そして悲しくうたふもの
と、謳ったのは室生犀星ですが、つづけて犀星はこう謳っています。
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
(『抒情小曲集』 「小景異情」その二)
人はふるさとを前にするとみんな詩人になるようです。坂口安吾も然りで、「ふるさとに寄する讃歌」はまるで散文詩のようでした。そして、二人に共通するのは、ふるさとに対する愛憎二筋のアンビバレンツな想い(松永伍一『ふるさと考』)です。
青空文庫
ふるさとに寄する賛歌
長い間、私はいろいろのものを求めた。何一つ手に握ることができなかった。そして何物も掴まぬうちに、もはや求めるものがなくなっていた。私は悲しかった。しかし、悲しさを掴むためにも、また私は失敗した。悲しみにも、また実感が乏しかった。私は漠然と、拡がりゆく空しさのみを感じつづけた。涯もない空しさの中に、赤い太陽が登り、それが落ちて、夜を運んだ。そういう日が、毎日つづいた。
そんななかで、安吾は「思い出を掘り返し」、「そして或日、思い出の一番奥にたたみこまれた、埃まみれな一つの面影を探り当てた」のです。それは一人の少女の面影でした。
しかし、帰省した彼を待っていたのは、「すでに、エトランジェであった」自分です。少女の面影を追う私は、私自身が「夢のように遠い、茫漠とした風景であるのに気付い」たのでした。まさに、「夢の総量は空気であった」のです。
不治の病で町の病院に入院している姉。彼女は既に年内に死ぬことを知っています。そんな姉を病院に見舞い、枕を並べ一夜をともにする私。その朝の別れはどんなに悲しいものであったとしても、私は、やはり東京に戻らねばならないと強く思うのでした。
東京の空がみえた。置き忘れてきた私の影が、東京の雑沓に揉まれ、蹂みしだかれ、粉砕されて喘えいでいた。限りないその傷に、無言の影がふくれ顔をした。私は其処へ戻ろうと思った。無言の影に言葉を与え、無数の傷に血を与えようと思った。虚偽の泪を流す暇はもう私には与えられない。全てが切実に切迫していた。私は生き生きと悲しもう。私は塋墳へ帰らなければならない。と。
先日、帰省した折、昔会社で一緒だった人の家に行きました。同じ部署で仕事をしたことはありませんが、私より10歳年上で、会社の先輩でした。彼の家は、大分市内から車で1時間離れた町にあります。その町は、昔、私が勤務していた会社の営業所があったところです。私が営業所に転勤になったとき、彼は既に会社を退職して、その町で家業を継いでいました。営業所があった町は、私にとってはまったく見知らぬ土地で、彼が唯一の知り合いでした。そして、私はその町に、5年間住むことになったのでした。
ホテルから電話したら、「誰か会いたい人間はいるか? いるなら呼んでおくぞ」と言われました。しかし、私は、「面倒くさいので、誰にも会いたくない」と言いました。
家に行くと、奥さんと二人で出迎えてくれました。あとは「子どものようにかわいがっている」というネコが一匹いました。そのあと三人で町内に唯一あるレストランに昼食を食べに行きました。
彼はガンの治療中で、既に転移していると言ってました。家の前で別れるとき、「また帰ってきたら電話くれよな。ただ、そのときはもうおらんかも知れんけど」と言って、笑って手を振っていました。その姿が小さくなるまで車のルームミラーに映っていました。
そのとき、私も安吾と同じように、東京に戻らねばならないとしみじみ思ったのです。そして、ふるさとというのは、なんでこんなに悲しいんだろうと思いました。私は、いつもそんなふるさとから逃げてばかりいたのです。