在日朝鮮人のことを口にするのが、なんだか憚られる空気があります。それは、ありもしない“在日特権”なるものを妄信するネトウヨが街頭にまで進出し、耳を塞ぎたくなるような差別的暴言を垂れ流した反動と言えるのかもしれません。萎縮する(させる)ということと差別を解消するということは、まったく別問題でしょう。むしろ悪質な差別を地下に潜らせる結果にもなりかねないように思います。
ここで言う「在日朝鮮人のこと」というのは、在日の歴史的な経緯や政治的な側面のことではありません。身近にいる在日との付き合い方のことです。「身近にいる在日」というのは、エリートやインテリや、あるいは政治的思想を共有する人たちのことではありません。たとえば、『あんぽん』で描かれていた孫正義の身内のような、私たちと生活圏を共有し社会の基層を形成している、(私たちと同じように)矛盾だらけの人生を生きるごく普通の人たちのことです。
このブログでも書いていますが、私自身、若い頃、在日の女性と8年近く付き合った経験があります。もちろん、二人にとって、在日が置かれた歴史的な経緯や政治的な側面など、まったく関係のないことでした。とは言え、そういった側面が二人の意図とは別に、ときに顔を覗かせることがあったのも事実です。
朝鮮総連に勤める叔父さんから襟首を掴まれ、「お前のような日本人には××(彼女の名前)はやらんからな」と言われたとき(それも招待された親戚の結婚式の席で)、差別というのは、差別する側だけでなく差別されるほうにも深刻な問題をもたらすものだなと思いました。だからと言って、日本人は「朝鮮の人たち」にひどいことをしてきたのだから、「朝鮮の人たち」が言うことは謙虚に受け止め、まず謝ることが大事だ、そして、相手の立場になって話せば許してもらえるはずだ、なんて考えはまったくありませんでした。ただ「なんと礼儀知らずのバカなんだろう」と思っただけです。
「政治の幅は生活の幅より狭い」(埴谷雄高)のです。私はたまたま在日朝鮮人の家庭に生まれた女の子と出会い恋に落ちただけです。歴史や政治と恋をしたわけではないのです。
もちろん、日本人と朝鮮人との違いを感じることは多々ありました。私は、彼女と付き合っている間、ずっとその違いについて考えてきたつもりでした。
前も書きましたが、私はよく彼女に「朝鮮人は勝ったか負けたか、損か得かでしか判断しない」と言ってました。一方、彼女は、「日本人はずるい、表と裏があるのでなにを考えているかわからない」と言ってました。
最近、私は、仕事の関係で在日朝鮮人とトラブルを経験しました。それは、仕事そのものより、人間関係におけるトラブルと言っていいでしょう。そこにも、日本人と朝鮮人との違いがよく出ているように思います。
一緒に仕事をはじめた当初、相手はやたら私にケンカを吹っかけてきました。何かにつけケンカ腰で、すぐ怒鳴りはじめるのです。それで、私も怒鳴り返したりしていましたが、そこには日本人と朝鮮人の他人に対する考え方の違いが出ているように思いました。
朝鮮人にとって、他人は「勝ったか負けたか」の競争相手、ライバルなのです。他人との関係において、まず優位に立つことが大事なのです。それは、霊長類かおこなうマウンティングを想像すればわかりやすいかもしれません。
朝鮮人に協調という観念はあまりありません。日本人の場合、小学校の通知表にも「協調性」の項目があるように、まず協調することが大事とされます。そのためには、本音と建て前を使い分け、みずからを殺して気を使い、空気を読まなければならないのです。それはそれで、とても疲れることです。でも、朝鮮人にはそういった屈折した感情はありません。
そのため、朝鮮人同士だと、我の強い人間がお互い(直情的に)自己主張するわけですから、当然ケンカになります。知り合いの韓国人に聞くと、ソウルなどでは夜になるとあちこちでケンカをしているそうですが、朝鮮人がよくケンカをするというのは故なきことではないのです。
相手がケンカを吹っかけてきても、それにひるんでいると益々かさにかかってきます。ひるむと負けになり、優劣が決せられるのです。負けるが勝ちなんて考えはないのです。朝鮮人が体面を重んじるというのも同じです。「ソウル(東京)を火の海にする」「いつでも核戦争の用意はある」などという北朝鮮の大言壮語も同じでしょう。
「勝ったか負けたか、損か得か」で価値判断をする朝鮮人にとって、大事なのは結果です。結果がすべてで、途中の論理的な整合性や倫理的な妥当性などは二の次です。「嘘を付いてでも言い張る」というのはちょっと言いすぎかもしれませんが、とんでもない屁理屈で自己を正当化するのにびっくりすることがあります。朝鮮人が総じて口達者で雄弁なのも、そういった背景が関係しているように思います。
対馬の寺で仏像三体が盗まれた事件で、窃盗団は韓国で逮捕され有罪判決が出ました。しかし、盗まれた仏像は(行方不明の一体を除いて)一体は返却されたものの、もう一体が未だ返ってきていません。韓国の寺が、盗まれた仏像はもともと韓国に所有権があり、日本が不当に略奪したものであるから返還する必要がないと訴え、裁判所もその訴えを正当と認める判決を出したからです。もっとも、その根拠は、神功皇后や豊臣秀吉の時代の話です。
仮に略奪されたものだとしても、被害にあった対馬の寺は法律で言う「善意の第三者」です。不法な手段によって盗まれたものが現状回復されるのは、法律のイロハだと思いますが、韓国の裁判所には近代法の常識さえ通用しないかのようです。そこにも、論理的な整合性や倫理的な妥当性を問わない韓国人特有の屁理屈が表れているように思います。
朝鮮人は、「日本人と付き合うのはめんどうくさい」と言います。なかでも彼らがよく口にするのは、日本人の「お礼の習慣」についてです。協調や協力という観念に乏しい彼らにとって、たとえばものを貰ったり借りたりしたらお礼をしてお返しをするような習慣は、たしかにめんどうくさいものでしょう。
朝鮮人は、みずから進んで仕事をするという意識がやや欠けるところがあります。それを指摘すると、逆に、(仕事をしろと)言わないのが悪いのだという屁理屈が返ってきて唖然としたことがありました。
朝鮮人は、日本人のように細かくなく、おおざっぱなのです。それは、個人だけでなく、社会的な慣習や制度においても同様です。文化の違いは、私たちが想像する以上に大きいのです。それを認識し指摘することは、ときに言い方に粗雑な部分があっても、決してヘイト・スピーチとは言えないでしょう。
通販でものを買うのに、電話口で通販会社の担当者を怒鳴り付けているのを聞いたとき(買った商品についてのクレームではなく、今から注文するのにその説明が悪いと難癖を付けているのです)、「日本人をなめているのか」と言ってケンカになったことがありますが、そんな民族性に還元するようなもの言いも、ヘイト・スピーチになるのだろうかと思いました。一方で、そうやって怒鳴り合いをするくらいでなければ、相互理解の道は拓けてこないのでないか、と思ったりもするのです。
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