
高梨真教氏のブログ(中村うさぎvsマッド髙梨 ガチBLOG!)を読むと、中村うさぎも元気を取り戻したみたいで、まずはひと安心です。私は、前にも書いたように、中村うさぎの「老残」を見たいので、中村うさぎにはもう少し長生きしてもらいたい。そして、鈴木いづみではないですが、ジタバタする姿を見てみたい、その姿を赤裸々に書いてもらいたいと思っています。それがもの書きの使命、いや宿命でしょう。
中村うさぎの入院のニュースをきっかけに、ふと思い出して、小倉千加子と中村うさぎの対談本『幸福論』(岩波書店)を読み返しました。
奥付を見ると、2006年3月16日第1刷発行となっていますので、もう7年半前の本です。私は、この本を買ったことをなぜかよく覚えているのです。
当時住んでいたいた埼玉のとある町の、駅前のショッピングセンターのなかにある書店で買ったのですが、その書店はいわゆる棚割がメチャクチャな店で、ピンクの表紙が目立つタレント本の棚のなかから偶然この本を見つけたのでした。
「幸福」とはなにか。フェミニズムの論客である小倉千加子と嗜癖をとおして女性の生き方を考える中村うさぎは、一見好対照なイメージがあります。たしかに、頭脳(理論)の小倉千加子と身体(体験)の中村うさぎは、いろんなところで意見の相違が見られます。でも、そんな二人の対話から浮かびあがってくる「幸福論」は、ありきたりな人生訓ではない深味と柔軟性を併せ持ったものになっているのでした。
「幸福」について、心理学者の小倉千加子は、「あとがき」でつぎのように書いていました。
「豊かさ」を求めることが「みんなの幸福」であった戦後の日本には、一人に一個の「自意識」はなく、「われわれ」という「集合的自己」が温存されていた。幸福であることがわからないほど幸福だった時代である。しかし、個別の「幸福探し」あるいは「自分探し」が始まると自意識は過剰になり、人は「幸福戦争」の被害者でありながら加害者になるという立場に置かれていく。
個別の「幸福」とは、他人への優越感や劣等感の波の上で揺れる小船のようなものであり、船を繋留する岸辺はどこにもない。人はそこで揺曳し続ける。アディクション(依存症)とは、揺曳の痕跡であると思う。それは、寄る辺ない小船の悲鳴であり、孤独な「自意識」からの下船の要求であり、船酔いしないために人がみずから起こす酩酊である。
中村うさぎは、ブランド買い・美容整形・ホスト狂いと転変する嗜癖のなかで、「幸福」を手に入れることができたのか。もちろん、否(ノン)です。そういった嗜癖は、単に一過性の「快感」にすぎないからです。小倉は、「快感」は点で「幸福」は線なので、本質的に違うものだ、点をつなぎ合わせたものは線にはならない、形になる、それは「幸福」ではなく「意味」だと言ってました。
うさぎ◆結局、消費による自己実現、消費による個性化みたいなものが、もうすでに無価値であるという結論に達するぐらいまで、消費生活はある意味、成熟したのであり、もう臨界点に達してしまったんですよね。そうすると人は、何を求めるかというと・・・。
小倉◆「意味」ですよね。
うさぎ◆大義ということになるのでしょうか。
中村うさぎも、愛国心という大義に心の拠り所を求める知り合いの若い女性の話をしていましたが、「幸福探し」や「自分探し」、あるいは「個性化」という欲望のナチュラリズムの果てに待っている、大義に投企する自己というパラドックスは、昨今の状況がなにより雄弁に物語っているように思います。
急速に進む階層化のなかで、低階層の家庭では「教育による階層上昇の道」が「ほとんど塞がれてしまった」現在、勉強しろと尻を叩くエネルギーもお金もない親が、教育に代わるものとして子どもに求めるのは、「個性」です。前も書きましたが、「(勉強しなくて)いいのよ、いいのよ、個性があればいいのよ」というあれです。階層上昇のツールとして、「個性化」が親の幻想になっているという小倉の指摘はそのとおりでしょう。勉強がダメなら、Jリーガー・アイドル・ダンサー・モデル等々と、親子の見果てぬ夢はつづくのでした。
階層化は、結婚にも表れます。それは、桐野夏生が『パピネス』で描いたテーマであり、曽野綾子の暴論にも通じるものです。
うさぎ◆主婦の世界では、シロガネーゼが、一般的な主婦をつつくわけです。兼業主婦・共稼ぎ主婦を、「私たちは夫の稼ぎだけで、こんなに優雅な暮らしをしている」と。それで、収入が下の主婦たちは、主婦どうしで、何かを持っているとかそういうことでつつきあうわけです。じゃあ、皆につつかれた最下層の主婦は、誰をつつくかというと、もう主婦階層の中では最底辺なので、未婚女性をつつくわけですよ。「結婚っていいわよ。子どもをもたなきゃ一人前じゃないわよ」といって。
酒井順子は、そんな主婦につつかれる未婚女性を「負け犬」と呼んだのでした。
「他人に評価され、他人に必要とされ、他人に認定された時点で自分の価値が生じる」(中村うさぎ)女性性は、そういったさまざまな階層化によってその存在価値を問われることになるのです。とりわけ、容姿(顔の美醜やファッションセンス)を問う「女性偏差値」は、大きな意味をもちます。小倉千加子は、「女はすべて外見」がフェミニズムの「最終回答」だと言ってました。
小倉◆(略)究極の女性性というのは美の表象であり、それ以外の何者でもない。それ以外に女性というものは存在しないんですよ。黒人の黒人らしさが、白人に対する「従順さ」であるのとは違うように、黒人は黒い皮膚の色をした人であるだけで、女性は「女性のように見える人」というだけで、本質としては存在しない。
だから逆に女性は、「どんどん女性装をすることを楽しめるし、ある意味どこまでも自由で、何にでもなれるんです」と小倉は言いますが、しかし一方で、中村うさぎは、東電OLの嗜癖の背景にも、この「女性偏差値」の問題が伏在していたのではないかと指摘していました。皆が皆、松田聖子のように、したたかに女性性を逆手にとって生きることができるわけではないのです。
そして、「幸福探し」「自分探し」「個性化」の先に待っていたのは、孤独です。中村うさぎは、「神をもたない人間は承認してくれる他者をいつも必要としている」「人間は共存する生き物である」と言い、このメンヘラの時代に、みずからを傷つけながら人生をさまよっている人たちを、つぎのように叱咤激励するのでした。
うさぎ◆(略)未婚女性の不安は孤独への不安、ゲイの不安も孤独への不安。それで命を絶ったり、パニック障害になったり、変な嗜癖にはまったり。だったら最初から他人に嗜癖しろと。嗜癖する相手を見つけるのがお前の人生だと。
中村うさぎについて、「ここまで女性への究極の信頼と人間への静謐な愛を冷徹なリアリズムに即して維持している人が、外にいるだろうか」と、小倉千加子は「あとがき」で書いていましたが、私もそう思います。だからこそ中村うさぎには、元気になって「老残」をさらすまでがんばってもらいたいと思うのです。そして、これから規格外の老人なんていくらでも出てくるでしょうから、そんな私たちの老後に、あたらしい解釈で光を当ててもらいたいと思うのです。
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