朝日新聞デジタルに、牧内昇平記者の「隠れ貧困層の実態」という記事がアップされていました。

朝日新聞デジタル
「隠れ貧困層」推計2千万人 生活保護が届かぬ生活
生活保護受けず、車上生活2年 「隠れ貧困層」の実態

折しも、政府は、年金の納付期間を25年から10年に短縮する関連法案を今国会に提出することを決定したというニュースがありました。

Yahoo!ニュース
年金受給資格期間、10年に短縮=関連法案閣議決定

以前、このブログでも触れていますが、10年への短縮は、消費税の10%引き上げと引き換えに実施される「社会保障の充実」策のひとつでした。しかし、引き上げが延期されたため、この「無年金対策」の実施が危ぶまれていたのです。しかし、「安倍晋三首相が7月の会見で『無年金問題は喫緊の課題』と表明し、実現が決まった」そうです。これにより「新たに約64万人が年金を受け取れるようになる」そうです。

もっとも、10年納付してもらえる年金は、国民年金(基礎年金)の場合、月に1万6252円(25年納付しても4万630円)だそうです。それでも、「無年金」対策を「喫緊の課題」として、前倒しして実施した政府の姿勢は認めるべきでしょう。

上記の牧内記者の記事によれば、社会保障に詳しい都留文科大学の後藤道夫名誉教授の推計では、「世帯収入は生活保護の基準以下なのに実際には保護を受けていない人は、少なくとも2千万人を上回る」のだそうです。本年の7月時点で、生活保護を受給している人は216万人なので、いわゆる捕捉率は10%にすぎないということになります。これは、ほかの先進諸国に比べて著しく低い数字です。既出ですが、ドイツは64.6%、イギリスは47~90%、フランスは91.6%です。つまり、それだけ日本は社会保障後進国だということです。

このように、最低限の「文化的生活」を営むことさえままならない人が2千万人もいるというのは、あきらかに政治(経済政策)の問題であり、それに伴う社会構造の問題です。ところが、この国は、なぜかその問題が個人に向かい、「自己責任」の名のもと、生活保護などセーフティネットに頼る人たちをバッシングする風潮が常態化しています。また、Yahoo!ニュースなどネットメディアがそのお先棒を担ぎ、不正受給などを針小棒大に扱ってバッシングを煽っている問題もあります。バッシングが貧困の実態(構造)から目をそらす役割をはたしているのはあきらかでしょう。

牧内記者が書いているように、扶助のなかで、家賃(住宅扶助)や医療費(医療扶助)を柔軟に運用すれば、それだけでも世間で言う”生活保護”の手前で、貧困を食い止める手立てになるように思います。運用が硬直化し、「丸裸になるまでは自助努力に任せるのが、日本のセーフティーネットの現状」で、そのため「最後のセーフティーネットの網にかからず、福祉の手が届かない人々がたくさん存在している」(後藤教授)のが実情なのです。家賃や医療費だけでも援助してもらえば、どんなに助かるでしょう。

何度も言いますが、貧困は決して他人事ではないのです。それは、高齢者や失業者に限った話ではないのです。普通のサラリーマンやOLでも、いつ陥るかもしれない問題なのです。それが、生活保護基準以下の人が2千万人もいるという、この国の「底がぬけた」格差社会の現実なのです。


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2016.09.30 Fri l 社会・メディア l top ▲
昨日、大リーグのファンだという人と話をしていたときです。彼は、イチローが所属するマーリンズのホセ・フェルナンデス投手が事故死したニュースを見たら、ショックで朝までまんじりともできなかったと言うのです。

私は、大リーグなんてまったくと言っていいほど興味がありません。もちろん、イチローやダルビッシュのことは知っていますが、ときに彼らが所属するチーム名も忘れて、野球好きな人と話をしている最中にこっそりスマホで確認することもあるくらいです。

私は、彼の話を聞いて(スマホでそのニュースを確認しながら)、すごいなと思いました。たかが、と言ったら叱られるかもしれませんが、野球選手が急死したくらいで、朝まで眠れなかったなんて、自分にはとても考えられないことだからです。

ファンかどうかという以前に、私には他人の死に対してのナイーブな感覚が失われているのではないかと思うことがあります。そもそも他人対する感覚が鈍磨しているような気さえするのです。

最近は特に、舗道を歩いていても、電車に乗っていても、いつも不機嫌になっている自分を感じます。たしかに他人の迷惑を考えない”自己中”の人間が多いのも事実ですが、そういった人たちに対して、寛容な気持が持てなくなっているのです。さすがに表に出すことはありませんが、心のなかではいつも舌打ちをしています。

電車のなかのベビーカーに対しても同じです。あれはベビーカーがどうとかいうより、ベビーカーを押している親たちが問題だと思うのです。週末の自由が丘の駅のホームで傍若無人に行き交うベビーカーに遭遇すると、とても寛容な気持にはなれないのです。「乳幼児をお連れの方」という表示をいいことに、ベビーカーで通路をふさいで、家族でシルバーシートを占領している光景を見ると、やはり心のなかで舌打ちをしている自分がいます。

ホセ・フェルナンデスの死にショックを受けてまんじりともできなかったという人は、離婚して子どもとも別れ、既に親も亡くなり、身寄りもない天涯孤独な人です。しかも、爆弾のような病気も抱えており、いつ死んでもいいというのが口癖です。それでも、他人の死にショックを受けるようなナイーブな感覚を失ってないのです。それに比べると、自分はなんと独りよがりで冷たい人間なんだろうと思ってしまいます。
2016.09.28 Wed l 日常・その他 l top ▲
SEALDsに同伴し野党共闘を支持していた「リベラル」と言われる人たちの間で、民進党の蓮舫新代表が野ブタを復権させたことなどに失望して、「新しいリベラル政党」を作る動きがはじまっているそうです。

私は、それを聞いて、なにを今更と思いました。そんなことは最初からわかっていたことです。SEALDsを持ち上げ、既成政党幻想を煽ってきたみずからのお粗末さ、トンチンカンぶりをまず自覚することでしょう。と言うか、こういう無定見な人たちは、余計なことをせずにさっさと退場してもらうのが一番でしょう。

ブレイディみかこ氏は、貧困問題に取り組んでいる運動を取材した文章のなかで、つぎのように書いていました。

 右派にしろ、左派にしろ、近年台頭しているムーブメントは、ミクロで起きていることをマクロの政治に持ち込む方向性で支持を広げている。ポデモスが地方政党と連合して運動を戦ったのもその一つの表れだろう。地方で起きているミクロな現実が中央政府のマクロにちっとも反映されないので自ら中央に乗り込んでいこうとする地方政党のエネルギーを、ポデモスが吸収したのだ。

「ミクロ(地べた)をマクロ(政治)に持ち込め」(『This Is JAPAN』・太田出版)


貧困支援の社会運動家で、『下流老人』や『貧困世代』の著者でもある藤田孝典氏は、これを「ミクロとマクロの連続性」と言ってました。上から目線で(文字通りマクロな目線で)「新しいリベラル政党」を作るなんておこがましいのです。

たしかに憲法問題も大きなテーマでしょう。しかし、それと同じように、あるいはそれ以上に、貧困問題も喫緊の大事なテーマです。生活保護バッシングや”貧困女子高生”バッシングに反撃することのなかに、ミクロからマクロにつながる政治的な回路があることを知る必要があるでしょう。リテラも記事を配信している、どちらかと言えば、「リベラル」な立ち位置にあったと言っていいビジネスジャーナルが、”貧困女子高生”をバッシングするために、あのようなねつ造記事を書いたことの深刻さをもっと考える必要があるでしょう。

何度も言いますが、右か左かではないのです。上か下かなのです。「憲法を守れ」とか「民主主義を守れ」と声高に主張しているからと言って、それが全体主義の免罪符になるわけではないのです。

「新しいリベラル政党」なんて(おそらくできもしないでしょうが)、所詮は民進党の同工異曲にすぎません。


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2016.09.28 Wed l 社会・メディア l top ▲
私は、国会のなかの様子を知るには、今や上西小百合議員のツイッターをチェックするに限ると思っています。

上西議員のツイッターは、粘着質のネトウヨからの罵詈雑言であふれています。それは、まるで『狂人失格』のモデル女性のブログに巣食う、ネットストーカーたちを彷彿とさせるような光景なのでした。

しかし、上西議員は、そんなことにひるまず意気軒高です。昨日の衆院本会議の安倍首相の所信表明演説の際、自民党の議員たちがいっせに立ち上がって拍手をした、まるで北朝鮮か中国の国会のような光景に対しても、上西議員はつぎのように批判していました。



余談ですが、上西小百合風に言えば、Yahoo!ニュースというのは、コメント欄が示すとおり、「猿」に余計な知恵をつけるメディアと言えるのかもしれません。

さらに上西議員は、自民党の補完勢力である民進党をヤユすることも忘れていません。


民進党の蓮舫新代表が、みずからの派閥の親分である野ブタの復権をはかったことに対しても、シニカルに批判していました。




このような野党不在の翼賛国会の現状を上西議員は「絶望的な状況」と言うのです。SEALDsなどよりよほど今の政治の深刻さを自覚していると言えるでしょう。

右か左かなんて関係ないのです。むしろ、色眼鏡をかけてない分、今の政治の病理=「絶望的な状況」がよく見えるということもあるのではないか。腐臭を放つ政治状況に対して、はっきりと「臭い」と言えるのは、彼女が大阪維新を除名されて、孤立無援な、だからこそなにものにも縛られない自由な身になったからでしょう。これからも上西議員のツイッターは要チェックです。


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2016.09.27 Tue l ネット l top ▲
私は、NHKで深夜に放送されていた「MUSIC BOX」という番組が好きでしたが、最近、たまたまYouTubeに、その映像がアップされていたのを見つけて感激しました。アップ自体は違法なのかもしれませんが、かつての番組ファンにとっては感涙ものでした。

YouTube
NHK MUSIC BOX 80年代邦楽 「恋におちて」 小林明子
NHK MUSIC BOX 1991年邦楽 「PIECE OF MY WISH」 今井美樹

ただ、放送した年がはっきりしないので、いつこの番組を見たのか、ずっと気になっています。と言うのも、この番組を見ていた当時の自分の心境が、特別なものであったような気がするからです。

映像の左上にある数字は、放送されていた時刻です。どうしてそんな時間まで起きてテレビを見ていたのか。誰かに、深夜に放送されているNHKの番組が好きだという話をしたような記憶もあります。なにがあって眠れぬ夜をすごしていたのか。それが気になって仕方ないのです。失恋か。仕事の悩みだったのか。

「MUSIC BOX」に映し出されている80年後半から90年代にかけては、私は、六本木にあるポストカードやポスターなどを輸入する会社に勤めていました。バブルが弾ける前でしたので、結構、分不相応なことも経験しました。「恋に落ちて」という曲にも思い出があります。それで、よけいセンチメンタルな気分になって見ていたのかもしれません。

考えてみれば、時間は容赦なく過ぎていくのです。文字通り容赦なく、それも駆け足ですぎていく。

先日の新聞に出ていましたが、「金妻」の舞台になったような、かつての「あこがれのニュータウン」も、今は住民が高齢化して街も寂れ、さまざまな問題が生じているそうです。「恋におちて」も今は昔なのです。「金妻」たちは、老後を前にした現在(いま)、どんなことを考えているのだろうかと思いました。やはり、あのキラキラ輝いていた時代をときどき思い出し、追憶に浸ることはあるのだろうかと思いました。


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2016.09.24 Sat l 日常・その他 l top ▲
先日、「文春砲は腰抜け」という記事を書きましたが、訂正しなければならないのかもしれません。今週号(9月29日)では、豊洲移転問題に関連して、石原慎太郎のことを取り上げていました。ついにタブーが破られたかと思いましたが、でも、やはりどこか腰が引けている感はぬぐえません。芸能人のスキャンダルのときのような”冴え(意地の悪さ)”はありません。

週刊文春(9月29日)号
総力取材 豊洲の「戦犯」 石原とドン内田

都議会のドンは、元テキヤだそうです。しかも、豊洲の問題で権勢をふるった当時は、なんと落選中の身だったとか。にもかかわらず、「自民党東京都連幹事長に留任。都議会に部屋と車が用意され、都政に大きな影響力を持っていた」のです。そして、ドンがおこなったのが、豊洲移転に反対する民主党との「交渉」です。と言うのも、当時、民主党は都議会でも大躍進し、与野党の勢力図がほぼ拮抗していたからです。

折しも、『原発ホワイトアウト』のモデルでもあった泉田裕彦知事が突然出馬撤回した新潟県知事選挙について、つぎのようなニュースがありました。

Yahoo!ニュース(産経新聞)
新潟県知事選、野党3党に推され東大卒の医師が出馬表明 前長岡市長と一騎打ちへ

 共産、生活、社民の3党は今月17日、米山氏の擁立を民進党県連に要請したが、同県連は申し出を断り自主投票を決めていた。米山氏は民進党に離党届を既に提出しており、無所属で知事選に出馬する方向。


出馬表明した米山隆一氏は、民進党の新潟5区総支部長で、次期衆院選の公認候補にも内定していたそうです。

にもかかわらず、民進党は他の野党から要請されていた米山氏の擁立を断り、米山氏は離党して立候補することになったのです。どうしてなのか。それは、米山氏が東京電力柏崎刈羽原発の再稼働について、泉田知事同様、慎重な姿勢をとっているからです。

東京電力柏崎刈羽原発の再稼働に直接関係する新潟県知事に、慎重派の知事が誕生することは、電力総連に牛耳られた連合を支持母体とする民進党としても容認できないのでしょう。野ブタが復権したのも別に驚くことではありません。むしろ、民進党が野党を名乗ることの不幸(この国の政治の不幸)を考えるべきでしょう。

豊洲の移転問題においても、ドンの裏工作によって、民主党は妥協を重ね、豊洲移転の障壁ではなくなったのでした。民主党(民進党)も、伏魔殿の一員であることには変わりがないのです。

今週号では、石原と鹿島の関係にもちらっと触れていますが、もちろん、利権は豊洲移転だけではありません。むしろ本丸は、東京オリンピックのほうでしょう。

それにしても、この国の「愛国者」は、いつの時代も責任転嫁ばかりです。関東軍の上級士官たちも、部下や邦人を置き去りにして、満州から真っ先に逃げ出し、先を争って“昨日の敵“に取り入ったのでした。そして、公職に復帰すると、再び「愛国者」ズラして、戦後の日本はエゴイズムがはびこり、国を愛することが疎かになっている、などと国民に説教を垂れていたのです。

醜い弁解と責任転嫁に終始する石原こそ、この国の「愛国者」の典型と言えるでしょう。忘れてはならないのは、そんな石原を新橋や丸の内のサラリーマンたちは、かつて「理想の上司」として崇めていたことです。文春や新潮ばかりでなく、フジサンケイグループなども、まるで「救国のリーダー」のようにヨイショしていたのです。

豊洲移転問題でも、みんな口をそろえて「知らなかった」と言うばかりです。誰ひとり責任を取ろうとする人間はいません。それは、あの戦争のときから変わらないこの国の姿です。

テレビのワイドショーなども、徐々に腰砕けになっており、この問題の落としどころを探っているフシさえあります。来年になれば問題も沈静化して、計画どおり移転がはじまるだろうという見方も出ています。昨日のTBSの番組では、角谷浩一というコメンテーターが、誰の責任か追及するのは生産的ではない、みんな良かれと思ってやったことだ、というようなことを言ってましたが、そうやって沈静化がはかられるのでしょう。

築地市場の歴代の市場長の天下り先を見ると、「東京メトロ代表取締役副会長」を筆頭に、目も眩むほどの豪華さです。また、直接工事等に関わった部署の担当者たちの多くも、ゼネコンなどに天下りしているそうです。今回の問題の根っこにあるのは、このような役人天国の問題です。そして、その役人天国と持ちつ持たれつの関係を築くことで伏魔殿と化した議会の問題があるのです。当然ながら、そこに利権が生まれ、利権によって行政が動かされる現実があるのです。その中心に鎮座ましましていたのが、「愛国者」且つ「救国のリーダー」且つ「理想の上司」の「空疎な小皇帝」(斎藤貴男)石原慎太郎だったのです。
2016.09.23 Fri l 社会・メディア l top ▲
韓国ブームが再燃しているそうです。

韓国観光公社によれば、日本からの訪韓客は、2012年8月以降、減少の一途を辿っていたのですが、今年2月に3年6ヶ月ぶりに増加に転じたそうです。そして、今年の上半期(1月~6月)の訪韓数は、昨年に比べて10%増加したのだとか。今日のテレビでも、韓国ブーム再燃の話題が取り上げられていました。

ただ、ブームの中身は、前回とは異なっているようです。今回は、ファッションやメイクやスイーツなど、主に10代~20代の若い女性が中心だそうです。韓流ブームと言うより、韓国ブームと言ったほうがいいのかもしれません。

@niftyニュース
10代に韓流ブーム再び キーワードは「自撮り」(週刊朝日)

スマホアプリからブームが再燃したというのは、やはり、LINEなどの影響が大きいのかもしれません。少なくとも、モバイルビジネスでは、ハード面も含めて韓国が日本より先行しているのは間違いなく、そのためアプリなどのサービスにおいても、常にイニシアティブを握ることができるのでしょう。

ブームは、アプリだけにとどまりません。日本のギャルたちは、オルチャンファッションやオルチャンメイクと呼ばれる、韓国の若い女の子たちのファッションやメイクを模倣しているのです。また、原宿にも進出した韓国かき氷・「ソルビン」など、韓国スイーツも人気を博しているそうです。

今回のブームには、前回の韓流ブームに対して上野千鶴子が不快感を示したような、「植民地時代からの優劣関係の記憶」などどこにもありません。それが、ファッションやメイクやスイーツなど、ブームの主体がより生活に密着したものに移行した理由なのでしょう。つまり、若い女の子たちが抱く韓国のイメージは、「歴史」や「政治」と完全に切断されたところに成り立っているのです。それこそ、『さよなら、韓流』で北原みのりが指摘していた、「しなやかに強く根深く自由」な「女の欲望」のギャル版とも言えるでしょう。

韓国製品は日本製品より劣っている、韓国社会は日本社会より遅れているというようなイメージは、Yahoo!ニュースのようなセカンドメディアに影響されてネトウヨになった一部の日本人の、そうあってほしいという願望でしかないのです。そうやっていつまでも「植民地時代からの優劣関係の記憶」にすがっていたいのでしょう。でも、それはあきらかにネットリテラシーの低いオヤジたちのものです。

国内の市場が小さく、日本のように「パラダイス鎖国」やガラパゴス商法が望めない韓国は、最初からグローバルな市場に活路を求めるしかありませんでした。その結果、技術面においても付加価値においても、韓国製品は世界に通用するレベルにまで達し、いつの間にか日本製品の強力なライバルになっていたのです。「世界ナゼそこに?日本人」のような番組には、統一教会で集団結婚した日本人花嫁が多数出ているそうですが、統一協会の信者まで動員して、世界で日本人はリスペクトされている、日本製品はあこがれの的だというような、テレビ東京的慰撫史観で自演乙している間に、アジアは韓流ブームにおおわれ、韓国製品に席巻されていたのです。

自分たちの生活を虚心坦懐に眺め、日本に韓国や中国ほどの勢いがあるかと考えれば、とてもあるようには思えません。私たちには、世界中にお金をばらまいて歩いているアベシンゾーが滑稽に見えるほど、「景気が悪く」「生活が苦しい」実感しかもてないのです。韓国経済は停滞している、中国経済は崩壊する、というようなおなじみの”希望的観測”とは裏腹に、アジアでは韓国や中国の存在感が増すばかりです。そのうち、アジアでは韓国や中国がスタンダードになるかもしれません。

ブーム再燃は、若い女性たちの柔軟な感性をとおして、そんな韓国の勢いが再び日本に押し寄せているということなのでしょう。


関連記事:
『さよなら、韓流』
2016.09.21 Wed l 社会・メディア l top ▲
週刊文春2016年9月22日号


豊洲新市場への移転問題で、小池知事の株は文字どおりうなぎのぼりに上がっています。さすが世渡り上手な政治家です。メディアを利用した“劇場型政治”の用意周到さとその舵さばきは見事というしかありません。野党統一候補の鳥越俊太郎氏が知事になっていたら、こんなセンセーショナルな展開は望めなかったでしょう。

朝日新聞によれば、盛り土がおこなわれなかったことについて、都庁の元担当者は、「将来新たに地下水汚染が見つかった際、状況を調べたり取水などの汚染対策に使ったりする『モニタリング空間』」だったと言っているそうです。こういう往生際の悪さも役人の特徴でしょう。ああ言えばこう言う役人の詭弁の罠にはめられて、大山鳴動して鼠一匹出ずということにならないように願うばかりです。

国政より先に自公体制が築かれていた都議会は、石原慎太郎が言うよりはるかに前から「伏魔殿」と呼ばれていました。むしろ、石原は、都政を「伏魔殿」にしたひとりと言ってもよく、彼に「伏魔殿」なんて言う資格はないのです。そもそも豊洲移転を持ち出したのも石原なのです。謂わば石原は、豊洲移転問題の一丁目一番地なのです。

豊洲移転に対しては、当初は築地の仲卸業者の大半も反対していたそうです。しかし、その後、寄らば大樹の陰で、多くの業者が賛成に転じたのですが、食を扱うプロとしての矜持もポリシーもない彼らの責任も無視できないでしょう。豊洲移転に賛成した彼らは、間違ってもメディアが言うような「被害者」なんかではないのです。

石原は、盛り土がおこなわれてなかったことに対して「だまされた」と言い、みずからが盛り土の提言を否定するような言動をおこなっていたことに対しても、「覚えてない」(のちに撤回)とか「下から言われたのでそのとおりに言っただけ」とか責任逃れの発言に終始しています。

彼は自他ともに認める「愛国者」です。尖閣諸島の購入計画を打ち出して、棚上げにされていた領土問題を再燃させたのも彼です。中国が攻めてくるという妄想を日本中に広めた張本人と言ってもいいでしょう。

そんな「愛国者」が、みずからの責任に頬かむりしているのです。それは、国民を守るためではなく、国体を守るために本土決戦を回避して(それどころか、原爆投下を「天佑」と”歓迎”すらして)、敗戦の責任から逃れるために、我先に昨日の敵にすり寄っていった戦争指導者とよく似ています(アベシンゾーのお爺ちゃんもそのひとりです)。

一方、東条英機に「早く戦争をやれ!」「戦争が恐いのか」「卑怯者!」「非国民め!」というような手紙を段ボール箱に何箱も書いて(鈴木邦男)、戦争を熱望した国民たちは、敗戦になった途端、自分たちは「被害者」だと言い始めたのです。それは、築地の仲卸業者たちとよく似ています。その背後にあるのは、戦前から一貫して変わらない日本社会の無責任体系です。

そんな豊洲問題を我らが週刊文春も取り上げていました。

週刊文春(9月22日号)
小池VS.豊洲利権

リードに曰く、「ついにパンドラの箱が開いた。築地市場の移転先となる豊洲新市場で、土壌汚染対策の盛り土が行われていなかったことが発覚した。総事業費は六千億円に膨らむ一方で、食の安全に対する懸念は残ったままだ。誰による、誰のための移転だったのか。徹底検証する」

しかし、記事は「徹底検証」なんてほど遠い、まったく腰が引けた竜頭蛇尾な代物でした。

文春の記事には、豊洲移転の張本人であり、今回の問題のキーパーソンである人物の名前がいっさい出てこないのです。

もともと豊洲市場の土壌汚染対策は〇八年七月、有識者による専門家会議が都に対して「敷地全体に盛り土を実施すべき」と提言していた。ところが、都は単独で工法を変更したのだ。


 専門家の指摘を反故にしてまで一体、いつ、誰が盛り土の中止を決めたのか。


でも、記事には石原の「い」の字も出てこないのでした。石原の“鶴の一声”などまるでなかったかのような感じです。

豊洲移転の利権にしても、ゼネコン各社の異常な落札率の高さを指摘していますが、でも、東京オリンピックの問題でも指摘されていた石原と鹿島の“親密な関係”については、ひと言もないのです。

私は、以前、1969年に当時隆盛を極めていた“左“の言論に対抗するために『諸君』が創刊された際、石原が文春内で果たした役割について、元社員から話を聞いたことがありますが、未だに文春では、石原センセイはタブーなのでしょう。

文春砲は腰抜けです。叩きやすいところを叩くだけの、タブーだらけのスキャンダリズムにすぎないのです。音だけ大きい屁のようなスキャンダリズムなのです。
2016.09.19 Mon l 社会・メディア l top ▲
私は、「とと姉ちゃん」は病院の待合室で一度見たことがあるだけですが、主題歌の「花束を君に」はとてもいい曲で、何度もくり返し聴いています。宇多田ヒカルが亡き母親にあてて歌った歌であるのは、歌詞からも容易に想像されます。

いい音楽というのは、聴く人間の感性を激しくゆさぶり、いろんな思いや考えを誘うものです。「花束を君に」を聴きながら、ふと自分の帰る場所はどこなんだろうと考えました。既に親も亡くなった現在、もう帰る場所はどこにもないように思います。母親の死を機に本籍も横浜に移しましたので、田舎は本籍地でさえないのです。書類に書くとき、間違えないように本籍地の番地を暗記していましたが、もうその必要もなくなったのです。

帰る場所はどこなのか。どこに帰ればいいのか。そう考えたとき、やはり、頭に浮かぶのは、藤枝静男の「一家団欒」でした。今や故郷に残る唯一のよすが(縁)になってしまった菩提寺の墓。そこに眠る祖父母や父母のもとに帰るしかないのではないか。そう思うのでした。両親が生きているときは散々不義理したくせに、勝手なものです。「一家団欒」の章と同じように、泣いて懺悔するしかないでしょう。

先日の記事で紹介した吉本隆明の「市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬという生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったく同じである」ということばや、どんな人生を生きたかよりどんな人生でも最後まで生きぬいた、ただそれだけですごいことなんです、と言った五木寛之のことばが示しているのは、仏教の思想です。「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」(『歎異抄』)存在として私たちがいるのです。

今、私ができることは、できる限り田舎に帰って、父母らが眠る墓に手を合わせることでしょう。もう私はそんなことしかできないのです。


関連記事:
墓参りに帰省した
宇多田ヒカル
2016.09.16 Fri l 日常・その他 l top ▲
私は、ドキュメンタリー作家の原一男氏の作品は、若い頃からよく見ていました。いちばん最初に見たのは、「極私的エロス 恋歌1974」でした。当時、私は高田馬場の予備校に通い浪人生活を送っていたのですが、一方で、アテネフランセの映画講座にも通っていて、たしかそこで見たように記憶しています。

しかし、ドキュメンタリー作家・原一男氏の名を知らしめたのは、なんといっても「ゆきゆきて、進軍」(1987年)でしょう。それは、私にとっても衝撃的な作品でした。奥崎謙三のことは、『ヤマザキ、天皇を撃て!』を読んで以来、ずっと興味をもっていましたが、あらためて映像化されたものを見ると、その強烈な個性と奇矯なふるまいに、文字通りド肝をぬかれたのでした。ただ、その奇矯なふるまいによって、大岡昇平が『野火』で書いているような、ニューギニア戦線の極限状況下における部隊内の処刑とカニバリズムの真相があぶり出されていくのでした。同時に、奥崎謙三が、カメラの前では「演じる人」でもあったということがわかり、それも驚きでした。

そのあとに見たのは、ガンに斃れた作家・井上光晴氏の日常にカメラを据えた「全身小説家」(1994年)です。「全身小説家」も、衝撃的なドキュメンタリーで、「嘘付きみっちゃん」の面目躍如たるような経歴の嘘が、カメラの前でつぎつぎとあきらかにされるのでした。

ところが先日、その原一男氏のブログを見ていたら、つぎのような記事がアップされていて、文字通り目が点になりました。

原一男の日々是好日
週刊金曜日「鹿砦社広告問題」に触れて(2016年9月8日)

私は、正直、大丈夫か?と思いました。

『週刊金曜日』(8月19日号)で、「さようならSEALDs」という特集が組まれたのですが、そのメイン企画が原一男氏とSEALDsの奥田愛基の対談だったそうです。しかも、特集号には二人の写真が表紙を飾ったのだとか。

ところが、その裏表紙に、私もこのブログで紹介した『ヘイトと暴力の連鎖 反原連・SEALDs・しばき隊・カウンター』(鹿砦社)の広告が掲載されていたらしく、どうやらそれがお気に召さなかったようなのです。

原氏はこう書きます。

それにしても、何故、こういう問題が起きたのか? 悪意ある誰かの意図があったのかどうか?


そこで、「まずは事実経過をハッキリ確かめよう」と担当の編集部員に連絡したのだとか。

一体なにが問題だというのでしょうか。言論、表現、出版の自由を持ち出すまでもなく、誰が見ても問題なんてないでしょう。むしろ、問題にするほうが問題とさえ言えるのです。

 一見、週刊金曜日内部の問題かのように見える。が、そうだろうか?
ひとりの編集部員が誇りと意地をかけて汲み上げた記事を、同志であるべき同じ編集部の長である人が、本来、支持し守るべきところを、あろうことか泥をぶっかけたに等しい。メッセージに込めた祈りを汚したのだ。70年代、このような人たちを“内部の敵”と呼んでいた。今や、この“内部の敵”という魑魅魍魎が跋扈していることに気付くべきなのだ。その魑魅魍魎たちがニッポン国の至るところに巣くっていることに。


この被害妄想。「悪意のある意図」「内部の敵」などという常套句。私は身の毛がよだつものを覚えました。まるでスターリニズムの悪夢がよみがえるようでした。

SEALDsを担いだ「ジジババども」(辺見庸)にとって、今やSEALDsはスターリンのような“絶対的な存在”になっているのでしょうか。SEALDsに異を唱える者は、まるで民主主義の敵、人民の敵とでも言わんばかりです。奥崎謙三が告発した”虚妄の戦後”を、原氏は、神聖にして犯すべからず至上の価値として崇め奉っているかのようです。

私は、SEALDsなんてなにも生み出さなかった、むしろ無定見な既成政党幻想や選挙幻想を煽った分、”罪”のほうが大きいと思っていますが、さしずめこんな私は、アベシンゾーと同様、人民の敵なのかもしれません。

言うまでもなく、全体主義は“右“の専売特許ではありません。“左“も例外ではないのてす。「憲法を守れ」とか「民主主義を守れ」と声高に主張しているからと言って、それが全体主義の免罪符になるわけではないのです。

他人(ひと)の口を借りてものを言うつもりはありませんが、私は、再び三度、辺見庸の(幻の)”SEALDs批判”を思い出さないわけにはいかないのでした。

だまっていればすっかりつけあがって、いったいどこの世界に、不当逮捕されたデモ参加者にたいし「帰れ!」コールをくりかえし浴びせ、警察に感謝するなどという反戦運動があるのだ?だまっていればいい気になりおって、いったいどこの世の中に、気にくわないデモ参加者の物理的排除を警察当局にお願いする反戦平和活動があるのだ。
よしんばかれらが××派だろうが○○派だろうが、過激派だろうが、警察に〈お願いです、かれらを逮捕してください!〉〈あの演説をやめさせてください!〉と泣きつく市民運動などあるものか。ちゃんと勉強してでなおしてこい。古今東西、警察と合体し、権力と親和的な真の反戦運動などあったためしはない。そのようなものはファシズム運動というのだ。傘をさすとしずくがかかってひとに迷惑かけるから雨合羽で、という「おもいやり」のいったいどこがミンシュテキなのだ。ああ、胸くそがわるい。絶対安全圏で「花は咲く」でもうたっておれ。国会前のアホどもよ、ファシズムの変種よ、新種のファシストどもよ、安倍晋三閣下がとてもとてもよろこんでおられるぞ。下痢がおかげさまでなおりました、とさ。コール「民主主義ってなんだあ?」レスポンス「これだあ、ファシズムだあ!」。

かつて、ぜったいにやるべきときにはなにもやらずに、いまごろになってノコノコ街頭にでてきて、お子ちゃまを神輿にのせてかついではしゃぎまくるジジババども、この期におよんで「勝った」だと!?おまえらのようなオポチュニストが1920、30年代にはいくらでもいた。犬の糞のようにそこらじゅうにいて、右だか左だかスパイだか、おのれじしんもなんだかわからなくなって、けっきょく、戦争を賛美したのだ。国会前のアホどもよ、安倍晋三閣下がしごくご満悦だぞ。Happy birthday to me! クソッタレ!

(辺見庸「日録1」2015/09/27)

※Blog「みずき」より転載
http://mizukith.blog91.fc2.com/



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2016.09.15 Thu l 社会・メディア l top ▲
高畑裕太の不起訴&釈放には驚きました。

逮捕された容疑が「強姦致傷」なので、被害者の告訴がなくても捜査は進められ起訴も可能だったはずです。意外な結末と言えるでしょう。示談が成立したことによって、捜査に被害者の協力が得られず、公判の維持が難しいと判断したからではないかという専門家の解説がありましたが、さもありなんと思いました。被害者が、示談でもなんでもして早く事件を忘れたいと思っても、誰も責められないでしょう。

ネットで「高畑裕太」と検索すると、「高畑裕太 被害女性」「高畑裕太 被害女性画像」などと予測候補のキーワードが表示されますが、いちばんゲスなのは善良な仮面をかぶった世間なのです。テレビのワイドショーの視聴者であり、Yahoo!ニュースにアクセスするのを日課にしているネットの利用者であり、週刊文春や週刊新潮の読者です。そんなゲスな世間の目から、被害者のプライバシーを守ることをなにより優先しなければならないのです。逆に言えば、それだけ強姦が卑劣な犯罪だということなのです。肉体的な被害だけでなく、精神的な被害も深刻な問題なのです。まして、加害者が有名人であれば尚更でしょう。

弁護士が、お金にものを言わせて性犯罪被害者の苦悩に付け込み、泣き寝入りするように追い込む。テレビドラマでも見ているような、そんな想像をしました。「ママのおかげだよ」と言って母親の腕にすがり付きながら、陰で薄ら笑いを浮かべている、なんてことがないように願うばかりです。

高畑裕太を担当したのは、「無罪請負人」として有名な弘中惇一郎弁護士の事務所だそうです。弘中弁護士と言えば、ロス疑惑の三浦和義(無罪)、薬害エイズの安倍英(一部無罪)、厚労省村木事件の村木厚子(無罪)などを担当した”辣腕”弁護士です。かつては『噂の真相』の顧問弁護士もしていました。

また、不起訴&釈放に際して、弁護士がコメントを出したことにも驚きました。弁護士がコメントを出すこと自体、異例だそうです。高畑裕太の話しか聞いておらず、「事実関係を解明することはできておりません」と言いながら、まるで事件が”冤罪”であったかのように一方的な主張を述べているのでした。強姦事件では、コメントにもあるように、加害者側の弁護士が「合意だった」とか「被害者にも落ち度があった」と主張するのはよくあることで、被害者は公判でも二次被害を受けることが多いのだそうです。そのため、示談、告訴の取り下げ(不起訴)に至るケースも多く、性犯罪の起訴率は50パーセントにも満たないと言われています。

コメントに対しては、私は、下記の千田有紀氏と同じような感想をもちました。

Yahoo!ニュース
高畑裕太さん釈放後の弁護士コメントは、被害者女性を傷つけてはいないか?

コメントは、被害者がなにも言えないことをいいことに、言いたい放題のことを言っているような感じさえするのでした。コメントを受けて、さっそく「推定無罪」がどうとか、(日刊ゲンダイのように)被害者の女性の素性がどうとかいった話まで出ていますが、弁護士にすれば、「してやったり」という感じなのかもしれません。

通常、こんな一方的なコメントを出すことは考えれないので、コメントを出すことも示談で合意されていたのではないかと言われていますが、仮にそうだとしてもなんだか残酷な気がしてなりません。“不合理な裏事情“を感じてならないのです。
2016.09.11 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
生活保護関連の仕事をしている人と話をしました。そのなかで、いわゆる「貧困ビジネス」の話になりました。業者は、ホームレスの人たちに声をかけて、自分が管理するアパートなどに住まわせます。そして、役所に連れて行き、申請の手続きをサポートして生活保護を受給させるのです。業者は弁当を支給して、保護費のなかから住居費だけでなく食費も徴収するのだそうです。そのため、入居者の手元に残るのは月に1~3万円くらいだとか。なかには、支給された保護費を一括管理して、毎日500円や1000円づつ渡したりするケースもあるそうです。

たしかに、受給者を食い物にしていると言えますが、ただ、すべてを否定できない側面もあるのだと言ってました。役所は申請主義なので、自分で申請しないと生活保護のようなセーフティネットも利用することができません。ホームレスの人たちのなかには、知的障害のある人も少なからずいるので、最初からセーフティネットの基本的な知識すらない人もいるそうです。また、コミュニケーション能力が劣っていたり、対人恐怖症だったりして、役所に行ったものの、窓口で冷たくあしらわれて、申請をあきらめた人も多いのだとか。家族や地域や職場などの「中間共同体」からはじき出され、ひとりで生きていかざるをえないにもかかわらず、自分ひとりで生きていく能力も術も持ってない人たちも多いのです。

「貧困ビジネス」の業者は、そんな人たちに「住まいも食事も用意するよ」と声をかけるのです。不思議なことに、ひとりで行くと「水際作戦」で追い払われるのに、業者と行けば申請がとおりやすいのだそうです。

そうやって住まいと食事は確保されるのです。たしかに搾取はされるかもしれませんが、少なくとも路上生活から脱出できることは事実でしょう。都内では、毎日のように路上生活者が行き倒れ、尊い命を失っていますが、そういった明日をも知れない絶望的な境遇から脱出できることは事実なのです。

私がよく行く街にも、その手の施設と思しき建物があります。見ると、施設を運営する会社は、別の場所で弁当の仕出しもやっています。おそらく入居者に弁当も支給しているのでしょう。

私は、これを”必要悪”と言うのだろうかと思いました。一方では、サイゾーが運営するビジネスジャーナルのように、”貧困女子高生”をバッシングするために、記事をねつ造するようなメディアもあります。そんな”ゲスの極み”に比べれば、(誤解を怖れずに言えば)ある意味では、「貧困ビジネス」のほうが制度の狭間に取り残された人たちの貧困の現実に「向き合っている」と言えなくもないのです。

受給者の生活については、バッシングの記事ばかりで、その現実がなかなか表に出てこないのですが、先日、「閑人者通信」のブログ主が、みずからの生活の現実をつぎのように書き綴っていました(長くなりますが、引用します)。いつも言うことですが、これは決して他人事ではないのです。明日は我が身かもしれないのです。

長寿という思わぬ穽陥に対する国家の保険である基礎年金は制度が破綻している。
一次産業や自営業、非正規で生きてきて金融資産がない場合、賃貸アパートに暮らしながら月に6万5千円で暮らすのはなかなかに工夫を必要とする。
多分、都会では困難だろう。
国民年金が20歳から60歳までの全国民に義務づけられている「税」である以上、保険金を全額納めたとしても老後それだけでは食えないというのは明らかな制度設計のミスである。
リタイアするまでに預貯金などの資産を蓄えておけという人もいる。
それができる人間もいればできない人もいる。
障碍者などを別にしても、例えば愚老は中卒で学歴もなければ世間に通用するスキル職能など何も持っていない無能の人である。
そんな人間が資産など蓄えられるわけもない。そんな甘い世の中ではない。
それなら死ぬまで働けという意見もあるだろう。
それには「嫌だよ」と笑って答えるしかない。
実はこの秋から食えなくなると思ってフェイスブックなどでさかんに食糧支援の広告を打っているのにはわけがある。
もう金輪際、勤労はやめたのである。
還暦を過ぎてから廃品回収、養老院の夜警、掃除夫、ゴミの分別などの仕事をやってきた。
去年はずっと便所掃除をしていた。
汲み取りの公衆便所のクソをブラシでこすっていると何故かかなしくなった。
まあそんなことがあって漸く前期高齢者になったのを機に勤労はやめることにした。
もう楽しいことしかしないと決めた。
だっていくら愚かでも奴隷の人生ではないのだから。
いつまでも苦役列車に乗っているつもりはない。
そうなればただ国の社会保障制度という再分配政策を利用すればいいだけの話である。
受給する年金とナショナルミニマムとの差額3~4万円を生活網で保障されるのである。
そのために勤労も納税もしてきた日本人のひとりなのである。
そういう当たり前の話が通じにくくなっている。
なぜか。生活が苦しい人々が、より下位にある貧困な人々に対するルサンチマン。歪である。
80年代以降のグローバリズムという経済がそういう国民を大量に生みだしたのである。
結句、世間は非寛容となった。ひとは弱い者には残酷になれる。

愚老は残りの寿命もあとわずかである。
持病の慢性腎炎も人工透析が目前に迫っている。
生活保護を利用すると医療は現物支給となる。これは助かる。
確か保護費の半分は医療費が占めている。
病院がタダだから羨ましい、などというバカがいる。
どこに病気になって喜ぶ人間がいるのか。本末転倒も甚だしい。
30年前には考えられなかったことだが、いまや貧困はほぼ固定化するのである。
階層移動は困難となった。老人の場合はまず脱出不可能である。
同時に家族がいれば貧困は連鎖し再生産される。
愚老は貧困層というレイヤーで長く暮らしてきたから血縁も悲惨である。
兄弟は病死したり餓死したり悲惨な死に方をした。
よくは知らないが子供の労働環境も恐らく悲惨であろう。
子供は3人いるが大学校へいった子はもちろんいない。貧乏だから当然である。
子供たちが幼児のころから家には帰らない火宅の人だったから扶養の実績もない。
そのうち母親と離婚したから親権を放棄し戸籍上も縁も切れた。
子を捨てたのである。
その子供たちのところへ市の福祉課から毎年扶養援助の通知がいく。
いまの政権で家族主義が復活していろいろとうるさくなった。
そんな縁のない生物学上の父親でも生活保護を利用すればそういうことになる。
それが発覚すれば子どもの婚姻の障壁ともなる。
相手の家族の反対にあって結婚できない。そういう価値観の持ち主ならば仕方がない。
どこまでも不憫である。
(このブログを匿名にしたのにはそういう訳がある)

この辺りがナマポ老人のリアルである。
少なくとも愚老にはどうだ羨ましいだろう、とは言えない。
言う人間がいればばいくらでも聞いてやる。

閑人舎通信
http://kanjinsha.com/diary/diary.cgi

2016.09.09 Fri l 社会・メディア l top ▲
カカクコムが運営する口コミサイト「食べログ」で、また”疑惑”がもちあがっているようです。

Yahoo!ニュース
ねとらぼ
食べログの評価が3.0に突然リセット 飲食店オーナーの書き込みが物議

「食べログ」は、過去にヤラセの口コミが問題になったことがありましたが、そのときは、「食べログ」はどちらかと言えば“被害者”の立場でした。しかし、今回は違っています。

SNSに投稿したレストランオーナーによれば、「食べログ」の営業担当者から、ネット予約機能を使わないと検索の優先順位を落とすと言われたものの、予約機能を拒否したところ、「食べログ」のスコア(評価点数)が3.0にリセットされた(下げられた)のだとか。しかも、リセットは、経営する4店舗全部でおこなわれたそうです。それに対して、カカクコムは、予約機能とスコアは「無関係」と言っているようです。しかし、投稿を読む限り、スコアになんらかの手が加えられたのは間違いないでしょう。経営者の怒りはわからないでもありません。

どうしてネット予約機能を使わないと検索順位を落とすと言われたのか。それは、ネットの予約機能が広告に連動しているからです。要するに、広告を出せば、検索順位を優先して上位に表示すると言いたかったのでしょう。もちろん、それをあからさまにやればユーザーの反発を招くので、スコアや予約機能などさまざまなサービスを使って広告であることを巧妙に隠しているだけなのです。

そもそも今回リセットされたスコアにしても、個々のユーザーがレビューの際に付けるスコアの平均ではないのだそうです。私は、表示方法も同じなので、でっきりユーザーのスコアの平均だと思っていました。ところが、ユーザーのスコアではなく、「食べログ」が独自の基準で算出した(いかように操作できる?)スコアなのだそうです。何のための口コミサイトかと思ってしまいますが、それが、今回の騒動のポイントでしょう。

もっともこれは、「食べログ」に限った話ではありません。Googleなども同じです。たとえば、Googleショッピングも広告なのです。アドセンスを利用しないとGoogleショッピングに表示されません。それどころか、Googleの検索順位の上位をアドセンスの広告ユーザーが占めているは、半ば常識です。SEOなんて、所詮は素人の浅知恵にすぎないのです。

忘れてはならないのは、カカクコムもGoogleも営利企業だということです。しかも、その収益の大半を広告で稼いでいる会社なのです。検索システムを自分で作っているというのは、検索のルールを自分で決められるということです。アルゴリズムなんていくらでも操作できるのです。

言うまでもないことですが、カカクコムやGoogleは「公正中立な神」なんかではないのです。ましてや、彼らに「公正中立な神」であることを求めるのは、八百屋で魚を買うようなものです。たしかに、Googleは、今やネットにおいて“全能の神”のような存在になっています。しかし、その“全能の神”は、収益の90%をアドセンスやアドワードの広告で稼いでいる営利企業でもあるのです。

「食べログ」やGoogleが「公正中立」を装っているのも、広告の効果を高めるためです。広告枠を高く売るためなのです。

今回の問題で、カカクコムに「公正中立」を求めるような方向に進むのなら、それこそネットに「公正中立の神」が存在するかのような幻想をふりまくだけの、トンチンカンな反応と言わねばならないでしょう。


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『ウェブニュース 一億総バカ時代』
『ソーシャルもうええねん』
2016.09.09 Fri l ネット l top ▲
今日、リテラに下記のような記事が出ていました。

リテラ
上西小百合の太田光代批判は正しい! おかしいのは「『サンジャポ』に出るな」と上西を恫喝した光代のほうだ

私も、最初、下記のYahoo!ニュースの記事を見たとき、リテラと同じような感想を持ちました。

Yahoo!ニュース
ディリースポーツ
上西議員、太田光代氏に謎のかみつき 「文句あるならサンジャポ出るな」と一蹴される

上西小百合議員の言っていることは、至極真っ当です。「テレビの閉塞感の代表」が太田光代とテリー伊藤だというのは、まったくそのとおりでしょう。

太田光代が代表を務める芸能プロ「タイタン」が、大阪府知事になる前から橋下徹氏のマネジメントをしてきたのはよく知られていました。それは今も変わっていません。それどころか、橋下氏は「タイタン」の顧問弁護士でもあるのです。

上西議員は、「タイタン」が政界復帰を目論む橋下氏とタッグを組んで、彼の芸能活動に手を貸していることにチャチを入れたかったのでしょう。ニュースを扱うサンジャポの爆笑問題は、一見“客観”を装いながら、背後では橋下氏の野望に手を貸しているじゃないかと言いたかったのかもしれません。橋下氏にとって、芸能活動が“政治家・橋下徹“の隠れ蓑であることはあきらかなのです。

それに対して、太田光代は、「サンジャポに文句があるなら出演頂かなくて結構ですよ」と言い返したそうです。まるでサンジャポをみずからがプロデュースしているかのような発言です。

私も、その発言を読んで、太田光代は何様のつもりだと思いました。「タイタン」は爆笑問題の威光を笠に、出演者の人事権まで握っているのかと思いました。

「タイタン」は、爆笑問題が太田プロから独立したのに伴い、仲間内で作った事務所だそうです。爆笑問題のマネージャーも、彼らの出身大学である日芸(日本大学芸術学部)の同級生が務めているという話を聞いたことがあります。それが、いつの間にか芸能界のドンまがいの発言をするまでになったのです。それもひとえに、芸能界がアンタッチャブルな世界だからでしょう。

何度も言いますが、芸能界をアンタッチャブルな(ヤクザな)世界にしているテレビ局や芸能マスコミの責任は大きいのです。メーン司会者とは言え、一介の出演者の所属プロダクションの社長に、「文句があるなら出演頂かなくて結構ですよ」などと言わせるサンジャポスタッフのだらしなさを痛感せざるをえません。こういった思い上がりを許しているから、芸能界のドンのような輩が生まれるのです。

ネットでは上西議員に対して批判的な見方が多いようですが、上西議員の発言は、意外にまともなのが多いのです。「炎上」と言っても、上西議員が言うように、せいぜい10人程度が騒いでいるだけで、それをニュース(とも言えないようなニュース)をマネタイズするためにアクセスを稼ぐことに腐心するネットメディアが、大げさに取り上げて煽っているだけなのです。


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人間のおぞましさ
2016.09.06 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
今日の朝日新聞デジタルに、「台風一過、秋風にススキ揺れる 熊本・阿蘇」という記事が出ていました。記事に添付されていた写真は、阿蘇のミルクロードのすすきが風に揺れる初秋の風景でした。それを見ていたら、中学の頃のある情景がよみがえってきて、胸がふさがれるような気持になりました。

朝日新聞デジタル
台風一過、秋風にススキ揺れる 熊本・阿蘇

阿蘇の外輪山の大分県側の東の端に位置する私の田舎でも、この季節になると、草原に一面すすきの穂がゆれる風景が見られます。私の心のなかに残っている田舎の風景も、やはり秋から冬にかけてのものが多いのです。阿蘇もそうですが、私の田舎も、九州と言っても標高の高いところにあるので、秋の訪れが早いのでした。

中学二年のときでした。数か月前から私は、身体の不調に見舞われていました。学校では野球部に入っていたのですが、風邪をこじらせて思うように部活もできない状態になっていました。貧血を起こして目の前が真っ白になり、立っていられないことが何度もありました。また、やたら寝汗をかくのでした。

それで、学校を早退して、内科医の伯父が勤務する国立病院で診察を受けることになったのでした。ただ、国立病院がある街までは、バスと電車を乗り継いで3時間くらいかかるので、前日に伯父の家に泊まって翌日受診することになったのです。

伯父からは、ベットの予約をしておくので、入院の準備をして来るようにと言われました。入院したら学校はどうなるんだろうと思いました。私は、不安でいっぱいでした。

学校から私の家まで1キロくらいあり、普段は県道が通学路です。しかし、早退して校門を出た私は、なぜかふと、県道の脇に広がる草原のなかを歩きたいと思ったのでした。

私は、通学路を外れ草原のなかに入りました。草原には牛が放牧されており、地面が踏み固められてできた細い道しかありません。私は、草原のなかの道をひたすら歩きました。前方には小学校のとき遠足で訪れた小高い山がそびえていました。周りは腰くらいの丈のすすきにおおわれ、時折、草原を吹き抜けていく風にすすきがさわさわとゆれると、いっそう孤独感がつのってきました。そして、なんだか自分が田舎に背を向け、みんなと違う方向に歩きはじめているような気持になっていました。

結局、私は、年明けまで三か月間入院し、さらにそのあと再発をくり返して、都合三度入院することになるのでした。また、高校も親戚の家に下宿して、知り合いが誰もいない街の学校に進むことになり、だんだん田舎の友達とも疎遠になっていったのでした。

年甲斐もないと言えば年甲斐もないのですが、今朝、ネットで新聞を見ていたら、あのときの切なくてどこかもの哀しい気持が、私のなかでよみがってきたのでした。


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「銀河鉄道の夜」
2016.09.05 Mon l 故郷 l top ▲
私は、夏目三久が好きで、彼女が出る番組はよく見ていました。有吉弘行との熱愛報道が出たとき、「どうして有吉なんだ?」とがっかりしました。どう見ても有吉とは似合わないように思いました。有吉のあのわざとらしい毒舌も嫌いでした。

でも、二人の熱愛が芸能界のドンによって「なきもの」にされようとしているのを見て、逆に、有吉でもなんでもいいから愛を貫いてもらいたいと思うようになりました。熱愛報道をめぐる一連の展開が、あまりにも理不尽に思えたからです。

ところが、夏目三久自身が、SMAP解散騒動のときと同様事務所寄りの報道をおこなっているスポニチの単独取材(と言っても電話インタビュー)に応じて、熱愛報道を「全て事実ではありません」と全面否定するに至っては、さすがにちょっと待てよという気持にならざるをえませんでした。今後、どう展開するのかわかりませんが、もしこのまま熱愛が「なきもの」にされて幕が下ろされるのなら、夏目三久ってとんでもない食わせ者と言われても仕方ないでしょう。

しかも、このスポニチの記事は、電話インタビューなのに、なぜか赤い服を着た夏目三久が涙をぬぐっているような写真まで添付されているのです。

それにしても、芸能界というのは怖い世界だなとあらためて思います。村西とおるが言うように、「カタギのお嬢様にはできないお仕事」だということを痛感させられます。案の定、芸能界のドンの逆鱗に触れた有吉が「芸能界追放の危機」なんて記事が出はじめていますが、芸能界のドンにとって、タレントというのは、犬や猫以下の”もの(商品)”だということなのでしょうか。

身近で二人を見てきた(はずの)マツコ・デラックスも、今回に限ってはひと言も発言してないのです。なんだか彼の(彼女の?)の毒舌のメッキも剥がれた気がします。また、日ごろ口さがない”芸能界のご意見番”たちも、みんな口を噤んでいるのです。所詮、怖い怖いヤクザな世界の住人(ドレイ)ということなのでしょう。

今はテレビを見るにしても、昔と違って、これはヤラセではないかとか、単なる話題作りではないかとか、視聴者がテレビのなかまでのぞき込み、シニカルに見るようになっています。今回も「あるものをなきものにする」カラクリが視聴者の前にさらけ出され、すべてが見え見えなのです。にもかかわらず、芸能界のドンにひれ伏し、旧態依然としたオキテに従って、かん口令を敷いた芸能マスコミやテレビ局の姿勢は、あまりにも時代錯誤と言えるでしょう。何度も言いますが、こういった姿勢が芸能界をアンタッチャブルなものにしているのです。
2016.09.03 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
深夜、ふと思いついて、NHKアーカイブスで、2015年1月にEテレで放送された吉本隆明を特集した番組を見ました。

戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか
2014年度「知の巨人たち」

「第5回 自らの言葉で立つ 思想家~吉本隆明~」

番組のなかで遠藤ミチロウも言ってましたが、ときに生きづらさのようなものを覚え、眠れぬ夜をすごしているときなど、吉本隆明の思想はどこか元気にしてくれるところがあります。それが吉本の思想が「肯定の思想」と言われるゆえんなのでしょう。

番組では、つぎのようなことばが紹介されていました。

市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬという生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったく同じである。
『カール・マルクス』より


世界的な作家といわれ、社会的な地位や発言力をもつことよりも、自分が接する家族と文句なしに円満に気持よく生きられたら、そのほうがはるかにいいことなのではないか。そういうふうにぼくは思うのです。
『ひきこもれ』より


指導者の論理と支配者の論理というのは、自分の目先の生活のことばかり考えているやつは一番駄目なやつで、国家社会、公共のことを考えてるのがそれよりいいんだみたいな価値観の序列があるんですよね。ところが僕は違うんです。僕は反対なんです。自分の生活のことを第一義として、それにもう24時間とられて、他のことは全部関心がないんだって、そういう人が価値観の原型だって僕は考えている。


たしかに、私たちは、人間関係や仕事やお金や健康など、日々いろんな思いを抱えて生きているのです。会社の上司や同僚との関係に悩んだり、仕事に行き詰まりを感じたり、身体の不調に不安を覚えたり、通勤電車のなかでマナーの悪い隣の客に不快感を抱いたり、家族や恋人との関係に齟齬を覚えたりしながら生きているのです。もう少しお金があればもっと幸せになれるのにと思うこともあります。そんな日常の些事に纏わるいろんな思いのなかから、自分のことばが生まれるのです。

私のブログもそうですが、ネットに飛び交っているような、自民党がどうとか、民進党がどうとか、韓国がどうとか、中国がどうとかといったことは、それらに比べれば「取るに足らない小さなこと」です。

「個人のほうが国家や公よりも大きいんです」という吉本隆明のことばは、「政治の幅は常に生活の幅より狭い」という埴谷雄高のことばにも共通するものです。吉本隆明は、そんな日常のなかから生まれた「大衆の思想は世界性という基盤を持っているのだ」と言ってました。

文学や歌謡曲も、そこにあるのは個人のことばです。「大衆の思想」にとって、SEALDsなんかよりは宇多田ヒカルのほうが、何百倍も何千倍も価値があるのは間違いないでしょう。

国家や公を第一義とする、たとえば、国家があって私がある、私的利益ばかり追求して公共心が疎かにされている、というような「動員の思想」に抗するには、徹底した個人の論理(私の論理)しかないでしょう。「動員の思想」は、なにも「アベ政治」の専売特許ではないのです。「アベ政治」に反対する左派リベラル(風なもの)も同じです。

「個人のほうが国家や公よりも大きいんです」ということばのあとには、「何が強いって、最後はひとりが一番強いんですよ」ということばがつづいていましたが、もって銘すべしと思いました。


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吉本隆明
2016.09.01 Thu l 社会・メディア l top ▲