身体を売ったらサヨウナラ


昨日の夕方、春節の中華街に行ったのですが、平日だからなのか、思ったほど人出はなく、通りの店を覗いてもどこか手持無沙汰な様子でした。と言っても、食事に行ったわけではありません。近くに用事があったので、ついでに華正樓に肉まんを買いに行っただけです。

人盛りができているのは、テレビの影響なのか、店頭で小籠包を食べることができるような店ばかりでした。観光客たちは、発泡スチロールの器に入った小籠包を箸でつつきながら、頬をすぼめて食べていました。

そのあとは、伊勢佐木町まで歩いて、有隣堂で鈴木涼美著『身体を売ったらサヨウナラ』(幻冬舎)を買いました。この本は売り切れになっている書店が多かったので、やっと買えたという感じでした。

平日の夕方、横浜の街を歩いていると、たしかに、巷間言われるように、横浜はおしゃれな娘(こ)が多いなと思います。どうしてかと言えば(身も蓋もない言い方になりますが)、自宅通勤の娘の割合が高いからです。つまり、可処分所得の高い女の子が多いからです。そして、若い女性の可処分所得が高い街は、これは名古屋なども同じですが、”デパート率”=「お買い物はデパート」の意識が高いという特徴があります。横浜の場合も、横浜そごうや業界で「横高」と呼ばれている横浜高島屋の存在は、傍目で見る以上に大きいのです。

『身体を売ったらサヨウナラ』の著者も、典型的な可処分所得の高い女性のひとりです。実家は鎌倉で、両親は大学教員で、明治学院高から慶応、さらに東大の大学院に進んだお嬢様。でも、元キャバ嬢で元AV女優で元新聞記者。

まだ読みはじめたばかりですが、フィールドワークの手法を宮台真司に学び、生き方の基本と文章の書き方を鈴木いづみに学んだようなこの本は、その速射砲のような文体と相まって、ひさびさに面白い本に出会ったという感じです。

『身体を売ったらサヨウナラ』は、つぎのような疾走感のある文章ではじまり、読者は冒頭から一発パンチを食らったような感覚になるのでした。

 広いお家に広い庭、愛情と栄養満点のご飯、愛に疑問を抱かせない家族、静かな午後、夕食後の文化的な会話、リビングにならぶ画集と百科事典、素敵で成功した大人たちとの交流、唇を噛まずに済む経済的な余裕、日舞と乗馬とそこそこのピアノ、学校の授業に不自由しない脳みそ、ぬいぐるみにシルバニアのお家にバービー人形、毎シーズンの海外旅行、世界各国の絵本に質のいい音楽、バレエに芝居にオペラ鑑賞、最新の家電に女らしい肉体、私立の小学校の制服、帰国子女アイデンティティ、特殊なコンプレックスなしでいきられるカオ、そんなのは全部、生まれて3秒でもう持っていた。
 シャンパンにシャネルに洒落たレストラン、くいこみ気味の下着とそれに興奮するオトコ、慶應ブランドに東大ブランドに大企業ブランド、ギャル雑誌の街角スナップ、キャバクラのナンバーワン、カルティエのネックレスとエルメスの時計、小脇に抱えるボードリヤール、別れるのが面倒なほど惚れてくる彼氏、やる気のない昼に会える女友達、クラブのインビテーション・カード、好きなことができる週末、Fカップの胸、誰にも干渉されないマンションの一室、一晩30万円のお酒が飲める体質、文句なしの年収のオトコとの合コン・デート、プーケット旅行、高い服を着る自由と着ない自由。それも全部、20代までには手に入れた。
(略)
 でも、全然満たされていない。ワタシはこんなところでは終われないの。1億円のダイヤとか持ってないし、マリリン・モンローとか綾瀬はるかより全然ブスだし、素因数分解とかぶっちゃけよくわかんないし、二重あごで足は太いしむだ毛も生えてくる。
 ワタシたちは、思想だけで熱くなれるほど古くも、合理性だけで安らげるほど新しくもない。狂っていることがファッションになるような世代にも、社会貢献がステータスになるような世代にも生まれおちなかった。それなりに冷めてそれなりにロマンチックで、意味も欲しいけど無意味も欲しかった。カンバセーション自体を目的化する親たちの話を聞き流し、何でも相対化したがる妹たちに頭を抱える。
 何がワタシたちを救ってくれるんだろう、と時々思う。


それに対して、川崎の中学生が多摩川の河川敷でリンチされて殺された事件は、言うなれば可処分所得の低い世界の悲劇とも言えます。両親が離婚し、母親に連れられて隠岐の島からやってきた少年が、地元の少年たちの格好の餌食になったのは想像に難くありません。

今話題のピケティが言う「世襲型資本主義」による不平等のスパイラル(格差の世襲化)が、このような悲劇を生み出す遠因になっているのは否定しえない事実でしょう。アイパーとB系ファッション、コンビニの前のうんこ座りと夜の公園の花火、喧嘩上等・夜露死苦・愛羅武勇・愛死天流などバッドセンスなボキャブラリー、EXILEと安室奈美恵、キラキラネームに深夜のドンキ、「劣悪な家庭環境」というリアルな日常、学校に行きたくない、でも働きたくない、でもお金がほしい究極の生活観、「そんなのは全部、生まれて3秒でもう持っていた」ような世界もまた、労働者の街の子どもたちのひとつの現実です。

縦に長い川崎は、「川崎の南北問題」と言われるように、ふたつの世界が南武線というバリアによって隔てられているのですが、一方、横浜は、黒沢明監督の「天国と地獄」で描かれたような丘の上と下という線引きはあるものの、ふたつの世界が混在しているのが特徴です。
2015.02.25 Wed l 横浜 l top ▲
縁の切り方


親の死は、ボディブローのように徐々に効いてくるものです。母が亡くなったとき、友人から「今はそうでもないかもしれないけど、時間が経つと徐々にさみしくなってくるぞ」と言われたのですが、たしかにそのとおりで、生前は親不幸でめったに会うことがなかったにもかかわらず、親がいるのといないのとでは気持の上で全然違います。物理的な意味だけでなく、精神的な意味においても、もう帰る場所がなくなったという感じです。みなしごハッチではないけれど、文字通り天涯孤独になった感じです。

中川淳一郎氏は、『縁の切り方』(小学館新書)で、「かけがえのない人」との死別について書いていましたが、「かけがえのない人」との死別こそ、ある意味で究極の「縁の切り方」と言えるのかもしれません。

中川氏は、同書のなかで、人間関係に「諦念」を抱くに至ったきっかけとして、思春期のアメリカ生活と最愛の人の死をあげていました。

一緒に暮らしていた婚約者が、ある日、「お友達に会うの」と言って出掛けたまま戻って来なくて、3日後、家の近くの大学のキャンパスのなかにある朽ちた小屋で、首を吊っているのをみずから発見したのだそうです。これほど深い「孤独」と「諦観」をもたらす衝撃的な体験はないでしょう。

中川氏ほど衝撃的ではありませんが、私にも似たような体験があり、そのとき私は、「もう結婚することはないだろうな」と思いました。それから何度か、渋谷の雑踏や山手線の車内などで、「かけがえのない人」の幻影を見ました。

 この経験から分かったことは、「大事な人間はあまりいない」ということである。一人のとんでもなく大事な人がいなくなることに比べ、それ以外の人がいなくなることは大して悲しくもないのだ。それは同時に、一番大事な人は徹底的に今、大事にしてあげなさい、ということを意味する。


たしかに、「諦念」を抱くほど心の傷になるような「大事な人」なんてそんなにいるものではないのです。

一方で、この年になると、「みんな、死んでいく」のだということをしみじみ感じます。そして、やがて自分も死んでいく。

帰省した際も姉や妹たちから、幼馴染の誰々が死んだというような話を聞きました。隣の家のAちゃんも、野球部で一緒だったBちゃんも、坂東三津五郎さんと同じように、若くしてガンで亡くなったということでした。私よりひとつ年上だった菩提寺の三代目の住職も、病気で亡くなっていました。また、私のことを「麻呂さん」と呼んでいた行きつけの喫茶店の女の子も、心臓病で亡くなっていました。

このブログにも書いていますが、病院に入院しているときも、顔見知りの患者の死を何度も見てきました。多感な時期でしたので、そのときの情景は今でも心のなかに残っています。

私たちは、このように多くの死に囲まれて生きているのです。その死ひとつひとつに「大事な人」が存在するはずなのです。「福祉専門」の病院で、段ボール箱ひとつだけ残して、誰にも看取られずにひとりさみしく死んでいく老人だって、「大事な人」がいたはずです。

いくら人間嫌いであっても、「大事な人」はいるでしょう。「大事な人」がいるから、死はこんなに悲しくこんなにつらく、そして、こんなに喪失感を伴うのでしょう。私は、孤独に生きたいと思っていますが、でも、孤独に生きるなんてホントはできっこないのかもしれません。
2015.02.24 Tue l 訃報・死 l top ▲
イスラム国とは何か


今日の東京新聞(TOKYO WEB)につぎのような記事が出ていました。

 【ワシントン共同】オバマ米大統領は18日、米政府がワシントンで開催している過激派対策の国際会議に出席し、過激派組織「イスラム国」に宗教上の正当性はないと強調し「完全に打ち負かす」と壊滅に向けた決意を表明した。
 米国は「イスラム世界が相手ではなく、宗教をゆがませる者たち」と戦っていると指摘。イスラム教指導者が結束してテロ行為を非難する重要性に言及した。(略)
オバマ氏、イスラム国壊滅へ決意 「宗教上の正当性ない」


一方、常岡浩介氏は、新著『イスラム国とは何か』(旬報社)のなかで、アメリカの攻撃には「解決する展望が一切ない」と言っていました。既にアメリカが表明している有志連合による地上軍派遣についても、つぎのように「警告」していました。

地上軍派遣で、さらに、本来は米国にとってまったく脅威でないものも脅威にしてしまう。米国の地上軍は、信頼できる友軍がないという恐ろしい状態で戦うしかないことになります。


どうして「脅威でないものを脅威にしてしまう」のか。それにはイスラム教の教義に起因する「『反米』の構造」があるからです。それは、よく言われる誤爆(アメリカが言うCollateral Damage)で一般住民に犠牲者が出るから反米感情が高まるという話でさえないと言います。

コーランには、「汝に戦いを挑むものあれば、アッラーの道のために戦え」という教えがあり、「とくに、イスラムの地に、イスラムでない者、異教徒が仕掛けてくる場合にはイスラム世界を守らなければいけない。全イスラム教徒はそのために戦わなければいけない」という考えは、穏健なイスラム教徒の間でも共通しているのだとか。

 たとえば、アルカイーダが殺されたら「いい気味だ」と思い、女・子どもが殺されたらけしからんと憤るのか。そうではなく、アルカイーダが殺されても、その人の神のために祈ったりします。


 米国は、ヤジディ教徒を助けようという、空爆する理由がありました。その理由に、いくら説得力があったとしても、イスラム教徒たちは、「ヤジディがかわいそうだから、仕方ない」とは思ってくれません。異教徒から攻撃されると即、挑むべき相手として、士気が上がります。


たしかに、アフガンやイラクなどイスラム教国に対するアメリカの占領政策はことごとく失敗しています。上記のオバマ大統領の発言に見られるように、アメリカの「イスラム国」対策にも、異教徒(キリスト教徒)の視点が垣間見えるのです。「イスラム国」が有志連合を「十字軍」になぞらえるのは故なきことではないのです。普段いくら兄弟がいがみ合っていても、よその家から攻撃されれば一致して自分たちの家を守ろうとするのは当然でしょう。特に、イスラム教徒たちにはその意識が高いのです。

中田考氏によれば、世界各地のモスクは、イスラム教徒であれば原則として宗派に関係なく誰でも受け入れる(受け入れなければならない)のだそうです。個人でも、来る者は拒まずのような考えがあって、誰でも家に泊める、泊めて歓待しなければならないという考えがあるのだそうです。それは、イスラム教というのが、もともとノマド(遊牧民)の宗教だからです。だから、国民国家という概念とも相容れないし、貨幣や法人という概念(つまり、資本主義という概念)とも相容れないと言います。お金を貸しても金利を取ってはいけないとか、税金より喜捨を重んじるとか、そういった考えがまさにそれなのです。なかでも「偶像崇拝の禁止」という戒律に、イスラムの教えの根本が示されているように思います。

中田 イスラームは言葉と事物は正しく対応しうる、と考えます。しかし、言葉自体は記号でしかないので、事物との対応は自然には保証されません。言葉が事物との対応を失い、虚偽の幻想によって人々を支配するようになること。それが偶像崇拝です。
(内田樹・中田考『一神教と国家』集英社新書)


世界のムスリムの青年たちが、カリフ制を再興した(と自称する)「イスラム国」をめざして越境するのは当然と言えば当然なのです。彼らが、復古主義的な教義を掲げる「イスラム国」に、イスラムの理想(原点回帰)を見出だしているのは間違いないでしょう。

もちろん、だからと言って「イスラム国」がホントに理想に近いものかと言えば、とてもそうは言えない現実があるのも事実です。「イスラム国」寄りの”危険人物”(私戦予備・陰謀罪の容疑者)として、中田考氏とともに警視庁公安部の監視対象になっている(はずの)常岡浩介氏も、「イスラム国」についてはつぎのような見方をしていました。 

 私は、イスラム国が掲げる理想や理念は、じつはただの「隠れ蓑」だと思っています。中身は「利益」「利権」です。カリフ制という理念に惹かれて外からやってきた人たちを、イスラム国はまったく違う思惑で利用しているだけです。サダム・フセインの残党との連携は、まさに理念などどうでもよいことをはっきり示しています。


常岡氏によれば、「イスラム国」の戦闘能力はそれほど高くないのだそうです。にもかかわらず支配地域を広げているのは、イラクとシリアの内戦に乗じて”漁夫の利”を得る作戦を取っているからだと言っていました。政府軍と反政府軍の戦いで手薄になった地域を狙い撃ちすることで支配地域を広げ、そして、ネットの動画に見られるような”恐怖政治”で住民を服従させているのだとか。

一方で常岡氏は、イスラム国の「撲滅」は不可能だとも言っていました。既に世界各地に(「ぶどうの房」のように)「イスラム国」に忠誠を誓う「勝手連」のテロ組織が生まれているので、今の「イスラム国」を潰しても、またつぎの「イスラム国」が出てくるだけだと言うのです。

中田考氏は、前書のなかで「イスラーム圏では本来世俗と宗教を分けません。人間が生きる上で行なう殆どすべての営為に神の判断を借りる文化です」と言ってましたが、いわゆる「祭政一致」をめざすのは、イスラムの基本的な考えでもあるのです。仏教にも「法難」ということばがありますが、異教徒との戦いによって、逆に原点回帰の流れが強くなっていくのはどの宗教にもある話です。

「アラブの春」に端を発した「中東の混乱」も、視点を変えれば、イスラムの台頭を意味していると言えます。イスラム世界がサイクス・ピコ協定からつづく米英を中心とした従来の世界秩序に反旗を翻しているからこそ、「混乱」しているとも言えるのです。そして、その「混乱」こそが、アメリカが超大国(唯一の覇権国家)の座から転落し世界が多極化しつつあることを示しているのです。もちろん、それはイスラムだけでなく、ロシア(大ロシア主義)や中国の台頭も然りです。

カリフ制再興のムーブメントには、イスラム世界の「統一」というムスリムの見果てぬ夢があるのですが、全世界の人口の4分の1を占める16億人のイスラム教徒がどんなかたちであれひとつにまとまれば、世界史に衝撃的な変化をもたらすことは論を俟たないでしょう。なかでもアジア・太平洋には10億人近くのムスリムが暮らしており(中東・北アフリカは3億人にすぎない)、イスラムの問題は、私たちにとっても決して遠い地の話ではないのです。

対米従属を”国是”とする国の国民にとって、世界が多極化することは必ずしも「いいこと」とは言えないのかもしれませんが(むしろ「絶望」を意味するのかもしれませんが)、しかし、世界があらたな秩序に向けて変わりつつあるのは間違いないのです。イラク戦争とシリア内戦の「混乱」のなかから生まれた「イスラム国」も、そのひとつの表われと見るべきでしょう。
2015.02.19 Thu l 社会・メディア l top ▲
いわゆる「ナッツ・リターン」問題では、日本のマスコミも韓国のマスコミに負けず劣らず”加熱報道”をくりひろげています。日本のマスコミは、この事件は「世界中に論争を巻き起こした」と言ってますが、それはいくらなんでもオーバーで、騒いでいるのは韓国以外では日本だけだろうと言いたくなります。

日本のマスコミの”加熱報道”の背景にあるのは、Yahoo!の国際ニュースのあの異様なアクセスランキングに見られるようなネトウヨたちの”嫌韓シンドローム”とまったく同じ精神構造です。ライバル国のことが気になって気になって仕方ないのでしょう。そして、そんな”嫌韓シンドローム”が、日本(日本人)は世界中でリスペクトされているというような、”テレビ東京的慰撫史観”とパラレルな関係にあるのは言うまでもありません。日本のマスコミの「ざまあみろ」とでも言いたげな”加熱報道”からは、そんな歪んだ感情(昨今の偏狭な「愛国」心)が垣間見えて仕方ないのです。

ただ、一方で私自身も、日本のマスコミやネトウヨたちとは別に、この事件については、韓国社会に対する違和感を禁じえませんでした。

客室乗務員のナッツの出し方に怒り、機体を引きかえさせたとして航空保安法違反などの罪に問われた大韓航空前副社長・趙顕娥(チョ・ヒョナ)被告に対して、ソウル西部地裁は懲役1年の実刑判決を言い渡したのですが、私は、わずか10数メートル(?)動いた飛行機を引きかえさせただけで、それを「航路変更」と認定するのは、いくらなんでも「横暴」だろうと思いました。別に飛んでいる飛行機を引きかえさせたわけではないのです。滑走路に移動しようとした飛行機を引きかえさせたにすぎないのです。

財閥も「横暴」かもしれませんが、韓国の司法も負ける劣らず「横暴」と言わざるをえません。私は、韓国も「法の支配」が充分機能してない人治国家なのかと言いたくなりました。もちろん、解釈改憲を目論む安倍政権に対して批判を封印する日本のマスコミに、韓国のことを云々する資格はないでしょう。それどころか、民主国家の体裁を整えながら解釈ひとつで「法の支配」がなおざなりにされる風潮は、日韓共通しているように思いました。

また、取り調べのため検察当局に出頭する「ナッツ姫」をマスコミの前に晒したあの光景を見るにつけ、韓国には人権意識はないのかと思いました。あれでは東南アジアのどっかの国と同じで、おせいじにも「先進国」「民主主義国」とは言えないでしょう。

「国家の威信」を失墜させたのは、なにも「ナッツ姫」だけでないのです。事後の韓国社会の対応も同じです。「ナッツ姫」騒動には、財閥の「横暴」を許すような社会風土(韓国社会の体質)が別のかたちで出ているだけで、根本にあるのは同じなのです。まるで集団リンチのようなやり方で晒し者にして、それで溜飲を下げたつもりなのかもしれませんが、それは財閥に媚びへつらう卑しい心根の裏返しでしかありません。そこにあるのは、魯迅が反語的に描いた「アジア的」とも言えるような卑屈な精神です。もちろん、それは「東夷」の日本とて例外ではありません。

要するに、「ナッツ姫」騒動というのは、如何にも「アジア的」な目クソ鼻クソの話でしかないのです。「世界中に論争を巻き起こした」なんて片腹痛いのです。
2015.02.13 Fri l 社会・メディア l top ▲
2015年2月帰省 116


3泊4日で九州に帰省していたのですが、どうやら風邪を持ち帰ったみたいで体調がすぐれません。

今回は、四十九日の法事のために帰省したのですが、時間的にも余裕がありましたので、田舎の旧友たちと会うこともできました。

みんな、仕事や家庭などにそれぞれ事情を抱えて生きています。特に田舎特有の人間関係に苦悩している様子でした。以前は、「東京に行ってどうするんだ?」と言っていた彼らが、今は逆に「お前が羨ましいよ」「田舎を出て正解だったよ」なんて言う始末でした。要は、田舎のわずらわしい人間関係のなかで生きていくか、都会で孤独に生きていくか、どっちかなのです。

「田舎に帰るつもりはないのか?」と聞かれたので「帰るつもりはない」と答えましたが、だからと言って私にも今の生活に明確なビジョンや思いがあるわけではないのです。むしろ「田舎が嫌だから」という消去法で、「帰るつもりはない」と言っているにすぎないのです。

菩提寺の境内にある実家の墓がかなり傷んでいるので、修復することになったのですが、私はこの墓に入ることはないかもしれないと思いました。修復のために、墓のなかから祖父母と父の骨壷を取り出した際、中の遺骨を手に取って、これで思い残すことはないなと思いました。

法事の翌日もレンタカーを借りて、なつかしい場所やなつかしい人たちを訪ねてまわりました。田舎には滝廉太郎の「荒城の月」の舞台になった有名な城跡があるのですが、久しぶりに石垣に囲まれた山城の跡に上りました。

平日の午後でしたので、ほかに観光客の姿はなく、私はハーハー息を吐きながら石の階段を上りました。考えてみれば、小中学校の頃、「滝廉太郎音楽祭」という催し物には毎年参加していたものの、こうしてゆかりの城跡に上ったのは1度か2度あるくらいです。

誰もいない、ホントに寂寥とした風景のなかに私はいました。途中の石段に、結婚する前なのか結婚直後なのか、若い母がひとりで立って遠くを見つめている写真が我が家にありました。それは、趣味が高じて写真館をはじめた父が撮った写真でした。私は、その写真を思い浮かべながら同じ場所でシャッターを押しました。

城跡の上に行くと、滝廉太郎の銅像がありました。銅像の背後には、子どもの頃からずっと見つづけていたなつかしい山の風景がありました。我が家の裏庭からも同じ風景が見渡せ、子どもの頃、私たちはいつもその風景に抱かれながら過ごしていたのです。

私はふと思いついて、城跡の上から地元に残っている旧友に電話をしました。彼は、「エエッ!」と素っ頓狂な声をあげていました。「家に来いよ」と言われたのですが、記憶が曖昧な上に道路も新しくなっていたりと、いまひとつ道順がわかりません。それで、彼が城跡の下の駐車場まで迎えに来てくれることになりました。

山を下ると、既に旧友は駐車場で待っていました。駐車場には、私と彼の車しかなく、車の横にぽつんと立っていた彼の影が、午後の日差しを受けてアスファルトの上に長く伸びていました。そのときも、私は、彼とこうして会うのもこれが最後かもしれないと思ったのでした。実は、その前に私は、市役所に寄って、自分の本籍を今の住所に移すための「分籍」の手続きをしていたのでした。

こうして田舎の風景のなかにいても、私はどこか田舎から疎外されている自分を感じていました。私は、田舎が嫌で嫌でしょうがなかったし、今もその思いに変わりはありません。だから、なつかしい風景やなつかしい人たちは、よけい哀しいようなせつないような存在として私のなかに映るのでした。


2015年2月帰省 130

2015年2月帰省 138

2015年2月帰省 180

2015年2月帰省 228

2015年2月帰省 195

2015年2月帰省 023

2015年2月帰省 012

2015年2月帰省 109
2015.02.12 Thu l 故郷 l top ▲
中村うさぎがTOKYO MX「5時に夢中!」を降板するというニュースの余波で、私のブログもいつもより多くのアクセスがありました。

もっとも、「降板」と言ってもまだ正式に決まったわけではなく、中村うさぎが自分のブログで、その意向をあきからにしたにすぎないのです。言い方は悪いけど、ことの真偽は別にして、中村うさぎが一人相撲を取っている感じがしないでもありません。

昨日の中村うさぎvsマッド髙梨・ガチBLOG!に、「降板」の理由が書かれていましたが、それを読むにつけ、私には「行き違い」「誤解」というより「被害妄想」ということばしか浮かびませんでした。もっともこの手の「被害妄想」は私たちにもよくある話です。今の中村うさぎは、精神的にかなり弱っている感じで、以前のあの強気な(?)面影は微塵もないのでした。

中村うさぎvsマッド髙梨・ガチBLOG!
5時に夢中!を降板する事に決めたんだけど、この件でまたもや精神的に参っちゃって、本当に生きているのが嫌になったわ。

鬱病になったことのある知人は、診察に行ったら先生から、「入院したらどうですか? 楽になりますよ」と言われたそうですが、中村うさぎも治療を受けて楽になったほうがいいんじゃないか、なんて余計なことまで考えてしまいました。ブログによれば、「もっと家賃の安い部屋に引っ越すつもり」だそうですが、環境を変えて捲土重来を期すのもひとつの方法でしょう。

それにしても、病気というのはむごいものだなとあらためて思います。言うまでもなく、中村うさぎがこうなったのは、病気をして人生や生活が一変したからなのです。

「生きているのが嫌になる」気持もわからないでもありませんが、でも、それでもどこかに生きる希望を見つけて生きてもらいたいし、そして、何度も言うように、そんな「老残」な自分を中村うさぎらしい筆致で書いてもらいたいと思います。

関連情報:
中村うさぎに言いたい
2015.02.05 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
高橋源一郎は、人質事件のさなか、イスラム過激派による一連の事件に関して、朝日新聞の「論壇時評」でつぎのように書いていました。

朝日新聞デジタル
(論壇時評)熱狂の陰の孤独 「表現の自由」を叫ぶ前に

私は、何度もこの文章を読み返しましたが、読解力がないのか、なにが言いたいのかいまひとつよくわかりませんでした。半分くらいはわかりますが、半分はわかりません。

人質事件が公になると、この国は「自粛」の空気におおわれました。それは、具体的に言えば、「懸命に努力をしている」「全力で取り組んでいる」政府への批判を封印するということです。「自粛」は、マスコミはもちろん、野党も同様でした。共産党までもがその「自粛」の隊列に加わったのでした。

人質事件が最悪の結果に終わったとき、Yahoo!トピックスのトップに掲載されたのは、「首相が目に涙 後藤さん殺害か」というタイトルの記事でした。そして、今、Yahoo!トピックスのトップに掲載されているのは、「後藤さんに渡航中止要請3回」というタイトルの記事です。

首相が目に涙 後藤さん殺害か
後藤さんに渡航中止要請3回

この二つの記事、というよりYahoo!トピックスが独自に付けたこの二つのタイトルが、未だにこの国をおおっている「自粛」の空気をよく表しているように思います。

常岡浩介氏もTwitterでつぎのように書いていました。

番組に呼んでおいて
常岡浩介容疑者
https://twitter.com/shamilsh

菅官房長官によれば、身代金は用意してなくて、犯人と交渉する気は「まったくなかった」そうです。

livedoor'NEWS
菅官房長官「身代金用意せず」、イスラム国との交渉を否定

菅官房長官の発言は、最初から人質を見捨てるつもりだったと言っているようなものです。これでは、安倍首相が中東訪問の際、テロリストを挑発するような発言をつづけたのは「不用意な発言」などではなく、やはり意図的な挑発ではなかったかと思ってしまいます。実際に、イスラム国は安倍首相の演説に反発して、中東訪問のさなか、人質の動画を投稿したのでした。

でも、このような安倍首相の発言や政府の対応を表立って批判することはタブーでした。民主党の細野政調会長が、「事件が収束したら政府の対応を検証する必要がある」と言ってましたが、「自粛」の隊列に加わった民主党や共産党など野党に「検証」などできるわけがないのです。

そして、今、二人の死を奇貨として、集団的自衛権行使=自衛隊派兵の進軍ラッパが高らかに鳴らされています。もちろん、この安倍首相の”居直り”に疑問を呈する声がマスコミに出ることはありません。

自民党のメディア戦略を担当する世耕弘成官房副長官がBSフジの番組のなかでさりげなく呟いた、「外務省が後藤さんに3回、シリアへの渡航をやめるよう要請していた」という発言。すると、それがまたたく間にトップニュースになって拡散するのでした。世耕官房副長官は、政府は「自己責任論」には立たないと言いながら、実際はそうやって「自己責任」をほのめかしているのです。

こうして政府の対応を免罪する「自粛」の空気は、翼賛の空気へ転化し進軍ラッパに接続されていくのでした。

高橋源一郎が言うように、「沈黙」は金なのか。むしろ「沈黙」は、「自粛」の空気に与することではないのか。今必要なのは、軋轢や誤爆を恐れずにものを言うことでしょう。人質事件であれ、フランスの襲撃事件であれ、「自粛」に抗するにはそれしかないのです。石を投げられてもものを言うこと。王様は裸だと言いつづけること。それがものを書く人間の責務ではないか、と言いたいです。
2015.02.03 Tue l 社会・メディア l top ▲
朝5時すぎ、ふと眼を覚ましたら、点けっぱなしなっていたテレビから、ピンポーン!とニュース速報を伝える音が聞こえました。上体を起こして、テレビ画面に目をやると、「イスラム国 後藤さん殺害動画をネットに投稿」というテロップが流れてきました。それで、あわててチャンネルをNHKに切り替えると、既に緊急ニュースがはじまっていて、スタジオで外報部の記者が動画について説明していました。また、手元のスマホで常岡浩介氏のTwitterにアクセスすると、「最悪だ」という書き込みがありました。

私は、後藤さん殺害の動画はあまりにも痛ましくて最後まで観ることができませんでしたが、しかし、私たちはこの事態を正面からしっかり見ておく必要があるでしょう。

自国民が人質に取られているにもかかわらず、ただ傍観するしかなかった政府。「我が国はテロに屈することはない」「この卑劣な行為を断じて許すことはできない」とバカのひとつ覚えのように同じセリフをくり返して、テロリストを挑発しつづけた総理大臣。ヨルダンに下駄を預けた(預けさせられた)政府に対して、「懸命に努力をしている」「全力で取り組んでいる」とヨイショするだけのマスコミ。そこにあったのは、おためごかしの(無責任な)常套句と危険な火遊びだけでした。しかも、「ひとつになろうニッポン!」というわけなのか(?)共産党までもが政府批判を封印するあり様でした。

まったく最悪です。
2015.02.01 Sun l 社会・メディア l top ▲