今日(1月7日)は昭和天皇崩御の日だそうです。もうあれから30年経ったのかとしみじみとした気持になりました。
昭和天皇の容態が予断を許さない状態であることが伝えられた年末から、日本中は自粛ムードでした。当時、私は、ポストカードやポスターを輸入する会社に勤めていたのですが、自粛ムードの煽りでクリスマスカードが売れず、会社ではみんな焦っていました。
話は飛びますが、「大喪の礼」(2月24日)の日、私は金沢に出張していました。ところが、出張先に社長から連絡があり、話があるのですぐ戻って来いと言われました。それで、私は、急遽、特急電車に乗って帰京し、そのまま新宿のホテルの喫茶室で社長に会いました。
社長は深刻な顔をして、クリスマスカードの販売不振が響いて会社の経営状態がよくないと言っていました(もっとも、前から会社の経営状態はよくなくて、自粛ムードでトドメを刺されただけです)。
「このままだと会社は潰れる。お前に東京より西の販路をやるので、独立しろ」と言われました。今だったら喜んで独立したでしょうが、”サラリーマン根性”が染み付いていた当時の私には、独立なんてとても考えられませんでした。私は、会社を縮小して、10人程度で再出発したらどうかと提案したのですが、社長はそれは無理だと言ってました。
それからほどなく会社は倒産し、私は同じ業界の別会社に転職。数年後、会社を辞め、結局独立することになるのでした。
平成元年は、個人的にも大きな出来事がありました。前年の秋に父親が入院し、平成元年の5月に亡くなったのです。父親の容態もまた予断を許さない状態がつづいていましたので、年末年始も九州に帰り、入院している父親の病院に詰めていました。母親は病院に寝泊りしていましたので(当時は、付き添いのために家族が病院に寝泊りすることができたのです)、実家には誰もいません。それで、大晦日も病院の近くのホテルに泊まったのを覚えています。
そんな状況のなかで、1月7日の崩御の日を迎えたのでした。私が崩御を知ったのは、通勤する電車のなかでした。スマホなんてありませんので、横に立っていたサラリーマンの会話が耳に入ったのでした。
「天皇陛下が死んだな」
「ああ、これで競馬も中止だよ」
サラリーマンたちは、そんな“不謹慎”なことを話していたのでした。ふと外を見ると、電車は鉄橋にさしかかり、鉄橋の下の川べりでは、魚を釣っている人がいました。それもいつもの光景でした。
会社に行くと、みんなは口々に「今日、どうすればいいんだろう」と言ってました。みんな、戸惑っていたのです。
会社の営業部門は、数か月前に荻窪の駅前のビルに移転したばかりでしたが、荻窪の駅前では、ヘルメットにタオルで覆面をした中核派のメンバーが40~50人くらい集まり、「天皇賛美を許すな!」と演説しながらビラを配っていました。そのため、機動隊も出動して、駅前は騒然とした雰囲気になっていました。私たちは、窓際に立ってその様子を見ていました。また、お茶の水の明治大では、革労協のメンバーが路上に火炎瓶を投擲したというニュースもありました。
私は、「昭和天皇より絶対長生きするんだ」と言っていた吉本隆明のことを思い出しました。正月に帰ったとき、母親は、「天皇陛下とどっちが先じゃろうか?」と言ってましたが、父親は昭和天皇より長生きしたんだなと思いました。と言っても、父親は戦争にも行ってませんので、昭和天皇に格別な思い入れがあったわけではありません。
仕事を終えた私は、池袋と新宿の間を何度も行き来しました。昭和の最後の日の街の様子を目に焼き付けておこうと思ったからです。今調べたら1989年1月7日は土曜日でした。新宿の駅ビルの入口には、ネオンが消えた薄暗いなかに、人がぎっしり立っていました。これから待ち合わせて週末の街に繰り出そうという人たちなのです。池袋でも同じでした。ネオンが消えた街は、いつもと違いおどろおどろしい感じでしたが、人々はいつもの日常を過ごそうとしていたのです。そんな様子を写真家の卵なのか、若い女性がカメラにおさめていました。
その日からテレビは追悼番組で埋め尽くされました。アナウンサーもみんな喪服を着ていました。ゲストで呼ばれた人たちも、一様に黒っぽい服装をして、沈痛な表情を浮かべ昭和天皇の人となりを語っていました。
当時、私は、埼玉に住んでいたのですが、翌日には街の至るところで異様な光景を目にしました。貸しビデオ屋の前に、車がずらりと列を作って並んでいたのです。その頃はまだTSUTAYAもなく、街のあちこちに地域のチェーン店や個人が経営する貸しビデオ屋がありました。追悼番組に飽きた人たちが貸しビデオを求めて、店に殺到していたのです。
そこにもまた、日常を切断された人々の”ささやかな抵抗”があったのです。こういった”ささやかな抵抗”は戦争中もあったそうです。でも、「公」に対して「私」はあまりに無力なのです。すべては何事もなかったかのように処理されるのでした。追悼一色に染まったメディアで、そんな”ささやかな抵抗”を報じたところはどこもありませんでした。
あれから30年。時間の経つのは速いものです。今日、新横浜に行ったら、駅ビルのなかに「10周年ありがとう!」という垂れ幕がありました。駅ビルができてもう10年になるのです。このブログにも、建設中の駅ビルのことを書いたことがありますが、なんだか10年が束になってやってくる感じで、年を取れば取るほど時間の経つのが速くなるというのはホントだなと思ったばかりでした。
一方で、平成の時代は、日本が経済的に沈み行く国だということがはっきりした30年でもありました。下記の平成元年と平成30年の時価総額ランキングの比較を見れば一目瞭然です。
DIAMOND online昭和という「レガシー」を引きずった平成30年間の経済停滞を振り返る
でも、相変わらず「ニッポン、凄い!」ブームはつづいています。また、現在、自粛ムードと同じように、徴用工やレーダー照射の問題をきっかけにメディアをおおっている嫌韓ムード(の再燃)などを見るにつけ、貧すれば鈍すではないですが、日本社会や日本人は益々余裕がなくなり、自分を客観的に(冷静に)見ることすらできなくなっているように思えてなりません。「日本を、取り戻す」という自民党のキャッチフレーズが象徴するように、いつまでも”過去の栄光”にすがり、成長神話というないものねだりを夢見るだけで、今の身の丈に合った国家観や社会観はどこにもないのです。前も書きましたが、坂を下る思想や坂を下る幸せだってあるはずなのです。