
たとえば、産経新聞(フジサンケイグループ)が掲げるナショナリズムは、”対米従属「愛国」主義”とでも言うべき非常に歪んだものですが、このような「親米保守」が依って立つグロテスクな戦後政治の構造を、白井聡氏は、「永続敗戦」と名付けたのでした。
敗戦の帰結としての政治・経済・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続化される一方で、敗戦そのものを認識において巧みに隠蔽する(=それを否認する)という日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の構造が変化していない、という意味で敗戦は二重化された構造をなしつつ継続している。無論、この二重性は相互を補完する関係にある。敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。
(『永続敗戦論』太田出版)
ゆえに、戦前的価値観を保守したい右派の政治勢力は、「戦後」にあっては、産経新聞のように歪んだナショナリズムを掲げざるを得ないのです。
彼らは、国内およびアジアに対しては敗戦を否認してみせることによって自らの「信念」を満足させながら、自分たちの勢力を容認し支えてくれる米国に対しては卑屈な臣従を続ける、といういじましいマスターベーションと堕し、かつそのような自らの姿に満足を覚えてきた。敗戦を否認するがゆえに敗北が無期限に続く──それが「永続敗戦」という概念が指し示す状況である。
著者の白井氏は、「震災・原発事故以来、この国の権力・社会が急速に一種の『本音モード』に入っている」と書いていましたが、そこには「永続敗戦」の露わな姿が出ているように思います。それは、戦後民主主義という擬制であり、「絶対的平和主義」(憲法第9条)という虚構です。その延長にあるのが、「南京大虐殺なんてない」「従軍慰安婦は朝日新聞の捏造で、ただの売春婦にすぎない」というような歴史修正主義としての「敗戦の否認」(=戦争責任の否定)です。白井氏は、「戦前のレジームの根幹が天皇制であったとすれば、戦後のレジームの根幹は、永続敗戦である。永続敗戦とは、『戦後の国体』である」と書いていました。
降伏の英断にしても、巷間言われるように、国民を思って(犠牲を増やさないために)下されたものとは言えないのです。敗戦の半年前の1945年2月、近衛文麿は、戦争の早期終結を訴える文章(いわゆる「近衛上奏文」)を天皇に上奏しているのですが、そのなかで近衛は、つぎのように書いていたそうです。
(略)国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候。
つらつら思うに我国内外の情勢は、今や共産革命に向かって急速に進行しつつありと存候。
なんと当時の指導者たちが怖れたのは、「共産革命」であり、それによって「国体」が瓦解し消滅することだったのです。そのためには、本土決戦を回避しなければならないと考えたのです。歴史学者の河原宏氏が言うように、降伏の英断は「革命より敗戦がまし」という判断によるものだったのです。
当時の米内光政海軍大臣は、広島・長崎の原爆投下を「天佑」(※天の恵みという意味)と言ったそうですが、それは、原爆投下により本土決戦が回避されることで、「共産革命」の怖れがなくなり「国体」が護持される安堵からだったのでしょう。既にそこから「戦後」という虚妄の時代がはじまっていたと言うべきかもしれません。
”対米従属「愛国」主義”という歪んだナショナリズムは、このように「国体」を護持するために、”昨日の敵”に取り入る屈折した心情が反映されたものです。それは、「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を保障した安保体制を所与のものとする、文字通りの”従属思想”です。しかし、「戦後」にあっては、それが「愛国」になるのでした。
白井氏は、中国の北京にある「中国人民抗日戦争記念館」を訪れた際、見学者のノートに「恥」という文字がもっとも多く書き込まれているのを見て、中国人にとって、日本帝国主義から侵略されたことは「恥ずべき」事柄だったのだということを実感したそうですが、一方、日本の指導者から、戦争に負けたことを「恥」ととらえるような観念はほとんどうかがえません。白井氏は、「通常の思考回路からすれば不思議千万な事柄である」と書いていました。
それは、国民向けの建前とは別に、彼らのなかに真に”誇るもの”がなかったからでしょう。だから、「恥」の観念もないのでしょう。でなければ、あれほど変わり身が早く昨日の敵にすり寄るはずがありません。まさに日本の中心にあるのは”空虚”なのです。坂口安吾も『堕落論』で見ぬいていたように、それが戦前から一貫して変わらない「国体」(=日本の近代)の本質です。
河原宏氏は、本土決戦が回避されたことの”意味”を、つぎのように指摘していたそうです。
日本人が国民的に体験しこそなったのは、各人が自らの命をかけても護るべきものを見いだし、そのために戦うと自主的に決めること、同様に個人が自己の命をかけても戦わないと自主的に決意することの意味を体験することだった。
(『日本人の「戦争」──古典と死生の間で』講談社学術文庫)
※『永続敗戦論』より孫引き
本土決戦になれば、当然さらなる悲劇を招いたでしょう。しかし一方で、本土決戦は、日本人が「自らの命をかけても護るべきもの」を見い出すチャンスであったし、ホントに「護るべきもの」があるのかどうかをみずからに問うチャンスでもあったのです。でも、戦争指導者たちは、「国体」の継続と引き換えに、そのチャンスを潰した、そのチャンスから逃避したのでした。
そう考えれば、「戦後」も戦争を指導した人間たちが、敗戦を「終戦」と言い換えて権力の中枢に居座り、みずからの戦争責任に頬かぶりをしたのはわからないでもありません。しかも、現在、権力の中心にいるのは、その戦争指導者の末裔です。その末裔は、歪んだナショナリズムを掲げ再び戦争を煽っているのです。
「戦後レジームからの脱却」「自主憲法の制定」「日本を、取り戻す!」などというもっともらしいスローガンの一方で、この国の戦後政治が骨の髄まで対米従属であるという現実。「敗戦を否認」し、ナショナリズムを言挙げするために、いっそう対米従属を強化しなければならない背理。それは、「愛国」と「売国」が逆さまになった戦後という時代の背理です。
対米従属は、絶対に脱け出せない底なし沼のようなものです。北朝鮮や中国など仮想敵による”危機”が演出されればされるほど、ますます深みにはまっていくのです。もちろん、それは、没主体的にはまっていくのではありません。みずから進んで主体的にはまっていくのです。そのために、天皇制においても、憲法においても、国防においても、外交においても、建前と本音、顕教と密教、表と裏が必要なのです。それが「永続敗戦」としての戦後政治の構造であり、戦後の”病理”です。
作家の大岡昇平は、芸術院会員への推挽を断った際、その理由について、つぎのように語ったそうです。
私の経歴には、戦時中捕虜になったという恥ずべき汚点があります。当時、国は”戦え””捕虜になるな”といっていたんですから、そんな私が芸術院会員になって国からお金をもらったり、天皇の前に出るなど、恥ずかしくて出来ますか(『中国新聞』1971年11月28日、記事中の談話)。
※同上孫引き
加藤典洋氏は、『敗戦後論』(ちくま文庫)で、大岡昇平の発言を、責任をとらない戦争指導者に対する「恥を知れ」というメッセージだと書いていましたが、それは先の戦争だけでなく、福島第一原発の事故に対しても、同じことが言えるのではないでしょうか。それらに共通するのは、この国の「恥知らずな」「無責任体系」です。
また、加藤典洋氏は、『敗戦後論』のなかで、次のような大岡昇平の戦後の発言を取り上げていました。
テレビなんかで、一日の番組の終りで、画面一杯に、日の丸の旗が動くのを見、君が代が伴奏されるのを聞くと、いやな気がする。「逆コース」に対する憤慨なんて、高尚な感情ではない。なんともいえないみじめな気持に誘われるのだ。
わが家の日の丸は無論、終戦後米袋に化けた。そのうち破れて、その用をなさなくなったから、すててしまった。以来うちには日の丸はない。日本国は再び独立し、勝手な時に日の丸を出せることになったが、僕はひそかに誓いを立てている。外国の軍隊が日本の領土上にあるかぎり、絶対に日の丸をあげないということである。捕虜になってしまったくらいで弱い兵隊だったが、これでもこの旗の下で、戦った人間である。われわれを負かした兵隊が、そこらにちらちらしている間は、日の丸は上げない。これが元兵隊の心意気というものである。(「白地に赤く」一九五七年)
『永続敗戦論』は、反原発集会の挨拶のなかで大江健三郎氏が引用した、「私らは侮辱のなかに生きている」という中野重治のことばからはじまっていますが、「侮辱」ということばがこの「無責任体系」を指しているのは言うまでもないでしょう。それがほかならぬ日本の中心にある”空虚”の内実です。
白井氏が言うように、この国では敗戦においても、「『負けたことの責任』という最も単純明快な責任でさえ、実に不十分な仕方でしか問われなかった」のです。ごく一部の民族主義者を除いて誰も責任をとらずに、みんなで頬かぶりをしたのです。佐藤栄作首相(当時)の密使として沖縄返還交渉に当たり、のちに自著『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』で沖縄核密約の存在を暴露した若泉敬は、そのなかで戦後社会を「愚者の楽園(フールズ・パラダイス)」と呼んだそうですが、まさに「永続敗戦レジーム」とは、頽落した「無責任体系」が辿り着いた(辿り着くべくして辿り着いた)「愚者の楽園」と言えるのかもしれません。そのなかにあっては、ナショナリズムでさえ、あのような歪んだものしかもてないのは至極当然でしょう。
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