昨日、テレビ東京の「家、ついて行ってイイですか」という番組を観ていたら、都内の風呂無しトイレ共同の古い木造アパートで、ひとり暮らしをする65歳の男性が出ていました。東京出身だそうですが、30代の頃、両親が相次いで病死し、一人っ子だったので天涯孤独で、現在は清掃の仕事をして糊口を凌いでいると言ってました。今のアパートも30年以上住んでいるのだとか。

若い頃は会社勤めをしていたけど、「サラリーマンには向いてない」「自由に生きたい」と思ったので、両親が亡くなったあと、会社を辞め、以後日雇いの仕事をしていたそうです。ただ、年金が少ないので、身体が丈夫な間は働かなければならないと言ってました。

テレビの男性より下の世代ですが、私の知り合いにも似たような生活をしている人間が何人もいます。彼らは、フリーターの第一世代です。学校を出てほぼ大半をフリーターとして生きているのです。そんな彼らも、既に50代の半ばに差し掛かっているのです。親の年金に寄生している中高年ニートが100万人近くいるという話もありますが、それとは別に稼働年齢の終わりに近づきつつある中高年フリーターの問題も深刻なのです。

『新・日本の階級社会』の著者・橋本健二氏によれば、65歳以上の「高齢アンダークラス」の年金の平均受給額は96万円だそうです。

(略)高齢アンダークラス男性の現状は、現在の若年・中年アンダークラス男性が将来どのような生活を送ることになるかについて、示唆するところが多い。年金収入は九六万円だから、基礎年金を満額受け取った場合に比べて二〇万円ほど多いだけである。(略)しかし逆からみれば、基礎年金すら受け取ることができるかどうかわらかない現在の若年・中年アンダークラスに比べれば、わずかとはいえ恵まれているだろう。その意味ではこれらの高齢アンダークラスは、若年・中年アンダークラスの将来の生活の、いわば「上限」を示しているとみていいだろう。

『アンダークラス—新たな下層階級の出現』(ちくま新書)

 
一方で、中高年フリーターがブラック企業のカモにされているという現実もあります。ブラック企業がはびこるのも、膨大なフリーターの労働市場があるからです。しかも、中高年になると、同じブラック企業でも、清掃や警備や配送など仕事も限られるのです。今後外国人労働者が入ってくると、こういった仕事も若い外国人に奪われるでしょう。

中高年フリーターに対して、まわりからは「自由がいいからだよ」「縛られたくないんだよ」というような見方をされ、本人たちも、「家、ついて行ってイイですか」の男性のように、「自由に生きたかった」というような言い方をするのが常です。でも、自由どころか、老いてもなお生活に追われ、いつまでも働きつづけなければならないきびしい現実が待っているのです。

上記の『アンダークラス—新たな下層階級の出現』のなかで、橋本氏もつぎのように書いていました。

NPOを拠点にソーシャルワーカーとして活動する藤田孝典氏は、「生活保護基準相当で暮らす高齢者及びその恐れがある高齢者」を「下流老人」と呼び、その数は推定で六〇〇~七〇〇万人に上がると指摘している。そしてこれらの高齢者は、年金受給額の減少、介護保険料の増加、生活費高騰のため、生きるために働き続けなければならない状況に置かれており、このように日本は「死ぬまで働き続けなければ生きられない社会」になりつつあるのではないか、という(『下流老人』『続・下流老人』)。これら高齢アンダークラス男性は、こうした日本を象徴する存在だということができる。


総務省統計局が2014年の労働力調査に基づいて発表した年代別非正規雇用の割合を見ると、65歳以上がいちばん多くて73.1%、つぎが15~24歳で48.6%、三番目が55~64歳の48.3%、四番目が45~55歳の32.7%です。

総務省統計局
最近の正規・非正規の特徴

55~64歳のなかには、リストラなどで職を奪われ、非正規を余儀なくされた人たちも多くいるのでしょう。そういった人たちも問題ですが、いちばんの問題は、そのあとの45~55歳の32.7%という数字です。45~55歳のなかには、間違いなくフリーターの第一世代がマスとして含まれているからです。年金に未加入の人間も多いはずです。もちろん、そのあとも第二第三とフリーターの世代がつづくのです。

彼らに向かって、「自業自得」「自己責任」ということばを投げつけるのは簡単ですが、しかし、彼らの存在は、私たちにとっても決して他人事ではないのです。

資本主義社会で生きて行くのは大変です。それは私たちの実感でもあります。日本人の7割は、サラリーマンとして人生を終えると言われますが、しかし、みんなが順調に人生を終えるわけではないのです。サラリーマンということばのイメージとはまったくかけ離れたような人生を送っている人も多いのです。

ネット通販で巨万の富を得た間寛平似の成金社長が、恋人だか愛人だかわからないような若い女優や取り巻きのお笑い芸人と麻布の高級店で食事する、その一回の食事代にも及ばないような年収しかない下級労働者が、この国には1千万人近くもいるのです。

そして、間寛平似の成金社長や彼の部下は、おなじみの「自己責任」論で下級労働者を貶め、女優の肩を抱きながら高笑いを放っているのです。

藤田孝典氏は、下級労働者を見下した彼らのSNSの書き込みに対して、つぎのようにTwitterで怒りを表明していました。


間寛平似の社長らの臆面のない成金自慢を見るにつけ、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を持ち出すまでもなく、資本主義が歯止めもなく倫理的に崩壊しているのをひしひしと感じます。ネット社会やグローバル資本主義が、そういった暴走を招いているのです。彼らにとっては、格差社会もまるで勝利の美酒のツマミのようです。これでは、資本主義社会で生きて行くのが益々大変になっているのも当然でしょう。


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2018.12.31 Mon l 社会・メディア l top ▲
ローラが、インスタグラムで辺野古の新基地建設工事の中止を求める署名を呼びかけて話題になっています。と言うか、“政治的発言”だとしてメディアやネットで叩かれているのです。そうやってローラをCMから降ろすようにスポンサーに圧力をかけている(かけられている)のです。

松本人志や北野武や坂上忍らの”政治的発言”は不問に付され、どうしてローラだけが問題視されるのか。ローラのそれは政権批判につながるものだからでしょう。松本人志や北野武や坂上忍のような、機を見るに敏なポチのおべんちゃらではないからです。

もっともローラは、今までも環境問題やペットの殺処分に関して積極的に発言していますので、辺野古の工事についても、どちらかと言えば、政治的な理由というより環境問題として、埋め立てに懸念を表明したのかもしれません。

また、現在、拠点をアメリカに置いていますので、こういった発言をすることに躊躇いはなかったのでしょう。ローラも所属事務所と契約問題でもめたことがありますが、むしろ、政治的に色が付かないように、見ざる聞かざる言わざるの三猿であることを強いられる日本の芸能界が特殊なのです。その前提にあるのは、言うまでもなく日本の芸能界にはびこる”奴隷契約”(竹中労)です。

ただ一方で、私は個人的には、新基地建設の中止をアメリカ政府にお願いする署名運動には違和感を抱かざるをえません。原発事故で盛り上がった反原発運動を野田首相(当時)との面会に収れんさせ、ものの見事に運動のエネルギーを雲散霧消させたあの”悪夢”が思い出されてならないのです。そこにあるのは、「『負ける』という生暖かいお馴染みの場所でまどろむ」(ブレイディみかこ)左派リベラル特有のヘタレで自慰的で敗北主義的な発想です。もとより日米軍事同盟は、それほどヤワなものではないでしょう。

去る12月20日、ロシアのプーチン大統領は、恒例の年末記者会見で、日本との平和条約交渉に関連して、つぎのような考えを示したそうです。

(略)日本との平和条約交渉について、締結後の北方領土への米軍展開を含めロシアの懸念を払拭するのが先決との考えを示し、「日本側の回答なしに重要な決定を行うのは難しい」と述べた。また沖縄県で民意に反し米軍基地の整備が進んでいることを例示し、日米同盟下で日本が主権を主体的に行使できているのか疑問を呈した。

共同通信
ロシア、在日米軍展開懸念払拭を


これほどバカにされた発言はないでしょう。ホントに独立国なのか?と言われているようなものです。これでは、平和条約=北方領土返還なんて絵に描いた餅にすぎないでしょう。

ローラの発言について、『ジャパニズム』(青林堂)の元編集長で元ネトウヨの古谷経衡氏は、つぎのように書いていました。

(略)私はローラさんが、辺野古移設工事反対10万筆署名に賛同の意を示したことの、どこが「左傾」「反日」なのか、まったくもって意味が分からない。

 沖縄の先祖代々の土地を、米軍から取り戻したい。沖縄の先祖代々の土地に、これ以上米国の軍隊の基地を創って欲しくない―。これこそが保守であり、真の愛国者の姿勢では無いのか。

Yahoo!ニュース
ローラさんの辺野古工事阻止10万筆署名賛同こそ、真の保守であり愛国者だ


当たり前すぎるほど当たり前の見方と言えるでしょう。当たり前に見えないのは、戦後の日本が当たり前ではないからです。そして、私は、あらためて「愛国」と「売国」が逆さまになった”戦後の背理”を考えないわけにはいかないのでした。私たちはまず、「愛国」を声高に叫ぶ人間たちこそ疑わなければならないのです。


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2018.12.28 Fri l 社会・メディア l top ▲
南青山に建設予定の児童相談所の住民説明会における一部住民の反対意見が、テレビのワイドショーの恰好のネタになっています。

実際に建設されるのは、児童相談所を含めた4階建ての複合施設だそうで、港区のホームページの「南青山用地での整備の理由」には、つぎのように記載されていました。

港区公式ホームページ
(仮称)港区子ども家庭総合支援センター(児童相談所他2施設・平成33年4月開設予定)

港区は、児童虐待や非行などの児童に関する問題への対応や一時保護などを行う「児童相談所」、子育て中の人を支援する「子ども家庭支援センター」、様々な事情から養育が困難となった母子家庭が入所する「母子生活支援施設」が一体となった複合施設「(仮称)港区子ども家庭総合支援センター」を整備し、児童虐待、非行、障害など、あらゆる児童の問題に対して、区が主体性と責任を持って、切れ目のない一貫した相談・支援体制を作ってまいります。


これに対して土地のブランドにこだわる一部住民は、「一等地の南青山に児童相談所はふさわしくない」と本音丸出しの反対意見を述べ、物議を醸したのでした。

「南青山は自分でしっかりお金を稼いで住むべき土地。土地の価値を下げないでほしい」
「私の場合は、3人子どもがほしいと思ったので、私立に3人入れるよりは意識の高い公立小学校に入れると決め、億を超える南青山の土地を買い、家を建てた。
(略)
もし(施設の)子どもたちがお金ギリギリで(意識の高い)小学校にいらっしゃるとなったときは、とてもついてこられないし、とても辛い思いをされる。むしろかわいそうではないか」

複合施設に対する誤解もあり、不勉強ゆえにただ感情的に反発している気がしないでもないですが、こういった発言をする背景には、土地やマンションを所有することに資産価値を求め、土地にブランド価値を見出す発想があるからでしょう。私は地方出身者ですが、田舎では家をもつことに資産価値を求めるような発想はありません。なぜなら土地が安く、将来転売して利益を得ようという邪な考えがないからです。

もっとも、こういった発想は、南青山の住民だけでなく、マンションコミュニティーサイトの掲示板などを見ると、都心のマンションではどこにでも存在しています。都心のマンションの住民たちで、南青山の住民が“異様な人々“であるという認識をもっている人は、案外少ないのではないでしょうか。

都心のマンションでは、近所に老人福祉施設や病院ができたり、なかには区の図書館ができるというだけで、「資産価値が下がる」と言って差別的な書き込みが並ぶのが常です。学校も離れていればOKですが、すぐ近所だと迷惑施設になるのです。まして児童虐待やDV被害者の施設ができるなどと言われたら発狂するのは当然でしょう。そこにあるのは”土地神話”という病理です。

ただ、昔から住んでいる地の人間は、事情が異なるようです。私は、親の代から六本木や麻布や神楽坂に住んでいる人間を知っていますが、彼らはバブルの頃、地価がウナギのぼりすることに対していつも溜息を吐いていました。なかには、固定資産税を払うためにパートに出ている奥さんもいました。地の人間たちにとって、資産価値が上がっていいことなんてないのです。資産価値が上がって喜んでいるのは、他所から来た人間たちなのです。

“土地神話”が生まれたのはバブル以降ですが、しかし今また、異次元の金融緩和(量的緩和)で不動産業界にお金が流れ、首都圏では異常とも言える土地バブルが再来しています。

バブルの頃、暴力団を使った地上げが社会問題になりましたが、今も同じような地上げが行われています。ただメディアが以前のように取り上げてないだけです。そして、不動産業界に巣食うブラックな紳士たちが再び肩で風を切って歩いているのです。

五反田の旅館跡地をめぐって、地面師たちが積水ハウスから63億円を騙し取った事件も、土地バブルが生んだ事件と言っていいでしょう。騙し取られた積水ハウスも、63億円ごときではビクともしないのです。土地バブルでは、そんなお金ははした金にすぎないのです。私は、あの事件にはむしろ痛快な感想さえもちました。

南青山の住民によって、“土地神話”が人間の心を如何に蝕んでいるかがいみじくも証明されたのでした。「高級住宅地」だからと言って、住んでる人間が「高級」なわけではないのです。南青山の住民たちは、土地バブルに踊る(踊らされる)品性下劣な下等物件(©竹中労)であることをみずから暴露したと言えるでしょう。
2018.12.24 Mon l 社会・メディア l top ▲
カルロス・ゴーンに対する東京地検特捜部の拘留延期申請が却下され、保釈も間近と思われたのもつかの間、まさかの再逮捕(三度目の逮捕)には誰しもが驚いたことでしょう。推定無罪という近代法の基本原則などどこ吹く風の検察の横暴にしか見えませんが、それもゴーン逮捕が”政治案件”だからなのかもしれません。

もともと虚偽記載という“形式犯”で長期間身柄を拘束することには批判がありました。とりわけ海外のメディアからは、”人権後進国”の日本に対して厳しい目が向けられていました。そういった批判が、拘留延期却下という東京地裁の異例の決定(!)に影響を与えたのは間違いないでしょう。だからというわけなのか、東京地検特捜部は、“本丸”の特別背任罪での再逮捕という大博打に打って出たのでした。ただ専門家の間では、特別背任罪による起訴は難しいという見方が多いようです。

このような日本的な「人質司法」も、弁護士の渡辺輝人氏によれば、裁判所の“慣行”にすぎないのだそうです。考えてみれば、裁判官も検察官も同じ公務員です。”身内意識”がはたらいてないと言えばウソになるでしょう。

(略)刑事訴訟法の条文自体は、身体拘束にそれなりに厳しい要件を設けており、本来、簡単に起訴前勾留を認めたり、安易に勾留延長を認めたり、“振り出しに戻る”ルールを安易に許したりするようにはなっていません。このような「人質司法」はひとえに制度を運用する裁判所の慣行です。そして、長期の身体拘束と、被疑者・被告人の取り調べについて弁護人の同席を認めない制度が、無実の人を自白の強要により冤罪に追い込む仕組みになっています。

Yahoo!ニュース
ゴーン再逮捕と身柄拘束手続の仕組み


マフィア化は政治だけでなく、法の番人も例外ではないのです。まさにこの国そのものがマフィア化しているのです。

宮台真司は、週刊読書人ウェブの鼎談のなかで、人類学者の木村忠正氏の『ハイブリッド・エスノグラフィー』(新曜社)を取り上げ、つぎのように言ってました。

木村氏は「政治が自称マイノリティに特権を与え過ぎ、マジョリティが享受すべき利益が喰われた」とする議論がネットで分厚く支持される事実を実証します。ネットユーザーの過半数です。「自称マイノリティ」には広い意味があります。生活保護受給者や在日コリアンやLGBTだけでなく、日本に様々な要求をする中国・韓国・北朝鮮のような国も含まれます。勤勉で正直な自分らマジョリティは弱者を騙るずるい人や国に利益を奪われている──。そんな被害妄想が拡大しています。

氏の議論はフランクフルター(批判理論)と接続がいい。中流が分解し、昭和みたいな経済成長も立身出世もない。そう人々が断念したのに加え、今のポジションより落ちるのではないかとの不安と抑鬱に苛まれる。フランクフルターが問題にした大戦間のワイマール期に似ます。エーリヒ・フロムの分析によれば、貧乏人ではなく、没落中間層が全体主義に向かう。「こんなはずじゃなかった感」に苦しむからです。だから被害妄想を誇大妄想で埋めようとする。

週刊読書人ウェブ
宮台真司・苅部直・渡辺靖鼎談
民主主義は崩壊の過程にあるのか


国民においても、非人道的な「人質司法」や検察の横暴などより、日産=日本の利益を食い物にしたゴーンに対する反感が優先されるのです。そこにあるのも、マフィア化を支えるブラックアウト的感情です。そして、そういった感情を煽る役割を担っているのがメディアです。メディアは、検察からリークされた情報を垂れ流し、まるで裁判がはじまる前から有罪が確定したかのような印象操作をおこなっているのでした。権力を監視するどころか、権力の走狗になっているのです。

(法律に)「やっていいと書いていないことはやらない」のではなく、「法律が禁じていないことはやっていい」という、法律の抜け穴を利用するような政治。安保法制や辺野古をめぐる対応や森友や加計の問題などを見れば、一目瞭然でしょう。これが(この国が)「底がぬけた」と言われる所以です。


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政治のマフィア化
2018.12.22 Sat l 社会・メディア l top ▲
パリの「ジレ・ジョンヌ(黄色のチョッキ)」のデモは、当初の燃料税引き上げに反対するものから反マクロンの政権批判に発展し、デモ自体も全国に拡大しているようです。

しかし、日本のメディアは、デモの「暴徒化」のみにフォーカスを当て、デモの本質を伝えようとしていません。

WEBRONZAに掲載された在フランスのジャーナリスト・山口昌子氏の記事によれば、有名ブランド店などのショーウインドが破壊されたりするのは、デモ隊に紛れた「キャサール(壊し屋)」の仕業だそうです。日本のメディアが伝えるのは、もっぱらそういった現場の映像です。

WEBRONZA
パリは革命前夜? 「黄色いチョッキ」デモの実態

現地で取材する田中龍作氏によれば、グローバル企業の象徴とも言えるスタバの壁には、「打倒、帝国主義」と落書きされていたそうです。と言うと、落書きしたのは左翼のように思うかもしれませんが、実際は、多くの「ジレ・ジョンヌ」がそうであるように、愛国的なドゴール主義者の手によるものなのでしょう。階級闘争も反帝国主義も、今や右派のスローガンになっているのです。

フランスにおいても、「忘れられた人々」が声を上げはじめているのです。自分たちを「忘れられた」存在に追いやるグローバル資本主義に、反撃の矛先を向けはじめているのです。それを主導しているのが極右です。

田中龍作ジャーナル
【パリ発】黄色いベストが襲撃するネオリベ金融機関とスタバ ‘MACRON HARAKIRI’

歴史上初めて市民革命(フランス革命)を成し遂げたフランス人にとって、デモは「遺伝子」みたいなもので、「大小を合わせると、デモの回数は年間3000回という数字もある」(上記山口氏の記事)そうです。

デモ自体も、日本では考えられないような激しさです。今の日本には、あのようなデモをする自由さえありません。ゴーン逮捕で世界に知られることになった「人権後進国」の実態が、デモの自由度においても露呈されているのです。

日本では、反原発や反安保法制の国会前デモに見られるように、「おまわりさんの言うことに従おう」という”檻のなか”のデモしかありません。フランス人から見れば、「あんなのデモではないよ」と言われるでしょう。

日本においては、政権が追い込まれるデモなんて夢のまた夢です。それより選挙に行って野党に投票しようというのが、デモの主催者たちの主張です。だから、選挙に行かないやつが悪い、選挙に行かないやつに政治を語る資格はない、と彼らは言うのです。そのためのデモなのです。それが「僕らの民主主義」(高橋源一郎)なのです。

マクロンが、かつてロスチャイルド系の銀行に勤務し、企業買収などを担当して高額な報酬を得ていたことは知られていますが、ロスチャイルド系の銀行に勤務していたとき、彼はフランス社会党の党員でもありました。その後、政治家に転身して中道政党を立ち上げるのですが、こういったところにも、ネオリベと密通したフランス左派の現状(テイタラク)が示されています。それが、革命が極右に簒奪された主因でもあるのでしょう。

もっとも、2000年代初めアメリカで新保守主義が台頭した際、ネオコンは「”赤いマント”を着ていないトロッキストだ」と喧伝されたように、左翼のインターナショナリズムがグローバリゼーションと思想的に親和性が高いのは否定すべくもない事実でしょう。むしろ右翼民族主義こそがグローバリズムに対峙する思想的な視点をもっているはずなのです。”戦後の背理”に呪縛された日本の民族主義は歪んだものになっているので、日本的な視点で見ると理解できないかもしれませんが、極右がグローバリズムに反対するのは自然な流れとも言えるのです。

デモは、マクロンを徐々に追いつめいています。デモによって、マクロンは、最低賃金の増額や残業代とボーナスの非課税、それに月額2千ユーロ(約26万円)未満の年金受給者に対する社会保障税減税などの妥協案を発表せざるを得なくなったのでした。

余談ですが、年金受給者向けの減税案を見ても、フランスの年金レベルが日本と比べ高いことがわかります(フランスの年金の平均支給額は22万円強だそうです)。デモで政権を追いつめることができる自由と言い、同じ民主主義を標榜する「先進国」でもこんなに違うのかと思います。それは、市民革命で自由を手に入れた国と、そうではない国の違いでもあるのでしょう。と同時に、「非暴力」という排除の論理で偽装した左の全体主義=「僕らの民主主義」の欺瞞性を今更ながらに痛感せざるを得ないのでした。

栗原康が編纂した『狂い咲け、フリーダム』(ちくま文庫)に、山の手緑氏のつぎのような文章がありました。

メルロ・ポンティがいうように「受肉した存在であるわたしたちにとって、暴力は宿命である」のなら、身体だけその辺に置いて逃げるわけにもいかない。暴力を手放すわけにはいかない。
 貧しい者は幸いである、無力なものには暴力がある。というのが資本主義の現実である。
(略)
 暴力を手放すということは自由を手放すことに等しいことなのだ。
(「暴力、大切」山の手緑)


暴力もまた自由の尺度のひとつなのです。


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左の全体主義
2018.12.14 Fri l 社会・メディア l top ▲
2018年12月9日14


関内に用事があったついでに、いつものように日本大通りから山下公園、さらにみなとみらい界隈を散歩しました。

紅葉もほぼ終わり、日本大通りや山下公園のイチョウも、黄色い葉がかろうじて枝に付いている感じでした。

日曜日とあって、横浜はどこも多くの観光客で賑わっていました。横浜に来る観光客で特徴的なのは、カップルが多いことです。そのなかを、大男のオヤジがいっそう背を丸め歩いているのでした。

例年赤レンガ倉庫で催される「クリスマスマーケット」も、大変な人出で、歩くのも苦労するほどでした。もともと「クリスマスマーケット」はドイツかどこかのマーケットを真似ていて、販売されているのも海外のクリスマスグッズが主でした。ところが、よく見ると、ずいぶん様変わりしており、グッズは影を潜め、食べ物の店が前面に出ているのでした。もちろん、多くはクリスマスと関係のない食べ物屋ばかりです。やはりクリスマスも「花より団子」なのかと思いました。

若い頃から輸入雑貨の仕事に携わり、クリスマスのカードやグッズを扱ってきた人間としては、ちょっとさみしい気持になりました。

デパートなどでバラエティ雑貨とか趣味雑貨と呼ばれていた輸入雑貨を最初に手掛けたのは、芸能界の周辺にいた人間たちでした。彼らが、ひと儲けしようと海外からめずらしい雑貨を持ち帰り、徐々に増えはじめていた雑貨の店に売り込んだのです。あの三浦和義もそのひとりでした。私が最初に勤めた会社の社長も、某フォークディオのマネージャーでした。なかには、元グループサウンドのメンバーが立ち上げた会社もありました。私は、彼らから「面白かった時代」の話をよく聞かされました。でも、今も生き残っている会社はほとんどありません。

そう言えば、この時期は休みもなく働いたもんだなあ、と昔をなつかしんだりしました。この時期が一年でいちばんの「書き入れ時」でした。

帰りに、いつものように、ランドマークタワーのくまざわ書店に寄って、本を買いました。会社に勤めていた頃、くまざわ書店も担当したことがありました。当時は八王子にある小さな書店にすぎませんでした。ところが、会社を辞めてしばらく経ったら、いつの間にか全国区に急成長していたのでびっくりしましたが、TSUTAYA(蔦屋書店)などと同じように、大手取次会社の資本が入ったからでしょう。

本を物色していたら、モデルと見紛おうようなきれいな娘(こ)に遭遇しました。あまりジロジロ見ると、変態オヤジと思われそうなので、さりげなく視線を走らせましたが、きれいな娘に胸をときめかすなんて、なんだか昔にタイムスリップしたような気分になりました。と同時に、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』に漂っていた、あの虚無感が思い出されるのでした。人は変わっても、街はいつの時代もきらびやかで若いままなのです。

年をとると、どこに行ってもなにを見ても、さみしい気持になるばかりです。


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『33年後のなんとなく、クリスタル』
2018.12.09 Sun l 横浜 l top ▲
今、私が住んでいる街は、横浜では一応人気の住宅地です。私は、10年弱しか住んでない新住民ですが、昔は町工場などが多かったそうです。東横線沿線ということもあって、工場跡地にマンションが建てられ、農地だったところが宅地に整備されて、人気の住宅地に変貌したのでした。

昔の名残なのか、駅近くの路地の奥に、飲み屋ばかり入った”長屋”のような建物があります。2階建ての横に長い木造の建物で、1階に居酒屋や小料理屋などが6軒入っています。昔は、工場で働く人たちが仕事帰りに立ち寄る憩いの場だったのでしょう。もっとも、こういった建物は、背後に工場地帯を控える駅などではよく見かけました。ところが、先日、前を通ったら、既に2軒看板が外され閉店していました。もしかしたら取り壊しになるのかもしれません。

私が来た頃は、駅の周辺の路地には、まだ古い飲み屋やアパートが残っていました。しかし、ここ数年でつぎつぎと取り壊され、新しい建物に代わっています。

前も書きましたが、そんな古い木造の、それこそ「○○荘」などという如何にも昭和っぽい名前が付けられたアパートには、低所得の高齢者たちも多く住んでいました。建物が取り壊される度に、住人たちはどこに行ったのだろうと気になって仕方ありません。

金融緩和やオリンピック景気で、土地バブルが再来していると言われており、銀行による積極的な融資によって、古いアパートがつぎつぎと新しく建て替えられているのです。駅周辺の古いアパートも、あと2~3軒を残すのみとなりました。

今日、別の路地を歩いていたら、やはり古いアパートが壊され、シートに囲われた新しい建物が建築中でした。近所の人に聞くと、新しい建物は県内でチェーン展開する保育園になるそうです。

周辺のマンション住民のために保育園が建てられる。そのために追い立てられる低所得者。オーバーと言われるかもしれませんが、なんだか今の格差社会を象徴するような光景に思えてなりません。

反発されるのを承知で言えば、「日本死ね」も所詮は恵まれた人たちの話にすぎません。待機児童の問題では、母親が働かなければ生活が成り立たないような話がいつも強調されますが、当事者の多くは「中」の階層に属する人たちです。間違っても「弱者」ではないのです。「弱者」を盾にみずからを主張しているだけです。もちろん、2千万人もいると言われる生活保護の基準以下で生活している低所得者なんかではありません。

一方で、彼らは、各政党にとってメインターゲットの有権者でもあります。自民党から共産党まで、彼らの歓心を引こうと競って耳障りのいい政策を掲げています。待機児童問題がこれだけ大きくなったのもそれゆえです。まさにプチブル様々なのです。

左翼の概念が右へ右へとずれ、左派がリベラル化中道化するにつれ、左派は上か下かの視点を失っていったのでした。

ジジェクも、現代は「ファシズムが文字通り左派の革命に取って代わる(代理をする)事態を表している」(『ポストモダンの共産主義)』と書いていましたが、アメリカのトランプ現象やヨーロッパを覆う極右の台頭に見られるように、プチブル様々の社会から置き去りにされた人々のルサンチマンを吸収したのは、左派ではなく極右です。上か下かの視点を持っているのは極右の方で、階級闘争は極右の代名詞にすらなっています。ナチスと同じように、”革命”が極右に簒奪されたのです。リベラル化して現実を見失った左派は、歌を忘れたカナリアになってしまったのです。


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「市民的価値意識」批判
『新・日本の階級社会』
2018.12.03 Mon l 社会・メディア l top ▲