今夏の参院選に、東京地方区に自民党から出馬予定だった『五体不満足』の乙武洋匡氏の出馬が見送られた、というニュースがありました。正確には、自民党が擁立を断念したということです。

私は、乙武氏が出馬すれば面白いのにと思っていたので、このニュースは残念でした。乙武氏ほど、(有権者を愚弄する)自民党の候補者にふさわしい人物はいないでしょう。それに、先の東京都知事選で、同じように「不倫」問題が取りざたされていた田母神某に60万票を投じた東京の有権者を再び嘲笑ういい機会でもあったので、かえすがえすも残念でなりませんでした。

乙武氏に関しては、もともと部類の女好き、セックス好きで、合コンでいつも露骨に女性をくどいていたという証言と、今回「不倫」旅行に同行した女性は、セックスボランティアで、「不倫」というのは皮相的な見方だという意見があります。

しかし、問題の所在はそういうところにあるのではないのです。田母神某が「愛国」を売りにする単なる「愛国」ビジネスの”商売人”でしかなかったように、乙武氏は「障害」を売りにする「障害者」ビジネスのタレントにすぎなかったのではないか。それは、今井絵理子も同じではないのか。

旅行に同行したダミーの男性も、「彼は特別なんだから目をつぶろうよ」という気持があった、「やっていいことと悪いことをきちっと教える」ことができなかった、というようなことを言ってましたが、この証言からもわかるように、乙武氏は”裸の王様”になっていたのでしょう。

「障害者にやさしい社会」には、言い方は適切ではないかもしれませんが、障害者に対して、さまざまな”タブー”や”特権(特別扱い)”が存在するのは事実です。その意味では、乙武氏のような「障害者」ビジネスは、まさに向かうところ敵なしなのです。乙武氏は、みずからの”タブー”や”特権”をいいことにやりたい放題のことをやってきたのではないか。しかし、身体に障害があるということと、その人物が人格的にすぐれているかどうかということは、当然ながら別問題のはずです。

そもそも「障害者にやさしい社会」というのは、社会生活を営む上でハンディのある人たちに、社会がそのハンディをフォローしていくということであって、腹にいちもつの障害者の“政界進出“の野望などとはまったく関係のない話でしょう。

自民党は、菊地桃子と澤穂希に出馬を断られたので、つぎの”目玉候補”として、乙武氏と今井絵理子に打診したと言われています。擁立のいきさつからして、(建前はともかく)障害者の声を政治に反映させるというような話ではなかったのです。えげつないのは、乙武氏だけでなく自民党も同じです。
2016.03.30 Wed l 社会・メディア l top ▲
たまたま本屋で、このブログでもおなじみのブレイディみかこと栗原康と大塚英志が揃って寄稿している『atプラス27』(太田出版)を見つけ、小躍りして買って帰ったら、今度はYahoo!トピックスに、ブレイディみかこ氏のブログの記事が掲載されていたので、二度びっくりしました。

太田出版
atプラス27(リニューアル特大号)

Yahoo!ニュース・個人
左派に熱狂する欧米のジェネレーションY:日本の若者に飛び火しない理由(ブレイディみかこ)

このブログでも何度も書いていますが、ヨーロッパでは、SNP(スコットランド独立党)やシリザ(ギリシャ)やポデモス(スペイン)など急進左派が躍進しています。また、イギリス労働党でも、昨年の党首選挙で、事前の予想を覆して最左派のジェレミー・コービンが当選しました。これらの急進左派は、既成の左派とは一線を画しており、反緊縮・反格差の15M運動などのような”直接行動”で台頭した、日本流に言えば新左翼(ニューレフト)とも言うべき存在です。もっとも、安保法制に反対して大学の正門を封鎖すれば、一般学生から総スカンを食い、「大学の自治」などどこ吹く風で、警察に告発されて逮捕される日本のそれとは、雲泥の差があると言えるでしょう。

何度もくり返しますが、ブレイディみかこ氏が言う「右か左ではなく上か下か」という視点で見れば、日本の左派リベラルは、間違っても「下」の運動ではないのです。グローバル資本主義の矛盾が露呈し、格差や貧困の問題が深刻化するにつれ、連合などに代表される労働運動は、ますます地べたの人々の現実から遠ざかるばかりです。それどころか、個々の現場では、正社員対非正規雇用(本工対下請工・臨時工)という二重三重の差別構造のなかで、むしろ地べたの人間と利害が対立するような存在にさえなっているのです。

25~29歳の独身者たちの可処分所得が他の世代のそれに比べて著しく伸びが低く(それどころかマイナスにさえなっており)、若者の生活水準がどんどん低下しているというヨーロッパやアメリカの現実は、日本とて例外ではないはずです。しかし、日本の若者たちは、ヨーロッパの若者たちのように、急進左派に熱狂することがなく、むしろ逆にヘイトなナショナリズムに取り込まれ「中国人や朝鮮人は日本から出ていけ!」などと叫んでいる有り様です。本来ならグローバル資本主義に拝跪するアベノミクスに対して、ラジカルな批判者になってもおかしくないのに、「愛国」を売りにするような政治家や安倍応援団のYahoo!ニュースなどに煽られて、嫌中憎韓のヘイトなナショナリズムに動員されているのです。それは、かつてドイツの地べたの若者たちがナチスに熱狂した光景とよく似ています。

どうしてなのか。地べたの若者がバカなのか。もちろんそれだけではないでしょう。言うまでもなく、地べたの若者たちを熱狂させるような急進左派が日本には存在しないからです。

今朝も地下鉄の入口で、いつものように共産党の女性が”辻立ち”していましたが、それはまるでひとりでお経を読んでいるかのような、やる気も迫力もないお定まりの演説でした。あれでは地べたの若者の胸奥には届かないでしょう。民進党やらも然りです。あんな政党のどこに若者を熱狂させるものがあると言えるでしょうか。日本には、公務員と大企業の正社員の既得権益を代弁するような政党があるだけで、地べたの人々の切実な問題をくみ上げるような「下」の政党がないのです。

ブレイディみかこ氏の記事で紹介されていた、日本で格差や貧困の問題に取り組んでいるエキタスの女性メンバーのつぎのようなことばが、なにより日本の現状を表しているように思います。

 「『考えたくない』んだと思うんです。考えたら、先を考えたらもう終わってしまうんです。本当は中流じゃなくて貧困なんですけど、貧困っていう現実に向かい合うと終わっちゃうから・・・・。(略)労働問題とかを自分のこととして考えることをすごく嫌がるんです。だから、友達と話をするときに、そういう話題を出せない」


「日本は豊かですばらしい」と自演乙している間に、先進国で最悪と言われる格差社会になってしまったこの国で待ち望まれるのは、なによりグローバル資本主義の犠牲になって貧困への坂道を転がり落ちている地べたの人々の声をくみ上げ、当事者意識に目覚めさせるような運動です。でも、それは「右か左ではない上か下か」の運動なのです。


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2016.03.26 Sat l 社会・メディア l top ▲
ベルギーの首都・ブリュッセルで発生した連続テロ。世界内戦の時代は、こうしてますます苛烈化し無秩序化していくのでしょう。

オバマ大統領が先日キューバを訪問した際、ラウル・カストロ議長に対して、”自由”や”人権”など「人類の普遍的な価値」を実現するよう呼びかけたというニュースがありましたが、しかし、”自由”や”人権”がホントに「人類の普遍的な価値」なのかという疑問があります。それは、アメリカの方便ではないのか。たとえば、グァンタナモの軍事基地の問題ひとつとっても、アメリカに”自由”や”人権”を口にする資格があるのかと思います。

グァンタナモ軍事基地は、アメリカが革命前の旧キューバ政府から永久租借したキューバのグァンタナモ湾にあるアメリカの海軍基地です。そのなかにはテロリスト専用の収容所があり、アメリカの国内法も国際法も及ばない”治外法権”の場所で、文字通り「人類の普遍的な価値」を無視した拷問や虐待が日常的におこなわれていることを多くの人が指摘しています。

 具体的には、「民間人に対する刑事裁判ではなく、軍事裁判を適用すること」「裁判所の逮捕状がなくても敵兵として拘禁し、しかも戦争でもないので、ジュネーブ条約による捕虜への権利も与えないこと」「拷問などの超法規的な取り調べを可能にすること」といった、まさに文字通りの「無法」を可能にする「特殊ゾーン」というわけです。

Newsweek
オバマの歴史的キューバ訪問で、グアンタナモはどうなる?(冷泉彰彦)


なんのことはない、アメリカがグアンタナモでやっていることは、イスラム国がやっていることとそんなに違わないのです。それは、宣戦布告もなく戦時国際法も及ばない世界内戦のその延長上にあるものと言えるでしょう。

”自由”や”人権”は、決して「人類の普遍的な価値」ではないのです。まして、アメリカがそれを大義名分にする資格などないのです。そもそも「人類の普遍的な価値」に弓を引くイスラム過激派を西側世界に招き寄せたのは、アメリカなのです。言うまでもなく、アメリカはみずからの世界支配のために、彼らを利用しようとして、「飼い犬に手を噛まれた」のです。

多くのイスラム教徒は、過激派のやっていることに反対している、彼らはイスラム教徒にとって迷惑な存在だ、というような意見がありますが(テレビのワイドショーなどもその手のコメントであふれていますが)、それは私たち西側世界の人間たちの”希望的観測”にすぎないように思います。一般のイスラム教徒にしても、オバマの言う「人類の普遍的な価値」を共有しているわけではないのです。彼らは、イスラムという異文明の教徒たちなのです。とりわけキリスト教的価値によって主導される現代の政治や経済や文明によって虐げられた人々なのです。

どうしてベルギーがテロリストの巣窟になり、テロリストたちがブリュッセルのモレンベク地区に潜伏することができるのか。それは、彼らに心情的に(宗教的に)共感するイスラム教徒たちがいるからでしょう。いわばそこに「人民の海」ならぬ「ムスリムの海」があるからでしょう。テロリストたちは、決して孤立してはいないのです。そこには、テレビのワイドショーのコメンテーターたちが言うような現実とはまったく違う現実があるのではないでしょうか。わずか数人のテロリストが、首都の機能をマヒさせ、世界を震撼させる。そのテロリストの多くは、仕事ももってないゲットーの若者たちです。宗派対立があるのも事実ですが、彼らの行為に、心のなかでひそかに拍手喝さいを送っているイスラム教徒は多いのではないでしょうか。

世界内戦の時代は、「人類の普遍的な価値」などなんの意味をもたない、なにが正義でなにが正義ではないのか、平和が尊いとかどうかとか、そんな考えさえ通用しない、異なる価値観による文字通りの”文明の衝突”です。そして、いつなんどき私たちの日常が戦場と化すかもわからないのです。「テロとの戦い」が底なし沼であるのは、もはや誰の目にもあきらかでしょう。「人類の普遍的な価値」なんてない。そう再認識することからはじめなければ、なにも見えてこないように思います。
2016.03.23 Wed l 社会・メディア l top ▲
前回の記事のつづきですが、電話をしてもなかなかつながらないので、「OCNテクニカルサポート」に状況を書いて、メールを送信しました。

すると、翌日、返信がありました。内容は、パソコンの履歴を確認してテクニカルサポートに電話してくださいという実に簡単なものでした。なんのことはない、やはり電話をしなければならないのです。

それで、きょうの朝、メールに記されていたテクニカルサポートに電話しました。電話口に出たのは女性でした。私は、もう一度、電話口の女性に、メールに書いたことを最初から説明しました。説明し終えると、女性は、「そういった話は別の部署になりますので、折り返し担当者から連絡を差し上げます」と言うのです。私が「このまま待ちますよ」と言ったら、「いや、かなり時間がかかると思いますので、折り返しお電話を差し上げます」と言い張るので、私は仕方なく携帯電話の番号を伝えて電話を切りました。

午後遅く、携帯に電話がありました。今度は男性の担当者でした。担当者は、「テレビ電話など利用されたのではないですか」と言うのです。いや、テレビ電話どころか、YouTubeなど動画も観てないと言うと、「USB端末を他の方が使ったということはないですか」などと言う始末です。まったく話にならないのです。

こう書いても、多くの人は、OCNの担当者と同じように、「勘違いだろう」「知らない間に使っているのに気が付いてないだけだろう」と思うのかもしれません。しかし、当日(3月15日)出先でパソコンを使ったのは1~2時間です。書きものをして、ネットでYahoo!や朝日新聞などを閲覧した程度です。そのあとはパソコンの電源を切っています。シャットダウンする際、更新プログラムなどのダウンロードもありませんでした。どう考えても3~4Gを使うなどあり得ないのです

それにしても、こんなことを書けば書くほどむなしくなります。オーバーなことを言えば、冤罪被害者と同じで、いくらやってないと言っても、ただその声がむなしくはね返ってくるだけです。OCNは日本を代表するプロバイダーだ、だから正しい、という事大主義的な「認知資本主義」が前提にある限り、なにを言っても信用されないのでしょう。でも、昨年のように、「システムトラブル」でデータ容量が消えることは現実にあるのです。

結局、昨年とまったく同じやり取りに終始しました。USB端末のデータ量が一日で3~4G消えたのも同じですし、OCNの対応も同じでした。もっとも、「テクニカルサポート」と言っても、彼らもまた派遣やアルバイトにすぎないのです。だから、テレビ電話だなんだと突飛なことを言ってその場を言い逃れるしかないのでしょう。言い逃れるのが彼らの仕事なのでしょう。

いつもなら5G前後の使用量が、今月は10G近くにはね上がりそうです。今までは容量オーバーによる速度制限なんてまったく心配する必要がなかったのですが、このままいくと今月は容量オーバーになりそうです。しかも、その増えた分は、わずか1日(正確に言えば、わずか1~2時間)で使ったことになっているのです。なんとも理不尽な話で、忌々しい気持にならざるを得ません。


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クレーマーになってやる
2016.03.22 Tue l ネット l top ▲
深夜、何気にスマホのOCNモバイルONEのアプリをチェックしたら、データ容量の残りが異常に少ないことに気付きました。

私が契約しているのは5Gのプランで、それをスマホ用の音声付SIMと、出先に置いているノートPC用のUSB端末でシェアしているのですが、通常二つのSIMの使用量は5G前後です。モバイルONEの場合、残った容量を翌月に繰り越すことができるのですが、以前SIMのトラブル(下記の記事参照)で5G補てんされたので、毎月10G前後でスタートして、5G前後を繰り越すというパターンをくり返していました。

そういった通常のパターンからすると、今の時点でまだ7Gくらい残っていてもおかしくないのです。ところが、2Gしか残っていませんでした。それで、アプリでSIMごとの使用量を確認すると、USB端末のSIMが通常の倍以上になっていることがわかりました。しかも、3月15日に1日で3G以上使っており、全体の使用量がいっきに上がっているのです。

でも、出先のノートPCを使うのは2日に1回くらいで、使用する時間も夜間1~2時間くらいです。まったく使わないときもあります。むしろ最近は以前より使ってないくらいです。3月15日に3G使うなんてとてもあり得ないのです。

実は、昨年もまったく同じトラブルがありました。

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そのときも今回と同じUSB端末のトラブルでした。ノートPCの使用状況から言っても、一度にそんな大きなデータ量を使うなど絶対にあり得ないといくら説明しても、カスタマーフロントやテクニカルサポートの担当者は「当社に間違いはありません」「お客様の勘違いではないですか」とくり返すばかりで、ラチがあきませんでした。ところが、後日、モバイルONEのシステムの不具合で繰り越しデータ容量が消失していたとして、5Gが補てんされたのでした。

OCNに電話をしても、前回と同じように、カスタマーフロントからテクニカルサポートにたらいまわしされ、挙げ句の果てに「当社に間違いはありません」とまず結論ありきの詭弁を聞かされるのは目にみえています。自分の主張を通そうと思えば、そこから粘り強く何度もやり取りをしなければならないのです。その労力と時間を考えるとうんざりします。クレームを入れると、いつの間にこちらがそんなに使ってないことを証明をしなければならないかのような話の展開になるのですが、それもおかしな話です。どうして顧客が説明責任を負わなければならないのかと思います。

スマホの普及によって、私たちはおのずとモバイルの通信データ量に関心をもつようになりましたが、その肝心なデータ量の計算がホントに信用に値するものなのか、ホントにトラブルなどで消失したりしてないのか、私たちにはいっさいわからないのです。疑ったらきりがありませんが、実際に、自分の与り知らぬところで通信データ量が消えていることがあるのです。

「認知資本主義」を相手にするには精神的にタフでなければクレーマーにもなれないのです。でも、二度目となるとさすがに「もうつきあってられない」という気持になります。
2016.03.19 Sat l ネット l top ▲
最近ネットで、タレントのGENKINGの発言が話題を呼びました。GENKINGは、ご存知のとおりInstagramで有名になった、文字通りネットから生まれたタレントで、Instagramのフォロワーは84万人を誇るそうです。

TechCrunch Japan
Googleは使わない、SEO対策しているから——Instagram有名人のGENKINGが語った10代の「リアル」

GENKINGの発言は、3月3日・4日、福岡で開催された「B Dash Camp 2016 Spring in Fukuoka」というイベントの「次のビジネスを仕掛けるなら、Instagramに乗れ!」と題したセッションの場で発せられたものです。セッションには、フェイスブックやセプテーニ(ネット広告会社)などの企業の担当者も同席。タイトルからもわかるとおりInstagramを使ったマーケティングはどうあるべきかをディスカッションしたもので、彼らの立場から言っても、「これからはInstagramだ」という意図が隠されているのは間違いなく、発言の内容は多少割り引いて考える必要があるでしょう。

ただ、それでもなお、もはやキーボードで文字を打つことさえできない(と言われている)若い世代にとって、Googleの検索がリアルじゃないという発言は注目すべきものがあるのです。フェイスブックやInstagramがGoogleに比べてどれだけマシか、どれだけリアルかという問題はさて措いても、たとえば「Googleで検索すると文字が出てくるし、(検索結果は)SEO対策されている。あとはスポンサー(広告)とかが上がってきて…ネットってリアルじゃない」というような発言は、たしかに正鵠を射ていると言えるでしょう。若い世代が、Googleの検索のカラクリに気付いているとしたら、それは歓迎すべきことではないでしょうか。

このブログでも再三書いているように、今やGoogleの検索はGoogleに都合のいいサイトを上位に表示するものでしかありません。アルゴリズムもそのためのものでしかないのです。それが広告と一体化した今の検索の実態です。Googleでは求めるサイトにたどり着けない、ただ誘導されているだけのような気がする。そう思っているユーザーは多いはずです。

「一昔前ならGoogleで検索して化粧品のランキングを見ていたが、いまは見ません。結果にウソが多いのも若い子は知っている。自分が使っている化粧品が良くなくても、(ネットの)評価がいいと『ウソだな』と思う。Instagramは個人がやっているからウソがない」


こういった発言も、TJの記事が書いているように「すごく核心をついた話」に聞こえます。Google やYahoo!や楽天やAmazonや食べログや価格コムやアットコスメなどに踊らされるネットユーザー。もちろん、Instagramにも広告が入っているわけで、Instagramとて例外ではないのですが(それに、1枚の写真をアップするのに800枚の写真を撮るというのは、とてもリアルとは言えないでしょう)、でも、スマホ世代の若者たちが、とにかくGoogleを冷めた目で見るようになっているというのは、ただ踊らされるだけのユーザーに比べれば”一歩前進”と言えるでしょう。たとえ、彼らがさらに巧妙化されたあらたなカラクリに踊らされているとしても、です。

Googleが右サイドの広告を撤廃したのも、検索と広告の一体化の結果にすぎないのです。撤廃したと言っても、商品に関連するキーワードだと、「Googleショッピング」の広告が連動して表示されるのです。そうやって広告の効果を高め、広告単価を引き上げる狙いがあるのでしょう。間違っても”脱広告”に進んでいるのではないのです。むしろ逆で、より巧妙化しより検索と一体化しているのです。
2016.03.16 Wed l ネット l top ▲
ヤクザと憲法


横浜のミニシアター・ジャックアンドベティで「ヤクザと憲法」を観ました。

「ヤクザと憲法」公式サイト
http://www.893-kenpou.com/theater/

「ヤクザと憲法」は、東海テレビが制作した番組を映画用に再編集したもので、大阪・西成区の「指定暴力団」の二次団体の実在の事務所にカメラが入り、組員たちの生の日常を追ったドキュメンタリーです。

「ヤクザと憲法」の「憲法」というのは、日本国憲法第14条のことです。それには、つぎのような条文が謳われています。

すべての国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。


しかし、1992年から施行された暴対法(改正暴力団対策法。正式には、「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」)と暴対法につづいて全国の自治体で制定された暴力団排除条例によって、「指定暴力団」の構成員や「指定暴力団」と一定の関係にある者に対して、”利益供与”をおこなったと看做されれば、「一般人」も罰せられることになったのでした。つまり、商行為等において、ヤクザと関わりをもつことが法律的に禁止されたのです。

映画のなかでも、銀行口座を作れないとか子どもが幼稚園に入れないとかクロネコヤマトが荷物を配達してくれないとか葬式をあげたくても葬儀場を貸してくれないとか、そんなヤクザたちの訴えをまとめたアンケート用紙を事務所の会長(組長)がスタッフに示すシーンがありますが、たしかに暴対法や暴排条例によって、「ヤクザに人権なし」という風潮(社会の空気)が醸成されたのは事実でしょう。

映画のパンフレットに書いているように、「『脅威』を排除するならちょっとくらい憲法に触れたって」(構わない)という、どこかで聞いたような考えがあるのでしょう。そのために、9条だけでなく14条もないがしろにされているのです。

映画には賭博や薬物販売を思わせるような怪しげな行動が映っていましたが、そういった犯罪行為が処罰されるのは当然です。しかし、ヤクザというだけで(その属性によって)社会生活が制限される暴対法や暴排条例が、憲法14条を逸脱した法律であるのはあきらかでしょう。でも、誰もそれを指摘しないのです。みんな、「ヤクザならしょうがない」と見て見ぬふりをするだけです。

しかも、その風潮は、ヤクザだけでなく、ヤクザの人権を守る弁護士にも容赦なく襲いかかるのです。映画では、山口組の顧問弁護士をしていた山之内幸夫弁護士にインタビューしていましたが、山之内弁護士は、のちに建造物損壊を教唆した罪で在宅起訴され、懲役刑の有罪判決を受けるのでした。建造物損壊と言っても、被害額がわずか3万円の、従来なら罰金刑で済むような”微罪”なのです。そういった目の上のタンコブの顧問弁護士に対する”締め付け”は、オウム真理教の麻原彰晃被告の主任弁護人を務めた安田好弘弁護士が、顧問をしていた不動産会社への強制執行を妨害した罪で逮捕・拘留されたケースとよく似ています。

似ていると言えば、組の事務所が家宅捜索された際、事務所のなかにいたテレビカメラに向かって、捜査員がそれこそヤクザ顔負けの恫喝をおこなうシーンがあるのですが、森達也氏がオウム真理教を内部から撮ったドキュメンタリー「A」のなかにも似たシーンがありました。それは、ドキュメンタリーにおけるカメラの位置の重要性を示す好例のように思いました。

中年のある組員は、貧乏な家庭に育ち、困っているとき誰も助けてくれなかったけど、ヤクザだけが親身になって面倒を見てくれた、それでヤクザになったと言ってました。ヤクザとは、その語源どおり社会からドロップアウトした人間たちの最後の拠り所=疑似家族なのです。

猪野健治は、『戦後水滸伝』(現代評論社・1985年刊)のなかで、雑誌連載中に「現役のある組の幹部」から届いたつぎのような手紙を紹介していました。

(略)極道には、差別されている人間、不運や不幸のカタマリみたいな人間が圧倒的に多いことはたしかで、この社会がひっくりかえらない限り極道もなくなりはしない。だからといって、極道に正義感や叛骨は期待しても、まず裏切られるのがせきのヤマでしょう。私も、グレて極道になったハナは、正義感らしいものをもっていましたが、小さなシマの小さな利権に複数の組が群がって奪いあうんですから、そんなものが通用する筈もありません。弱肉強食──アタマのきれる奴と腕のたつ奴が生き残れるだけです。
 右翼を気どっている人間もいますが、極道は極道でしかないので、私は極道の道を歩きます。その方がむいているんです。(略)


猪野健治は、同じようにドロップアウトして極道社会に身を投じた人間でも、中産階級からのドロップアウト組には「十分ではないにしても『退転』する余裕がある」が、被差別窮民出身者は、最初から小市民的な郷愁などとは無縁なので、「畳の上では死ねない」「不退転」の覚悟があると書いていました。

もっとも、最近は、猪野健治が書いていたようなケースとはかなり事情が違ってきているようです。映画に登場する若い「部屋住み」の見習い組員は、どう見ても不良上がりという感じではなく、宮崎学の『突破者』を読んでヤクザを志願したと言ってました。

先日、安保法制に反対して京大の建物の入口をバリケード封鎖したとして、中核派のメンバーが逮捕されたというニュースがありました。ひと昔前の学生運動では考えられないことですが、朝日新聞の記事によれば、京大の学生たちが「マジ迷惑」だとバリケードを撤去したのをきっかけに、中核派への摘発がおこなわれたのだそうです。

ヤクザ・過激派・カルト宗教、あるいは少年Aや在日も然りでしょう。市民社会や市民としての日常性は、そうやって異端や異論や異物をパージ(排除)することによって仮構されているのです。だから、関東大震災の際の朝鮮人虐殺のように、市民社会や市民としての日常性が危機に瀕すると、異端や異論や異物に向かって”テロルとしての日常性”が牙をむくのです。「ヤクザと憲法」は、パージ(排除)されるものの内側にカメラを据えることによって、差別と排除によって仮構された私たちの社会の構造を描き出していると言えるでしょう。

ヤクザや過激派や少年Aなどのことを取り上げると(小保方さんの件もそうですが)、「お前はヤクザや過激派を支持するのか。少年Aの犯罪を容認するのか」というおバカな”反論”が返ってくるのが常です。そうやって全体主義的な問答無用の空気が作られているのです。「ヤクザと憲法」が私たちに問うているのは、表現の問題だけにとどまらず、全体主義の対極にある自由な社会とはどんな社会なのかという根源的な問題です。それは、ヤクザや過激派をパージ(排除)することで仮構される「ぼくらの民主主義」(高橋源一郎)が如何にウソっぽいかということでもあります。
2016.03.07 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲