上原多香子の夫が自殺したニュースに関連して、私のブログにも「上原多香子 関東連合」「上原多香子 西麻布迎賓館」というキーワードでアクセスしてきた人が何人かいました。おそらく、1年前に書いた「
上原多香子の名誉毀損」という記事が、そのようなキーワードでヒットしたからでしょう。
「ネットは悪意の塊」というのはまさに至言で、ネットには、人の不幸をこういった視点でしか見ることができない人間が(それも少なからぬ数)いるということなのでしょう。
でも、忘れてはならないのは、彼らはみずから検証するデータも知識も知能ももってない情弱な人間であるということです。ネットにおいては、「悪意」というのは「無知」と同義語なのです。そして、そんな彼らこそ”煽られる人”でもあるのです。
週刊文春は、こういった悪質な記事を数多く捏造してきました。そんな文春が朝日の誤報を口を極めて罵っているのですから、開いた口が塞がらないとはこのことでしょう。誰かが言っていたように、人殺しがコソ泥を罵倒しているようなものです。
もちろん、それは、文春だけではありません。新潮も読売も産経も同様です。むしろ、彼らの誤報&捏造は朝日の比ではありません。朝日バッシングが官邸主導の周到に用意されたシナリオに基づいておこなわれているという見方もありますが、今のメディア状況では、そのカラクリがあきらかにされることはないでしょう。
ここぞとばかりに、朝日バッシングをくり広げている産経新聞や読売新聞ですが、森達也氏が「
リアル共同幻想論」(ダイヤモンドオンライン)で書いているように、産経や読売も過去に同じように「吉田証言」を記事にしているのです。
産経新聞は、1993年に「人権考」というタイトルで、「吉田証言」を大きくとり上げ、そのなかで、「被害証言がなくとも、それで強制連行がなかったともいえない。吉田さんが、証言者として重要なかぎを握っていることは確かだ」(『加害 終わらぬ謝罪行脚』)と書いているそうです。しかも、その企画によって、産経新聞大阪本社「人権問題取材班」は、第1回坂田記念ジャーナリズム賞を受賞しているのです。また、読売新聞も、1992年8月15日の夕刊で、「百人の朝鮮人女性を海南島に連行した」という吉田氏の発言を紹介しているそうです。
それどころか、産経新聞には、編集局長(当時)の山根卓二氏がKGBのスパイだったという驚くべき過去さえあるのです。旧ソ連の諜報機関・KGBのエージェントで、のちにアメリカに亡命したスタニスラフ・レフチェンコが、1982年に米下院情報特別委員会で、山根氏の実名をあげて証言しているのです。
リテラ編集局長がKGBのスパイだった!? 産経が頬かむりする「売国」的過去産経や読売が頬かむりをして、朝日を叩いている図は、敗戦を「戦後」と言い換えて、みずからは責任を取らず、卑屈なまでに”昨日の敵”に取り入った戦争指導者とよく似ています。それはなにより、「愛国」と「売国」が逆さまになった「戦後」という時代の背理を体現しているとも言えるのです。
今や朝日新聞は、慰安婦の存在自体を否定するカルトな歴史修正主義者たちの格好の餌食となり、ほとんどサンドバック状態と化していますが、しかし、ここに至ってもなお、田原総一郎ら社外の有識者による第三者委員会を立ち上げ「検証」作業をおこなうというのです。一体なにを「検証」するつもりなのでしょうか。これからはリスクが伴う調査報道を避けて、記者クラブの発表により特化した報道に心がけますとでも言って、”反省のポーズ”をとるつもりなのでしょうか。
取材に誤報は付き物です。記者クラブが存在せず、調査報道が主体の欧米の新聞は、それこそしょっちゅう誤報&訂正をくり返しているそうです。朝日だけでなく、産経も読売もどこも誤報を犯しています。まして文春や新潮は、誤報どころではなく、上原多香子の記事のように、確信犯的に俗情と結託した「私刑」の記事を捏造しているのです。
私は、欧米の新聞のように、「はい、訂正しました。これでおしまい」と、どうして言えないのかと思います。「愛国心はならず者の最後拠り所」(A・ピアス『悪魔の辞典』)なのです。「誤報なんていくらでもあるじゃないか」「お前たちだって同じことをやっているじゃないか」と開き直るくらいの気概がなければ、ますます付け込まれ、要求がどんどんエスカレートするだけでしょう。今のようにカルトが跋扈して、「戦争前夜」(半藤一利氏)のような状況を招いているその責任の一端は、朝日の姿勢にもあるのではないでしょうか。
私は、この国の政治が加速度的に右旋回(カルト化)するその梃子の役割を担っている(担わされている)ところに、朝日新聞の”罪”があるのだと思います。それは、朝日の官僚的な体質と危機管理のなさによるものですが、今の経営陣にその自覚があるとはとても思えません。彼らがやろうとしているのは、きわめて官僚的で姑息な対応でしかありません。そして、彼らはみずからの責任を偽装するために、(これまた戦争指導者と同じように)「無条件降伏」というジャーナリズムの死を選択しているように思えてならないのです。
朝日新聞の経営陣は、朝日のコアな読者が「誤報」問題をどう考えているかということがまるでわかってないのではないか。コアな読者が失望したのは、「誤報」そのものより、あとの対応とその姿勢に対してなのです。