昨日処刑された端本悟死刑囚を担当していた弁護士は、早稲田の法学部で同じクラスだった同級生だそうです。端本死刑囚は、オウムに入信した友人を脱会させる目的でセミナーなどに通っているうちに、ミイラ取りがミイラになって入信したのでした。それがカルトの怖さです。他の死刑囚に比べて関与の度合いが低いとされ、死刑判決に疑問の声も多かったのですが、本人は再審請求を拒んでいたそうです。

また、東大卒(実際は大学院中退)で初めて死刑になったと言われた豊田亨死刑囚に出家を勧めたのは、中学・高校・大学の1年先輩であり、しかも学部(物理学部物理学科)も同じだった野田成人氏です。灘高のルートもそうですが、オウムの「知的エリート」たちは、受験名門校出身者の人脈で勧誘されたケースが多いのです。

野田氏もオウムの幹部でしたが、鈍くさいとかいう理由で、麻原によって実行メンバーから外されたと言われています。先日、テレビに出ていた野田氏は、解体業をしているとかで、汚れが付いたままの作業服姿でした。一方で、ホームレス支援の活動も行っていると言ってました。野田氏は、事件後、アレフの代表なども務めましたが、現在は教団を脱会しているそうです。だとしたらよけい豊田死刑囚に出家を勧めた負い目に苛まれているに違いありません。そうやって”自己処罰”しながら生きていくしかないのでしょう。

オウムの悲劇は、信者の多くが善男善女であったということです。それゆえにカルトに取り込まれてしまったという点にあります。カルトが怖いのは、このように善男善女がターゲットになり、彼らの純粋な心が利用されることです。しかも、ネットワークビジネスなどと同じように、学校や職場などの人間関係を通して勧誘が行われるので、二重三重の悲劇が生じることになるのです。

先に紹介したAERAdotの上昌広氏の記事によれば、東大医学部からオウムに入信したのは2人ですが、当時、「大勢が富士の裾野に行った」そうです。上氏は、彼らと2人を「分けたのは偶然だ」と書いていました。

このように、オウム真理教では、ハルマゲドンを演出するために、麻原の命により、高学歴の理系エリートを積極的に勧誘していたのでした。そして、優秀な頭脳を得た教団は、サリンの生成&散布へと突き進んで行ったのでした。

世の中の役に立つ人間になることを夢見て受験勉強に励み、他人が羨むような難関大学に進んだはずが、カルトに遭遇したために、文字通り刑場の露と消えた「知的エリート」の信者たち。本人ならずともどうして?という思いを抱いた人も多いでしょう。それを考えれば、あらためてやりきれない気持にならざるを得ないのでした。
2018.07.27 Fri l 社会・メディア l top ▲
今朝、オウム真理教の残り6名の死刑囚に対して、死刑が執行されたというニュースがありました。これで、ひと月の間に13名の刑が執行されたことになります。まさに前代未聞の出来事です。

否応なく暗い気持にならざるを得ません。人の命が奪われるというのは、犯罪であれ刑罰であれ、殺人であることには変わりがないのです。辺見庸ではないですが、むごいなと思います。信者たちに殺された人間たちも、処刑された信者たちも、みんなむごいなと思います。

私たちは、オウムを前にすると、恐怖と憎しみの感情に支配され、鬼畜を見るような目になるのですが、処刑された信者たちはホントに鬼畜だったのか。

地下鉄サリン事件で娘を殺された遺族は、「これで仇を取ることができました」と言っていたそうですが、一方で、どうしてあんな事件を起こしたのか、そして、今、どう思っているのか、加害者たちの生の声を聞くことが供養になるという考えがあってもおかしくないのです。たしかに、因果応報という仏教の考え方もありますし、江戸時代は仇討ちや切腹の風習もありましたが、しかし、みずからの死を持って罪を償わせるという考えは、本来日本人が持っている死生観や道徳観と必ずしも合致するものではないはずです。

先進国で死刑制度が存続しているのは、今や日本とアメリカくらいですが、死刑を廃止(もしくは停止)している国から、人権後進国の報復主義に基づいた「大量処刑」と見られても仕方ないでしょう。

今回の「大量処刑」は、オウム真理教がそれだけ国家からの憎悪を一身に浴びていたと言えるのかもしれません。かつては社会主義者や無政府主義者が憎悪の対象でしたが、平成の世にあっては、カルト宗教がそれにとって代わったのです。麻原の国選弁護人を務めた安田好弘弁護士は、今回の処刑でオウム真理教事件が“平成の大逆事件”になったと言ってましたが、決してオーバーではないでしょう。

今回の処刑で、麻原彰晃をグル(尊師)と崇め、タントラ・ ヴァジラヤーナを信奉する残存信者にとって、麻原をはじめ死刑囚たちが益々”ヒーロー”になるに違いありません。遺骨がどうのという問題ではないのです。国家から憎悪を浴びせられれば浴びせられるほど、彼らもまた国家に対して憎悪の念を募らせ、死刑囚たちを”ヒーロー”と崇めるのです。

事件の当事者たちの生の声を封印したまま刑を執行したことで、事件をより不可解なものにし、逆にカルトを増殖させる土壌を残したと言えるでしょう。前も書きましたが、「偽史運動」こそがカルトがカルトたる所以です。宗教学者の島田裕巳氏は、麻原の死刑によって、麻原の魂は信者たちの中で「転生」して生き続けることになるだろうと言ってましたが、これから事件や死刑囚たちを神格化する「偽史運動」が始まることでしょう。

平成の大事件だから平成の間にカタをつけたいなどという(小)役人的発想が、カルト宗教の反国家的感情をエスカレートさせるのは間違いないでしょう。

一方、麻原ら7名の死刑が執行された前夜(7月5日)、死刑執行命令を出した上川陽子法相が、「自民党赤坂亭」に出席していたことが判明して物議を醸しています。「衝撃的」と書いていたメディアさえありました。上川法相は、執行後の記者会見で、「磨いて磨いてという心構え」で、「慎重にも慎重な検討を重ねた」上で、死刑執行命令を出したと言っていましたが、執行前夜に酔っぱらってはしゃいでいる様子はとてもそのようには見えません。「自民党赤坂亭」は西日本を襲った集中豪雨の当夜のことでもあったので、その点でも批判を浴びましたが、政治家や役人など権力を持つ人間たちの、人(国民)の命に対する軽さ・無神経さには愕然とします。と同時に、怖いなと思います。それは、オウムの教義にも通底するものと言えるでしょう。
2018.07.26 Thu l 社会・メディア l top ▲
私のようなサッカーの素人でも、イニエスタの凄さはよくわかります。今日のデビュー戦でも、その抜きん出たテクニックの一端を垣間見ることができました。イニエスタの鋭いスルーパスに、ヴィッセル神戸の選手が付いて行くことができなかったほどです。

トーレスの果敢で迫力あるゴール前のパフォーマンスも然りです。日本の選手だとチャンスにできないような場面でも、トーレスはチャンスを演出するのです。その違いを観るだけでも、サッカーの醍醐味を味合うことができます。

アジアでは中国のスーパーリーグに世界レベルのスター選手を取られて、Jリーグは場末感が否めませんでしたが、イニエスタとトーレスの加入はJリーグに大きな刺激になることでしょう。もちろん、リップサービスは別にして、彼らがいづれJリーグに失望するのは目に見えています。できる限り長く日本に留まり、日本サッカーに風穴を空けてくれることを願うばかりです。

私の中にはまだワールドカップの余韻が残っていますが、ワールドカップの試合を観ても、ヨーロッパなどのチームと比べると、日本が見劣りするのは否定し得ない事実でしょう。なんだかバタバタするばかりで迫力がなく、スピードもまるで違うのでした。「世界から称賛されている」なんて片腹痛いのです。

でも、サッカー通(サッカーのコアなファン)は「ニッポン、凄い!」と言うばかりです。日本のサッカーは確実に世界レベルに近づいていると、十年一日の如く言い続けています。永遠にそう言い続けるつもりなのでしょう。彼らは、ネトウヨと同じで「煽られる人」にすぎません。サッカーの素人たちは、サッカーメディアやサッカー通のアホらしさに対して、遠慮せずに嘲笑する勇気を持つべきでしょう。ワールドカップを観てもわかるように、熱狂的なサッカーファンと言ってもただの酔っぱらいにすぎません。ホントにサッカーを楽しみ、サッカーを冷静に観ているのは、サッカーの専門誌も読んでなくて、サポーターとも呼ばれないようなサッカーの素人たちなのです。

今夜のフジテレビのスポーツニュース「S-PARK」では、イニエスタの日本デビューのニュースを後まわしにして、「香川真司の復活を支えた『フィットネス』」なんて特集を延々とやっていました。香川真司が安物のアイドルのような恰好をした“カリスマトレーナー”と出演して、彼女との「異色コラボ」でロシアW杯に臨んだ話をしていました。まるで青汁のCMと見まごうような特集でした。こういったところにも、ハリル解任の背後にあった「スポンサーの意向」が顔を覗かせているように思いました。

そんなミエミエの特集がイニエスタデビューのニュースより優先される日本のサッカー報道のいかがわしさを、私たちはもっと知る必要があるでしょう。そして、日本サッカーの閉塞感がこういったところから始まっているのだということも知る必要があるのです。


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2018.07.22 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
どうして、高学歴の「知的エリート」がオウムに取り込まれたのかを考える上で、下記の記事は非常にリアルで、参考になるように思いました。

AERAdot.
井上死刑囚から勧誘された医師が明かす「オウム真理教事件は受験エリートの末路」

記事を読むと、灘高のような受験名門校の人脈を通して勧誘が行われていたことがわかります。

もちろん、彼らが「取り込まれた」というのは、私たちが外野席で言っているだけです。当然のことですが、彼ら自身は「取り込まれた」なんて思っていません。麻原に「帰依」したのです。

彼らの多くは、理系の「知的エリート」です。専門的な科学教育を受けた科学者(あるいは科学者の卵)なのです。それが、どうして空中浮遊や神秘体験などの“超能力”を信じ、麻原のようないかさま師に「帰依」したのでしょうか。

専門家が指摘するように、ヨガを利用した”修行”やときには薬物まで使ったイニシエーションによって”霊的な幻覚”を体験することで、麻原の虜になったということはあるでしょう。しかし、一方で、「知的エリート」たちは、麻原の俗物性に目を瞑り、能動的に麻原に「帰依」した側面もあるのです。

はっきり言って、熊本の盲学校を出て(しかも、盲学校で飛びぬけて優秀な成績でもなかったのに)、熊本大学の医学部や東大の法学部を受験するというのは、誇大妄想としか思えません。でも、今の“大衆(建前)民主主義”では、そういう言い方は盲学校を見下す(差別する)ことになるのです。言ってはいけないことなのです。オウム真理教は、「信仰の自由」の問題も含めて、そういった“大衆(建前)民主主義”を逆手に取ったと言えないこともないのです。

そもそもオウム真理教自体が、麻原の誇大妄想の産物とも言えるものです。でも、その誇大妄想が宗教の皮を被ると、神からの啓示=”超能力”のように思えて信仰の対象にすらなるのです。それが「宗教の宗教性」というものです。

私たちのまわりを見ても、無知の強さ、あるいは非常識の強さというのは、たしかに存在します。西欧的理性が木端微塵に打ち砕かれたナチズムの例を出すまでもなく、ものごとを論理的に考える知性というのは、無知や非常識に対して非力な面があるのです。

上昌広氏のつぎのような言葉が、「知的エリート」の“弱さ”を表しているように思います。

 エリートは権威に弱い。権威の名前を出されると、そのことを知らない自分の無知をさらけ出すのが恥ずかしく思い、迎合しようとする。決して「わからない」とは言わない。私を含め当時の東京大学の学生が、オウム真理教に引きずられていたのは、このような背景があるのではなかろうか。挫折を知らない、真面目で優秀な学生だからこそ、引き込まれる。


「決して『わからない』とは言わない」のが「知的エリート」の“弱さ”なのです。「先生と言われるほどのバカでなし」という川柳は、「知的エリート」の本質を衝いているのです。と同時に、大衆(世間)のしたたかさ、狡猾さを表してもいるのです。麻原のようないかさま師が彼らを取り込む(「帰依」させる)のは、そう難しいことではなかったでしょう。

麻原は、弱視でしかも柔道の有段者であることを盾に、熊本の盲学校では、視力障害者の同級生や下級生を相手に番長として君臨したのですが、まったく同じ手法で、無知や非常識に“弱い”「知的エリート」に対してグルとして君臨したのでした。

麻原は、修行をすれば射精しなくてもエクスタシーを得られる(クンダリニーの覚醒)と言いながら、自分は片端から女性信者に手を出して射精しまくっていたのです。しかも、それは射精ではなく「最終解脱者」のエネルギーを注入するイニュシエーションだとうそぶいていたのですが、しかし、”霊的な幻覚”を体験し、この世界には論理的に説明できない部分があること(科学の限界)を知っていた「知的エリート」たちには、もはや麻原の詭弁を疑う”余裕”はなかったのでしょう。

麻原と同じ熊本出身の谷川雁は、「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆であれ(原文は「ある」)」(『工作者宣言』)と言ったのですが、たとえば、通勤電車の醜悪な風景の中で、「断乎たる知識人」であることは至難の業だし、哀れささえ伴うものです。でも、冗談ではなく、あの通勤電車の醜悪な風景こそがこの社会であり、電車の座席にすわることが人生の目的のような人々が大衆なのです。

間違っても「こいつらバカだ」「愚民だ」とは言えないのです。言ってはならないのです。そんな中で、麻原は、仏教の“裏メニュー”とも言うべき教義を彼らに提示したのでした。それが、「煩悩の海に溺れ悪業を積む凡夫は、ポアして救済しなければならない」という、グルを絶対視する戒律と選民思想で”再解釈”したタントラ・ ヴァジラヤーナの教義なのでした。

上氏の剣道での挫折もそうですが、麻原に「帰依」した「知的エリート」たちも、いったんは学校を出て就職したもののすぐに会社を辞めた人間が多いのが特徴です。受験競争では常に勝ち組であった彼らが、社会に出て初めて挫折を味わったのです。そして、麻原に「帰依」することによって、その挫折感がハルマゲドンのような終末思想と出会い、ハルマゲドンを実践する「光の戦士」としてエスカレートして行ったというのは、容易に想像できます。

職場の人間関係だけでなく、日々の生活の中でも、無知の強さや非常識の強さを痛感させられることはいくらでもあります。もちろん、ネットも然りです。しかも、無知の強さや非常識の強さは、“大衆(建前)民主主義”によって補強され、ある意味この社会では「最強」と言ってもいいのです。オウムの「知的エリート」たちがハルマゲドンを欲したのも不思議ではないのです。彼らは、教義以前に、あらゆる価値が(知をも)相対化される現代の民主主義を呪詛していたように思えてなりません。
2018.07.16 Mon l 社会・メディア l top ▲
死刑執行の日に朝日新聞に掲載された、宮台真司氏のインタビュー記事で、宮台氏はつぎのように言ってました。

不全感を解消できれば、現実でも虚構でもよい。自己イメージの維持のためにはそんなものどちらでもよい。そうした感受性こそ、昨今の「ポスト真実」の先駆けです。誤解されがちですが、オウムの信徒たちは現実と虚構を取り違え、虚構の世界に生きたわけではない。そんな区別はどうでもよいと考えたことが重要なのです。

朝日新聞デジタル
オウム化している日本、自覚ないままの死刑


宮台氏は、「だから危ない」のだと言います。

現実と虚構の区別なんてどうだっていいというのは、今のネトウヨなどにも言えるように思います。彼らにとって、ネットのフェイクニュースや陰謀史観の真贋なんてどうだっていいのです。みずからの「不全感」(人生や社会に対する負の感情)を「愛国」という排外主義的な主張で埋め合わせればそれでいいのです。それが反知性主義と言われるゆえんです。

どうして「知的エリート」が麻原彰晃のような安っぽいいかさま師に騙されたのか。オウム真理教を論じる場合、必ずと言っていいほど出てくる疑問ですが、私は、以前、大塚英志氏の『物語消費論改』を引用して、つぎのように書いたことがありました。

麻原彰晃は、英雄史観と陰謀史観を梃子に「大きな物語」を「陳腐に、しかし低次元でわかり易く提供して見せた」のでした。それは、「例えば『国を愛する』と言った瞬間、そこに『大きな物語の中の私』が至って容易に立ち上がる」ような安直なものでしかありませんでした。

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戦前戦中、多くの左翼知識人=「知的エリート」が「転向」したのは、天皇制権力による思想的転換への強制、屈伏というより、彼らが大衆から孤立したからだ(彼らの思想が”大衆的基盤”をもたない脆弱なものだったからだ)、と言ったのは吉本隆明ですが、「知的」であるということは、ある種の”後ろめたさ”を伴うものでもあるのです。誠実であろうとすればするほど、大衆的日常性(大衆的価値観)から遊離した孤立感を抱くものです。「知的エリート」たちは、安直なもの(=大衆的なもの)であるからこそ、逆に取り込まれたとも言えるのです。

倫理なんて、糞の役にも立たない“文化的幻想”にすぎません。「知的エリート」が全体主義に動員される思想的なメカニズムは、エーリヒ・フロムやハンナ・アーレントが言うよりもっと単純でもっと「陳腐」なものではないのか。

私は、そのメカニズムを解明するカギになるのが「オタク」だと思っています。オタク化とは、それだけこの社会に”オウム的なもの”が浸透していることを意味しているのです。オタクからネトウヨ、そしてカルトに至る回路こそ解明されるべきだと思います。

大塚英志氏は、『「おたく」の精神史』(講談社現代新書)で、「長山靖生『偽史冒険世界』や小熊英二『単一民族神話の起源』といった仕事において国民国家の形成の過程で起きた偽史運動への注目がなされているのは、オウムを近代史の中に位置づける上で重要な視座を提供しているように思う」と書いていました。

柳田民俗学は「正史」化し得た「偽史」の一つだというのがぼくの考えだが、教科書批判の運動が「オウム」後に保守論壇の枠を超えた大衆的な広がりを見せてしまったことの説明は、「オウム」を「偽史」運動の一つと位置づけることで初めて可能になってくるように思うのだ。教科書批判以降の「日本」や「伝統」の奇怪な再構築のされ方は、偽史運動とナショナリズムの言説が表裏一体のものとしてあることの繰り返しに、ぼくは思える。
『「おたく」の精神史』


『天皇と儒教思想』(小島敦著・光文社新書)によれば、メディアによく取り上げられる「田植え」や「養蚕」など皇室の恒例行事も、明治以後にはじまったものが多いそうです。来年、天皇の生前退位により新しい元号に変わりますが、「一世一元」の原則も明治以後にはじまったのだとか。皇室の宗教も、奈良時代から江戸時代までは仏教だったそうです。皇室=神道という「伝統」も、明治以後に創られたイメージなのです。また、皇室に伝わる祭祀などは、中国の儒教思想から借用された「儒式借用」のものが多いそうです。

要するに、明治維新による近代国家(国民国家)の成立に際して、国民統合のために、皇室を中心とする「日本の伝統」が必要とされたのでしょう。そうやって(偽史運動によって)”国民意識”が創出され、”日本”という「想像の共同体」が仮構されたのです。

もちろん、現在進行形の現代史においても(おいてさえ)、「偽史運動」めいたものは存在します。たとえば、安倍首相に代表される、スーツの襟にブルーリボンのバッチを付けている右派政治家やその支持者の一群が声高に主張する”正しい歴史”などもそうでしょう。

そこでは、「先の戦争は侵略戦争ではない」「南京大虐殺はねつ造だ」「従軍慰安婦なんて存在しない」という”正しい歴史”に目覚めることが「愛国」と直結しているのです。そして、ネトウヨに代表されるように、「『国を愛する』と言った瞬間、『大きな物語の中の私』が至って容易に立ち上がる」メカニズムが準備されているのです。私は、そこにオウム(オウム的なもの)とのアナロジーがあるように思えてなりません。実際にYahoo!ニュースのコメント欄なども、その手の書き込みであふれていますが、彼らの延長上に、「第二のオウム」と言われるようなカルト宗教=「偽史カルト」が存在するというのは、多くの人が指摘しているとおりです。安っぽいいかさま師は、麻原彰晃だけではないのです。


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2018.07.10 Tue l 社会・メディア l top ▲
私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか


麻原彰晃の遺骨の引き取りに関して、家族間で“綱引き”がはじまっているようです。メディアが言うように、麻原の「神格化」を怖れる公安当局としては、遺骨を妻に引き渡すのを避けたいのが本音でしょう。そのためかどうか、麻原が生前、遺骨の引き渡し先を四女に指名していたという話が出ています。ただ、それは、執行直前に刑務官に伝えたと言われるだけで、証拠はないのです。妻や三女らは、自分たちに遺骨を渡さないための「作り話」だと言うでしょう。

四女は、昨年、自分の相続人から両親を除くよう横浜家裁に申し立て、認められています。それは、実質的に家族と絶縁する意向を示したものです。遺骨の引き渡し先に関しては、法的にはっきりした規定はなく、慣例に従うしかないそうですが、家族と縁を切る意向を示した人間が、父親の遺骨を引き取りたいと申し出るのはどう考えても矛盾しています。故人の妻が引き取りの意向を示しているのですから、慣例から言えば、妻に渡すのが妥当でしょう。だから、そうさせないために、故人の遺志を出してきたとも言えるのです。

四女は、遺骨を引き取る理由について、アレフに渡したくないからと言っているそうです。家族と縁を切るなら、遺骨なんていらない、ほかの家族がどうしようが知ったことではない、自分は自分の道を生きる、と考えるのが普通でしょう。本当にオウムの悪夢から解放されたいと思うなら、遺骨のことなどに関わってないで、知らない土地で新しい人生を歩むのがいちばんでしょう。どうしていつまでもオウムの周辺にいるのだろうと思います。四女は、なんだか公安当局の意向を代弁している(代弁させられている?)ように思えてなりません。

10年前の話ですが、江川紹子氏は、四女の未成年後見人でした。それは、四女からの申し立てによるものでした。しかし、後見人になってわずか4ヶ月後、突然、行方不明になり、その後音信不通にもなったため、職務を果たせないと考え、「辞任許可申立書」を裁判所に提出したそうです。その間の経緯は、下記の江川氏のブログに書かれています。江川氏が辞任したあとに引き受けたのが、現在四女の代理人になっている滝本太郎弁護士なのかもしれません。

Egawa Shoko Journal
未成年後見人の辞任について

江川氏の文章のなかに、つぎのような気になる箇所があります。

(略)様々な形で彼女の自立の準備を支援してきたつもりです。教団以外の人間関係を広げて欲しいと思い、いろいろな働きかけも行いました。 
 しかし、残念ながら彼女の父親を「グル」と崇める気持ちや宗教的な関心は、私が気が付きにくい形で、むしろ深まっていました。彼女の状態が分かるたびに、私はカルト問題の専門家の協力を得ながら長い話し合いを行いましたが、効果はありませんでした。


オウムの奇々怪々は、未だつづいているのです。今度はそれに公安当局が一枚かんでいるのです。

私は、ちょうど8年前、四女の著書『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』の感想をこのブログに書きました。ご参照ください。

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教祖の娘


追記:(7月12日)
三女の松本麗華氏のブログに、長男がネットで滝本弁護士の殺害予告をしたという日テレの報道について、下記のような抗議文が掲載されていました。長男を告発した滝本弁護士も、オウムの奇々怪々と無縁ではないのです。
日テレの虚偽報道に対する抗議声明



2018.07.09 Mon l 社会・メディア l top ▲
今朝、テレビを観ていたら、「麻原彰晃死刑囚の死刑執行」「ほかの数人も執行見込み」という「ニュース速報」が流れたのでびっくりしました。

執行前に「ニュース速報」が流れるなんて前代未聞です。死刑執行が事前にメディアにリークされたのでしょう。まるで死刑が見世物にされたようで、オウムだったらなんでも許されるのかと思いました。

それからほどなく、つぎつぎと残り6名の執行を告げるテロップが流れたのでした。それは、異様な光景でした。一度に7名の人間が”処刑”されるなんて、先進国ではあり得ない話です。

死刑を報じるメディアの論調も、「当然」というニュアンスで溢れていました。被害者の家族だけでなく、長年オウムを取材してきたジャーナリストも、ニュースを解説する識者も、街頭インタビューに答える市民も、みんな一様に「当然」という口調でした。どんな事情であれ、人の命が奪われることを「当然」と考える感覚に、私は違和感を覚えざるをえませんでした。オウム真理教も、タントラ・ヴァジラヤーナという教義では、人の命を奪うことを「ポア」と称して救済=「当然」と考えていたのです。

今日の死刑執行に対して、EU駐日代表部は、EU加盟国、アイスランド、ノルウェー、スイスの各駐日大使とともに、日本政府に執行停止の導入を訴える共同声明を発表したそうです。


声明では、「死刑は残忍で冷酷であり、犯罪抑止効果がない。さらに、どの司法制度でも避けられない、過誤は、極刑の場合は不可逆である」と主張しています。でも、このニュースはほとんど報じられることはありませんでした。

今日の執行には、平成の間に事件の処理を終わらせたいという法務省の意向があると言われています。ニュースを解説する識者の、これでひとつの区切りが付いたというような発言も、それに符合するものでしょう。オウムの死刑囚は13名ですから、あとの6名も、平成の間に執行されるのは間違いないでしょう。「恩赦」や「再審請求」を封じるためという見方もありますが、そうやって人の死を政治的意図で操作する発想にも、違和感を抱かざるを得ません。

宮台真司氏が朝日新聞のインタビューで言っているように、オウムはすぐれて今日的な問題なのです。”オウム的なもの”はますます社会の隅々まで浸透しているのです。決して他人事ではないのです。オウムが私たちに突き付けた問題は、何ひとつ解決してないのです。オウムの事件に区切りを付け、歴史の片隅に追いやろうとする考えこそ反動的と言えるでしょう。


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オウムは終わってない
2018.07.06 Fri l 社会・メディア l top ▲
ワールドカップの「ニッポン、凄い!」キャンペーンは、ますますエスカレートするばかりです。メディアによれば、日本のサッカーは、100均の商品と同じように、世界中から称賛されているそうです。

ハリル解任はサッカー協会がスポンサーの意向を忖度したものだと批判していたサッカーファンは、見事なくらい手のひらを返して、「ニッポン、凄い!」キャンペーンに踊っています。もしかしたら、キャンペーンの背後にも、メディアを支配する電通の存在があるかもしれません。しかし、もはやそういう想像力をはたらかせることさえできないみたいです。

踊っているのは、”痴呆的”なサッカーファンだけではありません。日頃、ヘイト・スピーチに反対し、モリ・カケ問題の「手段を選ばない」隠蔽工作を指弾している某氏は、一方で著名なサッカーファンでもあるのですが、彼は、ポーランド戦のパス回しの時間稼ぎについて、つぎに進むために「手段を選ばない」のは当然だと言ってました。いざとなれば、翼賛的な空気に同調する左派リベラルの正体見たり枯れ尾花と言いたくなりました。

くり返しますが、勝ち試合で時間稼ぎをしたのではないのです。負け試合で時間稼ぎをしたのです。フェアプレーポイント云々以前に、スポーツとしてあり得ない話でしょう。

ラジオ番組で、やはり西野ジャパンの時間稼ぎに疑問を投げかけた明石家さんまにも、批判が集中しているそうです。さんまはサッカーを知らない「にわか」ファンにすぎないと叩かれているのだとか。上記の著名なサッカーファンの某氏と同じように、「時間稼ぎを批判するのはサッカーを知らない人間だ」と言いたいのでしょう。

livedoor NEWS
サッカー「にわか」を叩く風潮 明石家さんまにも矛先?

「感動」を強要し、「感動」しない者を叩いて排除する空気。異論や異端を排除することによって、「ニッポン、凄い!」という“あるべき現実“が仮構されるのです。

集団心理は、ときにこういう”異常”を招来するものです。”異常”のなかにいる者たちは、自分たちが”異常”なんて露ほど思ってなくて、むしろ自分たちこそが正義を体現していると思い込むのです。

改憲のために「手段を選ばない」安倍政権を批判しながら、サッカーでは「ニッポン、凄い!」キャンペーンに同調して、袋叩きの隊列に加わる左派リベラルのサッカーファン(サッカー通)。やはり、「感動」がほしいのでしょうか。全体主義を志向するファナティックな情念に右も左もないのです。こういう”左のファシスト”は、赤旗と日の丸の小旗を両手にもって、渋谷のスクランブル交差点を行進すればいいのです。
2018.07.04 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
私は、ベルギーが優勝候補の最有力と思っていましたので、日本が2点先制したときは、「まさか」と思いました。ただ、2点先制されるまでのベルギーは、油断していたのか、ナメていたのか、パスミスが多く、動きもチグハグでした。日本のほうがはるかにシステムが機能していました。

アルゼンチンやポルトガルの例を上げるまでもなく、ひとりのスーパースターにボールを集めるようなスタイルのサッカーは、もう終わりつつあるのです。ヨーロッパの5大リーグのようなところでは、客寄せの“ショー”として有効かもしれませんが、ワールドカップでは通用しなくなっているのです。世界の主流が、ヨーロッパスタイルと言われる、連携重視の組織的なサッカーになっているのは、多くの人が指摘するとおりです。

前半のベルギーは、アザールがセンタリングを上げて、ルカクがゴール前に飛び込むというパターンをくり返すだけでした。そういったワンパターンのサッカーには、ルカクをよく知っている吉田麻也ら日本の守備は有効でした。

3対2という得点差を上げて、「日本のサッカーは確実に進化している」「世界との差は縮まっている」などという声がありますが、それはいつもの翼賛的なサッカーメディアのおためごかしな意見にすぎません。4年前も8年前も、同じことが言われました。

日本のサッカーのためには、むしろ3対0で完敗したほうがよかったのではないかと思ったりします。「あと一歩」というような情緒的な総括では、日本のサッカーの課題を見つけることはできないでしょう。偶然の要素が大きいサッカーには番狂わせがつきものですが、とは言え、そう何度も番狂わせがあるわけではないのです。

2点先取したにもかかわらず、後半30分足らずの間に3点取られて逆転されたという事実にこそ、世界との差が表れているのだと思います。しかし、感情を煽るだけのサッカーメディアや、ただサッカーメディアに煽られるだけの単細胞なサッカーファンに、そんな冷静な視点は皆無です。

よその国だったら、むしろ短時間の間に逆転された問題点が指摘されるはずです。敗退したのに、「感動をありがとう!」「元気をもらった!」なんて言われて、敗因を問われることがないのは日本くらいでしょう。

今朝のテレビでも、「日本中が熱狂」「心が震えた」などということばが躍っていますが、そんなに「感動」を求めるなら、「宰相A」に頼んで戦争でもしてもらえばいいのです。戦争なら、サッカーどころではない「熱狂」を得られるでしょうし、もっと大きな「心が震える」感動を味わうこともできるでしょう。スポーツバーならぬ”戦争バー”でも作って、「ニッポン、凄い!」と感動を分かち合えばいいのです。そうすれば、渋谷のスクランブル交差点を日の丸の小旗を打ち振りながら堂々と行進できるでしょう。
2018.07.03 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲