、さらに言えば、もはや国家にとって社会保障制度で面倒をみなければならない国民も足手まといでしかないのです。そして、結局は、国境を越える(越えなければならない)資本によって、国民は国家とともに置き去りにされるのがオチでしょう。それが、ウォール街を占拠したアメリカの若者たちが告発したような、1%の「勝ち組」と99%の「負け組」という現実になって表れているのだと思います。

大澤真幸氏が言うように、分配のシステムひとつとっても、資本主義は社会主義なんかよりはるかによくできた制度であるのはたしかでしょう。しかし、世界の経済が株価や為替の動きにこれほど左右され、超低金利政策がこんなに長くつづき、頻繁にバブルがおきて、まるでモグラ叩きのように常に世界のどこかで”危機”が発生している今の状況は、どう考えても資本主義が行き詰りつつある証左のようにしか思えません。水野和夫氏は、非正規雇用の背景には過剰資本の問題があり、雇用者報酬(所得)の削減の背景には過剰な固定資産減耗の問題がある、と言ってましたが、これは既に分配のシステムも機能しなくなっているということではないでしょうか。

資本主義が十全に機能するためには、常に収奪すべき「周辺」が必要ですが、もはやその「周辺」もなくなりつつあるのです。それで、急場しのぎでこしらえた新たな「周辺」が「金融空間」で、そのためにバブルが頻繁におきるようになったというのは、よくわかる話でした。

水野 (略)なぜ、バブルが頻繁に起きるかといえば、新しい「実物投資空間」がなくなったからです。「実物投資空間」の膨張がインフレで、「電子・金融空間」の膨張がバブルです。つまり、インフレが生じなくなったから、バブルが繰り返し起き、バブル崩壊が同じだけ生じるのです。バブル崩壊でデフレが生じるのですから、そのデフレをインフレを起こして解消するというのは倒錯した議論です。


水野氏は、今のグローバリゼーションの行き着く先は、世界の「過剰・飽満・過多」化で、グローバリゼーションは、「限界費用一定の法則という先進国の特権」を前提にした近代を終わらせることになるだろうと言ってました。そして、中国春秋時代の紀元前320~317年に書かれたと推定される『春秋左氏伝』の「国が興るときは、民を負傷者のように扱う。これが国の福です。国が滅びるときは、民を土芥(どかい)のように粗末に扱う。これが国の禍です」ということばを引いて、この国の現状をつぎのように警告していました。

二一世紀の現在、非正規社員が三割を超え、年収二〇〇万円以下で働く人が給与所得者のうち23.7%(平成二三年)、金融資産非保有世帯が26%(平成二四年)という日本で、現在「民」は大切に扱われているとはまったく思えません。新自由主義の人たちは、個々人の努力が足りないと非難し、貧乏になる自由があるとまで言います。『春秋左氏伝』によれば、亡国の道をひた走っていることになります。


しかし、私は、「亡国の道」ならそれはそれで、行き着くところまで行ったほうがいいんじゃないかと思います。「創造的破壊」ではないですが、一度行き着くところまで行かないと、新しいシステムも生まれてこないし、次の世代に残すような未来も拓けてこないような気がするのです。私も含めてですが、とりあえず自分たちの年金さえもらえればそれでいいというような現状追認は、「未来の他者」(大澤真幸氏)に対してあまりにも無責任すぎると言わざるをえません。

※タイトルを変更しました(7/4)。
2013.07.03 Wed l 本・文芸 l top ▲