
たまたま本屋で見つけたのですが、発売されたばかりの上野千鶴子・信田さよ子・北原みのり氏の鼎談『毒婦たちー東電OLと木嶋佳苗のあいだ』(河出書房新社)を読みました。
この本では、東電OL・木嶋佳苗・角田美代子・上田美由紀・下村早苗・畠山鈴香といった、犯罪を犯して(ただし、東電OLは被害者)世間から「毒婦」と呼ばれた女たちを女性目線、とりわけフェミニズムの観点からとり上げているのですが、言うまでもなく話の中心になっているのは、木嶋佳苗被告です。
三人は今までもいろんなところで木嶋佳苗被告について語っていますので、この本は言わば”まとめ”のようなものかもしれません。本のベースになっているのは、2012年12月に行われた原宿のブックカフェ主催のトークイベントでの鼎談ですが、もちろんこの時期に本が出版されたのは、木嶋佳苗被告の控訴審がはじまったことと無関係ではないのでしょう。
私がこの本で注目したのは、つぎのふたつの問題意識です。
ひとつは、北原みのり氏の「援助交際世代の人たちがどう20代や30代を生きてきたのか」という問題意識です。
北原氏は、木嶋佳苗被告の事件を「直観的に、こんな新しい犯罪はないって思った」そうです。木嶋佳苗被告は、男からお金をむしり取ったことに対して、なんら悪びれた様子もなく、裁判でも堂々と「私は男性にしてあげたことの対価としてお金を頂いていました」と主張し、そんな姿勢に「佳苗ギャル」たちが共感する、それは今までにない新しい現象だと言うのです。
北原 (略)男に媚びる必要がないということを佳苗は教えてくれたわけです。男性に対して何もニコニコしたり、この人を傷つけないようにしなきゃいけないとがんばる必要は一切なく、私に会いたいんだったら、何月何日までにお金を振り込んでください、って毅然と言えばいいんだって(笑)。
北原 佳苗は整形もしてないし、ダイエットもしてないんです。「自分を磨く」とか「女子力」とか絶対言わないと思うんですよ。佳苗を支持して裁判を傍聴しにくる女性たちにとっては、そういう毅然さへの共感があったと思う。
その毅然さの裏に、男性に対する嫌悪があったのではないかという指摘は、わかる気がします。もっとも、女性たちにはなにかしら男性に対する嫌悪はあるのではないでしょうか。
以前、木嶋佳苗被告と同世代の30代後半の女性たちと話をしていたら、学生時代に同好会の合宿で乱交まがいのことを経験したとか、アルバイト先で知り合ったオヤジと愛人のような関係をつづけていたとか、幼稚園の保母をしながら子どもの父親から”お手当”をもらっていたとか、そういった話が出てきてびっくりしたことがありました。
私たちのような上の世代から見れば、たしかに彼女たちは「ふしだら」に見えないこともありません。しかも、木嶋佳苗被告ではないですが、その「ふしだら」な行為の裏には、”対価”が存在しているのです。それが上の世代と決定的に違うところであり、援交世代の特徴と言ってもいいのかもしれません。
さらに下の世代になると、文字通りそれが「ウリ」にさえなっているのです。池袋や新宿や渋谷で通りを歩いていると、オヤジから「3万円でどう?」なんて声をかけられた経験のある女の子たちは、ごく普通にどこにでもいるでしょう。それで、彼女たちは自分に「性的価値」があることを知るのです。あとは上野千鶴子氏が言うように、仲間に誘われるかどうか、一緒に「ウル」仲間がいるかどうかだけなのです。彼女たちにとって自己認識は、もはや倫理的に良いか悪いかなんて地点にあるのではないのでしょう。
北原 (略)売春したことないって言い切れる女って、どのぐらいいるのかなって考えちゃったんですよね。初めて会った男と自分を売り買いするっていうビジネスはしてなかったとしても、結婚を含めた男との関係のなかで、自分のセックスの価値と男の経済とを交換したことない女なんていないんじゃないかって。
でも、女たちは、そうやって生きていくことによって「常に満身創痍だ」と北原氏は言います。男たちの多くは、それを女性の「したたかさ」と勘違いしているのですが、当然のことながら女性たちは、”生きづらさ”を覚えながら傷つき苦しんでいるのです。そんな女性たちの状況のシンボルとして、東電OLや木嶋佳苗がいるのではないか、と北原氏は言うのでした。
援交世代以後の今の20代の女の子たちは、男や社会に期待しない冷めた生き方が多くなってると言いますが、では、肝心な30代後半の援交世代の女性たちは今どうしているのか。まさかネットの「鬼女」になっているのではないでしょうが、残念ながらこの本でも答えは出てないのでした。
ごく普通の妻やごく普通の母親やごく普通の主婦といったパターン化された結婚の風景のなかで、彼女たちの姿がなかなか見えてこないのはたしかでしょう。でも、「ごく普通」なんて本来ありえないのですから、どこかに彼女たちの姿はあるはずです。あの高い欲望の水位と現実の結婚生活をどう折り合いをつけてきたのか、北原氏ならずとも興味を覚えます。かわいい子どもが生まれ30年ローンでマンションを買ったからと言って、すべてが解消されるわけではないでしょう。
もうひとつは、信田さよ子氏のつぎのような問題意識です。
信田 男性が、こういう事件を自分に引き付けて考えられないっていうのが不思議なんですよね。佳苗の事件に限った話じゃなくて、たとえば連続強姦魔の事件があったとしますよね。なんで多くの男性は訳わかんないとか、自分とは別の世界の話だって思うんだろう。(略)
たしかに、多くの男たちは「おれは違う」と思っているのです。あんなデブでブスな女にだまされるのは、バカだ、モテないからだと。でも、そう2ちゃんねるに書き込んでいる男たちだって、似たようなものなのです。
そこにあるのは、買春しながら売春はよくないと説教を垂れるオヤジの(男の)論理です。彼らは、男性的価値観を当たり前のように絶対視し、それに安住し安心しきっているのです。だから、「良妻賢母」と「ふしだらな女」を平気で使い分けることができるのです。木嶋佳苗被告はそんな男の身勝手で能天気な”二枚舌”を利用して金をむしり取ってきたのでした。
男の話を聞き、相手を褒め、子供好きをアピールし、家事が得意であることを匂わせ、控えめにセックスを自ら求め、時に”母のように”男を導き、そして死まで”看取る”。佳苗がやってきたことは、こう書き並べてみるとまるでどこかの女性誌が特集する「愛される女」像にぴったりとあてはまる。それはケアする女、だ。まるで母のように男を世話し、エロもご提供。しかもそのエロは目の前の男だけに響くエロであり、決してヤリマンを匂わせることはない計算されつくした、男が受容できる程度の矮小化されたケアとしてのエロだ。
(北原みのり「あとがき」より)
信田さよ子氏は、それを「家族のパロディ」だと言ってました。
自分についてすら考えようともしないで惰眠をむさぼり高を括る男たち。一方、女性は常に自分の居場所を求めて悩み傷つき内省的にならざるを得ないのです。それはこの社会が男性中心の(男性的価値観に貫かれた)社会だからです。
木嶋佳苗被告に初めて会った男性たちは、「色白で、純朴な感じで、自分からは話さず、話を聞いてくれた」「私のぼろぼろの財布を見て、『堅実な方』と褒めてくれた」「育ちが良さそうで、自分の話すことに笑ってくれた」と木嶋佳苗被告の印象を語っていたそうです。そして、その延長上に彼らの(男たちの)恋愛や結婚や家族の幻想が広がっているのです。
でも、私たちのまわりを見てもわかるように、ジェンダー幻想を前提とする”結婚”や”家族”という制度は、もうとっくに崩壊しています。にもかかわらず、その手の”結婚”や”家族”は、男性的価値観のなかでは未だ生きつづけているし、男性的価値観に裏打ちされた国家や法律のなかでも、ひとつの規範として生きつづけています。そんな矛盾のなかに、彼女たちの犯罪が生まれたと言えるのではないでしょうか。そして、それゆえに彼女たちは「毒婦」と呼ばれたのではないか。