母親の容態が悪化したというので、朝いちばんの飛行機で九州に帰りました。

母親は、末期ガンのためホスピス専門の病院で緩和ケアを受けていました。その病院は、街外れの丘の上の1500坪の敷地のなかにある24床の小さな病院で、とても静かな時間が流れている病院らしくない病院でした。入るとすぐラウンジがあり、そこにはピアノが置かれていました。壁にはフジ子ヘミングの版画が何点か掛けられていました。

病院は全室個室で、板張りの広い廊下の途中に母の病室がありました。病室に入ると、酸素吸入のマスクが装着された母が寝ていました。私は、その姿を見て一瞬立ち止りました。あまりの変わりように戸惑ったのでした。私のなかには、張りのある声でおしゃべりをし元気に動き回っていた若い頃の母の姿しかないのでした。

母に近づき、頬に手を当て声をかけると、「ウー、ウー」とうめき声をあげました。妹が私の名前を告げて「帰ってきたよ」と言うと、再び「ウー、ウー」とうめき声をあげていました。

母の担当の看護師さんがやってきて、「お帰りなさい、お母さんが待ってましたよ」と言われました。そして、「あとで先生からお話がありますのでお待ちください」と言われました。

それぞれの病室にはベランダが付いているのですが、ふと、ベランダのほうに目をやると、レースのカーテン越しに板塀に囲われた庭が見渡せ、冬の弱い日差しのなかで小さな白い花が風にゆれていました。母は病室から眺めるこの景色が好きだといつも言っていたそうです。

姉や妹たちは、母は「幸せよ」と言ってました。認知症を患うこともなく、末期ガンが発見されるまで元気に独り暮らしをしていたのです。ホスピスに入ったのも、たまたまベットが空いていたので「とてもラッキーだった」と言ってました。知り合いやタクシーの運転手さんからも「いいところに入りましたね」と言われたというのです。そして、看護師さんたちがホントに親身になってケアしてくれ、自分たちが如何に感謝しているかということを私に切々と話すのでした。私は、彼女たちの話を聞いて、「よかったな」と思いました。

しばらくすると、エプロンをした女性の方が病室にやってきて、「お茶の用意ができましたので、ラウンジのほうへどうぞ」と言うのです。なんでも「お茶の時間」というのがあって、患者や家族のためにお茶を用意してくれるらしいのです。

ラウンジに行くと、ボランティアの人たちなのでしょう、数人のエプロンをした女性の方がいて、「なにがよろしいでしょうか?」と注文を取りにきました。私は、コーヒーを頼みました。

ラウンジには、車椅子に座った40~50代くらいの若い患者さんも来ていました。聞けば、末期ガンだけでなく、難病など不治の病におされた方たちも残された時間をそこで過ごしているのだそうです。

死を前にした時間。それはとても清冽で、そして静謐な時間です。ひとつひとつの物事がゆっくりとその意味と意義を語っているかのようです。私たちは、そんな時間のなかに生きているんだということをしみじみと感じました。

もしかしたら経営的には困難を伴うかもしれない「独立型ホスピス」という終末期医療の”あるべき姿”を実践している病院の院長は、50代半ばのいつも笑みをたたえた温和な表情のドクターでした。

「お母さんはとても上品な方で礼儀正しくて私たちが恐縮するくらいです」「最初、『ポータブル便器を使ってください』と言っても遠慮してなかなか使ってくれなくて、自分でトイレに行ってました」

横に座った担当の看護師さんと二人で、そんな母に関するエピソードを話してくれました。そして、「ホントによくがんばっていましたが、ご家族がそろったので安心したのか、血圧も下がってきました」「おそらく今夜か明日が山場だと思います」と言われました。

姉や妹たちは涙を流して先生の話を聞いていました。でも、私は不思議と涙が出てきませんでした。自分でも驚くくらい冷静に先生の話を聞いていました。

「おそらくこのまま痛みも苦しみもなく自然に息をひきとることができると思います」「それまで皆さんでお母さんを見守ってあげてください」と言われました。背後からは姉や妹たちのすすり泣く声が聞こえていました。

そのあと、担当の看護師さんから、死の間際にはどんな症状を示すかという説明がありました。

私は、先生の話を聞いたあと、仮眠をとるために、2階にある「家族部屋」に行きました。しかし、ひとりになるとたまらず悲しみに襲われ、涙があふれてきました。

一方で私は、悲しみを打ち消すかのように、病院に来て「感動」したことを反芻していました。まず、妹のことです。妹がこんなに献身的に母親の面倒を見ていたとは知りませんでした。それは、想像以上でした。そもそもきょうだいでありながら、妹にそんな一面があることすら知らなかったのです。もうひとつは、ホスピスのことです。前も書きましたが、誰にも看取られずに「福祉専門」の病院で亡くなっていく人も多いなか、手厚い看護が施され人間の尊厳が保たれて最期を迎えることができるというのは、たしかに姉や妹たちが言うように、なんと「幸せ」なんだろうと思いました。私は、先生が口にした「自然に」ということばをあらためて思い浮かべました。

「家族部屋」の窓から外を見ると、そこには冬の午後の山里の風景がありました。以前はこのあたりはみかん畑だったそうです。そのため、病院の下の道路からは、私たちが隣町の高校に通っていた頃、坂道の途中からいつも見ていた同じ海が見渡せるのでした。私は、この風景を見るのもこれが最初で最後なんだなと思いました。

翌日、母は文字通り眠るように静かに息を引き取りました。



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『33年後のなんとなく、クリスタル』では、『なんとなく、クリスタル』で暗示された高齢化社会の現実が登場人物たちの会話のなかにも出てきますが、私のまわりでも、みんな大なり小なり親の高齢化や介護の問題を抱えています。老人福祉施設に入っている親も多く、親が亡くなったという話もよく聞くようになりました。

友人のなかには、老いた親の面倒を見るために仕事を辞めて田舎に帰った者もいます。施設に面会に行っても、認知症になった母親はもう自分のことがわからなくなっていて、そんな親の顔を見るのがつらいよというような話を聞くと、昔、友人の家に遊びに行ったらいつも笑顔で歓待してくれたお母さんの顔が思い出されて、せつない気持になります。あの頃、私たちの親はみんな若くて元気でした。

かく言う私の母親も末期ガンのためホスピス病棟に入院しているのですが、いよいよ危ないという連絡がありました。話すことはできないけどまだ意識はあるというので、意識があるうちに最後に声をかけておきたいと思い、近日中に帰省する予定です。

これはよくある人生の風景(出来事)です。でも、ひとりひとりにとっては、切実な個別具体的な出来事なのです。それは、死だけでなく仕事も恋愛も結婚も同じでしょう。私たちが生きている場所は、きわめて凡庸な場所です。しかし、その凡庸さのなかにひとりひとりの個別具体性があるのです。凡庸を凡庸で終わらせるのではなく、そういった凡庸な場所に、個別具体性をどれだけ浮かび上がらせることができているかが私にとっての”いい小説”、感動する小説の条件です。

陳腐な言い方ですが、人生はなんと哀しくてせつないんだろうと思います。私たちは、黄昏のなかで、生きる哀しみやせつなさとしっかり向き合うことが大事なのだとしみじみ思います。私たちの苦悩は、そんな凡庸な場所にしかないのですから。しょうがない。そう自分に言い聞かせている自分がいます。

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33年後のなんとなく、クリスタル


田中康夫の新作『33年後のなんとなく、クリスタル』(河出書房新社)を読みました。また、この機会に、『なんとなく、クリスタル』(河出文庫)も読み返してみました。

『なんとなく、クリスタル』が刊行されたのは1981年で、私がこの作品を最初に読んだのは、まだ九州にいた頃です。そのためか、当時はそれほどの感銘は受けませんでした。もちろん、メディアでは大きな話題になりましたが、田舎暮らしの私にはピンときませんでした。

私が再度上京して、六本木にあるポスターやポストカードを輸入する会社に勤めはじめたのは1986年で、『なんクリ』から5年後のことです。それで、今あらためて『なんクリ』を読むと、最初に読んだときとまるで違った印象がありました。主人公の由利は、青学に通いながらモデルの仕事をしているのですが、当時、私もモデルをしていたガールフレンドがいて、六本木や青山界隈でよく遊んでいましたので、『なんクリ』のような”時代の気分”と無縁ではありませんでした。しかし、やがてバブルが崩壊し、社会の様相は一変します。

『なんクリ』は、大学のテニスクラブの仲間と一緒に表参道をランニングする由利のつぎのようなシーンで終わります。

 私は、クラブの連中と一緒に走り出した。早苗も私の横で掛け声を出しながら走っている。
 青山通りと表参道との交差点に近付いた。
 ちょうどその時、交差点のところにある地下鉄の出口から、品のいい女の人が出てくるのが見えた。シャネルの白いワンピースを、その人は着ているみたいだった。フランスのファッション雑誌に載っていた、シャネルのコレクションと同じものだったから、遠くからでもすぐにわかった。
 横断歩道ですれ違うと、かすかにゲランの香水のかおりがした。
 三十二、三歳の素敵な奥様、という感じだった。
 <あと十年たったら、私はどうなっているんだろう>
 下り坂の表参道を走りながら考えた。
(略)
 私は、まだモデルを続けているだろうか。
 三十代になっても、仕事のできるモデルになっていたい。

 <三十代になった時、シャネルのスーツが似合う雰囲気をもった女性になりたい>
 私は、明治通りとの交差点を通り過ぎて、上り坂になった表参道を走り続ける。
 手の甲で額の汗をぬぐうと、クラブ・ハウスでつけてきた、ディオリッシモのさわやかなかおりが、汗のにおいとまざりあった。


ところが、小説が終わったあと、つぎのページに唐突に、「人口問題審議会・出生力動向に関する特別委員会報告」の合計出生比率(一人の女子が出産年齢の間に何人の子供を産むかという比率)の予想値と、「五十四年度厚生行政年次報告書(五十五年度厚生白書)」の六十五歳以上の老年人口比率と厚生年金保険料の予想値が添付されているのでした。

『33年後のなんとなく、クリスタル』は、字義通りその33年後の話です。ただ、『33年後』には、『なんクリ』にはいなかった「僕」=「ヤスオ」が登場します。その「僕」がFacebookで由利と久しぶりに再会するのでした。

『33年後』と『なんクリ』の違いは、「僕」=「ヤスオ」の登場だけではありません。『なんクリ』で話題を呼んだ「注釈」もかなり違っています。『なんクリ』のそれは、東京の最先端の風俗を批評するものでしたが、『33年後』のそれは、社会・政治的な事柄に関するものが多く含まれていました。そこには、言うまでもなく『なんクリ』以後、阪神大震災のボランティアを経て政治の世界に足を踏み入れた著者の体験が反映されているのでしょう。

私は、『なんクリ』の解説(河出文庫版)で高橋源一郎が書いているように、現代風俗を批評することをとおして爛熟した資本主義社会の現在(いま)を対象化した作者の姿勢に共感するところがありますし、その「注釈」の真骨頂とも言うべき『噂の真相』に連載されていた「東京ペログリ日記」を愛読していましたので、『33年後』の”生真面目さ”に対しては、どこか違和感を覚えざるをえませんでした。

既に50代後半になった『なんクリ』の登場人物たち。私は、もう一度、初老の域に入った「ペログリ日記」を読みたいと思いました。高橋源一郎は、解説のなかで、『なんクリ』はマルクスの「資本論」に比肩するような書物だと書いていましたが、私は、「ペログリ日記」こそ永井荷風の「断腸亭日乗」に比肩するような日記文学の傑作になるように思うのです。

出生率は政府の甘い予想をあざ笑うかのように低下の一途を辿り、少子化が進んでいます。また、一方で、老年人口比率は急カーブを描いて上昇し、超高齢化社会を迎えています。

私が現在住んでいる東横線沿線の街でも、平日の昼間の商店街の舗道は老人の姿が目立ちます。カートを押して背を丸めおぼつかない足取りで舗道を歩いている老人たち。三つある商店街のひとつは既に解散し、街灯の管理をどうするか頭を悩ましているそうです。それが、かつてANAの女子寮があった街の現在の姿です。

 <あと十年たったら、私はどうなっているんだろう>と思っていた由利は、33年後、つぎのように言います。

「『微力だけど無力じゃない』って言葉を信じたいの」。醍醐での由利の科白が頭を過る。
「黄昏時って案外、好きよ。だって、夕焼けの名残りの赤みって、どことなく夜明けの感じと似ているでしょ。たまたま西の空に拡がるから、もの哀しく感じちゃうけど、時間も方角も判らないまま、ずうっと目隠しされていたのをパッと外されたら、わぁっ、東の空が明るくなってきたと思うかもしれないでしょ」
 由利は悪戯っぽく微笑んだ。


いくら中国や韓国に対して意気がってみせても、日本がたそがれていく国であることには変わりがありません。私たちは、もっとその事実を直視すべきではないか。誤解を恐れずに言えば、絶望することの意味を知る必要があるのではないか。自分の人生を含めて、もっと生きる哀しみやせつなさを大事にすべきではないか。

武田泰淳は、『目まいのする散歩』(1976年)のなかで、最新のファッションで表参道を闊歩する若者たちを見て、「何と沢山の苦悩が、そのあたりの空気に浮遊していることだろう」と書いていましたが、そうやって表参道を闊歩していた若者たちも、もう60歳前後です。そのうち「高齢化」と「貧困」の苦悩を背負うことになるはずです。時は容赦なくすぎていくのです。

背を丸めおぼつかない足取りで舗道を歩く自分の姿なんて想像したくもないですが、それも遠い先の話ではないのです。老いることは、たしかにたそがれることかもしれませんが、しかし、この小説が書いているように、「誰(た)そ彼」=黄昏にも静かに時を見つめるロマンティックな響きだってあるのです。あるはずなのです。
2014.12.12 Fri l 本・文芸 l top ▲
先日、みのもんたがテレビ東京の対談番組に出ていましたが、そのなかで「自民党単独300議席超えの可能性」という選挙予想について、「唖然としました」「こんなことを許していいのですか」と言ってました。また、俳優の宝田明氏が、NHKの番組で、「選挙で戦争をしようとする人ではなく、そうでない人を選ぶことが大事」「声を大にして言いたい。戦争を起してはいけない」と発言したことが話題になっています。先日亡くなった菅原文太氏も、反戦・反原発のスタンスを明確にしていました。しかし、追悼記事では、そういった側面がいっさい無視されていました。

彼らの勇気ある(?)発言の背景には、「戦争政治」へひた走る安倍政権に対する危機感があるのでしょう。しかし、そんな彼らの危機感をいちばん裏切っているのが野党なのです。300議席超えはともかく、選挙結果は既に見えている気がします。自民党に対抗し得る野党が不在なのですから、自民党が勝つのは当たり前でしょう。

野党の政策を見ると、基本的には自民党の政策と五十歩百歩で、とても野党(対立軸)としての存在価値はありません。チャンスがあれば公明党の代わりに連立の席に座りたいと思っているような政党ばかりです。なんだか自民党をめぐる恋のツバ競り合いを演じているような感じさえします。「どこがなっても変わらない」という無関心層の常套句は、真実を衝いているとも言えるのです。

民主党に至っては、いつの間にか執行部に岡田・枝野・福山・川端といった政権を崩壊させた昔の名前が戻っていますが、国民には悪夢がよみがえるような顔ぶれでしょう。これで「今こそ、流れを変える時」なんて悪い冗談だとしか思えません。そもそも今の流れをつくったのは、民主党(政権)なのです。

自民党の独り勝ちは、メディアの予想を待つまでもなく、最初から約束されたも同然なのです。民主党をはじめ野党は、自民党を勝たせるためだけに存在していると言っても過言ではないでしょう。

一方、野党不在のなかで、反自民票が流れる(と予想される)共産党は議席を倍増するのではないかと言われており(と言ってもせいぜい20議席どまりですが)、志位和夫委員長も「風が吹いていることを実感している」と言ってました。300対20で「風が吹いている」? 如何にも独善的なこの政党にふさわしい発言で、おめでたいと言うしかありません。

今回の選挙は茶番です。1993年の細川政権誕生からはじまった一連の政界再編は、”壮大なるウソ(反動)”でしかなかったのです。それは、無限に「第二自民党」を生み出す詐術でしかなかった。政権再編が自民党への先祖返りに機能するのは当然なのです。その象徴が民主党の存在です。

この国の政党政治(議会制民主主義)が一連の政界再編の延長上で弥縫され糊塗される限り、自民党独裁は微動だにしないでしょうし、半永久的につづくでしょう。そもそも自民党か民主党か(あるいは与党か野党か)という選択肢自体が茶番でしかないのです。この国にとって自民党政治というのは、『永続敗戦論』が喝破したように、単なる政党のレベルにとどまらず、対米従属という戦後占領体制が生み出した「制度」ですらあるのです。

棄権するのは白紙委任をするようなもの、投票に行かない人間に政治を語る資格はない、というような恫喝めいた言説がありますが、でも、「積極的投票拒否の思想」というのがあってもいいはずです。津田大介やいとうせいこうや北田暁大ら能天気な民主主義者が唱える「とにかく選挙に行こう」論は、思考停止の最たるものです。彼らは、この国がとっくにタガが外れているという認識がないのではないか(それが彼らが能天気であるゆえんです)。吉本隆明の「昼寝のすすめ」ではないですが、私も(顰蹙をかうのは承知の上で)選挙に行かずに昼寝をしたいと思っています。

今、この国に必要なのは、”絶望”することではないでしょうか。「あきらめない」などと言って、いたずらに選挙幻想を煽るのではなく、徹底して”絶望”すること、そこまで行かなければもはやなにもはじまらないように思うのです。

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「政権交代」
2014.12.08 Mon l 社会・メディア l top ▲
仕事が忙しくて、ブログの更新も遅れてしまいました。

この間、12月3日には、ろくでなし子さんの「再逮捕」という出来事がありました。7月に逮捕された際の容疑は、3Dプリンターで出力するための、自分の女性器をスキャンしたデータを配布した「わいせつ電気的記録媒体頒布罪」でした。今回は、それ以外に「わいせつ物公然陳列罪」の容疑が加わっています。

「わいせつ物公然陳列罪」というのは、みずから石膏で制作した女性器を、北原みのり氏が経営するアダルトショップに2013年10月~2014年7月の間、展示した容疑です。そして、北原氏も展示するのに共謀したとして同容疑で逮捕されたのでした(北原氏は昨日釈放)。

警察のやり方に対しては、以下のリテラの記事に、その問題点がまとめられていますが、なにより今回の「再逮捕」の特徴は、ワイセツ云々以前に、「オレたちを甞めたら許さんぞ」という警察による「報復」の色合いが濃いことです。

リテラ
ろくでなし子また不当逮捕!今度は警察の横暴を暴露したマンガへの報復?

私は、今回の逮捕に際して、ローラの父親の「再逮捕」や大人数の機動隊を動員して行われた京大熊野寮の捜索が連想されました。

ローラの父親の「再逮捕」については、最初の逮捕で処分保留で釈放された際、テレビカメラの前でクルクルパーのようなおどけた態度を見せたことが捜査員の逆鱗に触れ、「再逮捕」に至ったのだという報道がありました。一方、京大熊野寮の捜索が、京大構内で情報収集をおこなっていた京都府警警備部の公安刑事が学生に取り押さえられ、学内に監禁されて詰問されたことに対する「報復」であるのは、誰の目にもあきらかでした。

警察が行使するのは、言うまでもなく公権力です。警察官は公務員です。公僕なのです。「報復」などという私情で公権力を行使するなどあってはならないことです。

しかし、ローラの父親の「再逮捕」でも、警察の恣意的な判断によって公権力が行使されることの問題点を指摘するメディアは皆無でした。京大熊野寮の捜索も然りです。それどころか、朝日新聞と産経新聞は、京大が中核派の拠点であるかのような記事を書いて、公安警察の「報復」にお墨付けを与える始末でした。もちろん、京大が中核派の拠点などというのはお笑いでしかありません。

権力を監視すべきメディアが権力のお先棒を担いでいるのです。これでは公務員が私情で公権力を行使するような、「私物国家」の横暴がまかりとおるのは当然でしょう。

ろくでなし子さんは、釈放されたあとも、記者会見で警察批判をくり返していましたし、リテラの記事にもあるように、『週刊金曜日』で警察をヤユするマンガを連載していました。関係者の間では、それで警察の「逆鱗に触れた」という見方が一般的です。

北原みのり氏に至っては、どうして逮捕されたのか、専門家も首を傾げているようです。ろくでなし子さんに対して「報復」するのに、ついでに北原にもお灸をすえてやれという感じだったのかもしれません。罪名もあとからとって付けたような感じです。

ジャーナリズムがジャーナリズムの役割を果たしてないのです。まして読売新聞や産経新聞は、今や安倍政権の機関紙のようになっており、とてもジャーナリズムとは言えないあり様です。

いよいよ12月10日に特定秘密保護法が施行されますが、既にメディアは白旗を上げて権力に媚を売りはじめているのです。今回の逮捕から見えるのは、そんな(中国や韓国を笑えない)メディアの体たらくな姿です。

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2014.12.07 Sun l 社会・メディア l top ▲