先月発売された丹野未雪の『あたらしい無職』(タバブックス)という本を読みたいと思い、新横浜の三省堂や新宿の紀伊国屋や池袋の三省堂やジュンク堂などをまわったのですが、小出版社の本だからなのか、どこにも在庫がありませんでした。

同書には電子書籍もありますが、私は、新刊本はできるなら紙の本で読みたいと思っている古いタイプの人間なので、今度はネットで購入しようと、通販サイトをチェックしました。

仕事の関係で、Tポイントが結構貯まるため、まずTポイントが使えるヤフーショッピングで検索してみました。しかし、ヤフーショッピングに出店している店も、いづれも在庫はなく、取り寄せるのに1週間から10日かかると表示されました。

つぎに、ジュンク堂と丸善と文教堂が共同で立ち上げたhontoという通販サイトにアクセスしてみました。在庫はあったのですが、お急ぎ便は送料が260円か350円かかります。

結局、プライム会員になっているアマゾンで注文しました。プライム会員だと送料無料の上、当日便で届きます。しかも、アマゾンでは、同書が「残り11点」となっていました。

最初からアマゾンにすればよかったと思いました。アマゾンは、当日便など宅配業者への負担が問題となっていますが、しかし、ユーザ-の立場からすると、掛け値なしに便利なのです。文字通り、アマゾン最強なのです。

当日便や時間指定の問題では、ユーザーも便利さだけを求めるのではなく、その裏にある労働問題などへも目を向けるべきだという声がありますが、しかし、それは資本主義社会において、ないものねだりの意見のように思えてなりません。

クロネコヤマトや佐川急便が”強気な”背景には、彼らが業界で圧倒的なシェアを占めているからにほかなりません。通販では如何にも赤字だみたいな話がありますが、しかし、巨額な利益を得ている独占企業であることには代わりがないのです。労働問題にしても、サービス残業で摘発されたことからもわかるように、アマゾン云々よりクロネコヤマトのブラックな体質こそが問題なのです。アマゾンのせいにするのは本末転倒です。人手不足なら、人材が集まるように労働条件を改善すればいいだけの話です。彼らは、莫大な内部留保をもたらす利潤率をそのままにして、人手不足を嘆いているにすぎないのです。

ここにも資本のウソ、ご都合主義が表れているように思えてなりません。的場昭弘氏が『「革命」再考』で書いていた、「資本は儲けるときはコスモポリタンで博愛的」だけど、「儲からなくなると、途端に国家にすがり国家主義的」になるのと同じです。

以前から言われていたことですが、アマゾンや楽天は、いづれ自前の宅配ネットワークをもつようになるでしょう。その動きは今後益々加速されるでしょう。そして、やがてアマゾンや楽天が、ヤマトや佐川のライバルになるのだろうと思います。

資本主義社会において、競争は当然で、それは決して悪いことではないのです。ヤマトや佐川の“殿様商売”のほうが不健全なのです。

そもそも翌日配達や時間指定など、今のような個人向けのサービスをはじめたのは、ほかならぬクロネコヤマトなのです。ところが、今度はそのサービスを値上げの口実にしているのです。ヤマトのやり方は、無料で顧客を囲い、シェアを占めると一転有料化して利益を回収する、ヤフーなどネット企業の手口とよく似ています。

若い頃に読んだ『都市の論理』という本で、著者の羽仁五郎が、公社・公団などは資本主義に社会主義的な要素を持ち込もうとする発想で、資本主義の良いところと社会主義の良いところを合体させようと思っているのかもしれないけど、それは両方の悪い面が出るだけだ、と書いていたのを思い出します。資本主義社会において、競争原理を否定するような論理こそ反動だということを、ゆめゆめ忘れてはならないでしょう。


2017.08.19 Sat l ネット l top ▲
ネットに出ていた上原多香子が不倫相手と交わしたLINEの文章を読んでいたら、ふと柳原白蓮のことを思い出しました。

私は、高校生のとき、持病があり、月に一度かかりつけの病院に通っていたのですが、その際、赤銅御殿の前を通って病院に行ってました。隣にキリスト教系の女子高があり、下校時にそこの生徒たちと遭遇すると、遠慮のない視線を浴びせられ、思春期の真っ只中にあった私は、いつの間にか耳たぶが熱くなっているのがわかるのでした。赤銅御殿は、既に人手に渡り旅館になっていましたが、高い石塀と庭木に囲われた目を見張るような豪邸は、昔のままの姿で残っていました。

成り上がり者の炭鉱王・伊藤伝右衛門は、大正天皇の従妹にあたる25歳下の白蓮のために、贅を尽くした別邸を大分県別府市の海が見渡せる高台に作ったのです。歌人でもあった白蓮は、赤銅御殿に多くの文人や歌人を招き、サロンのように使っていました。白蓮は、赤銅御殿で、脚本の上演許可をもらいに来た7歳年下の東京帝国大生・宮崎龍介(孫文を支援した右翼の巨頭・宮崎滔天の長男)と知り合い、やがて手に手を取り合って出奔するのでした。姦通罪が存在していた時代の、文字通りの”不倫の恋”です。東大の新人会(戦前の学生運動の団体)に属し、進歩的な思想をもっていた宮崎龍介は、男と女が「肉の欲」に負けるのは別に悪いことではないと白蓮に言います。貞淑な上流婦人であった白蓮は、「肉の欲」というあけすけなことばに衝撃を受け、宮崎龍介に惹かれていくのでした。

上原多香子も、不倫相手にLINEでこう書き送っています。

NEWSポストセブン
上原多香子 不倫LINEで「止められなくなる」「そばにいて」

上原《私、結婚ってとっても大きなことで人生の分岐点だったこともあるー だから、離婚するとか浮気は、もうあり得ないって思ってたのね でもさー、トントンに伝えられなかった好きと、やっぱり大好きと、私の一方的やけど肌を合わせて感じるフィット感が今までとはまったく違うの。》


上原《私はそんなに器用じゃなくて、、旦那さんとの生活を続けながら、トントンを想い続けること、トントンに想いがすべて行ってる中、騙し騙し旦那さんと居ることが、やっぱり出来ないです。(中略)今すぐにでも、すべて捨ててトントンの元へ行きたいです。だけど、私ももう大人、、いろんな問題があるし、私だけの想いでトントンに迷惑はかけられません。今すぐは難しいかもしれないけど、私も少し大人になって、ちょっとずつ、旦那さんと別の道を歩めるようにします。こんな気持ちでは絶対に旦那さんに戻れない。》


なんと、ぞくぞくするような愛の告白でしょうか。不謹慎を承知で言えば、これこそが”不倫の恋”の醍醐味とも言えるのです。上原多香子が「不倫」相手に送った「2人の子供作ろうね」ということばが、元夫が自殺する決定的な要因になったのではないかと言われていますが、でも、人間というのは自分でもままならないもので、道ならぬ恋だからこそ、よけい燃え上がるというのはあるでしょう。

元夫の自殺に対する責任を問う人もいますが、それは他人がとやかく言う問題ではないでしょう。自殺しているのを発見した際、彼女はひどく取り乱して、警察の取り調べにも応じられなかったと言われています。また、自殺によって不倫相手とも別れているのです。

柳原白蓮は、世間から「淫乱女」だと指弾され、石を投げつけられたのですが、上原多香子に対する世間の反応も同じです。姦通罪はなくなっても、不倫ということばは生きつづけているのです。でも、不倫なんて誰でもあり得ることです。恋に「良いか悪いか」なんてないのです。

”不倫の恋”に身を焦がしたのは、上原多香子や柳原白蓮だけではありません。栗原康氏が『村に火をつけ、白痴になれ』で書いていますが、伊藤野枝も「不倫上等」のような人生を送っていました。『美は乱調にあり』で伊藤野枝の伝記を書いた瀬戸内寂聴自身も、大学教員だった夫の教え子と不倫をしています。さらにそのあと井上光晴との不倫もよく知られています。みんな、上からのお仕着せのイデオロギー(道徳)ではない、自前の論理や感性で生きた人たちなのです。

上原多香子のことを「芸能界から追放必至」などと書いていたスポーツ紙がありましたが、芸能界というのは、本来、公序良俗の市民社会の埒外に存在するものです。名女優と呼ばれている人たちも、”不倫の恋”に身を焦がして女優として羽ばたいた人が多いのです。女優にとって奔放であることは決してマイナスではないはずです。

むしろ、今になって(元夫が盗み見た)LINEのやり取りや遺書を公表したり、4千万円だかの金銭を要求したと言われる元夫の家族こそ、眉に唾して見るべきでしょう。


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2017.08.12 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
今朝、テレビを観ていたら、今日は群馬県御巣鷹山に日航機が墜落した事故から32年になるというニュースをやっていました。今年は節目の三十三回忌にあたるそうです。

もうあれから32年が経ったのかと思いました。当時、私は、九州で地元の会社に勤めていました。実家とは別にアパートを借りてひとり暮らしをしてましたが、盆休みにもかかわらず、実家には帰らずに、行きつけの喫茶店のママの家で花札をしていたのでした。ママとその妹、それに、喫茶店の常連客が来ていました。みんな、独身でした。

咥え煙草に立て膝、ではなかったけど、座布団の上に札を叩きつけ、それこそ「猪鹿蝶だ」「青短だ」「松桐坊主だ」とやりあっていました。そんなとき、テレビから日航機が墜落したというニュースが流れたのです。

私たちは、しばし花札の手を休め、テレビの画面に釘付けになりました。画面には乗客の名前が映し出されていました。氏名のほかに、年齢や住所も書かれていました。それを観ていた私たちは、徐々に口数も少なくなっていました。

32年経った現在、喫茶店のママは、ある日突然店を閉め、誰にも告げずに引越して、今はどこか他県の老人施設に入っているそうです。ママの妹は、持病の心臓病が再発して30代の若さで亡くなったそうです。

喫茶店の常連たちも、そろそろ定年を迎える年齢です。なかには、その後、お見合いをして九州から栃木県だかに嫁いだ女の子もいます。もう孫がいてもおかしくない年齢になっているはずです。

当時、私がつき合っていた女の子も、結婚して大阪に行ってしまいました。彼女とは、一度だけ、実家に里帰りしていたときに会ったことがあります。実家の近くのスーパーの駐車場で待っていると、彼女は、ピンクの着ぐるみに包まれた赤ちゃんを抱いてやってきました。そして、悪戯っぽく笑いながら「どう、びっくりしたでしょ?」と言ってました。すっかりお母さんの顔になっていて、なんだか自分が置いてきぼりを食らったような気持になりました。

その数年後、私は、会社を辞め再び上京したのでした。考えてみれば、毎日のように喫茶店に通い、みんなと遊んだのも、わずか2~3年のことだったのです。今となっては名前すら思い出せない者もいます。

昨年、帰省して、当時の会社の同僚だった人間に会った際、私が会社を辞めたときの話になりました。会社では私が辞めた理由が理解できなかったらしく、「サラリーマンに向いてないなって、あとでみんなで話したんだよ」と言ってました。

あの頃の私は、田舎の生活に行き詰まりのようなものを感じていました。このまま田舎で一生を送ることが耐えられず、「ここではないどこか」を求める気持を抑えることができなかったのです。私はものごとを引き摺る性格なので、そうやって引き摺っているものを一端空っぽにしたかったのかもしれません。

あの夏の日に抱いていた、悲しいような切ないような、そして、ちょっと苦い気分。それは、今でも忘れずに残っているのでした。


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2017.08.12 Sat l 故郷 l top ▲