私は、朝日新聞デジタルに連載されている「花のない花屋」というシリーズが好きなのですが、そのなかの「定年退職を迎える、男手ひとつで育ててくれた父へ」(2013年2月21日)という記事に、つぎのような記述がありました。

父はよく「自分以上の生活を子どもにさせたい」と言っていました。「できるだけいい大学へ入って、いい企業に入りなさい。そうすれば人生の自由度が高くなるから」と。

朝日新聞デジタル
定年退職を迎える、男手ひとつで育ててくれた父へ


身も蓋もない言い方ですが、しかし、案外真実を衝いているとも言えるのです。もちろん、「いい大学」だけが人生ではないし、「いい会社」だけが人生ではないのは言うまでもありません。でも、身近な例を見ても、「いい大学」に行って「いい会社」に入ると、「人生の自由度が高くなる」という”世間智”は、あながち否定できないように思うのです。

大学だけでなく高校もそうで、「いい学校」というのは、校則もゆるくて自由で、友人関係も含めて「いい環境」にめぐまれるものです。まわりの環境に影響を受けやすい思春期においては、それは大事なことです。

もちろん、「いい大学」や「いい会社」に入っても、挫折や失敗もあります。「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る」というのは井上靖のことばですが、要は、努力すること、努力する大切さを忘れないということでしょう。資本主義社会では、努力する目的が「いい学校」や「いい会社」や「お金(経済的余裕)」というような現世的な身も蓋もないものになりがちです。だからと言って、努力をしなくていいいということにはならないはずです。努力をする大切さまで否定してはならないのです。

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2015.05.31 Sun l 日常・その他 l top ▲
例の「モバイルフレンドリー」のアップデート以後、Google の検索がおかしなことになっています。

以下が「シール」で検索した場合、トップページに表示された本日現在の順位です。

PC
1 ウィキペディア◎
2 Google 画像検索
3 A社
4 B社
5 C社(商品情報)◎
6 C社
7 C社(商品検索)◎
8 D社
9 E社
10 F社

モバイル
1 ウィキペディア◎
2 A社
3 B社
4 C社
5 D社
6 E社
7 G社◎
8 H社
9 I社

◎印が「モバイルフレンドリー」のサイトです。これを見ると、PC検索でもモバイル検索でも順位がほとんど変わらないことがわかります。少なくとも検索順位においては、「モバイルフレンドリー」に対応しているかどうかはほとんど関係がないと言ってもいいでしょう。

そもそもユーザービリティというのは、あくまでユーザー自身が判断することです。Googleが決めるものではないでしょう。Google の「モバイルフレンドー」に対応してなくても、ユーザーにとっては見やすいサイトだってあるでしょう。また、その逆もあるはずです。検索分野で圧倒的なシェアを握っていることをいいことに、Google が基準を設定し、それを強要すること自体が間違っているのです。それこそarrogant(傲慢)以外のなにものでもないでしょう。

しかも、アップデート以後、Google の検索において、arrogantな一面を示すような”おかしな現象”がずっとつづいているのです。上記の表で言えば、PC検索におけるC社がそれです。トップページに、C社のページが3つも表示されているのです。こんなことは通常の検索ではあり得ず、そのため、2つのサイトが割を食って2ページ目にはじき出されているのです。それでなくても、検索の際の「ページあたりの表示件数」が10件(デフォルト)であっても、「画像検索」や「ニューストッピックス」など自社のサービスを勝手に挿入するため(Yahoo!の場合は、「NAVERまとめ」や「Yahoo!ショッピング」や「ヤフオク」など)、実際は8件もしくは9件しか表示されないのです。Googleが独占するようになって、いつの間にか表示件数が削られてのです。これではあまりにも不公平、理不尽と言わねばなりません。

この現象について、私は、(先日のブログでも書きましたが)欧州委員会がGoogle に対して、EU競争法(独占禁止法)違反の疑いで、「異議告知書」を送ったというニュースを想起せざるを得ませんでした。

と言うのも、欧州委員会は、そのなかで、Googleが自社のGoogle ショッピングの表示を優先するように検索結果を操作したと指摘しているのですが(Google は否定)、上記のC社はそのGoogle ショッピングに商品を掲載しているサイトだからです。

Google ショッピングは、以前は無料のサービスでしたが、2013年2月から日本でも有料化され、アドワーズに広告配信しなければGoogle ショッピングに掲載されないようになりました。つまり、クリック課金型広告のアドワーズと一体化したのです。ショッピングと謳っているものの、実体は広告なのです。

C社の前はA社とB社が同じように重複して表示されていました。A社とB社も、アドワーズに広告を出稿しているサイトです。つまり、Google に広告を出稿しているサイトに限って、”おかしな現象”がつづいているのです。ハグにしては、あまりにも長すぎます。4月末からずっとこの状態がつづいているのです。

欧州委員会が指摘したGoogle の”よこしまな試み”と、この”おかしな現象”はホントに関係ないのか。”よこしまな試み”が”おかしな現象”を招いているこのではないのか。そんな穿った見方さえしたくなります。Google において、検索の公平性は担保されているのでしょうか。

しかし、日本では、EUのように、寡占体制の弊害を指摘する声がまったくと言っていいほど出てこないのです。それも不思議でなりません。

SEO関連のブログなども、Googleがどんなサービスをはじめたとかなんとか、どうでもいいような記事ばかりですが、この“おかしな現象“がなにを意味するのか、専門家(?)らしく解析してもらいたいものです。そのほうがよほどSEO に役立つはずです。

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2015.05.31 Sun l ネット l top ▲
古本屋に本を売りに行くと、卒倒するくらい安く買い叩かれるそうですが、なかでも経済や政治など時事関連の本は、それこそ二束三文(5円10円のレベル)だそうです。

どうしてかと言えば、時事関連の本は、発売されているときが”旬”で、時期がすぎればテーマが古くなるからです。現実との齟齬が生じてトンチンカンになる場合が多いのです。それが時事関連の本の宿命なのです。

それは、ブログも同じです。私はもう10年以上、このブログを書いていますが、「社会・時事」のカテゴリーに入っている記事は、あとで読み返すと、恥ずかしくて削除したくなります。

むしろ、「私語り」とヤユされるような「身辺雑記」の記事のほうが、いろいろ考えさせられるところもあって、「社会・時事」なんかよりはるかに読むに堪え得るように思います。

でも、ブログを書く場合、「社会・時事」をテーマした記事のほうが書きやすいのです。書くテーマに困ることはないし、一知半解のわけ知りげな記事でも、それなりの体裁を整えブログを埋めることができるのです。それになりより、「社会・時事」のほうがアクセスが多いという側面もあります。

日本人の場合、パソコンを立ち上げ、まず最初にYahoo!ニュースを読む習慣の人が多いので、おのずと「社会・時事」関連に関心が集まるのでしょう。こう考えると、私もあのヤフコメを笑えない気がします。Yahoo!ニュースを見ると人はどうしてネトウヨになるのか、と言った人がいましたが、方向は違えど私のブログも似たようなものかもしれません。

吉本隆明ではないですが、「政治なんてものはない」のです。私たちにとって、「政治」なんかより日々の生活が大事なのです。そして、日々の生活から派生するさまざまな思いのなかに私たちは生きているのです。

今の新たな安保法制をめぐる国会論議を見ても、私はどこか違和感を抱いてなりません。安保法制で、自衛隊員のリスクが増すのではないかと、民主党が安倍首相に問い質していましたが、自衛隊は軍隊なのです。リスクがあるのは当たり前です。日本の自衛隊は、世界でいちばん人件費が高い軍隊で、PKOで海外に派遣されると、手当だけで百万を超えるそうですが、これでリスクがなければ”税金泥棒”と言われても仕方ないでしょう。民主党の細野某や前原某らの質問を聞いても、こんなのは手ぬるい、もっと完璧な戦争体制を作るべきだと言っているように聞こえなくもありません。民主党と安倍首相にどれほどの違いがあるのかと思ってしまいます。そんな「政治」なんてどうだっていいのです。

私たちは、Yahoo!ニュースを見て「政治」に関心をもっているつもりかもしれませんが、それは単に踊らされているだけではないのか。それより「私語り」のなかにこそ、リアルなことばがあるのだと思います。

この奇妙な(なんの臆面もない)”政治の季節”に、私たちは、むしろ「政治なんてものはない」という「私語り」の思想を対置すべきでしょう。日米開戦の報を聞いた永井荷風は、「一億火の車」というような戦意高揚の標語を「まことにこれ駄句駄字といふべし」と言って、玉ノ井の私娼窟に出かけるのですが、そういった手前勝手な「私語り」の思想こそが今、大事なのではないでしょうか。
2015.05.30 Sat l 社会・メディア l top ▲
築地本願寺


用事があって銀座に行ったのですが、平日の銀座の通りを歩いている人の半分くらいは、外国人観光客でした。なかでも、アジア系の観光客が目に付きました。アジア系の観光客は、どこかあか抜けない服装やちょっと品のない所作で、ひと目でそれとわかるのでした。4丁目の三越の前でも、持ちきれないくらいの買い物袋を提げた人々(なかにはラオックスの包装紙を巻いた電気炊飯器や温水便座の箱を持っている人もいました)がたむろしていました。

今や銀座にとっても、彼ら爆買いの観光客は上得意のお客様なのでしょう。なんだか銀聯カードの威力の前に、銀座の老舗もプライドをかなぐり捨てたかのようです。あれほどお高く止まっていた銀座の老舗が、こんなにやすやすと”成り上がりの余所者”に膝を屈するとは驚きですが(と皮肉のひとつも言いたくなりますが)、それだけ彼らのパワーがすごいということなのでしょう。それはキャッチアップした(しつつある)国のパワーでもあります。

もちろん、こういった光景は、銀座に限った話ではありません。日本全国の主だった街や商業施設ではもはやおなじみの光景です。まさに、中国人(あるいはタイ人、インドネシア人)様々なのです。

でも、キャッチアップされる側のプライドはそう簡単に割り切れるものではありません。この国にとって”中国人様々”は、あくまで建て前でしかないのです。

よく中国人には反日を叫びながら一方で日本にあこがれる矛盾した感情があると言われますが、それは日本人も同じです。揉み手して笑顔をふりまきながら、腹のなかでは「この劣等民族め」と悪態を吐いているのです。国内向けには、まるで売ってやっているんだと言わんばかりに強がりを装いながら、一方で、競って中国人観光客に流し目を送っている日本人。

先日、自民党の二階堂俊博総務会長が100人の訪中団を引き連れて中国を訪れ、中国政府に大歓迎されたというニュースがありましたが、さすが自民党だなと感心しました。それは、懐が深いという意味ではありません。巧みに二枚舌を使い分けるそのしたたかさに感心したのです。

アメリカの尻馬に乗って戦争法案(!)をひっさげ中国を挑発しつづける安倍と、実利的に中国の経済力に秋波を送る二階堂。自民党のこの二人の政治家は、悪態を吐く日本人と爆買いに流し目を送る日本人の二面性を見事に体現していると言えるでしょう。もっとも、戦後の日本は、『永続敗戦論』が示したように、売国と愛国、従属と独立という相矛盾する二面性のなかで生きてきたのでした。もちろん、新自由主義(=売国)と国家主義(=愛国)が併存する安倍政権も例外ではありません。

アメリカが超大国の座から転落して、世界が多極化するのは間違いないのです。中国がアジアの盟主の座にすわるのも間違いないのです。中国が戦略的に「政経分離」の方針をとりつづける限り、日本の二面性もそれなりに機能するのかもしれません。しかし、アジアの盟主になった中国が方針転換すれば、途端に日本が政治的にも経済的にも苦境に陥るのは目に見えています。かつての米中接近のように、アメリカからいつ梯子を外されるかもわからないのです。

坂を上る国と下る国。よく見れば、銀座の光景は、その現実を映し出しているとも言えるのです。近隣諸国との互恵関係をみずから毀損した日本は、やがて、そのツケを払わなければならないときがやってくるでしょう。”テレビ東京的慰撫史観”で自演乙するだけの今の日本は、その先に待っている過酷な”運命”にあまりにも無頓着と言わざるをえません。

銀座のあと、築地まで歩いて、築地本願寺にお参りして帰りました。
2015.05.26 Tue l 社会・メディア l top ▲
もう一度、過ぎ去ったことを考えてみたいと思いました。あの橋下氏が、このまま政治家を”廃業”するとはとても思えないし、仮に橋下氏が”廃業”したとしても、大衆を扇動するその手法を真似たエピゴーネンたちが、これからも出てくる可能性があるからです。

「都構想」について、私が知る限り、もっとも的確に問題点を指摘していたのは、内田樹氏だったように思います。内田氏は、大阪の問題は、制度が問題なのではなく、それを運営する人間の質の低下が問題なのだと言います。

 大阪の二重行政の最悪の事例として、りんくうゲートタワービルとWTCビルのことが何度も出て来た。府と市がバブルに浮かれて無駄なハコモノに桁外れの税金を投じたことがきびしく批判された事例だが、考えればわかるが、これは二重行政の特産物ではない。バブル経済の先行きについての楽観に基づいて巨大なハコモノに莫大(ばくだい)な税金を投じた府市の役人の犯した失敗である。仮にバブル期の時点でもし府市が統合された「大阪都」が実現していたら、巨大な権限を持った「都」の役人の裁可で出現したハコモノの巨大さ(そして空費された税金の額)は想像を絶したものになっていたに違いない。

朝日新聞デジタル
内田樹さん「制度のみ語る闇」大阪都構想住民投票を読む


要するに、問題の所在は、制度を運用する人間にあるのです。それを制度の問題に還元し、大阪市をなくして5つの「特別区」に分割し、府(都)で一元的に管理すれば、効率的で無駄のない行政がおこなえるという幻想を作りだしたのが「都構想」です。そこに「都構想」の詐術があるのです。

内田氏は、今回の住民投票は、「簡単な話」を「複雑」にしてしまったと言います。「複雑」にしたのは、行政にトップダウンの独裁的な手法を導入しようという別の思惑があったからでしょう。

 私たちの国が現に直面している危機の実相は「かなりよくできた制度」が運用者たちの質の劣化によって機能不全に陥っているということである。三権分立も両院制も政令都市制度も、どれも権限と責任を分散し、一元的にことが決まらないようにわざわざ制度設計されている。その本旨を理解し、その複雑な仕組みを運用できるだけの知恵と技能をこれらの制度は前提にしており、それを市民に要求してもいる。
 権限をトップに一元化して、下僚は判断しない代わりに責任もとらないという仕組みの方が「効率的だし、楽でいい」とぼんやり思う人が過半を制したら、市民社会も民主制は長くはもつまい。


そして、結果として、内田氏が言うように、「大阪市の抱える問題はひとつも解決しないまま残った」のです。もちろん、それは、大阪市に限った話ではありません。

私の田舎も、”ミニ橋下”みたいな人物が行政のトップに君臨していますが、先日、帰省した折も、知人たちは、息苦しさややり切れなさをしきりに訴えていました。でも、誰も表立ってそれを口にすることはないのです。口にすれば、面倒くさい問題を引き受けなければならないからです。民主主義というのは、面倒くさいものなのです。トップダウンでやってくれたほうが「楽」でいいのです。ネトウヨではないですが、独裁者にすべてを委ねれば、責任もないし、難しいことを考えなくていいので「楽」なのです。それは、新興宗教や「会社」も同じです。でも、政治は、新興宗教や「会社」ではないのです。

内田氏が言う「この国を蝕んでいる深い闇」とは、そういう意味ではないのか。
2015.05.24 Sun l 社会・メディア l top ▲
部屋にちょっとした工事が入ることになったので、部屋中に積み重ねていた本を整理しようと本棚を買いました。全部で5本買いました。廊下の壁にずらりと本棚が並んだ光景は、(自分で言うのもなんですが)なかなか壮観です。それでも、本は半分も収まっていません。もうこれ以上、本棚を入れるスペースがないのです。

一応、転倒防止用の伸縮棒で固定しましたが、大きな地震が来たら、本も散乱するでしょうから、玄関から脱出するのはとても無理でしょう。ベランダから脱出するしかありません。ベランダには避難梯子がありますが、それだけでは不安なので、別に脱出用のロープも買って用意しました(でも、ホントにレンジャー部隊のようなことができるか不安ですが)。

雑誌類は資源ゴミに出すことにして紐で束ねましたが、10数個ありました。これでは、両手に持っても、部屋と回収場所まで5回以上往復しなければならず、考えただけでもうんざりです。

柳美里が、本を捨てられないので、引っ越すときが大変だ、とブログに書いていましたが、それは私も同じです。どうしても捨てることができないのです。ただ、25年前、九州から東京に出てくるときは、引っ越し費用の関係で、泣く泣く処分しましたので、今あるのは25年分ということになります。

若い頃から、どんなにお金がなくても本を買うのを優先してきました。不思議と、本代が惜しいと思ったことはありません。入院しているときは、病院の近所の本屋さんがわざわざ御用聞きにきていたくらいです。また、九州にいた頃、人口2万あまりの小さな町の営業所に勤務したことがあるのですが、そのときも町に唯一ある本屋さんがやはり会社に御用聞きに来ていました。お金は月末にまとめて払っていました。その当時、月に3~4万円は使っていました。でも、今はその半分くらいです。年をとると、食欲も●欲も落ちますが、読書量も落ちるのです。

将来、乏しい年金から(もしかしたら生活扶助費から)本代をねん出するのは無理かもしれませんので、そのときは今ある本を読み返して老後をすごすつもりです。私の場合、孤独死の可能性が高いと思いますが、今の状態では本に埋もれて死んでいた(腐ったバナナのように、本の間で腐乱していた)ということになるのかもしれません。でも、それはそれで本望と言うべきでしょう。
2015.05.20 Wed l 日常・その他 l top ▲
「大阪都構想」が住民投票で否決されたことで、橋下大阪市長が記者会見で任期満了後の「政界引退」を表明しましたが、ホントかなと思ったのは私だけではないでしょう。あのいつもの橋下氏のイメージとは違った記者会見は、なんだか狡猾に計算されたパフォーマンスのように受け取れないこともありません。

「大阪都構想」については、適菜収氏が、『新潮45』(5月号)で、「戦後最大の詐欺である」とその詭弁(嘘八百)と脅しの手口を告発していますが、たとえば、よく言われる(都構想の根拠ともなった)大阪市の借金についても、適菜氏はつぎのように書いていました。

 関淳一市政、平松邦夫市政において大阪市の借金は減り続けていたが、その部分は隠されている。さらにグラフの途中をカットし先端を拡大することで、橋下が借金を劇的に減らしたかのような錯覚を与えるわけだ。しかし、実際には橋下市政で減少幅は少なくなっている。

矢来町ぐるり
【全文掲載】これぞ戦後最大の詐欺である 適菜収(作家、哲学者)+本誌取材班――特集 「大阪都構想」の大嘘.


大阪府に至っては、橋下氏が知事になって逆に負債は増えているのです。橋下氏は、「納税者をナメた連中を潰す」「既得権益を貪っている連中は許さない」などとお得意の口調でアジるので、如何にも”改革の旗手”のようなイメージがありますが、適菜氏は、その実態をつぎのように痛烈に批判していました。

 橋下は詐欺師である。大阪「都構想」は戦後最大の詐欺である。
 橋下が今一番恐れていることは「事実」を大阪市民に知られることである。だから現在、メディアや学者、ジャーナリストに圧力をかけ続けているのだ。
 前市長の平松邦夫が憤る。
「ここまで橋下をのさばらせたのはメディアです。橋下の嫌がらせに屈し、言うべきことを言わなくなった。ジャーナリズムの矜持を失ってしまったのです」
 現在、大阪で進行中の橋下および維新の会の運動は、全体主義そのものである。
(略)
 ナチスは狂気の集団としてではなく、市民社会の中から出現した。そして「ふわっとした民意」にうまく乗り、既得権益を批判し、住民投票を繰り返すことで拡大したのである。
 現在、市民の代表が一度は否決した「特別区設置協定書」が、おかしな力により蘇り、住民投票にかけられる事態が発生している。そこに記載されていない事項の多くは、市長により決定されることになっている。つまりは白紙委任だ。 わが国の危機は目前に迫っている。
 五月一七日の住民投票で問われているのは、橋下および維新の会という巨悪から、大阪市ひいてはわが国を防衛できるかどうかなのだ。


部外者の付け焼刃の知識でも、今回の「都構想」が詐欺まがいのおかしな話であることはよくわかります。今さら終わったことを取り上げても仕方ないと思われるかもしれませんが、たとえば、多くの人が指摘していたように、大阪市が消滅すれば、それまで政令指定都市の「権限」で得ていた事業者税などの税収2200億円が、大阪府に移管する(吸い上げられる)ことになるのです。特別区の人口は、大阪府全体の3割を占めるにすぎず、さらにそれを5つに分割するわけですから、それぞれの特別区は、人口においても権限においても財政規模においても、小さな地方都市と同程度に「格下げされる」のです。大阪市民は、政令指定都市を外れ特別区になることによって、自分たちの裁量で使えた大きな財源をみすみす失うことになるのです。そして、その分、大阪府に権限や財源が集中するというわけです。これでは、末端の自治体が担う福祉や公共サービスなど身近な施策が後退するのは当然でしょう。それを詐欺師たちは、「二重行政の解消」という詭弁でごまかしていたのでした。一時が万事この調子です。

今回の結果で、かろうじて”現代版ナチス”の台頭を食い止めたと言えますが、しかし、忘れてはならないのは、平松前市長が言うように、橋下という”怪物”を作ったのがマスコミ、とりわけテレビだという事実です。

爆笑問題のタイタン所属のタレント弁護士としてテレビで顔を売り、商工ローンや売春街=飛田新地の料理組合の顧問弁護士をして年収3億円を荒稼ぎして、ポルシェやハーレーを乗りまわしていた橋下氏を政治家に祭り上げたのは、やしきたかじんだけではないのです。読売テレビやABC朝日放送など在阪のテレビ局も大きな役割をはたしたのです。

そのテレビは、辞任表明を受けて、さっそく「『橋下さんやめないで』という声が殺到」とか「大阪が”橋ロス”に覆われている」とか、橋下ヨイショをはじめています。そうやって早くも視聴率が稼げる「前市長・橋下徹」の争奪戦がはじまっているのです。

これではフランケンシュタインのように、”怪物”が息を吹き返す可能性もなきにしもあらずでしょう。なんと言っても橋下氏には、府知事選の際、「(出馬は)2万%ない」と言ったにも関わらず出馬した”前科”があるのですから。

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2015.05.19 Tue l 社会・メディア l top ▲
やはり年のせいなのか、最近わけもなく悲しい気持になることがあるのですが、深夜、たまたまYouTubeで、「きたやまおさむ 九州大学定年退職記念 さよならコンサート」の映像を見ていたら、なんだか昔が思い出されて、また悲しい気持になりました。

これは、九大で教授を務めていた北山修氏が定年で退職するのを記念して、2010年3月21日に九大医学部の百年講堂でおこなわれたコンサートの映像です。北山氏のほかにアルフィの坂崎幸之助が出演し、ゲストに杉田二郎と南こうせつ、それに作詞家の松山猛氏が出ていました。

私がフォーク・クルセダーズの歌を聴いたのは、坂崎幸之助と同じように、中学生のときでした。当時、私が通っていた田舎の中学では、まだ同級生の3分の1くらいが集団就職する時代でしたので(私たちがその最後の世代だったと思います)、そんな塾もなにもないような田舎の中学から都会(まち)の普通科の高校に進むのは、結構大変でした。それで、親と先生が話し合って、私は、年が明けると学校に行かずに、家で受験勉強することになったのでした。

私は、祖父母の家の二階で、終日、ひとりで受験勉強をしていました。その際、窓際に置いたラジオからよく流れていたのが、フォークルの歌でした。

ある日のことです。外から聞き覚えのある声が聞こえてきたのです。窓から見ると、同級生たちが、前の道をおしゃべりをしながら楽しそうに歩いていました。わずかな間会わなかっただけなのに、なんだかすごくなつかしい気がしました。しかし、私は、彼らに声をかけることができなかったのです。なぜか声をかけるのがためらわれたのでした。それが自分でもショックでした。そして、私は、中学を卒業すると田舎を離れ、同じ中学の出身者が誰もいない遠くの街の高校に進学して、中学の同級生たちとも徐々に疎遠になっていったのでした。

フォークルの歌を聴くと、2ヶ月間寝起きした祖父母の家の部屋の様子とあのときの悲しくせつない気持が思い出されるのでした。

北山氏によれば、「さよならコンサート」は、加藤和彦の家で二人で話し合って決めたのだそうです。にもかかわらず、加藤和彦はコンサートを迎えることなく自死したのでした。北山氏は、コンサートのなかで、「加藤と作った歌は、喪失と悲しみの歌が多い」と言ってました。

映像のなかで、私が好きなのは「イムジン河」です。今の北への制裁や嫌韓の風潮からは想像もできませんが、まだこのように素朴に感傷的に南北に引き裂かれた朝鮮半島の人々を思う時代があったのです。その思いは、今もいくらか私のなかに残っています。

YouTube
イムジン河 悲しくてやりきれない きたやまおさむ 坂崎幸之助 南こうせつ

北山氏のことばを借りれば、人生は「喪失と悲しみ」の過程にあるのだと思います。もしかしたら青春とは、その「喪失と悲しみ」を初めて垣間見る時期なのかもしれません。

余談ですが、このYouTubeの映像の合間に流れるAdobeのCMがすごくカッコよかったです。

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2015.05.18 Mon l 日常・その他 l top ▲
昨日、朝起きてパソコンを立ち上げたらネットにつながりません。モデムの電源を落として再起動したり、パソコンに接続しているコードを何度も抜き差ししてみましたが、同じです。コードがおかしいのかと思って、別のコードに代えてみましたが復旧しません。どうやらネットのトラブルみたいです。そんな場合、スマホでデザリングすれば急場は凌げるのですが、あいにくノートPCは別の仕事場に置いたままになっています。

パソコンが使えないと仕事にも差し支えます。注文書や納品書は、カートの契約先のサーバーにありますので、ダウンロードして印刷することができないのです。なによりメールができないのが痛いです。ちょうど今朝、商品も入荷したのですが、サイトの更新もできません。

でも、私は、そのうち回復するだろうとタカをくくっていました。しかし、1時間経ち、2時間経っても、いっこうに回復しません。スマホでOCNのサイトにアクセスしてみましたが、どこにも障害情報が載っていません。

さらに、3時間経ち、4時間経って、とうとう正午をまわってしまいました。さすがに不安になって、スマホで情報を探しました。そして、行き着いたのが、2ちゃんねるのOCN関連のスレでした。スレは、ネットにアクセスできないOCN利用者たちの呪詛する書き込みであふれていたのでした。しかも、OCNのサイトには何の情報もないのに、2ちゃんねるにはさまざまな情報がアップされていました。話が逆じゃないかと思いました。

2ちゃんねるには、イー・アクセスの障害情報へのリンクも貼られていました。それによると、神奈川県の旧アッカ回線の通信障害のようです。

私は、15年以上OCNのADSLに加入しているのですが、OCNのADSLはもともとアッカ(アッカ・ネットワークス)が提供する回線でした。しかし、途中で、アッカがイー・アクセスと合併し、回線は「イー・アクセス(旧アッカ)」という表記に変わりました。

ところが、今日の2ちゃんねるの書き込みで初めて知ったのですが、イー・アクセスの経営は既にソフトバンクに移っており、現在、旧アッカの回線はワイモバイルになっていると言うのです。いつの間にか、私が加入している回線は、ソフトバンクに変わっていたのです。

でも、旧アッカの回線がOCNに提供されていることには変わりがありません。回線はソフトバンクなのに、サービスはOCN(NTT)。これでOCNのサイトに障害情報が載ってなかったのが合点がいきました。

メール便を廃止したクロネコヤマトもずいぶん無責任だなと思いましたが(まともに残業代も払わず「ブラック企業」と批判されたような会社が、ユニバーサルサービスが基本の郵便事業に参入しようとしていたこと自体、悪い冗談だったとしか思えませんが)、今回の障害に関してはOCNも無責任と言わねばなりません。

今回は一部の地域だけだったのでニュースにもなりませんでしたが、20時間以上ネットにつながらなかったというのは、前代未聞のトラブルと言ってもいいでしょう。それこそ総務省から行政指導が入ってもおかしくないようなトラブルだと思いますが、親方日の丸のOCN(NTT)と口八丁手八丁のソフトバンクのことですから、お咎めなしで終わるのでしょう。結局、私たち利用者がコケにされただけなのです。

関連情報:
障害情報 : イー・アクセス - アッカ・ネットワークス
2015.05.17 Sun l ネット l top ▲
最近とみに里心を覚えている私ですが、昨日の深夜、田舎の友人から電話があり、同級生らの近況を聞きました。

バブルの頃、金融取引で大もうけをして、さらに闇の商売にまで手を出して、一日に数十万円稼いでいると豪語していた同級生から、20年ぶりに電話があったそうです。会社が倒産し、職を転々とした挙句、今は新聞配達で糊口を凌いでいるのだとか。郵便受けに新聞を入れる際、間違えてインターフォンを押してしまい、お客さんから大目玉を食らったという話を面白おかしく話していたそうで、友人は、「元気そうだった」と言ってました。

ほかにも、家業を継いだものの、うまくいかずに閉店を余儀なくされ、やはり、新聞配達をしながら細々と暮らしているという同級生もいました。彼は、昔は家の羽振りがよくて、「ボンボン」みたいな感じでしたので、今、地元で新聞配達というのはつらいだろうなと思いました。

もちろん、病気の話はこと欠きません。誰々が大腸ガンになったとか、誰々が胃ガンの手術をしたとか、誰々が膀胱ガンで会社を辞めたという話を聞きながら、私は、夢と希望に胸をふくらませ、いつも笑顔にあふれていた高校時代の彼らの顔がひとりひとり浮かんできました。あの頃、みんな、前途は洋々だと思っていたのです。

田舎にいた頃、同級生のお母さんの紹介でお見合いをした女性がいたのですが、彼女も先日、病気で亡くなったそうです(田舎は狭いので、そんな話も入ってくるのでした)。紹介してくれた同級生のお母さんも既に亡くなっています。

そう言えば、2月に帰省した折、海を見下ろす高台にリハビリセンターができていたことを思い出しました。

「●●の近くに立派なリハビリセンターができていたな?」
「ああ、あれか。あれは農協がやってる。すごい敷地だぞ」

「あのリハビリセンターにも、同級生が3人入ってる。みんな、脳梗塞や脳出血で倒れたんだ。××なんかもう1年半も入っている」

もちろん、自分の病気だけではありません。親の介護で苦労している者も多いはずです。

「みんな、苦労しているぞ」

その友人のことばに、いつになくしんみりした気持になりました。まだ老後とは言えない年齢ですが、なんだか早くも出鼻をくじかれた感じです。

年をとることは、どうしてこんなに哀しくてさみしいものなのでしょうか。年をとったというだけで、どうしてこんなに苦労しなければならないのか。

今年の正月、別の友人から届いた年賀状に、「お金がなくても笑顔で楽しく老後を過ごしたいものです」と書いていましたが、そうすごせたらどんなに幸せだろうと思います。でも、この現実を考えると、それはとても難しいことのように思えてなりません。
2015.05.13 Wed l 健康・ダイエット l top ▲
今日の夜、新横浜のとあるホテルの喫茶店で、オシャレに(?)お茶しているときでした。

突然、若い女の子たちがドドドッとホテルのロビーになだれ込んできたのです。私はびっくりして、ロビーのほうに目をやりました。すると、女の子たちは我先にフロントのカウンターの前に並んで、チェックインの手続きをはじめたのでした。どうやら彼女たちは、今宵のホテルの宿泊客みたいです。

窓の外を見ると、向かいの舗道がいつの間にか若い女性で埋まっていました。そして、その群れは、上下にうねりながら駅の方に向かって進んでいました。もっとも、若い女性たちが舗道を埋め尽くす光景は、新横浜ではめずらしいことではありません。横浜アリーナでイベントがあったときのおなじみの光景です。

ただ、ホテルまで彼女たちに占領されているとは思いませんでした。サラリーマンのおじさんたちは会社のお金で宿泊するのですが、彼女たちは自腹でホテルに泊っているのです。こういうのをイベントマーケティングとでも言うのか、周辺のホテルにも思わぬ波及効果を生んでいるのでした。

騒々しくなってきたので、私はホテルを出ました。そして、遅くまでやっている駅前の本屋に行こうと、女の子たちの後ろに付いて舗道を進んで行きました。みんな口々に、「よかったね」「チョー感動したよ」なんて言ってます。「今日の席は自慢できるよ」と言っている子もいました。よほどいい席が当たったのでしょう。

しばらく歩くと、「只今サービス券を配っています! 今だけの特典です!」と呼び込みをしている声が聞こえてきました。マクドナルドでした。売上の低迷で赤字に転落したマクドナルドは、イベント帰りの女の子たち目当てに必死の営業をしているのでした。これも便乗商法と言えるでしょう。

呼び込みが功を奏したのか、マクドの店内も若い女の子たちであふれていました。私は、そんなマクドを横目に、二軒先にある本屋に行きました。ところが、本屋の前にも女の子たちの人盛りができていたのです。

店頭のワゴンに写真集を並べて売っていたのです。おそらくコンサートの出演者たちの写真集なのでしょう。私は、女の子たちの脇をすりぬけて店内に入りました。そして、しばらく本を物色したのち、1冊の新書を手に取るとレジに向かいました。すると、びっくり、レジはいつの間にか写真集を手にした女の子たちで列ができていたのです。

仕方なく、私も列の最後に並びました。でも、並んだことをすぐに後悔しはじめました。精算にえらく時間がかかって、いっこうに前に進まないのでした。写真集を買うと、特典で生写真(?)をプレゼントするみたいなのですが、6種類あるサンプルのなかから1枚選ぶのに、とんでもなく時間がかかるのでした。「どうしよう」「迷っちゃう」とかなんとか言いながらなかなか決まらないのでした。

写真集も高価で、客単価は優に5千円を越えていました。みんな、気前よく万札で支払っていました。そんななか、800円の新書を手に、如何にもイラついた様子で、何度も首を伸ばして前をうかがっているおっさんは、あきらかに場違いでした。

AKBの人形使いではないですが、こんなところにも私たちが知らない市場があったのです。そこでは想像できないくらいの大金が使われているのです。 それは、衣食住とは関係のない消費です。

それにしても、彼女たちはなんと楽しげなんでしょう。みんな、笑顔がはじけ、口々に今日体験した感動を語り合っているのでした。月並みな言い方をすれば、そこにあるのは、間違いなく”消費する喜び”です。たとえそれが仕掛けられた”感動”であっても、彼女たちは、会社に勤めたりアルバイトをしたりして貯めたお金で、その”感動”を買い、みずからを解放しているのです。

吉本隆明は、かつて埴谷雄高との間で交わされたいわゆる「コムデギャルソン論争」のなかで、『アンアン』を読み、ブランドの服を着ることにあこがれる《先進資本主義国の中級または下級の女子賃労働者たち》が招来しているものは、「理念神話の解体」であり「意識と生活の視えざる革命の進行」であると言ったのですが(1985年刊『重層的な非決定へ』)、私は、あらためてそのことばが思い出されてなりませんでした。

帰ってネットで調べたら、今日、横浜アリーナでおこなわれたコンサートは、「Kiramune Music Festival 2015」というアニメの声優たちが出演するコンサートだったようです。しかし、出演者を見ても、誰ひとり知っている名前はありませんでした。コンサートは、今日明日と2日間おこなわれるみたいで、ホテルが若い女性たちに占領されていたのも合点がいきました。それより驚いたのは、チケット料金が全席指定で1万円もするということです。それを見て、ラーメンが何杯食えるんだ?と思った私は、未だ「理念神話」に呪縛された”反動オヤジ”と言うべきなのかもしれません。
2015.05.09 Sat l 日常・その他 l top ▲
このブログももう10年書いています。光陰矢の如しとはよく言ったもので、時間の経つのははやいものです。10年経ったということは、10才年をとったということです。昔、黒柳徹子だったかが、若い頃は各駅停車の鈍行列車に乗っている感じだったけど、年をとると、急行になり特急になってどんどんはやくなっていく、と言ってましたが、とりわけ黄昏時は時間の経つのがはやく感じるものです。

この10年、なにをしていたんだろうと思います。馬齢を重ねるという言い方がありますが、ただ徒に年をとっただけのような気がして暗澹たる気持になります。

テレビを見てたら、「キラリ!元気人」とか言う青汁のCMに、女優の叶和貴子が出ていました。叶和貴子も既に50代後半になり、すっかり年老いていました。なんでも30代の半ばにリウマチを発病して、以後20年間、芸能界から遠ざかり闘病生活を送っていたそうです。

そう言えば以前も、病気で歩くのもままならず外出も控えていたけど、仔犬を飼いはじめて散歩に出かけるようになり、「元気になったのもこの子のおかげです」と言って膝に乗せたマルチーズだかを撫でているCMがありましたが、あれも青汁のCMだったのか。また、そのCMでは、たまたま通りかかった靴屋で、オーダーメイドの靴を作ったら歩くのが楽になったとかいうエピソードも紹介していました。

現在は、みずからの病気をネタに講演活動をしているようなので、病気をしたのはたしかだとしても、いくらか脚色している部分もあるのかもしれません。芸能人はタダでは起きないのです。

所詮は青汁のCMと言えばそうなのですが、でも、そうはわかっていても、「キラリ!元気人」に出ている叶和貴子に、私はどこかもの哀しさのようなものを感じてならないのです。叶和貴子は結婚もしてないようです。じゃあ、芸能界から遠ざかっていた20年間、どうやって生活していたんだろう?、なんて無粋なことはここでは考えないことにします。

若い頃、誰もが羨むほどの美貌を誇っていた女性が、病気をして悩み苦しみ、そして、人知れず年老いて行く。私は、そこに”孤独”や”生きる哀しみ”を見た気がしたのでした。なんのことはない、中高年向けの青汁のCMにまんまとはまった自分がいたのでした。

年老いていくことは哀しいことなのか。このブログで、たまたま目に付いた「歩いても 歩いても」という映画の感想を書いた記事を読み返していたら、否応なく年老いた自分を感じさせられ、しみじみとした気持になりました。「歩いても 歩いても」を投稿した当時、私はどっちかと言えば、まだ年老いた親を視る子供の立場でした。でも、親もいなくなった今、そのあとには、叶和貴子と同じようにすっかり年老いた自分がいるのです。まるで取り残されたかのように、ひとりぽつんと立っているのです。やはり、この10年は短いようで長いのでした。

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「歩いても 歩いても」
2015.05.08 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
高橋源一郎が、朝日新聞の「論壇時評」で紹介していた翁長雄志沖縄県知事の発言。これは、米軍普天間飛行場の辺野古移設問題に関して、さる4月5日におこなわれた菅官房長官との会談においての発言の一部です。

 「一昨年、サンフランシスコ講和条約の発効の時にお祝いの式典があった。日本の独立を祝うんだという、若者に夢と希望を与えるんだという話があったが、沖縄にとっては、あれは日本と切り離された悲しい日だ。そういった思いがある中、あの万歳三唱を聞くと、沖縄に対する思いはないのではないかと率直に思う」

朝日新聞デジタル
(論壇時評)ことばを贈る 根本から考えるために


また、翁長知事は、つぎのように言ってます。

 安倍総理が「日本を取り戻す」という風に、2期目の安倍政権からおっしゃってましたけど、私からすると、日本を取り戻す日本の中に、沖縄は入っているんだろうかなというのが、率直な疑問ですね。
 
それから「戦後レジームからの脱却」ということもよくおっしゃいますけど、沖縄では戦後レジームの死守をしているような感じがするんですよ。一方で、憲法改正という形で日本の積極的平和主義を訴えながら、沖縄で戦後レジームの死守をするようなことは、私は本当の意味での国の在り方からいうとなかなか納得がいきにくい、そういうものを持っております。

沖縄タイムスプラス
翁長知事と菅官房長官の会談 冒頭発言の全文


沖縄の歴史には、「琉球処分」ということばがあります。沖縄は、琉球王国として独自の文化を育み、東アジアを包括する中継貿易で経済的にも栄華を誇り、政治的には日本だけでなく中国大陸とも深い関係を築いてきました。しかし、江戸時代、鹿児島の島津藩の侵攻を受けてその支配下に置かれ、さらに明治に入ると、新政府の廃藩置県によって王国が廃止され、「沖縄県」として日本に「併合」されたのでした。それが「琉球処分」と言われるものです。

「琉球処分」された立場から見ると、翁長知事の発言は、日本国に片恋する「売国」的なものに映るかもしれません。一方、日本の立場から見ると、日本政府に、自分たちの日本に対する思いを切々と訴える翁長知事の発言ほど、「愛国」的なものはありません。

しかし、日本の立場をとる保守派の人たちは、翁長知事を「変節漢」「売国奴」「国賊」「反日」と悪罵の限りを尽くして誹謗するのです。前回の能年怜奈の記事で取り上げた『週刊文春』(5月7・14号)でも、”「沖縄のタブー」に迫る特集第3弾”と題し、「変節漢」の翁長知事を口をきわめて罵っていました。

なぜなら、中国脅威論=対米従属の強化を目論む日本政府に対して、翁長知事が東アジアの平和的共存に沖縄の未来を見ているからです。それはとりもなおさず、アメリカの意向に異を唱えることになるからです。しかし、それこそが古来から沖縄が生きてきた道でもあるのです。ここにも「愛国」と「売国」が逆さまになった戦後の背理、戦後という時代のゆがんだ光景が映し出されているように思えてなりません。

日本政府がアメリカの言いなりになるのは当然でしょう。岸信介に象徴されるように、恥も外聞もなく昨日の敵にすり寄ることで戦後も生き延びてきた保守派にとって、アメリカの言いなりになること、買弁的であることは、絶対に否定することのできない拠り所であり、みずからの存立基盤でもあるのです。それを、白井聡は「永続敗戦レジーム」と言ったのでした。

中国が攻めてくるという妄想に怯える「愛国者」たち。彼らが情けないほどの対米従属主義者であるのも、対米従属を”国是”とするこの国ではなんら矛盾も生じないのです。「従属」することが「愛国」であるという戦後の背理。そんな戦後の背理を体現するエセ「愛国者」たちにとって、沖縄は所詮、日本の防波堤、アメリカに差し出す人柱程度の存在でしかないのでしょう。だから、自分たちの意のままにならない翁長知事に、あれほど悪罵を浴びせるのでしょう。なんだか未だに「琉球処分」の発想が生きているかのようです。

本土の世論に訴えると言っても、その世論がアテにならないのです。翁長知事の発言に対する本土の反応を見るにつけ、沖縄はもはや「琉球処分」以前にまで戻るしかないのではないか、そんな気さえしてくるのでした。

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『永続敗戦論』
2015.05.05 Tue l 社会・メディア l top ▲
一部のスポーツ新聞や週刊誌が書いている能年玲奈の「洗脳」騒動。

またかと思いました。芸能人が「独立」すると決まって登場するワンパターンの記事。それは、ときに「洗脳」であったり「借金」であったり「略奪愛」であったりするのですが、必ずバックには「黒幕」がいることになっています。世間知らずの芸能人は、その「黒幕」に騙され操られているというわけです。

今回の能年怜奈も例外ではありません。「洗脳」騒動の裏事情については、下記のリテラの記事に詳しいのですが、今回はめずらしく『週刊文春』が能年サイドに立った記事を書いていました。それだけが今までとは違う点です。

リテラ
洗脳なんかじゃない! 能年怜奈の才能をつぶしているのは所属事務所のほうだ!

『週刊文春』(5月7日・14日号)の記事によれば、「あまちゃん」のオーディションで、所属事務所がプッシュしていたのは、能年ではなく、社長が直々にスカウトした川島海荷で、能年は”当て馬”にすぎなかったそうです。

NHKの朝ドラのヒロインに抜擢されてからも能年の給与は5万円で、担当していたのは要領を得ない新人マネージャーで、普段は車も付かないので、見るに見かねたNHKがタクシーチケットを用意していたのだとか。記事は、つぎのようなエピソードを紹介していました。

 東京に戻り、怒涛のスケジュールで撮影が進行していた。深夜、寮に帰ってから明日の本を読みを始め、睡眠時間は平均三時間。
 スタジオに着ていく服の洗濯も間に合わなくなった。お金もない。月給五万円では経費の精算が追いつかないのだ。 
 撮影が終盤に入り佳境を迎えた四月、ついに能年はパンクした。
 この時、能年が弱音を吐いて頼れるのは、折にふれて演技指導を受けていた滝沢しかいなかった。
 深夜、滝沢に電話した能年は泣いていた。
「寮の洗濯機が壊れて、もう明日のパンツがない」
 コンビニで買えばいいと言う滝沢に能年は訴えた。
「財布には二百円しかない」


その滝沢(充子)こそが現在、能年を「洗脳」して「独立」を画策する”黒幕”と見なされている人物です。

能年は、事務所への態度が悪いという理由で半ば干された状態にあるのですが、そのため能年が「事務所を辞めたい」と不満をもらした途端、「洗脳」「独立」の記事がいっせいに芸能マスコミに出たのでした。怖い、怖い、芸能界。やくざな芸能界を象徴する、わかりすぎるくらいわかりやすい騒動と言えるでしょう。

忘れてはならないのは、芸能マスコミが「奴隷契約」(竹中労)でタレントを縛る”人買い稼業”の使い走りをしている事実です。今回も、東スポや『女性自身』や『アサヒ芸能』などが”能年攻撃”の先兵を演じているのですが、テレビ局も含めて、芸能プロダクションの意を汲んだ低劣な芸能マスコミが、そうやって「足抜けは許さない」「裏切り者はこの世界では生きていけない」という”無言の圧力”を作り出しているのです。

石田純一などが所属するプロダクションで、運転手やマネージャーをやっていた現社長が独立してはじめた所属事務所は、体育会系でパワハラもひどくて人の出入りも激しいそうですが、その稼ぎ頭は新垣結衣なのだそうです。なんだか私のなかでは新垣結衣のイメージまで落ちてしまいました。

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『芸能人はなぜ干されるのか?』
2015.05.03 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
Google.png


先日、「モバイルフレンドリー」に関する記事を書きましたが、Googleがアナウンスしたとおり、4月21日以後、検索順位に変化がありました。しかし、自サイトに限って言えば、いささか甘く考えすぎていたと言わざるを得ません。僻んだ言い方をすれば、Googleを信用しすぎた、Googleに踊らされた感じです。

Googleは、事前に、スマホなどモバイル端末にやさしいサイト、つまり、「モバイルフレンドリー」なサイトを評価するアルゴリズムのアップデートを4月21日に世界で同時に実施する、とアナウンスしました。

そのために、自分のサイトが「モバイルフレンドリー」であるかどうかを確認できるように、「モバイルフレンドリーテスト」のページまで設けていました。そして、それに”合格”すれば、モバイル検索において、「スマホ対応」のラベルが付くようになりました。「スマホ対応」のラベルは、謂わばGoogle にお墨付きをもらったようなもの、そう思っていました。ところが、実際に蓋を開けてみると、「スマホ対応」は言われるほど意味がないことがわかりました。

私が観察するキーワードで言えば、21日以降、モバイル検索でもPC検索でも、そんなに大きな違いは出ていません。順位の変動も拍子抜けするくらい小幅です。下記は、今日現在のモバイル検索の順位です。

1位 A ◎ 
2位 B
3位 C
4位 D
5位 E ◎
6位 E ◎
7位 F
8位 G
9位 H ◎ ※自サイト
10位 I


◎印が「スマホ対応」のサイトです。10位のなかに、「スマホ対応」のサイトは、4つしか入ってないのです。しかも、そのなかで5位と6位はページが違うだけで同じサイトです。ちなみに、E社はアドワーズの広告を出しており、アドワーズでもトップに掲載されています。また、2位のB社と3位のC社は、サイトのタイトルがほとんど同じで、最初、E社と同じように、同じ会社なのかと思ったほどです(E社のタイトルもこの2社と似ています)。

さらに驚くことに、7位のF社と8位のG社は、いづれもモバイル未対応なのですが、21日以降、逆に順位がアップしてトップ10に登場したのでした(もちろん、それらは公共性のあるサイトではありません)。

Google は、モバイル対応してないと、21日以降モバイル検索の順位が下がると警告していました。自サイトにもそのようなメールが届きました。Google の警告を額面通りに受け取れば、モバイル対応すれば、少なくとも順位が下がることはないだろうと思うのが普通でしょう。まして、モバイル対応してないサイトが順位が下がるどころか、逆に順位が上がるなど想像だにしませんでした。念のために言っておきますが、これはモバイル検索での話です。

長いものに巻かれる傾向のある日本では、Googleを「すごい」「すごい」と言って、文字通り神の如く崇める人が多いのですが(ネットなんてそんな”信者”ばかりです)、ホントにGoogleは「すごい」のかと思ってしまいます。

むしろ、前も書きましたが、ますますアロガント(傲慢)な面が目立つようになっているのではないか。上記の順位にしても、以前はページあたりの表示件数は10件でした。検索サイトからのアクセスにおいて、1ページ目か2ページ目かでは天と地の差があります。だから従来は「トップ10」という言い方も成り立っていました。

ところが、いつの間にかトップページには8位(あるいは9位)までしか表示されず、9位(10位)以降は2ページ目に表示されるようになっていたのです。その代わりに、「画像」や「ニューストピック」など自社のサービスのリンクが挿入されています。キーワードによっては、YouTubeのリンクが貼られている場合もあります。Yahoo!に至ってはもっと露骨で、Yahoo!ショッピングやヤフオク!などのリンクが貼られています。要するに、自社のサービスを入れるために、表示の件数を削っているのです。

弱小サイトにとって、検索順位は命綱です。そのため、なんとか上位(トップ10)に入るように、SEOに四苦八苦しているのです。Google のやり方は、 そんな弱小サイトにとってアロガント以外のなにものでもないでしょう。

先日、わいせつ動画を放置していたとしてFC2の「運営会社」の社長らが逮捕されましたが、YouTubeも事情は同じでしょう。さすがにわいせつ動画は少ないものの、違法動画ならいくらでもあります。「削除が追いつかない」「表現の自由との兼ね合いで対応しづらい」とかなんとか言いながら、違法動画に広告を貼ってマネタイズしているのですから、「確信犯」と言われても仕方ないでしょう。

先月(4/15)、欧州連合(EU)の執行機関である欧州委員会が、Googleに対して、「欧州における検索市場での独占的地位(欧州では9割)を乱用し、検索結果を自社に有利になるよう操作した」「EU競争法(独占禁止法)に違反した疑いがある」として、「異議告知書」を送ったというニュースがありました。

ITmedia ニュース
EU、Googleに検索事業に関する異議告知書送付 Androidの調査も開始

具体的には、Googleショッピングの表示を優先するように検索結果を操作したというものですが、こういった欧州委員会の姿勢には、検索というのは公共性が高く、公平でなければならないという考えがあるからでしょう。でも、日本ではそういった考えは少ないのです。どうして欧州委員会のような視点がないのだろうと思います。

そもそも「スマホ対応」にしても、(前の記事と矛盾しますが)その基準はあくまでユーザーにあるはずなのです。モバイルで見にくいサイトであれば自然と淘汰されるはずです。ユーザーから見て、情報量の少ないスマホ用サイトよりPCサイトのほうが見やすい場合だってあるわけで、別にGoogleに強制される話ではないでしょう。GoogleがPC検索とタブレット検索とモバイル検索に分けているのは、そこになにか別の思惑があるからではないかと勘ぐらざるを得ません。そして、その思惑に振りまわされるのが、androidユーザーと私たちのような弱小サイトなのです。

15年前、Googleが登場したとき、私たちは感動しました。たしかに掛け値なしに「すごい」と思いました。しかし、今のGoogleに、あのときの感動はありません。Googleらしい斬新なサービスも久しく目にしていません。耳にするのは、金にものを言わせた買収の話ばかりです。Googleは、今でも胸を張って”Don't be evil”と言えるのか、そう問い質したい気持です。


関連記事:
Don't be evil
10年目のGoogle
2015.05.02 Sat l ネット l top ▲
テレビのニュースで、安倍首相のアメリカ議会での演説を見ていたら、なんだかデジャヴを覚えました。安倍首相の演説は、まるで植民地の傀儡政権の長が、宗主国の議員たちを前に行っている演説のようでした。その卑屈なまでに阿るようなことばの数々。どこかで見たような気がします。

そうです、田中慎弥の『宰相A』と同じなのです。「もうひとつの日本」のテレビでくり返し流されている「宰相A」の演説。旧日本人の居住区で解放闘争の決起を促されているときも、「日本軍」に捕えられ拷問されているときも、「宰相A」の演説が流れていました。

「宰相A」は、アングロサクソンの「日本人」たちを前に、英語で(!)演説をしています。

「我が国とアメリカによる戦争は世界各地で順調に展開されています。いつも申し上げる通り、戦争こそ平和の何よりの基盤であります。戦争とという口から平和という歌が流れるのです。戦争の器でこそ中身の平和が映えるのです。戦争は平和の偉大なる母であります。両者は切っても切れない血のつながりで結ばれています。健全な国家には健全な戦争が必要であり、戦争が健全に行われてこそ平和も健全に保たれるのです・・・」


もしかしたら、私たちは”悪夢”を見ているのかもしれません。安倍首相のその姿は、どう見ても傀儡そのものですが、しかし、この国では彼は絶対的な「愛国者」なのです。少しでも彼を批判すれば、中国が攻めてくるという妄想に怯えるネトサポやネトウヨたちから「反日」「売国奴」のレッテルを貼られて、袋叩きに遭うのです。

『宰相A』の「A」は、アドルフ・ヒットラーの「A」であり、安倍晋三の「A」でもあるのだそうですが、この”奇妙な一致”がますます”悪夢”を”悪夢”たらしめているような気がしてなりません。

安倍首相は演説のなかで、自分が岸信介の孫であることを強調していましたが、岸信介は、A級戦犯として巣鴨プリズンに収容されるものの、なぜか無罪放免になります。それは、岸がCIAのエージェントになることを承諾したからだと言われました。やがて総理大臣になった彼は、アメリカに「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を保障した安保体制の成立に尽力したのでした。そして、今、その孫は、アメリカに「望むだけの軍隊を望む場所に派遣する」日米安保のガイドラインの改定を約束したのです。もちろん、前者の「軍隊」はアメリカの軍隊ですが、後者の「軍隊」は日本の軍隊(自衛隊)です。

「愛国」と「売国」が逆さまになった戦後という時代の背理。今、私たちが見ているのはそんな”悪夢”なのではないか。

関連記事:
『宰相A』
『永続敗戦論』
2015.05.01 Fri l 社会・メディア l top ▲