最近の朝日の「論壇時評」には違和感を覚えることが多いのですが、今月も例外ではありませんでした。

朝日新聞デジタル
(論壇時評)2015年「安保」のことば 「わたし」が主語になった

どうやら高橋源一郎にとって、安保法制(安保関連法案)に反対する運動は、SEALDsと「非暴力」に集約されているようです。

でも、SEALDsの運動は、共産党の「国民連合政府」構想に象徴されるように、ただ来夏の参院選に収斂されるものでしかないのです。共産党の「国民連合政府」構想自体も、別に目新しいものではなく、今までも何度も似たものがありました。”共産党アレルギー”でうまくいかないのも最初から計算済みで、結局は「我が党こそ唯一の野党」という共産党お得意のプロパガンダに利用されるのがオチでしょう。

採決の日の国会周辺は、SEALDsとはまったく別の光景もあったのです。中核派のダミーと目されている法政大学文化連盟の採決当日のツイッターには、つぎのような発言がリツイートされていました。

キャプチャ1

キャプチ2ャ

しかし、高橋源一郎の目にはSEALDsしか映ってないのでした。しかも、SEALDsの「非暴力性」が、「極左」や「ブサヨ」などを暴力的に(!)排除する方便に使われていた現実には目を塞いでいるのです。

高橋は、今回の運動が60年安保や70年安保と違う点は、「徹底した非暴力性」と、「『ことば』がなにより重視されたことだ」と書いていますが、私には悪い冗談のようにしか思えません。リベラル・左派のなかには、SEALDsによって、あたらしい「政治文化」や運動のスタイルが生まれつつあるのではないかという見方もありますが、それは参加者のファッションなど見た目のあたらしさを「勝てない左派」が希望的観測で“拡大解釈“しているだけです。SEALDsの背後にあるのは、手あかにまみれた”永田町政治”と左のもうひとつの全体主義です。それは、高橋ら全共闘世代がかつて否定したはずの古い政治の姿です。

高橋源一郎に言わせれば、今回の運動は、「政治の世界では珍しい、『わたし』を主語とする、新しいことばを持った運動」だそうですが、湯浅誠でさえ辟易したというあの単調なスローガンのどこに新しい「ことば」があるというのでしょうか。そこには、ただ共産党や民主党の”選良”にお願いするだけの、そのために選挙に行くことを呼びかけるだけのおなじみの「ことば」があるだけです。”絶対的な正義”や”多数(派)”に無定見に身を寄せ、異論や異端の少数派を排除する運動の論理に無頓着な彼らに、「わたし」の「主語」なんてあろうはずもないのです。

また、高橋源一郎は、60年安保をめぐる鶴見俊輔の言説についても、鮎川信夫からの辛辣な批判を受けて”自己批判”している点はなぜか無視しているのです(下記の「関連記事」参照)。60年安保を総括する上では、それがいちばん大事な点でしょう。

問われるべきは、「民主主義の回復」よりまずその「民主主義」の内実でしょう。そのためにも、私たちは、右だけでなく左の全体主義に対しても、否(ノン)を突き付けなければならないのです。


関連記事:
ものみな”選挙の宣伝”で終わる

2015.09.25 Fri l 社会・メディア l top ▲
テレビで川島なお美の激やせした姿を見たときはびっくりしました。もっとも、肝内胆管ガンの場合、手術の場所によっては、消化器の機能が一時的に失われるので、それが回復するまでは激やせすることもあるそうです。ただ一方で、肝内胆管ガンが他のガンに比べて、予後がきわめて悪い病気であるのもたしかなようです。

そして、案の定と言うべきか、テレビ出演から数日後、公演中のミュージカルと11月から公演が予定されている次回のミュージカルも併せて降板することが発表されたのでした。

川島なお美と言えば、ワイン好きで有名で、ボジョレヌーボーの解禁日のイベントなどに、ミニチュアダックスフントの愛犬を連れて出てくるお約束の人物でした。また、青学出身ということもあって、『なんとなく、クリスタル』の登場人物とオーバーラップするところもあり、そのためか田中康夫とセットでよく出ていた時期もありました。

昔は、ちょっと生意気で高慢ちきなイメージがありましたが、その激やせした姿からはそんなイメージは微塵も伺えず、川島なお美らしさもすっかり消えていました。

今や二人に一人がガンに罹る時代で、早期発見であればガンは怖い病気ではないと言われますが、しかし、そうは言っても、ガンが死を連想する病気であることには変わりはないのです。そんな病気と向き合わねばならない苦悩たるや、私たちの想像を越えるものがあるはずです。

また、今日のワイドショーでは、北斗晶がみずからのブログで、乳ガンを告白したというニュースが大きく扱われていました。報道によれば、北斗晶の場合、ガンの進行が速いらしく、既に脇の下のリンパ節に浸潤(転移)しているそうです。

余談ですが、私は、北斗晶と佐々木健介がまだ結婚する前、原宿の知り合いの店で二人に会ったことがあります。プロレスファンの店のオーナーと顔見知りだったみたいで、私が店で油を売っていたら二人がふらりとやってきたのでした。オーナーから「健介さんにサインをもらったら?」と言われましたが、私はプロレスにまったく興味がなかったので、失礼にも「いいです」と断ったことを覚えています。そのときの二人の印象は、今、テレビで見る印象とまったく同じでした。

昔、入院していたとき、同じ病院に筋ジストロフィーの病棟がありました。当時は、今と違って筋ジストロフィーは不治の病と言われ、患者の多くは20歳前後で亡くなっていました。それでも、子どもたちは”院内学級”で、文字を覚え、計算の仕方を覚え、歌を歌い、絵を描いて、普通の子どもたちと同じように勉強していました。

筋ジフトロフィーの小児病棟を担当するドクターは、「もしかしたら明日になったら画期的な治療法が見つかるかもしれないのです。みんなそう思って治療に当たっているのですよ」と言ってました。私は、それを聞いて、「絶像の虚妄なること亦希望に同じ」という魯迅のことばを思い出したのでした。

決して気休めではなく、絶望の先にも希望はあるのです。

追記:
この記事をアップして1時間半後、川島なお美が亡くなったというニュースが流れました。
2015.09.24 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
昨日、用事で隣県のある街に行きました。そこは、若い頃10年近く付き合った彼女(今風の言い方をすれば「元カノ」)が住んでいた街でした。私は、休みになると、当時住んでいた埼玉から100キロ近く離れたその街に、いつも車で彼女を迎えに行っていました。

高速道路のインターを降りると、さすがにまわりの風景は変わっていたものの、街中に向かう道路は昔のままでした。私は、「このカーブはなつかしいな」「この交差点もなつかしいな」などと心のなかで呟きながら運転していました。

見覚えのある駅前の通りを走っていると、今でも舗道を歩いている彼女にばったり出くわすような気がしました。しかも、歩いているのは、20数年前の彼女なのです。

別れる前年、彼女のお父さんがガンで亡くなったのですが、亡くなる半月くらい前に病院にお見舞いに行って、病室で二人きりになったとき、お父さんから「××(彼女の名前)のことを頼みますね」と絞り出すような声で言われました。私はそのお父さんの気持も裏切ってしまったのです。

終わった恋愛に対して、女性はわりと切り替えが早く、男性はいつまでも引きずる傾向があると言われますが、私もやはり未だ引きずっている部分があるのかもしれません。

車を運転しながら、私はなんだか胸が締め付けられるような気持になりました。と同時に、もうあの頃に戻ることはないんだなと感傷的な気分になっている自分もいました。もちろん、そのなかには多分に悔恨の念が混ざっているのでした。

恋愛に限らず他人から見ればどこにでもあるような話でも、当人にとっては、唯一無二の特別なものです。それが私を私たらしめているのです。

世の中の人たちは、なにか利害がない限り自分に関心などもってくれないけど、そのなかで利害もなく自分に関心をもってくれる相手を見つけるのが結婚だ、と言った人がいましたが、恋愛も同じでしょう。

どこにでもあるようなありきたりな話でも、それを特別なものとして共有できる相手を見つけるのが恋愛なのです。坂口安吾は、「恋愛は人生の花である」と言ったのですが、その「花」はときにつらさや切なさやかなしみをもたらすものでもあるのです。

用事を終え、再びインターに向かって国道を走っていると、前方の空が夕陽に赤く染まっていました。その風景も昔何度も見たような気がしました。

思い出と言えばそう言えますが、年を取ると、このように何ごとにおいても悔恨ばかりが募るのでした。そして、そんな悔恨を抱えて、これから黄昏の時間を生きていかねばならないのだなとしみじみ思いました。


関連記事
『33年後のなんとなく、クリスタル』
2015.09.23 Wed l 日常・その他 l top ▲
安保法制(安保関連法案)は、今夜にでも参院特別委員会で強行採決されるのではないかと言われていますが、現時点ではまだ膠着状態がつづいているようです。

今さらの感がありますが、対米従属が「国是」のこの国では、国民の懸念などよりご主人様の意向が優先されるのは当然です。

そのご主人様の意向については、下記の「現代ビジネス」の記事がわかりやすく解説していました。

現代ビジネス
今さら聞けない安倍政権が安保にこれほどこだわるワケ

記事によれば、すべては2011年アメリカ連邦議会で成立した「予算管理法」に始まるのだとか。

この法律によって、それまでは「聖域」と言われてきた国防費を、以後の10年間で4,870億ドル以上、削減しなければならなくなった。これは、10年間で毎年平均8%近い削減額となる。


そして、予算の削減を実現するために、国防総省によって打ち出されたのが、「オフシェア・バランシング」という考えです。

オフショア・バランシングとは、簡単に言えば、世界中に展開しているアメリカ軍を徐々に撤退させ、その代わりにアメリカの同盟国、もしくは友好国に、それぞれの地域を防衛させるようにする。それによって、アメリカ軍がいた時と同様に、敵対国の台頭を防いでいくという概念だ。


「オフシェア・バランシング」によって、日本はアメリカの肩代わりをすることになるのですが、その際足手まといになるのが憲法9条です。解釈改憲で既成事実を積み重ね、9条改正へもって行くのは、「オフシェア・バランシング」下においては既定路線なのです。もちろん、9条改正は、丸山真男が言うような、主体性もなく「つぎつぎとなりゆくいきほひ」に流される日本の世論では、別にむずかしいことではないでしょう。「つぎつぎとなりゆくいきほひ」に必要なのは、既成事実の積み重ねだけです。

『宰相A』で描かれていたように、どう見ても安倍はただのアメリカの傀儡です。でも、なぜか、彼は、「日本を、取り戻す」「愛国」者のように看做されるのでした。どうして彼が「愛国」者になるのか、とても理解の外ですが、そういった倒錯した”『宰相A』的世界”にあるのが今の日本なのです。

安保法制をめぐる一連の流れのなかではっきりしたのは、従来「愛国」的と言われていた人たちがまったく「愛国」的ではなく、むしろ逆だということでした。それは、文字通り骨の髄まで対米従属が染みついたこの国のナショナリズムの姿でした。彼らが支持する政権は、どうひいき目に見ても、買弁的な政権でしかありません。でも、この国のナショナリズムでは、それが「愛国」に映るのです。『永続敗戦論』が喝破したように、戦後という時代の虚妄(個人的な言い方をすれば、「愛国」と「売国」が逆さまになった戦後という時代の背理)がこれほどはっきり示されたことはないのではないか。

一方、対米従属やナショナリズムに正面から向き合おうとしない反対派の運動も、相変わらず「ぼくらの民主主義」という空疎なマスターベーションをくり返しているだけです。一貫して運動を扇動してきた「田中龍作ジャーナル」にも、ついにこんな記事が登場していました。

田中龍作ジャーナル
【国会包囲】強行採決促す主催者の終了宣言って何だ?

 「アベはやめろ」「戦争法案いますぐ廃案」・・・夜空をつんざくコールは夜が明けるまで続きそうな勢いだった。抗議は最高潮に達していた。
 午後8時。これからという時だった。主催者(総がかり行動)のアナウンスが響く。「これで私たちの集会は終わりです。帰る人は桜田門駅の方向に向かってゆっくり解散をしたいと思います・・・」。
 8月30日と同じく主催者は帰宅を促したのである。


 参加者に帰宅を促す主催者は、警察に手を貸したに等しい。ツイッター上には主催者(総がかり行動)を批判するコメントが溢れた。
 「権力に従いたくないのに主催という権力をふりかざしていた」。ダイインした母親は目に涙をためながら歩道にあがった。


栗原康氏の『現代暴力論』を読むと、このような光景は「100年くらい」前からくり返されているそうです。そして、大杉栄は、そんな主催者を「音頭取り」と呼び、「音頭取りにつられて踊るのはもうやめよう」と言っているそうです。もちろん、踊るのをやめようと言っているのではありません。勝手に踊れと言っているのです。


関連記事:
空虚なデモ
『永続敗戦論』
2015.09.16 Wed l 社会・メディア l top ▲
先日、下記のような 記事が目に付きました。

Yahoo!ニュース
日本人のTwitter好き「異常」

 Twitter Japanの笹本裕代表は「日本は『バルス』で最高秒間ツイート記録を持つなど、世界的にも“異常”なほどTwitterがよく利用されており、本国の社員から『どうして日本人はこんなに使うの?』と聞かれることもしばしば。普及具合、活用の幅などあらゆる点で世界をリードしている」と話す。


おそらくそれは、日本人は、外国人に比べて、(文化的に)他人とのコミュニケーション能力に劣るところがあるからではないでしょうか。

昔、2ちゃんねるに常駐している人間のことを「一行バカ」と言った人がいましたが、さしずめ今は「140文字バカ」の時代なのです。もちろん、それはツイッターだけではありません。ヤフコメなども同様ですが、お手軽に一行か二行で”自己主張”する傾向はネット全体に蔓延しているのです。

文章を書くことは、同時にものを考えることでもあります。文章を書くなかで、ものの考えがより深まっていくのはよくあることです。でも、ツイッターなどは、ものを考えることにはつながりません。言うなれば、捨て台詞を吐くようなものです。面と向かっては吐けないけど、顔の見えないネットではいくらでも吐けるのです。それが、建前と本音を使い分けて生きる日本人には向いているのかもしれません。日本はほかの国に比べてイタズラ電話が多いそうですが、ツイッターで他者攻撃をするのは、イタズラ電話と似たものがあるのかもしれません。そして、「140文字バカ」たちは、負の感情を元手にした(ひとりよがりの)全能感に酔い痴れるのでしょう。

このブログの記事も、知らない間にはてなブックマークなどに引用され、一行か二行のコメントを付けられることがありますが、いらぬおせっかいで迷惑な話です。ときどきはてなブックマークを拒否することはできないのだろうかと思うことがあります。私は、そういう「双方向」なんてまったく信用していません。

たしかに、ツイッターは「電車の遅延や地震の発生」などの際、身近な情報として役立つ面がなきにしもあらずですし、企業などの情報発信ツールとしてもそれなりに有効だとは思いますが、一方で、ツイッターがネットの”自己表現”をお手軽に劣化させたのも事実でしょう。

ツイッターが招来した捨て台詞を”自己表現”と勘違いする時代。ツイッターが登場した際、「『論壇』がネットを中心に『復活』しつつあり、その『突破口』になっているのがツイッターだ」と宣った”痴識人”(東浩紀ですが)のことが今さらながらに思い出されてなりません。


関連記事:
ツイッター賛美論

2015.09.15 Tue l ネット l top ▲
これは、今話題になっている神戸連続児童殺傷事件の加害者・元少年Aが開設した「公式ホームページ」のタイトルです。

元少年A公式ホームページ
存在の耐えられない透明さ

※閉鎖されました。クリックすると何故か首相官邸に飛びます(笑)。

言うまでもなく、このタイトルは、ミラン・クンデラの小説「存在の耐えられない軽さ」(集英社文庫)をもじったものです。ただ、このタイトルは、クンデラの小説より、それを映画化したアメリカ映画のタイトルとしてのほうが一般にはなじみがあるのかもしれません。

タイトルだけでなく、ホームページの開設そのものにも、”悪趣味”とも言えるような元少年Aなりのユーモアが込められているような気がしないでもありません。案の定、自分たちは絶対に犯罪を犯さないと思っている能天気な人たちは、この”悪趣味”に対して、「非常識だ」「倫理的に許されない」「再犯の可能性がある」などと目くじらを立てるのでした。そして、売らんかな主義の週刊誌が、待ってましたとばかりに写真と実名を公表して、販売部数の倍増を目論むのでした。

『絶歌』発売からつづく一連の騒動は、もはや完全に商売のネタになっているのです。そういった視点で見ないと、見えるものも見えなくなるような気がします。

リテラの記事によれば、「公式ホームページ」開設に至る背景には、『絶歌』出版の際、土壇場で裏切られた幻冬舎の見城徹社長を告発する意図が存在していると言うのですが、もちろん、それだけではないでしょう。

リテラ
ナメクジだらけのHPよりもスゴい中身…少年Aが『絶歌』出版から逃げ出した幻冬舎・見城徹社長の裏切りを告発!

サイトのなかで、元少年Aは、パリ人肉事件の佐川一政氏に宛ててこう書いています。

僕も最近、自分を表現すること、切り刻んでさらけ出すことの苦悶と快楽を憶え始めたところです。あなたが「芸術とは失われたものへの郷愁である」というなら、僕にとって“芸術”とは、「失われた“現在”への求愛」です。僕にそれを教えてくださったのが、あなたです。


ホームページを開設したのも、佐川氏のサイトに触発されたからではないでしょうか。

佐川一政オフィシャルウェブサイト
http://isseisagawa.net/
※閉鎖されました。

たしかに、異様なコラージュなどを見せつけられると、「贖罪意識の希薄さ」「再犯の可能性」などということばが浮かぶかもしれませんが、それは、(専門家の意見を待ちたいけど)逆に元少年Aが「ヘンタイ」の自分と向き合っている証拠のように思えないこともないのです。

また、元少年Aのなかには、”忘れられる恐怖”という矛盾する心境もあるような気がします。それが傍目には「自己顕示欲」に見えないこともないのです。

元少年Aを商売のネタにする人たちには、とにかく彼が「反省」してもらっては困るのです。「反省」しないで「再犯の可能性」を残してもらったほうが、『週刊ポスト』のように商売のネタになるのです。

少年Aに「発達障害」の傾向があることはよく知られていますが、商売のネタにする人たちには、この点が見事なほどぬけています。と言うより、わざと無視している感じです。でないと、”贖罪意識が希薄で再犯の可能性が高い性的異常者”のイメージが維持できないからです。でも、神戸児童連続殺傷事件というのは、前も書いたように、「反省」などというものとはまったく次元の異なる事件なのです。

ヰタ・セクスアリスが逸脱するのは、思春期の少年たちにはありがちなことですが、どうしてそれが性的倒錯から殺人へとエスカレートしたのか。「表現に生きる」覚悟をした元少年Aの口からまだ充分語られているとは言えず、不可解な部分が残ったままです。

これからもメディアによってさまざまな報道がなされるでしょうが、犯罪を商売のネタにして事件を都合よく捏造する人間たちが口にする”社会正義”には、眉に唾する必要があるでしょう。
2015.09.14 Mon l 社会・メディア l top ▲
どうやら安保法制は、来週に強行採決して成立する公算が大きくなったようです。

自民党の谷垣禎一、公明党の井上義久両幹事長らは9日午前、東京都内のホテルで会談し、安全保障関連法案の16日の成立を目指すことを確認した。衆院で再可決する「60日ルール」を使わず、参院で成立を図ることでも一致した。与党は16日に参院平和安全法制特別委員会で採決し、同日中にも参院本会議で可決、成立させる構えだ。

Yahoo!ニュース
<安保法案>「16日成立」確認 自公幹事長が会談
毎日新聞 9月9日(水)13時12分配信


現金なもので、成立の公算が大きくなるにつれ、それまで安保法制一辺倒だった民主党の某議員のブログも、徐々に安保法制以外の話が多くなっています。

8月30日に反対派が呼びかけた国会前の「総がかり行動」では、主催者の発表で35万人(実数は6万~12万と言われています)が集まり、なかには「60年安保を凌ぐ盛り上りだった」と言う人さえいます。

フリーのジャーナリスト・田中龍作氏が主宰する田中龍作ジャーナルには、当日の様子について、次のような”迫真のルポ”が掲載されていました。

 「龍作さん、決壊した!」。友人のカメラマンが怒鳴った。数えきれないほどの市民が国会議事堂前の車道に出ている。
 午後1時40分。警察の規制線が決壊したのだ。
 「アベは退陣、アベは退陣」。シュプレヒコールをあげながら若者たちが先導した。警察は懸命に抑え込もうとしたが、洪水となった人々を抑え込むことはできなかった。
 両側で10車線の広い車道は、戦争法案に反対する人々で埋め尽くされた。
 日比谷公園の集会を終えた市民も続々と押しよせた。「10万人国会包囲」は現実のものとなったのである。
 30年余り続いたエジプトのムバラク独裁政権を倒した「タハリール広場」の集会(2011年1~2月)のように、国会前を占拠し続ければ、安倍政権は倒れる。

田中龍作ジャーナル
【国会前発~第1報】「戦争法案反対」10万人 警察の規制線決壊


しかし、翌日、国会前はいつもの平穏な朝が訪れ、いつもの日常を取り戻したのでした。翌日の記事で、田中龍作氏も書いているように、それは「2時間余りの革命」にすぎなかったです。でも、田中氏は、「安倍政権がある限り革命の火種となり燻(くすぶ)り続けることだろう」と書いていました。

田中龍作ジャーナル
くすぶり続ける革命の火種 国会包囲ルポ

ところが、SEALDsは、田中氏の言う「決壊」は、警察が公道を解放してくれたお陰だとして、警察にお礼を言っているのです。たとえ12万人が集まっても、それはエジプトの「タハリール広場」の熱気とは比べようもなく、みんなでお揃いのプラカードを掲げ、お揃いのシュプレヒコールをあげて、「安倍政権は追い詰められている」といういつものおためごかしの”総括”と万雷の拍手で解散して、ただ帰っていっただけなのです。

あれから10日経った現在、野田聖子氏を応援するという「戦略的思考」も頓挫して安倍は無投票で再選され、状況は一気呵成に強行採決へと傾いています。創価学会の反対署名も1万人足らずしか集まらず、”三色旗の造反”も、所詮はマスコミに乗せられた夢想にすぎないことがわかりました。これでは、「60年安保を凌ぐ盛り上り」「蟻の一穴」という声も空しく響くばかりです。

そして、案の定と言うべきか、SEALDsなどは、この怒りを来夏の参院選にぶつけようというようなことを言い出しています。こうやってものみな”選挙の宣伝”で終わるのです。

安保法制に対する民主党の「反対」が面従腹背であるのは、誰が見てもあきらかです。10月から割り当てがはじまるマイナンバー制度に対しても、民主党は推進する立場でした。民主党は、自民党や財務・警察官僚にとって長年の悲願であった国民総背番号制を、「マイナンバー」と言い替え政策として掲げていました。それは安保法制も同じで、対米従属を前提とする「国際貢献」は、自民も民主も維新も次世代もみんな共有しているのです。

8.30の国会前デモで12万人が集まったと言っても、それは空虚なものでしかありません。何度もくり返しますが、反原発の官邸前デモが野田首相(当時)との面会に収斂され、そのエネルギーが雲散霧消したように、今回の国会前デモも、野党の国会対策と選挙の宣伝に収斂され、雲散霧消するのは目に見えています。

SEALDsを支持するある人物は、SEALDsを批判する人間のなかにあるのは、「嫉妬」と「肥大化した自己愛だ」と言ってましたが、お揃いのプラカードを掲げ、お揃いのシュプレヒコールをあげて、おためごかしの”総括”に万雷の拍手を送るような人たちに比べたら、「肥大化した自己愛」のほうがまだしも希望があるように思います。

坂口安吾が言うように、政治という粗い網の目からこぼれ落ちるのが私たち人間なのです。「戦争反対」は、お揃いのプラカードやシュプレヒコールのなかだけにあるのではないのです。

 日本がもしコミュニストの国になったら(それは当然ありうることだ)、僕はもはや決して詩を書かず、遠い田舎の町工場の労働者となって、言葉すくなに鉄を打とう。働くことの好きな、しゃべることのきらいな人間として、火を入れ、鉄を炊き、だまって死んで行こう。
(一九六〇年八月七日)

『石原吉郎詩文集』(講談社文芸文庫)・解説より


石原吉郎は、60年安保の最中にこう書いたのですが、このようことばのなかにある政治こそ大事なのではないか。どうして「自己愛」がいけないのか。プロレタリア文学が「虐げられた人民」の口を借りて称揚した「自己犠牲」の政治なんかより、言うなれば「自己愛」の日常のほうがはるかに価値があるという共通認識は、既に私たちのなかにあったはずです。

「自己犠牲」の政治の先にあるのは、「犠牲を払ってがんばっている人間を批判するのか」「犠牲を払わないお前たちに批判する資格はない」という倫理を傘に着た自己正当化と絶対的な正義や多数を背景にした排除の論理です。そういった政治のことばに右も左もないのです。

関連記事:
ものみな”選挙の宣伝”で終わる
安保法制反対派の「いやな感じ」
安保法制反対派への違和感
2015.09.10 Thu l 社会・メディア l top ▲
めでたく芥川賞を受賞した又吉が、「アホなりに人間を見つめて書きました」と自著のCMをテレビでやっていますが、それ以前には、インスタントコーヒーを買うと、芥川賞作家・又吉直樹の書き下ろしエッセイを無料でプレゼント、というようなバナー広告がYahoo!のトップページに出ていました。

『貧乏の神様 芥川賞作家困窮生活記』(双葉社)を書いた柳美里によれば、作家のなかで、副業をもたずに小説だけで生活している人は、せいぜい「30人を超えることはない」そうです。新人作家の場合、年収100万円なんでザラだとか。柳美里は、そんな作家の”懐事情”について、下記のインタビュー記事でも具体的に語っていました。

Business Journal
年収1億円から困窮生活へ――芥川賞作家・柳美里が告白「なぜ、私はここまで貧乏なのか」

『火花』は発行部数が200万部を越えたそうなので、印税が仮に10%だとすれば、印税収入だけで2億6千万円です。もしかしたら、又吉ひとりで、この国の純文学作家全員の収入を越えるのかもしれません。

昔、井上陽水や中島みゆきのように、テレビに出ないことを「売り」にするシンガーソングライターがいましたが、純文学の「小説を書くのはお金のためじゃない」というイメージは、あれと似ている気がします。純文学の芸術至上主義的でピュアなイメージとお笑い芸人という「意外な」組み合わせが、今回の芥川賞の「売り」なのです。

吉本興業は、今やさまざまなコンテンツビジネスを展開する「総合エンタテインメント企業」です。テレビ番組や映画の製作だけでなく、当然出版部門ももっています。文春だけでなく吉本にとっても、『火花』が”金のなる木”であるのは言うまでもないでしょう。

又吉の芥川賞も、南海キャンディーズのじずちゃんの”オリンピック”と同じように、吉本のプロジェクトによるものではないかという見方がありますが、小説を書く前は「本好きの芸人」で売り込み、クラシックな丸メガネをかけた如何にも文士然としたいでたちで、新潮文庫のイメージキャラクターになったりしていましたので、吉本がまったく関与してないということはないでしょう。

上げ底の作家・又吉直樹が、そのうちフェードアウトして、「又吉の芥川賞受賞って、あれはなんだったんだ?」という話になる可能性も大ですが、今回の芥川賞に関しては、そんなことはすべて織り込み済みのような気がします。

一方で、吉本興業は、コンテンツや肩書以上に、もっと大きなものを手に入れたとも言えるのです。それは”文壇タブー”です。週刊文春や週刊新潮に対して、”文壇タブー”という治外法権を手に入れることができたというのは、芸能プロダクションにとって、想像以上に大きいはずです。それは、又吉だけでなく、所属する芸人たちにも大きな恩恵をもたらすことでしょう。

さっそく、女性レポーターのタメ口が気に入らないとかなんとか、又吉センセイの何様のような発言が出ていますが、当分は週刊文春や週刊新潮に吉本のタレントのスキャンダル記事が載ることはないでしょう。

さらに今度は、ジャニーズ事務所の某が次回の直木賞候補にあがるのではないかという噂も出ていますが、二匹目三匹目のドジョウを狙った“作家輩出ブロジェクト“はこれから益々盛んになっていくのかもしれません。もちろん、出版不況で背に腹をかえられない出版社も利害は一致するのです。かくして小説はタレントの”隠し芸”になり、文学はただのコンテンツビジネスになっていくのです。
2015.09.07 Mon l 本・文芸 l top ▲
2020年東京五輪のエンブレムの”パクリ騒動”が、とうとう「白紙撤回」の事態にまで至りました。もっとも、”パクリ騒動”が起きたときから、エンブレムを使用することによるイメージの低下を恐れた経済界から、「白紙撤回」の声があがっていたそうで、大会組織委員会の決定は別に意外ではないという声もあるようです。

それにしても今回の”パクリ騒動”は、あれほど中国のパクリを嗤っていた日本の、文字通り天に唾するトンマな姿を世界に晒したと言えるでしょう。ヨーロッパの人間から見れば、中国であれ韓国であれ日本であれ、みんな同じようにしか見えないのです。にもかかわらず、オレが偉い、オレのほうが世界でリスぺクトされている、なんて言い合っている姿は、彼ら西欧中心主義の人間からすれば、醜いアジア人がドングリの背比べをしている格好の差別ネタになるだけです。今回の決定を「ぶざまな成り行きになった」といち早く報じたイギリスBBC放送が、なによりそれを象徴しているように思います。

今回の”騒動”はネットから火が点いたのですが、それが大炎上して「白紙撤回」にまで至った要因については、中川淳一郎氏が独自のリアルな分析をおこなっていました。

Yahoo!ニュース
東京五輪エンブレム炎上騒動から見る広告人と一般社会の乖離
五輪エンブレム問題 声あげない業界、陰謀論に憤り 中川淳一郎氏「獲物が現れた時のネットの恐ろしさ」

もともと日本の文化は、コピーの文化なのです。言うまでもなく漢字も仏教も国家の統治制度も日常のさまざまな風習も、多くは中国や朝鮮からの輸入です。また、脱亜入欧以後はヨーロッパの模倣です。

かつて輸入雑貨の業界にいた人間からすると、日本がコピーの国であるというのは半ば常識です。たとえばシールやポストカードのメーカーで、「デザイナー」と呼ばれている人間の仕事は、まずロフトやハンズに行って、外国製の(本場の)よく売れている商品を買ってくることなのです。そして、それを模倣(トレース)してデザインするのです。

昔は、同じシールでも雑貨の系統と文具の系統に分かれていました。ホンモノにこだわり直接輸入していたのは雑貨の系統の会社でした。しかし、現在残っているのは、コピーとアニメキャラクターのライセンス商品が中心の、その意味ではいかにも日本的な文具の系統の(それも大阪の)メーカーばかりです。「本物志向」などと言いますが、実際はホンモノよりコピーのほうが売れるのです。それはコピーに対する文化的なバッグボーンがあり、そのほうが日本人の感性に収まりがいいからでしょう。

三島由紀夫は、『文化防衛論』において、伊勢神宮の式年遷宮を引き合いに出し、日本文化はコピーとオリジナルの区別がないと言ったのですが、まさにそれが日本文化なのです。サブカルチャーにおける二次創作も、そんな日本文化の系譜に連なるものです。日本が誇るクールジャパンも、模倣の文化の所産なのです。

模倣が当たり前のこととして存在する日本の文化。それは、この国の成り立ちからして、逃れることのできない”宿命”のようなものです。だから、日本人は、オリジナルなものより、コピーにコピーを重ねるそんな移ろいゆくはかなきものに「美」を見出したのです。それが日本の文化様式なのです。丸山真男が言った、主体性(考え方の核になるもの)をもたず「つぎつぎとなりゆくいきほひ」に流される日本人の思考の形態も、そんな日本の文化様式に附合しているように思います。そう考えれば、”エンブレム騒動”は、身も蓋もないことを言って自己撞着に陥っていると言えないこともないのです。

エンブレムのデザイナーの佐野研二郎氏は、ネットで在日認定され住所や電話番号まで晒されて、さまざまな嫌がらせを受けているそうですが、ネット住人たちはそうやって「愛国」の名のもとに佐野氏を血祭りにあげながら、あろうことか三島由紀夫が喝破した日本文化の伝統様式をも否定しているのでした。

関連記事:
コピー文化
2015.09.05 Sat l 社会・メディア l top ▲
先日の記事で、PCでは広告を非表示にできるけど、スマホでは広告を非表示にできないというライブドアブログの”巧妙”な仕様について書きましたが、ところがそこには露骨な”区別”が存在していたのです。

スマホで広告の表示を拒否できないのは個人のユーザーだけで、「NPO、公共団体、教育機関、法人企業」は、スマホでも広告を拒否できるのだそうです。ライブドアの公式ブログでも、「『広告非表示プラン(無料)』は、NPO、公共団体、教育機関、法人企業を対象としたプランで、PC、スマートフォン、ケータイでの広告は非表示となります」と記載されていました。

ここにも、ネットの秩序化・リアル社会化・権威化の流れが示されていると言えます。さすがLINEで、機を見るに敏だなと思いました。

これはGoogleの検索も同じです。モバイルユーザーが見やすいサイト、つまり、モバイルフレンドリーにしないと検索順位を下げるとさんざん脅された挙句、4月21日にいざ蓋を開けてみたら、モバイルフレンドーに対応してないサイトが突如、下位から「飛び級」でトップページに登場してきたのでした。それも、ひとつやふたつではありません。しかも、その”異変”はPCだけではありません。肝心なモバイルの検索においても同様でした(さらに現在は、PCもモバイルもほとんど順位に違いがなくなりました)。

モバイルフレンドリーにしないと順位を下げるというあのGoogle の警告は一体なんだったのか。モバイル検索の1ページ目に表示されているサイトのなかでも、「スマホ対応」のサイトは2~3つしかありません。

「飛び級」で登場したサイトを見ると、見事なほどLINEの方針と重なります。「NPO、公共団体、教育機関、法人企業」など、Google が言うオーソリティサイトばかりです。しかも、「法人企業」の多くは、Google のアドワーズユーザー(広告主)です。

ネットの収益源は未だに広告頼りで、それはGoogle もLINEも事情は同じです。そう考えれば、ネットの秩序化・リアル社会化・権威化は当然の流れとも言えるのです。

そんな流れのなかで、モバイルフレンドリーに見られるように、個人ユーザーはいいように振りまわされ、いいようにコケにされるだけなのです。Google はよく「ユーザービリティ」ということばを使いますが、それは自分たちの都合をそう言い換えているにすぎないのです。

歌田和弘氏によれば、Google の”Don't be evil”という有名な理念について、スティーブ・ジョブズは、「うそっぱちだと激しく怒っ」ていたそうです。

歌田和弘の『地球村事件簿』
グーグルに対して怒りまくったスティーブ・ジョブズ

また、特許侵害をめぐってGoogle と抗争中のオラクルのCEO・ラリー・エリソン氏も、同様の発言をしているそうです。オラクルの場合、目クソ鼻クソという感じがしないでもありませんが、少なくとも実際のビジネスの現場では、GoogleもただのEvilな会社にすぎないということなのでしょう。

バカのひとつ覚えのように、Google が「すごい」「すごい」というだけのネットの事情通たち。Google がロゴを変えると、まるで大事件であるかのようにいっせいに書き立てる事大主義。なかには、Google の誰々が妊娠したなどとという記事を書いていたSEO業者までいました。


「シール」検索結果1
「シール」検索結果2

これは、本日、「シール」でPC検索したトップページの画像です。ずらりと並んだ「シール印刷」のタイトル。SEOではタイトルが検索順位に大きく影響すると言われていますが、これが世界中の優秀な頭脳が集まって開発したパンダやペンギンやモバイルフレンドリーの現実なのです。
2015.09.02 Wed l ネット l top ▲