昨日、ネットで、つぎのようなツイッターのつぶやきを目にしました。



まったく同感です。このブログでも書いたことがありますが、私も、えげつないヘイト本が本屋の平台を占領するようになって、本屋に行くのが嫌になり、前より足が遠のいています。

昔は本屋に行くのが楽しみでした。ワクワクしました。本屋で知らない本に出会うのが楽しみだったのです。本屋には知性がありました。こんな本があるよと教えてくれたのです。でも、今はそんな出会いは望むべくもありません。本屋大賞なんて片腹痛いのです。

ヘイトな発言で有名な某作家は、講演料が200万円だそうです。前も書きましたが、元ニュースキャスターの”ネトウヨの女神”も、港区の数億円とも言われる白亜の豪邸に住んでいるそうです。彼らは愛国者なんかではないのです。ただのヘイトビジネスの商売人にすぎないのです。貧すれば鈍する書店は、そんなヘイトビジネスに便乗しておこぼれを頂戴しようとしているのでしょう。

出版文化に対する気概も見識もない書店なんて潰れればいいのだと思います。潰れてもざまあみろと思うだけです。

それは、テレビも同じです。最近は、100円ショップの商品を海外に持って行って、外国人に「ニッポン、凄い!」と言わせる番組がありますが、日本の「凄さ」はそんなところにしかないのかと思うと、なんだか情けなくなります。しかも、それらの商品の多くは中国製なのですから、もはや笑えない冗談です。



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2018.02.28 Wed l 本・文芸 l top ▲
20日から2泊3日で、墓参りに九州に帰りました。

大分空港は、大分県の北東に位置する国東半島にあるのですが、空港に着くと、そのままレンタカーで国東半島の両子寺・文殊仙寺・富貴寺をまわりました。

いづれも国東半島を代表する天台宗の名刹です。国東半島の仏教文化については、下記のウィキペディアにわかりやすく書いています。

ウィキペディア
国東半島

奈良時代から平安時代にかけて、仏教(天台宗)に宇佐八幡の八幡信仰(神道)を取り入れた「六郷満山」と呼ばれる仏教文化が形成され、山岳地域の険しい山道を歩く「峰入り」と呼ばれる難行が行われるようになった。「六郷」とは、来縄(くなわ、現・豊後高田市)・田染(たしぶ、豊後高田市)・伊美(いみ、国東市国見町)・国東(国東市国東町)・安岐(あき、国東市安岐町)・武蔵(むさし、国東市武蔵町)の6つの地域を指しているといわれる。


両子寺は国東市安岐町両子、文殊仙寺は国東市国東町大恩寺、富貴寺は豊後高田市田染蕗にあります。

ウィキペディアに書いているとおり、「六郷満山」は、当時、荘園領主として権勢を誇った宇佐神宮の影響を受け、仏教と神道が習合したこの地域特有の宗教文化です。そのため、お寺のなかに鳥居があったり、お寺が「商売繁盛」や「安産祈願」のお札を売っていたりしているのです。それは、とても奇妙な光景でした。

2月の平日でしたので訪れる人も少なくて、それがかえってお寺巡りを印象深いものにしてくれました。ナビに従って車を走らせると、途中離合する(九州の方言で「車がすれ違う」の意)のも難儀するような山奥の道を行ったり来たりしました。でも、そうやって山道を走るのも、なんだかなつかしい気がするのでした。

二日目は、熊本県境に近い生まれ故郷の菩提寺に行きました。

初日も富貴寺の前にある食堂で、大分名物のだんご汁を食べたのですが、二日目も墓参りに行く途中、山間の県道沿いにある食堂で、だんご汁を食べました。その食堂は、近所のおばさんたちが共同で営む、文字通り田舎のおふくろの味が味わえる店です。だんご汁のほかに、お稲荷さんもなつかしい味がしました。

墓に行くと、誰かお参りにきたのか、新しい花が供えられていました。私は、それと一緒に持参した花を供えました。我が家の墓は、墓地のなかでいちばん古いのですが、花立からあふれるように多くの花で彩られ、いっきに華やかになった気がしました。

私は、これが最後になるかもしれないなと思いながら手を合わせ、「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えました。すると、いつの間にか涙があふれてきました。『歎異抄』によれば、親鸞は、父母の孝養のために一度も念仏を唱えたことはないそうですが、私は墓に眠る父母や祖父母の供養のために、念仏を唱えました。

墓地も、冬の午後の静けさに包まれていました。墓地の端からは、私が生まれた街が見渡せます。昔の面影が残る家並みを眺めていると、近所の幼馴染と嬌声を上げながら通りを走り回っていた子どもの頃が思い出されました。年を取って、昔を追憶することほどつらいものはありません。もう私のなかのふるさとは、追憶の対象でしかないのです。

私は、ふと隣町の高原にある高台に行ってみようと思いました。そこは、子どもの頃、家族でピクニックに行った思い出がある場所です。10月21日という日にちまで覚えています。とても肌寒くて早々に弁当を食べ、帰ってきたのでした。

熊本との県境に向けて高原のなかを車を走らせると、道路にはまだ至るところに雪が残っていました。まわりの木々にもうっすらと雪が残っており、それが午後の日差しを浴びてキラキラ輝いていました。県境の近くは、チェーンを装着した車しか通れない交通規制がおこなわれていました。私がめざす高原の高台はその手前にあります。ところが、麓に着くと、高台に上る道路が鉄柵で封鎖されていたのでした。残念ながら、入口で引き返すしかありません。

途中、小学生のときに父親と九州の最高峰の山に登った際に利用した登山口を再び訪れ、記念に写真に撮ったのですが、うっかりしてSDカードから削除してしまいました。初日の富貴寺を訪れたときから、二日目の墓参りや若い頃仕事で住んでいた町を訪れたときの写真などをことごとく消去してしまったのです。まったくついてません。「六郷満山」のお寺参りをしたにもかかわらず、霊験あらたかとはいかなかったのです。

そのあと、60キロ離れた街まで、知人に会いに行きました。知人は、二つの癌と闘っています。しかし、笑顔を絶やさず明るく振る舞っていました。会うたびに、「また帰って来いよ。でも、オレはそれまで生きているかわからないけどな」と言うのですが、今回はそう言われないように淡々と別れました。

親しい人間たちはみんな、田舎に帰っています。もう東京に残っている人間は、ひとりもいません。会う人間会う人間から「帰って来いよ」と言われるのですが、私は、(別に格好を付けるわけではありませんが)知らない土地でひとりで生き、ひとりで死ぬことを決めたのです。

運動会のとき、校舎の裏をこっそり訪れることが好きだった子どもの頃。やはり、今でもひとりがいいなと思います。私にとって、淋しさこそが人生の親戚なのです。いくら年を取ってもそれは変わらないのでした。


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別府タワー

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ディープな別府タワー

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別府タワー 窓ガラスの至るところにヒビが入っています。


2018.02.23 Fri l 故郷 l top ▲
平昌オリンピックをめぐる日本国内の報道には、なにがなんでもオリンピックを貶めようとする底意地の悪さが垣間見えて仕方ありません。国内では相変わらず、「ニッポン凄い!」の自演乙が盛んですが、「凄い!」国のわりには、”スポーツの祭典”を偽善的にでも祝い楽しむ余裕さえないのです。

とりわけひどいのが、南北対話に対してです。そもそも韓国が北の「ほほ笑み外交」に乗ったのは、なんとしてでも戦争を回避したいという切実な事情があるからでしょう。戦争になれば、韓国は国家存亡の危機に直面するのです。もちろん、日本も他人事ではないはずです。

田中宇氏は、平昌オリンピックの南北対話について、つぎのように書いていました。

田中宇の国際ニュース解説
北朝鮮の核保有を許容する南北対話

(略)今回の北の五輪参加をめぐる南北対話の再開や米韓軍事演習の延期が、ロシアのプーチン提案、中国のダブル凍結和平案、韓国の文在寅の対北融和策という、露中韓の三位一体の北核問題の解決策のシナリオに北朝鮮が乗ってきたものであるとわかる。(略)

 だが、米日のマスコミなどでは、露中韓のシナリオがまともに報じられず、ほとんど論じられず、けなされる対象として存在している。米日では、北が核兵器を全廃することが「北核問題の解決」であると考えられている。北に核廃絶を求めず、北の核保有を黙認している露中韓のシナリオは、北核問題の解決策ではないと、特に(中韓嫌悪の)日本で思われている。(略)


韓国が北の「ほほ笑み外交」に翻弄されているように見えるのも、現実的な戦争回避のシナリオがあるからなのでしょう。

 露中韓のシナリオは、北に核やミサイルの廃絶でなく開発凍結を求めているが、それすら北に凍結宣言を出せと求めるものでなく、北が不言実行で静かに開発を凍結し続けてくれればそれで良い。目指しているのは東アジア的な「あうんの呼吸」「(北の)メンツ重視」の方式だ。露中韓は、北が核兵器を持ったままでも、周辺諸国との緊張関係が緩和されれば、それで事態が安定すると考えているようだ。

 
戦争ありきのような日本のメディアの報道だけを見ていると「あり得ない」と思うかも知れませんが、オリンピックの南北対話をきっかけに緊張緩和へ進む可能性もなきにしもあらずでしょう。いづれにしても、オリンピック明けの米韓軍事演習や南北首脳会談に対して、露中韓と米の間で激しい駆け引きがおこなわれるに違いありません。

もとよりトランプ政権の“圧力外交”には、軍事ビジネスの側面があることも忘れてはならないのです。朝鮮半島や東シナ海の緊張が高まれば高まるほど、国策でもある軍需産業が繁栄する寸法です。なかでも日本に対しては、武器が言い値で売れるので、これほど美味しい商売はないのです。

今の日本は、中国や北朝鮮の影に怯えるばかりです。それは、もはや「病的」と言ってもいいほどです。しかも、中国も北朝鮮も、かつての植民地です。だから、よけい神経症的に怯えるのかもしれません。

東アジアにおいて、政治的にも経済的にも日本の存在感が低下しているのは、誰が見ても明らかで、そういった“日沈む国”の卑屈な精神が、「ニッポン凄い!」の自演乙につながっているのは間違いないでしょう。もちろん、卑屈な精神は、『永続敗戦論』が喝破したような“対米従属「愛国」主義”という歪んだナショナリズムを支える心性でもあります。そして、そこに露わになっているのが、「愛国」と「売国」が逆さまになった戦後という時代の背理なのです。


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2018.02.11 Sun l 社会・メディア l top ▲
最近、体調がよくないということもあって、私も、自分の死について考えることが多くなりました。

先日、椅子から立ち上がったら、まっすぐに歩けないほどフラフラするのでした。洗面所に行こうと廊下を歩くのに、千鳥足のようになり左右の壁に身体がぶつかるのでした。さらに歯を磨こうとコップを手にしたら、うまく持つことができず、コップを床に落とす始末です。

私は、すかさず目の前の鏡に映っている自分の顔を見ました。しかし、表情に歪みはありません。また、両手を肩まで持ち上げて左右に広げました。しかし、片一方が下がるということもありません。自分の名前と住所を口に出してみましたが、別に呂律がまわらないということもありません。

私は、ふらつく足で居室に戻り、ベットに仰向けになりました。すると、徐々に頭のほうから逆さまに落ちていくような感覚に襲われました。遊園地に行くと、横一列に座って後ろ向きに回転するアトラクションがありますが、あんな感じです。私は、ボーッとした(それでいてどこか快感でもあるような)意識のなかで、「このまま死ねたらいいなあ」と思いました。このまま意識が遠のいて死ねたら最高だなあと。

ところが、しばらく経つと、意識が遠のくどころか、逆に覚醒して落ち着いてきました。そして、結局、何事もなかったかのように気分はもとに戻ったのでした。

自分の死を考えるなかで、有賀さつきの「孤独死」のニュースは、少なからずショックでした。以来、西部邁氏の「自裁死」と有賀さつきの「孤独死」について、ずっと考えています。

二人には、余人が入り込めない覚悟があったのです。「自裁死」はとても無理ですが、有賀さつきの「孤独死」だったら私もできそうな気がします。

家族がいながら、病名を伏せ、臨終に立ち会うことも拒否するというのは相当な覚悟ですが、私の場合、家族がいませんので、そこまで覚悟を背負う必要もないのです。

このブログでも再三書いていますが、私は孤独に生き孤独に死ぬ人生を選択していますので、あとは具体的に死の過程に覚悟を持てばいいだけの話です。

有賀さつきは、死を悟り、入院する前に銀行口座なども解約していたそうで、父親が言うとおり「すごい精神力」だな思います。

鈴木いづみは、「老衰したい。ジタバタみぐるしくあばれて『死にたくない』とわめきつつ死にたい」と言っていたにもかかわらず、36歳で(しかも、娘の目の前で)自死したのですが、それもまたみずからの死に対して覚悟することを選んだと言えるのかもしれません。

前に、自分の死について心配事はなにかという葬儀会社のアンケートがネットに出ていましたが、お金がないとかお墓がないとか残される家族が心配とかいった回答に混ざって、「看取ってくれる人がいない」という回答がありました。それも10%近くの人がそう回答していました。

「孤独死」は、他人事ではないのです。有賀さつきと違って、(私もそうですが)最初から独り身の人間も多いのです。誰にも看取られずに死ぬというのは、もう特別なことではないのです。

いつもの朝が来て、いつもの一日がはじまる。そんな日常のなかで誰にも知られることなく息を引き取る。それは願ってもない死に方です。そう死ねたらいいなあと思います。


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2018.02.06 Tue l 訃報・死 l top ▲