トランプ相撲


これは、ネットで拾った画像です。三人(実際は頭にメガネを乗せている左端の男性を入れて四人)のなかのひとりは、ブログで、トランプ大統領と遭遇したのは偶然だったと書いていました。しかし、テレビ中継では、相撲観戦を終えて帰る際、安倍総理がわざわざトランプ大統領を呼び止め、三人に引き合わせたように見えました。

三人は、誰もが知っている親安倍の右派文化人です。自他ともに認める「愛国」者です。しかし、この日の三人は、まるでアイドルに握手を求めるファンのようでした。真ん中の女性に至っては、感極まったような顔をしています。

私は、この画像を見て、『永続敗戦論』の次の文章を思い浮かべたのでした。

(略)第二次安倍内閣において内閣官房参与に任命された元外務事務次官の竹内正太郎に至っては、米日の関係を「騎士と馬」に擬えている。ここまで来ると、彼らの姿はSF小説『家畜人ヤプー』のなかの「ヤプー=日本人」そのものである。


SM雑誌の『奇譚クラブ』に連載された『家畜人ヤプー』は、右翼の反発を受け、出版元へのテロまでひき起こしたのですが、そんななかで、三島由紀夫はこの小説を高く評価したのでした。

トランプに握手を求める三人の表情も、「アメリカを背中に乗せて走る馬になりたい」と考えている倒錯者のそれのようです。彼らには、アメリカなしの日本なんて考えられないのでしょう。

これがこの国の「愛国」者の姿なのです。そこには、見事なまでに「愛国」と「売国」が逆さまになった「戦後の背理」が映し出されているのでした。彼らが依拠するのは、“対米従属「愛国」主義”とも言うべき歪んだ従属思想にすぎないのです。三島由紀夫は、愛国心ということばは(わざとらしくて)嫌いだと言ったのですが、その気持がわかる気がします。

きっこは、今回の”接待外交”について、次のようにツイートしていました。



きっこが言うように、ドナルド・トランプのふるまいは、まるで宗主国の大統領のようでした。トランプ来日で私たちの目に映ったのは、アメリカに対して、哀しいまでに卑屈になって媚びへつらうこの国の姿でした。そして、そこには、犠牲を強いた国民を見捨て、戦争に負けた責任に頬被りして、いち早く”昨日の敵”にすり寄っていった戦争指導者たちの姿が二重写しになっているのです。しかも、トランプの太鼓持ちを演じた宰相は、その戦争指導者の孫なのです。これは決して偶然ではないでしょう。


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性懲りもない話ですが、再び、三度、四度、五度、六度、七度、ダイエットをはじめました。

健康診断でLDLコレストロールの数値が高いと指摘を受けたので、後日、かかりつけの病院で検査を受けたら、血管年齢が80歳だと診断されたのでした。それで、コレストロールを下げる薬を飲みはじめることになったのですが、以後、病院に行くたびに、ドクターから「今、体重はどのくらいですか?」「運動していますか?」「食事は気を付けていますか?」と訊かれるようになり、否応なくダイエットせざるを得なくなったのでした。

もっとも、自分でも怠惰な生活をしているのはよくわかっていましたので、このままではヤバいなと思っていました。

運動に関しては、比較的よくしている方だと思います。と言っても、歩いているだけですが、毎日1万歩歩くように心がけています。問題は食べる方です。もともと大食漢でしたので、今でもついつい食べ過ぎてしまうきらいがあるのです。

それで、主食をおにぎりにしました。しかも、一食に付きおにぎり1個と決めました。すると、どうでしょう、瞬く間に5~6キロ体重が減ったのでした。

過去に何度も糖質制限ダイエットを経験していますので、これも想定内でした。リバウンドをくり返しても、逆にそれが、その気になればいつでも体重は減らせるという、妙な“自信”につながっていました。目標は10キロ減なので、既に半分をクリアしたことになります。私も、目標の達成には自信を持っていました。

ところが、そこからピタリを止まってしまったのです。それどころか、少しでも食べ過ぎると、瞬く間に増えてしまうのでした。これではおちおち外食もできません。

しかも、ダイエットの“壁”は、以前より数値が高くなっているのでした。以前は、今より5キロ減くらいの数値(今回の目標体重)に“壁”がありました。

先日、友人宅でダイエットの話をしていたら、友人の奥さんが「年を取ると、ダイエットしても若いときのように体重が減らないのよ」と言ってましたが、その現実を突き付けられた感じです。

もちろん、若い頃に比べて食欲もかなり落ちています。食べ過ぎるとすぐ胃がもたれるようになりました。それでも体重は落ちないのです。

食欲が落ちたにもかかわらず、さらに炭水化物の摂取を制限しなければならない。魯迅ではないですが、水に落ちた犬をさらに打つようなことをしなければならないのです。それでも大きな“壁”が前に立ちはだかり、にっちもさっちもいかなくなったのでした。

薄着の季節になり、体形が気になるのは男でも同じです。スーパーのエスカレーターに乗った際、横のカガミに映った自分の姿に愕然とするのは、いくつになっても同じなのです。

でも、年齢とともに高くなるこの“壁”を前にすると、ダイエットも若者のものなのかと思ったりして、気持も萎えてくるのでした。
2019.05.25 Sat l 健康・ダイエット l top ▲
津原泰水氏の『ヒッキーヒッキーシェイク』文庫化をめぐるトラブルで、津原氏の単行本の実売数を公表し物議を醸した見城徹氏が、各方面からの批判に耐えかねてとうとうTwitterの終了を宣言しました。本人のことばを借りれば「身から出た錆」とは言え、実にみっともない終幕を演じることになったと言えるでしょう。

同時に、AbemaTVの冠番組『徹の部屋』も、同番組のなかで終了すると宣言したそうです。どうしてAbemaTVに冠番組をもっているのか不思議に思いましたが、どうやら見城氏がテレビ朝日の放送番組審議会の委員長を務めていることが関係しているようです。言うまでもなく、AbemaTVはサイバーエージェントとテレビ朝日が共同で出資したネットテレビで、見城氏とサイバーエージェントの藤田晋社長も親しい関係にあります。なんのことはない、わかりすぎるくらいわかりやすいメディアの私物化なのでした。

『徹の部屋』には、今まで安倍総理や百田尚樹氏や有本香氏、それに見城氏と親しい秋元康や坂本龍一や村上龍や藤原紀香や郷ひろみなどが出演したそうです(坂本龍一にも今回の問題をどう思うか聞いてみたい気がする)。また、以前は出演拒否していたテレビ朝日の「報道ステーション」に安倍総理が出演するなど、最近のテレビ朝日と官邸の”蜜月ぶり”が話題になっていますが、テレビ朝日と官邸をつないだのも見城氏だと言われています。

見城氏は、慶応在学中はブント(共産主義者同盟)系の活動家として赤軍派にシンパシーを抱いていたという話があります。過去には、幻冬舎には場違いとも思える重信房子の本が出ていますが、それも見城氏の個人的な“負い目”が関係しているのかもしれません。

そのあたりの話は、下記のBLOGOSの記事でも触れられていました。

BLOGOS
ITビジネスに積極的だった見城徹氏のSNS終了宣言

今回の“騒動”について、私は、フリーライターの佐久間裕美子氏の「みんなウェルカム@幻冬舎plusをおやすみすることにしました」というブログと、花村萬月氏のTwitter上の発言に考えさせるものがありました。しかし、花村萬月氏は、既にTwitterのアカウントを削除しています(追記:後日確認したら、また復活していました)。

佐久間裕美子 明日は明日の風が吹く
みんなウェルカム@幻冬舎plusをおやすみすることにしました

佐久間裕美子氏は、上記のブログのなかで、つぎのように書いていました。

(略)先週、見城徹社長が、Twitter上で、幻冬舎からの出版が中止になった津原泰水さんの過去の作品の部数を「晒し」たということを知り、これまで感じたことのない恐怖感を感じました。出版社しか知りえない情報が、作家を攻撃し、恥をかかせるための武器として使われたのです。

自分が書いた文章を世の中に発表するーーそんな恐ろしい行為をありったけの勇気を振り絞ってやれるのは、後ろで背中を押さえていてくれる編集者がいるからです。そして、どうやら自分は、今まで出版社への信頼というものを、編集者との関係に置いてきたようでした。今回の件で、恐怖感を感じたのは、自分が置いてきた信頼というものが、書き手対出版社という関係性においてまったく脆いことがわかったから。そして、批判の声を上げた書き手が、出版社に守られるどころか、攻撃の対象になりうることがあると知ったときに、「みんなウェルカム」を幻冬舎プラスで続けていくことはできない、と思ったのでした。


まさに見城氏は「編集者失格」と言わねばならないでしょう。見城氏のふるまいは、まるで独裁国家の国営出版社の社長のようです。佐久間氏が感じたのも、それに連なる「恐怖感」だったのでしょう。

一方、花村萬月氏は、百田尚樹氏らが執拗に(!)攻撃する津原泰水氏の「粘着質な性格」について書いていました。仮にそうだとしても、個人的には付き合いたくないタイプだけど、しつこくて細かい性格は小説を書く上ではプラスになると書いていました。

津原氏の作品を読むと、小説家というのは、妄想狂で文才のある人のことだというのがよくわかるのでした。優れた小説は、往々にして世間的な常識とは対極にあるものです。世間様が眉をひそめるような“非常識”のなかに、ものごとの(人間存在の)真実が隠されているかもしれないのです。

たとえば、山本一郎氏が書いているように(めずらしくマトモなことを書いている)、「五色の舟」を読めば、津原氏が百田氏など足元にも及ばない才能の持ち主であることがわかるはずです。「五色の舟」は、夢野久作や小栗虫太郎を彷彿とするようなフリークな世界を描いた傑作で、私は、久しぶりに「蠱惑的」ということばを思い浮かべたのでした。

どんな人間かなんて関係ないのです。作品がすべてなのです。もしかしたら性格破綻者や犯罪者が書いた小説が100年後も読み継がれるような名作になるかもしれないのです。だからこそ編集者は常にフリーハンドでなければならないのです。もとより編集者には、そんな名作を発掘する使命と誇りもあるはずです。

しかし、こんなことを見城氏に言っても、所詮は馬の耳に念仏でしょう。見城氏もまた、歌を忘れたカナリアになり晩節を汚したと言えるのかも知れません。いや、権力や権威に接近することで勘違いしてみずから墓穴を掘った、と言った方が適切かもしれません。今の見城氏には、BLOGOSの記事にある「滑稽」ということばがいちばんふさわしいように思います。編集者としても、経営者としても、ただの頓馬と言うしかありません。
2019.05.21 Tue l 本・文芸 l top ▲
津原泰水氏の文庫本出版の中止をめぐって、幻冬舎社長・見城徹氏の次のようなツイートが物議を醸しています(現在は謝罪の上削除)。

津原泰水さんの幻冬舎での1冊目。僕は出版をちゅうちょしましたが担当者の熱い想いに負けてOKを出しました。初版5000部、実売1000部も行きませんでした。2冊目が今回の本で僕や営業局の反対を押し切ってまたもや担当者が頑張りました。実売1800でしたが、担当者の心意気に賭けて文庫化も決断しました。


このもの言いからは、作家や作品に対するリスペクトなど微塵も伺えません。まして、実売数を晒すなど編集者としてあり得ない話です。何様のつもりかと言いたくなります。「クズ編集者」(ビジネスジャーナル)「編集者失格」(久田将義氏)という批判は当然でしょう。

津原泰水氏によれば、『ヒッキーヒッキーシェイク』の文庫化は、「ゲラが出て、カバー画は9割がた上がり、解説も依頼して」いたにもかかわらず中止になったのだそうです。そして、担当編集者から、「『日本国紀』販売のモチベーションを下げている者の著作に営業部は協力できない」と一方的に「通達」されたのだとか。どうやら幻冬舎から出ている『日本国紀』を批判したことがお気に召さなかったようです。

一方、トラブルが表面化したことで、幻冬舎に対して、多くの作家や読者から批判が寄せられています。そして、朝日や毎日が記事にするまでになっています。

津田大介氏は次のようにツイートしていました。


ホントかなと思います。「多くの作家や読者」と書きましたが、実際は「一部の作家や読者」が正しいのではないか。「多くの」作家は沈黙を守る、と言ったら聞こえはいいですが、要するに見て見ぬふりをするだけでしょう。それは、新潮や文春のときも同じでした。

幻冬舎のイメージが悪くなったのは事実でしょうが、だからと言って、読者の不買や作家の執筆拒否・版権引き上げにまで事態が拡大するかと言えば、それはとても”叶わぬ夢”のように思います。

見城徹社長は、角川書店にいた頃から、五木寛之氏のエッセイに登場するなどやり手の編集者として有名でした。幻冬舎という社名も、たしか五木氏が命名したような記憶があります(今、ウキペディアで確認したら、やはり、五木氏が命名したと書いていました)。

一方で、「幇間」「爺殺し」というレッテルも常に付いてまわっていました。最近では、安倍総理や石原慎太郎氏の腰巾着として知られています。五木氏に取り入ったのも同じなのでしょう。

五木寛之氏は、作家としてデビューした際、質(純文学)より量のエンタテインメント(中間小説でも大衆文学でもなく通俗小説)の世界で勝負したいと”宣言”して、芸術至上主義的な純文学の世界にうんざりしていた読者から拍手喝采を浴びたのですが、今になればそれが両刃の剣であったことがよくわかるのでした。86歳になった五木氏にこんなことを求めるには酷かもしれませんが、かつての五木ファンのひとりとして、この問題に対する五木氏の見解を聞きたいものです。”製造者責任”もあるのではないでしょうか。

また、津原氏と見城氏のバトルに参戦した花村萬月氏が、「ボクは小説は最後しか読まない」という若かりし頃の見城氏の「放言」を暴露したことも波紋を広げています。「それは文字通り、小説のラストだけ目を通して、すべてを決めるということで、雑念が入らぬぶん、当たりを出せるということ──らしい」と。

このツイートに対して、見城氏はなんと訴訟をチラつかせて反論したのでした(のちにやはり謝罪して撤回)。こういった対応ひとつ見ても、「編集者失格」と言われても仕方ないでしょう。

今回の問題について、花村萬月氏は次のようにツイートしていました。


まったくその通りで、作家にとって作品がすべてなのです。優れた作品なら、どんな人間であるかなんて関係なく無条件に評価されるべきなのです。もちろん、優れた作品かどうかということと、売れたかどうかということは別問題です。見城社長や編集とネットワークビジネスを混同したあのエキセントリックな社員は、出版社としての自社の看板にみずから泥を塗ったと言えるでしょう。


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2019.05.19 Sun l 本・文芸 l top ▲
最近の小室圭さんに関する“文春砲”には目に余るものがあります。ネタが枯渇したので、無理してネタにしている感さえあります。反論できないことをいいことに、書きたい放題なのです。

文春オンライン
小室圭さん同級生が初めて語る「父親の死と“おじさん”の登場が彼を変えた」

秋篠宮家の長女・眞子さま(27)との結婚問題が国民的な議論となっている小室圭氏(27)。もし結婚が成立した場合、小室氏は悠仁さまの義兄となり、将来は“天皇の兄”という特別な立場になる。これが令和皇室における重要問題であることは論を俟たない。


フジサンケイグループのFNNニュースや夕刊フジも、女性宮家が創設されたら、小室圭さんには「殿下」の称号が与えられ、年間4500万円の血税(皇族費)が支給されるというような話を流していましたが、まったく悪意ある記事としか言いようがありません。

発端となった小室圭さんのお母さんと元婚約者の400万円だかの”金銭トラブル”も然りです。先日のワイドショーでも、「小室さん側の弁護士は相手の弁護士と接触して、どうして解決しようとしないんですかね?」とコメンテーターたちが首をひねっていましたが(たかが400万円のはした金なのにと言わんばかりに)、彼らはなんにもわかってないんだなと思いました。

相手の元婚約者の「代理人」は、弁護士ではなくフリーライターで、弁護士には依頼してないのです。弁護士に相談したら、返還を求めるのは法的には無理だと言われたという話さえあります(素人考えでもそうでしょう)。接触を避けている(拒んでいる)と言われており、どうやら接触しようにも接触できないのが真相のようです。

デヴィ夫人が言うように、”金銭トラブル”は小室圭さんと眞子さんの婚約が発表されてから表沙汰になったのですが、別に係争案件ではないので、当人たちが口外しない限り公になることはなかったはずです。つまり、”小室バッシング”の発端になった金銭問題は、元婚約者がみずからメディアに流して発覚した(わざと表沙汰にした)のです。タイミングから見ても、多分に嫌がらせの側面もあるように思えてなりません。昔から老いらくの恋を七つ下がりの雨などと言いますが、お母さんに対する未練がこういった行為に向かわせているのではないかと勘繰りたくなります。元婚約者に対して、ストーカーということばが出て来ないのが不思議でなりません。

そもそも元婚約者がどういう人物なのか、不思議なことに一切メディアには出て来ないのです。直撃取材どころか、周辺取材すらないのです。「代理人」のメディア対策が功を奏しているのか、ただ元婚約者の言い分を一方的に伝え、立場上反論できないことをいいことに、小室親子がとんでもなく腹黒い人物のように言い立てるのでした。

以前、週刊誌に、佳子さんが御所近くのコンビニで、iTunesカードなどを買物したという記事が出ていましたが、皇族と言えども彼女たちが今どきの若い女性であることには変わりがないのです。iPhoneで音楽を聴いたり、SNSをチェックしたりしているのでしょう。もしかしたらエゴサーチしているかもしれません。もちろん、記者会見のときのような、あんな喋り方を普段しているわけがないのです。

小室圭さんと眞子さんが横浜でデートした際、帰りの東横線の車内で、お互いのスマホを見せ合いながら「マーちゃんの写真も見せてよ」「ブスだから嫌だぁ~」というような会話があったという記事がありましたが、それが普通でしょう。

また、佳子さんがダンスを習っていることに対しても、皇族なら他にやることがあるだろうみたいな批判の声が多くありますが、なんだか「税金」「カゴの鳥」」という、衆愚たちの”不敬”且つ不遜な本音が垣間見えるようです。

しかし、ここまで悪意を持って書かれると、姉妹の間で「もう皇族なんて嫌だ」「なんであんな風に言われなきゃならないの」というような会話が存在しても不思議ではないでしょう。

若い世代になればなるほど、天皇制が時代にそぐわなくなっているのはたしかで、眞子さんや佳子さん本人だけでなく、彼女たちに対する中傷もその表れと見えないこともありません。それは、メディアの世論調査では伺えない皇室観です。皇族を見る目が、若い世代ほど、「オレたちが税金で」と言わんばかりの上から目線になっているのです。だから一方で、保守派は、このような開かれた皇室=象徴天皇制に危機感を募らせ、神聖にして冒すべからずの皇室の再興(=戦前回帰)を目論んでいると言えるのかもしれません。


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2019.05.12 Sun l 社会・メディア l top ▲
三日前、朝、トイレに行ったら、血尿が出ていました。それもかなり濃い色です。私は、石が落ちたのだなと思いました。

おととし、ESWLで破砕した際、飛び散った破片の一部が腎臓に入ったみたいだと説明を受けていたのですが、その石が尿管に落ちたのでしょう。

夜、案の定、左わき腹のあたりに痛みがやってきました。しかし、我慢できないほどの痛みではありません。わき腹をさすると痛みを忘れるくらいです。ベットに仰向きに寝てわき腹をさすっていたら、そのまま眠ってしまい、目が覚めたときは既に痛みはなくなっていました。しかし、色はやや薄まってきたものの、血尿はつづいています。

それで、今日、病院に行きました。レントゲンとエコーで検査したら、やはり、石が落ちており、尿管のいちばん細い部分に引っかかっているそうです。石は6ミリくらいなので、多分自然排出されるでしょうと言われました。

いつものことですが、尿がせき止められるので、腎臓内に圧がかかり、腎臓が少し腫れていると言われました。つまり、水腎症の症状が出ているのです。私は、若い頃、腎炎を患い三度入院したことがありますので、むしろ、そっちの方が気になりました。

また、下腹部に張りのようなものを感じるのですが、それも結石の影響だろうと言われました。

石が無事排出できれば、しばらくは尿管結石の恐怖から解放されます。腎臓に石がなくなるのは10数年ぶりです。

尿の流れをよくするため、ツムラの芍薬甘草湯(シャクヤクカンゾウトウ)エキス顆粒という漢方薬を処方されました。筋肉を緩め利尿作用を促すというわけなのでしょう。また、痛み止めの座薬(アデフロニックズポ)も14回分処方してもらいました。座薬は2021年の8月まで有効だそうで、余ったら冷蔵庫に入れて保管して下さいと言われました。そのほかに、通常の薬も処方されましたので、スーパーで買い物したみたいにビニール袋いっぱいの薬を渡されました。

余談ですが、今日は病院と薬局に合わせて1万5千円近く支払いました。病院にかかると、お金もバカになりません。ほかの人に比べても、私は支払い額が多いような気がしてなりません。泌尿器科なので、患者は高齢の男性が多いのですが、窓口で支払っているのはほとんどが数百円です。私だけ、一桁多いのです。もしかしたら、患者の中で私がいちばん貧乏かもしれません。なのにどうしてといつも思うのでした。

それは、薬局でも同じです。今日もベビーカーに子どもを乗せたお父さんが来ていましたが、お父さんは薬だけもらってお金は払っていませんでした。乳幼児の医療費は無料なのだろうかと思いました。近くに小児科があるため、子ども連れも多いのですが、どうみても皆さん、それなりの生活をしている“中間層”に見えます。子どもが小さいということもあるのでしょうが、お母さんたちも専業主婦のようです。でも、皆さんが支払っているのは、私の四分の一から五分の一くらいの金額です。

もちろん、病気の程度によって支払い額が違うのはわかりますが、だからと言って私は、ほかの人に比べて深刻な病気を抱えているわけではありません。社会保障も結婚を前提にした家族単位の制度なので、私のような未婚の単身者は、制度的に不利な面があるのかもしれないなどと思ったりします。

前に調剤薬局で働いていた女性が、「前立腺ガンの患者さんって一回で四万円とか五万円とか払う人がいるんだよ」と言ってましたが、それを考えると空恐ろしくなります。窓口負担の限度額はあるものの、ひと月だけならまだしも、毎月になれば生活が圧迫されるでしょう。

いづれにしても、痛み止めも処方され「人生最悪の痛み」に備えることもできました。用意万端整い、あとは無事排出されるのを待つばかりです。


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2019.05.11 Sat l 健康・ダイエット l top ▲
10連休の最後の日。私は、開店したばかりの駅裏のスーパーに行きました。さすがにお客さんは数えるほどしか入っていません。

店の中では、多くの人たちが品出しをしていました。私は、レジに並ぶのが嫌なので、朝の開店間際に行くことが多いのですが、品出しをしている人たちの顔触れもいつも同じです。60代くらいの初老の人たち(それも男性)が目に付きます。早朝の品出しのときだけ仕事をしているパートの人たちなのでしょう。

レジも含めて、見事なほど若い従業員はいません。店内には、「○○(店名)では、働く仲間を募集しています。興味のある方はお近くの店員にお気軽にお声かけ下さい」という放送が繰り返し流れていました。

買物を終えレジに向かうと、まだレジは一つしか空いていませんでした。そこには、既に三人のお客さんが並んでいました。

いづれも70を越しているような高齢者でした。三人とも「みすぼらしい」と言ったら語弊がありますが、着古したヨレヨレの服を着て、おせいじにもオシャレとは言い難い、なんだか普段の生活の様子が伺えるような恰好でした。おそらく独り暮らしの老人たちではないでしょうか。

私が住んでいる街は、東横線沿線の人気の住宅地です。「どこに住んでいるのですか?」と訊かれて、駅名を言うと、「いいところに住んでいますね」とよく言われます。

そのため、一方で、若い女性や30~40代の若い夫婦も多く住んでいます。近所に近辺では人気の(と言われている)幼稚園がありますが、子どもを送り迎えするお母さんたちは、送り迎えするだけなのにどうしてと思うくらい、総じてオシャレな格好をしています。午後になれば、そんな幼稚園にお迎えに行ったあとの母子連れが買い物にやってきます。その頃は、品出しも終わっており、パートの人たちの姿も店内からは消えています。また、夜になると、店内は仕事帰りの若い女性たちの姿が目立つようになります。

そんな他の時間帯に比べると、開店間際の店内は圧倒的に高齢者の比率が高いのでした。

レジに並んでいる老人たちが手にしている買い物カゴの中は、質素と言えば聞こえはいいですが、哀しいくらいわずかしか商品が入っていません。私の前は、車椅子に乗っているかなり高齢の女性でしたが、160円の卵のパックと28円のモヤシが一つ入っているだけでした。その前の男性は、110円だかの食パン二つに、やはりモヤシが一つ入っているだけでした。みんな、財布から小銭をひとつひとつ出して精算していました。そのため、やけに時間がかかるのでした。

同じ老人でも、違う時間帯になれば、見るからに余裕がありそうな夫婦連れなどが多くなります。以前は、メディアでお馴染みの元金融エリートの「上級国民」の姿を見かけたことさえあります。それに比べれば、このつつましやかな光景はなんだろうと思いました。

そんな中で、私は、(嫌味に聞こえるかもしれませんが)カゴいっぱいの買物をして、4千円弱の代金をクレジットカードで払ったのでした。と言って、別に優越感に浸ったわけではありません。たしかに、老人たちをやや憐み、同情したのは事実ですが、でも、彼らと違うのは「今だけ」だというのが重々わかっているからです。まだ仕事にありついているので、経済感覚もなく買い物をしてクレジットカードで払う「余裕」があるだけなのです。

私と前に並んでいる老人たちは紙一重なのです。彼らは明日の自分の姿でもあるのです。憐み、同情しても、いづれ自分に返ってくるだけです。そう思うと、あらためて現実を突き付けられた気がして、否応なく暗い気持にならざるを得ないのでした。


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『老人漂流社会』
2019.05.06 Mon l 日常・その他 l top ▲
今日、Yahoo!ニュースに転載されていたデヴィ夫人の「提言」「貧しさは罪悪ではない」には、思わず拍手を送りたくなりました。

Yahoo!ニュース
女性自身
小室圭さん問題にデヴィ夫人が提言「貧しさは罪悪ではない」

デヴィ夫人は言います。

小室さんの母・佳代さんは、ご主人を亡くして母子家庭となっても、洋菓子店などのパートを掛け持ち。圭さんにバイオリンを習わせ、授業料の高いインターナショナルスクールに通わせ、ICU(国際基督教大学)にも入学させました。

そんなけなげな佳代さんを愛して婚約までしたのなら、一人息子である圭さんの留学費用くらい出すのは当然のこと。それなのに匿名で「何月何日にいくら貸した」「何日にいくら銀行に振り込んだ」と409万円の内訳を喋りまくるX氏には、憤りを覚えました。(略)

マスコミはそんなX氏をとがめるどころか、言い分をそのまま連日のように報道する一方で、母子家庭である小室家の貧困さを書き立てました。婚約解消時ではなく、5年後の小室さんの婚約発表後に表沙汰にするとは悪意を感じます。


佳代さんのご主人とその父が自殺している、怪しげな新興宗教を信仰している、などとセンセーショナルに取り上げられましたが、はたしてそれらは責められるべきことでしょうか?


こういった正論が正論として通用しないのは、メディアや大衆に、身分制の幻影を求めるような特異な皇室観があるからでしょう。言うまでもなく、それは差別と対になったものです。

前の記事で紹介した『感情天皇論』の中で、大塚英志は、近代について、次のように書いていました。

近代とは他人に覗き込むことのできない「心」があることを発見してしまった時代である。だから他者としての殺人者の動機、つまり「心」を説明する探偵小説が近代小説の先駆けとして登場するのだ。このように近代とは、誰かといることの不穏に、誰もが耐えなくてはいけない時代だ。この不穏さが「他者」だと言える。


しかし、天皇には「他者」がいません。大塚英志ならずとも、そこには「近代」が存在しないことは誰が見てもあきらかでしょう。

代替わりについて、メディアで発言していた識者たちも、ただの藩屏でしかないことがよくわかりました。日本政治思想史の研究者で、「近現代の天皇・皇室・神道の研究を専門とする」原武史氏の朝日新聞のインタビュー記事も例外ではありません。本人はそう思ってないようですが、私たちの目には“令和フィーバー”の太鼓持ちのひとりにしか見えませんでした。

朝日新聞デジタル
「ひざまずいた天皇、令和で鍵握るのは?」 原武史教授

そんな中で、4月30日に放送されたNHKスペシャル「日本人と天皇」が、天皇制の「不都合な真実」を伝えていたと評判になっています。私も観ましたが、代替わりに際して天皇制とは何かを考えさせられる番組でした。

Yahoo!ニュース
改元特番でNHKだけが伝えた”不都合な真実”(水島宏明)

小泉内閣のとき、皇室典範に関する有識者会議が発足し、「女性・女系天皇」を容認するかどうか、議論をはじめたのですが、その中で、意外な(というか私たちにはショッキングな)事実がわかったそうです。

 これまでの125代におよぶ天皇のうち、約半分が「側室」(第2夫人、第3夫人など)の子と見られているという。戦後は「側室」という制度はない。過去400年間では側室の子どもではない天皇は109代の明正天皇、124代の昭和天皇、125代の前天皇(今の上皇陛下)の3人のみで、側室の制度がない現在においては「男系」の伝統の維持は難しいという声が多くの委員が認識したという。


「高貴な血」は、こうして継承されていたのです。古代オリエント史の研究者で、「碩学」と言われた三笠宮崇仁親王(昭和天皇の末弟)は、戦後、華族制度が廃止されたことについて、「天皇制の外堀が埋められた」と言ったそうですが、それは華族制度が男子皇族の正室だけでなく、側室の"供給元"と見なされていたからではないでしょうか。万世一系の幻想に支えられた天皇制が、時代と乖離していくのは当然と言えば当然なのです。

以前、「オウムは生きている」という記事の中で、皇室の「伝統」について、私は次のように書きました。僭越ながら引用します。

『天皇と儒教思想』(小島敦著・光文社新書)によれば、メディアによく取り上げられる「田植え」や「養蚕」など皇室の恒例行事も、明治以後にはじまったものが多いそうです。来年、天皇の生前退位により新しい元号に変わりますが、「一世一元」の原則も明治以後にはじまったのだとか。皇室の宗教も、奈良時代から江戸時代までは仏教だったそうです。皇室=神道という「伝統」も、明治以後に創られたイメージなのです。また、皇室に伝わる祭祀などは、中国の儒教思想から借用された「儒式借用」のものが多いそうです。

要するに、明治維新による近代国家(国民国家)の成立に際して、国民統合のために、皇室を中心とする「日本の伝統」が必要とされたのでしょう。そうやって(偽史運動によって)”国民意識”が創出され、”日本”という「想像の共同体」が仮構されたのです。(引用終わり)

「女性・女系天皇」の容認も、創られた「伝統」にさらに屋上屋を架すようなものでしょう。しかし、そのように指摘する識者は皆無でした。そして、眞子さんの”自由恋愛”こそ、創られた「伝統」の対極にあるものと言えるのです。


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2019.05.02 Thu l 社会・メディア l top ▲