中村うさぎが、昨日(29日)、ブログ(中村うさぎvsマッド髙梨 ガチBLOG!)を更新していましたが、そこに気になる文章がありました。

http://takanashi.livedoor.biz/archives/65902973.html

車椅子生活は相変わらずつづいているし、「薬の副作用でパンパンにむくれてブスになり」、「時々、もう何もかもが嫌になる」と書いていました。「しかも薬の副作用で思うように舌が回らず、テレビに出ても『何言ってるかわからない。あんなのコメンテイターとしてテレビに出すな』なんて言われる始末」だそうです。

それで、「5時に夢中!」のプロデューサーに、番組を降板するとメールを送ったというのです。さらに、副作用をもたらした「ステロイド」と「ホリゾン」の服用もやめると宣言しているのです。

「覚悟」どころか、なんだかますます弱気になっている感じで、中村うさぎらしさも消えています。

「去年の今頃は、自分が立ても歩けもしなくなるなんて夢にも思わなかった。」と書いていましたが、たしかに病気になってそれまでの人生が一変するのはよくあることです。

私の身近でも、最近、超難関大学を出て有名企業で役員までしていた同級生が、脳梗塞で倒れて半身不随になり、家族を東京に残してひとり九州に帰ったという話がありました。文字通り人生が一変したのです。そんな話は枚挙に暇がありません。

入院していた二十歳のとき、隣の部屋の女性患者が、病院の裏山で首を吊って自殺したという出来事がありました。私は彼女とは親しくしていて、夕食を終えると、彼女の部屋を訪れて小1時間話をするのが日課になっていました。同病相哀れむではないですが、お互い重い病を背負い、病気のために仕事や学校も辞め、夢も希望も閉ざされたような気持で入院生活を送っていたのです。

早朝、彼女が自殺したという話を聞いたとき、私は、自分でも不思議なくらい冷静で、「やっぱり」と思いました。私は、彼女の気持が痛いほどよくわかりました。私自身も、彼女と同じような気持だったからです。彼女はいつも枕元にマリア像を置き、月に何度か神父さんが病室を訪れてお祈りを捧げていましたが、信仰も救いにならなかったのです。

でも、この年になると、その頃のように死にたいと思うことはなくなりました。なぜなら、いづれ死が訪れることがわかっているからです。死は間違いなくやってくる。それは、明日かもしれないし、1カ月後かもしれないし、1年後かも10年後かもしれません。死を意識するようになると、死にたいという気持は逆に遠ざかっていくのです。人間というのは、なんと勝手で単純なんだろうと思います。

絶望もまた人生だし、悲しみもまた人生だし、つらさもせつさなもやり切れなさも、みんな人生です。「いいことなんてなにもない」のもまた人生です。

私が以前通っていた病院で知り合った人たちも、みんな病気によって人生が一変した人たちでした。

倒れる前は女子高生を愛人にしていたとうそぶく男性は、半身不随になり、今は生活保護を受ける身ですが、いつも元気いっぱいで、病院のロビーで私の姿を見つけると、「待ってたよ」「コーヒー飲む?」と言いながら笑顔でやってくるのでした。私が「脳梗塞になったのはバチが当たったんじゃないの」と言うと、彼は、「ヘヘへ」と笑って、不自由な手で坊主頭を掻くしぐさをするのでした。

また、20代の頃に離婚して、それから女手ひとつで3人の子どもを育てたという女性は、50代の半ばで難病(病名を何度聞いても覚えられないようなめずらしい病気でした)を発症して、不自由な身体になり、車椅子のうしろにチューブでつながった尿を入れる袋を提げて、いつもロビーをウロウロしていました。「子どもも育ったし、これから好きなことをして生きようと思っていた矢先にこんな病気になって」「なんのための人生だったかと思うけどね」と言いながら、退院後に入居するグループホーム探しに忙しんだと言っていました。

彼らは、死の淵をさまよったことで、そんなに積極的ではないかもしれませんが、もう一度生への欲求を抱くようになったように見えます。彼らを見ていると、ちょっとしたささやかなことでもそれを希望にして生きているような気がするのです。

中村うさぎを見ていると、ネットの見すぎのような気がしてなりません。本を読まない作家というのがいるそうですが、中村うさぎもそのひとりかもしれません。その分、ネットに依存しているのではないか。

中村うさぎには、あんなネットの「バカと暇人」にふりまわされてどうするんだと言いたいです。私も中村うさぎを批判することがありますが、毀誉褒貶それもまた人生です。せっかく神様からもらった命じゃないかなんてくさい言い方をするつもりはありませんが、死は否が応でもやってくるのです。それまでもう少ししぶとく且つふてぶてしく生きてもらいたいと思いますね。

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中村うさぎ
2014.04.30 Wed l 本・文芸 l top ▲
1987年5月3日の憲法記念日に、朝日新聞阪神支局に散弾銃を持った何者かが押し入り、同支局の小尻知博記者が殺害される事件がありました。これは、1987年から1990年にかけて「赤報隊」を名乗るグループによる一連のテロ事件のきっかけになった事件です。しかし、なぜかすべての事件が未解決のまま時効を迎えています。(Wikipedia 赤報隊事件

毎年、事件が発生した5月3日に、朝日新聞労組の主催で「言論の自由を考える5・3集会」が開催されているのですが、今年のゲストに右派の田母神俊雄氏が招かれたことに対して、作家の辺見庸がブログで、朝日新聞労組は「『良心的』にファシズムを誘導している」と批判していました。

朝日新聞労組は「民主主義」をことさらわざとらしく演じてみせつつ、いわば「良心的に」ファシズムを誘導している。反ファシズムに似せたそれは、紛うことないファシズムの再演である。ほんらい恐怖をかきたてるべき「微妙で相対的な差異」(ドゥギー)は消滅したのではなく、怠惰で無知で傲慢なメディアのあんちゃん、ねえちゃんたちには、右も左も、クソもミソも、さっぱり見わけがつかなくなっただけのことだ。朝日新聞労組員の多くや、週刊金曜日編集部は、反ファシズム運動にはかならずファシズムがまぎれこむこと、さらには、ファシズムはその身体に一見反ファッショ的なるものをすっぽり包含して、はじめて強靭なファシズムになりうることを、あまりにも知らなすぎる。
辺見庸ブログ「私事片々」2014/05/03)


また、安田浩一氏も同様に、朝日新聞労組の姿勢に対して、ツイッターでつぎのように批判していました。

仲間が殺された日じゃないか。それを「義挙顕彰」とまで言われたんだぜ。田母神さん呼んでシンポジウムもけっこうだけれど、真剣な怒りを見せてほしいよ。俺は怒ってる。(2014年4月30日


前日の5月2日に、朝日は社説「朝日支局襲撃 『「排他』に立ち向かう」で、ヘイト・スピーチについて、「理不尽に攻撃される人たちを守る側に立つことはもちろんである。そのうえで、攻撃的な言葉を繰り出す人、そうした主張に喝采を送る人々の背景にも目を向け、日本社会に広がる溝を埋めていきたい。」と書いていましたが、これに対してヘイト・スピーチに反対する活動をおこなっている人たちから「他人目線」の「ユルい」文章だという批判がありました。たしかに、そこにあるのは、いつもの常套句(おためごかし)でしかありません。そんな常套句でお茶を濁す危機感のなさ=「ユルさ」が、田母神氏をゲストに招待する感覚につながっているように思えてなりません。

ヘイト・スピーチに「言論の自由」は許されるのか。某新左翼系雑誌の編集者は、反原発の集会の妨害にやってきた彼らに向かって、あなたたちにも「言論の自由」はある、それは認める、と檀上で発言して失笑をかったそうです。しかも、そんなプロの活動家に限って、ヘイト・スピーチをおこなう側もそれにカウンターをかける側も「どっちもどっちだ」と言って現実から目をそむけるだけなのです。

でも、竹中労が言うように「言論の自由なんてない」のです。あるのは「自由な言論」だけです。「言論の自由」を守るというような姿勢では、こんな「ユルい」対応しかできないのは当然でしょう。

今の「嫌韓ビジネス」の先駆けとも言うべき「マンガ嫌韓流」の作者・山野車輪氏は、講談社の『G2』(Vol.15)の対談「嫌韓とヘイトスピーチ」のなかで、安田浩一氏の「(在日の反応が)怖くないですか?」という質問に対して、最初は怖かったけど、有罪判決が出た京都朝鮮学校への街宣でなにもなかったので、それから怖くなくなったと言ってました。

宮台真司は、近著『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬社)のなかで、今日の最先端の政治学や政治哲学では、全体主義に抗うのに、非全体主義的な(徹底して民主主義的な)やり方は、もはや有効性が低く、そういった(「ユルい」)やり方に対して悲観的な見方が広がっていると書いていました。その背後にあるのは、グローバリゼーションと民主主義は両立しないという現実です。グローバリゼーションによって、中間層が没落し、民主主義の基盤が崩れた社会で、いくら「民主的でない」ことを訴えても、もはやそれは”論理矛盾”でしかありません。

(引用者:グローバル化=)資本自由化によって、格差化と貧困化が進む。中間層が分解し、共同体が空洞化して、個人が不安と鬱屈にさいなまれるようになる。そのぶん、多くの人々がカタルシスと承認を求めて右往左往しはじめる。かくしてヘイトスピーチとクレージークレーマーが溢れがちなポピュリズム社会になるのだ。
 そうなると、不完全情報領域があれば、極端な意見を言う人ほど、カタルシスと承認を調達できるがゆえに、ポピュリズム的に他を圧倒しがちになる。こうした傾向が、投票行動において見られるのみならず、投票に先だつ熟議においてすら見られるようになる。
(『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』「まえがき」より)


こうした傾向に抗うためには、バータナリズム(父権主義)的な「卓越者」の働きが重要になると言います。宮台は、その例として、敗戦後の日本におけるGHQの存在をあげていました。

「全体主義を以て全体主義を制す」というような考えが、非常に危ういものであるのは言うまでもありません。でも、今の「カルト化するニッポン」の現実を考えるとき、それがもっともリアルな感覚かもしれないと思ったりもするのです。「不幸」なことですが、この全体主義的な流れを押しとどめるためには、もはや「毒を以て毒を制す」ような方法しかないということなのかもしれません。
2014.04.30 Wed l 社会・メディア l top ▲
炭水化物が人類を滅ぼす


今度は糖質制限ダイエットです。人にすすめられて、練馬光が丘病院の夏井睦ドクターの『炭水化物が人類を滅ぼす』(光文社新書)という本を読み、自分も糖質制限ダイエットを実践してみようと思ったのでした。

はじめるにあたって、この本とともに、夏井ドクターも影響を受けたと言う京都高雄病院の江部康二ドクターのブログ(「ドクター江部の糖尿病徒然日記」)や高雄病院のサイトも参考にしました。本やサイトでは、糖質制限食のレベルを「スーパー」「スタンダード」「プチ」の3段階に分けているのですが、私の場合、幸いなことに血糖値やヘモグロビンA1cは問題がないので、ダイエットを目的とする「スタンダード」を実践することにしました。

糖質制限ダイエットというのは、要するに、白米やパンや麺類、お菓子や根菜類など、糖質の高いものを食べないということです。もっとわかりやすく言えば、主食をぬくということです。糖質の高い食べ物を避ければ、あとは肉でも魚でもなんでも食べていいのです。ダイエットにつきもののカロリー計算をする必要もないのです。

私は、このカロリー計算をしなくていいというのが信じられず、糖質制限ダイエットに対して最初は半信半疑でした。ところが、やってみると驚くほど効果はてきめんでした。(こういう言い方は誤解を招くかもしれませんが)ダイエットをはじめて1週間で、なんと3キロ痩せたのです。この間、白米はコンビニのおにぎりを1日に1~2個程度に抑えて、あとはもっぱら肉と魚と野菜(サラダ)ばかり食べました。私は前にも書いたことがありますが、大分県出身ということもあって、鶏のから揚げが大好物なのですが、それこそ鶏のから揚げも心おきなく食べました。それでも1週間で3キロ痩せたのでした。もちろん、いっきに3キロ落ちたあとは、落ち方が鈍化していますが。

「『摂取カロリーが多いから太る』という栄養学の基本中の基本からすれば、糖質制限をしてもカロリー制限をしなければ太るはず」です。どうして糖質制限をするだけで痩せるのか、誰もが抱く疑問でしょう。どうしてかと言えば、通常エネルギー源を担っているのは糖質ですが、糖質を制限すると、「糖新生」といって脂肪から糖が作られそれをエネルギー源にすることになるため、必然的に体内の代謝率が高くなるからだそうです。要するに、糖質がやっていたことを脂肪が代わりにやってくれるからです。

一方、夏井ドクターは、糖質制限の実践をとおして、栄養学の前提である「カロリー」という概念そのものに疑問を呈するのでした。以下は、夏井ドクターがあげた疑問点です。

◇体温は最高でも、せいぜい40℃であり、この温度では、脂肪も炭水化物も「燃焼」しない。つまり、人体内部で食物が「燃えて」いるわけがない。
◇そもそも、細胞内の代謝と大気中の燃焼はまったく別の現象である。
◇各栄養素ごとの物理的燃焼熱は、小数点1~2桁の精度で求められているのに、エネルギー換算係数を掛けて得られた熱量はどれも「キリのいい整数」であり、数学的に考えると極めて不自然で恣意的だ。あえていえばうさんくさい。
◇動物界を見渡すと、食物に含まれるカロリー数以上のエネルギーを食物から得ている動物が多数いる。


夏井ドクターによれば、厚生労働省と農林水産省が公表している「食事バランスガイド」、あの私たちの食生活の基準になっている「3食きちっとバランスのとれた食事をしましょう」という「ガイド」にしても、あきらかに糖質過多だそうです。角砂糖に換算すれば、1日に角砂糖38個を食べなさいと言っているようなものだと。そもそも「ガイド」は科学ですらなく、国立健康・栄養研究所が日本人の食習慣を調査したものをベースに、平均値を算出しただけの「単なるアンケート結果」にすぎないと言ってました。

夏井ドクターは、「17世紀以前の人類の圧倒的多数は、砂糖とはほぼ、無縁の生活を送っていた」と書いていました。「人類と糖質との付き合いは、穀物栽培から始まった」のですが、人類が最初に炭水化物と出会ったのは、森のドングリだったそうです。その「甘さ」に魅了された人間は、やがてコムギの栽培を始め、より安定的に収穫するために灌漑農法をあみ出し、それが他の地域に伝えられて、ほかの穀物の栽培に応用されたのだと言います。米もそのひとつです。灌漑農法によって、「甘味」を求めるあらたな食物史がはじまったのでした。

大和を「豊葦原瑞穂の国」と呼んだように、とりわけ日本人にとって稲作は特別なものでした。稲(米)を敬い感謝する祭事は、新嘗祭など皇室の伝統的な行事のなかにも残っているほどで、そうやって稲作を神格化することで穀物の収穫を祈願したのです。それはキリスト教におけるパンも同様です。

しかし、夏井ドクターは、「その神は偽りの神だった」と言います。

(略)穀物という神は、確かに一万年前の人類を飢えから救い、腹を満たしてくれた。その意味ではまさに神そのものだった。
 しかし、それは現代社会に、肥満と糖尿病、睡眠障害と抑うつ、アルツハイマー病、歯周病、アトピー性皮膚炎を含むさまざまな皮膚疾患などをもたらした。
 現代人が悩む多くのものは、大量の穀物と砂糖の摂取が原因だったのだ。人類が神だと思って招き入れたのは、じつは悪魔だったのだ。


常識を疑えということばがありますが、『炭水化物が人類を滅ぼす』は、ダイエットだけにとどまらず、従来の栄養学の常識を打ち破る大胆な試みの書と言えるでしょう。
2014.04.28 Mon l 健康・ダイエット l top ▲
アメリカのオバマ大統領が国賓で来日し、都内は厳戒態勢が敷かれています。都心の道路では、要所要所で検問がおこなわれ、駅の構内にも至る所に警察官が立って行き交う人に目を光らせています。

駅に立っているのは、若い警察官が多いのですが、ある駅の通路の外れに場違いなほど年を取った警察官がひとりで立っていました。それこそ定年も近いような年恰好でした。

彼は若い警察官と違って、見るからにめんどくさそうで、いやいややっている感じでした。ときどき帽子を脱いで汗を拭きながら、ため息を吐いたり天を仰いだりして、全然通行人に目を光らせていないのです。私は、そんな姿を見て逆に好感すら覚えたものです。

靖国参拝でギクシャクした日米関係をなんとか修復したい安倍首相は、有名寿司店「すきやばし次郎」での会食をセットしたりと、親密ムードを演出するのに必死です。しかし、オバマ大統領は寿司を半分残し、しかも挨拶もそこそこに、いきなり日米の懸案事項(TPPの問題)の話をはじめたりと、「和やかなムード」とは言い難い雰囲気だったそうです。

そもそも国賓と言っても、ミシェル夫人は同行していないのです。国賓に夫人が同行しないのは異例のことだそうです。その一方で、ミシェル夫人は、先月、2人の娘と一緒に中国を訪問、1週間も中国に滞在しているのです。この一事をもっても、アメリカが重視しているはどっちかがよくわかろうというものです。

田中宇氏は、「田中宇の国際ニュース解説」の会員版(有料ブログ)のなかで、今回の訪日について、つぎのように書いていました。

オバマ政権は、3年前に始めた「アジア重視策(中国包囲網)」の巻き直しをやりたがっている。オバマのアジア重視策は、日本やASEANなど中国の台頭に脅威を感じるアジア諸国に対し「米国の軍事力で中国の脅威から守ってやるから、経済面で市場開放などを言うとおりにやって米国(米企業)を儲けさせてくれ」と持ちかける軍事と経済利権のバーター戦略だ。利権獲得の中心がTPPだ。
(時代遅れな日米同盟 2014年4月24日)


 米国の国際大企業にとって、高齢化する成熟社会である日本市場は、これから儲かる市場でない。アジアにおいてこれから儲かる最大の市場は、日米が敵視する中国である。米国は一方で「中国包囲網」と銘打って日本やASEANでの儲けを拡大しようとしているが、その一方で中国との経済関係も拡大したい。だから米国は、中国を敵視する姿勢をとりつつも、軍事交流や戦略提携を含む中国との外交関係を重視せざるを得ない。オバマ政権のアジア重視策は、イメージやうたい文句に偏重した、実体が曖昧で中身が矛盾したものになっている。(同上)


なんだかんだ言っても、アメリカにとって、アジアでもっとも重要な商売相手が中国であることには変わりがないのです。アメリカの「アジア重視策」の裏に、このようなダブルハンドのしたたかな戦略が隠されていることを知る必要があるでしょう。中国敵視策をとる日本はアメリカにいいように踊らされているとも言えます。それが安倍政権の”対米従属愛国主義”の限界なのでしょう。

首脳会談がおこなわれたあと、夜になっても共同声明が発表されないという異例の事態になっていますが、もちろん、それは、TPP交渉が首脳同士の会談でも、「大筋合意」に至らなかったからです。安倍政権の中国敵視策はこれからの日本経済にとって、自滅的な(右翼小児病の)外交だとしか思えませんが、アメリカに対しては意外にもぎりぎりのところで踏ん張っていると言えるのかもしれません。(と思ったら、後日、「尖閣に安保適用」の文言と引き換えにTPP全面譲歩の密約があった、と一部のマスコミが伝えていました)

田中氏は、TPPやTTIP(米欧自由貿易協定)について、「(その本質は)米国などの国際的な大企業が、日本など対米従属の諸国の政府よりも大きな権限を持ち、日本などの政府が定めた貿易政策を、大企業の息がかかった判事たちが審判する国際法廷で無効化できることだ。これは、企業が国家の政策をくつがえせる新たな世界秩序の創設を意味する。」と書いていましたが、これこそが「成長」の名のもとに、先進国だけでなく新興国や発展途上国をも席捲しつつあるグローバル資本主義の本質と言えるでしょう。自己増殖し易々と国境を越えるグローバル企業にとって、今や国民国家は足手まといでしかないのです。

水野和夫氏は、新著『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)のなかで、グローバリゼーションについて、つぎのように書いていました。

 そもそも、グローバリゼーションとは「中心」と「周辺」の組み替え作業なのであって、ヒト・モノ・カネが国境を自由に越え世界全体を繁栄に導くなどといった表層的な言説に惑わされてはいけないのです。二〇世紀までの「中心」は「北」(先進国)であり、「周辺」は「南」(途上国)でしたが、二一世紀に入って、「中心」はウォール街となり、「周辺」は自国民、具体的にはサブプライム層になるという組み替えがおこなわれました。


グローバリゼーションとは、資本が国家より優位に立つということです。その結果、国内的には、労働分配率の引き下げや労働法制の改悪によって、非正規雇用という「周辺」を作り、中産階級の没落を招き、1%の勝ち組と99%の負け組の格差社会を現出させるのです。当然、そこでは中産階級に支えられていた民主主義も機能しなくなります。今の右傾化やヘイト・スピーチの日常化も、そういった脈絡でとらえるべきでしょう。水野氏が言うように、「資本のための資本主義が民主主義を破壊する」のです。

一方で、「電子・金融空間」には140兆ドルの余剰マネーがあり、レバレッジを含めればこの数倍、数十倍のマネーが日々世界中を徘徊しているそうです。そして、量的緩和で膨らむ一方の余剰マネーは、世界の至るところでバブルを生じさせ、「経済の危機」を招いているのです。最近で言えば、ギリシャに端を発したヨーロッパの経済危機などもその好例でしょう。それに対して、実物経済の規模は、2013年で74.2兆ドル(IMF推定)だそうです。1%の勝ち組と99%の負け組は、このように生まれべくして生まれているのです。アメリカの若者が格差是正や貧困の撲滅を求めてウォール街を占拠したのは、ゆえなきことではないのです。

もちろん、従来の「成長」と違って、新興国の「成長」は、中国の13.6億人やインドの12.1億人の国民全員が豊かになれるわけではありません。なぜなら、従来の「成長」は、世界の2割弱の先進国の人間たちが、地球の資源を独占的に安く手に入れることを前提に成り立っていたからです。今後中国やインドにおいても、経済成長の過程で、絶望的なほどの格差社会がもたらされるのは目に見えています。

水野氏は、グローバリゼーションの時代は、「資本が主人で、国家が使用人のような関係」だと書いていましたが、今回のオバマ訪日と一連のTPP交渉も、所詮は使用人による”下働き”と言っていいのかもしれません。ちなみに、今問題になっている解雇規制の緩和や労働時間の規制撤廃=残業代の廃止なども、ご主人サマの意を汲んだ”下働き”と言えるでしょう。

史上稀に見る低金利政策からいっこうに抜けだせる方途が見出せない今の状況と、国民国家の枷から解き放され、欲望のままに世界を食いつぶそうとしているグローバル企業の横暴は、水野和夫氏が言うように、「成長」=「周辺」の拡大を前提にした資本主義が行き詰まりつつことを意味しているのかもしれません。少なくとも従来の秩序が崩壊しつつあることは間違いないでしょう。それは経済だけでなく、政治においても同様です。ウクライナ問題が端的にそのことを示めしていますが、アメリカが超大国の座から転落し、世界が多極化しつつあることは、もはや誰の目にもあきらかなのです。日米同盟は、そんな荒天の海に漂う小船みたいなものでしょう。
2014.04.24 Thu l 社会・メディア l top ▲
介護の仕事が具体的にどんなものか、身近に介護を受けている家族でもいない限り、私たちは、知っているようで案外知らないのが現実です。

先日、ある関係で、実際に介護の仕事を見学する機会がありました。しかも、行ったのは、寝たきりのお年寄りの下の始末をする現場でした。見学に際して、私にはひとつ心配がありました。それは、臭いに人一倍弱いということです。ご家族の手前、失礼な態度はとれません。それで、了解をもらって、事前に両方の鼻にティッシュを詰め、マスクをしてことに臨むことにしたのでした。

担当のヘルパーの方は、30代前半の男性でした。見るからに人が好さそうで、口数は少なく腰の低い青年でした。

驚くことに、彼はマスクをしないで、お年寄りの臀部に顔を近づけて、「お尻をちょっとあげますよ。いいですか」「今度はお尻を拭きますね」「少し冷たいかもしれませんが、我慢してくださいね」とやさしくことばをかけながら、手際よく、そして丁寧にオムツを交換するのでした。

私は心のなかで「すごいな」と呟きながらその様子を見ていました。自分にできるか言われたら、とても無理です。ホントに頭が下がるような仕事ぶりでした。

でも、聞けば彼らの給与は手取りで20万にも届かないのだそうです。そんなに献身的に仕事をしても、大卒の初任給にも満たないのです。そのために、介護職は慢性的な人出不足で、ハローワークによる失業対策事業のような扱いにもなっており、派遣切りに遭った若者が、ハローワークの担当者に勧められて、ヘルパーの資格を取るケースも多いそうです。しかし、実際にヘルパーとして仕事をつづける人は、ホンのわずかだということでした。

酒井法子が覚せい剤取締法違反で逮捕されたとき、「介護の仕事につきたい」と言って話題になりましたが、実際に介護の仕事を見ると、あのときの酒井法子の安易な発言にあらためて怒りを覚えざるをえませんでした。

介護の仕事に対して、私たちは「大変ですね」と言いながら、一方で自分たちと彼らを線引きする巧妙な心の操作がはたらいていることは否めません。自分たちは介護を受けることはあっても、介護をする立場になることはない、異臭が漂うなかでオムツを交換するようなことはゆめゆめあるまいとタカをくくっているのではないでしょうか。でも、急激に進むこの高齢化社会のなかにあって、介護の問題は決して他人事ではないのです。

厚生労働省の資料によれば、2012年4月現在、要介護の認定者数は533万人だそうです。これが、(介護費用の試算によれば)2025年には1.5倍になると言われています。高橋源一郎は、先月の朝日新聞の論壇時評で、単身で老いていく人たちの生き方について書いていましたが(「ひとりで生きる 新しい幸福の形はあるか」)、そのなかでも、10年後に認知症の患者とその予備軍が1千万人を超える現実を指摘していました。しかも、既に現在、夫婦二人世帯より単身世帯のほうが多く、2030年には「中高年男性の4人に1人が一人暮らし」になると言われているそうです。かく言う私もそのひとりです。私たちの多くはやがて介護の世話にならなければならないのです。

介護の仕事は、仕事のわりには社会的評価が低いように思えてなりません。家族で介護をする大変さ過酷さはもちろんですが、介護の仕事をする大変さ過酷さも、私たちは知る必要があるではないでしょうか。介護の仕事はボランティアではないのです。報酬の面も含めて、もっと社会的に評価されて然るべきではないか。汚れたオムツを黙々と片付けているヘルパーの青年の後姿を見ながら、私はしみじみそう思いました。
2014.04.18 Fri l 社会・メディア l top ▲
ちょっと食傷気味ですが、もう少しSTAP細胞の問題について書きます。

今日、STAP細胞の論文の責任著者であり、小保方さんの上司でもある理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(CDB)の笹井芳樹副センター長が記者会見しました。どうして今まで記者会見しなかったのか、それも疑問ですが、今日、笹井氏が述べたことで要点は2点あったように思います。(以下、引用は、毎日新聞<STAP論文:「有力な仮説として検証の必要」笹井氏>より)

ひとつは、論文について、「『重大な過誤、不正があり、論文を撤回するのが最も適切な考えだ』と撤回に同意する考え」をあらためて示したという点。もうひとつは、STAP細胞について、「人為的な操作はできない過程で、STAP現象を前提にしないと容易に説明できない」現象があり、「『STAP現象があるというのがもっとも有力、合理的な仮説だ』と力説した」という点です。

この笹井氏の発言は、論文は撤回しろ、でも、研究はおれたちが受け継ぐと言っているわけで、意地の悪い見方をすれば、象牙の塔でよくある研究成果の横取りと受け取れないこともないのです。今は、研究と言っても北里柴三郎や野口英世のときのように個人プレーではなく、チーム(共同)研究が主流だそうで、ノーベル賞にしても、受賞者は成果をひとり占めしているという意見もあるくらいです。

この笹井氏の発言について、内科医で東京大学医科学研究所特任教授の上昌広氏は、ツイッターでつぎのように批判していました。


ちなみに、上氏は”小保方叩き”の急先鋒の医学者です。そんな人でさえ笹井氏の姿勢はおかしいと言っているのです。

責任逃れと研究成果の横取り。それは、未だ徒弟制度が生きている象牙の塔では、半ば当たり前のことなのでしょう。だから笹井氏のように、臆面もなくこういった発言ができるのだと思います。

自民党の元衆議院議員で弁護士の早川忠孝氏が、Yahoo!ニュースの個人ブログ「小保方研究不正問題を考える視点」 で書いていましたが、小保方さんのような研究職の場合、雇用主との間で研究に関する「秘密保持契約」を取り交わしているのが一般的だそうで、当然、小保方さんにも、「資料の持ち出し」や「自分の研究テーマについての言及」などにきびしい保秘義務が課せられているはずです。また、理研は、STAP細胞について、特許協力条約(PCT)に基づく国際特許を既に米国で出願しているそうですから、なおさら言いたくでも言えない事情があるだろうことは容易に想像できます。そのために、小保方さんは、早川氏が言うように「口をもごもごさせざるを得ない」のでしょう。ところが、マスコミは、そんな事情を、あたかもウソを言っているから「証拠」を出せないのだみたいに、逆に小保方さんを攻撃する材料に使うのでした。それに対して、笹井氏は、事情をよく知っているのですから、事情を説明して小保方さんを擁護してもよさそうですが、そういった発言はまったく聞かれないのでした。

小保方さんはこんな不条理な世界に見切りをつけ、自由に研究ができるハーバードに「戻った」ほうがいいように思いますが、どうして理研にこだわるのか。それもよくわかりません(もしかしたら「秘密保持契約」の関係で、簡単にほかの研究機関に移ることができないのかもしれませんが)。

一方、週刊誌やスポーツ新聞などでは、そんな事情とはまったく別のレベルで、まさに”私刑ジャーナリズム”と言うべき”小保方叩き”がくり広げられているのですが、それはもはや”病的”とさえ言えます。

先日も仕事関係の人たちと会った際、この話題が出ました。そこにいたのは、40代50代の「立派な」大人たちでした。でも、小保方さんのことになると、なにかにとり憑かれたかのように、口をきわめて罵りはじめるのでした。

「あの女はとんでもない食わせ物だ」「だから教授たちもまんまとダマされたんだ」「頭がおかしいんだよ」「女を武器にして上に取り入り、のしあがっていくタイプの女っているよな? その典型だよ」

中村うさぎと同じように、ネットに拡散している週刊文春や東スポの記事をそのまま鵜呑みにして、最初から小保方さんが言っていることがウソだと決めつけているのです。

「でも、それってヤフーや2ちゃんねるに書いていることだろ? STAP細胞の研究そのものにはまったく関係ない話じゃないか?」と言うと、「じゃあ、小保方の言っていることを信じるわけ? 小保チャンの肩を持つわけ?」「あ~あ、ここにも小保チャンにダマされた男がいるよ(笑)」「まあ、小保方が若くてかわいいから信じたい気持はわかるけどさ(笑)」って感じで、とりつく島がありません。

私は、このような問答無用の”小保方叩き”も、ヘイトスピーチのネトウヨなどと同じ”病理”にあるように思えてなりません。『奥さまは愛国』ではないですが、ネットにはまるとどうしてみんな「自動人形」になり「機械的画一性」(エーリッヒ・フロム)を志向するようになるのか。どうして「水は低いほうに流れる」反知性主義的な方向に同調するようになるのか。

「ネットこそすべて」「ネットこそ真実」の人間たちが希求するのは、ひとつの色に塗りつぶされた社会です。常に多数派につきたい。みんなと同じでありたい。自分で考えるより他人に考えてもらいたい。そんな人間にとって、異論を排除してひとつの色にぬりつぶされた社会は「楽」で「安心」で「わかりやすい」のかもしれません。さらにみんなで石を投げるサディスティックな「快感」も加わるのでしょう。でも、それこそフロムが言う(ファシズムの人間的基礎たる)「権威主義的性格」による「サド・マゾヒズム的追求」の心理だと言えます。

何度もくり返しますが、”小保方叩き”の背後にあるのは、このような全体主義的な「空気」です。
2014.04.16 Wed l 社会・メディア l top ▲
中村うさぎの『週刊文春』の連載「さすらいの女王」が、今月で打ち切りになるとかで、それで、「書く場所を失った」中村うさぎは、「中村うさぎの死ぬまでに伝えたい話」と題して有料メルマガを発行することにしたそうです。

有料メルマガは、実質的に『週刊文春』からの移行と言えるでしょう。中村うさぎは、「作家」というより実際は「エッセイスト」としての活動が主なので、彼女にとって、『文春』の連載打ち切りは、想像以上に打撃が大きいのかもしれません。連載がなくなるということは、連載を収録した本の出版も今後なくなるということですし、TOKYO MXなどメディアへの露出も少なくなることが考えられます。そうなれば本も売れなくなり、今後の作家活動もままらなくなる。中村うさぎのような作家にとって、週刊誌の連載の打ち切りは、テレビ番組から降板させられるタレントと同じようなものなのかもしれません。

「文壇タブー」というと、作家と出版社の関係は作家のほうが上で、出版社が「お得意さま」に遠慮しているようなイメージがありますが、実際は逆のようです。作家は、あくまで出版社から仕事をもらう立場にすぎず、「文壇タブー」も、単に出版社の営業上の都合にすぎないのです。要するに、芸能タレントと同じで、干されたらおしまいなのです。

中村うさぎが、マスコミやネットに書いていることを鵜呑みにして(それを前提にして)、世間と一緒に”小保方叩き”をしているのも、そういった貧すれば鈍する状況と関係があるのかもしれません。

以前の中村うさぎだったら、この”魔女狩り”に対して、もっと斜に構えた見方をしたはずです。「異物」を排除する社会の風潮に「気持が悪い」と言ったはずです。若い女性であるがゆえに、必要以上に叩かれている状況に、同じ女性として「怒り」を表明したはずです。

でも、今の中村うさぎには、そんな「異物」の視点はないのでした。ただ誰でも言えることを言っているだけで、作家としての「覚悟」も見られません。曽野綾子と同じような、市民社会の公序良俗に奉仕するただのつまらないおばさんの姿しかないのです。

結局、中村うさぎも”あっちの世界”に行ってしまったのか。なんだか一抹のさみしさと憐れみを感じてなりません。作家は世間から同情されたらおしまいですが、中村うさぎも病気をして弱気になり、無定見に世間にすり寄っているのでしょうか。『狂人失格』で指摘した、もの書きとしての「覚悟」のなさがここにきていっそう露わになった気がします。これじゃ名誉毀損した『狂人失格』のモデルの女性に対しても失礼というものでしょう。

>> 中村うさぎの覚悟
>> 『狂人失格』
2014.04.13 Sun l 本・文芸 l top ▲
小保方さんの記者会見に対して、案の定、今日のマスコミ各社は、いっせいに「疑惑晴れず」の論調(というより言いがかり)で轡(くつわ)を並べていました。しかも今度は、「研究者」「専門家」「識者」の口を借りているのが特徴です。

研究者が見た小保方氏会見 「強引な主張」「証拠示して」「上司に説明責任」
産経ニュース

専門家「200回以上作製」信用できない
NHKニュース

同僚冷ややか、リケジョ後輩は理研の対応疑問視
YOMIURI ONLINE

STAP細胞:識者ら「科学のイメージダウン」懸念
毎日新聞

小保方氏説明会見、識者に聞く STAP問題
朝日新聞デジタル

でも、こういった発言の裏にあるのは、ムラ社会(象牙の塔)を牛耳る古狸たちが、若い研究者の手柄にケチをつけ、挙句の果てに手柄を横取りする、ムラ社会の悪しき因習ややっかみではないのか。それをもっともらしく言っているだけのようにしか思えません。小保方さんと上司とのただならぬ関係とか小保方さんの髪型や化粧や服装がどうのといった、スポーツ新聞や週刊誌のレベルとどう違うのでしょうか。

こんなはじめに「不正」ありきの”小保方叩き”は、袴田事件など冤罪を生んだ報道とまったく同じ構造です。再審で無罪判決が出るたびにマスコミの犯罪報道のあり方が問われてきましたが、しかし、彼らは反省することもなく、今に至るまで同じことをくり返してきたのです。そして、その構造は、原発の安全神話を喧伝し、福島第一原発の事故が起きてもなお、「ただちに健康に影響を及ぼすものではない」と言いつづけたあの”原発報道”にも通底するものです。

そんなマスコミの横並びの姿勢は、安倍政権の暴走に歯止めをかけるどころか、暴走に随伴し、時の政権に拝跪する姿勢と軌を一にしていると言えます。

いざとなればみんな同じなのです。「日本安倍放送協会」はNHKだけの問題ではありません。マスコミ報国は、産経も読売も毎日も東京も朝日も新潮も文春も日刊ゲンダイも東スポも同じです。何度もくり返しますが、”小保方叩き”の背後にあるのは、このような全体主義的な「空気」です。

”小保方叩き”もまた、宮崎学が言う「異物排除社会ニッポン」(新刊のタイトル)を象徴する光景と言えるでしょう。「異物」を排除するのに、右も左もネットもリアルもないのです。右も左もネットもリアルもみんな一緒になって「異物」を排除する。そうやって「おれたちのニッポン」が仮構されるのでしょう。

小保方さん自身、何回もSTAP細胞を確認したと言っているのですから、その検証結果を待てばいいだけの話です。小保方さんに実験室で証明させればいいのです。小保方さんもそう望んでいるのです。しかし、理研は検証作業から小保方さんを排除しているのでした。それも実におかしな話です。

「ネイチャー」誌の論文も同じです。間違っていれば訂正すればいいだけの話です(実際に訂正しているのです)。本でもブログでも、間違いや手違いはいくらでもあります。あるいは、論文の書き方に不慣れな場合だってあり、最初から完全なものなんてないでしょう。小保方さんが「自己流でやってきた」と言っていたのは、そういう意味でしょう。

そもそもSTAP細胞だって、小保方さんが言うように、まだ現象を見たにすぎず、これから理論的に詰めていくという段階なのでしょう。それを今すぐ完全な理論(作製法)を示せ、示せないのは怪しいというのは、言いがかかり以外のなにものでもありません。基礎研究の検証には何年も時間がかかる(場合がある)というのは、科学の常識だそうですが、科学者からそういった発言がまったく出てこないで、すぐ検証結果を出せ、不正でなければすぐ出せるはずだというような発言がさも正論のように飛び交っている光景こそ、常軌を逸しているとしか言いようがありません。

理研の調査に、拙速や杜撰さを指摘する声は多く、理研内部の派閥争いや「特定法人化」の問題などさまざまな背景があると言われていますが、調査チームに、内部の人間だけでなく外部の専門家を入れてほしいという小保方さんの主張は、誰が見てもごくごく真っ当なものです。

一方で、リケジョ(理系女子)に関して、唖然とするような「女性研究者」の発言もありました。

 女性研究者の先輩格に当たる東京大の大島まり教授(生体流体工学)は、「科学論争とは違う場外戦の様相を呈している」と指摘する。写真の取り違えなどのミスは認めつつ、捏造や改ざんは認めない小保方氏の姿勢については、「科学の世界では明白な不正。研究不正に関する理研の規定の文言を争っているのは違和感がある」と語った。

 「男性研究者ならこれほど注目されただろうか」とも語り、「理系の女性は少数派。全体に悪影響が及ばないだろうか」と心配を口にした。
(読売新聞・YOMIURI ONLINE リケジョへ悪影響心配・場外戦…小保方氏会見


小保方さんが若い女性研究者だから「注目」されている(叩かれている)というのは、そのとおりです。だから同じ女性研究者として、そのことに怒りを覚えるというならわかりますが、この教授は、小保方さんのためにリケジョに悪影響が出るのを「心配」すると言うのです。まるで小保方さんの対応は、女性研究者にとってはた迷惑だと言わんばかりです。それは、どう考えても本末転倒した考えであり、そこにはいみじくも象牙の塔を成り立たせているムラ社会の古いオキテが露呈されているように思えてなりません。聞きようによっては、どんな仕打ちを受けても文句を言わずに、男たちに唯々諾々と従えばいいんだ、それが女性研究者の生きる道だ、と言っているように受け取れないこともないのです。

STAP細胞問題は、このように翼賛的なマスコミの体質だけでなく、象牙の塔の旧態依然とした体質をも露呈させたと言えるのではないでしょうか。
2014.04.10 Thu l 社会・メディア l top ▲
2014年4月7日 017


別に桜を追いかけたわけではありませんが、栃木の温泉に行きました。都内や横浜では既に葉桜になりかけているところが多いのですが、東北自動車道から北関東自動車道に入って、さらに走りつづけると、満開の桜並木が目に飛び込んできました。

私は、九州の山間の町で育ちましたので、特に山のなかでピンクの花を咲かせている桜が好きです。子どもの頃の田舎の風景を思い出しました。

私は、生まれたのが温泉の町で、高校も別府でしたので、高校を卒業して九州を離れるまで、ほとんど温泉しか入ったことがありませんでした。温泉が当たり前だったのです。だから、こうしてたまに温泉に来て、頭にタオルを乗せ足を延ばして湯船に浸かると、「やっぱり、温泉っていいな」としみじみ思うのでした。

東京の人たちは、とにかく休みになると東京を脱出して、外へ外へと行きたがるのですが(「休みはどっかに行くの?」というのが常套句のようになっていますが)、その気持はよくわかります。たまにそうやって”命の洗濯”をしないと、資本主義末期の超過密都市で会社勤めなどつづけられないのでしょう。また、「人生の楽園」ではないですが、リタイアしたら田舎に住みたいという気持もわからないでもないのです。

途中、道の駅の脇の土手に、タンポポと桜が並んで咲いている場所がありました。こういった風景もなつかしいなと思いました。なんだかなつかしさばかりを追い求めるような一泊二日のささやかな旅でした。
2014.04.09 Wed l 日常・その他 l top ▲
小保方さんの代理人は、明日(4/8)、小保方さんが理研(理化学研究所)の「最終報告」に対する「不服申し立て」を行い、さらに明後日(4/9)、小保方さん自身が大阪市内で記者会見を開くと発表したそうです。

私は、そのニュースを聞いて、ホンマかいなと思いました。小保方さんは、「心身の状態が不安定」で、今日、入院したそうですが、だったらなおさら、どうして記者会見をするのかと思いました。

記者会見などしたら、”私刑ジャーナリズム”の格好の餌食になるのは目に見えています。「言論の自由」の幻想にとらわれて、記者会見で自分の主張を世間に訴えるなんて考えているのなら、それは大きな間違いです。それこそマスコミの罠です。

新潮や文春に優るとも劣らないくらい露骨な”小保方バッシング”をおこなっている朝日新聞は、今日のWEBRONZAでも「STAP細胞と研究不正」というテーマで、はじめから不正ありきの予断と偏見に満ちた特集を組んでいましたが、それは、袴田事件のような冤罪を生み出した報道姿勢とまったく同じと言っていいでしょう。

また今日は、論文の共著者のひとりで、「検証の実施責任者」である理研発生・再生科学総合研究センター(CDB)の丹羽仁史プロジェクトリーダーが記者会見して、論文発表後の2月に3回実験に立ち会い、「目の前でSTAP細胞ができる様子を確認」、STAP細胞の存在を「納得した」と言ってました。

しかし、マスコミの報道は、STAP細胞を確認したことより、「このような事態になったことに深くおわびしたい」と謝罪したことのほうに主眼が置かれているのでした。丹羽氏は、騒動の当初は「根幹は揺るがない」と小保方氏を擁護していたのです。今日の会見でも、訂正論文を出した3月9日の時点でも「正しい」と判断していたと言ってました。しかし、「その後新たな疑義が出たため撤回に同意」し、STAP細胞は「仮説の一つ」にすぎないと見解が変わったと言うのです。つまり、見解が変わったのは、実験の場ではなく、論文がどうのという実験の外においてなのです。そこには抗いたい「空気」がはたらいたからではないかと、私はうがった見方をしたくなりました。

このSTAP細胞の問題は、本来科学的な論争だったはずです。それがマスコミによって佐村河内守氏の問題と同じレベルで扱われ、理研をはじめ専門家たちも(派閥争いや自己保身のために)矮小化の流れに乗ったというのが実情でしょう。その意味では、理研の責任はきわめて重大だと言わねばなりません。

いづれにしても、今の状況では、記者会見してもいいように晒し者にされ、「疑惑晴れず」「いっそう疑惑深まる」「肝心な点をぼかす」とかなんとか言いがかりをつけられるのがオチでしょう。安倍首相のウソには何も言えず、権力をもたない私人には、それこそ「悪意」をもってあることないこと書きまくるのが、新潮や文春や、そして朝日などの”私刑ジャーナリズム”です。そんな”マスゴミ”に「自分のことば」が通じるわけがないのです。どうしてそれがわからないのかと思います。
2014.04.07 Mon l 社会・メディア l top ▲
昨日、このブログに「小保方さん、がんばれ」というキーワードでアクセスしてきた方がいました。

理化学研究所の調査委員会の「最終報告」に対して、小保方さんは、「驚きと憤りの気持ちでいっぱいです。改ざん、捏造と決めつけられたことは承服できない」と強く反発しているそうです。

そりゃそうでしょう。研究仲間の理研だけはわかってくれると思っていたのに、彼らも『週刊新潮』や『週刊文春』のような”私刑ジャーナリズム”に屈して、小保方さんの論文を「不正」「捏造」と決めつけ、”小保方バッシング”に与しているのですから、小保方さんにしてみれば裏切られたような気持ではないでしょうか。それが「驚きと憤りの気持」という表現になっているのだと思います。

小保方さんは、画像や論文の取り違え(コピペ)は「不正の目的も悪意もない」ミスだと言ってますが、しかし、その行為自体は、軽率のそしりは免れず、批判されても仕方ないと思います。ただ、それと研究結果は関係ないのです。「研究結果に変わりはない」と言う小保方さんのことばは、研究者として確信があるからでしょう。

ところが、”私刑ジャーナリズム”の手にかかると、そういった発言すらもバッシングの対象になり、まるで小保方さんは「気が触れた」かのような言い方をするのですが、「気が触れている」のはどっちだと言いたくなります。

実際に、理研も研究結果に対しては、これから1年かけて検証すると言っているのです。だったらどうして「捏造」と決めつけるのか。理研が出した「結論」も矛盾しています。

未知の分野に挑む科学的探究心が世人に理解されないのは、仕方ない面もあります。しかし、同じ科学者がこともあろうに俗情と結託して科学的探究心を否定するなら、それは科学の死を意味するのではないでしょうか。なにがノーベル賞だと野依理事長に言いたい。

仮にSTAP細胞が存在しなかったとしても、小保方さんの研究が否定されるものではないでしょう。結論の如何によって、その科学的探究心が問題にされるならそれは研究の自由の否定です。

この問題を受けて、政府は、理研の「特定国立研究開発法人化」を先送りにしたというニュースがありましたが、理研の「最終報告」は、そういった政治的な動きと関係があるように思えてなりません。

戦争中、軍部と結託して”鬼畜米英”を煽り、国民を戦場に駆り立てた新潮社や文藝春秋社が、今度は”鬼畜中韓”を煽り、再び戦争の旗を振っているのですが、そんな新潮や文春が一方で”小保方バッシング”に狂奔している姿は、このSTAP細胞問題の本質をよく表しているように思います。

ネットには、かのヤン・ヘンドリック・シェーンの論文捏造事件を持ち出して、それと今回の問題がいかによく似ているかというような記事(「論文捏造:STAP細胞論文から考える科学と私たちが抱える根本的問題」)もありましたが、これもバッシングに便乗したこじつけとしか思えません。「専門的なことはわからないけど」と言いながら、まるで集団ヒステリーのように、みんなで水に落ちた犬を叩いているのです。

”小保方さんバッシング”の先に見えるのは、今、この国をおおいつつある全体主義の「空気」です。

>> ”小保方さん叩き”を考えた
2014.04.03 Thu l 社会・メディア l top ▲

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この季節になると、やはり桜を観に行かなければと思うのです。それは、半ば強迫観念のようなものです。

テレビの天気予報によれば、明日は雨と風が強く、この週末まで花がもつかわからないのだそうです。それで、いてもたってもいられず、夕方から野毛・福富町・長者町にかけての大岡川沿いの桜を観に行きました。目黒川か大岡川か迷ったのですが、目黒川だと帰りは帰宅ラッシュの電車に乗らなければならないので、大岡川のほうに決めたのでした。

途中、屋台でタコ焼きや鶏肉の団子のような揚げ物のなんとか焼きを買って、橋の欄干にそれを置き、飲めないビールを飲みながら、しばし川沿いの桜を眺めてすごしました。まわりでも会社帰りのサラリーマンやOLたちが同じように欄干にツマミを並べてささやかな酒宴をひらいていました。そんな光景を見るにつけ、やはりみんな桜が好きなんだなと思いました。

そのあとは、おなじみ野毛の「萬里」で、海老チャーハンと餃子を食べて帰ってきました。

>> 「萬里」の「19番」


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2014.04.02 Wed l 横浜 l top ▲