遠藤賢司が亡くなったというニュースもあって、久しぶりにYouTubeで高田渡の「夕暮れ」を聴きました。

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夕暮れ / 高田渡

年を取ると、「夕暮れ」の歌詞がよけい心に染み入ります。

「夕暮れ」は、黒田三郎の詩に高田渡がメロディを付けたものです(ただ、何ケ所か原詩に手が加えられており、原詩より諦念のイメージが強くなっています)。

原詩はつぎのようなものです。

「夕暮れ」 黒田三郎

夕暮れの街で
僕は見る
自分の場所からはみ出てしまった
多くのひとびとを

夕暮れのビヤホールで
彼はひとり
一杯のジョッキをまえに
斜めに座る

彼の目が
この世の誰とも交わらない
彼は自分の場所をえらぶ
そうやってたかだか三十分か一時間

夕暮れのパチンコ屋で
彼はひとり
流行歌と騒音の中で
半身になって立つ

彼の目が
鉄のタマだけ見ておればよい
ひとつの場所を彼はえらぶ
そうやってたかだか三十分か一時間

人生の夕暮れが
その日の夕暮れと
かさなる
ほんのひととき

自分の場所からはみ出てしまった
ひとびとが
そこでようやく
彼の場所を見つけ出す


「その目がこの世の誰とも交わらない」(歌詞)「自分の場所」。孤立無援の思想ではないですが、そういう場所を選んで生きてきた人も多いでしょう。

親も亡くなり帰る場所もなくなった今、仕事帰りの人々が行き交う夕暮れの街をひとりで歩いていると、「遠くに来たもんだな」としみじみと思うことがあります。そのとき自分のなかに溢れてくるのは、慰安と諦念がない交った気持です。

私は、田舎に墓参りに帰るたびに、もうこれを最後にしようと思うのですが、戻って日が経つとまた帰りたいと思うのでした。田舎に帰っても、誰にも会わずに戻って来ようといつも思うのですが、ついつい昔の知り合いを訪ねて行く自分がいます。そして、あとで自己嫌悪に陥るのでした。

駅前の路地の奥にある定食屋で、背を丸め安飯をかきこんでいる老いた自分の姿を想像すると、さすがに気が滅入ってきますが、でも、誰も知らない土地で、孤独に生き、孤独に死ぬ、というのが理想だったはずです。

容赦なく老いはやってきます。どうやって老いるのか。「その目がこの世の誰とも交わらない」「自分の場所」で、どうやって黄昏を迎えるかです。
2017.10.25 Wed l 本・文芸 l top ▲
あの北原みのり氏のツイッターに、つぎのようなツイートがありました。


今更の感がありますが、お粗末、あるいはトンチンカンとしか言いようがありません。

北原氏のなかには、前原氏の主張を「社会主義的政策」「『左』に振り切った政策」だと解釈するような薄っぺらな社会主義像しかなかったのでしょう。そして、彼女は、今度は立憲民主党の主張に、その薄っぺらな社会主義像を映しているのでした。

総選挙では自民党の圧勝が予想されていますが、モリ・カケ問題で苦境に陥っていた「アベ政治」にとって、「北朝鮮の脅威」は文字通り“神風”になったと言えるでしょう。換言すれば、安倍首相は、「北朝鮮の脅威」が“神風”になり得ると踏んだからこそ伝家の宝刀を抜いたとも言えるのです。

自民党から幸福実現党まで「北朝鮮の脅威」を喧伝するあらたな翼賛体制のなかで、リベラル左派は為す術もなく守勢に回らざるを得ない状況にあります。北原みのり氏のお粗末さが示しているように、リベラル左派は存在感さえ示すことができず、せいぜいが立憲民主党の「健闘」を慰めにするしかないのが現状です。

そこにあるのは、60年代後半の「反乱の時代」に否定された“古い政治”の風景です。北原みのり氏のようなリベラル左派は、とっくに終わったはずの“古い政治”に依拠しているにすぎないのです。

政党助成金とセットになった小選挙区比例代表並立制は、民主主義を偽装しながら(二大)保守政党が永遠に政権をたらい回しする(そうやって議会制民主主義を骨抜きにする)制度ですが、リベラル左派はその目論みに踊らされ、前原じゃなければ枝野、希望の党じゃなければ立憲民主党と、二者択一的に「よりましな党」を選んでいるだけです。

60年代後半の「反乱の時代」を支えたのは、日本共産党をスターリニズム=左翼全体主義、ソ連を社会帝国主義=社会主義の名を借りた帝国主義と断罪する「より左の思想」でした。「より左の思想」は、それまで左翼政党ではタブーとされていたトロッキーやローザ・ルクセンブルクやバクーニンなどの思想を援用して、堕落した既成左翼を批判したのでした。

ヨーロッパの若者たちを熱狂させているポデモスやシリザやSNP(スコットランド国民党)などの運動には、あきらかに60年代後半の「反乱の時代」の遺産が継承されています。それが彼らが「新左派」「急進左派」と呼ばれる所以です。

しかし、日本では、その遺産が継承されているとは言えません。それどころか、「反乱の時代」を担った”新左翼の思想”は、連合赤軍事件や内ゲバを生んだ忌々しい思想として総否定されているのが現状です。そのため、北原氏のように“古い政治”に先祖返りするのが当たり前になっているのです。

たしかに”新左翼の思想”が党派政治(セクト)に簒奪され歪められたのは事実ですが、しかし、”新左翼の思想”が提起した社民主義やリベラリズムの限界という問題は未だ手つかずのままなのです。もちろん、戦後のこの国をおおっている「アメリカの影」(加藤典洋)も大きな課題でしょう。

どの党に投票するかではなく、どの党もダメだという既成政党批判も、当然あり得るでしょう。『宰相A』ではないですが、投票することが翼賛体制にお墨付きを与えることになるという考えもアリでしょう。それに、坂口安吾が言うように、私たちは政治という粗い網の目から零れ落ちる存在なのです。支持する政党がないから投票に行かないという考えもひとつの見識と言えるでしょう。

佐藤優氏は、『文藝春秋』(11月号)で、「米朝間で始まるのは『戦争』ではなく『取引』」「米国は、先制攻撃を決断できない」と書いていました。

仮にアメリカが北朝鮮に先制攻撃をしても、北朝鮮を完全に制圧するのに2ヶ月かかるという日米政府のシュミレーションがあるそうです。ソウルはわずか2日で陥落し、制圧までに100万人以上の犠牲者が出ると予想されているのだとか。そのなかには、約4万人の在韓邦人や約20万人の在韓米人も含まれています。

それどころか、韓国経済が壊滅することによる世界経済への影響は計り知れず、1950年の朝鮮戦争のときとはまったく状況が異なるのです。

当時、韓国は、インフラのない貧しい農業国にすぎませんでしたが、今日の韓国の経済力、半導体生産などにおいて国際分業体制の中で占める位置は、当時と比較になりません。韓国経済が崩壊することになれば、東アジア全体が大きなダメージを被り、米国経済もその影響を免れません。
『文藝春秋』11月号・「トランプの『北の核容認』に備えよ」


一方で、核・ミサイル開発する北朝鮮の目的が「金王朝の維持=国体護持」である限り、「経済制裁によって北朝鮮が核・弾道ミサイル開発を放棄することはあり得ない」と言います。問題は、戦争ではなく、やがて始まるであろう米朝二国間交渉による「落としどころ」なのだと。今はそのための鞘当てがおこなわれているというわけです。佐藤氏は、「落としどころ」は「核容認とICBMの凍結になるはずだ」と書いていました。

(略)北朝鮮の核保有を阻止する手段をもたない日米韓は、すでにこの局面では「敗北」しています。しかし、「ゲーム・セット」ではありません。中長期的な視点から、このゲームに最終的な勝利するために、核をめぐる議論以上に、日本にできることが他にあります。
 まず、米朝交渉が始まれば、いづれ米朝国交正常化が進むでしょう。そうなれば、日本も日朝国交正常化を急ぐべきで、今から準備しておくべきです。
(同上)


この国のリベラル左派は、安倍政権が煽る「北朝鮮の脅威」に煽られているだけです。リベラル左派も「煽られる人」にすぎないのです。北朝鮮情勢が逼迫しているときに選挙などしている場合か、というもの言いなどはその最たるものでしょう。そうやってみんな「動員の思想」にひれ伏しているのです。これでは、いざとなったら(戦前の社会大衆党のように)「この国難に足の引っ張り合いをしている場合ではない。小異を捨てて大同につこう」なんて言い出しかねないでしょう。
2017.10.20 Fri l 社会・メディア l top ▲
昨日、衆院選挙が告示され、22日の投票日に向けて選挙戦が開始されました、と言っても、告示のときはもう大勢は決まっていると言われています。

さっそく朝日新聞に序盤の「情勢調査」が出ていますが、それによれば、自民党は「堅調」で単独過半数233議席を大きく上回る見込み、希望の党は伸び悩み現有57議席を上回る程度、立憲民主党は勢いがあり現有15議席の倍増も可能、公明共産は現状維持だそうです。

「選挙は蓋を開けて見なければわからない」「無党派層の動向如何では結果が変わる可能性がある」なんてもの言いも所詮、気休めにすぎないのです。実際に、今までも事前の予想を大きく裏切ることはありませんでした。

なんのことはない、安倍一強はゆるぎもしないのです。それどころか、逆に希望の党が加わるので、改憲派は今より大幅に議席を増やすことになるのです。

そんななか、選挙権が18歳に引き下げられたということもあって、いつになく若者たちの「選挙に行こう」キャンペーンが盛んです。「選挙に行かないのは、政治家に白紙委任するようなもの」「選挙は、自分たちの意思を国政に反映させる絶好のチャンス」「選挙に行かない人間に政治を語る資格はない」などという、おなじみの“選挙幻想”がふりまかれているのでした。

私などは、朝のワイドショーはどこも選挙の話題ばかりなので、今朝はとうとうテレビ東京の子ども向け番組「おはスタ」で、にゃんこスターの笑えないギャクを見ていました。

一方、メディアでは、「入口に立つあなたが好き」というキャッチフレーズを掲げ、若者の投票率の向上を目指してさまざまなイベントを開催している学生団体がもてはやされています。

学生だったら今のおかしな選挙制度や政党助成金に対して問題提起すべきではないかと思いますが、彼らにそんな問題意識はないようです。選挙で世の中は変えられない、という昔の学生のような不埒な考えなんて想像すらできないのでしょう。

政治的なスタンス以前の問題として、あの麻生太郎や二階俊博の有権者をバカにしたような尊大な態度に、少しは怒ってもいいように思いますが、もちろん、彼らにそんな視点はありません。どこまでも「いい子」なのです。彼らは、腹黒な役人や老獪な政治家に頭を撫でられることだけが目的のような「いい子」にすぎないのです。

「劇場型」と言われた小泉政権の登場によって、衆愚政治のタガが外れたと言われていますが、問題意識をもてない有権者は、文字通りタガの外れた衆愚政治のターゲットになるだけでしょう。無定見に「選挙に行こう」キャンペーンをおこなっている彼らは、若者たちにB層=衆愚になれと言っているようなものです。

もちろん、それは若者だけではありません。戦争が起こると本気で思っている(そのわりに呑気に酒を飲んでいる)新橋のサラリーマンたちも然りです。B層というのは、そのように常に「煽られる人」でもあるのです。

僭越ですが、私は、以前、鈴木邦男氏が雑誌のコラムで紹介していた戦争前のエピソードについて、つぎのように書いたことがありました。

一水会の鈴木邦男氏は、雑誌『創(9・10月号)のコラム(「言論の覚悟」真の愛国心とは何か)で、戦争前、東條英機のもとに、一般国民から「早く戦争をやれ!」「戦争が恐いのか」「卑怯者!」「非国民め!」というような「攻撃・脅迫」めいた手紙が段ボール箱に何箱も届いたというお孫さんの話を紹介していましたが、そうやって国民もマスコミもみんな一緒になって戦争を煽っていたのです。東條英機らは、そんな声に押されるように、「人間たまには清水の舞台から飛び降りるのも必要だ」という有名なセリフを残して、無謀な戦争へと突き進んでいったのでした。でも、戦争が終わったら、いつの間にか国民は、軍部に騙された「被害者」になっていたのです。

「愛国」と「文学のことば」
http://zakkan.org/blog-entry-986html


選挙が終わったら、「禊を終え」勢いを増した改憲派が、「北朝鮮の脅威」を盾に、いっきに改憲へギアアップしていくことでしょう。そして、森友・加計の問題は人々の記憶から消えていくに違いありません。永井荷風ではないけれど、「選挙に行こう」というのは、あの戦意高揚の標語と同じで、「まことにこれ駄句駄字といふべし」なのです。


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積極的投票拒否の思想
選挙は茶番
2017.10.11 Wed l 社会・メディア l top ▲
最近体調がよくなくて、本も読まず、テレビばかり見ていますので、もう少し床屋政談をつづけます。

民進党が事実上「解体」したことは慶賀すべきことです。(何度も言っているように)「民進党が野党第一党であることの不幸」から解放されるなら、まずは歓迎すべきでしょう。

「アベ政治を許さない」と言っている人たちがホントに「アベ政治を許さない」と思っているのなら、希望の党に行ったとか新党を立ち上げたとか無所属で行くとかに関係なく、旧民進党の議員全員の落選運動をやるべきでしょう。

希望の党との合流が発表された当初、合流はアベ政権を倒すための次善の策だというようなことを書いていた田中龍作ジャーナルに代表されるような左派リベラルのお粗末さや、枝野氏ら「排除」された「リベラル」派が新党を立ち上げたら、今度は新党に希望を託すようなことを言っている左派リベラルの御目出度さを考えるべきなのです。

阿部知子氏の「新しい独裁者はいらない」ということばは秀逸だと思いますが、しかし、阿部氏自身、代表選では前原氏を支持していたのです。しかも、28日の両院議員総会では、前原氏の提案に対して疑義すら申し立てなかったのです。それは、阿部氏だけではありません。疑義を申し立てる人間は誰もおらず、僅か30分で前原氏に一任することを決定し閉会しているのです。前原氏の提案に席を蹴ることすらできなかったヘタレな「リベラル」になにを期待すると言うのでしょうか。

「リベラル」派は所詮、「緑のたぬき」から「排除」された”負け犬”にすぎません。同情するなら票をくれとでも言わんばかりに新党を立ち上げても、マスコミによって刷り込まれた“負け犬”のイメージを払拭することはできないでしょう。

新党を立ち上げる前、枝野氏は前原氏と会談し、話が違う、と抗議したところ、前原氏は、「排除」するなんて聞いてない、小池氏に確認する、明日まで待ってくれ、と言ったそうです。すると、枝野氏は、一縷の望みを託して(?)前原氏の返事を待っていたのです。

しかし、メディアの報道によれば、前原氏は、「排除」や「分裂」はすべて想定内だったと言っているそうです。前原氏の思想的な立ち位置を考えれば、前原氏が「(小池氏に)騙された」なんてあり得ないでしょう。枝野氏は、未だに民進党議員全員を受け入れるという合意は、小池氏によって(一方的に)反故にされたようなことを言っていますが、二人の間では「排除」することが最初から合意されていたのです。小池氏も、「排除」については、当初から前原氏に申し上げていると言っているのです。

それどころか、9月26日の会談には連合の神津会長も同席していたそうです。前原氏自身も、希望の党との合流は、連合と相談しながら進めていたと証言しています。「排除」は神津会長も同意していたと考えて間違いないでしょう。連合が「排除」の方針を打ち出した小池氏に「激怒」と書いていた夕刊紙がありましたが、それはトンチンカンな左派リベラルの”希望的観測”と言うべきでしょう。

こういう細かいことは案外重要です。なぜなら民進党議員たちの(特に「リベラル」派の)カマトト=建前と本音を映し出しているからです。要するに、「保守」であれ「リベラル」であれ、「右派」であれ「左派」であれ、民進党の議員たちは、みんな希望の党に行きたかったのです。「トロイの木馬」発言もそうですが、28日の両院議員総会までは、希望の党に行くという“甘い夢”を見ていたのです。

山尾志桜里氏は、朝日新聞の取材に対して、「無所属で本当によかった。リベラルの価値を葛藤なしに語れることが幸せだ」と言ったそうですが、よく言うよと思います。言うまでもなく、山尾氏は前原氏に近い人物でした。スキャンダルがなければ、前原氏と行動を共にしたのは目に見えているのです。

今回の合流劇では、民進党の100億円を超すと言われる内部留保のお金の行方に関心が集っていますが、政界が金の論理で動くようになった(それをマスコミは「政界再編」と呼んでいるのですが)政党助成金の問題も考えないわけにはいかないでしょう。政党助成金というのは、既成政党が税金によって既得権益を得、議会政治を独占し、未来永劫に政権をたらい回しする制度なのです。そういった視点で今回の合流劇を見れば、見えてくるものがあるでしょう。

希望の党の若狭勝氏は、今日の第一次公認候補者発表の席で、選挙後の首班指名について、自民党議員を指名することに含みをもたせたそうです。彼らが目指しているのが保守大連立であることが徐々にあきらかになっています。

スペインのカタルーニャ独立の投票をめぐる運動を見るにつけ、日本との違いを痛感せざるを得ません。彼方の政党は、左右を問わず、どこも街頭の運動のなかから生まれたのです。そして、常にあのような街頭の運動によって政党の活動も支えられているのです。同じ左派リベラルでも日本のそれとは似て非なるものです。

先日の安倍退陣(お前が「国難」)デモで、枝野氏が姿を見せると、いっせいに枝野コールがおこったそうですが、私にはそれもトンマな光景にしか思えませんでした。
2017.10.03 Tue l 社会・メディア l top ▲