消えがての道


今回の地震は、正式には「平成28年熊本地震」と言うのだそうです。しかし、私には、「熊本地震」とか「熊本と大分の地震」とか言うより「九州の地震」と呼んだほうがピタリきます。

今回の地震をきっかけに、あらためて自分は九州の人間なんだとしみじみ思い知らされています。地震がきっかけで、私は、森崎和江の『消えがての道』(花曜社)を本棚の奥から出して読み返しました。これは、1983年に刊行された本です。

この本の帯には、「九州に生き、九州を旅する」という惹句がありました。その「九州」という文字がいつになく胸にせまってきました。

九州に生きる。私も、この本を読んだ当時はそう思っていたのです。私は、地元の会社に勤めていて、まあそれなりに順調でしたので、おそらくこのまま地元で暮らして行くんだろうなと思っていました。

読んだのが先だったかあとだったか覚えていませんが、この本に出てくる五家荘に、著者と同じように私も訪れたことがあります。阿蘇側にある旧矢部町から旧泉村(五家荘)に登り、「五木の子守唄」で有名な五木村へと尾根を越えたのでした。2泊3日の山旅でした。

私たちが登った2~3年前から林道を車で上ることができるようになっていましたが、ただ一方通行でした。だから、下るのは別の林道を利用しなればならなかったのです。また、村内には小学校の分校が7つあるという話も聞きました。ひとつひとつの集落が離れていて徒歩で通学するのが困難だからです。

私たちは、昔の人たちが利用したであろう山の斜面に刻まれた急峻な道を登り、適当なところで野営しながら尾根を越えて行ったのでした。九州では既に絶滅していたので熊の心配はなかったものの、その代わり怖かったのは、”山犬”と呼ばれる山で野生化した犬の群れでした。

五家荘は、学校の教科書にも出て来るような秘境で、その生活には、私たちの想像も及ばないような苦労があったに違いなく、私は、そういった山里離れた山奥に定住した柳田国男の言う「山の人生」に、ロマンのようなものをかきたてられたのでした。

 山の暮らしといっても、町には町ごとに表情があるように、山村にもひとつひとつ面影があるのだと、近年うっすらと知ったようだ。阿蘇山や九重高原の村は空が広い。たとえ民家は谷あいにあっても、眺望がきくひろがりを山々が持っている。が、九州の屋根といわれる五家荘・米良荘の山は隣接する山々にはばまれて生活空間は空と地が呼応しつつ、筒のようにこんもりとしている。他郷の空へは鳥が渡るように天の川を伝って思いを馳せるほかない。と、そう思うほど、村は孤独で独自の天地を持っている。
(『消えがての道』第三章・尾根を越えて)


 かつては牛馬の通う道もなかったと聞いた。足で歩き、荷はすべて人の背に負った。わたしは対馬や天草の山の中の細道も歩いたが、それらの山の一軒家は、なるほどひっそりとした一軒家だったが、馬が通い牛が通った。傾斜がなだらかで、家畜も人も歩けたのである。
 が、五家荘にはそのような斜面はめったにない。皆無といっていいほどの急斜面が谷へながれて、いくつもいくつも重なっている。かつて人びとはこの崖を、木の根草の根を頼りによじ登って他郷との用を足した。
(同上)


五家荘には当時親しくしていた知人と一緒に行きました。彼は、地元でも知られた大百姓の跡取り息子で、国立大学の農学部を出て、実家の農業を継いでいました。彼とは島根大学の安達生恒教授が主催する農業や農村を考える集まりで知り合いました。彼はまた、写真が趣味で、その点も私とは気が合いました。彼は大学時代山岳部だったので、彼が持っているテントを担いで二人で出かけたのでした。

しかし、五家荘から帰ってほどなく、彼は海外青年協力隊に志願して、タイへ行ったのです。そして、帰国後、同じ海外青年協力隊のメンバーであった女性と結婚、一時地元に帰ったものの、すぐに群馬か栃木だかに行ってしまったのです。あれだけ農業や農村の問題を真剣に考えていた人間が、農業を捨てふるさとを捨てたのです。そのため、地元では彼の評判はガタ落ちでした。

彼は、農業にも地元にも実家にも失望したと言ってました。私は、その話を聞いたとき、彼の気持がわかるような気がしたのです。というのも、私自身も既にその頃は地元に骨をうずめるという気持がぐらつきはじめていたからです。そして、それから数年後、私も会社を辞めて再び上京したのでした。

「アジアはひとつ」という有名なドキュメンタリー映画がありましたが、最近、あらためて汎アジアならぬ「汎九州」の思想について考えることがあります。それは、谷川雁のコミューン思想や五木寛之の『戒厳令の夜』などで示されていた、ナショナル(土着)なものを掘り下げて行けばインターナショナルなものに行き着くという考えです。九州に生きるということは、アジアに生きるということでもあるのです。九州から出て行ったうしろめたさもあるのかもしれませんが、九州の地震が、このような九州に対するpatrioticな思いを私のなかに呼び覚ましているのでした。
2016.04.30 Sat l 本・文芸 l top ▲
もう30年近く前だと思いますが、西日本新聞に石牟礼道子氏が阿蘇に関するエッセイを書いていました。それは、阿蘇の草原に咲く花を題材にしたとてもいい文章で、私はそのエッセイを切り抜いて当時の日記帳にはさんでいました。それで、今日、ふと思い付いて日記帳を引っ張り出してみたのですが、なぜかその切り抜きだけが見当たらないのです。埼玉にいた頃は見た記憶がありますので、横浜に引っ越す際に紛失したのかもしれません。

竹中労は、『聞書庶民烈伝4』(1987年刊)のなかで、阿蘇の草原に咲く吾木香 (われもこう)について書いていますが、吾木香は赤い花です。石牟礼道子氏が書いていたのは、たしか白い花だったように思います。今となってはたしかめる術がないのですが、石牟礼氏が書いていたのはなんの花だったのか、気になって仕方ありません。

どうしてこんなことを思い出したのかと言えば、言うまでもなく今度の地震で阿蘇の草原も大きな被害を受けたからです。

今日の朝日新聞に、ライダーたちが「ラピュタの道」と呼んでいた阿蘇の山道が、今回の地震で一部が崩壊して通行不能になり、ライダーたちから惜しむ声が上がっている、という記事が出ていました。

朝日新聞デジタル
阿蘇の「ラピュタの道」崩落 ライダー「聖地だった」

大観峰の先にあるこの道も、私は車で走ったことがあります。私は、九州にいた頃、なにか悩みがあるといつも決まって大観峰へ行ってました。「阿蘇市」とか「南阿蘇村」とか言われてもピンとこないのですが、車の免許を取得したときも、助手席に父親に乗ってもらい、外輪山から阿蘇谷の旧一の宮町に降りるこのコースで運転の練習をしたものです。

そう言えば、地震の直後、阿蘇の住民たちが県境を越えて私の田舎に買い出しに押し寄せ、田舎のスーパーも品不足に陥っているという記事が地元の新聞に出ていました。私の田舎にもときどき阿蘇山の火山灰が降るのですが、親たちはそれを「ヨナ」と呼んでいました。阿蘇の風景は、私たちにとっても、子どもの頃からなじみの深い風景なのでした。

白い小さな花が風にそよぐ草原の風景。阿蘇が大きな被害に見舞われた今、もう一度あの石牟礼道子氏の文章を読みたいと思いますが、もう叶わぬ話です。
2016.04.28 Thu l 震災・原発事故 l top ▲
熊本や大分の温泉地は、地震の影響で外国人観光客のキャンセルが相次いでおり、深刻な打撃を受けているようです。先々月帰省したときも、こんなところまでとびっくりするくらい山奥の温泉場にまでアジアからの観光客が押し寄せていましたが、彼らが戻ってくるまでこの苦境はつづくのでしょう。

ヘイトが日常化しているニッポンと、そのヘイトな対象であるアジアから観光客の”経済効果”に頼っているニッポン。誤解を招くような言い方になるかもしれませんが、災害によってその矛盾がいっきに露呈したとも言えるのです。

今、国会では「ヘイトスピーチ対策法」の論議が山場を迎えています。与野党双方が合意をめざして、それぞれが提出した法案のすり合わせと修正協議がおこなわれています。もっとも、「ヘイトスピーチ対策法」はあくまで罰則規定のない”理念法”にすぎないのです。

ただ、私は、「ヘイトスピーチ対策法」が対象とするようなヘイト・スピーチなどより、私たちの身近にある”サイレントヘイト・スピーチ”のほうがはるかに問題なのだと思います。たとえば、再三書いているように、「旧メディアのネット世論への迎合」(大塚英志)によって作り出されるヘイトな話題などがそうです。

田母神某に見られるように、「愛国」者なんてどこにもいないのです。いるのは、「愛国」をマネタイズする人間だけです。「愛国」ビジネスがあるだけです。ヘイトだって同じです。そこにあるのは、ヘイト・ビジネスなのです。人を差別することで金儲けをしようという人間たちがいるだけです。「ヘイトスピーチ対策法」でイメージされているような手合いは、ただヘイト・ビジネスに煽られて路上にまで出てきたイタい人間たちにすぎないのです。

いちばんタチが悪いのは、差別をマネタイズするために、陰に陽に差別を煽っている旧メディやセカンドメディアやそれらに巣食う差別をビジネスにしている人間たちです。夕方のニュースや朝のワイドショーには、やれ中国人が交通事故を起こしたとか、やれ喧嘩したとか、やれ転んだとか、YouTubeなどから収集したトンマな映像を流して”下等民族”の中国人を嗤うコーナーがありますが、今はその手の映像を専門に配信する会社さえあるのです。デーブ・スペクターの会社などもそうだと言われていますが、要するに、”嫌中憎韓ブーム”を利用して周辺国を嗤いものにするビジネスが存在しているのです。そういったビジネスがさらにヘイト・スピーチを煽っているのです。

先日、テレビ東京の街歩きの番組を見ていたら、ネトウヨご用達のヘイトな”評論家”として有名な人物が、街の歴史を解説する「経済評論家」として出演していたので、文字通り目が点になりました。ちょっと前までだったこんないかがわしい人物がメディに登場するなど、とても考えられないことです。このように、ヘイトな言説は旧メディアのなかにも確実に浸透しているのです。「ヘイトスピーチ対策法」が成立するようになっても、状況は改善するどころか、むしろヘイトな風潮は裾野を広げているのです。

Yahoo!国際ニュースランキングやヤフコメのあの異常性。中国人や韓国人の一挙手一投足が気になって気になって仕方ない人たち。Yahoo!ニュースなどセカンドメディアが、ページビューを稼ぐために(所謂「バズる」ために)、ヘイトを煽るような記事を掲載していることに対して、「ヘイトスピーチ対策法」はまったく無力なのです。人の理性や良心を前提にする”理念法”なんて、絵に描いた餅にすぎないと言えば、言いすぎになるでしょうか。

根本にある問題が放置されたまま法律だけがひとり歩きすれば、「ヘイトスピーチ対策法」が逆に路上の抗議も縛るような”トロイの木馬”になる可能性だってあるのです。もとより法律とはそういうものでしょう。
2016.04.26 Tue l 社会・メディア l top ▲
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最近は野暮用で週の半分は伊勢佐木町に行ってます。そして、天ぷらが好きな私は、関内界隈の天ぷら屋めぐりするのを楽しみにしています。天ぷらのあとは、いつもみなとみらいまで歩いています。

今日も伊勢佐木町に行きました。日曜日とあってさすがに伊勢佐木モールは人出が多く賑わっていました。もちろん、そのかなりの部分は外国人です。今や伊勢佐木町は、周辺の外国人労働者ご用達の街と化しているかのようです。昔は、”銀ブラ”ならぬ”伊勢ブラ”ということばもあったくらい、伊勢佐木町は横浜を代表するおしゃれな街だったのですが、そんな昔の面影を探すのはもはや至難の業です。

誰だったか忘れましたが、街歩きのレポーターをしている芸能人が「昔は東京から元町や伊勢佐木町など横浜に来ると、気後れするくらいおしゃれな雰囲気がありました」と言ってましたが、もちろん、そんなおしゃれな雰囲気を探すのも至難の業です。

この土日は、ちょうど野毛で恒例の大道芸のイベントがおこなわれ、大岡川をはさんで隣接する吉田町でもアート&ジャズフェスティバルが開催されていました。ただ、野毛の大道芸も、当初に比べれば、新鮮味が失われているような気がしないでもありません。最近は、横浜では一年中どこでも大道芸がおこなわれていますので(野毛の大道芸も年に2回おこなわれています)、見飽きた感じがなきにしもあらずなのです。

野毛の飲み屋街は、イベントの相乗効果で、いつもよりお客が多く集まっていました。路地のなかの店は、テーブルや椅子を店の前に出して、即席の”オープンテラス”のようにしていましたが、おそらく昔の野毛はこうだったんだろうと思うくらいどこも酔客で賑わっていました。

一方、吉田町のアート&ジャズフェスティバルでは、路上ライブのバンドが年々減っており、今年はひと組しか見当たりませんでした。そして、いつの間にか、ビアガーデンのようなものが通りの中心を占めるようになっていました。このように、アート&ジャズフェスティバルも、駅前のショッピングビルと同じで、当初のコンセプトから徐々に変質しているのでした。

でも、私はやはり、(何度も書いていますが)週末の夜の「祭りのあとのさみしさ」のような横浜のほうが好きです。繁華街のすぐ近くに、古い民家が連なる路地が幾重にも延びているのが横浜の街の特徴ですが、街灯が薄い影を落とし表通りとは違った空気が流れる、そんな路地を歩くのが私は好きです。

このブログではおなじみ平岡正明の『横浜的』(青土社)から野毛に関する文章を引きます。

 釣銭を受けとりながら、おや、雨だ、とつぶやくと、店のママが「こやみになるまで待ってらっしゃい」といった。うん、そうする。椅子に戻って背もたれごしに町をみているときにかかっていた曲が、ケニー・ドリューの、ピアノのスインギーなやつで、町のテンポよりはやい。さっと一雨きたのに、町のテンポはあんがいのんびりしている。これが港町の雨というものだろう。
 横浜は野毛がいい。このいい方は正確じゃないな、横浜にはいいところが多いが、土地っ子が集まる野毛には野毛のよさがある。場外馬券場があり、立ち呑みの酒屋があり、醤油味の飯屋があり、ベリー・コモの「バラの刺青」を流していたりするコーヒースタンドの近くに、講談の会の連絡所の古本屋があったりする。野毛は「横浜の日本人町」だ。



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アート&ジャズフェスティバル
野毛
2016.04.24 Sun l 横浜 l top ▲
今回の地震に関連して、ネットでくり広げられている芸能人に対する”不謹慎狩り”が問題になっているようです。SNSの書き込みの言葉尻をとらえて、「不謹慎」だと指弾し炎上させたり、なかにはインスタグラムに笑顔の写真をアップしただけで「不謹慎」だと批判された芸能人もいたそうです。それらは、ほとんど言いがかりとしか言いようのないもので、ある意味でビョーキと言えるでしょう。

ヘイト・スピーチとの類似性を指摘する意見もありますが、たしかに、ヘイト・スピーチと”不謹慎狩り”は重なる部分があるように思えてなりません。日ごろ「中国人や朝鮮人は日本から出ていけ!」などと書き込んでいるような連中が、あらたな標的を見つけて”不謹慎狩り”をおこなっているような気がしてならないのです。

ネットに常駐するネトウヨの書き込みを見ると、彼らのかなりの部分はビョーキであるという指摘も、あながち的外れとは言えないように思います。ゴミ問題が大きく扱われると、ゴミに異様に執着する人間が出現するのと同じように、安倍政権の誕生によって”嫌中憎韓”の排外主義的な空気が醸し出されると、中韓に異常に執着する人間たちが出現するのです。たとえば、Yahoo!の国際ニュースランキングなどが、この異常な風潮をよく表わしているように思います。

ただ、私たちは、”不謹慎狩り”の背景に、大塚英志が書いていたような「旧メディアのネット世論への迎合」があることを忘れてはならないでしょう。それこそが、藤代裕之が「インターネットと「私刑化」する社会」で書いていた「ネットとマスメディアの共振が『私刑化』する社会を拡大させている」構造なのです。

とりわけYahoo!ニュースやJ-CASTニュースなどセカンドメディの責任は、大きいと言えるでしょう。彼らは、ページビューを稼ぐために(ニュースをマネタイズするために)、ネトウヨなどほとんどビョーキなネット民をひたすら煽ってきたのです。ヘイト・スピーチにも”不謹慎狩り”にも、背後に煽っている(煽られている)構造があることを見過ごしてはならないのです。

Yahoo!ニュースやJ-CASTニュースが、今になって”不謹慎狩り”を云々するのは、それこそカマトトと言うべきでしょう。


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私刑の夏
2016.04.21 Thu l 社会・メディア l top ▲
熊本の地震から一週間がすぎました。当初、専門家たちは、15日の地震は大きな被害が出た益城町を走る活断層に限定した地震であるかのように言っていたのですが、一週間経ったら、活断層はつづいているとか、日本列島には二千の活断層があるのでいつどこで地震がおきてもおかしくないとか、さらに言うに事欠いて三つの地震が同時発生しているなどと、まるで野球の解説者のように、あと付けで発言を修正しています。これでは、「前震」と言われる最初の地震のあと、専門家の解説を信じて家に戻って犠牲になった人たちは浮かばれないでしょう。

昨夜も震度5強の余震がありましたが、震度5強を記録したのは、阿蘇の外輪山にある熊本県の産山村と産山村に隣接する大分県側の私の田舎でした。

田舎の友人に電話すると、毎日ヘルメットを枕元に置いて寝ているそうです。そして、「緊急地震速報」が発令されると、ヘルメットをかぶって押し入れに入っていると言ってました。同じヘルメットでも、テレビカメラの前に立つ記者やアナウンサーがこれみよがしにかぶっているヘルメットとは現実味が違うのです。友人の家は旧家で、家も古いのですが、壁の土がポロポロはがれていると言ってました。

一方、安倍首相は、17日午前、「被災者1人ひとりに食料や水が届くようにする。安心してください」と呼びかけたのだそうです。

 安倍首相は「被災者の皆様お1人おひとりに、必要な食料・水が届くようにしますので、どうかご安心いただきたい」と述べた。
 安倍首相は、食品・小売業者の協力を得て、「午前9時までに、15万食以上到着した。きょう中に、70万食を届ける」と強調した。
 そして、現在開かれている非常災害対策本部で、トイレや医薬品など、被災者のニーズに迅速に対応するための被災者生活支援チームを立ち上げるよう指示した。

FNNニュース
熊本大地震 安倍首相「1人ひとりに食料や水が届くようにする」


ところが、現地では食料が「底をついた」と悲鳴があがっているのです。

西日本新聞
「食料、底をついた」 足りぬ物資、避難者悲鳴 ガソリン不足も深刻化

別の報道では、県庁などに支援物資は山積みになっているけど、人手不足で仕分けや配布する人間がいないので、避難所に支援物資が届いてないのだそうです。

昨日、床屋に行ったら、そのニュースが話題に上り、「一体、どうなっているんだ?」「東日本大震災の教訓は生かされてないのか?」という怒りの声が多く聞かれました。なかには「日本は腐っている」と言う人もいました。

自衛隊が避難所に支援物資を運んだものの、誰が配布するのか指示がないために、そのまま持ち帰ったという話があります。ところが、そのあと同じ避難所に、政府から依頼された米軍のオスプレイが麗々しく支援物資を運んできたそうです。どうして米軍で、どうしてオスプレイなのか。言うまでもなく、そこにはオスプレイの実績づくりを目論む安倍政権の政治的な意図がはたらいているからでしょう。

支援物資がスムーズに配布されないのは、ひとえに役所(公務員)の問題にほかならないのです。つまり、当事者能力が欠如した前例主義や杓子定規な厳格主義や責任回避の事なかれ主義に縛られたお役所仕事だからです。それは、阪神大震災や東日本大地震の際も散々言われてきたことです。しかし、また同じ愚をくり返しているのです。

しかし、政治家たちは、そういった問題には見て見ぬふりをして、国民の身にふりかかった大災害をみずからの政治的パフォーマンスに利用することしか考えないのです。賞味期限切れで食品が大量に破棄され、それが社会問題になるような国で、地震の被害に遭った何万人もの人々が食べる物に事欠き、空腹を訴えているのです。一体、どこが「愛国」なのか。安倍らがやっていることは、むしろ亡国の極みではないのか、と言いたくなります。夢野久作が今に生きていたら、やはり、そう言うのではないでしょうか。まったく「腐っている」のです。

上記の西日本新聞の記事は、避難所の窮状をつぎのように伝えていました。

(略)「米・水・保存食 HELP」。熊本県御船町の老人総合福祉施設「グリーンヒルみふね」は、駐車場に白いラッカースプレーで大きな字を書いた。

 入所者や地域住民約200人がいるが、町から届いたのはペットボトルの水9箱だけ。吉本洋施設長(44)は「あと3日で食料が枯渇しそうだ」と語った。

 だが、町にも余裕はない。藤木正幸町長は16日夕、フェイスブック(FB)で「町には緊急物資が何一つ入ってきません。町民は水分補給もできずに飢えと戦っています」と訴えた。その後に届いた支援物資の食料も17日昼で底をついた。炊き出しのおにぎりは1人1日1~2個しか配れない状態という。

 FB上では、具体的な避難所名を書いて「指定避難所ではないため、物資が一切届きません」「中学校は水も止まり、食料もありません。救援物資を」といった書き込みが相次ぐ。

 各地の避難所には数百人が身を寄せ、配給のカップ麺やおにぎりを求める長蛇の列で2~3時間待ちのケースも珍しくない。

 同県西原村の西原中で1歳3カ月の息子と避難する園田唯代さん(25)は「おにぎり1個とアイス1個が配給されたが、子どもがおなかをすかせている」。別の女性(48)は「並んでも全員に行き渡らないまま、配給が終わってしまう。朝からパン2個しか食べていない」。この避難所は断水しており、トイレは地面を掘って、ブルーシートで囲んだだけという。
(略)
 同県南阿蘇村の特別養護老人ホーム「水生苑(すいせいえん)」では電気と水が止まり、情報源はラジオが頼り。食料は3日分備蓄していたが底をつく恐れがあり、16日から1日2食に減らした。関係者は「役場に支援をお願いしたが、避難者が多すぎて『自分たちでどうにかしてください』と言われた」。

 近くのスーパーやコンビニは閉まっており、往復100キロの店まで買い出しに行く必要がある。だが、発電機の燃料や、買い出しに使う車のガソリンは入手困難。停電で水のくみ上げもできず、入所者は次第に追い詰められている。

2016.04.19 Tue l 震災・原発事故 l top ▲
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九州で地震があった朝、多摩川の河原のグランドでは子どもたちがサッカーや野球などの試合をおこなっていました。グランドの脇では、応援に来た父兄たちが我が子に声援を送っていました。また、遊歩道では、ジョギングやウォーキングに励む人たちが引きも切らずに行き交っていました。それはいつもの週末の光景です。九州の地震なんて遠くの出来事にすぎないのです。でも、それは当たり前と言えば当たり前のことなのかもしれません。

私も、午後からいつものように散歩に出かけました。伊勢佐木町に行くと、なにやら人盛りができていました。今日と明日、みなとみらいや伊勢佐木町などで、好例の「ヨコハマ大道芸」が開催されていたのでした。

山下公園も、大勢の人たちが心地よい海風を受けながら散策していました。芝生の上にビニールを敷いて、ピクニック気分でおしゃべりに興じているグループもいました。

赤レンガ倉庫に行くと、広場で「ホーリー横浜」という催しがおこなわれていました。なんでもインドの色かけ祭りだそうで、キャーキャー歓声をあげながら、食紅のようなものをお互いの身体に塗りあっていました。私の田舎の大分にも、かまどの炭を塗りあう祭りがありますが、あれとよく似ていました。

広場に設けられたステージの上では、「踊るマハラジャ」のようなインドの踊りが披露されていました。周辺には、インドの食べ物や雑貨の店なども出ており、広場は故国の文化をなつかしむインドの人たちで埋め尽くされ、彼らが放つ強い香水の匂いがあたりに充満していました。

一方、私は、そんなインド人たちを見ながら、不謹慎にも(?)もっとダイエットしなきゃと思ったのでした。インド人はメタボな人が多いのです。女性も20代の半ばをすぎると、腰回りがえらく大きくなってくるみたいです。たしかにインド料理は、炭水化物のオンパレードなのです。

何事もなかったかのようないつもの週末。みんな笑いが弾け、さも楽しそうでした。私は、バカボンのパパではないですが、「これでいいのだ」と思いました。少なくとも、元気を与えるとか元気をもらったなどとバカなことを言うより余程マシなのです。


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2016.04.16 Sat l 横浜 l top ▲
おとといの夜に発生した熊本の地震ですが、当初、地震の専門家たちは「今後も一週間くらいは震度5から6クラスの余震がつづくので充分気を付けてください」としたり顔で解説していました。ところが、今日の未明にマグニチュード7.3の大きな地震が発生すると、これが「本震」でおとといの地震は「前震」だったと訂正したのです。

私は、今朝、知り合いから「また大きな地震があった」と聞かされたとき、てっきりおとといの余震のことを言っているんだと思っていました。みんなから「実家は大丈夫?」と言われるので、地震は熊本なのにどうしてそんなに心配されるんだろうと思いました。たしかに、私の田舎は熊本県境に近いのですが、大きな被害があった益城町とはかなり離れています。もちろん、余波で揺れることはあるかもしれませんが、そんなに大きな被害があるとは思えません。

ところが、そのあとニュースを見てびっくりしました。震源は阿蘇のほうにも広がり、私の田舎や湯布院などでも大きな地震が発生していたのです。そこで初めてみんなが心配してくれた理由がわかったのでした。

地震の範囲についても、当初、専門家たちは活断層は別々に分かれているので、「(別の活断層の)阿蘇は関係がない」と言っていたのです。しかし、今朝のテレビでは、別の活断層に地震の範囲が広がるのは「よくある話」で、阿蘇や大分に広がったのも想定の範囲内だみたいなことを言っているので呆れてしまいました。こんな取って付けたようなもの言いは、以前もどこかで聞いたことがあるのでした。そうです、原発事故のときの専門家たちとそっくり同じなのです。

もうひとつ、テレビの報道で違和感があるのは、アナウンサーや記者たちがやたらヘルメットをかぶってレポートしていることです。ヘルメットなんて必要ないような場面でも、アナウンサーや記者たちはスーツ姿にヘルメットをかぶってマイクを握っているのでした。中継の様子を見ても、カメラマンや音声などのスタッフは別にヘルメットをかぶっていなくて、カメラの前に立つ人間だけが如何にもという感じで、ヘルメットをかぶっているのでした。

しかも、テレビのヘルメットはどんどんエスカレートするばかりで、最近はスタジオでニュース原稿を読むアナウンサーまでもがヘルメットをかぶっているのです。大分放送のアナウンサーも「OBS」と書かれたヘルメットをかぶって原稿を読んでいました。いくらなんでもそれは大袈裟だろうと言いたくなりました。テレビ特有の仰々しさやわざとらしさが鼻について、私は違和感を覚えてなりませんでした。

私の場合、田舎にはもう家もなく、ただ墓があるだけですので、地震で心配なのは墓石が倒れてないかということだけです。ニュースを見たあと、田舎の友人に電話しました。友人は、揺れがつづくので、眠れぬ夜をすごしていると言っていました。「立野の橋も崩落したんだぞ、知ってるか?」と言ってましたが、「立野の橋」というのは阿蘇大橋のことなのでしょう。また、私の田舎もそうですが、温泉が集中している地域なので、観光への影響が心配だと言ってました。

阪神大震災も経験した別の友人に聞くと、阪神の場合は大きいのが1回だけだったけど、今回はひと晩中揺れるので大変だった、ひっきりなしに「緊急地震速報」が鳴り響くので眠れなかった、と言っていました。

火山列島の日本では、いつどこで地震がおこるかわからないのです。専門家のしたり顔の見解などまったくあてにならないのです。自然の脅威に対して、科学なんて非力なものです。東日本大震災のとき、「100年に一度の大災害」なんて言い方がされていましたが、なんのことはないわずか5年で再び大災害が発生したのです。原発再稼働の前提も空疎な”希望的観測”にすぎないのです。いくら地面をコンクリートで塗り固めても、天災地変にはかなわないのです。私たちだっていつ災害に見舞われるかわからないのです。生死を分けるのもただ”運”だけです。あらためてそう思いました。
2016.04.16 Sat l 震災・原発事故 l top ▲
最近、暇なとき、よくインスタグラムを見ています。私は、写真屋の息子でしたので、他人の写真を見るのは昔から好きでした。

インスタグラムにアップされている写真を見るにつけ、ホントにみんな写真を撮るのがうまいなと感心させられます。

写真館をやっていた父親は、いつも私たちに、写真を撮るときはどんどん前に出てシャッターを押せと言ってました。恥ずかしいとか邪魔になるとか思ったらダメだ、遠慮なく前に出て撮った写真がいい写真なんだと言ってました。

家には小さい頃から、「アサヒカメラ」や「カメラ毎日」や「日本カメラ」などのカメラ雑誌がありましたが、そのなかの写真コンテストの入選写真を見ると、たしかに28ミリの広角レンズで(前に出て)撮った写真ばかりでした。インスタグラムに掲載されている写真にも、そんな「前に出て撮った」写真が多いのです。デジタルの時代になり、写真は手軽で身近なものになりましたが、父親が言っていたいい写真、上手な写真がホントに多いのです。

ただ、一方で、テクニックは申し分ないものの、なにかが足りないような気がしてならないのです。それは、テクニックとは別のものです。そして、私は、大塚英志が『atプラス』27号(太田出版)に寄稿した「機能性文学論」のなかで書いていた、つぎのような文章を思い出したのでした。

(略)何年か前、まんがの書き方を大学で教えていて印象深かったのは、かつて「ペンタッチ」と呼ばれた描線のくせ(註:原文は傍点)を彼らの多くが、忌避したがるという傾向だった。確かにまんがの描線は「きれいで細やかだが単調」というのが主流になっている。ペンタッチに作画上の個性を求めるという、ちょうど文学における「文体」に近いものがまんが表現でも忌避されているわけだ。


大塚英志によれば、堀江貴文(ホリエモン)は、かつて『ユリイカ』2010年8月号(青土社)の”電子書籍特集”で、「どうでもいい風景描写とか心理描写」をとっぱらって、尚且つ「要点を入れて」あるような小説をみずからの「小説の定義」としてあげていたそうです。それは、文学における文体の否定であり、文学に作者性=個性はいらないという、文字通り身も蓋もない”暴論”です。そこには、守銭奴の彼が信奉する経済合理性と通底する考えが伏在しているのでしょう。

ただ、大塚英志は、時代の流れのなかに、ホリエモンのように文学に「情報」(機能性)のみを求める傾向があるのもたしかだと言います。そして、「まんが表現における『ペンタッチの消滅』」は、「自我の発露である『文体』の消滅」とパラレルな関係にあるのだと言うのです。(余談ですが、私は、文体の消滅=「文学の変容」に関して、又吉直樹の『火花』と芥川龍之介の『或阿呆の一生』の同じ花火に関する描写を比較した部分がすごく説得力があって面白かったです)

それは写真も同じではないでしょうか。風景・心理描写やペンタッチをうっとうしいとか恥ずかしいとか思ったりする今の傾向は、写真においても個性の消滅というかたちで表れているのではないか。たしかに、インスタグラムにアップされている写真から見えるのは、個性より「情報」です。そこにあるのは、パターン化された構図と撮る人と撮られる人(もの)との無防備で弛緩した関係性です。おそらく二者の間になんらかの緊張感のようなものが存在すると、うっとうしいとか恥ずかしいとかいう感覚になるのでしょう。こんな機能性ばかりを求める摩耗した感覚こそ”今様”と言えるのかもしれません。

でも、これだけは言えるのは、いくら文学やまんがや写真の表現が「変容」しようとも、私たちの人生は「変容」しようがないということです。「快適」や「癒し」だけが人生ではないのです。他人から勇気やパワーをもらったりできるほど、人生は単純ではないということです。
2016.04.10 Sun l 本・文芸 l top ▲
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時間があったので、久し振りに川越に行きました。

土曜日ということもあって、川越はどこも大変な人出でした。駅から商店街にぬける駅ビルのアトレの通路も人の波がつづいていました。また、商店街のクレアモールも、原宿の竹下通りと見まごうばかりの人でごった返していました。

しかも、通りを歩いているのは、地元の若者ばかりではないのです。小江戸・川越を訪れた観光客も多く、ここでも外国人観光客の姿が目立ちました。

昔に比べても、訪れる人がますます多くなっている感じです。クレアモールから蔵造りの建物が並ぶ通りにぬけると、さらに人の多さに圧倒され、歩道を歩くのさえままらないほどでした。あちこちの食べ物屋の前では行列ができていました。通りの賑わいは、鎌倉にも劣らないほどでした。

川越の”繁盛”は、もちろん、東京というメガロポリスに近いという”地の利”があることはたしかでしょう。そのためにテレビなどメディアにも頻繁に取り上げられるため、さらに観光客が増えるのです。

私が昔、大分の友人に川越のことを紹介した際は、川越が原宿や渋谷など”若者の街”の対極にある街だからでした。つまり、若者ではなく、中高年向けに”まちづくり”をしていることが参考になるのではないかと考えたからです。しかし、今や川越は、中高年だけでなく、若者や外国人観光客までもが押し掛ける人気のスポットになっているのです。常に変貌することを宿命付けられたかのような東京にあっては、川越のようなレトロなまち並みが逆に新鮮に見えるのでしょう。


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2016.04.09 Sat l 東京 l top ▲
今日、都内に出た際、ふと思い付いて高校時代の同級生に電話して、一緒に昼食を食べました。会ったのは10年ぶりくらいでした。

彼とは高校時代からずっと仲がよくて、東京に出てきてからも、一時彼のアパートに居候していたこともあったくらいです。彼は、大学の空手部出身で、学生時代はパンチパーマにいつも学ランを着ていました。一方、私は、肩までかかるような長髪に無情ヒゲのまったく逆のタイプの人間でした。

当時はまだシゴキなどもありましたので、「1年坊」(彼らはそう呼んでいたように思います)の頃は、シゴキで怪我をして入院したこともありました。彼が空手をはじめたのは、大学に入ってからで、どうして空手なんかはじめたんだと訊いたら、心身を鍛えて心技体の充実した強い人間になりたいんだとかなんとか、どこかで聞いたようなセリフを口にしていました。彼をとおして空手部の連中とも顔見知りになりましたが、彼らは一見強面でしたが、ひとりひとりはとても気のいい連中でした。

私が病気をして九州に帰り入院生活を送っていたとき、彼に頼んで本を買って病院に送ってもらっていたのですが、「お前から頼まれた本って左っぽいのが多いので、学ランを着たおれらが買いに行くと変な目で見られるんだよな」と嘆いていました。

大学を出ると、彼は公益法人の政治連盟なるものに勤めたのですが、やがてそのときの同僚たちと会社を興して、イベントや出版の仕事をはじめました。頭はパンチパーマで体重は100キロ近くあり、しかも大きな声で押しの強い喋り方をするので、傍目にはいかにも”危ない人”に見えるのでした。あるとき一緒に街を歩いていたら、たまたまそれを取引先の女の子が見たみたいで、後日、店に行ったら、「あんな人と知り合いなんですか?」と言われたことがありました。「そうだよ、彼は××組だよ」と言ったら、「ウソ―」と叫んでいました。

東京にいるので、会おうと思えばいつでも会えるのですが、なぜかなかなか会う機会がありませんでした。最近は、九州の友達から彼の近況を聞くほどでした。

久し振りに会った彼はさらに体重が増え、120キロになったと言ってました。家族の写真ももってきてましたが、子どもたちも見違えるほど変わっていて、「これじゃ道で会ってもわからないな」と言ったら、「お前がわからなくても向こうはわかるんじゃないの」と言ってました。

それから、お互いの近況を延々と話しました。知らない間にいろいろ苦労もあったみたいで、そんな話を他人にしてもいいのかというような、結構深刻な話もありました。彼のことばには重みがありました。それは、なにより体験に裏打ちされているからでしょう。体験から得たことばは、実にシンプルなのです。むずかしい言い回しは必要ないのです。リアルというのは、そういうことではないかと思いました。

彼は、「お前とこんなに話をしたのは久し振りだな。話ができてよかったよ」「電話をくれてうれしかったよ」としみじみ言ってました。「他人は信用できない」「特に東京の人間は信用できない」と何度も言ってました。そして、「子どもたちが片付いたら、女房と二人で九州に帰るつもりだ」と言っていました。

駅で別れるとき、体重120キロの坊主頭の強面のおっさんが、改札口に入った私に向かっていつまでも手を振りつづけるのです。その姿を見たら、なんだか胸にこみあげてくるものがありました。そして、こういうのを旧交を温めるというんだなと思いました。
2016.04.08 Fri l 日常・その他 l top ▲
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夕方から再び大岡川の桜を見に行きました。

桜木町で降りて、桜川橋から宮川橋、長者橋、旭橋、黄金橋、末吉橋、太田橋まで、1キロちょっと大岡川沿いを歩きました。桜はまだ満開に近い状態でした。川沿いの遊歩道は、勤め帰りの人たちでいっぱいでした。屋台で買ったおでんや焼き鳥などを橋の欄干に置き、缶ビールを片手に、花見酒をしている光景があちこちで見られました。

途中、都橋から宮川橋、長者橋にかけては、ソープやヘルスなど風俗の店が立ち並ぶ通りが並行して走っており、そのコントラストが如何にも横浜らしいなと思います。桜木町駅の反対側に屹立するみなとみらいの近代的でおしゃれなビル群と比べると、風俗街が隣接する大岡川沿いは、謂わば横浜の裏の顔と言えるのかもしれません。ただ、みなとみらいができる前は、こっちのほうが桜木町の中心だったのです。

太田橋からは大岡川を外れ、大通りを南下して坂東橋をとおり横浜橋商店街に行きました。なんだか”橋”ばかり出てきますが、港町の横浜にはかつて運河が縦横に走っていた関係で、公式な住居表示とは別に今も橋が付く”地名”が多いのです。

横浜橋からは伊勢佐木町を通って馬車道まで歩き、馬車道でみなとみらい線に乗って帰ってきました。帰って万歩計を見たら、1万2千歩歩いていました。


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2016.04.06 Wed l 横浜 l top ▲
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目黒川の桜を見に行きました。午前の早い時間で、屋台などはまだ開店準備中でしたが、川沿いは多くの人で賑わっていました。桜は8分咲きくらいでした(午後から横浜の大岡川にも行きましたが、大岡川はまだ5分咲きくらいでした)。

目黒川も中国人観光客の姿が目に付きました。最近は、どこに行ってもアジアからの観光客ばかりです。先々月帰省した際に行った黒川温泉も、中国人観光客に席巻されていました。もちろん、湯布院や別府も然りでした。

泊った別府のホテルも、韓国や中国の団体客で朝のバイキングは大変な騒ぎでした。平気で割り込んでくるのです。もちろん、日本人にも似たような図々しい(しか取り柄がないような)おばさんがいますが、中国人のおばさんはひとりではなくつぎつぎと割り込んでくるので、呆気に取られるばかりでした。最初、この人たち、頭がおかしいんじゃないかと思ったくらいです。

そんな中国人が桜を愛でるなんて、ホントかよと言いたくなります。桜を愛でる真似をしているだけではないのかと言いたくなります。ただ、中国で事業をしている人に聞くと、共産党の党員など都会のエリートは、常識やマナーをわきまえた紳士や淑女が多く、日本人とまったく変わらないのだと言います。マナーの悪い中国人観光客というのは、ひと昔前の日本のノーキョーの団体客と同じようなものなのかもしれません。

ただ、これだけは言えるのは、中国人観光客は日本人よりお金をもっているということです。中国人をバカにする日本人より中国人のほうがはるかに金持ちなのです。日本の「愛国」主義は、アベノミクスに見られるように、拝金主義と国粋主義、それに、従属思想がドッキングしたいびつなものですが、「愛国」主義なら中国のほうが一日の長があると言えるでしょう。「日本はすごい、すごい」とテレビ東京的慰撫史観で自演乙している間に、いつの間にか中国に追い抜かれ、中国の後塵を拝するようになっていたのです。それで今度は、中国経済は崩壊すると言いはじめる始末です。なんだか日本人のおばさんと中国人のおばさんが、朝のバイキングでしゃもじの奪い合いをしているような感じです。

目黒川には、宴会をするスペースなどありませんので、花を見ながらそぞろ歩きをするだけです。あとは川沿いの屋台や店で食事をするくらいです。ただ、ところどころに設置しているベンチの上では、家族連れなどが家からもってきたおにぎりやサンドイッチを膝の上に置き、ささやかな花見の宴を開いていました。そういう光景はいいなあと思いました。


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2016.04.02 Sat l 東京 l top ▲
バカラ


桐野夏生の新作『バカラ』(集英社)を読みました。帯には、「今、この時代に、読むべき物語。」という惹句とともに、「ノンストップ・ダーク・ロマン」という語句がありました。どういう意味だろうと思ってネットで調べても、『バカラ』以外にこの語は出てきませんので、もしかしたら造語なのかもしれません。

しかし、私は、この小説は「ノンストップ」では読めませんでした。途中、何度も挫折しそうになりました。「面白くていっきに読みました」というレビューを見ると、別に皮肉でもなんでもなく、すごいなと思います。こんなのが面白んだと感心します(これは皮肉です)。

群馬県O市で生まれたブラジル日系人の子ども「ミカ」。彼女は、家庭不和から夫と別れあらたな職を求めて渡航した母親に連れられて、中東のドバイに渡ります。ところが、母親は現地で知り合った情人に殺害され、「ミカ」は養子売買のシンジケートに売られるのです。ドバイのショッピングモールの奥にあるベビースーク。そこで売られている子どもたちは、全員「バカラ」と呼ばれています。「バカラ」とは、”神の恩寵”という意味です。2歳の「ミカ」=「バカラ」は、2万ドルで売られていました。

日本人の女性に買われて日本に戻った「バカラ」。しかし、東日本大震災によって、「バカラ」の運命は、さらに大人たちの思惑に翻弄されるのでした。福島原発の爆発直後に養父に連れられてフクシマに入った「バカラ」は、被爆して、のちに甲状腺ガンになっていることがわかります。「悪の権化」のような養父の手から逃れ、置き去りにされた犬とともに「警戒区域」の納屋のなかにいるところをペットを救済するボランティアの「爺さん決死隊」に発見された「バカラ」は、反原発派のメンバーとともに全国を放浪する旅に出ます。

当時の日本は、東日本は「警戒区域」に指定されて人口が激減し、首都も大阪に移り、東西二つに分裂した状態になっており、カルト宗教や排外主義(レイシズム)が跋扈する荒廃した世相にあります。そんななかで、被害を隠蔽し原発事故の収束をはかりたい推進派や警察は、さまざまな陰謀をめぐらし反対派の抹殺を狙っています。その数奇な運命から反原発派のシンボルのようになった「バカラ」の周辺でも、親しい人がつぎつぎと不可解な死に方をするのでした。

しかし、私には、この小説は”荒唐無稽”としか思えませんでした。エンタテインメントとは言え、話の展開が取ってつけたようにめまぐるしく変わるため、登場人物も尻切れトンボのように、途中であっけなくいなくなります。その唐突感は、『だから荒野』とよく似ていました。

それは、この小説も”反原発”とかいった観念が優先しているからではないか。小説というのは、絶対的に自由なものです。あらゆる観念から自由だし、自由でなければならないのです。まず”反原発”(それは、”社会主義バンザイ”や”戦争反対”でも同じですが)ありきでは、ステレオタイプで皮相的なつまらない作品になるのは当然です。自由であるからこそさまざまな人間も描けるし、奥行きのある面白い小説になるのです。自由であるということと”荒唐無稽”ということは、必ずしもイコールではないのです。

ジャンルは違いますが、たとえば、井上光晴の『地の群れ』などを対置すれば、それがよくわかります。戦後文学、特に左翼体験をひきずっていた近代文学派(系統)の作家たちにとって、観念との格闘は切実なものでした。ブレイディみか子氏の「右か左かではなく上か下か」ということばを借りれば、文学もまた「右か左かではなく上か下か」なのです。

「桐野文学の最高到達点」という惹句もありましたが、『ハピネス』などと比べてもとてもそうは思えませんでした。


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2016.04.01 Fri l 本・文芸 l top ▲