いい加減食傷気味なのは重々承知ですが、あと一度だけ『絶歌』について書きたいと思います。と言うのも、朝日新聞の「『絶歌』出版を考える」企画の第二弾(下)で、荻上チキと斎藤環両氏のインタビューが掲載されていたのですが、その記事を読んで思うところがあったからです。

朝日新聞デジタル
(表現のまわりで)『絶歌』出版を考える:下 何が読み取れるのか 識者に聞く

ハフィントンポスト(転載)
『絶歌』何が読み取れるよのか 荻上チキさん・斎藤環さん

二人のインタビューは、好対照、と言うより、まったくレベルの違うものでした。萩上キチは、大方の人たちと同じように、世間の”反発”をただなぞっただけの薄っぺらな”感想”に終始していました。要するに、誰でも言えることを言っているだけです。最近、テレビの情報番組に、口だけ達者な芸能人がコメンテーターとして出ていますが、荻上キチが言ってることはそんな芸能人となんら変わらないのです。

一方、斎藤環氏は、精神分析の専門家だけあって、示唆に富んだ分析をしていました。

 彼は祖母への愛着から性的な発展がいびつな方向に向かい、嗜虐(しぎゃく)的な方法でしか快楽が得られなくなります。その後、手段が急激にエスカレートしていく過程は、アルコールなどの依存症者のパターンとよく似ています。最初は猫を殺すことで満足していたのが、次第に耐性がついて同じ刺激では満足できなくなる。

 彼は他人と違う衝動を抱えた劣等感が強く、孤立感を抱えたまま自己を追い詰めていった可能性があります。どうすれば良かったかと言われれば、そうした性的嗜好(しこう)が思春期には特別なものではないことを説明できる大人が、じっくり彼の話を聞く機会を持つことが抑止効果を持ち得たかもしれません。


逮捕されたあと、面会に来た叔母さん(母親の妹)が、泣きながら「A、ごめんな、ごめんな」と謝ったというのも、そういった後悔の念があったからかもしれません。

私たちも、専門家ではないので斎藤環氏の分析のすべては無理だとしても、その半分くらいは読み取ることができるのではないでしょうか。

罪を憎むことは簡単です。小田嶋隆氏や荻上チキのように、罪を非難するだけなら誰でもできる。しかし、同時に罪の先にある人間を見ることも必要ではないのか。少くともそれが「識者」の役割ではないのか。

斎藤環氏の分析にもあるように、『絶歌』の本質は、むしろ第一部のなかにあるのだと思います。それを荻上チキは、「いかにも90年代的な言葉遣いがちりばめられた第一部は、痛々しくて読むのが苦痛でした。冗舌ですが表層的。」と否定するのでした。要するに、なにも読み取ることができず(読み取る気もなく)、ただ俗情と結託しているだけなのです。

荻上キチが否定する「いかにも90年代的な言葉遣い」(90年代的な言葉遣いってなに?って感じですが)についても、斎藤氏は、「象徴的表現をたくさん使うのは健全化の証拠」と言ってました。

ゼロ年代の批評家たちは、どうしてこんなに揃いも揃って人間に対して鈍感なのでしょうか。いや、それは人間に対してだけではありません。政治に対しても然りです。彼らの相対主義的な言説は、案外全体主義のそれと隣接しているのではないか。
2015.06.30 Tue l 本・文芸 l top ▲
日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ


安倍チルドレンの勉強会(文化芸術懇話会)で飛び交ったトンデモ発言の数々(以下、引用はYahoo!ニュースの記事より)。

「マスコミを懲らしめるには、広告料収入がなくなるのが一番。(略)日本を過つ企業に広告料を支払うなんてとんでもないと、経団連などに働きかけしてほしい」(東京16区・大西英男衆院議員)

「日本全体でやらなきゃいけないことだが、スポンサーにならないことが一番(マスコミは)こたえることが分かった」(福岡1区・井上貴博衆院議員)

「沖縄の特殊なメディア構造をつくったのは戦後保守の堕落だ。(略)沖縄のゆがんだ世論を正しい方向に持っていくために、どのようなアクションを起こすか。左翼勢力に完全に乗っ取られている」(比例近畿ブロック・長尾敬衆院議員)

極めつけは、講師で招かれた百田尚樹氏の発言です。

「本当に沖縄の二つの新聞社は絶対つぶさなあかん。沖縄県人がどう目を覚ますか。あってはいけないことだが、沖縄のどっかの島でも中国にとられてしまえば目を覚ますはずだ」

「もともと普天間基地は田んぼの中にあった。周りに何もない。基地の周りが商売になるということで、みんな住みだし、今や街の真ん中に基地がある。騒音がうるさいのは分かるが、そこを選んで住んだのは誰やと言いたくなる。基地の地主たちは大金持ちなんですよ。彼らはもし基地が出て行ったりしたら、えらいことになる。出て行きましょうかと言うと『出て行くな、置いとけ』。何がしたいのか」

「沖縄の米兵が犯したレイプ犯罪よりも、沖縄県全体で沖縄人自身が起こしたレイプ犯罪の方が、はるかに率が高い」

Yahoo!ニュース
「マスコミ懲らしめるには…」文化芸術懇話会の主な意見(朝日新聞デジタル)

頭は大丈夫か?と言いたくなりますが、これが政権与党の国会議員や総理大臣のブレーンの発言であるのかと思うと、身の毛がよだつ気がします。これらの発言の背景にあるのは、骨の髄まで染み込んだ従属思想であり、奇形な、歪んだナショナリズムです。彼らにとっては、対米従属こそが「愛国」なのです。日本人として本来恥ずべきことですが、彼らはそれを「愛国」と強弁するのです。だからこそ(みずからの従属思想を合理化するために)、対米従属に盾をつく人間は「日本を貶める」「反日」でなければならないのです。従属思想が「愛国」になるという詭弁。ここにもまた、「愛国」と「売国」が逆さまになった戦後の背理が見事なほど露呈していると言えます。

百田氏が発言したような話は、ネットでは「沖縄の真実」としていくらでも見ることができます。実際、百田氏自身も沖縄タイムスだかのインタビューで、発言したような話は「ネットで知った」と言ってました。これじゃネトウヨもどきではなく、ネトウヨそのものです。こんな人物が時の総理大臣と共著で本まで出し、この前まで政権の後押しでNHKの経営委員をしていたのです。

しかも、百田氏は、騒動のあともTwitterで、「私が本当につぶれてほしいと思っているのは、朝日新聞と毎日新聞と東京新聞です」と開き直りともとれるような発言をくり返しているそうです。と言うことは、読売と産経と日経は「好意的」に見ているということなのでしょうか。百田氏のことを「永遠の〇」ならぬ「永遠のバカ」と言った人がいましたが、たしかにわかりすぎるくらいわかりやすい人物だと言えます。

でも、週刊新潮や週刊文春はこんな百田氏を決して”批判”することはありません。もちろん、彼のスキャンダルを書くなんて天地がひっくり返ってもあり得ません。翁長雄志沖縄県知事に対しては、あれほど口をきわめて罵るくせに、百田センセイはどんなトンデモ発言をしても一貫して擁護するのです。

そんな新潮や文春は、一方で、”権威”ある文学賞の勧進元をつとめる文壇の大スポンサーでもあります。作家センセイたちにとって、新潮や文春から本を出すことがステイタスだと言われています。そのため、作家や評論家のセンセイたちもまた、新潮や文春のえげつない体質を批判することはありません。普段、反戦平和のリベラルな意見を口にしているようなセンセイでも、新潮や文春批判は禁句なのです。

これこそ「閉ざされた言語空間」と言うべきではないでしょうか。ここには既に、自民党が望む「報道統制」の雛型があると言えるでしょう。
2015.06.29 Mon l 社会・メディア l top ▲
今日の夜、カーラジオでTOKYO FMを聴いていたら、「TIME LINE」という番組で、『絶歌』のことを取り上げていました。そのなかで、コメンテーターのコラムニスト・小田嶋隆氏が、『絶歌』について、本名も明かさず自己顕示欲だけでこのような本を書くのはおかしい、というような趣旨の発言をしていました。私はそれを聞いて、びっくりしました。まさか小田嶋氏がこのような発言をするとは思ってもみなかったからです。

さらに、アメリカの出版事情に詳しいという女性がゲストで登場し、アメリカで施行されている「サムの息子法」について説明していました。「サムの息子法」というのは、犯罪者がみずからの犯罪について本を書いた場合、それによって得た利益(印税)を被害者やその家族が強制的に取り上げることができるという法律です。しかし、言うまでもなく、本を書くことや本の印税を得ることは、憲法で保障された基本的な権利です。「サムの息子法」は、表現の自由や経済活動の自由を侵害するとんでもない法律と言えないこともないのです。

テレビやラジオのコメンテーターたちが始末が悪いのは、「表現・出版の自由は尊重されるべきですが」と前置きしながら、実際は世間の空気に迎合して、犯罪者は表現の自由を制限されて当然だ、犯罪者の本を出版するような出版社に出版の自由はない、と言わんばかりの発言をしていることです。どうして、内容の議論より表現そのものを制限するような話になるのか。

小田嶋氏に至っては、書いた本人よりこんな本を出す出版社のほうが問題だ、個人の利益だけでなく出版社の利益も取り上げるようにすべきだ、と言ってました。これでは、場合によっては出版の自由が制限されても仕方ないと言っているようなものです。言論統制を目論む和製ヒットラーが聞いたら拍手喝采するような話でしょう。

このような主張は、STAP細胞問題の”小保方バッシング”のときからずっとつづいている、この社会の全体主義的な空気を反映したものと言えるでしょう。常に”異物”を排除しようとする日本社会特有の同調圧力が、このような空気を作り出しているのは間違いないでしょう。なんのことはない、みずから進んで「もの言えば唇寒し」社会を招来しているのです。

朝日新聞のインタビュー記事での森達也氏の発言にしても、どこか腰が引けた感じで歯切れが悪いのも、こういった抗えない空気があるからでしょう。でも、それは、”抗えない”のではないのです。抗ってないだけです。

『絶歌』に対する世間の過剰な反応で垣間見えたのは、私たちの”市民としての日常性”が、実は差別と排除の力学によって仮構されているという、この社会の構造です。「少年A」「酒鬼薔薇聖斗」という私たちの日常を脅かす”異物”が目の前に現れると、このようにたちどころに私たちの日常が牙を剥くのです。なぜなら、私たちの”市民としての日常性”は、本来フィクションであって、ただ差別と排除の力学によって仮構されているにすぎないからです。”異物”を不断に差別し排除することによって、私たちの日常が保守されるのです。その構造は、小田嶋氏のように、原発再稼働反対とか改憲反対とか安倍政権打倒とかに関係ないのです。

私たちの日常がもっとも凶暴なかたちで露出したのが、関東大震災の際の朝鮮人虐殺です。朝鮮人虐殺は、イデオロギーの問題なんかではなく、”市民としての日常性”が危機に瀕したとき、差別と排除の力学があのようなテロルを私たちの日常に呼び込んだのです。だから、「善良なる市民」(!)たる芥川龍之介も、自警団のひとりとして、ためらいもなく狂気の隊列に加わったのでした。

匿名ではなく本名を名乗れ。(ネットでは既に本名が晒されていますが)そうやって”テロルとしての日常性”を挑発するコメンテーターたち。でも、彼らは、作家や評論家にペンネームではなく本名を名乗れとは言いません。犯罪者(元犯罪者)なら、”私刑”の標的にされ晒し者にされても当然だ、とでも言いたげです。反知性的な風潮を嘆くような人たちが、みずから反知性的な風潮に身を寄せて、一緒になって石を投げているのです。
2015.06.27 Sat l 本・文芸 l top ▲
絶歌


『絶歌』(太田出版)を読み終えました。

『絶歌』は、第一部と第二部の二部構成になっているのですが、第一部と第二部では文体が違っています。著者の元少年Aが長い時間をかけて書いたのは第一部のほうで、第二部は、あとから編集者の要請で書き足したのではないかと思ったくらいです。

第一部は、須磨警察署に逮捕され、神戸家庭裁判所で審判を受け(その間60日間の精神鑑定を受け)、関東少年医療院への送致が言い渡されるまでの約4カ月間の出来事を綴ったものです。そのなかで、事件の”真相”が回想されるのでした。

寺山修司は、人生において読書ができるのは、学生時代か病院に入院しているときか刑務所に入っているときしかない、と書いていましたが、著者も例外ではなく、関東少年医療院に入っているときに、「読書療法」の名目で差し入れられた数々の文学作品によって、読書する楽しみを覚えたと書いていました。影響を受けたのは、三島由紀夫と村上春樹で、なかでも、三島由紀夫の『金閣寺』は「”僕の物語”だと思った」「僕の人生のバイブルになった」と書いていました。

第一部では、そういった読書体験で得た手法を使って、犯行に至る過程や逮捕されたあとの心情を、過剰とも言えるほど凝りに凝った文体で綴っているのでした。あまりに凝りすぎな感じで逆に辟易するくらいでした。

一方、第二部は、第一部と違って簡潔な文体になっています。内容は、2004年4月、関東少年医療院を「仮退院」して、弁護士や篤志家のサポートなどを受けながら、社会復帰していく過程を綴ったものです。でも、当然ながらそれは容易なものではありません。神戸連続児童殺傷事件の少年Aであることがバレそうになって、急遽転居したり、職場になじめず転職したりと、職と住まいを転々とする生活でした。著者もその心境をつぎのように書いていました。

信頼されている?
必要とされている?
社会の一員として受け入れられている?
そんなものはファンタジーにすぎなかった。
自分は周りを騙している。そんな後ろめたさが芽生え、人と関わりを持つことが怖くてならなかった。


一度捨て去った「人間の心」をふたたび取り戻すことが、これほど辛く苦しいとは思わなかった。まっとうに生きようとすればするほど、人間らしくあろうと努力すればするほど、はかりしれない激痛が伴う。


少年Aの犯罪については、神戸家庭裁判所の審判で、精神的な疾患による特異な犯罪と判定され、”刑罰”ではなく治療が必要という結論が下されたのです。さらに、治療を終え、「仮退院」の保護観察期間を経て、更生していると判断されて「本退院」しているのです。既に法的な「縛り」もなくなっているのです。ネットや週刊誌の”ためにする”誹謗や、つぎの諸澤英道氏の発言を考える上で、このことを確認しておく必要があります。

刑法や少年法が専門の常磐大学教授の諸澤英道氏は、朝日新聞の記事(下記参照)のなかで、『絶歌』について、「文学的な脚色が多く、事件と向き合っていくという真摯(しんし)さが伝わってこない」「刑法でのサンクション(制裁)とはレベルがあまりに違い、世間が『罪を償っていない』と感じるのも無理はありません」「過去を清算して新しい人生を歩む覚悟があるなら、少年法で保護された延長線上で匿名のまま発信するのではなく、実名で出版すべきでした」と批判していました。

朝日新聞デジタル
(表現のまわりで)『絶歌』出版を考える:上 加害者は語りうるか 識者に聞く

しかし、少年Aの処分は法律に則っておこなわれ、適切に処理されているのです。異論があるなら元少年Aではなく、裁判所に反論すべきでしょう。まして、匿名で書くか、実名で書くかなんて個人の自由でしょう。諸澤氏の発言は、今の安保法制と同じで、立憲主義ならぬ罪刑法定主義、強いては少年法の理念をもないがしろにする、法律の専門家にあるまじき”感情論”で、これこそ俗情との結託と言うべきです。

『絶歌』を読んだ人の間では、第二部のほうが評判がいいようです。たとえば、アパートを借りる保証人にもなってくれた職場の先輩に、夕飯に誘われて先輩の自宅を訪れた際、小学校に上がったばかりの先輩の娘を見て、激しく動揺する場面があります。

 無邪気に、無防備に、僕に微笑みかけるその子の眼差しが、その優しい眼差しが、かつて自分が手をかけた幼い二人の被害者の眼差しに重なって見えた。
 道案内を頼んだ僕に、親切に応じた彩花さん。最後の最後まで僕に向けられていた、あの哀願するような眼差し。「亀を見に行こう」という僕の言葉を信じ、一緒に遊んでもらえるのだと思って、楽しそうに、嬉しそうに、鼻歌を口ずさみながら僕に付いてきた淳君の、あの無垢な眼差し。
 耐えきれなかった。この時の感覚は、もう理屈じゃなかった。


そして、少年Aは、「食事の途中で体調の不良を訴えて席を立ち、家まで送るという先輩の気遣いも撥ね退け、逃げるように彼の家をあとにした」のでした。自宅に帰るバスのなかでも涙がとまらなかったそうです。

こういう場面に、悔恨と贖罪を読む人も多いはずです。でも、私は、そういう解釈には首を捻らざるをえません。『罪と罰』のラストシーンをあげる人もいますが、なんだか安っぽいテレビドラマを見ているような感じがしないでもありません。現実の人間というのは、ホントにこのようにアプリオリな存在なのでしょうか。もっと屈折しているのではないか。むしろ、この文章で捨象した部分こそ大事なのではないかと思います。

そもそも謝罪なんて受け入れられるものではないと思います。自分の子どもを殺された親が、どんなかたちであれ、受け入れる謝罪なんてないでしょう。

少年Aは、慕っていた祖母が亡くなったあと、祖母が使っていた電気按摩器によって精通を体験するのですが、それが性的倒錯に陥るきっかけになったのでした。

祖母の部屋で初めて射精し、あまりの激痛に失神して以来、僕は”痛み”の虜だった。二回目からは自慰行為の最中に血が出るほど舌を強く噛むようになり、猫殺しが常習化した小学校六年の頃には、母親の使っていたレディースカミソリで手指や太腿や下腹部の皮膚を切った。十二歳そこそこで、僕はもう手の施しようのない性倒錯者になった。


しかも、それは、「死を間近に感じないと興奮できない」「”黒い性衝動”」でもありました。

また、犯行後も、”アエダヴァーム”に隠していた淳君の頭部を手提げバッグに入れ、それを自転車の前カゴに乗せて自宅に持ち帰ると、頭部を風呂場に持って行って、「殺人より更に悍ましい(引用者註:おぞましい)行為に及んだ」のでした。しかも、それ以降2年間、まったく性欲を感じず、勃起もしなかったそうです。

少年のヰタ・セクスアリスがおぞましいかたちで逸脱した、その延長上に少年Aの犯罪があったのです。

 僕と淳君との間にあったもの。それは誰にも立ち入られたくない、僕の秘密の庭園だった。何人たりとも入ってこられぬよう、僕はその庭園をバリケードで囲った。
 凶悪で異常な根っからの殺人者だと思われても、そこだけは譲れなかった。誰にも知られたくなかった。その秘密だけは、どこまで堕ちようと守り抜かなくてはならない自分の中の聖域だった。


こんな性的倒錯の犯罪にどんな悔恨や贖罪があり、どんな謝罪があるというのでしょうか。もはやそれは文学的なことばでしか”説明”がつかないのです。諸澤氏が批判する「文学的に脚色」して表現するしかないのです。要するに、文学という”絶対的自由”によってしか表現できないのではないか。

 居場所を求めて彷徨い続けた。どこへ行っても僕はストレンジャーだった。長い彷徨の果てに僕が最後に辿り着いた居場所、自分が自分でいられる安息の地は、自分の中にしかなかった。自分を掻っ捌き、自分の内側に、自分の居場所を、自分の言葉で築き上げる以外に、もう僕には生きる場所がなかった。


著者は、ものを書くこと(文学)に自己救済の道を見つけようとしているのです。であれば、ありきたりな悔恨や贖罪ではなく、徹底的に悩み苦しみ、人非人としてイバラの道を歩むしかないのです。そして、自分のことばで心の奥深くに分け入り、人間存在の本質にせまるなかで、忌まわしい犯罪を犯したみずからの心の在処をあきらかにすべきでしょう。

『絶歌』には、その姿勢は見てとれます。しかし、まだ序章にすぎないと思いました。
2015.06.24 Wed l 本・文芸 l top ▲
『絶歌』(太田出版)を手に入れました。戸塚の有隣堂に1冊だけ残っていたのです。なんだか「奇跡」に遭ったような気持でした。もっとも、来週には重版が出来上がるので、徐々に入荷する予定だと言ってました。

まだ、帰りの電車のなかで30ページほど読んだだけですが、たしかに文章がうまいなと思いました。研ぎ澄まされた文体とは言い難いけど、読む者をぐいぐい引き込んでいく力があります。少年Aがこんなに頭のいい人間だったとは、思ってもみませんでした。これではネットのイタい人間たちは、少年Aの足元にも及ばないでしょう。

犯行現場となったタンク山や犯行に使った凶器を捨てた向畑ノ池。それらは、少年Aにとって特別な思い入れのある場所だったのです。タンク山と向畑ノ池(むこうはたけのいけ)と入角ノ池(いりずみのいけ)は、「誰にも立ち入られることのない、自分だけの聖域」であり、「この世界のどこにも属することができない自分の、たったひとりの居場所」だったと言います。

 虫一匹もいないのではないかと思わせる閑静なニュータウンと、原初の森の記憶をとどめる鬱蒼とした入角ノ池の対比は強烈だった。それはあたかも僕の無機質な外見と、その裏に潜む獣性を投影しているかのような風景のコントラストだった。両極端な”ジキル”と”ハイド”が鬩ぎ合いながら同居する僕の二面性は、”人工”と”自然”がまったく調和することなく不自然に隣り合う、このニュータウン独特の知貌に育まれたのかもしれない。
 入角ノ池のほとりには大きな樹があり、樹の根元には女性器のような形をした大きな洞がバックリ空いていた。池の水面に向かって斜めに突き出た幹は尖端へいくほど太さを増し、その不自然な形状は男性器を彷彿とさせた。男性器と女性器。アダムとエヴァ。僕は得意のアナグラムで勝手にこの樹を”アエダヴァーム(生命の樹)”と名付け愛でた。
 水面にまで伸びたアエダヴァームの太い幹に腰掛け、ポータブルCDプレイヤーでユーミンの「砂の惑星」をエンドレスリピートで聴きながら、当時の”主食”だった赤マル(引用者註:マールボロ)をゆっくりと燻らすのが至福のひとときだった。


少年Aは、その”アエダヴァーム”と名付けた「女性器のような形をした大きな洞」に、土師淳君の遺体の一部(頭部)をひと晩隠したのでした。そして、この「解せない行動」について、「ふざけた事をほざくな」と言われるのを承知で、もしかしたら土師淳君を「”生き返らせたかった”のではないか」と自己分析するのでした。

森鴎外の言うヰタ・セクスアリス。思春期の男の子にとって、それはときに深刻なものですらあります。思春期の少年犯罪のかなりの部分に、ヰタ・セクスアリスが関係しているというのは、多くの専門家も指摘しているところです。少年たちは、大なり小なりそんな闇を心のなかに秘匿しているのです。私たちの性の目覚めと少年Aの猟奇的な犯罪が、紙一重とは言わないまでも、同一線上にあるのはたしかでしょう。私は、ネットの人間たちのように、少年Aの犯罪をまったく他人事と見ることはどうしてもできないのです。そこまで自分にバカではないつもりです。

また、最後の「被害者のご家族の皆様へ」のなかで、少年Aは、つぎのように書いていました。

 この十一年、沈黙が僕の言葉であり、虚像が僕の実体でした。僕はひたすら声を押しころし生きてきました。それはすべて自業自得であり、それに対して「辛い」「苦しい」などと口にすることは、僕には許されないと思います。でも僕は、とうとうそれに耐えられなくなってしまいました。自分の言葉で、自分の思いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい。朝から晩まで、何をしている時でも、もうそれしか考えられなくなりました。そうしないことには、精神が崩壊しそうでした。自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの「生きる道」でした。僕にはこの本を書く以外に、もう自分の生を掴み取る手段がありませんでした。
 本を書けば、皆様をさらに傷つけ苦しめることになってしまう。それをかわっていながら、どうしても、どうしても書かずにいられませんでした。あまりにも身勝手すぎると思います。本当に申し訳ありません。


『絶歌』には、単なる贖罪ではない、その先にあるものを見ようとする姿勢があります。それが世間の反発を招き、ネットの悪意を誘発しているのでしょう。でも、だからこそ『絶歌』が、読みごたえのある本になっているとも言えるのです。

変な言い方ですが、『絶歌』は読んで損のない本だと思います。雑音に惑わされるのではなく、自分の目で読めば、いろんな思いや考えが去来するはずです。そして、反発するにせよ、同情するにせよ、みずからの人生観や人間観が激しくゆさぶられるはずです。それだけでも読んで損はないと思います。

読み終えたら、あらためて感想を書きたいと思います。
2015.06.20 Sat l 本・文芸 l top ▲
私は、へそ曲がりなので、話題になった本はあまり読まないのですが、少年Aの『絶歌』は読みたいと思いました。しかし、書店をまわっても在庫がありませんでした。それどころか、ネットもどこも品切れでした。

『絶歌』については、「ネットで批判が殺到」などと言われていますが、しかし、Amazonのレビューなどを見る限り、(レビューがどういうしくみになっているのかわかりませんが)実際に本を読んでなくて、ただ感情的に「批判」(というより誹謗)しているようにしか思えません。もともとAmazonのレビューには、この手の”ためにする”誹謗が多いのですが、特に今回は「炎上」目的でそれが集中している感じです。「遺族の許可を取ってない」とか「不買運動を起こそう」とか、そんな”頭の悪いこと”しか言えないイタい人間たち。

Amazonでは、1620円の定価に対して、3千円とか4千円の高値で売っているマーケットプレイスの書店がありました。こういう便乗商法こそ批判されるべきでしょう。

一方、京王電鉄系列の啓文堂書店が、「遺族感情に配慮して」、『絶歌』の販売を自粛することを決定したというニュースもありました。私は、如何にも鉄道会社らしい官僚的な対応(=事なかれ主義)だなと思いました。判断するのは書店ではなく、読者なのです。自粛を決めた「上層部」というのは、もともと出版文化とは関係のない親会社の京王電鉄からの天下りなのでしょう。私は、このような俗情と結託して”焚書坑儒”に加担するような書店が、「良識を示した」とか「英断だ」とか称賛される風潮こそ、逆におぞましいと思いました。

秋葉原事件の加藤智大被告も何冊か本を出していますが、彼の場合、今回のような大きな批判はありませんでした。私は、昨年発売された『東拘永夜抄』(批評社)を読みましたが、全然期待外れでつまらなかったです。自己を対象化することばがあまりにも稚拙なのです。それがあの短絡的な犯罪と結び付いているのかと逆に思ったくらいです。

『絶歌』を読んだ人の間では、少年Aの文章力と表現能力の高さにびっくりしたという声が多いそうです。今回、ネットで反発を呼んだのは、そういった少年Aの才能に対するやっかみもあるのではないかという見方もありますが、あながち的外れとは言えないのかもしれません。そうなるとますます『絶歌』を読みたくなります。又吉の小説なんてどうでもいいけど、少年Aの手記は読みたいと思います。あとは読んでどう思うかでしょう。

今回は手記のようですが、殺人犯が小説を書いても構わないのです。それが文学というものです。もし彼にホントに才能があるなら、ドフトエフスキーや太宰治やカポーティに匹敵するような小説が書けるかもしれない。その可能性だってあるのです。

週刊誌の記事によれば、少年Aが最初に出版を依頼したのは、幻冬舎だったとか。しかし、幻冬舎の見城徹社長は、百田茂樹の『純愛』で批判を浴びたばかりで、しかも安倍首相の”お友達”でもあるので、出版を断念。それで、太田出版に企画を持ち込んだと言われていますが(「押し付けた」と言う人もいますが)、腐っても鯛とはこのことでしょう。私は、見城氏をちょっと見直しました。

小説家というのは、本来、市民社会の埒外に存在する”人非人”なのです。往来を歩けば、石が飛んでくることだってあるのです。”人非人”だからこそ、人間存在の本質にせまるような作品が書けるのです。見城氏も、そんな編集者として最低限の”見識”は失ってなかったと言うべきでしょう。

関連記事:
『狂人失格』
2015.06.19 Fri l 本・文芸 l top ▲
よみがえる夢野久作


昨日、書店に行ったら、平岡正明の『山口百恵は菩薩である』(講談社)がリメイクされ、四方田犬彦編集の「完全版」と銘打ち発売されていたのでびっくりしました。

しかも、価格が4320円だったので、二度びっくりしました。平岡正明は竹中労・太田竜とともに、当時、「三バカ・ゲバリスタ(世界革命浪人)」と呼ばれ、ある意味で全共闘世代の”アイドル”でもありました。Amazonでは、「革命的名著、完全版となって、いま甦える!!」というキャッチコピーが付けられていましたが、今回のリメイクは、AKBと同じような、全共闘世代を対象にした”アイドル商法”と言えるのかもしれません。

私が『山口百恵は菩薩である』を読んだのは、九州にいた若い頃です。山口百恵ファンの私にとって、あの平岡正明が山口百恵を論じたこと自体、衝撃的な出来事でした。ちなみに、平岡正明は、その前だったと思いますが、朝日新聞の「レコード評」の歌謡曲欄を担当していたこともありました。

しかし、昨日、私が買ったのは、『山口百恵は菩薩である』ではなく、同じ四方田犬彦氏の『よみがえる夢野久作』(弦書房)という本です。『よみがえる夢野久作』は、昨年の5月に福岡市でおこなわれた福岡ユネスコ協会主催の四方田氏の講演を書籍化したものです。

私は、若い頃、夢野久作や久生十蘭や小栗虫太郎や牧逸馬(谷譲次)など、戦前に活躍した探偵小説作家に惹かれ、彼らの作品を片端から読んだ時期がありました。私が「蠱惑的」ということばを覚えたのも、彼らの作品を読んでからです。彼らは、主に『新青年』という雑誌を舞台に活躍したのですが、その作品群には探偵小説や幻想小説という範疇には収まりきれない独特の世界観があります。それは、今の小説にはないものです。

なかでも、夢野久作の作品は特別でした。私は、文字通り彼の「蠱惑的」な小説の世界に魅了され、どっぷり浸かったのでした。

『東京人の堕落時代』は、夢野久作が「九州日報」(西日本新聞の前身)の記者だったとき、1923年9月と1924年9月~10月の二度にわたって、大震災に見舞われた東京を訪れ、そこで見たものを同紙に連載したルポルタージュです。

四方田氏は、『東京人の堕落時代』について、「夢野が被災地の東京で獲たものとは人間の堕落であり、廃墟と化しているのは建築ばかりではなく、人間そのものであるという認識」だったと言ってました。

最初の震災直後の上京の際は、九州から船を乗り継いで、東京に入ったのですが、廃墟となった東京は人影もなく「がらーんとしているだろう」と思っていたら、実際は人であふれ、道路も大混雑していたそうです。

(略)彼はそれを、冷静に観察している。「しかし、そうやっている群衆の八割か九割は、物見遊山の見物客であり、野次馬である」と書くのです。つまり、震災によって壊れたものが面白くて見に来ている人たちだと。実際の避難民の人たちというのはわずか「五厘」と言っています。五厘だから〇.五%ですか。とにかく少ないと思う。避難民の人がぞろぞろ歩いているんじゃない、と言う。みんな、何が壊れたかとか、そういうものを面白がって見に来ているんだと書いてしまう。そして、そうした事態に対し彼は非常に不快感を持っています。


そんななか、朝鮮人が井戸に毒を入れたなどという流言飛語によって、6千人の朝鮮人が虐殺されたのでした。手を下したのは、軍人や刑務所が倒壊し解放された囚人などもいましたが、大半は自警団に組織されていた一般の市民たちでした。「十五円五拾銭」と言わせて、「チューコエンコチセン」と発音した者は朝鮮人と見做され、頭に斧や鳶口が振り下ろされたのです。千田是也や折口信夫も、朝鮮人に間違われて殺されそうになったそうです。しかも、状況が落ち着くと、自分たちがやったことを闇に葬るべくみんなで口を噤んだのです。

詩人の萩原朔太郎は、そんなおぞましい狂気の所業に憤り、「朝鮮人あまた殺されたり / その血百里の間に連らなれり / われ怒りて視る、何の惨虐ぞ」と詠ったのでした。また、自警団の一員であった芥川龍之介は、「大正十二年九月一日の大震に際して」という文章で、朝鮮人虐殺に憤慨する菊地寛から一喝されたことを明かしていました。また、芥川は、そのなかで、朝鮮人がボルシェビキ(共産主義者)の一員であることを信じる、あるいは信じる真似をするのが「善良なる市民の資格」であり、「善良なる市民になることは、――兎とに角かく苦心を要するものである」とも書いていました。

私は、阪神大震災の際、テレビの映像で見た、今でも忘れられないシーンがあります。それは、地震直後、高速道路が倒壊した現場から中継した映像に映っていたのでした。

アナウンサーが興奮した口調で被害の状況を伝えているその背後には、トラックの荷台から落ちた荷物が散乱していました。すると、どこからか野次馬のような人たちが集まってきて、散乱した荷物を物色しはじめたのです。そして、めぼしいものを見つけると、荷物を両腕に抱えてつぎつぎと持って行ったのでした。

それは、夢野久作が見たのと同じ群衆の姿です。四方田氏によれば、そんな群衆のことを「迫害群衆」と言うのだそうです。「迫害群衆」というのは、ドイツのノーベル賞作家・エリアス・カネッティのことばですが、四方田氏は、カネッティと夢野久作はよく似ていると言ってました。夢野久作(杉山泰道記者)は、死体や汚物の臭い、汚れた街の様子、人々の無責任な行動や犯罪行為など、自分の目で見たものをありのままに記事に書いたのです。

私が見たシーンは、地震直後の混乱のなかで予期せず映ったものでしょう。それ以後、そういった生々しい映像を目にすることはありませんでした。その代わりに、「お互いを助け合い」「礼儀正しく」「忍耐強く」「非常時に犯罪もない」「すばらしい日本人」像が、くり返し伝えられたのでした。

四方田氏は、3.11以後のメディア状況についても、夢野久作の『東京人の堕落時代』を引き合いに出して、つぎのように言ってました。

感傷的な美談は積極的に報告するけれど、汚れたもの、臭いもの、在日朝鮮人に関するものは排除するみたいな、そういうことをやっている。だから、被災地から離れた場所に住む人間は、本当に何が生じているのかわからない。ある種のセンチメンタリズムだけがずっと続くという状況が続いている。そして、東京にいる小説家とか知識人は、「フクシマを忘れるな!」、「人類全体の体験だ!」とかオウムのように繰り返しているわけです。世界じゅうで「フクシマを救え」というロックフェスティバルをやる。「収益は、みんなフクシマに」って口実で、みんな浮かれ騒いでいる。


震災直後の状況に「東京人の堕落」を見た夢野久作に、父親・杉山茂丸の影響があったのは言うまでもないでしょう。と、同時にそれは、九州の精神風土と無縁ではないように思うのです。杉山茂丸が深く関わった玄洋社にしても、ただの「右翼」とは言い難い思想的な懐の深さをもっていたのでした。

私の父親も戦前、満州の鉄道会社に勤めていたのですが、私が子どもの頃、「シナ」や「チョウセン」という差別用語を平然と使いながらも、我が家にはいつも近所の「シナ」人や「チョウセン」人のおいちゃんやおばちゃんたちがやって来て、世間話に花を咲かせていました。夢野久作が「東京人の堕落」と言った、その憤りや嘆きには、そんな九州の人間がもっている大陸的な気風や思考も関係しているように思います。

九州の精神風土を掘り下げていけば大陸に行き着くというのはよく言われることです。ナショナルなものを掘り下げていけば、インターナショナルなものに行き着くのです。杉山茂丸や玄洋社のナショナリズムには、そんな回路があったのでした。

一方、平岡正明もまた、かつて『ユリイカ』(青土社)の特集において、『東京人の堕落時代』が「朝鮮人」ということばを使ってないことを取り上げ、それは、夢野久作が「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れているというデマを疑い、逆に朝鮮人が日本人に殺されているのではないかという疑問を持った」からではないかと推察していました(『ユリイカ』1989年1月号・「特集=夢野久作」所収、「品川駅のレコードの謎―「東京人の堕落時代」)。そして、そういった”見識”は、「玄洋社・黒竜会という右翼の本流に夢野久作が直結していればこそである」と書いていました。黒竜会の内田良平も、「自分たちの対朝鮮行動が帝国主義者に利用されたことを憤って一度も日韓併合という語を用いなかったし」、震災直後も、朝鮮人暴動がデマであると主張していたそうです。

もし、現代に夢野久作が生きていたなら、今、この国を覆っている排外主義的な風潮に対しても、「日本人の堕落」と断罪したに違いありません。近隣の国を貶めることで自分の国に誇りをもつというのは、なんとも心根が貧しく、それこそゲスの極み乙女ならぬ「堕落」の極みと言うべきでしょう。夢野久作は、『東京人の堕落時代』で、既に今日の「日本人の堕落」を予見していたとも言えるのです。
2015.06.15 Mon l 本・文芸 l top ▲
今日の早朝5時から放送されたフジテレビの「新・週刊フジテレビ批評」を見ていたら、「批評対談」と称して、今年5月にFIFAの理事に選出された田嶋幸三日本サッカー協会副会長と、サッカーファンでもあるライターの速水健朗氏が対談していました。

日本サッカーの現状について、田嶋氏は、女子は「この4年間で成熟している」、男子は「本来日本がめざしていたものを具現化しつつある」「国際標準に近づいている」と自画自賛していました。私たちの目には、女子も男子も、世代交代に失敗しているようにしか見えませんが、JFA内部の評価はまったく違うようです。

ハリル監督についても、「個人のレベルが上がってきているなかに、優秀な監督がきて、ワクワク感がもてる」と言ってました。アギーレ招聘の責任などどこ吹く風とばかりにこれまた自画自賛していました。

また、会長選挙で、JFAがブラッター氏を支持した理由についても、田嶋氏は、「噂だけで判断したくなかった」「(ブラッター支持は)AFC(アジアサッカー連盟)の決議があったから」と弁解していました。

一方、田嶋氏に対する速水健朗氏の質問は、突っ込みどころ満載であるにも関わらず、あっけないほど当たり障りのないものに終始していました。これでは、協会批判を封印する翼賛的なサッカージャーナリズムとなんら変わらないのです。

挙句の果てには、FIFAの混乱に乗じて、ワールドカップの開催地を(2018年のロシアや2022年のカタールから)日本に変更できるチャンスがあるのではないかと、如何にも日本らしい火事場泥棒的な願望まで披歴するあり様でした。

たしかに、速水氏の発言は、この国の平均的なサッカーファンの声を代弁していると言えないこともありません。でも、それだったら別に速水氏でなくてもいいのです。

ここにも、権威や権力にからきし弱い(と言うより、阿ることに達者な)「ゼロ年代の批評家」たちの特徴がよく出ているように思います。彼らは、そんな”世間知”だけは長けているのです。もちろん、彼らのロールモデルが、東浩紀であるのは言うまでもないでしょう。東浩紀は、東日本大震災の際、「ひとつになろうニッポン」を称賛し、日本人は、自分たちの「公共的で愛国的な人格」に目覚め、「日本人であることを誇りに感じ始めている。自分たちの国家と政府を支えたいと感じている。」と言い、批評の世界における”テレビ東京的慰撫史観”の先鞭をつけたのでした(For a change, Proud to be Japanese : original version)。

日本のサッカーが停滞しているのはあきらかでしょう。でも、JFAやサッカーファンたちは、その事実すら認めようとしないのです。

対談のなかで、渡辺和洋アナウンサーが指摘していたように、男子のU-20に至っては、2011年以降ずっとアジア予選で敗退しているのです。それでも、田嶋氏は、「若手は確実に育っている」と強弁するのでした。

速水健朗氏は、田嶋副会長を前にして、日本サッカーの太鼓持ちを演じていただけで、そこには批評の欠片さえないのでした。「ゼロ年代の批評家」たちはスカだった、と言った人がいましたが、私は、あらためてそのことばを想起せざるを得ませんでした。
2015.06.13 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
他人にはどうでもいい「私語り」の記事ばかり書いていると、よけい昔のことが思い出されるのでした。何度もくり返しますが、思えば遠くに来たもんだとしみじみ思います。

これも既出ですが、私も最近は、「夜中、忽然(コツゼン)として座す。無言にして空しく涕洟(テイイ)す」(夜中に突然起きて座り、ただ黙って泣きじゃくる)という森鴎外と似たような心境になることがあります。

ネットには、年寄りを生かしつづけるのは税金の無駄使いだ、とでも言いたげな書き込みが多くありますが、年を取るのは自分の責任ではないのです。そんな若者たちだって、年を取れば「無言にして空しく涕洟」することもあるはずです。そんな想像力さえはたらかないのだろうかと思います。

先日、帰省した折、前回の記事に書いた、昔の勤務地の山間の町を訪ねました。私は、20代の頃、その町に5年近く住み、そして、その町で恋もしました。

当時、商店街のなかに「H」という名前の喫茶店がありました。「H」は、その町の若者たちのたまり場になっていました。当然、「H」は出会いの場でもあり、その際、いつも仲をとりもっていたのが「H」の「ママ」でした。「ママ」は当時、40代の半ばで独身でした。

人の話では、同じ町内に住む男性と不倫関係にあり、それは「ママ」が20代の頃からつづいているということでした。私も何度か、店にやってきた不倫相手の男性を見たことがあります。既に70近くの背の高い老人でした。「あの人がそうよ」と「H」で知り合った彼女から耳元でささやかれたこともありました。

相手の男性の評判は、「ママ」の周辺では最悪でした。みんな口をそろえて「嫌なやつだ」と言ってました。「店の売上げもつぎ込んでいるらしいよ」「あれじゃだたのヒモだよ」「ママもバカだよ」と言ってました。しかし、私たちはまだ若かったので、そこまで現実的な見方をすることはできませんでした。一途に愛を貫いている、そういう風に考えていました。狭い町内に男性の奥さんや子どもがいるのに、それでも関係をつづけているというのは、”すごいこと”だと思っていたのです。

私は、レンタカーで、商店街のなかをゆっくり進みました。商店街の光景もずいぶん変わっていましたが、見覚えのある店もいくつか残っていました。しかし、銀行の隣にある「H」までやってくると様子がおかしいのです。外観は残っているものの、なかはもぬけの殻になっていたのでした。閉店していたのです。それも閉店してまだ間がないみたいです。

そのあと、やはり当時よく通っていた居酒屋に行って、「H」のことを聞きました。居酒屋の主人の話では、相手の男性はとっくに亡くなり、「H」の「ママ」も、去年、店を閉じると、誰にも告げずに町を出て行ったそうです。町内に住んでいる弟に聞いても、「県外に行った」としか言わないのだとか。もういい年なので、どこかの老人福祉施設か病院にでも入ったんじゃないか、と言ってました。居酒屋の経営者夫婦も昔は「ママ」と仲がよかったのですが、最近は付き合いもなくなっていたと言ってました。

「愛を貫いた」と言えばそう言えないこともありませんが、下賤な言い方をすれば、愛人のまま一生を終えたのです。愛人と言っても、生活の面倒を見てもらっていたわけではありませんので(逆にお金を渡していた?)、経済的にはちゃんと自立していたことになります。生まれ育った町でそんな生き方をするには、当然肩身の狭い思いをしたこともあったでしょう。それでも、町に住みつづけ、結婚もしないで「愛を貫いた」のです。

今思えば、私たちが「H」に通っていた頃が、「ママ」にとっても、「H」にとっても、いちばんいい時期だったのかもしれません。みんな、若くて、みんな元気で、みんな明日がありました。「ママ」は、そんな常連客たちといつも楽しそうにおしゃべりをして、夏山のシーズンになると、一緒に山登りなどもしていました。

私が会社を辞めて再度上京すると決めたとき、多くの人たちは「どうして?」「もったいない」と言ってましたが、「ママ」は「やっぱりね」「そんな気がしていたわ」と言ってました。そして、「二度と大分に戻るなんて思わないで、がんばりなさいよ」と言われました。最後に訪れた日、店の前で笑顔で手を振って見送ってくれたのを今でも覚えています。

おそらく「ママ」は、このまま県外の見知らぬ土地で、一生を終えるのでしょう。年老いて生まれ故郷を離れた今、どんな思いで自分の人生をふり返っているのでしょうか。その術はありませんが、聞いてみたい気がします。やはり、眠れぬ夜の底で、「無言にして空しく涕洟」しているのかもしれません。人生いろいろですが、こんな「女の一生」もあるのです。

Yahoo!ニュースを見て政治に目覚め、ネトウヨになるような若者なんてどうだっていいのです。「シルバー民主主義の弊害」とかなんとか、国家のあり様や人の生き様を経済合理性で語ることしかできない、ゼロ年代の批評家や拝金亡者の経済アナリストなんてどうだっていいのです。私は、年寄りの「私語り」を聞きたいと思います。そんな人生の奥にある”生きる哀しみ”のなかにこそ、私たちの人生にも通じるリアルなことばがあると思うからです。
2015.06.09 Tue l 日常・その他 l top ▲
ずっと気になっていた詩がありました。江東区の「亀戸」の地名が出てくる鈴木志郎康の詩です。

その詩に出会ったのは、私がまだ九州にいた頃でした。当時、私は、人口2万人あまりの小さな町の営業所に勤務していて、会社が借り上げた町外れの丘の上にあるアパートに住んでいました。

九州の片田舎に住んでいながら、どうして「亀戸」という地名が気になったのか。もちろん、亀戸には行ったこともありませんし、亀戸にゆかりのある人物も知りません。でも、なぜか「亀戸」という地名が出てくるその詩がずっと頭に残っていたのです。

再度上京して、何度か車で亀戸を通ったことがありました。その際も、「亀戸」の詩を思い出したりしていました。しかし、書店でさがしても「亀戸」の詩は見つかりません。そもそも鈴木志郎康の詩集が置いてないのです。

ところが、先日来、本を整理していたなかで、『新選 鈴木志郎康詩集』(思潮社現代詩文庫)が棚の奥から出てきたのでした。なんと、私は、鈴木志郎康詩集を24年前に九州からもってきていたのです。

上京する際、前の記事で書いた『五木寛之作品集』と『ドフトエフスキー全集』を泣く泣く処分したことを今でも後悔していますが、鈴木志郎康詩集は処分してなかったのです。私は、その茶色く変色した詩集を手にして、なんだか長年の胸のつかえが下りた気がしました。

私がずっと気になっていた「亀戸」の詩は、「終電車の風景」と「深い忘却」という詩でした。

終電車の風景

千葉行の終電車に乗った
踏み汚れた新聞紙が床一面に散らかっている
座席に座ると
隣の勤め帰りの婆さんが足元の汚れ新聞紙を私の足元にけった
新聞紙の山が私の足元に来たので私もけった
前の座席の人も足を動かして新聞紙を押しやった
みんなで汚れ新聞紙の山をけったり押したり
きたないから誰も手で拾わない
それを立って見ている人もいる
車内の床一面汚れた新聞紙だ
こんな眺めはいいなァと思った
これは素直な光景だ
そんなことを思っているうちに
電車は動き出して私は眠ってしまった
亀戸駅に着いた
目を開けた私はあわてて汚れ新聞紙を踏んで降りた

(『やわらかい闇の夢』1974年青土社刊)


深い忘却

屋上に出て見渡せば
亀戸の密集した屋根が見える
屋根の下には人が居る筈なのに
屋根があるから人の姿は見えないのだ
眺めというものはこれだけのことで
見えない人にしてもどうせ他人だと突っ撥ねる
そして次に
あれが駅前の建物だと確認して
次々に目立つ建物を確認してみて
それで屋上から降りてくる
屋上に出て見渡して見たものが
この自分の国の姿だとか
我が故郷の姿だとか
見えなかった人は人民なのだ
私には関係なく出来上がっている建物の群れに向かって
住んでいる人たちに向かって
思いようもない
そういうことでは
私自身をも忘れている

(『見えない隣人』1976年思潮社刊)


なにかの雑誌で、これらの詩を知ったのだと思います。それで、詩集を買ったのでしょう。

私が、これらの詩に惹かれたのは、当時の私の心境と無関係ではないように思います。私は、このまま田舎で一生をすごすのか、それとも仕事をやめて再び東京に行くのか、ある事情からその決断を迫られていたのでした。

これらの詩に惹かれたというのは、自分のなかで、一旦、このまま田舎に骨をうずめる決意をしたのかもしれません。あるいは、そう自分に決意を促していたのかもしれません。当時の私にとって、「亀戸」という地名は、そんなメタファーだったのでしょう。

でも、結局、私は、田舎の生活を精算して、再度上京する決意をしたのでした。
2015.06.07 Sun l 本・文芸 l top ▲
本を整理していたら、『五木寛之ブックマガジン・夏号』(KKベストセラーズ)というムック本が出てきました。奥付を見ると、「2005年8月8日初版第1刷発行」となっていますので、ちょうど10年前の本です。

表紙には、「作家生活40周年記念出版」「これが小説の面白さ、読む楽しさ!」「60年代傑作集」という文字が躍っています。

なかをめくると、「さばらモスクワ愚連隊」「海を見ていたジョニー」「ソフィアの秋」「GIブルース」「第三演出室」の60年代の代表作5本が掲載されていました。そして、あらためてそれらを読み返していたら、初めて読んだ若い頃が思い出され、なつかしさで胸がいっぱいになったのでした。

私たちは、五木寛之の初期の作品を同時代的に読んだ世代ではありません。多くは文庫本で読みました。でも、高校のとき、「さらばモスクワ愚連隊」やフォーク・クルセダーズの歌にもなった(作詞は五木寛之)「青年を荒野をめざす」を読んで以来、私は自他共に認める”五木寛之フリーク”になったのでした。

気がついた時には、私はもうピアノの前に座って、〈ストレインジ・フルーツ〉をイントロなしで弾きだしていた。
 私刑リンチにあった黒人が丘の上の木にぶら下がっている。たそがれの逆光の中に、風に吹かれて揺れている首の伸びたシルエット。それは、まったく哀れで滑稽な「奇妙な果実ストレインジ・フルーツ」だ。その時、私はなぜか引揚船の甲板から見た、赤茶けた朝鮮半島の禿げ山のことを思い出した。ほこりっぽい田舎道と、錆びたリヤカーのきしむ音がきこえてきた。十三歳の夏の日。
 どんなテンポで弾こうとか、どのへんを聞かせてやろうとか、そんなことは全く頭に浮かんでこなかった。音を探そうとあがくこともなかった。音楽は向こうからひとりでにやってきた。私の指が、おずおずとそれをなで回すだけだ。私は確かにブルースを弾いていた。背筋に冷たい刃物を当てられたうようなふるえがくる。時間の裂け目を、過去が飛びこえて流れこんできた。ピアノは私の肉体の一部のように歌っていた。

「さらばモスクワ愚連隊」


こんな文章に、私は胸をときめかしたのでした。

その後、病気で1年間、別府の国立病院に入院することになったのですが、ちょうどその時期に、文藝春秋社から『五木寛之作品集』(全24巻・別巻1巻)の刊行がはじまりました。もちろん私は、病院の近くの書店に注文しました。

私は、毎月、書店の人が配達してくる作品集が待ち遠しくてなりませんでした。なかには初めて読む作品もありました。そんな作品に出合うといっそうときめいたものです。また、作品集には、さまざまな人たちの解説が付録の小冊子で入っていて、それも楽しみでした。

当時、隣のベットには、大月書店のマルクス・エンゲルス全集を読んでいた年上の学生がいましたが、私の場合は、”マルエン”より五木寛之だったのです。新左翼運動が盛んな頃、五木寛之の作品を「反スタ(反スターリニズム)小説」と評する向きもありましたが、私はそんなことはどうだっていいと思いました。私は、五木寛之によって鈴木いづみや堤玲子や稲垣足穂などを知り、彼らの作品も読んでいました。

ちなみに、隣の学生は、「再生不良性貧血」かなにか「血を造ることができない」病気にかかっていたのですが、私が退院したあとに、短い生涯を終えたという話を同じ病院で医師をしていた叔父から聞きました。私は、その話を聞いたとき、なんと無念だったろうと思いました。そして、いつも週末に見舞いに訪れていた彼の恋人のことを思い浮かべ、彼女はどんなに悲嘆に暮れたことだろうと思いました。

70年代の『戒厳令の夜』以降は、私も五木作品を同時代的に読むことができましたが、しかし、80年代に入ると、徐々に読むことも少なくなりました。ただ、『大河の一滴』が出たとき、ちょうど私も仏教に興味をもっていましたので、久しぶりに再会したような感じがありました。しかし、それも一時的で、その後は再び読むこともなくなりました。

私にとって、初期の五木作品は、午後の陽光を浴びてキラキラ輝いていた別府の海の風景と重なるものがあります。私は学校の帰り、いつも坂の上からその風景を眺めていたのでした。あの頃、どうしてあんなに何事にもときめいていたんだろうと思います。

私は、五木寛之氏と同じロシア文学科に行きたくて、同じようにゴーリキーの『私の大学』を携えて上京したものの、思いは叶わず、病気をして失意のまま帰省し入院生活を送っていたのでした。

入院していたとき、私は、深夜、よくベットに腰かけ窓の外を眺めていたのですが、その姿を見た看護婦さんたちは、私が泣いていると思っていたそうです。実際は泣いてはいなかったのですが、深刻な病気を抱えていた私が、文字通り夢も希望もない状態にいたのはたしかでした。そのとき、いつも隣にあったのが五木寛之の本でした。

現在、私は、たまたま五木寛之氏と同じ東急東横線の3つ隣の駅に住んでいるのですが、時折、氏の住まいがある駅を通るとき、五木寛之を読みふけっていたあの頃を思い出すことがあります。考えてみれば、五木寛之氏も今年で83才になるのです。なんと多くの時間が流れ、なんと遠くまでやってきたんだろうと思います。

熱ありて咳やまぬなり大暑の日 友の手紙封切らぬまま

帰るべき家持たぬ孤老の足音 今宵も聞こへり 盂蘭盆さみし

裏山で縊死せし女のベットには 白きマリア像転がりており

(前も紹介しましたが)これらは、当時、寺山修司を真似て作った歌です。

よく若いときにしか読めない小説があると言われますが、私にとって五木寛之の小説は、こんなせつないような哀しいような青春の思い出とともにあるのでした。
2015.06.05 Fri l 本・文芸 l top ▲
先月29日に再選されたばかりのFIFA(国際サッカー連盟)のブラッター会長が、昨日、辞意を表明したというニュースがありました。ワールドカップ開催をめぐる前代未聞の汚職スキャンダルに揺れているFIFAですが、再選した当初から、ブラッター会長にはヨーロッパの加盟国を中心に国際的な批判が寄せられていました。辞意表明は、その批判に屈したかたちですが、ブラッター会長自身も捜査の対象になっているという報道もあります。

もちろん、今回の辞意表明の背景に、ヨーロッパ対南米・アジア・アフリカというFIFA内部の「伝統的な対立」が伏在しているのもたしかでしょう。

それにしても、どうして”疑惑の人”であるブラッター会長が再選されたのか、その疑問は拭えません。なにを隠そう、JFA(日本サッカー協会)もブラッター再選を支持していたのです。それどころか、日本政府は、過去に(ワールドカップ開催の見返りに?)ブラッター会長に旭日大綬章まで賜っているのです。

しかし、”疑惑の人”を支持したJFAに対して、国内で批判する声はほとんど聞かれません。日本のサッカージャーナリズムもまた、”政権批判”を封印した翼賛体制にあるのです。

同じように、2014年、八百長疑惑をもたれていたハビエル・アギーレ氏を代表監督に招聘した際も、疑問を呈する声はほとんど聞かれませんでした。そして、アギーレ氏が辞任した際も、”任命責任”を問う声は少なく、結局JFAは誰も責任を取らず現在に至っています。

ジャーナリズムがジャーナリズムの役割を果たしてないのです。この”ナアナア主義”がJFA の夜郎自大な体質を増長させ、強いては日本サッカー停滞の一因になっていると言っても言いすぎではないでしょう。

考えてみれば、今のマスコミの自国賛美(”テレビ東京的慰撫史観”)は、サッカージャーナリズムが先鞭をつけたと言えなくもないのです。それが、3.11の東日本大震災をきっかけに、いっきにマスコミ全体に拡がったのでした。

ただ無原則に自国を賛美することが「愛国」で、少しでも批判すれば「反日」になる。それでは、サッカーでも政治でも、腐敗と停滞を招いてしまうのは当然でしょう。

サッカーファンも、Yahoo!ニュースで政治に目覚めた人も、本質から目を逸らされ、ただ踊らされているだけなのです。
2015.06.03 Wed l 社会・メディア l top ▲