
横浜のミニシアター・ジャックアンドベティで「ヤクザと憲法」を観ました。
「ヤクザと憲法」公式サイトhttp://www.893-kenpou.com/theater/「ヤクザと憲法」は、東海テレビが制作した番組を映画用に再編集したもので、大阪・西成区の「指定暴力団」の二次団体の実在の事務所にカメラが入り、組員たちの生の日常を追ったドキュメンタリーです。
「ヤクザと憲法」の「憲法」というのは、日本国憲法第14条のことです。それには、つぎのような条文が謳われています。
すべての国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
しかし、1992年から施行された暴対法(改正暴力団対策法。正式には、「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」)と暴対法につづいて全国の自治体で制定された暴力団排除条例によって、「指定暴力団」の構成員や「指定暴力団」と一定の関係にある者に対して、”利益供与”をおこなったと看做されれば、「一般人」も罰せられることになったのでした。つまり、商行為等において、ヤクザと関わりをもつことが法律的に禁止されたのです。
映画のなかでも、銀行口座を作れないとか子どもが幼稚園に入れないとかクロネコヤマトが荷物を配達してくれないとか葬式をあげたくても葬儀場を貸してくれないとか、そんなヤクザたちの訴えをまとめたアンケート用紙を事務所の会長(組長)がスタッフに示すシーンがありますが、たしかに暴対法や暴排条例によって、「ヤクザに人権なし」という風潮(社会の空気)が醸成されたのは事実でしょう。
映画のパンフレットに書いているように、「『脅威』を排除するならちょっとくらい憲法に触れたって」(構わない)という、どこかで聞いたような考えがあるのでしょう。そのために、9条だけでなく14条もないがしろにされているのです。
映画には賭博や薬物販売を思わせるような怪しげな行動が映っていましたが、そういった犯罪行為が処罰されるのは当然です。しかし、ヤクザというだけで(その属性によって)社会生活が制限される暴対法や暴排条例が、憲法14条を逸脱した法律であるのはあきらかでしょう。でも、誰もそれを指摘しないのです。みんな、「ヤクザならしょうがない」と見て見ぬふりをするだけです。
しかも、その風潮は、ヤクザだけでなく、ヤクザの人権を守る弁護士にも容赦なく襲いかかるのです。映画では、山口組の顧問弁護士をしていた山之内幸夫弁護士にインタビューしていましたが、山之内弁護士は、のちに建造物損壊を教唆した罪で在宅起訴され、懲役刑の有罪判決を受けるのでした。建造物損壊と言っても、被害額がわずか3万円の、従来なら罰金刑で済むような”微罪”なのです。そういった目の上のタンコブの顧問弁護士に対する”締め付け”は、オウム真理教の麻原彰晃被告の主任弁護人を務めた安田好弘弁護士が、顧問をしていた不動産会社への強制執行を妨害した罪で逮捕・拘留されたケースとよく似ています。
似ていると言えば、組の事務所が家宅捜索された際、事務所のなかにいたテレビカメラに向かって、捜査員がそれこそヤクザ顔負けの恫喝をおこなうシーンがあるのですが、森達也氏がオウム真理教を内部から撮ったドキュメンタリー「A」のなかにも似たシーンがありました。それは、ドキュメンタリーにおけるカメラの位置の重要性を示す好例のように思いました。
中年のある組員は、貧乏な家庭に育ち、困っているとき誰も助けてくれなかったけど、ヤクザだけが親身になって面倒を見てくれた、それでヤクザになったと言ってました。ヤクザとは、その語源どおり社会からドロップアウトした人間たちの最後の拠り所=疑似家族なのです。
猪野健治は、『戦後水滸伝』(現代評論社・1985年刊)のなかで、雑誌連載中に「現役のある組の幹部」から届いたつぎのような手紙を紹介していました。
(略)極道には、差別されている人間、不運や不幸のカタマリみたいな人間が圧倒的に多いことはたしかで、この社会がひっくりかえらない限り極道もなくなりはしない。だからといって、極道に正義感や叛骨は期待しても、まず裏切られるのがせきのヤマでしょう。私も、グレて極道になったハナは、正義感らしいものをもっていましたが、小さなシマの小さな利権に複数の組が群がって奪いあうんですから、そんなものが通用する筈もありません。弱肉強食──アタマのきれる奴と腕のたつ奴が生き残れるだけです。
右翼を気どっている人間もいますが、極道は極道でしかないので、私は極道の道を歩きます。その方がむいているんです。(略)
猪野健治は、同じようにドロップアウトして極道社会に身を投じた人間でも、中産階級からのドロップアウト組には「十分ではないにしても『退転』する余裕がある」が、被差別窮民出身者は、最初から小市民的な郷愁などとは無縁なので、「畳の上では死ねない」「不退転」の覚悟があると書いていました。
もっとも、最近は、猪野健治が書いていたようなケースとはかなり事情が違ってきているようです。映画に登場する若い「部屋住み」の見習い組員は、どう見ても不良上がりという感じではなく、宮崎学の『突破者』を読んでヤクザを志願したと言ってました。
先日、安保法制に反対して京大の建物の入口をバリケード封鎖したとして、中核派のメンバーが逮捕されたというニュースがありました。ひと昔前の学生運動では考えられないことですが、朝日新聞の記事によれば、京大の学生たちが「マジ迷惑」だとバリケードを撤去したのをきっかけに、中核派への摘発がおこなわれたのだそうです。
ヤクザ・過激派・カルト宗教、あるいは少年Aや在日も然りでしょう。市民社会や市民としての日常性は、そうやって異端や異論や異物をパージ(排除)することによって仮構されているのです。だから、関東大震災の際の朝鮮人虐殺のように、市民社会や市民としての日常性が危機に瀕すると、異端や異論や異物に向かって”テロルとしての日常性”が牙をむくのです。「ヤクザと憲法」は、パージ(排除)されるものの内側にカメラを据えることによって、差別と排除によって仮構された私たちの社会の構造を描き出していると言えるでしょう。
ヤクザや過激派や少年Aなどのことを取り上げると(小保方さんの件もそうですが)、「お前はヤクザや過激派を支持するのか。少年Aの犯罪を容認するのか」というおバカな”反論”が返ってくるのが常です。そうやって全体主義的な問答無用の空気が作られているのです。「ヤクザと憲法」が私たちに問うているのは、表現の問題だけにとどまらず、全体主義の対極にある自由な社会とはどんな社会なのかという根源的な問題です。それは、ヤクザや過激派をパージ(排除)することで仮構される「ぼくらの民主主義」(高橋源一郎)が如何にウソっぽいかということでもあります。