「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」という、開き直りとも思える特集を10月号で組んだ月刊誌『新潮45』が批判を浴び、ついに「休刊」することが発表されました。ちなみに、雑誌の場合、新規に取得するのが難しい「雑誌コード」を残すため、事実上の廃刊でもほとんどが「休刊」という届けが出されるそうです。

この“開き直り特集”が如何にひどいシロモノか、たとえば、自称「文芸評論家」の小川榮太郎氏は、特集で次のように書いています。

LGBTの生き難さは後ろめたさ以上のものなのだというなら、SMAG(編注:サドとマゾとお尻フェチと痴漢を指す小川氏の造語とのこと)の人達もまた生きづらかろう。ふざけるなという奴がいたら許さない。LGBTも私のような伝統保守主義者から言わせれば充分ふざけた概念だからである。

満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深かろう。彼らの触る権利を社会は保障すべきではないのか。触られる女のショックを思えというか。それならLGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく。」
(文芸評論家・小川榮太郎氏「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」より、一部中略)

※「HUFFPOST」より転載。
新潮社公式アカウントが「新潮45」批判を怒涛のリツイート 「中の人がんばって」の声援寄せられる


タイトルは秀逸ですが、書いていることは”危ないオヤジ”の戯言です。これでよくもまあ「文芸評論家」なんて自称できるものだと思います(私は本を読むのが好きですが、小川榮太郎なんて文芸評論家は聞いたことがありません)。

一方、上記の「HUFFPOST」の記事にあるように、10月号が発売され批判が巻き起こると、“中の人”である「新潮社出版部文芸」の公式Twitterが、同号を批判するコメントをリツイート。さらに「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」という同社創業者・佐藤義亮氏の言葉もツイートし、話題になりました。「中の人がんばれ!」なんていうコメントも、ネットには多く寄せられました。

これらの声に対して、能町みね子は、次のようにコメントしていました。


要するに、「新潮社出版部文芸」のツイートは、新潮社お抱えの作家・ライター達に「逃げ場を用意した」ものにすぎません。日頃リベラルな発言をしている作家センセイ達にとって、この特集と言うか、この批判は耐え難いものがあるでしょう。ヨーロッパの民主主義の二重底ではないですが、彼らもまた作家・ライターとして二重底の中を生きているのです。そうやってリベラルなボクがヘイト出版社から本を出す矛盾を覆い隠しているのです。

今日のリテラには、『新潮45』の杉田水脈発言が編集長の暴走などではなく、担当役員からお墨付きをもらっていたという記事が出ていましたが、新潮社が昔からヘイト出版社であることは半ば常識でした。何も『新潮45』に限った話ではないのです。私もこのブログで何度も書いていますが、『週刊新潮』の方がもっと悪質です。

リテラ
「新潮45」休刊声明の嘘! 杉田水脈擁護、LGBT差別は「編集部」でなく「取締役」がGOを出していた

リテラの記事によれば、「新潮社出版部文芸」のツイートも、「あまりに常識を逸脱した偏見が見受けられた」という社長声明も、ワイドショーなどにコメンテーターとして出演している中瀬ゆかり氏(文芸担当取締役)主導による「作家対策」なのだとか。

新潮社は、文芸部門と雑誌部門は、同じ会社と思えないほど気風が違っているとか、経営者が編集にいっさい口出しをしない編集権が確立されており、それが新潮社の伝統だなどという記事が出ていましたが、そんな都合のいい話があるわけないでしょう。新潮社から本を出している作家センセイ達の自己弁解のようなものでしょう。

新潮社は筋金入りのヘイト出版社です。「良心」をせせら笑うような出版社なのです。日本の文学は、そんなヘイト出版社によって支えられているのです。大江健三郎も、高橋源一郎も、星野智幸も、二重底の中で“文学を営んでいる”だけです。

『「週刊新潮」の内幕 - 元編集部次長の証言』(第三文明社)という30年以上前に出た本がありますが、その中で著者の亀井惇氏(故人)は、『週刊新潮』のことを「冷笑主義」「韜晦趣味」と表現していました。亀井氏は、新潮社に21年勤めた、文字通り”中の人”ですが、本では、『週刊新潮』の記事が「アカ嫌い」の幹部達の意向に沿って作られていたことを仔細に証言しています。

業界では知られた話ですが、かつての名物コラム「東京情報」の執筆者のヤン・デンマンなる「在日外人記者」も、社内で権勢を振るっていた斉藤十一重役(故人)の立案によるもので、ヤン・デンマンは「在日外人記者」でもなんでもなく、架空の人物だったそうです。同コラムでは、「戦後の日本人は人権を安易につまみ食い的にむさぼった結果、義務を忘れて〈社会を腐らせつつある〉」と主張し、「その”元凶”として憲法をやり玉にあげている」のでした。新潮社の「反人権体質」は、今にはじまったことではないのです。

余談ですが、昔、自宅近くの鎌倉の小町通りの小料理屋で一献を傾けている斉藤十一氏を、『噂の真相』が隠し撮りして誌面に掲載し、新潮社が激怒したという”事件”がありましたが、最近そういった骨のあるメディアがなくなったことも、新潮や文春のような”反人権メディア”がのさばる要因でもあるように思います。『新潮45』の編集長や新潮社の社長を直撃取材したメディアが一社もないのも、不思議でなりません。それがこの国の「言論の自由」なのです。

また、ヘイト本を出すのはビジネスのためだ、売れりゃなんでもいいという考えこそ問題だとか、ヘイト本を批判するあまり出版社を追い込むのは「言論の自由」を侵すことになるという意見があります。

実際にネトウヨなどは、「言論の自由」を逆手に取って、ヘイト本を批判する「ブサヨ」に対して、言うこととやってることが違うじゃないかと批判しています。「僕らの民主主義」(高橋源一郎)に安眠を貪る左派リベラルの痛いところを衝いているように思えなくもありません。

中には、「新潮社は言論機関だから」というような物言いさえありますが、新潮は「言論機関」なんかではありません。新潮社の「言論の自由」なんてどうだっていいのです。

小林よしのりは、BLOGOSで次のように書いていました。

BLOGOS
新潮45は炎上商法として大成功である

問題は「差別したい」という意見表明は許されるのかである。
思想言論の自由として許されるか?
それとも弾圧してしまうべきか?

市場に任せていても悪貨が良貨を駆逐するだけである。
市場の浄化作用なんかない。


「言論の自由」ってなんだ、とあらためて考えざるを得ません。「言論の自由」に寄りかかっている限り、権力を持つ側が「強い」のは当たり前でしょう。百家争鳴、談論風発というのは、民主主義の幻想です。賛否両論(両論併記)というオブスキュランチズムの罠に陥るだけです。

「言論の自由」を盾に、新潮に圧力をかけるのは言論弾圧ではないか、焚書坑儒ではないかというネトウヨの批判に対して、「言論の自由」に差別する自由は含まれない、差別は「言論の自由」の敵だと反論しても、なんだか自家撞着のようにしか思えません。

むしろ、「電通ダイバーシティ・ラボ」などの「市場の浄化作用」の方がよほど効果的な気がします。今回の「休刊」というトカゲの尻尾切りも、ある意味で「市場の浄化作用」が働いたと言えなくもないのです。でも、新潮社のヘイト体質は温存されるでしょう。これからも『週刊新潮』はヘイトな記事を流しつづけるでしょう。

「自由」というのは、かように非力で無力なものなのです。個人的には、(その可能性は低いようですが)今回の「休刊」が新潮社の「経営に深刻な打撃を与える」ことを願うばかりです。不買運動もない。新潮社から本を出している作家センセイを糾弾する声もない。だったら、もう自壊を待つしかないのです。一連の流れを見ても、そういう虚しさと歯がゆさを覚えてなりません。


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安室奈美恵が引退の前日、故郷の沖縄でラストライブが行ったので、安室ファンが沖縄に集結し、沖縄は「安室一色になった」と報道されていました。

地元紙の女性記者が、安室奈美恵は沖縄の人間に対するイメージを変えたと言ってましたが、たしかにその一面はあるでしょう。また、沖縄出身の安室ファンの女性が、上京して、職場で「どこの出身?」と訊かれたので、おずおずと「沖縄です」と答えたら、「安室奈美恵と一緒だ!」「いいなあ」と言われてびっくりした、というような記事も新聞に出ていました。

ちょうどアムラーブームの頃でしたが、原宿の竹下通りにある取引先の店に、沖縄出身の女の子がアルバイトで入ってきたことがありました。雑貨の店だったのですが、場所柄、タトゥーを入れた娘(こ)も働いていました。そんな女の子たちも、浅黒でエキゾティックな容貌の沖縄出身の彼女のことを「羨ましい」と言ってました。

彼女たちの会話を傍で聞いていた私は、若い頃、アルバイト先で一緒だった人間から聞いた話を思い出していました。彼は、「川崎の先に沖縄の人たちが集まって暮らしているところがあるんだよ」と言ってました。大学の授業(フィールドワーク)で、そこを訪れ、住人から話を聞いたのだそうです。「川崎の先」というのは、正確には横浜の鶴見のことです。鶴見は、今、私が住んでいる東横線沿線の街からは山を越えた反対側(海側)にありますが、たしかに、横浜に来て沖縄出身の人と遭遇することが多くなりました。

私は、九州の大分出身ですが、九州でも東の方の人間にとって、沖縄はとても遠い存在でした。東京に来るまで、沖縄出身の人間に逢ったことはありませんでした。むしろ、朝鮮半島や中国出身の人間の方が身近にいました。

今と違って、観光で沖縄に行くなんてこともほとんどありませんでした。飛行機の直行便もなく、交通の便が悪かったからです。私が地元で働いていた頃は、福岡経由で韓国の済州島にゴルフに行くのが流行っていましたが、福岡からだと沖縄より韓国の方が近かったのです。会社には、全国に地区ごとの販売担当者がいましたが、沖縄は九州に入っていませんでした。交通の便を悪いので、東京から直接行っていました。

昔、沖縄は犯罪者が逃げ込む島のようなイメージがありました。小中学校の同級生で二人、犯罪を犯して指名手配された人間がいるのですが、二人とも沖縄に逃げていました。沖縄が“癒しの島”のようなイメージを付与されたのはまだ先のことです。当時は暴力団抗争が頻発する、犯罪者が逃げ込む島というイメージのほうが強かったのです。

そう言えば、安室奈美恵を見出した養成学校の関係者も、東京でトラブルを起こして沖縄に逃亡し、学校を作ったというような記事を読んだ覚えがあります。

以前、鶴見在住の沖縄出身の人と知り合り、話を聞いたことがありますが、その人も若い頃は、沖縄出身であることにコンプレックスを抱いていたと言ってました。苗字が独特なので、沖縄出身であることがすぐバレて、差別されることも多かったそうです。アパートも貸してもらえないこともあったそうです。そのため、京浜工業地帯で働く沖縄出身者を中心に、「ウチナーンチュのコミュニティが自然にできたんだろう」と言っていました。

ラストライブの際、共演したBEGINのメンバーが、MCの中で、東京で肉体労働のアルバイトしたとき、顔が本土の人間と違うので、イラン人やパキスタン人などと同じ外国人の列に並ばせられたというようなエピソードを面白可笑しく話していたそうですが、それはややオーバーにしても、ついこの前まで沖縄人が露骨に差別されていたのは否定し得ない事実でしょう。

沖縄も、なんだか韓流と似ている気がします。今の女子高生たちの中には、オルチャンメイクやオルチャンファッションなど韓国人に憧れる子が多いそうですが、しかし、その一方で、ネットでは相変わらず“嫌韓”=韓国人差別が根強く残っています。沖縄も同じです。“安室反日認定”などはその最たるものでしょう。

いらぬおせっかいだと言われるかもしれませんが、最近、沖縄のアイデンティティってなんだろうと思うことがあります。知事選も、なんだか本土の代理戦争のような気がしてなりません。

沖縄は、現在、空前の不動産ブームだそうですが、悲惨な戦争体験→米軍基地が集中した島→平和を希求する自然豊かな”癒しの島”のイメージが、見事なまでに資本主義の欲望に組み込まれ、「金のなる島」になっているように思えてなりません。

竹中労は、『黒旗水滸伝』の中で、次のような民謡の一節を紹介していました。「黄金の花」ではないですが、”癒しの島”になる中で失ったものもあるのではないか。そう思えてなりません(カッコ内のふりがなは本文ではルビ)。

うら頼(たの)ま南風(ばいかじ) 事言(くろうい)つく空(うい)るけ
大石垣(うふいしがき) 主島(あるじしま)吹ち通し
譬(たと)りばん物無(むぬね)ぬ 此びりばん事無ぬ
肝絶(きむた)いて 胸煙(んにきぶり)立ち通し
(八重山群島『言遣り節(いやりぶし)』)



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10代の終わり頃だったと思いますが、なにかの雑誌で、五木寛之氏と寺山修司が「市民的価値意識批判」というテーマで対談しているのを読んだことがありました。

当時はまだ全共闘運動の余韻が残っていて、論壇もいわゆる“新左翼的な論調”が主流でした。二人の対談のように、「市民的価値意識」を批判するのも半ば常識のような感じでした。今風に言えば、右か左かではなく上か下かの視点が存在していたのです。総評が主導する左派の労働運動も、本工主義だと批判されていました。労働の現場には、本工→下請工→期間工と言った三重の差別構造が存在していると言われていました。当然、左翼の権威の象徴でもあった日本共産党は、徹底的に批判されていました。民青の運動なんて、資本主義的な価値意識を補完する欲望のナチュラリズムにすぎないと批判する文章を読んだ覚えもあります。

しかし、今は「市民的価値意識」が金科玉条のようになっています。それこそ自民党から共産党まで、「市民的価値意識」を批判する政党なんていません。各政党は、「市民的価値意識」にどれだけ貢献できるかを競っているのです。与党も野党も同じ土俵で相撲を取っているだけです。まさに「市民」は神様なのです。

一方で、この国には、生活保護の基準以下で生活している人が2千万人もいるのです。OECDの加盟国のなかでも飛びぬけた格差社会なのです。労働の現場でも、差別構造は温存されたままです。それどころか、製造派遣が解禁され、益々劣悪になっている現状があります。

この国には、既成政党が用意する土俵に上がれない、「市民」にもなれない人たちが多くいるのです。

同じ土俵で相撲を取っている限り、野党が与党に勝てないのは当然です。有権者にとって、与党も野党も似たもの同士にしか見えないでしょう。だったら、与党の方が安心だと考えるでしょう。

「市民的価値意識」に安住し、欲望のナチュラリズムを美徳とする有権者には、”安倍独裁”なんてどうだっていいのです。武蔵小杉のタワマンの住民に向かって、改憲を目論む安倍政治にノーを突き付けましょうなんて演説しているのは、滑稽ですらあります。

階級の問題は決して過去の話ではないのです。弱肉強食を是とする風潮の中では、むしろ、すぐれて今日的な問題であると言えます。ただ、それに目を向けてないだけです。

ブレンディみか子氏は、左派は経済を語ることをやめてしまったと書いていましたが、左派というのは、言うなればサンクコストの呪縛に囚われた、もうひとつの保守にすぎないのです。そこに、左派が存在感を失った理由があるのだと思います。

何度もくり返しますが、右か左かではなく上か下かなのです。これも既出ですが、以前、ブレンディみか子氏は、ポデモスのイグレシアスの、次のような言葉を紹介していました。

「勝つためには、我々は左翼であることを宗教にするのをやめなければならない。左翼とは、ピープルのツールであることだ。左翼はピープルでならなければならない」


しかし、私は、イグレシアスの言葉をこう言い換えたくなりました。「勝つために、我々は左翼であることをやめなければならない。左翼に代わって、新しいピープルのツールを作らなければならない」と。

左翼こそめぐまれた既得権者だというネトウヨの”パヨク批判”も一理あるように思います。国会前デモや排外主義に反対する人たちのSNSなどを見ても、なんだか政権批判ごっこをしているようにしか見えません。危機感や絶望感はあまり伺えません。安倍政権と同じように、「やってる感」で自己慰撫しているだけのようにしか見えないのです。

ネトウヨに対して、「オマエたちはオレたちのような『市民』ではないだろう。ざまあみろ」みたいな”批判”が何のためらいもなく行われているのを見るとき、私は、暗澹たる気持にならざるを得ません。

今、必要なのは、左翼と決別することでしょう。左翼のドグマに無頓着な左派リベラルに引導を渡すことでしょう。そして、与党にも野党にも、もっと絶望することでしょう。全てはそこから始まるのだと思います。


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