森友学園問題は(実質的に)終わった。と言うと、そんな考えこそ幕引きに手を貸すものだ、という批判が返ってくるのが常でしょう。しかし、それこそ「『負ける』という生暖かいお馴染みの場所でまどろむ」「勝てない左派」(ブレイディみかこ)の常套句とも言うべきものです。

桜井よしこ氏は、港区にある神社の敷地に、数億円とも言われる白亜の豪邸を建て、”女神”にふさわしい優雅な生活を送っているそうですが(そうやってネトウヨを煽って巨万の富を得ているのですが)、たしかに右翼業界は、今や我が世の春を謳歌しており、美味しいビジネスと言えるのかも知れません。

かつて左翼業界も美味しいビジネスでした。そのカラクリを理解できなかった私たちは、所謂“進歩的知識人”にいいように煽られ騙されたのです。それは、今のネトウヨと同じです。ネトウヨのことは笑えないのです。

富の偏在を告発し、資本主義社会の不条理を訴える“進歩的知識人”のなかには、桜井よしこ氏のような豪邸に住んだり、海外に別荘を持ったり、ポルシェやベンツに乗ったりしている者がいました。当時、上野千鶴子氏は、愛車のBMWだかポルシェだかで首都高を走るのが趣味だという話を聞いたことがあります。

昔日の勢いはなくなったとは言え、それは、今も同じです。左派リベラル(と言われる)知識人たちのツイッターなどを見ても、みずからの著書の宣伝のためにSNSをやっているような、ドッチラケなものが多いのも事実です。安倍政権を批判するのも、所詮はビジネスなのではないかと思ってしまいます。

森友学園問題も、今やビジネスに堕した感があります。昭恵夫人を告発する行為に対して、あれほど口を極めて罵るのも、問題をできる限り引き延ばし(そのために情報を小出しにして)、ビジネスとして延命させたいという思惑があるからではないのかと思ってしまいます。

国会での民進党の「矛先」は、既に森友学園から加計学園の問題に移っていますが、加計学園も森友と同様、竜頭蛇尾に終わるのは目に見えている気がします。私は、あらためて「民進党が野党第一党である不幸」を痛感せざるをえないのです。

「共謀罪」にしても、安保法制(周辺事態法)にしても、憲法改正にしても、民進党も過去に似たような主張をしています。これが産経新聞やネトウヨがヤユする民進党の「ブーメラン」と言われるもので.す。民進党は、与党案とは似て非なるものだと言ってますが、でも似ているような主張はしているのです。

言うまでもなく旧民主党は、日本に欧米のような二大政党制を定着させ、「政権交代ができる」政党が必要だという小沢一郎らの遠謀によって、「政界再編」の名のもとに、小選挙区比例代表並立制とセットで生まれた政党です。もちろん、「政権交代」とは、”体制転覆”ではなく、二大政党の間で政権をたらい回しするということです。言うなれば、安心して政権をたらい回しすることができる”第二自民党”のような政党が求められたのです。民進党の「ブーメラン」は当然なのです。


上記は、上西小百合議員のツイッターに転載されていた、安保法制に反対する弁護士のツイートですが、このような思考停止したベタな考えこそが、むしろ逆に「安倍政権の暴走を許している」と言えるのかも知れません。ポデモスやシリザやSNPは、(日本流に言えば)「民主はだめだ」「共産は嫌い」という考えから生まれたあたらしい左派政党だということを忘れてはならないでしょう。

加計学園の問題は、安倍政権による子飼いのメディアを使った露骨な疑惑潰しによって、泥沼化の様相を呈していますが、しかし、野党は、蚊帳の外に置かれ、ただケンカの使い走りに使われているようにしか見えません。

「小池新党」をめぐる東京都の問題も然りです。保守の内輪もめは、それだけ保守の”余裕”を示しているとも言えるのです。財産が多いと家族内で財産争いが起こるのと同じで、それを貧すれば鈍する民進党などが取り上げて、外野で騒いでいるだけなのです。

民進党がいくら騒いでも民進党の支持率が上がらない現実。そこに民進党の自己撞着、つまり「ブーメラン」があることを国民がよく知っているからでしょう。

「民主はだめだ」「共産は嫌い」と言っているから一強体制が進んだのではないのです。「民主はだめだ」「共産は嫌い」という現状認識を持てないから左派リベラルは凋落し、一強体制を許したのです。それがポデモスやシリザやSNPと日本の野党共闘&国会前デモの根本的な違いです。
2017.05.24 Wed l 社会・メディア l top ▲
20170521_152619.jpg


知り合いからチケットをもらったので、今日の午後、川崎の等々力陸上競技場でおこなわれた「セイコーゴールデングランプリ陸上2017」を観に行きました。

8月にロンドンでおこなわれる世界陸上の代表選考会も兼ねた、国際陸連公認の大会でしたが、しかし、向かい風が吹いていたということもあって、記録は総じて平凡でした。

大会名を見てもわかるとおり、セイコーが「特別協賛」し、TBSテレビでも中継されたのですが、そのためか、なんだかショーのような要素が強い大会でした。大会を盛り上げ、運営費をねん出するには仕方ない面もあるのもしれませんが、レースを終えた有名選手たちに、メディアの撮影用に、観客席に行って観客たちとハイタッチをするように進行役のスタッフが促すのでした。参加標準を突破できず不本意なレースに終わった福島千里選手も、スタッフから促され、撮影用(?)に設えた観客席に行って、お定まりのハイタッチをしていましたが、なんだかかわいそうな気がしました。

私の隣の席の中年女性は、カメラマニアのようで長尺の望遠レンズが付いたカメラを構えていましたが、隣で長尺のレンズを振り回されると邪魔でなりませんでした。その隣も同じような中年男性で、夫婦かと思ったら全然関係のないカメラマニアのようでした。

また反対側の席や前の席は、真夏日を記録した暑さのなかで、半分抱き合って観戦しているような若いカップルでした。彼らもまた、ケンブリッジ飛鳥やサニブラウンが目当てだったようです。

マニアと言えば、ロイヤルファミリーの婚約者が私が同じ街に住んでいるというニュースが流れた途端、駅前通りなどで、カメラやスマホで通りの様子を撮影している人たちを見かけるようになりましたが、心なしかこの週末は、いつもより人通りが多い気がしました。

婚約者が通った幼稚園がすぐ近所にあるのですが、ニュースのあと、幼稚園の駐車場にはテレビ局の中継車が何台も停まっていて、幼稚園も臨時休園したようでした。

たまたまニュースが流れる前日、散歩の途中に、婚約者が住んでいるマンションの前の道路を歩いたのですが、もちろんそのときはまだいつもの夕暮れの住宅街の光景がありました。しかし、近所の人の話によれば、今は道路も交通規制され、マンションの前には常時制服の警察官が立っているそうです。

朝、SPとともに駅に向かう婚約者の姿がテレビに出ていましたが、これからああいったことが毎日つづくのだろうかと思いました。テレビには、「知名度が上がってうれしい」というような商店街の人たちの「喜びの声」も出ていましたが、たしかに青息吐息の商店街にとって、今回のニュースは(ややオーバーに言えば)「天佑」と言えるのかもしれません。ただ一方で、ミーハー相手の商売に明日はあるのだろうかと思ったりもします。個人的には、そんなことより狭い舗道を広げるほうが先決のような気がします。
2017.05.21 Sun l 日常・その他 l top ▲
夜の谷を行く


桐野夏生の最新作『夜の谷を行く』(文藝春秋社)を読みました。

連合赤軍事件から40年。

主人公の西田啓子は、当時24歳で、「都内の山の手にある私立小学校の教師を一年務めてから、革命左派の活動に入ったという、異色の経歴」のメンバーです。山岳ベースに入った「革命左派の兵士の中では、最も活動歴が浅く、無名の存在」でした。

米軍基地に侵入しダイナマイトを仕掛けた勇気を買われ、永田洋子に可愛がられていました。しかし、山岳ベースでは、「総括」という名のリンチ殺人がエスカレートして凄惨を極め、兵士たちは疲弊していました。そんななかで、彼女は同じ下級兵士であった君塚佐紀子と二人でベースを脱走し、麓のバス停で警察に逮捕されるのでした。

他のメンバーと決別して「分離公判」を選択した彼女は、5年9カ月服役したあと、中央線の駅前のビルで学習塾を経営していましたが、それも5年前に閉じ、63歳になる今は、昭和の面影が残る古いアパートで、貯金と年金でつつましやかに暮らしています。「とにかく目立たないように静かに生きる」と決意して今日まで生きてきたのでした。逮捕によって親類とは疎遠になり、現在、行き来しているのは、実の妹とその娘だけでした。

しかし、2011年2月、そんな日常をうち破るように、永田洋子が獄死したというニュースが流れます。西田啓子は、永田の死に対して、「永田が二月のこの時期に亡くなるとは、死んだ同志が呼んだとしか思えない」と衝撃を受けます。

啓子は、あの年の二月に何があったか、よく覚えていた。四日には、吉野雅邦の子を妊娠していた金子みちよが亡くなった。大雪の日だった。そしてその日に、永田と森が上京したのだ。六日、自分が脱走する。


 あれは、金子みちよが亡くなった夜のことだった。雪が積もって凍り、キラキラと月に光る稜線を眺め上げていると、横に君塚佐紀子が立った。
 保育士だった佐紀子も、活動歴の浅さや地味な性格では、啓子と同程度だった。二人とも、ベースでは、森や永田、坂口ら指導部の連中など遠くて見えないような末席に座らせられていた。個室に炬燵、暖かな布団で寝られるのは指導部だけで、下級兵士は、板敷きに寝袋で雑魚寝である。
「凍えるね」
 啓子が呟くと、佐紀子が「うん」と頷いて啓子の方を見遣った。目が合った。目には何の色もなく、互いに互いの虚ろを確認しただけだった。
 その日、永田と森が資金調達に山を下りたのを契機に、二人とも何も言わずに荷物を纏めた。


永田洋子の死と前後して、昔のメンバーから電話がかかってきます。そして、かつて同志として結婚していた元夫とも再会することになります。元夫は、出所後、社会の底辺で生きて、今はアパートを追い出されホームレス寸前の生活をしていました。新宿で待ち合わせ、中村屋でカレーライスを食べているとき、突然、激しい揺れに襲われます。東日本大震災が発生したのでした。そして、啓子の生活も封印していた過去によって、激しく揺さぶられることになるのでした。

小説だから仕方ないでしょうが、連合赤軍事件については、薄っぺらな捉え方しかなく、興ざめする部分はあります。もっとも、当時のメンバーたちにしても、あるいはその周辺にいた人間たちにしても、事件について、真実をあきらかにし、ホントに総括しているとは言い難いのです。現実も小説と同じなのです。

啓子が、君塚佐紀子と再会したとき、つぎのように呟くシーンがあります。君塚佐紀子は、出所後、親兄弟と縁を切り、名前も変えて、今は神奈川県の三浦半島の農家に嫁いでいるのでした。

「(略)永田も坂口もみんな、死んだ森のせいにしている。でも、あたしたちだって、永田と森のせいにしているじゃない」


クアラルンプール事件での釈放要求を断り、みずから死刑囚としての道を選んだ坂口弘は、もっとも誠実に事件と向き合っているイメージがありますが、しかし、彼の著書を読むと、やはり「死んだ森のせいにしている」ような気がしてなりません。あさま山荘の銃撃戦には、リンチ殺人に対する贖罪意識があった、彼らなりの「総括」だったという見方がありますが、ホントにそうだったのか。

もとより私たちが知りたいのは、つぎのような場面における個的な感情です。そこにあるむごたらしいほどの哀切な思いです。そこからしか連赤事件を総括することはできないのではないか。私が、この小説でいちばんリアリティを覚えたのも、この場面でした。

「西田さん」
もう一度、金子がはっきりと呼んだ。
啓子は外の様子を窺ってから、金子の横に行って、顔を覗き込んだ。
「どうしたの」
金子は腫れ上がった目を開けて、じっと啓子を見上げた。「反抗的な目をしている。反省していない」と森や永田を怒らせた眼差しだった。
「こんな目に遭っても赤ん坊が動いているのよ。凄いね」
金子は小さな声で呟くように言った。笑ったようだったが、顔が腫れていて、表情はよくわからなかった。
啓子は胸がいっぱいになり、励まそうとした。
「頑張らなきゃ駄目よ」
少し経ってから、金子が聞いた。
「頑張ってどうするの?」
「赤ちゃん、産むんでしょう」
金子が微かな溜息を吐く。
「そんな体力は残ってないかもしれない」
「でも、頑張りなさいよ」
「ねえ、頼みがあるんだけど」
金子が低い声で囁いた。
「何?」
多分、金子の頼みを叶えることはできないだろう、と啓子は思いながら、聞き返した。
「子供だけでも助けて。西田さんも妊娠しているからわかるでしょう。この子を助けて、革命戦士にして」
「わかった」
啓子はそう言って、素早く金子のもとを離れた。テントの外に足音がしたからだ。


もちろん、『夜の谷を行く』はエンターテインメント小説ですので、最後に”どんでん返し”のサービスが待っているのですが、その“どんでん返し“もこの場面と対比すると、蛇足のように思えました。


関連記事:
人名キーワード・桐野夏生
2017.05.16 Tue l 本・文芸 l top ▲
今日、たまたまネットで、つぎのようなツイッターの書き込みを見つけました。


悪いけど、こういうリベラル左派に未来はあるのだろうかと思いました。「アベ政治を許さない」というボードを掲げる彼らが、実は安倍政治を許しているのだというパラドックスさえ考えてしまいます。

彼らは、かつて朝日新聞の「家庭内野党」報道を真に受けて、原発再稼働をしないように安倍首相を説得してください、昭恵夫人お願いします、と言っていたのです。今日の政治状況(一強体制)の下地を作ったと言っていい、小沢一郎や小泉純一郎に対する大甘な姿勢も同じです。

一方で、運動周辺に対しては、スターリニズムまがいの「排除の論理」が行使されるのです。そういった党派政治=”悪しき左翼性”だけは頑迷に固守しているのです。

野党共闘という”崇高な”理念のために、「普通の市民」ではない極左や極右はいらない、ビラ配りも署名集めも許さないというわけなのでしょう。もしその現場を見つけたら、原発や安保法制のデモのときと同じように、暴力的に排除するつもりなのでしょう。これが、高橋源一郎たちが自画自賛する「ぼくらの民主主義」なるものです。

彼らが墨守するリベラル左派の理念は、とっくに終わったそれでしかありません。それは、彼らが随伴する民進党や共産党を見れば一目瞭然でしょう。彼らは、トランプやマリーヌ・ル・ペンの台頭に、既成政党に対する人々の失望があるという、最低限の現状認識さえ持てないのでしょう。

むしろ、問題はその先にあるのです。前述した『「革命」再考』のなかで、的場昭弘氏は、つぎのように書いていました。

 資本主義はマルクスが予想したとおり、国境なき資本主義へと変貌していきます。ただし、マルクスも述べていることなのですが、資本は儲けるときはコスモポリタンで博愛的なのですが、儲からなくなると、途端に国家にすがり国家主義的になります。


自由貿易と保護主義、グローバリズムとナショナリズム、左翼的なものと右翼的なもの、もしかしたらそれらは表裏一体のものかもしれないのです。

大事なのは、右か左かではなく、上か下かなのです。上か下かに、右も左もないのです。

マリーヌ・ル・ペンが言うinvisibles=「見えざるものたち」も、リベラル左派の彼らには文字通り「見えざる」存在なのかもしれません。

 革命という言葉が意味するのは、現に見えているものを変革するということではなく、見えないものをくみ取り、それを変えていくということです。およそこれまでの革命、そして革命家の思想というものは、まさにそうした目に見えないものをいかに理解し、変えるかであったといってもいいものでした。変化が簡単にわかるものは、実は革命でもなんでもなく、たんに現状の追認にすぎなかった場合が多かったわけです。
(『「革命」再考』



関連記事:
昭恵夫人の「猿芝居」
2017.05.09 Tue l 社会・メディア l top ▲
ゴールデンウィークの合間、病院に行きました。今回は、いつもの医院ではなく、総合病院です。待合室は、多くの外来患者で埋まっていました。そのほとんどが中高年の患者たちです。

長椅子に座っていると、診察を終えた患者のもとに、「(外来)クラーク」と呼ばれる制服姿の女性がやってきて、次回の診察日の説明や処方された薬の説明などをしていましたが、聞くとはなしに聞いていると、意外にも入院の説明をしているケースが多いのでした。

本を読みながら順番を待っていた私は、徐々に暗い気持になっていました。そうやって入退院をくり返しながら、人生の終わりに近づいていくんだろうなと思いました。その宣告を受けているような気さえするのでした。

中には息子や娘が付き添ってやってくる高齢者の姿もありましたが、そんな人たちはホントにめぐまれているなと思いました。ひとりでやってきて、入院の診断を受けるなんて、なんと心細くてさみしいものだろうと思います。かく言う私も、そのひとりです。

ひとりで引っ越しするのも大変ですが、病気したときもひとりは大変です。入院を告げられたあと家に帰る道すがら。あるいは着替えなどをボストンバッグに詰めて入院の準備をする前夜。すべてを自分ひとりで受け止めなければならないあの孤独感。心が萎えるのを必死で耐えている自分がいます。

診察の際、特段症状に変化もなく、先生からも「順調ですね」と言われたので、私は安心していたのですが、再び待合室の椅子にすわって待っていると、赤い制服を着た「クラーク」の女性がやってきて、ファイルに入った説明書を目の前に差し出したのでした。私は、一瞬「エエッ」と思いました。

しかし、それは次回の検査についての説明書でした。私は、いつになくホッとした気分になりました。

そして、なんだか救われたような気持のなかで、診察代を精算して帰宅したら、夕方、病院の薬剤室から電話があり、処方された薬を受け取るのを忘れていたことを知ったのでした。


関連記事:
ある女性の死
2017.05.03 Wed l 健康・ダイエット l top ▲
先日、朝日新聞デジタルのインタービュー記事で、米山隆一新潟県知事がつぎのように言ってました。

 保守的な空気が非常に先鋭化しているのは、仕方ない部分はある。ただ、なぜそうなったかを考えると、リベラル系の人たちがちゃんと意見を言わないからだと思う。リベラルの人は優等生になろうとする。何かを発言して、ブーメランで批判が返ってくるとシュンとする。保守系の人はバシバシ言うから、結局そちらが発言権を持ってしまう。

朝日新聞デジタル
つぶやく知事に聞いた「保守的な空気、リベラルのせい」


私は、この発言は、米山知事の意図とは別に、今のリベラル左派の痛い点を衝いているように思いました。そして、これが日本の左派とヨーロッパで台頭している急進左派との根本的な違いでもあるように思います。

何度も同じことを言いますが、ギリシャのシリザも、スペインのポデモスも、イギリスのスコットランド国民党(SNP)も、貧困や独立をテーマにした広場占拠や街頭闘争の直接行動から生まれたあたらしい政党です。有閑マダムのホームパーティのように、仲間内でおしゃべりに興じるだけの日本のリベラル左派とは似て非なるものです。上か下かの視点を失くしたリベラル左派に対して、「左翼はめぐまれた既得権者だ。おれたちがやっているのは階級闘争だ」と在特会など極右の団体が嘯くのも、故なきことではないのです。

マルクス研究者の的場昭弘氏は、『「革命」再考』(角川新書)で、現在、先進国を席捲している「国家再帰現象」は、「民衆の自由意志による反発であると捉えることも」できると書いていました。「ポピュリズム」「大衆デマゴギー」などと批判される「国家再帰現象」ですが、見方を変えれば、民衆のなかに「既成の政党政治に飽きたらない」現象が起きていることを意味しているのではないかと言うのです。そして、そんな「民衆の声を吸収できているのは皮肉にも極右と極左だ」と言います。フランス大統領選挙でも、共和党や社会党の候補が大敗し、極右のマリーヌ・ル・ペンと極左・左翼党のジャン・リュック・メランションが人気を集めたのは周知のとおりです。

的場氏は、マリーヌ・ル・ペンについて、つぎのように書いていました。

 フランス極右の候補者マリーヌ・ル・ペンは、支持層拡大のために「見えざるものたち」(invisibles)という言葉を、二〇一二年の大統領選挙で使っていました。見えざるものたちとは、存在しているが人々が見逃している人々ということです。具体的にいえば、移民労働者や郊外に住む貧困層のことです。二〇〇七年の大統領選挙ではプレカリテ(prècaritè)、不安という言葉が議論になりました。
 極右の候補がこれを取り上げたことは、現代社会の抱える問題が、もはやたんなる人権の問題ではないことを意味しています。生きる権利、働く権利という基本的な権利が守られていないことへの怒り、それは現在の資本主義システムそのものへの疑問となって表れています。これまでのような機会の平等、自由な競争などと能天気なことをいっていられない時代になったともいえます。
(『「革命」再考』)


「見えざるものたち」の生きる権利、働く権利を奪還する。このようなことはかつては左の「革命派」が言っていたことです。極右と言えば、どうしても排外主義ばかりに目が行きがちですが、今やこういった「上か下か」も極右のスローガンになっているのです。

(何度も僭越ですが)私も、トランプ当選の際、ブログにつぎのように書きました。

トランプ当選には、イギリスのEU離脱と同じように、そんな「上か下か」の背景があることも忘れてはならないでしょう。「革命」の条件が、ナチス台頭のときと同じように、ファシストに簒奪されてしまったのです。社会主義者のバーニー・サンダースが予備選で健闘したのは、その「せめぎあい」を示していると言えるでしょう。
誰もが驚いたトランプ当選


日本のリベラル左派は、そういった「せめぎあい」さえ回避しているのです。

ブレイディみかこ氏は、連載している晶文社のサイトで、イギリス労働党の低迷に関して、シリザ政権で財務相を務めたヤニス・ヴァルファキスのつぎのようなことばを紹介していました。

 過去30年間、我々はプログレッシヴな価値観の寸断を許してきた。LGBTの運動、フェミニストの運動、市民権運動という風に。フェミニストがもっと多くの女性を役員室に入れることは、その一方で移民の女性が最低賃金以下の賃金で家事を引き受けて働いているということを意味する。フェミニズムとヒューマニズムの関係性が失われてしまったのだ。ゲイ・ムーヴメントが、偏見や警察との闘いに代わって、「Shop Till You Drop(ぶっ倒れるまで買いまくれ)」のようなスローガンをマントラにして消費主義を受け入れた時、それはリベラル・エリートの一部になり過ぎてしまった。プログレッシヴなムーヴメントに残された解決法は、インターナショナルであるだけでなく、ヒューマニストにもなることだ。それは難しいことだ。が、リベラルなエスタブリッシュメントとトランプの両方に反対するにはそれが必要だ。彼らは敵対しているふりをしているが、実際には共犯者であり、互いを利用している。
newstatesman.com

晶文社 スクラップブック
UK地べた外電
第3回 ブレグジットの前に進め:コービン進退問題とヴァルファキス人気


日本のリベラル左派は、既得権を守ることに汲々とし、「55年体制」のノスタルジーに耽るだけの「エスタブリッシュメント」でしかないのです。だから一方で、(リベラルなんて言いながら)あのようなスターリニズムと紙一重の「排除の論理」が幅をきかせているのでしょう。今、求められているのは、「リベラルなエスタブリッシュメントとトランプの両方に反対する」、謂わば「左派ポピュリズム」のような視点と見識なのです。
2017.05.02 Tue l 社会・メディア l top ▲