永続敗戦論


たとえば、産経新聞(フジサンケイグループ)が掲げるナショナリズムは、”対米従属「愛国」主義”とでも言うべき非常に歪んだものですが、このような「親米保守」が依って立つグロテスクな戦後政治の構造を、白井聡氏は、「永続敗戦」と名付けたのでした。

敗戦の帰結としての政治・経済・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続化される一方で、敗戦そのものを認識において巧みに隠蔽する(=それを否認する)という日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の構造が変化していない、という意味で敗戦は二重化された構造をなしつつ継続している。無論、この二重性は相互を補完する関係にある。敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。
(『永続敗戦論』太田出版)


ゆえに、戦前的価値観を保守したい右派の政治勢力は、「戦後」にあっては、産経新聞のように歪んだナショナリズムを掲げざるを得ないのです。

彼らは、国内およびアジアに対しては敗戦を否認してみせることによって自らの「信念」を満足させながら、自分たちの勢力を容認し支えてくれる米国に対しては卑屈な臣従を続ける、といういじましいマスターベーションと堕し、かつそのような自らの姿に満足を覚えてきた。敗戦を否認するがゆえに敗北が無期限に続く──それが「永続敗戦」という概念が指し示す状況である。


著者の白井氏は、「震災・原発事故以来、この国の権力・社会が急速に一種の『本音モード』に入っている」と書いていましたが、そこには「永続敗戦」の露わな姿が出ているように思います。それは、戦後民主主義という擬制であり、「絶対的平和主義」(憲法第9条)という虚構です。その延長にあるのが、「南京大虐殺なんてない」「従軍慰安婦は朝日新聞の捏造で、ただの売春婦にすぎない」というような歴史修正主義としての「敗戦の否認」(=戦争責任の否定)です。白井氏は、「戦前のレジームの根幹が天皇制であったとすれば、戦後のレジームの根幹は、永続敗戦である。永続敗戦とは、『戦後の国体』である」と書いていました。

降伏の英断にしても、巷間言われるように、国民を思って(犠牲を増やさないために)下されたものとは言えないのです。敗戦の半年前の1945年2月、近衛文麿は、戦争の早期終結を訴える文章(いわゆる「近衛上奏文」)を天皇に上奏しているのですが、そのなかで近衛は、つぎのように書いていたそうです。

(略)国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候。
 つらつら思うに我国内外の情勢は、今や共産革命に向かって急速に進行しつつありと存候。


なんと当時の指導者たちが怖れたのは、「共産革命」であり、それによって「国体」が瓦解し消滅することだったのです。そのためには、本土決戦を回避しなければならないと考えたのです。歴史学者の河原宏氏が言うように、降伏の英断は「革命より敗戦がまし」という判断によるものだったのです。

当時の米内光政海軍大臣は、広島・長崎の原爆投下を「天佑」(※天の恵みという意味)と言ったそうですが、それは、原爆投下により本土決戦が回避されることで、「共産革命」の怖れがなくなり「国体」が護持される安堵からだったのでしょう。既にそこから「戦後」という虚妄の時代がはじまっていたと言うべきかもしれません。

”対米従属「愛国」主義”という歪んだナショナリズムは、このように「国体」を護持するために、”昨日の敵”に取り入る屈折した心情が反映されたものです。それは、「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を保障した安保体制を所与のものとする、文字通りの”従属思想”です。しかし、「戦後」にあっては、それが「愛国」になるのでした。

白井氏は、中国の北京にある「中国人民抗日戦争記念館」を訪れた際、見学者のノートに「恥」という文字がもっとも多く書き込まれているのを見て、中国人にとって、日本帝国主義から侵略されたことは「恥ずべき」事柄だったのだということを実感したそうですが、一方、日本の指導者から、戦争に負けたことを「恥」ととらえるような観念はほとんどうかがえません。白井氏は、「通常の思考回路からすれば不思議千万な事柄である」と書いていました。

それは、国民向けの建前とは別に、彼らのなかに真に”誇るもの”がなかったからでしょう。だから、「恥」の観念もないのでしょう。でなければ、あれほど変わり身が早く昨日の敵にすり寄るはずがありません。まさに日本の中心にあるのは”空虚”なのです。坂口安吾も『堕落論』で見ぬいていたように、それが戦前から一貫して変わらない「国体」(=日本の近代)の本質です。

河原宏氏は、本土決戦が回避されたことの”意味”を、つぎのように指摘していたそうです。

日本人が国民的に体験しこそなったのは、各人が自らの命をかけても護るべきものを見いだし、そのために戦うと自主的に決めること、同様に個人が自己の命をかけても戦わないと自主的に決意することの意味を体験することだった。
(『日本人の「戦争」──古典と死生の間で』講談社学術文庫)
※『永続敗戦論』より孫引き


本土決戦になれば、当然さらなる悲劇を招いたでしょう。しかし一方で、本土決戦は、日本人が「自らの命をかけても護るべきもの」を見い出すチャンスであったし、ホントに「護るべきもの」があるのかどうかをみずからに問うチャンスでもあったのです。でも、戦争指導者たちは、「国体」の継続と引き換えに、そのチャンスを潰した、そのチャンスから逃避したのでした。

そう考えれば、「戦後」も戦争を指導した人間たちが、敗戦を「終戦」と言い換えて権力の中枢に居座り、みずからの戦争責任に頬かぶりをしたのはわからないでもありません。しかも、現在、権力の中心にいるのは、その戦争指導者の末裔です。その末裔は、歪んだナショナリズムを掲げ再び戦争を煽っているのです。

「戦後レジームからの脱却」「自主憲法の制定」「日本を、取り戻す!」などというもっともらしいスローガンの一方で、この国の戦後政治が骨の髄まで対米従属であるという現実。「敗戦を否認」し、ナショナリズムを言挙げするために、いっそう対米従属を強化しなければならない背理。それは、「愛国」と「売国」が逆さまになった戦後という時代の背理です。

対米従属は、絶対に脱け出せない底なし沼のようなものです。北朝鮮や中国など仮想敵による”危機”が演出されればされるほど、ますます深みにはまっていくのです。もちろん、それは、没主体的にはまっていくのではありません。みずから進んで主体的にはまっていくのです。そのために、天皇制においても、憲法においても、国防においても、外交においても、建前と本音、顕教と密教、表と裏が必要なのです。それが「永続敗戦」としての戦後政治の構造であり、戦後の”病理”です。

作家の大岡昇平は、芸術院会員への推挽を断った際、その理由について、つぎのように語ったそうです。

 私の経歴には、戦時中捕虜になったという恥ずべき汚点があります。当時、国は”戦え””捕虜になるな”といっていたんですから、そんな私が芸術院会員になって国からお金をもらったり、天皇の前に出るなど、恥ずかしくて出来ますか(『中国新聞』1971年11月28日、記事中の談話)。
※同上孫引き


加藤典洋氏は、『敗戦後論』(ちくま文庫)で、大岡昇平の発言を、責任をとらない戦争指導者に対する「恥を知れ」というメッセージだと書いていましたが、それは先の戦争だけでなく、福島第一原発の事故に対しても、同じことが言えるのではないでしょうか。それらに共通するのは、この国の「恥知らずな」「無責任体系」です。

また、加藤典洋氏は、『敗戦後論』のなかで、次のような大岡昇平の戦後の発言を取り上げていました。

   テレビなんかで、一日の番組の終りで、画面一杯に、日の丸の旗が動くのを見、君が代が伴奏されるのを聞くと、いやな気がする。「逆コース」に対する憤慨なんて、高尚な感情ではない。なんともいえないみじめな気持に誘われるのだ。
   わが家の日の丸は無論、終戦後米袋に化けた。そのうち破れて、その用をなさなくなったから、すててしまった。以来うちには日の丸はない。日本国は再び独立し、勝手な時に日の丸を出せることになったが、僕はひそかに誓いを立てている。外国の軍隊が日本の領土上にあるかぎり、絶対に日の丸をあげないということである。捕虜になってしまったくらいで弱い兵隊だったが、これでもこの旗の下で、戦った人間である。われわれを負かした兵隊が、そこらにちらちらしている間は、日の丸は上げない。これが元兵隊の心意気というものである。(「白地に赤く」一九五七年)


『永続敗戦論』は、反原発集会の挨拶のなかで大江健三郎氏が引用した、「私らは侮辱のなかに生きている」という中野重治のことばからはじまっていますが、「侮辱」ということばがこの「無責任体系」を指しているのは言うまでもないでしょう。それがほかならぬ日本の中心にある”空虚”の内実です。

白井氏が言うように、この国では敗戦においても、「『負けたことの責任』という最も単純明快な責任でさえ、実に不十分な仕方でしか問われなかった」のです。ごく一部の民族主義者を除いて誰も責任をとらずに、みんなで頬かぶりをしたのです。佐藤栄作首相(当時)の密使として沖縄返還交渉に当たり、のちに自著『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』で沖縄核密約の存在を暴露した若泉敬は、そのなかで戦後社会を「愚者の楽園(フールズ・パラダイス)」と呼んだそうですが、まさに「永続敗戦レジーム」とは、頽落した「無責任体系」が辿り着いた(辿り着くべくして辿り着いた)「愚者の楽園」と言えるのかもしれません。そのなかにあっては、ナショナリズムでさえ、あのような歪んだものしかもてないのは至極当然でしょう。


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『愛と暴力の戦後とその後』
2014.08.26 Tue l 本・文芸 l top ▲
安室奈美恵の独立をきっかけに、彼女のスキャンダル記事が週刊誌にいっせいに出ています。これほどわかりやすい話はないでしょう。たとえば、下記の記事などはその典型です。

安室奈美恵 懇意のPとToshl洗脳宗教団体トップとの関係
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140822-00000002-pseven-ent

これは、今までもいやになるほどくり返されてきたおなじみの光景です。タレントが独立すると、どうしてプロダクションとの間でトラブルが生じ、そして、芸能マスコミによってタレントのスキャンダルが報じられ、「タレント生命がピンチ」などと言われるのか。

あろうことか、こういったカラクリを熟知しているはずのあのアクセスジャーナルまでもが、ばらまかれたエサに飛びついているのです。アクセスジャーナルには、ご丁寧に2本の記事がアップされていました。

<芸能ミニ情報>第18回 安室奈美恵独立問題の核心(2014.08.17)
http://www.accessjournal.jp/modules/weblog/details.php?blog_id=6982

これが安室奈美恵、“黒幕”、その家族が“同居”する超高級マンション(2014/08/21)
http://www.accessjournal.jp/modules/weblog/details.php?blog_id=6986

愛人であろうがなんだろうが、そんなことはどうでもいいじゃないかと思います。みずから技芸で生きる芸能人であれば、「独立の思想」をもつのは当然です。パートナーがいれば、損得勘定も入れて、その「独立の思想」を共有するでしょう。それがどうして悪いこと、許されざることなのか。

笠井潔氏は、『日本劣化論』のなかで、「独立生産者の気概と誇り」について、つぎのように言ってました。

会社の一員として、組織を挟んで間接にしか市場と接触できない者は、決して自由になれない。会社の上下関係は恣意的で権力的ですが、市場の論理はより客観的です。市場と勝負しながら生き抜いていくところに、独立生産者の気概と誇りがあります。


それは芸能人とて同じです。フリーのジャーナリストであれば、この「独立生産者の気概と誇り」は痛いほどわかるはずです。なのにどうして、独立VSスキャンダルのミエミエな構図に、いともたやすく乗ってしまうのか。そこにあるのは、「俗情との結託」(大西巨人)であり、”劣化”としか言いようのない”おためごかしの常套句”です。

先日、たまたま目にしたある人気ブロガーのブログにも、同じようにこの”劣化”が露呈していました。彼は、例のNHK特集「STAP細胞 不正の深層」に対して、その内容の粗雑さをなんら検証することなく手放しで絶賛しているのでした。小保方氏が共著者の若山照彦山梨大教授の研究室からES細胞を盗んでSTAP幹細胞をデッチ上げたという、ネットでおなじみの窃盗・捏造説がその最大の根拠です。

彼は、小保方氏を擁護するのは「右翼カルト」で、安倍首相や下村文科相によって、小保方氏の不正を隠す工作がおこなわれていると主張します。さらに、STAP騒動の根本にあるのは、小保方氏と笹井氏の”ただならぬ関係”で、笹井氏は小保方氏との関係を問い詰められた結果、自殺に至ったと推理するのでした。小保方氏のプライバシーを暴くような記事に対しても、理研の職員は「準公務員」で、税金を使って研究をしている「公人」なので、プライバシーを暴かれて当然だというような言い方をしていました。

でも、このような彼の見方は、それこそ「右翼カルト」の週刊新潮や週刊文春や2ちゃんねるのネット住人などが言っていることとそっくり同じなのてす。

一方で、彼は、安倍政権の解釈改憲をファシズムだと批判し、原発再稼動にも反対し、反戦平和を訴えているのでした。もともと彼は、左派・リベラルの立ち位置で、多くの読者の支持を集めているブロガーです。

これこそ笠井潔氏が言う「倫理主義的倒錯」と言うべきでしょう。白井聡氏は、「共産党の体質と封建制の体質はそっくりだ」という堤清二氏のことばを紹介していましたが、左翼も右翼も根っこにあるものは同じなのです。それが白井氏が言う「永続敗戦レジーム」たる戦後の言語・思想空間の構造なのです。

安室奈美恵のスキャンダルも小保方問題も、いみじくもその”劣化”の構造を映し出しているような気がしてなりません。
2014.08.22 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
シリアでイスラム原理主義武装組織・ISIS(イスラム国)に拘束された湯川遥菜氏は、PMCという「民間軍事会社」を経営していたそうですが、ただ、新聞等の報道では会社のサイトはあるものの、事務所はなく経営実体は不明とのことです。ちなみに、PMCという社名は、英語の「民間軍事会社」を意味するPrivate Military Companyの略です。

湯川氏は、10年ほど前までは千葉でミニタリーショップを経営していたらしく、そのときの通販サイトもネットに残っていました(現在は、譲渡先の会社が別の店名で営業しています)。また、PMC社の顧問をしている元自民党茨城県議の話では、以前は「米国や英国から軍事物資を輸入し、自衛隊に納入する仕事に携わっていた」そうです。

一方、湯川氏のツイッターには、「シリアや支那を変えないといけないと思っています」というような政治的な発言もあり、フェイスブックやブログには、田母神俊雄氏とのツーショット写真や都知事選に出馬した同氏を応援するメッセージなども掲載されていました。

しかし、それより私が興味をもったのは、湯川氏が経営していた「民間軍事会社」なるものです。と言うのも、それは、安部政権が推し進める集団的自衛権行使の問題とも関連しており、私たちにとっても他人事ではない問題を含んでいるからです。

集団的自衛権の行使において、もっとも懸念されるのは、民間人が「軍属」として「徴用」され、否応なく戦争にまきこまれることだという指摘があります。どういうことかと言えば、「軍事の民営化」、戦争のアウトソーイングが現代の戦争の特徴だからです。欧米では既に戦争ビジネスは大きな産業となっており、現代の戦争は「軍事の民営化」、「民間軍事会社」をぬきにしては成り立たないと言われるほどです。

「軍事の民営化」には、言うまでもなく膨らむ一方の軍事費を抑制する目的があるのですが、しかしそれだけではなく、戦争の形態が変わってきたことも大きな要因だと言われています。

昔は、戦争と言えば、主権国家同士の総力戦(国民戦争)が基本でした。宣戦布告して、国家総動員体制でせん滅戦をおこなう、文字通り国をあげてやるかやられるか、死ぬか生きるかの戦争でした。それがブロック化し世界大に拡大したのが世界戦争(世界大戦)です。しかし、現代の戦争には、もうそういった宣戦布告も総力戦もありません。

笠井潔氏は、白井聡氏との対談集『日本劣化論』(筑摩新書)のなかで、19世紀は国民戦争、20世紀は世界戦争で、21世紀は「世界内戦」(カール・シュミットの言う「正戦」)が戦争の形態になると言ってました。

「世界内戦」というのは、戦争と呼べないような戦争です。宣戦布告もありません。言うなれば警察が違法行為をおこなう犯罪者を武力で取り締まるような形態の戦争です。もちろん、この場合、警察の役目を担うのは、唯一の超大国(覇権国家)であるアメリカです。「世界内戦」の代表的なものが、対テロ戦争です。でも、アルカイダは国家ではありません。そこにある戦争は、国家対国家の古典的な意味での戦争ではないのです。

笠井 (略)二〇世紀の世界戦争には、交戦団体が国家ではないゲリラ戦という逸脱も含まれていましたが、それでも基調は国家間戦争でした。しかし反テロ戦争では国家間戦争が中心的とは言えない。テロとも戦争とも決めかねる軍事力行使に、これまた国家間戦争ではない反テロ戦争が対抗する。


しかし、その「世界内戦」にしても、様相が変わりつつあるのです。ウクライナやシリアやイラクを見てもわかるとおり、唯一の超大国であったアメリカが、世界の警察の役目を充分果たせなくなっているからです。要するに、アメリカが超大国の座から転落し、世界が多極化しつつあるからです。そのため、イスラム世界を中心に、アメリカを中心とする世界秩序(公法秩序)に反旗を翻す力が噴出し台頭しているのが今の状況です。「世界内戦」は、戦時国際法も及ばないほどより苛烈化し無秩序化しているのです。

私たちは、既に24年前(1990年)の湾岸戦争であたらしい戦争の姿を目にしました。クェートに侵攻したイラクに懲罰を課すため、国連による多国籍軍が組織されたという形態もさることながら、なにより私たちがショックを受けたのは、メディアの報道で目にした戦争の姿です。ハイテク兵器によって「ピンポイント爆撃」がおこなわれる模様が映し出された映像は、さながらシューティングゲームの映像のようでした。そして、ハイテク化はさらに進み、先日のイラク空爆に使われたのは無人爆撃機でした。そこで戦っているのは、アメリカ本国のオフィスで、文字通りゲームでもするかのように、インカムを装着しモニターを見ながら爆撃機を操作している兵士だけです。もちろん、それは別に兵士でなくてもいいわけで、実際にアメリカでは、「民間軍事会社」の社員が操作する場合もあるそうです。

つまり、現代の軍隊で大事なのは、銃をもって戦う前線の兵隊より戦争をプロデュースする司令官(プロデューサー)とそれを実行するために現場をサポートする下士官(ディレクター)です。あとは、テレビ番組の制作と同じように、アウトソーイングすればいいのです。前線に派遣する兵士も、予備役や傭兵のようにいざというときに調達できればそのほうが経済的にも効率がいいのは言うまでもありません。欧米の軍隊では、既に後方支援(兵站)の多くの部分が「民間軍事会社」に委託されているそうです。

『日本劣化論』のなかで、白井聡氏もつぎのように言ってました。

白井 (略)訓練というのは非常にコストがかかるから、なるべく安く上げるためにアウトソーイングする。そこで、訓練を専門にやる会社があります。もちろん、その会社の経営者は元軍人です。そういう人たちは、軍隊の中で出世するよりも起業して民間訓練会社をつくるほうが儲かると考えたわけですね。そういう軍の需要を当て込んだビジネスが増えている。これによって軍事とは何も関係なかった産業が関わりを持つようになってきている。外食産業がその典型です。駐屯地や基地での食事をアウトソーイングするのです。
 さらには、戦闘員ないし準戦闘員(警備員)が民兵(雇われ兵士)になっている。まあ、準戦闘員というのは事実上戦闘員であると言われているのですが。つまり、国民国家の軍隊は国民の軍隊であるというのは、半ばフィクションになってきています。


集団的自衛権行使が現実になり、自衛隊がアメリカの下請けをするようになれば、当然、経費の負担が大きくなりますので、欧米のようにできる限り民間に委託する方向にいくのは間違いありません。そこで必要になるのが、あの見ざる聞かざる言わざるを強制する特定秘密保護法なのです。

「軍事の民営化」がすすめば、私たちもいつ戦争と関わるようになるかわかりません。イスラム過激派に捕われYouTubeにアップされるのは、自衛隊員だけとは限らないのです。私たちがそうなる可能性だって充分あるのです。ISISは、湯川氏のことを「日本のスパイ」と言ってましたが、既にイスラム過激派の間では、日本人も「スパイ」として敵視されるような状況になっていることを忘れてはならないでしょう。能天気にネットで戦争を煽っている場合ではないのです。

集団的自衛権行使が招き寄せる「世界内戦」の時代は、戦争が日常化しより身近になるということです。兵士でなくても戦争の当事者になり、戦場が私たちの生活のなかにまで入り込んでくるということなのです。いつまでも”無責任な傍観者”でいられるわけではないのです。今回の事件は、そんな時代を先取りするものと言えなくもありません。
2014.08.20 Wed l 社会・メディア l top ▲
とうとう笹井芳樹氏の自殺まで生んだSTAP騒動。ジャーナリストの大宅健一郎氏がウェブサイトBusiness Journalで、STAP騒動の異常性をあらためて批判していましたが、一連の報道のなかではめずらしい冷静な意見だと思いました。

Business Journal
NHK、STAP問題検証番組で小保方氏捏造説を“捏造”か 崩れた論拠で構成、法令違反も

大宅氏は、STAP騒動を「デマと妄想で膨れ上がった“狂気のバッシング”」と書いていましたが、たしかに一連の騒動は、「狂気」=「ほとんどビョーキ」と言って過言ではありません。またそれは、今の社会が抱える病理を表しているとも言えます。

大宅氏は、STAP「問題」とSTAP「騒動」は違うのだと言います。STAP「問題」は、STAP細胞を科学的に検証することですが、STAP「騒動」というのは、科学的な検証とは別の場所で、科学的な問題がゴシップとして扱われることです。STAP細胞に関するマスコミ報道の大半は、STAP「騒動」にすぎないのです。

大宅氏は、STAP「騒動」の異常性をつぎのように指摘していました。

 小保方氏の代理人である三木秀夫弁護士が「集団リンチ」と形容したが、「集団リンチ」に加わったのはマスコミだけでなく、本来、科学の自律性を守るべき立場の科学者やサイエンス・ライター、一般人までがその輪に加わり、バッシングを執拗に続けた。理研も小保方氏と笹井氏を守るには十分な対応もせず、小保方氏はNHKの暴力的取材で怪我を負い、その直後に笹井氏は自殺を遂げた。
 
 笹井氏の死後も、小保方氏に宛てた遺書に何が書かれていたか、というゴシップ報道が相変わらず続いている。警察が保管してあったはずの遺書がマスコミにリークされ、日を追ってその内容が少しずつ開示されているというこの異常な状態が、STAP騒動の狂気を物語っている。


「不正」ということばも、一般社会と科学の世界では多少意味合いが異なるのだそうです。一般社会では、「不正」は「自らの利益を優先した悪意ある行為」という意味ですが、科学の世界で使われる「不正」ということばには、「作法に間違いがあった、手続きにミスがあった、という意味でも使用される」のだそうです。

 科学論文の世界では「不正」すなわち「ミス」が見つかることは少なくなく、「不正」の指摘があれば「正し」、さらに検証を受ける、という“手続き”の連続である。それが科学における検証のあるべき姿だ。その結果、再現性がなければ消えていく。科学は、そのような仮説と検証のせめぎ合いで発展してきた。


STAP問題とは、本来、その科学的な立証をめぐる科学論争であったはずなのです(であるべきだったのです)。

世間には、NHKと同じように、小保方氏がSTAP細胞を捏造したと思い込んでいる人も多いようですが、科学の世界でSTAP細胞を捏造してもなんの意味もなく、そもそも捏造なんて動機にすらならないことくらい、少しでも考えればわかるはずです。捏造しても、再現性を科学的に立証しなければならないし、なによりSTAP細胞は生命科学や医療へ応用されなければ意味がないのですから、そんな子どもだましのようなことをしても仕方ないのです。

小保方氏の画像のコピペや加工は、たしかに「不正」で、ほめられたことではありません。研究者として基本的な姿勢に問題があることも事実でしょう。だから、小保方氏自身も批判を受け、「不正」を認めて反省しているのです。しかし、それはあくまで論文を作成する上での作法の「不正」であって、大宅氏が書いているように、STAP細胞の研究そのものを否定することにはならないはずです。仮に研究に疑惑が生じたとしても、再現できるかどうかを検証すればいいだけの話です。STAP問題は、現在、その検証の段階にあるはずです。また、検証の結果、STAP細胞が再現できなかったとしても、研究そのものが否定されるわけではないのです。それは、今後の研究に生かされるはずです。そうやって科学は進歩してきたのでしょう。

ところが、マスコミの手にかかると、その「不正」が絶対的な悪、犯罪まがいの所業みたいに看做され、研究そのものを否定する問答無用の論拠となるのでした。そして、同調圧力によって、本来「不正」の意味を理解しているはずの専門家までが反知性的なバッシングの列に加わり、さらにバッシングは科学論争とは真逆な方向の小保方氏の人格攻撃へとエスカレートしたのでした。

「問題」を「騒動」に貶めたのは、東スポや週刊文春や産経新聞だけでなく、NHKや朝日新聞なども同じです。むしろ、NHKや朝日新聞は、高尚ぶって(そのくせ低劣な根拠で)バッシングしている分、タチが悪いと言えます。

私は、残念ながら問題のNHK特集『調査報告 STAP細胞 不正の深層』(7月27日放送)は見てないのですが、小保方氏と笹井氏の私的なメールを公開して二人の「ただならぬ関係」を匂わしたり、共著者の若山照彦山梨大教授がのちに否定した(この若山教授も今回の問題ではずいぶん人騒がせな存在となっていますが)ES細胞混入説を小保方氏の窃盗というトンデモ話に仕立て上げるなど、その内容はまさに東スポや週刊文春や産経新聞と同レベルの「デマと妄想」のシロモノだったようです。

この「ほとんどビョーキ」の風潮は、STAP騒動だけでなく、たとえば、集団的自衛権行使容認や特定秘密保護法成立の背景になった「中国が日本に攻めてくる」妄想なども同様です。マスコミの報道といい、その構造はSTAP騒動と驚くほどよく似ているのです。それは、「在日が日本を支配する」というネトウヨの妄想と五十歩百歩です。誰もネトウヨのことは笑えないのです。

ゴミの問題が世間を騒がすと、ゴミのことが気になって気になって仕方なくなり、ゴミに対して異常に執着するおっさんやおばさんたちが出てくるのが常です。そんなおっさんやおばさんたちは、四六時中他人のゴミの捨て方に目を光らせ、そのためにみずからストレスをためて、「ほとんどビョーキ」のようになるのですが、あれと同じです。「ほとんどビョーキ」の人たちは、”煽られる人”たちなのです。そうやって全体主義の「空気」が作られていくのです。

追記:
上記の記事のなかで紹介されていましたが、小保方氏の周辺の人たちによって、今回の問題に対するウェブサイトが立ち上げられたようです。この問題を冷静に判断するために(”煽られる人”にならないためにも)貴重なサイトだと言えます。

STAP細胞問題を考える
http://stapjapan.org/
2014.08.16 Sat l 社会・メディア l top ▲
用事があって外に出たら、階段におばあさんが背中を丸めて腰をおろしているのが目に止まりました。外はうだるような暑さです。見ると、横に杖を置き、首にかけたタオルでしきりに汗を拭いていました。私は、もしかしたら熱中症かなにかで具合が悪いんじゃないかと思って、おばあさんに歩み寄り声をかけました。

「大丈夫ですか?」
「あっ、邪魔ですかね?」
「いえ、いえ、そうじゃないんです。具合でも悪いんじゃないかと思って」
「あっ、そうですか。親切にすいませんね」
そう言うと、おばあさんは、頭をぺこりと下げました。

「買い物に行く途中なんですが、ちょっと休ませてもらっているんですよ」
「ああ、そうですか。じゃあ、大丈夫なんですね」
「はい。どうも、すいませんね」
そう言うと、再び頭を下げたのでした。

別に「いい人」ぶるわけではありませんが、お年寄りは明日の自分の姿です。最近は特に、そんな思いを強くもつようになりました。スーパーに来ているお年寄りを見ると、ひとつひとつ値段を確認しながら慎重につつましく買い物をしている姿が印象的です。若い人たちのように、欲求に従って品物をカゴに放り込むといった感じではありません。それは、年金など限られた収入のなかで、やりくりしながら生活しているからでしょう。私も年を取ったら、ああやって生活しなければならないんだろうなと思ったりします。

厚生労働省年金局が発表した「平成23年度 厚生年金保険・国民年金事業の概況」によれば、平成23年度の時点で年金を受給している人の平均月額は、国民年金で54682円(厚生年金の受給権がなく国民年金だけの人は49632円)、厚生年金で152396円だそうです。これでは老後の生活がままらないのは当然でしょう。

一方、同じ厚労省の「国民生活基礎調査(平成25年版)」によると、全世帯の相対的貧困率は16.1%、17歳以下の子どもの貧困率は16.3%で、過去最高だそうです。

相対的貧困率というのは、OECD(経済協力開発機構)によって算出基準が定められており、全世帯の等価可処分所得(所得から税金や社会保険料などを差し引いた手取り額)を世帯員の平方根で割って調整した金額の「中央値」(真ん中の金額)のその半分の金額(「貧困線」)に満たない人がどれだけいるかを表したものです。平成25年(平成24年1年間の所得)の「中央値」は244万円、「貧困線」は122万円でした。

相対的貧困率はあくまでその国の所得格差を示す指標ですが、一方でこれは、6人に1人が年122万円未満(月10万円以下)で生活していることを表しているとも言えるのです。ただ、相対的貧困率で示される金額は子どもも含めた全世帯員の一人当たりの金額ですので、実際の生活状況は家族構成等によって多少異なるでしょう。しかし、単身者(一人世帯)の場合は、掛け値なしにこの金額で生活しているわけですから、「貧困線」より下にいる単身者はとりわけ深刻であると言えます。実際に、国民生活基礎調査にも、等価可処分所得の累積度数分布(所得分布)において、「『大人が一人の世帯員』は、等価可処分所得金額が30万円台から170万円台までに集中した分布になっている」という記述がありました。30万円から170万円と言えば、月に直すと2万5千円から14万円です。「豊かな国」の裏に、このような貧困の現実があるのです。

尚、下記の厚労省のサイトで、相対的貧困率の算出方法ついて詳しく説明しています。

厚生労働省
国民生活基礎調査(貧困率) よくあるご質問

また、ネットには、国際連合が発表した高齢者の貧困率の国際比較というのも出ていました。それによれば、日本は20%で、先進国のなかで4番目に高いのだそうです。ちなみに、アメリカは23%だとか。資料の典拠が示されてないので真偽は不明ですが、国民生活基礎調査の数字を考えると、高齢者の貧困率が20%という話も、満更ウソではないような気がします。これが単身になれば、もっと高くなるでしょう。

自分のことを考えても、厚生年金に10数年加入しているものの、それは若いときですので、年金額の算定基準になる「標準報酬月額」(所得額)はそんなに多くありません。その後は基礎年金(国民年金)だけです。高齢者の貧困問題は、決して他人事ではないのです。

しかも、世界でも稀に見る少子高齢化社会が到来しつつあるなかで、年金をはじめ社会保障自体は逆に後退しているのが現実です。これではますます生活がままならない人が多くなり、貧困率が上がるのは当然でしょう。

国家レベルでも個人レベルでも、もうどうしていいのかわからない。それが現状なのではないでしょうか。テレビ東京の経済ニュースのように、株価がどうのという問題ではないのです。

でも、そうは言っても今日を生きなければならない。生活しなければならないのです。爪に火を灯すような生活のなかで命をつないでいるお年寄りたちの姿は、間違いなく明日の自分の姿でもあるのです。

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『老人漂流社会』
2014.08.10 Sun l 社会・メディア l top ▲
フリージャーナリストの田中龍作氏は、現在、イスラエル軍が侵攻したガザに滞在し、連日、みずからのサイトに、現地で取材した記事をアップしています。今回の滞在でいちばん最初の記事がアップされたのが7月14日でしたので、もう2週間以上、滞在していることになります。

田中龍作ジャーナル
http://tanakaryusaku.jp/

ちなみに、田中氏は、広告やスポンサーに頼らずに、読者のカンパだけで取材活動をおこなっており、今回も「クレジットカードをこすりまくって」(借金して)ガザに来ています、と書いていました。

フリーのジャーナリストが運営しているブログも、大半は新聞などのメディアと同じように、有料会員にならないと記事が読めないシステムになっていますが、田中氏の場合、記事は無料で読むことができるのです。その代わりカンパをしてください、というスタイルをとっているのでした。私は、個人的には田中氏のようなスタイルに共感するものがあります。

田中氏の記事は、新聞やテレビの報道とは違って、戦争の現場の生々しさがひしひしと伝わってくる、臨場感あふれる記事ばかりです。記事からは、ガザの人たちの悲痛な叫びが今にも聞こえてきそうです。そこにあるのは、恐怖と悲しみと憎しみであり、新聞やテレビなど既成のメディにはないリアルな戦争の姿です。

それは、記事だけでなく田中氏が撮った写真も同様です。なかでも私が印象に残ったのは、7月20日の記事「イスラエルはなぜ私たちの子供を殺すのか」に掲載されていた写真です。それは、血まみれの少女が白いビニールシートのようなものに包まれて抱きかかえられている写真で、キャプションによれば、少女は「瞳孔が開き、頭からは脳しょうが飛び出していた」そうです。私は、最初、少女は赤い服を着ていたのかと思ったのですが、そうではなく洋服が血で赤く染まっていたのでした。

このように、目の前で家族や友達が殺されていくのを目にしたパレスチナの子どもたちが、やがてイスラム原理主義組織に入り、テロリストになっていくのを誰がとめられるでしょうか。誰が彼らに「憎しみでは解決しない」と説得できることばをもっているでしょうか。この”憎しみの連鎖”をとめる手立ては誰にもないような気がします。彼らを説得するには、民主主義はあまりにも非力で、そしてあまりにも不誠実なのです。

戦争というのは、自国民保護(邦人保護!)、自衛、抑止力といった大義名分ではじめられるのが常です。「これから侵略します」といって戦争する国なんてどこにもありません。イスラエルだってそうですし、ナチスだって戦前の日本だってそうでした。安倍首相は、集団的自衛権行使の閣議決定後の記者会見で、(集団的自衛権行使は)「日本に戦争を仕掛けようとするたくらみをくじく大きな力になる」と言ってましたが、戦前の指導者も同じようなことを言って戦争をはじめたのです。それにしても、中国や韓国だって、日本に対してここまで挑発的な発言はしていません。この発言には、安倍首相の好戦的な姿勢がよく表れているように思います。私たちは、自分の国の総理大臣に戦争を煽られている、という自覚をどれだけもっているのでしょうか。

高橋源一郎氏は、朝日新聞の論壇時評のなかで、『現代思想』(7月号)の「ロシア」特集に掲載されていた、現代ロシアの作家・リュドミラ・ウリツカヤのつぎのような発言を紹介していました。

朝日新聞論壇時評
「戦争」の只中で 現実はもっと複雑で豊かだ

 リュドミラ・ウリツカヤは、ウクライナからロシアに併合されたクリミアについて書いた文章を、小さいときから夏の数カ月を過ごしたその地の小さな町の思い出から始めている(略)。クリミアは、多くの民族の行き交う場所だった。
 「かつてこの由緒ある地に住んだすべての民族がこの地で平和に暮らせるようになることを願っています……胸に手を当てて言いましょう――私個人としては行政的にクリミアがどの国に属そうと構いません。平和であればいいのです」(略)


また、つづけてロシア・ポーランド文学が専門の沼野充義氏のつぎのような文章も紹介していました。

 沼野充義は、民族主義の高揚の中で(クリミア編入の議会決定に反対したのは上・下院を通じて僅〈わず〉か一人)、いまロシアは「反対だと声を上げたら袋だたきにあってしまう」怖い状況であり、ウリツカヤを筆頭とする、ウクライナの立場も理解しようとするリベラルな作家たちは「売国奴」や「非国民」と攻撃の対象になりつつあるとした。(略)


でも、これはロシアだけの話ではありません。

与党のなかでただひとり集団的自衛権の行使容認の閣議決定に反対した自民党衆議院議員の村上誠一郎氏もまた、ネトウヨたちから「反日」「売国奴」「非国民」と悪罵を浴びせられているのでした。全体主義への暴走は、よその国の話ではないのです。

村上氏は、外国特派員協会の記者会見で、安倍内閣がすすめる”解釈改憲”は、「下位の法律によって上位の憲法の解釈を変えるという禁じ手、やってはいけないこと」で、安倍内閣のやり方は、「立憲主義が崩壊する危険性」につながる、と批判していました。

BLOGOS
集団的自衛権に自民党で一人反対、村上誠一郎議員が会見

また、今の”鬼畜中韓”のきっかけになった尖閣の問題についても、つぎのように言ってました。

(略)尖閣諸島が緊迫した情勢になった理由は二つあると思っております。
一つは、石原慎太郎氏が14億円を集めて、野田首相に国有化しないのは君たちの責任だと煽り立てて、最終的に野田さんが着地点も考えずにやってしまったこと。
もう一つは、安倍さんが、アメリカのバイデン副大統領や皆から中国や韓国と上手くやってくれと頼まれているにも関わらず、靖国神社に行ってしまったこと。
私は石原さんや安倍さんがやったことに対しても、やはりきちっと反省すべき点があるんではないかと思います。


ここには、ヘイトなナショナリズムを煽り、全体主義への道が掃き清められていく、そのカラクリが具体的に語られているように思います。

村上氏によれば、「多くの議員や官僚たちも自らと同じ考えだが、『内閣改造を示唆されていて、人事をちらつかせられたら何も言えない。』『官僚の600の幹部ポストは内閣人事局に握られることになった。官僚は一度左遷されれば戻ってくることはできない』などの理由から反対の声が上げられない状況にある」のだそうです。みんな、おかしいと思いながらずるずると強権的な政治に押しまくられていく。それこそがファシズムへ至る道です。

ときに戦争は、アメリカのように、「自由と民主主義」の名のもとにおこなわれることもあるのです。これでは、誰もパレスチナの子どもたちを説得することはできないでしょう。高橋源一郎氏が言うように、「作家の責務」だけでなく、私たちにもそれぞれ責務があるはずです。

集団的自衛権の行使というのは、私たちが戦争の当事者になるということです。今度は私たちがパレスチナの子どもたちの憎しみの対象になるかもしれないのです。その覚悟がホントにあるのでしょうか。もちろん、ネトウヨのように、汚れ仕事は自衛隊にさせればいいというような、都合のいい(卑怯な)考えが通用するわけがないのは言うまでもありません。

枝野幸男・民主党憲法総合調査会長は、集団的自衛権について、タウンミーティングでつぎのように発言していたそうです。民主党は、集団的自衛権そのものについても、賛否は留保したままで、野党としての存在価値さえ示せないほど落ちぶれ果てていますが(こういう政党は一日も早く潰れたほうが世のため人のためだと思っていますが)、そんな民主党の”悪奉行”でさえこう言っているのです。おそらくそれは、誰も口にしませんが、多くの国会議員たちにも共通する認識なのではないでしょうか。

朝日新聞
「集団的自衛権、必然的に徴兵制に」 民主・枝野氏

 自分の国を自分たちで守ることについてはモチベーションがあるので、個別的自衛権を行使するための軍隊は志願兵制度でも十分成り立つ。しかし中東の戦争に巻き込まれ、自衛隊の方が何十人と亡くなるということが起きた時に、今のようにちゃんと自衛隊員が集まってくれるのか真剣に考えないといけない。世界の警察をやるような軍隊をつくるには、志願制では困難というのが世界の常識だ。従って集団的自衛権を積極行使するようになれば、必然的に徴兵制にいかざるを得ないと思う。(さいたま市のオープンミーティングで)


私たちの目の前にあるのは、”戦争というリアル”なのです。
2014.08.06 Wed l 社会・メディア l top ▲
文学界2014年6月号


柴崎友香「春の庭」が今回(第151回)芥川賞を受賞したので、『文学界』(6月号)に掲載されていた同作品をあたらめて読みました。

この小説の主人公は、世田谷区にある築31年のアパート「ビューパレス サエキⅢ」に住む「太郎」と「西」の二人です。そして、話の軸になるのは、アパートの裏にある「水色の板壁の家」を撮った20年前の写真集「春の庭」です。「春の庭」は、当時「水色の板壁の家」に住んでいたCMディレクター「牛島タロー」と小劇団の女優「馬村かいこ」の夫婦が自分たちの生活を撮影したものでした。

高校3年のときに、「春の庭」を見た「西」は、写真集におさめられた二人の暮らしのスタイルに感動しあこがれたのでした。

 実はその写真集を眺めていたときに、結婚とか愛とかっていいのかもしれない、と初めて思った。写真の中の牛島タローと馬村かいこは、満ち足りて見えた。愛する人とともに暮らすことは楽しそうだ、とあのときほど感じたことはない。


それ以来、「春の庭」に心を引き寄せられた「西」は、後年、引っ越し先を探すために見ていた不動産の賃貸サイトで、「水色の板壁の家」を偶然見つけ、その裏手にある「ビューパレス サエキⅢ」をわざわざ借りたのでした。

アパートの住人や職場の同僚や離れて暮らす家族との小さなエピソード。そのエピソードが織りなす淡々とした日常。そんな日常のなかで、写真集「春の庭」は、いわば太い縦糸の役目を担っています。

希望でもない癒しでもない慰めでもない、もちろん夢でもない。この小説は、そんな凹凸のある感情とは無縁です。強いてあげれば、「太郎」のなかにある孤独くらいです。

味わい深い小説と言えば、そう言えるのかもしれません。しかし、私には、どこかなじめないものがありました。芥川賞の選評がまだ出ていませんので詳細はわかりませんが、このような小説を村上龍や山田詠美がどんな理由で押したのか、私には興味があります(もちろん皮肉ですが)。

先日、テレビで「となりのトトロ」を見ていたら、前回芥川賞を受賞した小山田浩子の「穴」が連想されてなりませんでした。私もうっかりしていたのですが、「となりのトトロ」とよく似ているなと思ったのです。でも、芥川賞の選評では、そういった指摘はありませんでした。芥川賞なんてその程度のものと言ったら言いすぎでしょうか。

「春の庭」に関しては、途中の視点の移動もそんなに「効果的」とは思えませんでしたし、話のなかにちりばめられたメタファーも同様です。たしかに、俯瞰的な風景描写や微細な生物や事物へのこだわりに作者の個性が見えますが、それと話(エピソード)の平板さが「効果的」に接続されているとは言い難い気がします。尻切れトンボのエピソードのその先には、日常の裂け目があるはずなのですが、それがいっこうに浮かびあがってこないのです。

「春の庭」にあるような”文学的なるもの”のその前提をまず疑う必要があるのではないか。奇を衒った実験的な手法を用いていますが、底にあるのはきわめて古い”文学的”なる構造です。

芥川賞は、商業的な意味合いで「新人の登竜門」ではあるのかもしれませんが、必ずしもあたらしい文学の登場をうながすものではないということをあらためて感じさせられた気がします。
2014.08.02 Sat l 本・文芸 l top ▲
長崎県佐世保市で起きた同級生殺害事件の加害生徒の心の闇について、専門家によるさまざまな分析がマスコミに出ていますが、私はそのなかで「純粋殺人」ということばに興味をひかれました。「純粋殺人」というのは、動機はなく、ただ人を殺すことだけが目的の殺人という意味だそうです。

今回の事件に際して、私の頭に浮かんだのは、「理由なき殺人」を描いたカミュの小説『異邦人』と1997年に神戸で起きた連続児童殺傷事件(いわゆる酒鬼薔薇事件)でした。

『異邦人』の主人公のムルソーは、殺人の動機を問われると、「太陽がまぶしかったから」と答え、人々から憎悪を浴び呪詛されるなかで処刑されることを望むのでした。そこにあるのは、神もいない不条理な世界です。

『異邦人』と比較されるのが、19世紀を代表する文学と言われるドフトエフスキーの『罪と罰』です。『罪と罰』の主人公のラスコーリニコクは、金貸しの老婆を殺すために、合理的な理由を懸命にひねり出そうとします。それでもラスコーリニコクは、罪の意識から逃れることはできず、最後は娼婦に身をやつしながらも高潔な精神を失わないソーニャの胸のなかで、みずからの罪を悔いて涙するのでした。そこには間違いなく神がいました。それが19世紀と20世紀の違いなのだと言われたのです。

でも、『異邦人』にしても、『罪と罰』とはまた違った意味で、罪の意識はあったように思います。だから、ムルソーは、見物人から罵倒されるなかで処刑されることを望んだのでしょう。

それに比べれば、酒鬼薔薇事件や今回の事件には、最初から罪の意識は不在のように思えてなりません。たしかに、動機もなく人を殺すことだけが目的だったかのようです。

子どもの頃、私たちもよく仲間内で”小動物”を殺していました。蛇を捕まえてそれを石に叩きつけ、肉片が飛び散るのを楽しんだりしていました。あるいは、捕まえたネズミを水に浸けてもがき苦しみながら絶命するのを笑って見ていました。カエルの肛門に枯草の茎を挿入して、そこから息を吹き込み、カエルの腹を破裂させる競争をしていました。また、中学になると実際に授業でカエルの解剖も行いました。メスで腹を切裂いたときの感触は今でも覚えています。

田舎だったということもあるのでしょうが、”小動物”の死なんて当たり前だったし、それどころか、人の死体を見ることさえあったのです。私が生まれ育ったのは山間の温泉町でしたので、周辺の集落から酒屋や食堂に酒を飲みにやってくる人たちがいました。そんな人たちは、夜遅く、千鳥足で数キロの道を歩いて帰るのですが、途中、道路端で寝込んでしまい、そのまま凍死する人がいたのです。

朝、「人が死んじょるぞ!」と叫びながら、全速力で現場に走って行き、ハァーハァー肩で息をしながら、大人たちに交じって目の前の死体をまじまじと眺めたものです。あの頃は大人たちも「子どもが見るもんじゃない」なんて言わなかったのです。

思春期の頃の自分を考えると、私のなかにも人を殺す誘惑みたいなものはあったように思います。フロイトが言うように、人を殺すんじゃないかとか、人を殺したらどうなるんだろうというような想像は、思春期にありがちなものなのかもしれません。しかし、それは、あくまで心の片隅にある小さな想像にすぎず、自分が突き動かされるほど大きなものではありませんでした。

一方、今回の事件や神戸の事件では、いとも簡単に想像と現実が結びついているのです。「人を殺してみたかった」と言って実際に人を殺しているのです。その情動はどこからきているのか。専門家のように「反社会性人格障害」と言えば、話は簡単でしょう。でも、そんな簡単な話ではないような気がするのです。もっと別の要因もあるのではないか。

神もいない、倫理もない、そんな社会が進んでいくと、こんな「純粋殺人」のようなものが出てくるようになるのかもしれません。なにより、「純粋殺人」が多感な思春期の少年や少女によって行われているということが、この社会や時代の病理を暗示しているように思えてならないのです。彼らの心の闇は、この社会や時代の闇につながっているのではないか。

『異邦人』でも描くことができなかった犯罪が、今、私たちの目の前に提示されているのかもしれません。それに対して、私たちは、為す術もなくただ茫然と立ちすくんでいるというのが実状ではないでしょうか。

私自身は、彼らの心の闇の奥深くに分け入っていけるのは、精神分析や心理学より文学のことばのような気がします。神や倫理の不在に代わるのは、文学しかないように思います。でも、その文学はあまりにも頼りないのです。それどころか、もう文学も成り立たない時代だとさえ言われているのです。『異邦人』に代わるつぎの小説の登場は、望むべくもないのでしょうか。

実体経済の数十倍のバーチャルなお金が、あらたに創造された時間と空間のシステムによって日々世界中をかけまわり、それに翻弄される私たちの社会。そんななかで、個人の存在はあまりにもか弱くてつたないものです。それが現代の寄る辺なき生の実態です。命の実感なんてもてるはずもありません。

私たちは、思春期の少年や少女の「純粋殺人」を、もはや「反社会的人格障害」などということばで解釈してわかったふりをするしかないのかもしれません。彼らの心の闇を解明するには、私たちがもっていることばはあまりにも貧しいのです。
2014.08.01 Fri l 社会・メディア l top ▲