東京を生きる


雨宮まみの『東京を生きる』(大和書房)を読みました。「東京”で”生きる」でも「東京”に”生きる」でもなく「東京”を”生きる」と書くところに、作者の東京に対する思いが込められているように思います。

地方出身者の哀しい性(さが)というべきか、私のなかには、小説でもエッセイでも写真集でも雑誌の特集でも、「東京」という文字が入っていると、つい手にとってしまう習癖があります。

東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京
書けば書くほど恋しくなる。


少年時代に東京にあこがれた寺山修司は、『誰か故郷を想はざる』(角川文庫)でこう書いたのですが、実は私は、この「恋しくなる」という語句を「哀しくなる」と間違って記憶していたのです。書けば書くほど哀しくなる、と。

私たち地方出身者にとって、東京というのはあこがれであると同時にどこか哀しい存在でもあります。そのあこがれと哀しみの狭間に、地方出身者それぞれの「上京物語」があるのです。

そして、東京に対するあこがれと哀しみの二律背反な思いは、同時に『ふるさと考』(昭和50年・講談社現代新書)で松永伍一が書いていた、故郷に対する「愛憎二筋のアンビバレンツな思い」とパラレルな関係にあります。「追い出す故郷が同時に迎い入れる故郷となる矛盾」。ふるさというのは求心力のようであって実は遠心力でもあるのです。

「書けば書くほど哀しくなる」ような地方出身者の「哀しい性」は、時代が変わってもいっこうに変わることがありません。あえて言うならば、その思いを彩る時代の意匠が変わっただけです。

家賃より高いブランドの服を買い、ときにお金がなくてその服をクリーニングに出すこともままならないような「身の丈に合わない暮らし」。「いつになったら、季節ごとに服を買い替えるような生活をやめられるのだろう。すぐ夢中になり、すぐ飽きてしまうような生活をやめられるのだろう」と著者は自問します。そして、こう書きます。

 すぐに飽きてもいい。つまらなくなってもいい。手に入れたことを後悔してもいい。それでもいいから新しいものに夢中になりたい。刺激が欲しい。刺激が欲しい。刺激が欲しい。


それが資本主義の最先端の都市で生活するということなのです。東京では、誰しもがそんな欲望や刺激から逃れることはできないのです。「欲望が私の神で、それ以外に信じられるものはない。もっと、もっと、と神が耳元で囁き、私はその声に、中途半端にしか応えられない自分に苛立つ」のです。

「ロハスな生活」とか「スローライフ」とか言っても、どこにもロハスな生活やスローライフはありません。そういった商品があるだけです。だったら、欲望にまみれ刺激に狂い、目いっぱい見栄を張って、破滅への道を突き進むほうがよほど自分に正直ではないかと思うのです。少なくとも「東京を生きる」思想があるなら、そういった欲望と刺激のなかにしかないでしょう。

 貯金もないくせに、私はおいしいものを食べ、好きな服を買い、お酒を飲み、本を買い、香水や化粧品を買い、美術館や映画館に行き、上等なタオルや石鹸を使い、自分のものにはならない家にために家賃を払って生きる。
 どこまでが分相応で、どこからが分不相応なのか、私にはわからない。
 いつか、そういう堅実ではない生き方に、天罰が下るだろうか。
 砂の上を、幻を見ながら歩いているような暮らしに、破滅が訪れるのだろうか。
 来るなら来ればいい。私はそれまで、魂に正直に生きる。破滅が訪れることよりも、破滅に遠慮して、悔いの残るような選択をすることのほうがずっと怖い。


しかし、人間というのは哀しい動物で、いくら欲望にまみれ刺激に狂っていても、自分を忘れることはできないのです。それが孤独な心です。自分を変えたい、今までの自分を叩きつぶして欲しいと思って上京したものの、「東京は私を叩きつぶしてくれるほど、親切な街ではなかった」「ただ私はまるでそこに存在しないかのように、そっと黙殺されるだけ」です。

池袋や新宿や渋谷の喧噪のなかにいると、無性にひとりになりたいと思うことがあります。帰りの電車で車窓に映るネオンサインを見るとはなしに見ているときや、スーパーの袋を下げてアパートに帰る道すがらに、ふと抱く底なしの孤独感。

そんな孤独感の裏に張り付いているのが望郷の念です。今の時代に望郷の念なんて言うと笑われるだけかもしれませんが、しかし、そういった湿った感情は、多少の濃淡や色彩を変えつつも、いつの時代にあっても私たち地方出身者の心の奥底に鎮座ましましているはずです。

 (略)困ったとき、自分が東京で食べていけなくなったとき、逃げ場として心の中で実家を頼っていること。
 あんなところに帰るのは嫌だ、と言いながら、同時に、自分に故郷の悪口を言う資格なんてない、と思う。
 嫌だ嫌だと言っておきながら、故郷を最後の保険にしている。帰る場所として頼っている。


ここには松永伍一が言う「追い出す故郷が同時に迎い入れる故郷となる矛盾」が表現されていると言えます。

個人的なことを言えば、親が亡くなり帰る場所がなくなったら、途端に望郷の念におそわれている自分がいます。それは、むごいほど哀しい感情です。欲望にまみれ、刺激に狂った思い出と、もはや帰るべき家もなくなった望郷の念。その二つの思いを胸に、これからも東京を生きていくしかないのです。「東京を生きる」には、そういった祭りのあとのさみしさのような”後編”があることも忘れてならないでしょう。
2015.08.30 Sun l 本・文芸 l top ▲
大阪府高槻市で、中学1年の女の子と男の子が殺害され死体が遺棄された事件は、さまざまな報道が飛び交っており、事件の真相がまだあきらかになっているとは言い難い状況ですが、しかし、そんな断片的な報道においても、私は、あの神戸連続児童殺傷事件(神戸事件)を想起せざるをえませんでした。

なかでも注目されるのは、男の子の殺害と遺体遺棄までに”空白の1週間”が存在するのではないかと言われている点です。二人が殺害されたのは13日の午後ですが、女の子の遺体はその日のうちに高槻市の駐車場に遺棄されたのに対し、男の子の遺体が柏原市の竹林で発見されたのが21日の夜です。しかも、前日に竹林の地主が現場を訪れた際、遺体はなかったと言うのです。もし、地主の証言がホントなら、竹林に遺棄するまでに1週間経っていることになります。

今日のテレビ朝日の「報道ステーション」でも、その”空白の1週間”が指摘され、「犯人はどこに遺体を隠していたのでしょうか?」と疑問が投じられていました。

容疑者の45歳の男は、昨年の10月に刑務所を出所し、出所後は福島で除染作業に従事していたそうです。2002年に、やはり寝屋川市駅の周辺で、中学生や高校生の男の子を車に連れ込み、粘着テープで縛って監禁する事件をたてつづけに起こして服役したのですが、出所してわずか1年足らずで再び同じ事件を起こしているのです。

今日の「報道ステーション」では、容疑者と「獄中結婚」したという「知人女性」(別のテレビでは「20年来の知人」となっていました)が出て、容疑者の人物像について証言していました。「知人女性」は、「殺された男の子ってかわいいでしょ。彼は若い男の子しか興味がないのよ」と言ってました。また、女の子は邪魔で殺したんだと思う、とも言っていました。

容疑者の”性癖”について、多くのメディアは直接触れるのを避けているように思いますが、それは神戸事件のときも同じでした。「猟奇的な事件」と言うだけで、事件の真相に触れることはなく、元「少年A」の手記が出るまでほとんどあきらかにされなかったのです。

性的興奮を覚えると言っても、それは千差万別です。世の中には想像できないようなとんでもないことで性的興奮を覚える人間もいるのです。単なる”少年愛”にとどまらず、さらにそこに倒錯した要素が加わるケースだってあるでしょう。

容疑者が最初の事件を起こしたのが2002年で、神戸事件から5年後のことです。もちろん実際に触発されたのかどうか知る由もありませんが、ただ、二つの事件に類似性を覚えるのは私だけではないはずです。

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『絶歌』
2015.08.23 Sun l 社会・メディア l top ▲
先日、朝日新聞デジタルに、高橋源一郎氏と東浩紀氏の対談に関する記事が掲載されていました。

朝日新聞デジタル
3・11後の論壇に物申す 高橋源一郎さん×東浩紀さん

記事では触れていませんが、これは、7月10日に東浩紀氏が主宰するゲンロンカフェの企画でおこなわれた二人の対談、「『論壇』はどこにあるのか」を記事にしたものです。

記事にもあるように、3.11のあと、東浩紀氏は、「日本人はいま、めずらしく、日本人であることを誇りに感じ始めている。自分たちの国家と政府を支えたいと感じている」と書き、国家がせり出してきた状況を手放しで礼賛したのでした。言うまでもなく、その”国家的紐帯”は、やがてヘイトな「愛国」主義へと接続されるのでした。

東浩紀の渦状言論 はてな避難版
For a change, Proud to be Japanese

また、その前年(2010年)の朝日新聞の「論壇時評」で、東氏は、「滅びたと言われて久しい」「論壇」がネットを中心に「復活」しつつあり、その「突破口」になっているのがツイッターだ、と書いていました(「ネットが開く新しい空間」)。「いままでは愚痴の海に埋もれていた魅力的な言論が、ツイッターの出現によって可視化され組織化されている」と。

そして、大震災直後の最後の「論壇時評」では、大震災と原発事故によって、ネットをとおして発信者みずからがメディアになるようなあたらしい状況が現出したとして、ツイッターなどのソーシャルメディアに、「論壇」の復活とその未来像を見ているのでした。

ところが今になって、東氏は、「新しい言論空間が生まれるのかな、という希望」はあったけど、結局、「議論が意味をなさない社会状況になった」「今は何もない。希望はゼロ」と言うのでした。そんなことは最初からわかっていたはずです。それが彼がトンチンカンである所以です。

一方、東氏より年長で、東氏と違って政治の洗礼を浴びているはずの高橋源一郎氏は、今の状況を前向きにとらえ、「原発や安全保障、立憲主義など、人々の関心が集まるようになったことに希望を見いだそうと訴えた」そうです。でも、前向きになれる根拠になっているのは、かつて高橋氏らが否定したはずの(左右を問わない)全体主義的で権威的で抑圧的な”古い政治のことば”です。

「論壇」なんてないのです。とっくに終わっているのです。それは、東氏が言うような、ネットのあたらしい言語空間に吸収されたとかいうような意味ではありません。もはや「論壇」という発想そのものが意味をなさなくなったのです。

栗原康氏は、新著『現代暴力考』(角川新書)の「はじめに」(まえがき)で、反原発デモで遭遇したつぎのような経験を書いていました。

3.11直後の高円寺の反原発デモは、「めちゃくちゃ解放感があった」。大震災や原発事故による重苦しい雰囲気や負い目みたいなものをふり払いたいという気分がデモにあふれていたと言います。

ところが、それから1年後の官邸前デモに行くと、デモは警察の規制に従って整然とおこなわれる秩序立ったものに変わっていたのです。

(警察の規制に)いらだった若者が「ジャマなんだよ」と警官にくってかかっているが、そこにスタスタと腕章をまいた二〇代くらいの女性がやってきた。デモ主催者というか、ボランティアスタッフみたいなものだろう。わたしは「まあまあ」といなすくらいのことをするのかなとおもっていたら、その女性は大声をだしてこういった。「おわまりさんのいうことをきいてください。お仕事のめいわくでしょう」。


また、警察の規制をおしのけて、デモの一部が道路になだれ出たとき、歩道から腕章をつけた人たちがマイクでこう叫んだそうです。

「おまえら、なにがしたいんだ」。(略)
「これでデモができなくなったらどうするんだ。おまえらのせいで再稼働がとめられなくなるんだぞ」。


栗原氏は、こう書きます。

(略)デモにしても、いつのまにか秩序の動員力にのみこまれていて、ひとつの目的が設定されてしまっている。議会に圧力をかけること以外はやってはいけない。デモの主催者が正当な暴力を手にしていて、それにさからう人たちは「暴力的」といわれて非難される。権力だ。


栗原氏は、この秩序化された光景について、生きたいとおもうこと(Desire to Live)と生きのびること(Survival)というフランスのシチュアシオニストのラウル・ヴァネーゲムのことばを引用して論じているのですが、その光景をもたらしているのがとっくに失効したはずの”古い政治のことば”です。

「安保法制反対のデモが盛り上がっている」とマスコミは言いますが、仮に盛り上っているとしても、そのエネルギーの行き着く先は、民主党をはじめとする野党の国会対策なのです。栗原氏は、「原発推進派にしても反対派にしても、よりよく生きのびようとあらそっているだけのことだ」と書いていましたが、それは安保法制も同じでしょう。

そこには、既存の”秩序”に別の”秩序”を置き換える発想しかないのです。いや、そもそも別の”秩序”ですらないのかもしれません。同じ”秩序”のなかで、ただ陣取り合戦をしているだけではないのか。

二人の対談は、相変わらず啓蒙的でトンチンカンな言説と言わざるをえません。いみじくも二人の対談が、「論壇」なんてもはや意味をなさないことを逆に証明しているのだと思います。
2015.08.18 Tue l 社会・メディア l top ▲
さらば、ヘイト本!


昨日のYahoo!トッピックスに、「鳩山氏、ひざまずき合掌」という見出しを見て、私は思わず心のなかで「出たっ!」と叫びました。と言って、お化けが出たのではありません。出たのは、Yahoo!ニュースお得意の排外主義を煽る嫌中憎韓の記事です。

Yahoo!ニュース
鳩山氏、ひざまずき合掌=植民地時代の刑務所跡で―韓国

記事自体は、時事通信から配信されたものですが、なかでもネット住人たちにインパクトを与えたのは、記事に添えられていた鳩山由紀夫氏が正座している写真でしょう。

別の記事には、土下座をして頭を下げているような写真もあり、実際に「土下座」ということばも使っていました。記事を受けて、コメント欄は鳩山氏への罵詈雑言で溢れていました。文字通り発狂していました。

Yahoo!ニュースにしてみれば、「してやったり」という感じなのかもしれません。これこそ三田ゾーマ氏ではないですが、「バカを煽って金儲けするウェブニュース」の典型と言えるでしょう。

どうしてYahoo!ニュースのコメント欄はバカばっかりなのか。それは、Yahoo!ニュースがページビューを稼ぐために、そんなバカたちを煽っているからです。コメント欄のレベルが、Yahoo!ニュースのレベルをよく表しているのです。

Yahoo!ニュース編集部の井上芙優氏は、『Journalism』(朝日新聞出版)に、「ニュースの“見られ方”“見せ方”の変容に因って、取材して書く・撮る人材“だけ”がジャーナリストを名乗っていた世界は変わろうとしている」「これからはどんなメディアでも、新人を育てるに当たって“取材をするから育つ”“取材しないから育たない”といった単純な対立軸に当て嵌めることはできない」(「取材をしない」ニュース編集部 いかに報道マインドを根付かせるか)と書いていましたが、私に言わせればよく言うよという感じです。

ちなみに、下記の「BUZZAP!」によれば、 鳩山氏の「ひざまずき」「土下座」は、「韓国では「クンジョル」と呼ばれる最上位の敬意を示す作法であり、屈服の意を示す土下座とは全く別物」だそうです。

BUZZAP!
鳩山元首相の韓国での謝罪を「土下座」と勘違いした一部ネット民が大発狂、実は韓国式の最敬礼「クンジョル」でした

こんなことは、調べればすぐわかるはずです。フジテレビも、如何にも土下座したかのようなニュースを流していましたが、Yahoo!ニュースやフジテレビのやり方は、しらばっくれた確信犯的な印象操作と言えるでしょう。そして、実はそれは、ヘイト本を作るやり方とそっくり同じなのです。

『さらば、ヘイト本!』(ころから)では、実際にヘイト本の「製造」に携わった元編集者たちが、その内幕を語っていました。

編集プロダクションの社員のもとに、クライアントの出版社から届いた企画書には、「保守層や韓国に批判的な層が留飲を下げる目的で作る」と書いていたそうです。その企画書に基づいて、編集者がまずやったのは、韓国の中央日報や朝鮮日報、聯合ニュースの日本語の電子版にアクセスして、日本を非難している記事を片端から拾い集めることだったそうです。それがヘイト本のネタになるのです。もちろん、その場合、日本を褒めているような記事はいっさい無視するのが鉄則です。

と言っても、編集者は、思想的には無色です。宝島社からの依頼で、ヘイト本を作っていた編集者の某氏が心がけていたことは、「読者ではなく、版元の担当者に納得してもらうものを作る」ということだったそうです。そこには「愛国」も「憂国」もないのです。ただ、”嫌中憎韓”を金儲けの手段にする無節操な商売人のソロバン勘定があるだけです。

ヘイト本は、もともとでたらめな世界なので、裏取りは必要なく、ネットで拾ってきた情報をネタに、もっともらしく記事に仕立て上げさえすれば、いとも簡単に本ができる、元手がかからないおいしい商売でもあるのです。

初期のネトウヨたちのバイブルになった山野車輪の『マンガ嫌韓流』(晋遊舎)も、「嫌韓流のネタは編集者がネットで探して何の知識も素養もない山野に伝えた」そうです。なんとそれからあの「嫌韓流」のシリーズがはじまったのです。

── 山野車輪は、こういったものに知識はなかったのですか。
「要するにネットだけです」
── 確信犯的に。
「もともとネット上に漫画はあったんですが、間違いだらけだったり」
(略)
── 山野サンは誰が見つけてきたんですか?
「これも、いま原作をやっている人が会社をやめているんですが、彼がネットで見つけてきたんです」
(略)
── 山野さんはどんな人物ですか。やっぱり、こういうようなことを自らネットに上げていたぐらいですから、本人も嫌韓なんですか。
「本人は、そうじゃないと言うんですけど、そんなに物事を掘り下げて考える人ではないので。もともと漫画をちゃんとやりたかった人です」


「ネトウヨは本を読まず、動画をメインとして情報を仕入れるので」、雑誌の記事もタイトルと目次しか読まないとか、いくらヘイトな番組を流しても、テレビのワイドショーの視聴者は、ヘイト本の読者にはならないとか、なるほどと思える話もありました。

売れりゃなんでもいい。そんな考えに立てば、「溜飲を下げる目的」という企画書に見られるように、負の感情を煽って売るのがいちばん手っとり早いのです。それは、Yahoo!ニュースも例外ではありません。

しかし、ヘイト本が、ヘイトスピーチに見られるように、(民族間の)憎しみを生み出し、それを煽っていることは事実です。ただ金儲けのために、ヘイト本を出している思想的には無色の編集者や、ページビューを稼ぐために、排外主義や差別を煽る記事をあえてトップページにもってくるYahoo!ニュースの編集者たちは、そのことにあまりにも無自覚だと言えるでしょう。

でも、無自覚であることは罪なのです。ハンナ・アーレントが言うように、「悪は悪人が作り出すのではなく、思考停止の凡人が作る」のです。「売れりゃなんでもいい」のか。ページビューを稼げればなんでもいいのか。所詮、馬の耳に念仏なのかもしれませんが、Yahoo!ニュースのジャーナリスト気取りの編集者たちにそう問いたい気がします。

もっとも、嫌中憎韓のヘイト本は売れなくなっており、業界的には「オワコン」なのだそうです。ヘイト本に代わるのは、テレビ東京的慰撫史観の書籍版だとか。日本(日本人)は世界中でリスペクトされているというあれです。そうやって懲りない連中は、二匹目のドジョウを狙っているのです。


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『ウェブニュース 一億総バカ時代』
2015.08.14 Fri l ネット l top ▲
先日、「晴練雨読」というSEO関連のサイトにアクセスしたら、トップページにつぎのような”お断り”が出ていました。

検索順位情報の提供、ページランク情報の提供、およびそれらを使用した各種の分析結果情報の提供は、終了しました。
(2015年7月25日・管理人)


晴練雨読
http://www.seiren-udoku.com/

「晴練雨読」は、常時Google の検索順位をチェックしていて、独自の基準に基づいた「変動情報」を公開していました。私もサイトを立ち上げた当初から、「晴練雨読」を「お気に入り」に入れて、「変動情報」を参考にしていました。もちろん、それは、Yahoo!JapanがGoogle を採用するずっと前のGoogle とYSTの二強の時代からです。

「晴練雨読」が「検索情報」をやめたというのは、検索が技術的にもSEOの観点からも、本来の機能を失ったということなのでしょう。つまり、地域によって検索結果が異なるローカル検索や個人によって異なるパーソナル検索が進化したことにより、汎用的な「変動情報」の提供が不可能になったからでしょう。

同じように、やはり「お気に入り」に入れて、検索順位のチェックに利用していた「DW230」の「検索順位比較ツール」も、パンダアップデート以後、順位が表示されない状態がつづいています。

DW230
無料SEO対策 検索順位比較ツール

10数年前、Google が登場したとき、その検索の精度の高さに私たちは驚き且つ感動しました。そして、Google はいっきにネットユーザーの支持を集めたのでした。

でも、圧倒的なシェアを占め一強時代になった今、もはやGoogle は検索の精度を高めることより、ほかのことに興味が向かっている気がしてなりません。

昨日、Google が、持ち株会社「アルファベット(Alphabet)」を新たに設立し大規模な組織再編をおこなうというニュースがありました。

CNET JAPAN
グーグル、組織再編を発表--新会社「Alphabet」設立、グーグルが子会社に

それによれば、Google 傘下にある先端技術研究部門や物流事業や健康・医療事業や投資事業などをGoogle から切り離して持ち株会社の傘下に置き、同時にGoogle本体も持ち株会社の傘下に置かれ子会社化されるのだそうです。尚、アドワーズやアドセンスやYouTubeやGoogleマップなどのサービス・広告部門は、そのままGoogle のなかに残るそうです。

今回の組織再編が、従来の検索事業を中核に置いたビジネスから、検索に依存しない多角的な方向に舵を切る、その方向性を示しているのはたしかでしょう。それは、ちょっと意地悪な見方をすれば、おいしいラーメンを作るために日々努力した結果、多くのお客の支持を集め、店が繁盛すると、いつの間にか日々の努力を忘れて、チェーン展開したりインスタントラーメンに商標を提供したりして金儲けに走る、どこかの人気ラーメン店と似ている気がします。

あのゴチャゴチャした検索結果のページが、なにより今の検索のあり様をよく表していると思いますが、さらにその先にあるのは検索と広告の一体化です。これではGoogleが検索の精度を高めるのに興味を失うのも当然です。ありていに言えば、もう検索の精度を高める必要はないのです。

実際に、10年以上検索順位をチェックしている経験から言っても、Googleの検索の精度はどんどん落ちているように思えてなりません。最新の順位を見ても、トップページの上位に掲載されているのは、アドワーズユーザーの企業サイトばかりです。現在、パンダアップデートの更新中ですが、上位を独占するアドワーズユーザーの顔ぶれにほとんど変化はなく、小刻みに変動をくり返しているのは、10位前後と2ページ目以降のサイトだけです。

検索にも徐々に広告の要素が加えられているように思えてなりません。広告で表示されると、「優良なリンクをもらっている」と評価され、検索順位において優遇されるのです。欧州委員会がEU競争法(独占禁止法)違反で指摘したのも、Googleショッピングに関連したそのようなカラクリに対してでした。

このようにGoogleの検索では、どれが検索でどれが広告なのか、ますます曖昧になっているのです。そして、最終的にGoogleがめざしているのは、「検索の終わり」だと言われています。「検索の終わり」というのは、Google がユーザーの嗜好に合わせて、ユーザーの代わりに検索するようになることです。これも認知資本主義の一種と言えますが、そうなれば、Googleの検索にますます広告の要素が強くなるのは当然でしょう。

また、ネットショップにおいても、Googleは、検索で表示した商品に、直接「買物ボタン」を設置する実験を既にはじめているそうです。つまり、通販サイトにアクセスしなくても、検索ページから直接商品が買えるようになるのです。その場合、決済は通販サイトではなくGoogle 内においておこなわれますので、その手数料がGoogleに入る仕組みです。しかし、Googleの狙いはそれだけではないでしょう。「買物ボタン」で買い物ができるようになるには、Googleと通販サイトが契約しなければなりません。それに、当該の商品ページが検索順位の上位に表示されなければ、通販サイトもGoogleもメリットがないのは言うまでもありません。そこにあらたに広告が介在する余地が生まれることになるのです。

検索の公共性ということを考えれば、Googleがやろうとしていることは、あきらかにオキテ破りです。でも、Googleも民間会社にすぎないのです。より多くの利益を得ようとするのは資本の原理です。市場の独占を放っておけば、資本が自己増殖しリバイアサン(怪物)になるのは理の当然です。今回の組織再編はその表われと言えますが、だからこそ、再三指摘されるように、シェアが90%を超えるような邪悪(evil)な状況を解消し、正常な競争が求められるべきだと思うのです。Googleをリバイアサンにした責任もあるでしょう。
2015.08.12 Wed l ネット l top ▲
はたらかないで、たらふく食べたい


栗原康『はたらかないで、たらふく食べたい』(タバブックス)を読みました。

小さな出版社の本だからなのか、横浜市内の書店をまわってもどこも在庫がありませんでした。横浜駅の地下街にある有隣堂のカウンターで、スマホの画面を見せながら「この本はありますか?」と尋ねました。すると、応対した若い男性の店員は、大きな声で「『はたらないで、たらふく食べたい』ですね」と念を押すのでした。その途端、まわりのお客たちがいっせいに私のほうをふり返った気がしました。

結局、横浜では見つけることができず、ネットで在庫を検索したら池袋のジュンク堂にあることがわかりました。それで池袋まで行きました。サイトに表示された売り場のカウンターに行くと、若い女性の店員が出版社の営業マンと楽しそうにおしゃべりをしていました。私は、スマホの画面を指し示しながら、「この本ありますか?」と尋ねました。すると、おしゃべりを中断させられた店員は、ちょっと不機嫌な表情を見せながらスマホに目をやり、こう言ったのです。「ああ、あの本」。

『はたらかないで、たらふく食べたい』という書名は、それだけで人々の顰蹙を買うのかもしれません。その顰蹙のなかに、「生の負債化」があるのだと著者は言います。つまり、働かざる者食うべからずというあれです。

著者の栗原康氏は、30代半ばのアナキズム思想が専門の研究者です。現在は大学の非常勤講師をしていますが、それでも年収が80万円。その上、奨学金の借金635万円を抱え、埼玉の実家で、両親の年金に寄生して暮らしています。

 大杉(引用者註:大杉栄)がいっていることは、ひとことでいうと、やりたいことしかやりたくないということだ。文字通りの意味である。そして、これをいまの資本主義社会にあてはめると、はたらかないで、たらふく食べたいということだ。(略)
 でも、資本主義社会だとこういわれる。やりたいことをやりたければ、まずカネをかせげ、やりたいことでカネをかせぐか、それができなければ、ほかの仕事でカネをかせいでこい。そうじゃなければ、生きていけないぞと。


カネを稼ぐことができない者は落伍者。働かざる者食うべらからず。これが資本主義社会のオキテです。しかも、「生の負債化」は、労働倫理の強制だけにとどまりません。資本主義社会では労働と消費は一体化しているのです。

(略)かせいだカネで家族をやしないましょう。よりよい家庭をきずきましょう。家をたてましょう。車をもちましょう。おしゃれな服をきて、ショッピングモールでもどこでもでかけましょう。これがやばいのは、そうすることが自己実現というか、そのひとの人格や個性を発揮することであるかのようにいわれていることだ。まるで、カネをつかうことが自分のよろこびを表現しているかのようだ。ショッピングをたのしまざるもの、ひとにあらず。


特に資本主義の尖端にある都会では、消費することが一義的なことで、それが生きることと直接つながっています。働いてものを買うというより、ものを買うために働いているという感じです。消費するバロメーターが幸福のバロメーターであるかのようです。消費できなければ都会では生きていけないのです。消費することが都会で生きる証しですらあるのです。

合コンで小学校教諭の女性と知り合い婚約まで至ったものの、年収50万円(当時)の婚約者に不安を抱いた相手から三行半を突きつけられ、公務員の妻の扶養に入るという甘い夢ははかなく終わるのでした。でも、著者は、みずからの失恋に伊藤野枝の「矛盾恋愛」を重ね、思想的に総括することを忘れません。アナキズムの”絶対的な自由”を今の社会に敷衍するとどうなるか。それは、ときに滑稽に見えることもありますが、しかし一方で、笑い話で済ますことができない本質的な問題を示してもいるのです。

ほんとうはただ相手のことをたいせつにおもっていただけなのに、結婚というものを意識した瞬間から、自分のことばかり考えるようになってしまう。しらずしらずのうちに、いわゆるカップルの役割を演じていて、それをこなすことが相手のためだとおもいこんでしまう。それがたがいに自分を犠牲にするものであったとしてもである。むしろ自分がこれだけのことをしているのだから、相手もこのくらいはしてくれないとこまるとおもいがちだ。たがいに負い目をかさね、見返りをもとめるようになる。


こういった考えが親鸞の他力思想にまで遡及していくのは当然でしょう。日本のアナキズム思想は、単に政治的な思想にとどまらず、自由恋愛論者の大杉栄に代表されるように、個人の思いや感情に視点を据えた人間味あふれる魅力的な思想でもあるのです。
2015.08.09 Sun l 本・文芸 l top ▲
やれやれ、今度はOCNです。

私のスマホはOCNモバイルONEのSIMを刺しているのですが、先日、モバイルONEのアプリを見たら、繰越しのデータ容量がいつもより極端に少ないことに気が付きました。

私は月5GBの容量の契約をしているのですが、モバイルONEの場合、月末時点で余ったデータは翌月に繰り越すことができます。私は、動画などはほとんど見ないので、月に使用するデータは大体3.5~4GBくらいです。それで繰り越し分も含めて通常だと8.5~9GBくらいあるはずなのですが、今月に限っては6GBしかないのでした。

モバイルONEのSIMは、スマホに刺している分と出先で使用するノートPC用のUSB端末の分の二つをシェアして使っているのですが、アプリで確認するとノートPC用のSIMの使用量に”異常”があることがわかりました。それで、なにかの間違いだろうと思って、OCNのカスタマーズフロントのフリーダイヤルに電話しました。

電話口に出たのは、委託先のコールセンターのアルバイトとおぼしき若い男性で、私が”異常”を説明すると、案の定、最初から「間違いなんてあり得ない」と言わんばかりの言い方をするのでした。

ノートPCのSIMの使用量が多いのは、Windows10をダウンロードしたからではないかと言うのです。予約はしているけどまだダウンロードしてないと答えると、今度は自動的にダウンロードしたのを気が付いてないだけではないかなんて言う始末です。

「いや、デスクトップを見てもWindow10ではなく今までと同じですよ」
「私はWindows10の画面を見たことがありませんので新しいデスクトップの画面がどんなものかわからないのですが、もしかしたらWindows7と見分けがつかないのかもしれません」
「(なに言ってるだ、こいつ)Windows10のトップ画面は予約する際にマイクロソフトのページに出ているので、その違いくらいわかるよ」
「では、Windows10をダウンロードするために、事前にいろんなファイルがインストールされたのかもしれませんね」
「でも、Windows10の画面を見たこともないような素人にそう言われても説得力はないな」
(カッコ内は私の心の声です)

そう言うと、急に口ごもり、「ちょっとお待ちください」と言って、誰かに相談をはじめたようでした。

そして、「こちらでは専門的なことはわかりかねますので、今から申し上げますテクニカルサポートのほうへかけ直していただいて、そちらでご相談していただけますか?」と言って、別のフリーダイヤルの番号を案内されたのでした。

私はめんどうだなと思いながら、教えられたテクニカルサポートにかけ直しました。テクニカルサポートの電話に出たのは女性でした。OCNの社員かどうかわかりませんが、フムフムというように結構偉そうにこちらの話を聞いていました。でも、答えは同じでした。

「それはマイクロソフトの問題ですね」
「間違いではないと」
「そうです。マイクロソフトによってWindows10に関連したアップデートがおこなわれたのだと思います。でも、それはマイクロソフトの問題なので、どうしてそんなに大きなデータになったのかというのは、こちらではわかりかねます」
「でも、今までそんなデータ量を使うことはなかったのですよ」
「今度のWindows10は特別ですよ」
「ひと月分を1日で使うこともあると?」
「はい、それはあります」

いつまでも堂々巡りのやり取りをしていても仕方ないので、私は、釈然としないまま電話を切ったのでした。たしかに、Window10に関連するアップデートであれば、大量のデータ通信もあり得るかもしれませんが、しかし、3.3GBのデータを使用した日、ノートPCは出先で1時間くらい使っただけなのです。それに、シャットダウンするときも、別に更新プログラムのダウンロードなんてありませんでした。

ところが、今日、突然、OCNからつぎのようなメールが届いたのです。タイトルは、「『OCN モバイル ONE』一部お客さまの繰越容量が表示されない事象について」となっていました。

OCNモバイルONE不具合メール

私は狐につままれたような気持になりました。そして、モバイルONEのアプリを確認したら、いつの間にか今月のデータ量が9.8GBに増えていたのでした。

「繰越容量消失」というのもよくわからない話ですが、私の”異常”もそれと関係があったのでしょうか。だったら、あのカスタマーフロントとテクニカルサポートの応対はなんだったんだと言いたくなります。ただ、言い逃れるためだけに、適当なことを言ったのか。

OCNの不具合にWindow10のアップデートが関係していたのかどうかわかりませんが、不具合の言い逃れに、(これ幸いとばかりに)アップデートが使われたのはたしかなのです。

要するに、コールセンターなんて、当社はアフターサービスをおこなっておりますというアリバイ作りのためにあるようなものなのでしょう。そのために、かたちばかりの「カスタマーフロント」を外部委託しているのでしょう。コールセンターに任されているのは、簡単な手続きの仲介だけです。だから、少しでもクレームめいたことを言おうものなら、マニュアルに従ってクレーマー扱いされるのです。お客様は神様どころか、お客様はクレーマーみたいな考えしかないのでしょう。そうかと言って、なにも言わなければ、ミスさえ認めず泣き寝入りさせられるだけなのです。

マスコミもクレーマー問題を針小棒大に扱うので、なんだか自由に文句が言えない風潮のようなものがありますが、私は、これも「認知資本主義」の一種かもしれないと思いました。

『はたらかないで、たらふく食べたい』(タバブックス)の著者の栗原康氏は、同書のなかで、「認知資本主義」について、つぎのように書いていました。

大切なのは、なんらかの情報がはいってきたら、期待されたとおりの反応をしめすこと、けっして迷わないこと、躊躇しないこと、いっけん人間の頭脳を活用するようになったこの社会は、じつのところほんとうのことをいってしまえば耳だけを重視するようになった社会である。これこれこういう情報がはいってきたら、なにも考えずにいわれたとおりにうごくこと。ようするに、上から命令されたら、それにしたがえということだ。


なにも考えずに、なにも疑わずに言われたとおりに従うこと。それが「認知資本主義」の要諦です。クレーマーは、いわば「認知資本主義」に弓を引く不届き者とも言えます。

正しいと思ったら遠慮なく文句を言うこと。クレーマーになってやるというくらいの覚悟でないと、「私どもは間違っておりません。お客様の勘違いではないですか?」という「認知資本主義」の常套句(マニュアル)に言い負かされるだけです。
2015.08.08 Sat l ネット l top ▲
アラタナ24hというサイトに、辻正浩氏という「SEOコンサルタント」の方のインタービュー記事が載っていましたが、これからの検索の方向性を知る上で、大変参考になりました。

アラタナ24h
辻正浩氏が明かすSEOの考え方【1】今後のGoogle、SEOの方向性
辻正浩氏が明かすSEOの考え方【2】SEOは今後も必要な技術なのか?

モバイルフレンドリー以後のGoogle の検索は、私たちの目には「混乱」のようにしか映りません。常にめまぐるしく順位が変動しており、しかも、それはモバイルフレンドリー、つまり、モバイル向けにサイトを適応しているかどうかというような簡単な話ではなく、従来のSEOの常識では測れない”奇々怪々”なものです。現在、パンダアップデートが更新中ですので、バンダアップデートの影響のように言う人が多いのですが、この小刻みな変動が始まったのは、モバイルフレンドリーが始まってからなのです。モバイルフレンドリーのアップデートに乗じて、アルゴリズムに別の要素が加わったのは間違いないのです。

具体的には、Google が言うオーソリティサイト、いわゆる企業などのブランドサイトがモバイルフレンドリーの対応如何に関係なく優遇されているのが特徴です。そして、その多くはGoogle のアドワーズユーザーと重なっているのです。

今や個人がネット通販をはじめても、楽天などショッピングモールにでも出店しない限り、ほとんど成功は見込めません。昔のようなチャンスはないのです。なぜなら検索で上位に表示することがほぼ不可能だからです。既にネットは、ウェブ2.0の頃のような理想とはほど遠い状況にあり、ロングテールなんていうことばも、いつの間にか死語になってしまいました。ネットはますます秩序化・権威化・リアル社会化してるのです。

Google の検索における最近の動きとして、辻氏は、”ローカル系”、”モバイル系”、”エージェント型検索”の三つをあげていました。

”ローカル系”というのは、「検索する場所によって検索結果が変わることです」。つまり、横浜と大分では検索結果が異なり、それぞれの地元のリアル店舗や会社などのサイトが優先して表示されるようになっているのです。

それでなくても検索で表示されたサイトの間に、Google やYahoo!が自社のサービスコンテンツを挿入させていますので、トップページの「10件表示」も、実際は8~9件しか表示されていません。ローカル検索でその地域のサイトが優先して表示されると、トップページの表示枠はますます少なくなるのです。とりわけワリを食うのは、地域に限定されない無店舗の通販サイトです。辻氏もつぎのように言ってました。

ECサイトを運営している場合では、多くの場合マイナスです。いままでは上位に全国対応のインターネット通販サイトが表示されていたキーワードで、各地域に限定されたリアルの店舗が表示される状況もいくつか確認できています。


つぎの”モバイル系”で、辻氏が今後「怖いと思っている」のは、App Indexingの影響だと言ってました。

App Indexingのなかで特に大きな影響をもたらすと言われるのは、検索結果にアプリが表示されるようになることです。Googleも、アプリのあるなしが今後検索順位に影響を与えるようになると明言しているのです。

スマホ対応にしても、アプリの格納にしても、Google は「ユーザーに快適な検索体験を与える」ためと言ってます。しかし、それはGoogle の考える「ユーザー目線」にすぎません。本来「快適」であるかどうかを判断するのはユーザーでしょう。

同じスマホで見るにしても、情報量が少ないスマホ用のサイトや画面のズームインやズームアウトができないレスポンシブデザインなどより、PCサイトのほうが「快適」な場合だってあるでしょう。ユーザーの好みやサイトの性格によって違うはずなのです。

それに、辻氏も言っているように、スマホ対応やアプリの格納が必要のないサイトだってあります。まして、個人の通販サイトなどがアプリを作成するには技術的にも資金的にも大きな負担です。でも、アプリを作らないと検索順位では不利になるのです。逆に言えば、それが可能な企業サイトが有利だということです。

極めつけは、”エージェント型検索”です。「横浜 おすすめ」と音声検索すると、横浜の観光名所が表示されるテレビCMがありましたが(あっ、あのCMはGoogle ではなく、ジャパネットたかただったか?)、あれをさらに進化させたのが”エージェント型検索”です。辻氏は、つぎのような具体例をあげていました。

例えば誰かと電話していて、「明後日の19時から飲みに行こうよ!じゃあお店探しとくね!」となって電話を切った途端、画面に「あなたは◯◯さんとは最近A店とB店に行って満足だったようです。この店に近い場所であなたと●●さんの好みにも合ったC店はどうですか?」と出てくるようなものが”エージェント型検索”です。エージェント、代理人が勝手に調べて、検索する前に検索結果を教えてくれるわけですね。


これを便利と考えるか、おせっかいと考えるか、あるいは怖いと考えるか、人それぞれでしょう。

この”エージェント型検索”こそ究極の検索と言えるのかもしれません。つまり、検索なのか広告なのか見分けがつかないからです。今の検索結果が表示されるページが、昔と違ってゴチャゴチャしているのも、検索で表示されたサイトと広告サイトの見分けがつけにくいようにしているからですが、”エージェント型検索”では、検索そのものが広告と一体化(未分化)できるのです。このように検索技術は、ネット上に氾濫する膨大な情報を整理するという当初の目的から逸脱して、今や広告のための”手段”と化しているのです。

”ローカル系”も”モバイル系”も”エージェント型検索”も、すべては広告の効率と価値をあげるためです。PC検索とモバイル検索を別にするのも、今はまだそうなっていませんが、PC向けとモバイル向けに別の広告を出すようにしたいからでしょう。

App Indexingでアプリを検索の対象にするのも、ゆくゆくはアプリに広告を表示するためと言われています。資本主義は、地理的な拡大(収奪する周縁)が限界に達したとき、仮想空間というあらたな”周縁”を作りだし延命を図ったのですが(それが今のグローバルな金融資本主義ですが)、Google もそうやってあらたな広告の空間を作り出しているのです。そのためにGoogle は、「ユーザーに快適な検索体験を与える」ため、ユーザービリティのため、と称してみずからのルールを押し付けているのです。それがGoogle がarrogantと言われるゆえんです。

Google の売上げ660億ドル(約7兆8千億円)の90%はアドセンスやアドワーズの広告収入です。検索は事実上、そのためのプラットフォームになっているのです。しかも、Google は検索だけでなく、モバイルにおいてはOSまで独占しつつあります。

検索の公共性を考えれば、(現実にはGoogle とBingの二つの選択肢しかないのですが)Google の圧倒的なシェアを解消することが肝要でしょう。でないと検索はますます歪んだものにならざるをえないでしょう。Google であれどこであれ、営利企業である限りあくなき利益を追求するのは当然で、検索と広告が一体化するのはある意味では自然の流れなのです。だからこそ、ユーザーにとってなにが「快適な検索体験」なのか、それを主体的に選択できるような環境(公平な競争)が必要なのだと思います。
2015.08.04 Tue l ネット l top ▲
先日亡くなった鶴見俊輔氏の『日常的思想の可能性』(筑摩書房)を読み返していたら、こんな文章が目に止まりました。

 詩人の鮎川信夫は「政治嫌いの政治的感想」という文章を、一九六一年二月に書いている。この文章によると、安保反対の運動は、進歩的文化人のあやまちの総決算だそうだ。反対の根拠が薄弱である。大新聞が安保強行採決を非難して大きく書きたてた。その論調をうしろだてにして、反対運動が大規模におこった。やがて新聞の論調は、デモのゆきすぎを非難する方向にかわり、デモの指導をした進歩的文化人は新聞の変節にフンガイした。しかし、新聞の論調がかわるのはこれまで毎度のことだし、新聞をアテにしていては革命などできるわけはない。こういう軽い運動が、新聞とともに消えていったのはあたりまえのことだ。
 こういう鮎川のまとめが、大衆運動としての安保闘争について、かなりのところまであたっていることを認めるところから、再出発したい。
(「さまざまな無関心」)


60年安保の際に、鶴見氏らが中心となって反戦市民グループ「声なき声」の会が結成されたのですが、その6年後の6・15(東大生・樺美智子さんが国会デモで「死亡」した日)に集まったのは僅か9名だったそうです。でも、鶴見氏は、「運動の波がひいてしまったあとで、運動の中にのこり、その中でつみかさねがおこるような場所」が必要なので、「声なき声」の会の存在意味はあるのだと書いていました。

この文章から49年。私は、今の安保法制反対運動も、鮎川氏が批判するようなお決まりのパターンをくり返しているように思えてならないのです。

忘れてはならないのは、マスコミがSEALDsを持ち上げるようになったのは、安保関連法案が衆議院を通過してからだということです。つまり、実質的に法案の成立が確実になってから、いつものようにマスコミの「アリバイ作り」がはじまったのです。実際に反対派の人たちのTwitterなどを見ても、マスコミが書いていることをオウム返しに言っているような発言が目立ちます。そうやって踊らされ持ち上げられ、そして落とされるいつものパターン。

原発事故のあと、あの数万人を動員した官邸デモのエネルギーが、野田首相(当時)との面会に収斂され、一気に熱が引いていったのと同じように、今回もデモのエネルギーが野党の国会対策に収斂され、法案成立とともに「波が引く」のは目に見えています。選挙に行かないやつが悪い、デモに参加しないやつが悪い、そういったおためごかしの総括で運動のエネルギーは「蒸発」していくのです。

フレディみかこ氏が言うように、現代は右か左かではなく上か下かの時代なのです。反対派は、国会前に来ているのは組織に動員された人たちではない「普通」の人たちだと言ってますが(今回に限らずいつもそう言うのですが)、その「普通」ってなんだろうと思います。選挙に行かない、デモにも参加しない、そういう「地べたの人間」たちのなかにある“政治”にこそ目を向けない限り、明日はないのだと思います。

政治は国会(対策)のなかだけにあるのではないでしょう。にもかかわらず、反原発でも反安保法制でも、無理やりにでも国会のなかに封じ込めようとしているように思えてなりません。

鶴見氏は、少なくとも「声なき声」の会の再出発にあたって、この鮎川氏の”批判”を思想的な起点に据えようとしたのですが、今の安保法制反対運動にはそういった謙虚な姿勢さえないのです。

反対派は「安倍総理は追い詰められている」と言ってますが、実際はますます「意気軒昂」という話があります。たしかに、あの薄ら笑いを見ると、追い詰められているどころか、ファシスト特有の”サディズム的快感”に酔い痴れているように見えないこともありません。少なくとも、「子どもの頃から嘘つきだった」バカボン(赤塚不二夫の漫画の主人公ではなく、バカなボンボンという意味です)にとって、この国会は文字通り本領発揮とも言えるのです。

「安倍総理は追い詰められている」というのは、いかがわしいSEO業者と同じで、成果を誇大に強調するセールストークと考えたほうがよさそうです。要は、「今度の選挙は是非わが党へ」と言いたいのでしょう。そうやって安保法制反対のエネルギーは「勝てない左派」の愚劣な政治に回収されていくのです。花田清輝の口吻を真似れば、ものみな”選挙の宣伝”で終わるのです。
2015.08.02 Sun l 社会・メディア l top ▲