私は、48年ぶりに釈放された袴田巌さんの姿に、ネトウヨたちが愛する「国家」とは別の「国家」の姿を見た気がしました。

再審開始と同時に刑の執行停止が決定された袴田さんを東京拘置所に迎えに行った姉の秀子さんに対して、袴田さんは「ウソだ」「袴田事件は終わった。もう帰ってくれ」と言ったそうです。袴田さんは「世界でもっとも長く服役している死刑囚」としてギネスに認定されていますが、長期にわたる独房生活と死刑執行の恐怖から精神を病んでいる袴田さんは、最近は妄想がひどくて面会もできない状態がつづいていたそうです。

袴田事件では、事件発生(1966年)から1年2ヶ月後に、突然、「すでに捜索済みであったはずの味噌工場のみそタンクの中から、犯行に使われたと思われる血染めの衣類が5点」発見され、それが迷走していた公判を方向付け、死刑判決の決定的な物的証拠になったと言われています(弁護士ドットコム)。しかし、発見された衣類は、袴田さんの身体とは合わないサイズの小さいものでしたし、1年以上も味噌樽のなかに浸かっていたにしては、衣類の変色も痛みも少ない不自然なものでした。それでも有罪率99.9%の日本の刑事裁判では死刑判決が下され、1980年最高裁で死刑が確定。以後、裁判所は、再審の請求も退けてきたのです。そして、鑑定技術の進歩によって、衣類に付着していた血痕が袴田さんのDNAとは異なるという鑑定結果が弁護側検察側双方の鑑定人から出され、ようやく今回の再審開始につながったのでした。

静岡地裁の村山浩昭裁判長は、再審開始を認める決定のなかで、「捜査機関が重要な証拠を捏造した疑いがあり、犯人と認めるには合理的疑いが残る」と述べたそうです。つまり、警察が証拠を捏造した疑いがあると言っているのです。

静岡県では、それまでも幸浦事件(1948年)・二俣事件(1950年)・小島事件(1950年)・島田事件(1954年)と、のちに無罪が確定した冤罪事件がたてつづけに起きています。それには「拷問王」と言われた静岡県警のひとりの刑事が関わっていたことが指摘されています。そして、袴田事件も「拷問王」から指導を受けた部下の刑事が捜査に関わり、冤罪を生み出した捜査手法が用いられていたと言われているのです。

実際に、警察が自白を強要するために、連日深夜まで長時間にわたる過酷な取り調べをおこなったことは、弁護側も指摘しています。「袴田巌さんを救う会」副代表の小松良郎氏(故人)は、「救う会」のサイトのなかで、つぎのような袴田さんが子供に宛てて書いた手紙を紹介していました。

「……殺しても病気で死んだと報告すればそれまでだ、といっておどし罵声をあびせ棍棒で殴った。そして、連日二人一組になり三人一組のときもあった。午前、午後、晩から一一時、引続いて午前二時まで交替で蹴ったり殴った。それが取調べであった。……息子よ、……必ず証明してあげよう。お前のチャンは決して人を殺していないし、一番それをよく知っているのが警察であって、一番申し訳なく思っているのが裁判官であることを。チャンはこの鉄鎖を断ち切ってお前のいる所に帰っていくよ。」(一九八三年二月八日)
無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会
http://www.h3.dion.ne.jp/~hakamada/jiken.html


一方、静岡地検は、刑の執行停止(釈放)に対して、「予想外の決定」として東京高裁に不服の申し立て(抗告)を行い、棄却されました。しかし、再審決定に対しても、31日の期限までに東京高裁に不服の申し立て(即時抗告)をおこなう方針だそうです。もし不服の申し立てが認められて再審決定が取り消されると、袴田さんは再び拘置されることになるのです。まだその可能性も残っているのです。

この検察の姿勢にあの袴田さんの姿を重ねると、私には「残酷」「非情」ということばしか思いつきません。まるでひとりの人間の人生なんてどうだっていい(それより自分たちのメンツのほうが大事だ)とでも言わんばかりです。もちろん、この検察の姿勢に、「国家の意思」が体現されているのは言うまでもありません。

私たちは、愛することを強いる「国家」が一方で、こんな「残酷」で「非情」な顔をもっているのだということを忘れてはならないでしょう。袴田さんの変わり果てた姿を見ると、「国家」は誰のものか、そんな疑問をあらためて抱かざるをえません。
2014.03.30 Sun l 社会・メディア l top ▲
昨日、中村うさぎが再入院したというニュースがありました。ニュースによれば、中村うさぎ本人がTwitterであきらかにしているそうです。それで、さっそく彼女のTwitterにアクセスしてみました。

なんでも脚の血栓が肺に転移したそうで、「また心肺停止になるかも」と言われたらしい。しかし、彼女は、こうつぶやいていました。

5時夢は休みませんよー!原稿も書き続ける。インタビューや対談も続ける。死ぬときゃ死ぬんだからさ、命より仕事優先するって決めたのー。命あっての仕事?ううん、あたしにとっては、仕事あっての命だ。ここは誰に何を言われても譲れん!(←頑固)
https://twitter.com/nakamurausagi


実際にどの程度の病状かわかりませんが、しかし、その言やよしです。彼女が言うように、それが「物書きの業」というものでしょう。

死ぬのは仕方ないのです。死は、なにも特別のことではなく、ごく普通に当り前のこととして私たちの前にあります。たしかに、人生が終わりを迎え、親しい人と永遠の別れが訪れるというのは、悲しいことではありますが、でも、それはどうあがいても逃れることができない「運命」です。

別に強がりを言うわけではありませんが、私自身、いつ死んでもいいと思っています。もちろん、苦しまずに死にたいなとかお金がかからずに死にたいなとか老人病院のベットの上であちこち管を取り付けられたまま死にたくないなとか、そういった思いはありますが、でも、死ぬことに対しては自分なりの覚悟はできているつもりです。

誰にも看取られずに、持ち物が段ボール箱1個というような孤独な老人の最期を見たとき、この人の人生ってなんだったんだろう、生まれてきてよかったんだろうか、と思ったりしましたが、しかし、それは生きながらえた人間の傲慢で、死によって人生を量るのは人生を冒涜することでしかないのです。

大学病院の個室で家族に看取られて迎える死も、郊外の老人病院の大部屋で誰からも看取られずひっそりと迎える死も、同じ死です。その人にとって死は死です。ただそれだけの意味しかないのです。

要は、死をどうやって迎えるか、その「運命」をどう受け入れるかでしょう。物書きなら、その「運命」を死の直前まで書き綴ってもらいたいと思います。もとより物書きというのは、中村うさぎが言うように、命を削ってものを書かねばならない、そんな”業”を背負った人間です。「命より仕事優先する」というのは、物書きとして本望でしょう。

私は、中村うさぎのTwitterを読んで、彼女の物書きとしての覚悟に期待したいと思いました。

>> 『狂人失格』
2014.03.26 Wed l 本・文芸 l top ▲
誘蛾灯


一昨日、鳥取連続不審死事件の控訴審に関して、つぎのようなニュースがありました。

上田被告、二審も死刑=鳥取連続不審死―広島高裁支部
時事通信 3月20日(木)10時40分配信
 
鳥取県で2009年に男性2人が変死した連続不審死事件で、2件の強盗殺人罪などに問われ、一審鳥取地裁の裁判員裁判で死刑とされた元スナック従業員上田美由紀被告(40)の控訴審判決が20日、広島高裁松江支部であった。塚本伊平裁判長は一審判決を支持し、上田被告の控訴を棄却した。
 上田被告は一審の被告人質問で黙秘を貫いたが、控訴審では一転して発言し、自分の言葉で無罪を訴えた。被告側は一審に続き、被告と同居していた男性の関与を示唆し、検察側は「被告の供述は虚偽」として控訴棄却を求めた。新たな証人や証拠は出ず、控訴審は3回で結審した。 
Yahoo!ニュース


私は、折しもこの事件を扱ったフリージャーナリスト・青木理氏の『誘蛾灯』(講談社)を読んだばかりでした。『誘蛾灯』は、言うまでもなく、木嶋佳苗被告がブログで高く評価していた本です。それどころか、彼女は青木氏に取材を受けた上田美由紀被告に嫉妬すら覚えたと書いているのです。それで、私も読んでみようと思ったのでした。

青木氏は、木嶋佳苗被告の事件にはあまり興味がなかったそうですが、しかし、木嶋被告の熱烈なラブコールもあって、会えるなら会ってみたいとラジオ番組で言ってましたので、そのうち首都圏連続不審死事件の記事も書くことになるかもしれません。

このふたつの連続不審死事件は、驚くほど似通っています。どちらも同じ2009年に発生し、「首都圏」は4~6名(うち3名の事件が起訴)、「鳥取」は6名(うち2名の事件が起訴)の男性が、被告の周辺で不審死しているという点でも酷似しています。また、被告はいづれも詐欺の容疑で別件逮捕され、のちに殺人容疑で再逮捕されるという捜査手法もそっくりです。さらに、被疑者が殺人容疑に関して無罪を主張している点も同じです。

しかも、木嶋・上田被告ともに、「巨躯」で、年齢も3つ違いです。そのため、どうしてあんなメタボでトウの立った女性に多くの男たちが騙されたのか、という世間の反応も同じでした。

ただ一方で、ふたりの人物像や舞台となった土地は、この本でも書いているとおり、「対照的」と言ってもいいほどの違いがあります。「首都圏」は、文字通り東京や埼玉や千葉の首都圏の都市やあるいはネットを舞台にした事件だったということもあって、マスコミの注目度は高く、良きにつけ悪しきにつけ、木嶋佳苗被告は世間の耳目を集め、関連本も何冊も出版されました。

それに対して「鳥取」のほうは、世帯数も人口も全国最小の鳥取県の、日本海沿いの地方都市で起きた事件です。しかも、上田美由紀被告は、2度の離婚歴がある5人の子持ちの「地味で冴えない中年女」でした。彼女は、「デブ専門」と陰口を叩かれるような地元の場末のスナックで働いていました。しかも彼女が住んでいたのは、勤務するスナックのママが所有するアパートでしたが、そこは足の踏み場もないような”ゴミ屋敷”だったそうです。

そんな女に、読売新聞の記者や鳥取県警の刑事など多くの男たちが吸い寄せられるように心を奪われ金をむしり取られ、そして、家庭も職も失い、挙句の果てに命まで落とすのです。著者の青木理氏も、この「事件の陰鬱さ」をつぎのように書いていました。
 

 事件の重要な舞台となった鳥取最大の歓楽街・弥生町にしても、美由紀と男たちとの出会いの場となった店にしても、最終的に命を落としてしまった男たちや事件関係者にしても、垣間見えてくる風景はあまりにも殺伐としていて、救いがまったくないように思えて仕方なかった。
 すっかりと寂れ、人の気配がほとんどない歓楽街。その片隅で、太った二人の老女が営む店。ゴミ屋敷に一人住まい、唾を飛ばしながら憤る老女。縁者もなく、生活保護を受けながらぎりぎりの生を紡ぐ人々。
 段ボールを被って轢死した記者。雪の山中で首を吊ったという刑事。身内の不審死を隠蔽する警察。不自然な捜査に憤りながら、息をひそめてそれを見つめるしかない遺族。
 それぞれにそれぞれの事情はあるのだが、眼の前に次々と立ち現れてくる情景は溜息が出るほど暗く、目を背けたくなるほど澱んでいた。


ときには一人芝居で架空の「妹」を登場させるなど、大ウソつきで金に異常な執着を見せる被告。でも、男たちは、女手ひとつで5人の子どもを育てる被告の姿に、「心を打たれ、情のようなものを抱いて」、被告の魔手に落ちていったのです。

本のなかでは、上田被告が交際していた男性に当てた手紙が紹介されていましたが、それは読んでいるこっちが面映ゆくなるような、まるで中学生か高校生が書いたような稚拙で情熱的なラブレターでした。

そういったところが、男たちに無邪気で可愛く映ったのはわかるような気がします。男たちは、彼女のことを「いい気分にさせてくれる」「癒される」「男を立ててくれる」と言っていたそうですが、そんな男たちの声を聞くと、木嶋佳苗被告と同じように、上田被告にも男たちの古い女性観を逆手に取るしたたかさがあったように思えてなりません。もとより、家庭的にもめぐまれず、結婚でも幸せを掴むことができず、お金も学歴も資格もコネもなんにもなく、しかも容姿端麗とも言い難い5人の子持ちの女性が、夜の街で生きて行くには、それしかなかったとも言えるのです。

上田被告の場合、男たちからむしり取ったお金は、木嶋被告のようにブランド品につぎ込んだわけではありません。「郊外のファミリーレストランやラブホテルを好んで利用し、格安量販店では不必要なものまで大量買いしてその大半をガラクタとして打ち捨てていた」のです。ゴミ屋敷といい、無計画な衝動買いといい、私はメンヘラの疑いさえ抱きますが、そこには今の消費社会に翻弄される人間の”悲劇”があるように思えてなりません。その”悲劇”は、消費社会に対する免疫のない下の階層に行けば行くほど顕著になるのでした。

今の世の中は、お金も学歴も資格もコネもなんにもない人間には、経済的にも気持の上でもホントに生きづらくてしんどいのではないでしょうか。上昇志向さえないというのは、夢や希望も持てないからです。上田被告の犯罪には、そんなやるせないロウアークラス(下層)の現実が映し出されているように思えてなりません。

それに、2件の殺人容疑は、青木氏が具体的に検証しているように、女ひとりで実行するにはあまりにも無理があるのです。検察が描いた事件の構図も矛盾だらけです。そもそも6名が不審死しているにもかかわらず2名しか立件しない(できない)ということ自体、捜査の杜撰さを表しているように思います。

一方、弁護士費用のない上田被告には、国選弁護人が選任されたのですが、その弁護団も、「大物刑事裁判の被告弁護にふさわしい技量を備えた弁護団」とは言い難く、弁護も「相当にレベルの低い」「お粗末な代物」だったそうです。一審の死刑判決が出たあと、著者は、「遅きに失した」と書いていました。

また、「首都圏」の事件と同じように、この事件でも素人裁判員が事件を裁く裁判員裁判の問題点も指摘されていました。

≪裁判員と補充裁判員の計十人は閉廷後、会見。補充裁判員の女性は「黙秘は一番残念だった。被告に真実を話してもらえる機会があればいいなと思う」と話した≫(二〇一二年十二月四日、共同通信の配信記事)
≪黙秘した上田被告には、四十代の男性が「やっていないなら、やっていない根拠を語って欲しかった」とし、女性は「いつか真実を話す時が来れば」と望んだ≫(同十二月五日付、読売新聞朝刊)
≪米子市の男性は「無実なら黙秘は駄目だ」と話した≫(同日付、日本海新聞朝刊)
 この程度の認識の者たちが裁判員を務め、一段高い法壇から判決を宣告したと考える時、私は暗澹たる気持になってしまう。


しかし、上田被告は、死刑判決が下された法廷でも、閉廷の際、「ありがとう、ございました」と言って、裁判長と裁判員にぺこりと頭を下げたのだそうです。著者は、そんな被告の態度に「目と耳を疑った」と書いていました。上田被告は、そういった礼儀正しさも併せ持っているのだそうで、その姿を想像するになんだかせつなさのようなものさえ覚えてなりません。

これで二審も死刑判決が出たわけですが、青木理氏が言うように、「遅きに失した」感は否めません。事件の真相はどこにあるのか。無罪を主張する被告の声は、あまりにも突飛で拙いため、まともに耳を傾けようする者もいません。被告に「無知の涙」(永山則夫)を見る者は誰もいないのです。そして、刑事裁判のイロハも理解してない素人裁判員が下した極刑が控訴審でも踏襲されてしまったのでした。そう思うと、よけい読後のやりきれなさが募ってなりませんでした。
2014.03.22 Sat l 本・文芸 l top ▲
20日、首都圏では相鉄(相模鉄道)と関東バスが賃上げや待遇改善などをめぐってストライキをおこないました。交通機関のストライキなんてホントにめずらしく、相鉄は5年ぶり、関東バスは10年ぶりだそうです。

70年代までは、旧国鉄をはじめ、交通ストは春の風物詩のように普通にありました。スト以外にも、旧動労は、「順法闘争」と称して、必要以上に安全確認をするノロノロ運転をゲリラ的におこなっていましたので、電車が遅れたり運休になるのはしょっちゅうでした。

しかし、今や交通ストなんて春の珍事のようになりました。特に、国鉄の分割民営化や連合の誕生により、労働組合にとって当然の権利であるストライキも、まるで犯してはならないタブーのようになってしまったのです。文字通り「伝家の宝刀」が、さびついて役に立たない「宝の持ち腐れ」になってしまったのです。

そして、今回のスト。私などは「今どきストをするような根性のある組合があったんだ?」とびっくりしたほどです。ところが、朝日新聞や相鉄の地元である神奈川新聞は、つぎのような記事を書いたのでした。

首都圏で交通スト 「料金返せ」「放送ぐらいしろ」
朝日新聞デジタル 3月20日(木)11時55分配信

相鉄のスト、「普通の企業では迷惑掛けられない」厳しい声も/神奈川
カナロコ by 神奈川新聞 3月21日(金)5時30分配信

私は、未だにこんな記事を書いているのかと二重にびっくりすると同時に呆れました。この”スト迷惑論”は、ストが頻発していた60年代~70年代のマスコミの常套句でしたが、まるで当時の常套句をそのままなぞったような記事です。土用丑の日の「うなぎ屋さんは大忙し」「うなぎ屋さん、汗だく」や、年末の「蕎麦屋さん、年越しそばで大忙し」「蕎麦屋さん、てんてこ舞い」といった毎年恒例の時節ネタの記事と同じような、ただ常套句を並べただけの記事にすぎません。

記者たちはなにを取材したのでしょうか。こんな記事ならサルだって書ける。少なくとも、欧米のマスコミでは、こんなコピペのような記事を書く記者は無能扱いされるでしょう。こんな誰でも書けるような記事を書く人をジャーナリストとは言わないのです。

これはストの記事に限った話ではありません。「目から鱗が落ちる」とか「腑に落ちる」という言い方がありますが、そういった目から鱗が落ちたり腑に落ちたりするような、私たちが知らない情報を伝え、私たちが知らない視点から記事を書くのが、ジャーナリストの役目ではないでしょうか。

記者は取材が命と言いながら、なにを取材したのかわからないような常套句の(コピペの)記事があまりにも多すぎるのです。会社に入ったら、先輩の記者から記事の書き方を指導されるそうですが、そうやって新人記者は常套句(コピペ)の書き方をたたきこまれているのかもしれません。

日本の新聞は、欧米の新聞と違って、みごとなほど文体が統一されていますが、外国のジャーナリストから見たら日本の新聞は奇妙に見えるのではないでしょうか。戦前の文学青年たちは、「小説の神様」と言われた志賀直哉の文章を模写することが文章修行だったそうですが、ある文芸評論家は、文学青年たちは志賀の文体を模写することをとおして、日本の近代文学を貫く「文学的なるもの」という観念も模写していたのだと言ってました。そうやって文学という「制度」が保守されていたのです。それは新聞記者も同じでしょう。
2014.03.21 Fri l 社会・メディア l top ▲
さる3月8日、埼玉スタジアムでのサガン鳥栖戦で、浦和レッズのサポーターが、「JAPANESE ONLY」と書かれた横断幕を掲げた問題で、Jリーグは、次回埼玉スタジアムで予定している清水エスパルス戦のホームゲームを観客を入れない「無観客試合」にする処分を下しました。

Jリーグで無観客試合の処分が出るのは初めてで、これまでで最も重い処分だそうですが、私は、それでも甘い処分に思えてなりません。今回の問題は、浦和の残り全試合を中止にするとか、浦和の勝ち点をすべてはく奪するとか、そのくらいの処分をおこなってもおかしくない犯罪的行為だと思います。

欧米だと間違いなく犯罪として処罰されるでしょう。しかし、総理大臣をはじめ歴史修正主義者の政治家が、内閣や与党の要職に就いているこの国では、まったく事情が異なるのです。目撃者の話によれば、「JAPANESE ONLY」の横断幕も、試合終了後、外国人の観客が写真を撮りはじめたのを見て、浦和の関係者があわてて下ろしたそうです。それまでは浦和の関係者も「見て見ぬふり」をしていたのです。

浦和レッズには、今シーズン、李忠成がイングランドの2部リーグのサウサンプトンFCから完全移籍しましたが、試合前、一部のレッズサポーターが李忠成に対してブーイングの指笛を吹いていたという話もあり、「JAPANESE ONLY」は李に対する当てつけではないかという見方もあるようです。

もっとも、今回の問題でいちばん戸惑っているのは、クラブによって「無期限入場禁止処分」を受けた当のサポーターたちかもしれません。彼らのなかに、どうしてこんなに大きな問題になるんだ?という気持があったとしてもなんら不思議ではないでしょう。

と言うのも、ネットに限らず今やこの国ではヘイト・スピーチが日常化しているからです。安倍政権の歴史修正主義。文春や新潮をはじめとする週刊誌やYahoo!ニュースやJ-CASTニュースなどセカンドメディアが、飽くことなく流しつづける”鬼畜中韓”の記事。居酒屋などで、サラリーマンたちが酒の酔いにまかせて、「従軍慰安婦なんてどこにでもあった」「兵隊に性の処理をさせるのは当然だ」「中国や韓国は、嘘つきの泥棒国家だ」なんて話に盛り上がっているのは、どこでも普通に見られる光景です。そんな風潮の延長に、今回の横断幕もあったのではないでしょうか。

私は、埼玉に住んでいた頃、一度だけ浦和レッズの試合を観に行ったことがありますが、一度行っただけでもうこりごりでした。とにかく、サポーターたちが異常でした。また、あれを異常だと思わない感覚が二重に異常だと思いました。Jリーグが「百年構想」で言う「熱狂のスタジアム」を文字通りヤンキーが主導していて、これがJリーグの試合を観戦するスタイルなのかと思ったら、とてもじゃないけど私はもう二度とJリーグの試合は観に行きたくないと思いました。

Jリーグが掲げる「地域密着」がヤンキーのネイバーフッド(地元)志向と親和性が高いのは事実で、Jリーグの応援がヤンキーテイストに彩られるのは、ある意味で当然かもしれません。さらに、日本代表というトップカテゴリーによって、そこに自国中心的な考えが加わるのも当然でしょう。

そういったJリーグのサポーターのなかにあるヤンキーテイストと、今のヘイト・スピーチが野放しになった社会の風潮を考えれば、今回のような横断幕が生まれたのは充分納得できるのです。

浦和レッズは、そんな地元志向のヤンキーたちを「熱狂的なサポーター」として「お客様」扱いしてきたのです。過去にも横断幕を破いたと因縁をつけてテレビ局のカメラマンを暴行して逮捕されたり、昨年も清水エスパルス戦で、警備員への暴行容疑で4人が逮捕されるなど、浦和のサポーターによる事件はこれまでも幾度となくくり返されています。そのたびに、クラブの対応について怠慢や事なかれ主義が指摘されていたのです。

「熱狂的なサポーターに支えられる浦和レッズ」という考え方を変えない限り、これからも同じような事件がくり返されるのは目に見えている気がします。こんな甘い処分では、浦和のサポーターの体質は温存されるだけでしょう。
2014.03.17 Mon l 社会・メディア l top ▲
例のSTAP細胞をめぐる騒ぎを見るにつけ、やりきれない気持にならざるをえません。

理化学研究所の小保方晴子さんに対する報道は、単なる批判の域を超えてもはや人格攻撃の様相すら呈しています。

もちろん、この騒ぎの背景には、若い女性の研究者にスポットライトが当たったことへのやっかみもあるのでしょうが、それにしても、昨日まで彼女を持ち上げ、リケジョ(理系女子)フィーバーを巻き起こしていたマスコミのこの手のひら返しには、いつものことながら唖然とせざるをえません。

私の身近にも、小保方さんと同じように研究者の道を歩みはじめたリケジョがいますので、小保方さんの問題は他人事とは思えません。西川史子がバラエティ番組で、「小保方さんの問題を佐村河内守氏の問題と同じようなレベルで扱うマスコミの報道にはとても違和感を持ちますね」と言ってましたが、私はその発言に、西川史子の科学者としての矜持と見識を見た気がしました。

ガリレオ・ガリレイの例をあげるまでもなく、あらたな発見を求め、真実を追求するためには、ときにタブーや常識を破らなければならないのは当然です。それがあらたな発見が「革命」と呼ばれるゆえんです。そういった科学的姿勢に対して、徒にタブーや常識を振りかざし、ミスをあげつらい、挙句の果てには人格攻撃まで加えて批判し、ひとりの若い研究者の将来を潰すようなマスコミの報道には、西川史子ではないですが、やはり違和感を抱かざるをえません。

たしかに、認識不足による不適切な面はあり、反省すべき点も多いと思いますし、若者の”コピペ文化”がついにここまできたかという暗澹たる思いもありますが、しかし、理研の「中間報告」が言うように、意図的な研究の不正はなかったというのが真相ではないでしょうか。仮にSTAP細胞が存在しなかったとしても、その真実を追求する姿勢に間違いはなかったはずです。

ましてネット住人たちが、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い式の罵詈雑言で、科学という知性に攻撃を加えている光景には、なんだかおぞましささえ覚えてなりません。そこにあるのは、反知性主義という「水は低いほうに流れる」全体主義的な風潮です。

以前、コンビニの前でウンコ座りしている中学生と、それを尻目に塾に通っている中学生が、10年後に差が付くのは当然だろうと書いたことがありましたが、ネットの”小保方さん叩き”は、コンビの前でウンコ座りしていた中学生が、塾に通っていた中学生に、ここぞとばかりに悪罵を浴びせているようにしか見えないのです。そのうち小保方さんも「在日」認定されるのかもしれません。

小保方さんには、めげるな!がんばれ!研究者の道を捨てるな!と言いたいですね。
2014.03.15 Sat l 社会・メディア l top ▲
奥さまは愛国

北原みのり・朴順梨共著『奥さまは愛国』(河出書房新社)を読みました。

最近、ネトウヨ化は、家庭の主婦にまで広がっているのだそうです。

ネトウヨの生みの親のひとりである(と言っていい)小林よしのり氏のブログにも、つぎのような記述がありました。

週刊現代に「妻が「ネトウヨ」になりまして」という記事が載っているが、主婦はインターネットを頻繁に見ているらしい。

そこからネトウヨになってるらしいのだ。

あの人、在日なんじゃないの?」と根拠なく他人を在日認定したり、「ネットには本当のことが全部載っているんだから。みんなマスコミはマスゴミだって言ってるのよ。」と言ったり、「安倍総理の揚げ足とる奴らは売国奴」と信じているらしい。

家に一日中いる主婦ほど、「ネトウヨ主婦」になる可能性が高いようだから、まさに「専業主婦が女のあるべき姿」という考えの陥穽がすでに如実に現われてしまっている。
小林よしのりオフィシャルwebサイト 2014.03.01


実際に、著者の朴順梨氏に話しかけてきた50代半ばの活動家の女性も、こう言っていたそうです。

(略)私に「ネット、やってます?」と聞いてきた。「あまり、やらないです」と答えると、「私は大好きなの。テレビはあまり見ないのだけど、インターネットは色々勉強になるから、はまっているのよ。うふふ」と笑っていた。


「デモの参加者の中に女性が結構いるんだけど、あの人達って『韓国人を叩き出せ!』って叫んだ後に家に帰って、子供の食事とか作っているんですかね? その二面性ってすごくないですか?」と朴氏は言ってましたが、たしかに「すごい」ことです。

殺せとか海に沈めろとか聞くに堪えないようなヘイト・スピーチの横で、薄笑いを浮かべながらあたりを睥睨している女性たち。でも、彼女たちは特別な女性ではありません。レディースでもなければヤンキーでもないのです。ましてメンヘラでもありません。家に帰ればごく普通の主婦で、愛する夫がいてかわいい子どもがいるママなのです。そのギャップをどう考えればいいのか。

著者の二人は、同じ女性としてときに重い気分になりながら、女性の愛国団体の街宣を聞きに行ったり、集まりに参加したり、あるいは活動家の女性にインタビューしたりして、ネトウヨに走る女性たちの心の底にあるものを探ろうとするのでした。

保守運動のなかで、活動仲間の男性からコナをかけられたり、セクハラまがいの行為を受けたことに怒り、仲間から離れた女性が、一方で、「もし戦時に生まれていたら、自分は慰安婦に志願する。愛する男性を命がけで支える」とTwitterでつぶやいているのを目にして、著者の朴氏は、「私の範疇をはるかに超えていた」と愕然とするのでした。

お国のために戦う兵隊に慰安婦は必要だった、日本にレディーファーストなんていらない、憲法24条の男女平等は日本の文化にそぐわない、と主張する女性たち。

北原みのり氏は、そんな愛国団体の女性に、「フェミニズムは、被害者意識が強いから嫌い」と言っていたDV被害者の女性を重ね合わせるのでした。

 強者でありたい女性たちは、フェミニズムこそ女を侮辱していると考える。「被害者面(ズラ)する」「弱者ぶる」とは、フェミニズム嫌いの女性たちがよく言うことである。そしてそれは、愛国女性たちが元「従軍慰安婦」に向ける言葉と一字一句同じだ。


それは、木嶋佳苗被告の「フェミニズム嫌い」も同じだと思います。

教科書で最も古い登場人物が女の卑弥呼だったり、最も古い天皇が女の推古天皇だったりするのはおかしい。それは中国や左翼が日本を貶めるためにつくった意図であると主張し、女性に国は治められないと「女性天皇」に反対する、そんな「女性を見下す」明治天皇の玄孫・竹田某氏に熱い視線を送る女性たち。一方で、女権の拡大を主張するフェミニストの田嶋陽子を竹田某氏と一緒になってあざ笑う女性たち。

どうしてなのか。北原みのり氏は、つぎのように言います。「だって、女であることを誇れないのなら、日本人であることをせめて誇りたくなるから。男と一緒に心おきなく田嶋陽子を笑った方が、この国で生きやすいのだと確認したいから」だと。

私は同時に、エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』(東京創元社)で引用していた、つぎのようなヒットラーの『わが闘争』の一節を思い出さないわけにはいきませんでした。

弱い男を支配するよりは強い男に服従しようとする女のように、大衆は嘆願者よりも支配者を愛し、自由をあたえられるよりも、どのような敵対者も容赦しない教義のほうに、内心でははるかに満足を感じている。大衆はしばしばどうしたらよいか途方にくれ、たやすく自分たちはみすてられたものと感じる。大衆はまちがった原理もわからないので、かれらは自分たちにたいする精神的テロの厚顔無恥も、自分たちの人間的自由の悪辣な削減も理解することができない。
(日高六郎訳)


フロムは、ヒットラーはそうやって「大衆を典型的なサディズム的方法で軽蔑し『愛する』のである」と書いていました。

愛国女性たちの「愛国」は、いわば”倒錯した愛”と言えるのかもしれません。どうしてそんなにこの国の男が信じられるのかと北原氏は書いていましたが、彼女たちの根底にあるのは、フロムのことばを借用すれば、「孤独の恐怖」ではないでしょうか。そこには、『マザーズ』や『ハピネス』が描いた「母であることの孤独」も含まれているのかもしれません。その孤独がネットをとおして辿り着いた先が、ネトウヨだったのではないか。もちろん、そこにあるのは、「ネットがすべて」「ネットこそ真実」という情弱な反知性主義であり、行く着く先は「共感主義」の暴走です。

フロムが言うように、「汝みずからを知れ」という「個の確立」を求める近代社会は、逆に『自由』の名のもとに生活はあらゆる構成を失う」のです。その結果もたらされるのは、「一つは聞くこと読むことすべてにたいする懐疑主義とシニズムであり、他は権威をもって話されることはなんでも子どものように信じてしまうこと」です。フロムは、「このシニズムと単純さの結合は近代の個人にきわめて典型的なものである」と述べていましたが、いわんやネットの時代においてをやでしょう。

街頭で「慰安婦はウソつき」「売春婦のババア」「お前、チョウセン人だろ?」と男ことばで悪罵を投げつける彼女たちも、実際に対面すると上品でおっとりしておだやかな表情を見せるのだそうですが、その落差のなかに彼女たちの人知れぬ孤独が秘められているように思えてなりません。

一方で、北原氏や朴氏が言うように、彼女たちの背後に、ただステレオタイプなことばをくり返すだけのこの国のサヨクやフェミニズムが放置してきた問題が影を落としていることも、忘れてはならないでしょう。彼女たちのサヨク嫌いやフェミニズム嫌いは、まったく理由のないことではないのです。
2014.03.07 Fri l 本・文芸 l top ▲
木嶋佳苗被告のブログは、その後も昨日今日とたてつづけて更新し、快調に飛ばしています。

今日は、「名器発言のこと」と題して、一審で話題になった”セックス自慢”について書いていました。私は、彼女の”セックス自慢”は自己韜晦ではないかとこのブログで書いたのですが、彼女に言わせれば、私のような見方も、「裁判のごく一部を面白おかしく報道するマスコミの話を鵜呑みにした」もので、それは彼女を「悪女」だと「推認」する検察の筋立てに沿った見方にすぎないということになるのです。

それにしても、彼女は、パトロンの男たちに「名器」だと褒められたことに(それがウソではないということに)、どうしてこんなにこだわるのでしょうか。私も、北原みのり氏が書いているように、自分は「特別な女」だという強い自意識(自己愛)がそうさせているようにしか思えないのです。どう考えても、「セックスの話をすることで、彼女が裁判で得たものは何もない」(北原氏)のです。たしかに、「悪女」「毒婦」というイメージ(「推認」)が犯罪に結び付けられているのは事実ですので、私は「悪女」なんかではない、男から「褒められる」女だ、だから男たちが惜しげもなくお金を使ったのだ、と言いたいのかもしれませんが、しかし、それは彼女自身が地団太を踏むように、逆に彼女の”特異性”を際立たせる結果にしかならなかったように思います。

木嶋佳苗被告は、北原みのり氏の傍聴記にえらいオカンムリのようで、名誉毀損で訴えるとか言ってますが、北原氏のような見方は彼女の強い自意識にはとうてい許容できないものなのかもしれません。

とは言え、物的証拠がなにもないなかでの死刑判決は、彼女がブログで訴えているとおりきわめて予断に満ちたものでしかありません。冤罪の背景に、「有罪率99.9%」というこの国の刑事裁判の異常性があるというのも、そのとおりでしょう。

一方、彼女のブログは、なぜかコメントを受付けているのですが、案の定、コメント欄はおバカな書き込みであふれていました。マスコミが「悪女」「毒婦」と言うから「悪女「毒婦」だろう。裁判所で死刑判決が出たから「殺人者」「極悪人」だろうというような、脊髄反射のオンパレードです。

それは、Yahoo!ニュースなどのコメント欄とまったく同じで、「水は低いほうに流れる」ネットで、どうしてコメントを受付けるのか、私には理解に苦しみます。まさかあの「ウェブ2.0」(今になれば恥ずかしいことばですが)の幻想が未だに生きているわけではないでしょうが、罵詈罵倒のコメントにいったいどんな意味があるんだと思います。

ただ、彼女のときに牽強付会とも思えるような堂々とした主張や文章のうまさと対比すると、コメント欄のおバカ度がよけい際立つのも事実で、もしかしたらそういう効果を狙ったんじゃないかとうがった見方さえしてしまいました。

これから”とりまき”との間でもひと波乱もふた波乱もありそうな予感がしますが、いづれにしても当分彼女のブログからは目が離せそうもありません。皮肉でもなんでもなく、いろんな意味で「すごい人」だとあらためて思いました。
2014.03.05 Wed l 社会・メディア l top ▲