毒婦たち


たまたま本屋で見つけたのですが、発売されたばかりの上野千鶴子信田さよ子北原みのり氏の鼎談『毒婦たちー東電OLと木嶋佳苗のあいだ』(河出書房新社)を読みました。

この本では、東電OL・木嶋佳苗・角田美代子・上田美由紀・下村早苗・畠山鈴香といった、犯罪を犯して(ただし、東電OLは被害者)世間から「毒婦」と呼ばれた女たちを女性目線、とりわけフェミニズムの観点からとり上げているのですが、言うまでもなく話の中心になっているのは、木嶋佳苗被告です。

三人は今までもいろんなところで木嶋佳苗被告について語っていますので、この本は言わば”まとめ”のようなものかもしれません。本のベースになっているのは、2012年12月に行われた原宿のブックカフェ主催のトークイベントでの鼎談ですが、もちろんこの時期に本が出版されたのは、木嶋佳苗被告の控訴審がはじまったことと無関係ではないのでしょう。

私がこの本で注目したのは、つぎのふたつの問題意識です。

ひとつは、北原みのり氏の「援助交際世代の人たちがどう20代や30代を生きてきたのか」という問題意識です。

北原氏は、木嶋佳苗被告の事件を「直観的に、こんな新しい犯罪はないって思った」そうです。木嶋佳苗被告は、男からお金をむしり取ったことに対して、なんら悪びれた様子もなく、裁判でも堂々と「私は男性にしてあげたことの対価としてお金を頂いていました」と主張し、そんな姿勢に「佳苗ギャル」たちが共感する、それは今までにない新しい現象だと言うのです。

北原 (略)男に媚びる必要がないということを佳苗は教えてくれたわけです。男性に対して何もニコニコしたり、この人を傷つけないようにしなきゃいけないとがんばる必要は一切なく、私に会いたいんだったら、何月何日までにお金を振り込んでください、って毅然と言えばいいんだって(笑)。


北原 佳苗は整形もしてないし、ダイエットもしてないんです。「自分を磨く」とか「女子力」とか絶対言わないと思うんですよ。佳苗を支持して裁判を傍聴しにくる女性たちにとっては、そういう毅然さへの共感があったと思う。


その毅然さの裏に、男性に対する嫌悪があったのではないかという指摘は、わかる気がします。もっとも、女性たちにはなにかしら男性に対する嫌悪はあるのではないでしょうか。

以前、木嶋佳苗被告と同世代の30代後半の女性たちと話をしていたら、学生時代に同好会の合宿で乱交まがいのことを経験したとか、アルバイト先で知り合ったオヤジと愛人のような関係をつづけていたとか、幼稚園の保母をしながら子どもの父親から”お手当”をもらっていたとか、そういった話が出てきてびっくりしたことがありました。

私たちのような上の世代から見れば、たしかに彼女たちは「ふしだら」に見えないこともありません。しかも、木嶋佳苗被告ではないですが、その「ふしだら」な行為の裏には、”対価”が存在しているのです。それが上の世代と決定的に違うところであり、援交世代の特徴と言ってもいいのかもしれません。

さらに下の世代になると、文字通りそれが「ウリ」にさえなっているのです。池袋や新宿や渋谷で通りを歩いていると、オヤジから「3万円でどう?」なんて声をかけられた経験のある女の子たちは、ごく普通にどこにでもいるでしょう。それで、彼女たちは自分に「性的価値」があることを知るのです。あとは上野千鶴子氏が言うように、仲間に誘われるかどうか、一緒に「ウル」仲間がいるかどうかだけなのです。彼女たちにとって自己認識は、もはや倫理的に良いか悪いかなんて地点にあるのではないのでしょう。

北原 (略)売春したことないって言い切れる女って、どのぐらいいるのかなって考えちゃったんですよね。初めて会った男と自分を売り買いするっていうビジネスはしてなかったとしても、結婚を含めた男との関係のなかで、自分のセックスの価値と男の経済とを交換したことない女なんていないんじゃないかって。


でも、女たちは、そうやって生きていくことによって「常に満身創痍だ」と北原氏は言います。男たちの多くは、それを女性の「したたかさ」と勘違いしているのですが、当然のことながら女性たちは、”生きづらさ”を覚えながら傷つき苦しんでいるのです。そんな女性たちの状況のシンボルとして、東電OLや木嶋佳苗がいるのではないか、と北原氏は言うのでした。

援交世代以後の今の20代の女の子たちは、男や社会に期待しない冷めた生き方が多くなってると言いますが、では、肝心な30代後半の援交世代の女性たちは今どうしているのか。まさかネットの「鬼女」になっているのではないでしょうが、残念ながらこの本でも答えは出てないのでした。

ごく普通の妻やごく普通の母親やごく普通の主婦といったパターン化された結婚の風景のなかで、彼女たちの姿がなかなか見えてこないのはたしかでしょう。でも、「ごく普通」なんて本来ありえないのですから、どこかに彼女たちの姿はあるはずです。あの高い欲望の水位と現実の結婚生活をどう折り合いをつけてきたのか、北原氏ならずとも興味を覚えます。かわいい子どもが生まれ30年ローンでマンションを買ったからと言って、すべてが解消されるわけではないでしょう。

もうひとつは、信田さよ子氏のつぎのような問題意識です。

信田 男性が、こういう事件を自分に引き付けて考えられないっていうのが不思議なんですよね。佳苗の事件に限った話じゃなくて、たとえば連続強姦魔の事件があったとしますよね。なんで多くの男性は訳わかんないとか、自分とは別の世界の話だって思うんだろう。(略)


たしかに、多くの男たちは「おれは違う」と思っているのです。あんなデブでブスな女にだまされるのは、バカだ、モテないからだと。でも、そう2ちゃんねるに書き込んでいる男たちだって、似たようなものなのです。

そこにあるのは、買春しながら売春はよくないと説教を垂れるオヤジの(男の)論理です。彼らは、男性的価値観を当たり前のように絶対視し、それに安住し安心しきっているのです。だから、「良妻賢母」と「ふしだらな女」を平気で使い分けることができるのです。木嶋佳苗被告はそんな男の身勝手で能天気な”二枚舌”を利用して金をむしり取ってきたのでした。

男の話を聞き、相手を褒め、子供好きをアピールし、家事が得意であることを匂わせ、控えめにセックスを自ら求め、時に”母のように”男を導き、そして死まで”看取る”。佳苗がやってきたことは、こう書き並べてみるとまるでどこかの女性誌が特集する「愛される女」像にぴったりとあてはまる。それはケアする女、だ。まるで母のように男を世話し、エロもご提供。しかもそのエロは目の前の男だけに響くエロであり、決してヤリマンを匂わせることはない計算されつくした、男が受容できる程度の矮小化されたケアとしてのエロだ。
(北原みのり「あとがき」より)


信田さよ子氏は、それを「家族のパロディ」だと言ってました。

自分についてすら考えようともしないで惰眠をむさぼり高を括る男たち。一方、女性は常に自分の居場所を求めて悩み傷つき内省的にならざるを得ないのです。それはこの社会が男性中心の(男性的価値観に貫かれた)社会だからです。

木嶋佳苗被告に初めて会った男性たちは、「色白で、純朴な感じで、自分からは話さず、話を聞いてくれた」「私のぼろぼろの財布を見て、『堅実な方』と褒めてくれた」「育ちが良さそうで、自分の話すことに笑ってくれた」と木嶋佳苗被告の印象を語っていたそうです。そして、その延長上に彼らの(男たちの)恋愛や結婚や家族の幻想が広がっているのです。

でも、私たちのまわりを見てもわかるように、ジェンダー幻想を前提とする”結婚”や”家族”という制度は、もうとっくに崩壊しています。にもかかわらず、その手の”結婚”や”家族”は、男性的価値観のなかでは未だ生きつづけているし、男性的価値観に裏打ちされた国家や法律のなかでも、ひとつの規範として生きつづけています。そんな矛盾のなかに、彼女たちの犯罪が生まれたと言えるのではないでしょうか。そして、それゆえに彼女たちは「毒婦」と呼ばれたのではないか。
2013.10.26 Sat l 本・文芸 l top ▲
2013年10月24日 007


ダイエットですが、春先からはじめて、ここ数カ月はずっと10キロ減を維持していました(過去形に注意)。

先日、仕事先で、受付の女の子から「最近、痩せましたよね」と言われたのがきっかけで、「実はですね・・・」とダイエットの話になりました。すると、ダイエットに関心のある女性たちが私のまわりに集まってきて、「どうやって痩せたんですか?」と熱心に訊くのでした。

そうなると、私は得意満面、もう止まりません。話はエスカレートするばかりなのでした。

「食事制限をして痩せるなんて邪道ですよ」「そんなことしても続かないでしょ。続かなければ意味がないんですよ」 そうぶち上げると、彼女たちはいっせいに頷くのでした。

「じゃあ、なんで痩せたんですか?」
「ウォーキングです」
「ウォーキングだけで?」
「そうです、ひたすら歩くのです」
「どのくらい?」
「一日に大体1万5千歩くらいです」
「へぇ、それでそんなに痩せるんだ?」
さすがにメモを取っている人はいませんでしたが、みんな、目を輝かせて聴いていました。

でも、ここだけの話、実際は食事制限をしています。食事制限しないで痩せるなんて無理です。テレビ番組の企画で、美木良介のロングブレスダイエットを実践して痩せたと言われていた森公美子が、実は痩せたのは食事制限と運動で、「呼吸で痩せたらノーベル賞もの」「そんなに簡単に痩せません」とブログで白状して話題になりましたが、あれと同じです。このハッタリは、いわばサービス精神なのです。

ただ、私の名誉のために言っておきますが、一日に1万5千歩を歩いていることは事実です。時間があれば一駅どころか、二駅でも三駅でも歩きます。前も同じようなことを書いた覚えがありますが、いざ散歩(ウォーキング)で1万5千歩歩くとなるとなかなかしんどいし、続かない。だからなるべく日常生活のなかで歩くように心がけています。

ところが、現実は非情で、ウォーキングは続けても、食べることを油断するとすぐリバウンドしてしまいます。実は一昨日、体重計に乗ったら2キロ増えていたのです。体重計の上で思わず「やばいっ!」と叫びました。大口を叩いた手前、「あれっ、太りましたよね」なんて言われたら目も当てられません。そうなったら信用がガタ落ちです。それで、食事制限(と言っても、夕食を野菜サラダ中心にして軽くすませる程度ですが)をして、ウォーキングは一日に2万歩歩くようにしました。

今日も夕方から、買い物がてらみなとみらい界隈を歩きました。

赤レンガ倉庫に向かって本町を歩いていたら、横浜市開港記念会館(通称ジャックの塔)がピンク色にライトアップされているのに気付きました。さらに神奈川県庁の前にさしかかったら、本庁舎も同じようにピンク色でライトアップされ、正面玄関のところに人ざかりができていました。なんだろう?と思ったら、「ピンクリボンかながわ2013 」という乳ガンの受診を啓発するキャンペーンのセレモニーが行われているのでした。

さらに象の鼻パークに行くと、至るところに光のオブジェが設置されていました。これは、「スマートイルミネーション横浜2013」という「LED照明をはじめとする最先端の環境技術とアートを組み合せた」(イベントサイトより)催しだそうです。

オブジェの近くに立っている若者に話を聞くと、横浜美術大学や早稲田大学などの学生たちだそうで、みんな作品について丁寧に説明してくれるのでした。思わずこっちも「ありがとうございました」とお礼を言ったくらいです。

象の鼻パークには、アマチュアカメラマンたちの姿も目立ちました。あいにく私はカメラを持っていませんでしたので、スマートフォンで撮りました。


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2013.10.24 Thu l 健康・ダイエット l top ▲
以前、このブログで、個人的に旬なのは光文社新書だと書きましたが、さすがに最近は息切れしたみたいです。今はちくま新書(筑摩書房)のほうがノッている気がします。

昨日、ちくま新書を何冊かまとめて買ったのですが、そのなかでまず久田将義著『関東連合ー六本木アウトローの正体』を読み終えました。

久田将義氏は、『ダークサイドジャパン』や『実話ナックルズ』の編集長を務めた裏社会の事情に精通している人ですので、期待して読みましたが、正直言って期待外れでした。アウトローの「生態」や「闘争史」と言うには、ちょっともの足りない気がしました。

明大中野高校出身の著者にとって、チーマーが身近な存在だったという個人的な体験もあってか、話の流れにまとまりがなく散漫で読みづらいところがあります。また、裏社会の特殊な事情もあるのでしょうが、文中気を使って遠慮している表現がやたら目に付きます。それも読みづらい一因になっているように思いました。

関東連合と言えば、押尾学や酒井法子や朝青龍の事件の際にもあれこれ取りざたされましたが、しかし、なんと言ってもその存在が人口に膾炙されるようになったのは、市川海老蔵の事件からでしょう。そして、昨年の9月に発生した六本木フラワー事件。あの事件をきっかけに、警察は関東連合と怒羅権(ドラゴン・江戸川区葛西を拠点とする中国残留孤児二世たちの暴走族)を「半グレ(準暴力団)」と規定し、暴力団並みの取り締まりの対象にしたのでした。それ以来、ネットを中心に、なんでも関東連合と関係があるかのように書く”関東連合ネタ”も蔓延するようになるのでした。

著者は、関東連合について、「東京の、しかも東京都内でも六本木・西麻布・渋谷・歌舞伎町という、東洋でも有数の繁華街においてのみ成立する集団」と書いていましたが、たしかに東京を代表する繁華街で活動しているからこそ、”関東連合ネタ”のように、関東連合に対する幻想が肥大化していったという側面はあるように思います。

また、関東連合と芸能界の関係によって、”関東連合ネタ”がさらにひとり歩きするようになったのも事実でしょう。世田谷や杉並の若者たちを中心とする暴走族の集まりであった関東連合は、やがて詐欺や芸能関連のシノギに乗り出してより”アウトロー化”して行くのですが、それも六本木や西麻布や渋谷などの繁華街を活動の拠点にしていたことと無縁ではないでしょう。

ただ、それよりも私が注目したのは、関東連合など「半グレ」の中心人物たちの多くが、いわゆる団塊ジュニアで、しかも東京の山の手の中流家庭の子どもたちであるという点です。関東連合と関係があるネット関係者がインタビューで答えていたつぎのような発言には、”もうひとつの世代論”として考えさせられるものがありました。

「親の団塊世代は無責任に子供を冷酷な競争社会に追い込んでおいて、自分たちはバブル景気に浮かれて醜い乱痴気騒ぎを繰り返しました。ところが団塊ジュニア世代が世に出た時期には、すでにバブルが弾け、今に続く長い不況が到来しました。その状況で団塊世代らは自分たちの既得権益を守ることに執着し、下の世代のチャンスを摘んで回り、その結果団塊ジュニア世代の多くは『食うためにモラルを捨てる』しか選択肢がなくなったのでしょう」


「IT詐欺・出会い系・オレオレ詐欺(振り込め詐欺、現在は架空請求と呼ばれることが多い)など、関東連合のシノギとされているグレー(及びブラック)なシノギを批判するのは結構だが、生きるためにそんな物を選ばざるを得なかった世代がいるという現実から目を逸らすなと言いたい。関東連合を育てたのは誰か、また関東連合の勢力を弱めるにはどうすればいいか、少しは冷静に考えてみてはどうでしょう?」


ヘイトスピーチが生まれたのは、その背後に彼らを煽っていた右派の政治家や文化人の存在があったからです。しかし、彼らは今になって梯子を外して知らんぷりをしているのです。それと同じように、関東連合を考える上でも、親の世代である団塊の世代の生き方やバブル崩壊後の時代背景を無視することはできないように思います。

極端な言い方をすれば、普通の家庭では子どもを芸能人にしようとは思わないでしょう。もともと芸能界に入る若者たちは「半グレ」に近いところから出ている場合が多いので、芸能界と闇社会が関係があるのはある意味で当然なのです。そんなデバガメ的な”関東連合ネタ”なんかより、関東連合が生まれた世代や時代の背景を考えるほうが余程意味があるように思いますが、残念ながら本書にそういった視点(掘り下げ)はないのでした。

>> 魔性

※この記事は、WEBRONZA(朝日新聞)に「関連情報」として紹介されました。
2013.10.23 Wed l 本・文芸 l top ▲
昨日(18日)は、私の誕生日でした。

17日に25回目の誕生日だったAKB48の大島優子は、ディズニーランドのホテルに泊まった際、ミッキーとミニーから「お誕生日おめでとう」というメッセージが留守電に入っていて感激したそうですが、私には1件の留守電も入っていませんでした。

昨日かかってきたのは、墓地のセールスの電話だけです。誕生日のお祝いは、通販会社からポイントサービスのハガキが来ただけです。それどころか、昨日は、病院で実に恥ずかしい(屈辱的な)検査を受けるはめになったのでした。

ズボンとパンツを下げ、下半身をむき出しにして、ベットに仰向けに寝るように指示されました。そして、「両手で膝を抱えるようにしてください」と言われました。

「上体はそのままにして、お尻を大きく持ち上げるようにしてください」「そうです。そうです」「じゅあ、いいですか。楽にしてください。入れますよ」と先生の声。

「エエッ、入れるって、何を?」と思う間もなく、いきなり冷たい感触の器具がお尻の穴に挿入されたのです。

「もっと膝を手前に引いてお尻を大きく持ち上げてください」
私は唸りながら、両手に力を入れました。すると、今度は「楽にしてください」と言うのです。「おい、どっちなんだ」と言いたい気持でした。

先生は容赦なく、お尻のなかで器具をぐりぐりまわしています。そのたびに私は、口から声が漏れそうになるのを必死で堪えていました。

一方、肛門を刺激されたせいか、徐々に便意をもよおしている自分がいました。「このままではウ×コが漏れる」 そう思うと、いっそう危機感におそわれました。でも、堪えなければならない。額に汗が滲んできたのがわかりました。私は放心したように、膝を抱えたまま、目を見開いて天井を見つめていました。

検査の結果は、現状維持、つまり、このまま経過を見ることになりました。つぎの段階に進まなくてホッとしました。

処方箋をもらって病院の階段を降りるとき、まだお尻に異物が残っている感覚があって、心なしか内股で歩いている自分がいました。ホモってこんな感じなんだろうか、そのうちこれが快感になるんだろうか、なんてつい余計なことまで考えてしまいました。

まったくよりによってという感じですが、これが大島優子とは似ても似つかない私の誕生日でした。
2013.10.19 Sat l 日常・その他 l top ▲
「首都圏連続不審死事件」の控訴審が昨日(17日)から東京高裁ではじまりましたが、それにあわせるかのように、朝日新聞につぎのような記事が出ていました。

参考:
木嶋佳苗被告から記者に手紙 拘置所生活支える「彼ら」
(朝日新聞デジタル 2013年10月17日)

朝日だけでなく、「週刊女性」にも木嶋佳苗被告の手紙(手記)が掲載されているみたいですが、それにしても、記者が紹介している手紙の文面を見るにつけ、あらため聡明で文章がうまいなと感心させられます。

たとえば、一審の裁判員裁判について、「お白州で裁きを受けている気持ちでした」なんていう表現に、私は、文才というか、彼女の文章を書くセンスを感じました。(以下、上記記事より引用)

「検察も弁護人もお殿様(裁判員)の機嫌を損ねないように擦り寄るしかないんです」
「正直に話して否認した私は、裁判員の印象が悪くなって全てが有罪として認定されていく」
「一般の人は情感に惑わされて悲惨な光景を被告人がしたこととして安直に繋(つな)げてしまう。家族が亡くなった喪失感や死体の醜さを私に責任転嫁されても困ります」


ネットで彼女に悪罵を浴びせているネット住人たちなんて、彼女にして見れば、「バカがほざいている」くらいにしか思えないでしょう。それは、裁判員裁判の裁判員たちに対しても同様なのです。彼女は、この手紙でも、裁判員裁判の茶番を鋭く衝いているのでした。

「死刑判決を出すからには、刑場の床板を開くボタンを押す重みを知るべきだと思うんです」
「死刑囚の処遇や執行の実際を知らない一般の人たちが否認事件の死刑判決を出す制度の在り方に私は疑問を感じます」


記事によれば、彼女を物心両面で支援する男性たちがいるそうですが、そんな男性たちも彼女の聡明さと文章のうまさに惹かれているのかもしれません。見かけは別にしても、少しでも気を許すと騙される、そんな魅力をもった女性であることは事実でしょう。

私は、くだらないセックス自慢の手記や小説などではなく、1審の判決直後に朝日新聞に掲載されたような、自分の内面や生き方を見つめた手記や小説を書いてもらいたいと思っていますが、それは無理な相談なのでしょうか。殺人は別にしても、詐欺や売春の経験は豊富なので、きっといいものが書けるはずです。

>> 木嶋佳苗 100日裁判傍聴記
>> ふしだらな女 木嶋佳苗
>> 木嶋佳苗被告と東電OLの影
2013.10.18 Fri l 社会・メディア l top ▲
今月8日、東京都三鷹市で18才の女子高生が元交際相手の男に殺害された事件ですが、私は、この事件に対しての世間の反応のなかで、看過できないものがありました。

それは、犠牲になった女子高生を、「自業自得だ」という非難する声に対してです。しかも、非難の根拠になっているのは、ネットの情報なのです。

つまり、加害者によって、被害者のプライベート画像がネットにアップされたため、興味本位から画像を見た人間たちが、いっせいに被害者に対して「自業自得だ」という非難を浴びせるようになったのです。そして、その非難には、「軽率な女」「ふしだらな女」という、おなじみの倫理観が使われているのでした。

プライベート画像を見たいだけのデバガメにすぎないのに、非難するときだけそんな下劣な自分を棚に上げて、都合のいい倫理観を持ち出して叩くのは、彼らのいつもの手口です。もとより、それは市民社会の住人たちの常套手段でもあるのですが、ネットによってそれがよけい露骨になった気がします。そこには、「もし自分だったら」という仮定や留保も、そういった想像力や知性も皆無なのです。2ちゃんねるなんて、それこそおぞましいような鬼畜の書き込みであふれていました。

裕福な家庭に一人っ子として大事に育てられ、しかも私立の女子高に通っているような世間知らずの女の子が、ろくに働きもせずネットナンパに明け暮れているような男の本質を見抜くのは、やはり無理があるのかもしれません。一方、男から見れば、そんな世間オンチの女の子を籠絡するなんて造作ないでしょう。

両親が芸術家でキリスト教を信仰していたことを考えれば、「人間は信じるに値するものだ」「人間はみんな平等だ」「職業に貴賤はない」というような崇高な理念を家族で共有していたのかもしれません。でも、悲しいことに現実の世の中は、崇高な理念で解釈できるほど立派なものではないのです。悪い人間はいくらでもいる。どうしようもない人間も掃いて捨てるほどいる。少しでも気を許せば危険な人間だっています。そういった崇高な理念は、現実を生きる上ではあまりにも心もとなくてひ弱だと言わざるをえません。生きる術としては、もっと冷徹でシニカルな、いわば文学的な考え方のようなものが必要なのではないか。文学に触れることは決して無駄ではないのです。

Facebookの実名主義に対しても、いちばん無防備なのは日本人だという話を聞いたことがありますが、実名だからと言ってすべて本当のことを書いているとは限らないのです。ましてFacebookでその人間の人となりがわかるはずはないのです。人間はそんな簡単なものではないでしょう。

それにしても、よく言われることですが、この手の事件が起きるとどうしていつも決まって、「自業自得だ」とか「軽率だった」とか、さも女性の側に非があるような発言が出てくるのか。その背景にあるのは、女性を性の対象としてしか考えることのできない古色蒼然とした女性観です。つまり、「良妻賢母」と「ふしだらな女」を都合よく使いわける男の身勝手な論理です。そして、その二枚舌は、従軍慰安婦問題での橋下徹や石原慎太郎や、彼らに同調するネトウヨたちの男根主義的なそれと通底しているのです。国家がどうの日本がどうの日本人の誇りがどうのとご立派なことを言ってますが、橋下徹の「コスプレプレイ」や石原慎太郎の「お妾」や「隠し子」にこそ、彼らの女性観とその本音が露呈されているのです。

加害者の男は、犯行前も犯行後も携帯でLINEやTwitterに書き込みをしていたそうですが、その異常性を考えると、ニートやフリーターに典型的なネット依存の人間だったのではないか。彼もまた、2ちゃんねるやニコ動にどっぷりと浸かった「ネットこそすべて」「ネットこそ真実」の人間だったのかもしれません。

もっとも、2ちゃんねるやニコ動にどっぷりと浸かっているのは、なにも若者ばかりではありません。40代50代の「いい年した」大人だっていくらでもいます。フリーターの第一世代が既に50代にさしかかり、20歳~59歳の「孤立的無業者」が162万人(2011年統計)もいるという時代背景を考えれば、それも頷ける話なのです。

まともな社会経験もなく社会的訓練も受けてない、「世の中」や「人間」を知らない(理解できない)人間が、幅広い年齢層にマスとして存在しているという現実を、私たちはもっと知る必要があるのではないか。彼らに特徴的なのは、国家や社会や人間やあるいは歴史が、自分たちに都合よく二項対立的に単純化して描かれ、すべてが了解可能だと思い込んでいることです。だから、ヘイトスピーチのように”異物”は徹底して排除しなければならないし、この事件の加害者のように了解できないものは無理強いでも了解させなければならないのです。それはオウムとよく似ています。それどころかむしろカルト(カルト的要素)は、オウムの頃より私たちの日常に浸透していると言えます。「オウムは終わってない」のです。

ネットに依存している人間たちと話をするたびにいつも思うのは、彼らには人間に対するやさしさや思いやりといった感覚が決定的に欠けているのではないかということです。人の涙や心の痛みがわからないのではないか。そして、そこには、人生がうまくいってない僻みや妬みや嫉みといった個人の問題だけでなく、社会病理的な問題もあるように思えてならないのです。

私は、今回の事件に対する世間の反応にも、そんなカルト化した社会の一端が垣間見えたように思えてなりません。もちろん、それが加害者の病理と重なっていることは言うまでもありません。
2013.10.16 Wed l 社会・メディア l top ▲
私は空いていればシルバーシートでも座りますが、先日も、シルバーシートに座ってウトウトしているときでした(決してタヌキ寝入りしていたわけではありません)。

突然、「まったく今の若い人はなにを考えているんだか」「そんなもんだよ」という男女の甲高い声が聞こえてきたのです。

ハッ!と思って目を開けると、斜め前に初老の女性が立っていました。私は三人掛けの一番奥の席に座っていたのですが、いつの間にか隣にも女性と同じ年恰好の男性が座っていました。わざとらしい会話をしていたのはその二人でした。二人はどうやら夫婦のようでした。

私は、とっさに私に対する当てつけだと思いました。「若い者がシルバーシートに座って。年寄りが前に立っているのにタヌキ寝入りして知らんぷりしているのか」と。

でも、よく見ると、立っているのはまだ60代の半ばくらいの元気な女性なのです。私は、逆に反発を覚えました。その手の人間は、普段、「年寄り扱いなんかされたくないわ」なんて言っているくせに、都合のいいときだけ「年寄り」のふりをするのです。普段は平気で人を裏切り差別しているくせに、人を指弾するときだけ善良ぶる市民社会の住人たちと同じです。

「だったら意地でも変わらないぞ」と私は思いました。電車のなかでいちばんマナーが悪いのは高校生とヤンキーで、そのつぎにマナーが悪いのが、シルバーシートに座っている俄か「年寄り」たちです。まるでおれたちの特権とでも言わんばかりに、他の席がギューギュー詰めで混んでいても、平気で横の座席に荷物を置いて座っているし、なかには足を組んでふんぞり返って座っている「年寄り」さえいます。実際にシルバーシートが必要な年寄りなんて、10人のうち1人いるかいないかでしょう。あとは特権を我が物にせんとする俄か「年寄り」ばかりです。

私は、「当てつけみたいな言い方をしないで堂々と言えよ」と思って、女性と男性を睨みつけました。しかし、彼らは私の視線にはまったく気付かず、反対側のほうをチラチラと見ているのでした。

あれっ?と思って横を見ると、私と反対側の端の席(つまりドア側の席)には、若い男の子が、タヌキ寝入りなのか、目をつむって座っていました。どうやら夫婦が当てつけに言っていたのは、私ではなく隣の男の子のほうだったのです。

現状を把握した私は、少なからぬショックを覚えました。「エッ、おれじゃないんだ?」「どうしておれじゃないの?」と言いたいような気持でした。もし「変わりましょうか」と席を立っても、「あなたはいいのよ。お互い様でしょ」と言われて制止されるかもしれません。「まったく今の若いもんは気がきかないですな」と隣の男性から同意を求められるんじゃないかと思って、私はあわてて目をつむりました。

あてつけの夫婦が降りたあと、正面の窓ガラスに映った自分を顔をまじまじと見つめている自分がいました。そこに映っていたのは、老いたコッカースパニエルのようなくたびれたおっさんの顔です。いつまでも若いつもりでも、年齢はごまかせないのです。そう思うと、玉手箱を開けた浦島太郎ではないですが、いっきに老けたような気持になるのでした(と言っても、年に何度かそういったことがありますが)。
2013.10.12 Sat l 日常・その他 l top ▲
買い物革命、始動

今、ヤフーのトップページをひらくと、中央の目立つところに、上のようなバナーが貼られているのに気付いた方も多いでしょう。

ヤフーは、さる7日、「eコマース革命」と銘打ち、Yahoo!ショッピングの初期費用・毎月の固定費・売上ロイヤリティを10月からすべて無料にすると発表したのでした(併せてヤフオクの出店料も無料にすると発表)。また、今年の12月を目途に、ヤフオクと同じように、Yahoo!ショッピングでも個人の出店を可能にするというのです。

ちなみに、改定前のYahoo!ショッピングと楽天市場に出店した場合の費用は、以下のとおりです。

http://blog.livedoor.jp/net_hanbai/archives/1363014.html

これらの費用がすべて無料になるのですから、相当な負担軽減になるのは間違いありません。ライバルの楽天に「激震が走った」のも想像に難くありません。

発表会に出席したヤフー会長(兼ソフトバンク社長)の孫正義氏は、「インターネットの本来あるべき自由な姿を見直し、根底から物事をひっくり返す」と述べたそうです。

私ももう10年ネット通販をやっていますが、ネットが当初より大きく変わり、本来の自由が奪われていることをひしひしと感じます。10年前のネットには、たしかに私たちのような零細な業者でも希望を託せるような自由と可能性がありました。

ネット通販でも、先行したのはほとんどが個人の零細な業者でした。ところが、それを横目で見ていたメーカーや問屋や大手のチェーン店などが、やがてあとを追ってつぎつぎとネットに参入してきたのでした。仕入れ先の問屋やメーカーがいつの間にかネットで同じものを売っていたなんて泣くに泣けない話は枚挙にいとまがありません。しかも、実質的に価格決定権をもつ大手のチェーン店などがメーカーに圧力をかけるため、独占禁止法が禁じる「再販価格の拘束」(メーカーが設定した「小売価格」で売ることを取引の条件にすること)が当たり前のようにまかりとおる状況さえ生まれたのでした。

最近、公正取引委員会などに、「再販価格の拘束」を見直す動きがありますが、それはあくまでナショナルチェーンのスーパーなど大手の小売店とメーカーの力関係を前提にした話にすぎません。メーカーに対して圧倒的に力が弱い私たちのような零細なショップにとって、現実はまったく逆なのです。

このようにネットが自由でなくなったのは、ネットのリアル社会化、つまり、ネットがリアル社会に浸食された結果です。そのような状況をもたらしたのは、言うまでもなくヤフーや楽天やアマゾンのようなショッピングモールです。彼らによって、ネットにリアル社会の論理や手法が持ち込まれ、ネット通販が秩序化・整序化され序列化されたのです。

誰でもサイトをアップし、検索順位と商品力で勝負すれば、ある程度ネットで飯が食えるという時代はたしかにありましたが、彼らの存在が大きくなるにつれ、そんな簡単なものではなくなったのです。検索順位にしても、今、上位を占めているのはブランド力のある有名ショップのページばかりで、零細な業者のサイトはほとんど下位に追いやられ姿を消してしまいました。要するに、ネット通販の敷居が高くなったということです。それは出店料や維持費だけの話ではないのです。商品を仕入れるための取引条件も、Googleに一元化された検索順位も同様なのです。

孫正義氏の「ネットの本来あるべき自由な姿を見直す」というその言やよしです。ただ、忘れてはならないのは、私たちが考えるネットの「自由」と孫氏が考える「自由」とはまったく別のものだということです。ヤフーは、あくまで「金を掘る人」ではなく「金を掘る道具を売る人」なのです。「金を掘る人」が多くなればなるほど、その分道具も多く売れるわけですから、「ここに金があるぞ」と煽って多くの人を集め、道具を売ることがヤフーの目的だということです。

Yahoo!ショッピングのトップページの「おすすめ」や「イチオシ」に表示されるためには、当然、お金(広告費)が必要です。無料化によって出店が増えれば、その分、広告の需要も増えるでしょうし、単価も高騰するでしょう。無料化で商品があふれるなかで埋もれずに売り上げを上げるには、今まで以上に「プロモーション広告」やアフィリエイトに広告費をつぎ込まなければならない、そういう構造になっていくのは間違いないでしょう。

「ヤフーは間違っていた。さまざまな囲い込みをしようという小さな、いじけた心を持っていたが、そういうものは全部忘れる」という孫氏の発言についても、私は、違和感を禁じえませんでした。そうは言っても、「金を掘る道具」を売っていることには変わりがないのです。ただその売り方(ビジネスモデル)を少し変えるというだけの話でしょう。なのにどうしてこんなに時代がかった、「正義の味方」のようなもの言いをしなければならないのか。

当然の話ですが、「eコマース革命」は、ヤフーや楽天やアマゾンに出店しなければもはやネット通販が成り立たないような、そんな秩序化・整序化され序列化された状況を打ち壊すものではないのです。むしろ逆で、所詮は「金を掘る道具を売る」ための商売の(囲い込みの)論理でしかないのです。
2013.10.10 Thu l 仕事 l top ▲
歪んだ忌日


北町貫多、いや西村賢太の最新短編集『歪んだ忌日』(新潮社)を読みました。

この本には6篇の短編が収められていますが、この本にも、①若い頃の孤独で鬱屈した日常、②秋恵とのDV満載の同棲生活、③私淑する藤澤清造、といったおなじみのパターンの話が収められていました。

私は、西村賢太の小説は果たして私小説と言えるのだろうかという疑問があります。この偉大なるマンネリズムを見せつけられると、もはや「私小説」というエンターテインメントではないのかと思ったりもします。

西村賢太は、朝日新聞デジタルのインタビューで、「私小説だからできることを遠慮なくやっている」「主人公イコール作者と思われるのが良い私小説。現実をそのまま書いていると思わせて読者をだます。そこが腕の見せどころ」(著者に会いたい)と言ってますが、これなどを読むと、西村自身にもエンターテインメントという自覚があるのではないかと思ってしまいます。

私小説であれどんな小説であれ、作者と作品、作者と登場人物の間には、それこそ「語る人」と「語られる人」、「視る人」と「視られる人」の緊張感が保たれていなければなりません。それが小説の”善し悪し”につながることは言うまでもありません。今の西村賢太にその緊張感があるのか疑問です。サービス精神が災いしているのか、どうも小説自体が「面白おかしい」とか「感傷的」とかいった予定調和に堕しているように思えてならないのです。秋恵のDVものを読んでも、なんだかギャグ連発の漫談を聞いているような気分になってくるのです。

私がこの本で注目したのは、芥川賞受賞以後の身辺を描いた「感傷凌轢(かんしょうりょうれき)」と「歪んだ忌日」です。

「感傷凌轢」は、二十数年没交渉になっている母親から突然届いた手紙の話です。貫多によるお金の無心や家庭内暴力のために、一方的に連絡を絶った母親がどうして今頃手紙を寄越したのか、貫多は疑心暗鬼に捉われます。如何にも母親らしい文面の裏に隠された思惑をあれこれ勘繰るのでした。やはり金なのか。

 (略)貫太が、やがて心中において導きだしたのは、
(三百万までだな)
 との答えだった。
 即ち、もし母がこれを口火に彼に接触を試み、もって金銭の無心をしてくるようなことがあったなら、そのときは一度きり、その額までは融通してやろうと云うギリギリのラインの答えである。これ以上では、彼の足までも引っ張られて、共倒れとなりかねない。


でも、そんな結論もどこかしっくりしない気持があります。「何やら軽ろき焦りを覚え」るのでした。

 その焦りが苛立ちに変わったとき、彼はしょうことなしに腰を上げ、再び後架へと向かっていった。
 そして、便器にサンポールの液体をぶちまけると、やおら柄付きのブラシを握りしめ、尿石の付着部分を一心にこすり始めたのである。


その姿は、まるで彼の心に張り付いた家族に対する思慕の念を賢明にこすり落としているかのようです。でも、ここでも最後に出てくるのは「感傷」という予定調和なのでした。

「歪んだ忌日」は、作者が”歿後弟子”を名乗るほど私淑している藤澤晴造の「晴造忌」にまつわる話です。(引用者注:本来の名前は環境依存文字のため、通常の「晴造」に換えました)

芥川賞受賞直後に行われた「晴造忌」には、予想を「はるかに上廻る有象無象」が押し掛けてきて、挙句の果てに、「受賞を墓前に報告」なんていうマスコミ向けの「小芝居」まで演じる始末でした。それは、貫多にとって、「災厄」とも言うべき「不快」なものでしかありません。

そして、翌年の「晴造忌」は、「有象無象」を避けるために、初めて日延べするはめになったのですが、それでも関係者から日程が漏れ、招からざる客に少なからず神経をすり減らすことになったのでした。

今年もまた同じような事態になったらと思うと、貫多は気が重くなるのでした。そのため、今年は日延べした日程が事前に漏れないように周到に姦計をめぐらした末、貫多は不安を抱きながら七尾の菩提寺に向かいます。

ところが、貫多を待っていたのは、拍子ぬけするほどの、のどかな光景でした。「二年前は、本当になんとも賑やかやったのに、なんかもう、まるで潮が引いてしまったみたいやわいね」と住職がおっとりした口調で言い、貫多もまた、「いっぱしの著名人ででもあるかのように心得、あれこれ一人で気を揉み、しきりに渋面を作り続けていたことがどうにも馬鹿馬鹿しくってならず、つくづく自らの思い上がりを恥じずにはいられなかった」のでした。そして、祥月命日に「晴造忌」を行わなかったことへの後悔の念をあらためて抱くのでした。

「ゲスったらしい」小説も、そこに緊張感がなければ、「人間」や「人生」を見つけることができない、ただの「ゲスったらしい」小説で終わります。インタビューにあるように、「私小説」という手法が、読者に阿(おもね)る小手先の手段になっているとしたら、芥川賞はむしろ小説家に”不幸”をもたらしたと言えるのではないでしょうか。彼の「焦り」や「苛立ち」の根底には、そういった思いもあるのかもしれません。

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>> 『人もいない春』
2013.10.08 Tue l 本・文芸 l top ▲
ルポ 虐待


杉山春氏の『ルポ 虐待 ― 大阪二児置き去り死事件』(ちくま新書)を読みました。「大阪二児置き去り死事件」とは、私たちにもまだ記憶にあたらしいつぎのような事件です。

 二〇一〇年七月三十日未明、大阪ミナミの繁華街のそばの、十五平米ほどのワンルームマンションで、三歳の女の子と一歳八カ月の男の子が変わり果てた姿で見つかった。斎藤芽衣(引用者注:仮名)さんは、その二人の子どもの母親だ。
 この夏はとびきり暑かった。子どもたちはクーラーのついていない部屋の中の、堆積したゴミの真ん中で、服を脱ぎ、折り重なるように亡くなっていた。内蔵の一部は蒸発し、身体は腐敗し、一部は白骨化していた。
 事件後、この部屋から段ボール箱十箱分のゴミが押収されている。コンビニや弁当やカップ麺の容器、スナック菓子やパン等の包装類、生ゴミ、おむつなどだ。芽衣さんは、一月中旬に名古屋から大阪に引っ越して以来、一度もゴミを捨てていなかった。
 部屋と玄関の間の戸口には出られないように、上下二カ所水平に粘着テープが外側から貼られた跡があった。冷蔵庫は扉の内側まで、汚物まみれの幼い手の跡が残されており、食べ物や飲み物を求めたのではないかと推測された。そんな幼い手の跡は、周囲の壁にもたくさん残されていた。
 大阪ミナミの風俗店でマットヘルス嬢だった芽衣さんが、子どもを残して最後に部屋を出たのは、六月九日。その約五十日後、ゴミで埋まったベランダから部屋に入ったレスキュー隊に子どもたちは発見された。


23歳の母親は、「この間、出身地の四日市や大阪で遊び回り、その様子をSNSをとおし、写真と文章で紹介していた」のでした。

驚くのは、遺体発見の数時間前、タクシーでマンションに乗りつけ、そのあと玄関から出ていく母親の姿が、マンションの防犯カメラに映っていたことです。マンションは勤務する風俗店の寮だったのですが、異臭がするという入居者からの苦情を受けた管理会社からの通報で、彼女はいったん部屋に戻ってきたのでした。つまり、そのとき彼女は、「土足でゴミまみれの部屋に上がり、腐敗し、一部、白骨化した二人を」見ていたのです。しかし、わずか数分でマンションを出て行きます。著者が書いているように、既に彼女には「そのリアルを受け止める力はない」のでした。

そのあと、彼女は、四日市の友人や高校時代の恩師に「大事な人を亡くした」と電話をしています。しかし、あくまで「大事な人」という言い方で本当のことは言えないままなのでした。このように、自分のことを正直に言えない、ためらった末にごまかしてうやむやにしてしまうのが彼女の特徴です。一方、風俗店の上司には、「どうしていいかわからない。取り返しのつかないことをした。子どもが死んだかもしれない」と泣きながら電話し、それがきっかけで遺体が発見されるのでした。

ところが、さらに驚くことに、彼女は上司に電話したあと、サッカーのワールドカップの応援で知り合った男性と落ちあい、神戸のメリケンパークの観覧車の前でピースサインをして写真を撮り、三宮のホテルに行って朝まですごしているのです。それは、ちょうど上司からの通報で警察がマンションに入り、遺体が発見される時間帯です。しかも、彼女は上司からのメールで、マンションに警察が入ったことは知らされていたのでした。このように現実から逃避する支離滅裂さも彼女の特徴です。

彼女は、求められば断わらずに誰とでもセックスをしていたそうです。遺体発見のきっかけになった上司とも、面接したその日に関係をむすんでいるのでした。でも、彼女は、取り調べでも心理鑑定でも一貫して「性はなければない方がよかった」と答えているのです。

その矛盾した行動の背景には、中学時代に体験した集団レイプの被害があるのではないかという、専門家の指摘があります。男性の欲望は拒否するものではなく受け入れるものである、拒むとまた暴力をふるわれるかもしれないというトラウマがあるからではないかと。

レイプされた夜、彼女は薬物を大量に飲んで病院に運ばれています。しかも、当初、レイプされたという記憶がほとんどなかったと言われます。彼女の心理鑑定を務めた臨床心理学者の西澤哲(さとる)氏(山梨県立大学教授)は、解離性認知操作という視点からこれを「メタ操作」だと説明していたそうです。「忘れる」「記憶にとどめない」のがトラウマ的な経験に対する彼女の処理の仕方で、これは生母から虐待されていた幼児期から身につけたものではないかと言うのです。

実際に、彼女は高校1年のとき、誘拐窃盗事件を起こして少年院に入っているのですが、その鑑別の際、解離性人格障害の疑いがあるという指摘を受けているのです。しかし、治療にむすびつくことはなかったのでした。

また、父親の存在が彼女の人格形成に影響を与えたのではないか、と指摘する声もあります。高校の教師で名門ラグビー部の名監督でもあった父親もまた、運動部体質の厳格さの一方で、育児に関してはネグレクトと紙一重の放任主義でした。父親は二度結婚しており、最初の妻(彼女の生母)は教え子で、二番目の妻は子どもが通っていた英語教室の教師で、離婚後も女性関係は派手だったと言われます。また、幼い頃、女性を自宅に連れてきたこともあったそうで、そういった行為が子どもたちの心に暗い影を落としていたのではないかと指摘する人もいます。

離婚の際、父親はまるで制裁でも課すかのように、彼女に子育てを強要したと著者は書いていました。まだ若い未熟な娘が、小さな子どもを二人も抱えて生きて行くなんて、とうてい無理なことくらいわかっていたはずです。まして、娘の過去を考えれば尚更でしょう。

そもそも離婚にしても、最初、若い夫婦は離婚するなんて考えてなかったそうです。それが双方の親の話し合いで、離婚が決まり、「育児は母親がやるものだ」という理屈で、二人の子どもの面倒を彼女が引き受けることになったのでした。彼女も無理だということを言えないままそれに従います。しかも、離婚の原因が彼女の浮気にあったため、慰謝料もありませんでした。そして、なぜかその話し合いの席にいなかった生母が、子育てのサポートをすることになったのです。

話し合いのあと、若い夫婦は、子育てのサポートを頼むために生母の元を訪ねます。それも奇妙な話です。親たちが勝手に決めた離婚に対して、若い夫婦はみずからの意思をはっきりと示すことができないまま離婚が成立。結果的に彼女は、幼い子どもを連れて名古屋・大阪へと夜の街をさまようことになるのでした。

一方、行政の対応も批判は免れないように思います。著者が書いているように、「幼い子どもを抱えた、若い、自立する力が乏しい家庭にとって、親の物心両面の支援は命綱」なのです。でも、その親の「命綱」が望めないなら、手を差し伸べるのは行政の役割です。2000年に虐待防止法ができてから、虐待防止は申請主義ではなくなったにもかかわらず、この事件の経緯を見ると、やはりどこかなおざりな行政の対応を感じざるをえないのです。

経済面だけでなく、子育てに対して知識も知恵もない若い親だっているはずです。そういう親をどうやって社会的に孤立させずに行政がケアしていくか。まして虐待(ネグレクト)が予感されるケースなど、どうやって親子を保護していくのか。「人手と予算が足りない」というのは役所の常套句です。行政の事なかれ主義は批判されて当然だし、もっと批判されるべきではないかと思います。でないと、いつまで経っても、いくら法律ができても、何度会議を重ねても、なんにも変わらない気がするのです。

事件だけを見ると、なんというひどい母親なのかと思います。しかし、この本を読みすすむうちに、なんだかやりきれなくてせつない気持になっている自分がいました。孤立してどうしていいかわからない、右往左往している彼女の姿が想像されてなりませんでした。彼女の行為が支離滅裂で放縦で責任感が欠如しているのはたしかですが、それも彼女が育った環境を考えるとき、まったく同情の余地がないとは言えないのです。それに、ときに彼女なりの表現でSOSを発していた部分もあります。まわりの人間たちは、どうしてそれをキャッチして手を差し伸べてあげられなかったのかと思います。一歩踏み込んで手を差し伸べる人間が誰もいなかったのでした。

彼女は、著者が言うように、育児を放棄して子どもを死に追いやりながら遠くに逃げるわけではなく、子どもの近くにとどまっていたのです。しかも、彼女自身も、虐待(ネグレクト)の被害者なのです。

彼女は子どもに幼児期の自分を重ねて見ていたのではないかという指摘もあります。誰からも(父親からも祖父母からも社会からも)面倒を見てもらえず放置されている子どもたちに、幼児期の自分を重ねていたのではないかと。だから子どもの置かれた現実を直視できず、その現実から目をそらそうとしたのではないか。

 子どもに自分を重ねていた芽衣さんは、苦痛のなかで、孤独に苦しむわが子そして自分自身を直視できない。さらに夢の中に逃げる。それは瞬く間に五十日間という時間になった。二人の子どもは、そのような母の元で死んで行った。


 悲劇の真因は芽衣さんがよい母親であることに強いこだわりをもったことだ。だめな母親でもいいと思えば、助けは呼べただろう。「風俗嬢」の中には夜間の託児所にわが子を置き去りにして、児童相談所に通報される者がいる。立派な母であり続けようとしなければ、そのようにして、あおい(引用者注:仮名)ちゃんと環(同)君が保護されることもあったかもしれない。
 だが、芽衣さんは母親であることから降りることができなかった。
 自分が持つことができなかった立派な母親になり、あおいちゃんを育てることで、愛情に恵まれなかった自分自身を育てようとした。
 だからこそ、泣き叫ぶ子どもに向き合うことができなかった。人目を晒すことは耐え難かった。母として不十分な自分を人に伝えられず、助けを呼べなかった。


 平成23年度の母子家庭の平均年間就労収入は181万円だそうです(厚生労働省「平成23年度全国母子世帯等調査」)。しかも、その多くは非正規雇用なのです。著者が指摘するように、いつ失業するかわからない、離婚が貧困につながるきびしい現実があります。

『マザーズ』や『ハピネス』が描いているような母であることの孤独。それは、幼い頃にネグレクトされた心の記憶をもっている母親にとって、よけい深刻なのではないでしょうか。孤独に苛まれるなかで、残酷な過去が頭をもたげることは充分あり得るはずです。私たちが忘れてはならないのは、虐待の世代連鎖は悲劇にさらに悲劇を重ねるものだということです。この事件には、「鬼母」「身勝手」「できちゃった婚の報い」などというマスコミやネットの短絡的な見方では捉えきれない問題が伏在していることはたしかでしょう。

裁判は、マスコミやネットと同じ視点に立つ裁判員裁判で懲役30年の判決が下され、上級審への控訴や上告も却下されて、刑が確定しました。しかし、彼女は今でも「殺意」を否定しているそうです。

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2013.10.04 Fri l 本・文芸 l top ▲