今年最後の山はどこに行こうかと迷いましたが、まだ足に不安があるので、時間的に余裕のある山をのんびりと歩きたいと思い、日の出山にしました。日の出山は、名前のとおり、東京の奥多摩の日の出町にある山です。すぐ隣には御岳山(青梅市)があります。

日の出山へのバスも、先週と同じ武蔵五日市駅から出ています。先週の槇寄山は2番のりばでしたが、今日は3番のりばでした。

新宿駅から6時26分発の中央特快高尾行に乗り、途中の立川で五日市線に乗り換え、武蔵五日市に着いたのが7時半すぎでした。それから、8時5分発の「つるつる温泉」行きのバスに乗って、約20分で終点のひとつ手前の「日の出山登山口」に着きました。ちなみに、終点の「つるつる温泉」と「日の出山登山口」は、歩いて数分の距離しかありません。

駅からは7~8人乗客はいましたが、いづれも途中で降りて、最後までバスに乗っていたのは、私を含めて2人だけでした。もうひとりは、終点のつるつる温泉の従業員とおぼしき初老の女性でした。

日の出山の登山ルートは、いくつかありますが、代表的なのは御岳山から登ってくるルートです。日の出山(902メートル)は、御岳山(929メートル)より低いので、御岳山からだと下りがメインで、1時間くらいで来ることができるそうです。もっとも、御岳山自体も、ケーブルカーを利用すれば、登山という感じではありません。むしろ、ロックガーデンを訪れるには、遊歩道から下に下りなければならないのです。

日の出山を紹介するサイトに、「ケーブルカーを使ってハイキング」と書いていましたので、日の出山にもケーブルカーがあるのかと思いましたが、それは御岳山のケーブルカーのことでした。

日の出山は、都心方面の見晴らしがいいので、初日の出を見る人たちが多数訪れるそうです。おそらくそれも、御岳山経由で来る人が多いのでしょう。

私が選んだのは、直下の「日の出山登山口」から登るルートでした。登りは2時間、下りは1時間半でした。

他にもいくつかルートがありますが、山頂にいると、三室山方面から登ってくる人たちも結構いました。三室山のルートも、途中でつるつる温泉に下りることができるみたいですが、多くは尾根を歩いた先にある奥多摩線の日向和田駅や二俣尾駅から登って来ているのでしょう。また、御岳山から来て、三室山の方に下る人たちもいました。

私も、三室山に下ろうかと思ったのですが、やはり、最初に決めたルートを歩くのが山行の鉄則だという、三頭山で言われたことばを思い出し、当初の計画通り「日の出山登山口」に下りました。

日の出山は、山頂直下の600段以上あると言われる“階段地獄”を除けば、拍子抜けするくらい登りやすい山でした。登りもゆるやかで、“階段地獄”以外息が上がることもありませんでした。今日は、「後半で差を付ける」アミノバイタルを忘れずに飲みましたが、後半の“階段地獄”にはまったく効果はありませんでした。

おとといだったか、関東の内陸部に雪の予報がありましたが、日の出山にも雪が降ったみたいで、山頂やその手前の登山道にはまだ雪が残っていました。僅かな距離ですが雪の中を歩かなければなりませんでした。特に、下りのときは滑るので気を使いました。

山頂に行ったら、東屋のベンチを70代くらいの男性が占領していて、まだ時間は午前10時すぎなのに昼食なのか、テーブルの上でお湯を沸かして弁当を食べながらインスタントのみそ汁を飲んでいました。

見るからに偏屈そうで、「こんにちわ」と挨拶してもギョロと睨み返すだけで返事もしません。頂上には数人の先客がいましたが、彼らは下の雪が積もってないベンチを見つけて座っていました。あきらかに東屋を避けている感じです。

そうするうちに、あとから登ってきたソロの女性が老人の真向かいに座って、ザックをテーブルの上に置いたのです。すると、老人は「テーブルなんだからザックは下に置けよ」と吐き捨てるような言い方で注意したのです。そもそも東屋に来たのが気に入らない感じでした。女性は、びっくりした様子で、あわててザックを手に取ると下のベンチに移動しました。他の人たちが、東屋を避けて下のベンチに座っているのは、そういうことだったのかと合点が行きました。

一方で、男性は、山頂にみそ汁の匂いを漂わせながら、持参した携帯ラジオを大きなボリュームでかけているのです。ラジオからはNHKのニュースが流れていました。

私も、最近は堪え性がなくなり、「キレる老人」になりつつありますので、それを見たら我慢できず、すかさず男性の方に向かって行って男性の目の前に立つと、「お前のラジオこそ迷惑だろ」「消せよ」と言いました。

思わぬ展開に男性はあたふたした様子で、それからほどなく荷物を畳むとそそくさと下山して行きました。下山したあと、近くのベンチに座っていた男性が、「このあたりは、ああいった我が物顔の人が多いんですよ」と言ってました。

カメラで山頂標識を撮っていたら、雪で覆われた方位盤の台座に「皇太子殿下浩宮様 平成二十四年一月十三日御登頂 ここより皇居を望む」と銘文が貼られているのに気付きました。横には、「平成二十四年一月十三日御登頂」という木柱も立てられていました。「ここより皇居を望む」とは、まるで日本武尊のようです。この時代にわざわざそんな大仰な言い方をするかと思いました。

下記の「皇太子・登山一覧」で調べると、2012年1月13日に御岳山経由で登っていることがわかりました。御岳山からのルートが整備されているのはそのためかもしれません。もしかしたら、方位盤も来ることがわかってあわてて設置したのかもしれません。

新天皇は、皇太子時代に170以上の山を登ったそうで、日本山岳会の会員(特別会員)でもあります。「皇太子・登山一覧」を見ると、北アルプスのリスクの大きい山を除いて、主だった山は総なめという感じで、山登りが趣味だったのは間違いないでしょう。

皇太子・登山一覧
http://seiyou.ehoh.net/seiyou/+yama.htm

そう言えば、先週行った笹尾根も、笹尾根から三頭山に登ったそうで、檜原街道にある蛇の湯温泉には、浩宮様が入った風呂というのがありました。おそらく笹尾根に登った際、入ったに違いありません。

でも、”やむごとなき登山”は我々の登山とは違います。単独行なんて夢のまた夢です。まわりの人間たちは、「すごい体力をお持ちで」と決まり文句のように持ち上げますが、一方で、お付きのおっさんたちのためか、10分おきに休憩していたという話もあります。

下のkojitaken氏のブログは秀逸で、私も愛読しているのですが、皇太子の登山に関して次のような記事がありました。

kojitakenの日記
新天皇・徳仁と山小屋

各地にあると言われる「プリンスルート」については、『裏声で歌へ君が代』(丸谷才一)ではありませんが(小説の内容とはまったく関係ありませんが)、ベテラン登山者の間でひそひそ話として語られていたのを私も知っています。

前に紹介した『週刊ダイヤモンド』の「山の経済学」が書いているように、国立公園であるにもかかわらず、登山道の整備などにはほとんど予算が割かれず、民間のボランティア任せになっている「お寒い現状」があるのですが、もちろん、”やむごとなき登山”は別なのです。トイレも見違えるようにきれいになるそうです。言うなれば、私たち下々の登山者は、そのおこぼれに与っていたようなものです。しかし、これからはおこぼれに与ることもできないのです。ホントに山が好きだったみたいなので、やむごとなき家に生まれた宿命とは言え、かわいそうな気がしないでもありません。

思い出のアルバムをめくりながら、あるいは、皇居の木々を眺めながら、在りし日の山行に思いを馳せ、しんみりした気持になることはあるのだろうか。下々の人間はそんなことを想像するのでした。

また、天皇の「四大行幸啓」のひとつである全国植樹祭についても、次のような鋭い指摘がありました。

同上
「植樹祭」は悪質な自然破壊だ

笹尾根にはそれらしき形跡は残っていませんでしたが、三頭山へは別に都民の森からも登っていますので、都民の森の立派な森林館や三頭山の整備された登山道も、”やむごとなき登山”と関係があるのかなと思いました。

帰りにつるつる温泉に寄ろうかと思っていましたが、下山したらちょうど武蔵五日市駅行きのバスが来たので、寄らずに帰りました。

来たのは、機関車トーマスのような観光用のバスで、ワンマンではなく車掌が乗車し、昔のようにマイクで次の停留所の案内をしていました。でも、中に乗っているのは、山帰りの小汚いおっさんとおばさんで、なんだかみんなバツが悪そうでした。途中から乗ってきたおっさんは、テン泊でもしたのか、異様に大きいザックを背負っていたのですが、そのザックが通路の角にひっかかって前に進めず、足が空回りしていました。何度やっても同じなのに、性懲りもなく何度もくり返しているのです。まるでドリフのギャグのようで、私は、思わず吹き出しそうになりました。

武蔵五日市からは、先週とまったく同じルートを乗り継いで帰りました。途中、電車が遅れたので、最寄り駅に着いたのは午後4時近くになりました。

夕飯のおかずを買うために、いつも行く駅前のスーパーに寄ったら、入口を入ったすぐのところに特設コーナーが設けられて、サンタの衣装を着た若い女の子たちが、「ケーキいかがですか!」「チキンはいかがですか!」と大きな声を上げながら、ケーキやローストチキンなどを売っていました。「そうか、今日はイブだったな」と一瞬思いましたが、そのまま通りすぎて、いつもの総菜売り場に向かいました。


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下にも雪が残っていました。

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目印にもなっている有名な(?)オブジェ

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同上

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登山道は真ん中の階段から登って行きます。

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関東近辺の神社や山ではおなじみの日本武尊!
それにしても、顎をかけた岩って・・・・。なんでもありです。

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馬頭観音もおなじみ

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途中からの眺望

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いい感じの尾根道

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登山道にも雪

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山頂直下の石段

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山頂からの眺望

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方位盤の台座

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下山時、”階段地獄”を振り返る

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これも

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これも

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一ケ所だけ路肩が崩落したところがありました。

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苔むした路傍の石仏
2019.12.24 Tue l l top ▲
何度も書かねばなりませんが、沢尻エリカ逮捕に関して、彼女にMDMAを渡したと言われていた元恋人は、結局、釈放され不起訴になりました。文字通り、泰山鳴動して鼠一匹になったのです。

メディアは、沢尻エリカやその恋人の逮捕によって、芸能界で芋ずる式の摘発がはじまるようなことを書いていましたので、なんだか肩透かしを食らったような感じです。僭越ですが、私のようなシロウトでもわかる話なのに、メディアはどうして、沢尻逮捕が拙速で杜撰であることがわからなかったのか。「新聞記者」「報道記者」が聞いて呆れます。

しかし、彼らはここに至っても、元恋人の釈放は「泳がせている」だけだというような記事を書いているのです。それこそ何とかに付ける薬はないとしか言いようがありません。

彼らは、沢尻エリカが保釈されたあとそのまま都内の某大学病院に直行したことについても、(前の記事で書いた)TBSの夕方のニュースのカマトト男性アナウンサーと同様、薬物治療のために入院したようなことを書いていました。しかし、沢尻エリカは尿検査は陰性で、薬物を使用した証拠(形跡)はどこにもないのです。

その後、沢尻エリカは大学病院から別の病院に転院したそうです。すると、彼らは、前言を翻して、沢尻エリカが入院した某大学病院は薬物の専門治療ができないので、元TOKIOの山口達也が「静養」した関東近郊の心療内科専門の病院に転院したと言っています。でも、山口達也は薬物とは関係がなく、彼が芸能界を引退したのは未成年者に対する「強制わいせつ容疑」です。心療内科に転院したのは、山口達也と同じように、事件によるストレスで身心に影響が出ているので、治療し「静養」するためでしょう(それと、メディアの取材から逃げるためでしょう)。

さらに、メディアは、言うに事欠いて、大学病院は入院費が高額になるので、入院費が安い病院に転院したなどと言い出す始末です。まさに妄想のオンパレードで、言っていることはネットのそれと変わらないのです。彼らはホントに記者なのか。一体、何を取材しているのかと言いたくなります。

伊藤詩織さんの事件は、同じ山口姓でも山口達也とは雲泥の差でした。彼女からの告訴状を受理した警視庁高輪署は、捜査した結果、「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由がある」(刑事訴訟法)と判断して、元TBSワシントン支局長・山口敬之氏の逮捕状を東京地裁に請求、東京地裁も逮捕の必要性を認め逮捕状を発付したのでした。にもかかわらず、かつて菅官房長官の秘書官を務め、官邸ときわめて近しい(と言われている)山本格警視庁刑事部長(当時)の指示で、「安倍晋三の伝記作家」(英タイムズ紙)である山口氏の逮捕は執行寸前で見送られたのです(のちに書類送検され不起訴処分)。山本氏自身も、官邸の介入は否定していますが、自分が執行停止を指示したことは認めています。

警察なんて政治の意向でどうにでもなるのです。もとより警察も国家権力の一員です。沢尻逮捕に政治的な意向がはたらいてないとどうして言えるのか。

尚、山口氏と官邸の関係については、下記の「デイリー新潮」の記事が詳しく伝えています。

Yahoo!ニュース
デイリー新潮
伊藤詩織さん「勝訴」!敗訴の「山口敬之」 TBS退社後を支えた美味しすぎる“顧問契約” 菅官房長官の口添えも…

”政治のマフィア化”という点でも、安倍政権はロシアのプーチン政権とよく似てきました。

元恋人の釈放&不起訴でますます明らかになった沢尻エリカ逮捕の拙速で杜撰な面(その不可解さ)がなにを意味しているのか、その背景には何があったのか、伊藤詩織さんの事件をヒントに、もう一度考えてみる必要があるでしょう。


関連記事:
沢尻エリカ保釈のバカ騒ぎ
沢尻エリカ逮捕の拙速と杜撰
沢尻エリカ逮捕と疑惑隠し
2019.12.22 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
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考えてみれば、今日は12月20日で、今年もあと10日あまりとなりました。でも、あまり年の瀬という感覚はないのでした。年を取ると、時間が経つのが早くて、1年なんてあっという間です。なんだか季節の感慨も追いつかないほどです。

来週は、もう仕事納めです。それで、午後から病院に行きました。薬を処方してもらわないと、正月の間薬なしで過ごさなければなりません。別に飲まなくても、急に症状が変わるような疾患ではないのですが、私はそういったところは案外律儀な性格なのでした。同じ病院に通っている知り合いは、ひと月に1回行かなければならないのに、いつも2ヶ月に1回しか行かないので、行くたびに先生から皮肉を言われると言ってましたが、彼のような患者に比べれば、私は“優等生”と言えるのかもしれません。

病院に行くと、やはりいつもより患者が多くて、待合室は座る場所もないくらいでした。結局、診察(と言っても、1分くらいで終わる簡単な問診)まで1時間半もかかりました。病院の下にある調剤薬局も人が多く、そこでも30分以上待ちました。

薬局を出たら、午後5時をまわっていましたが、それから市営地下鉄に乗って桜木町に行きました。毎年、赤レンガ倉庫で行われているクリスマスマーケットを見ておこうと思ったからです。

クリスマスが近づくと、山下達郎の「クリスマスイブ」やジョン・レノンの「ハッピークリスマス」が街角に流れたりしますが、最近、そういった定番のクリスマスソングを聴いても心がときめくことがなくなりました。

以前だと、渋谷駅前のオーロラビジョンからクリスマスソングが流れると、クリスマスが近づいたんだなあと心がザワザワしたものです。しかし、いつの間にかザワザワすることもなくなりました。クリスマスのイルミネーションも同じで、イルミネーションを観に行こうなんて考えることすらなくなりました。

金曜日ということもあって、汽車道も大勢の人が行き交っていました。汽車道の対岸の船員アパートが立ち並んでいたところは、タワーマンションとアパの高層ホテルが建ち、まるであたりを睥睨するかのようにその威容を誇っていました。こうして“記憶の積層”がどんどん消えていき、横浜らしさがなくなっていくのです。

クリスマスマーケットも、今や食べ物のイベントになっています。もともとは、本場のドイツと同じように、(主にドイツの)クリスマスグッズを販売するイベントでした。最初は横浜だけで行われていましたが、今では都内でも何ケ所かで行われています。それにつれ、横浜の方は食べ物に傾注して行ったのでした。もっとも食べ物も、ほとんどがクリスマスと関係のないものばかりです。それを強引にクリスマスにこじつけているに過ぎないのです。

業界にいた人間から見れば、こういったところにも輸入雑貨が過去のものになったことを痛感させられるのでした。昔は、クリスマスカードをはじめ、クリスマス関連の雑貨は飛ぶように売れ、この時期は文字通り猫の手も借りたいほどでした。海外の雑貨がそれだけめずらしかったということもあったのでしょうが、もうひとつは、クリスマス自体が”特別なもの”だったからでしょう。世間も私と同じように、もうクリスマスに心をときめかすことがなくなったのかもしれません。

端の方にグッズを売っているテントがありましたが、見ると、ロシアの民族衣装を着た外国人が、マトリョーシカを売っているのでした。マトリョーシカとクリスマスはどういう関係にあるんだろうと思いました。

広場では、これも恒例のスケートリンクが設置されていましたが、最初の頃と比べると規模も設備もショボくなるばかりです。他には、横浜お得意の光のデジタルアートのイベントが催されていました。デジタルアートは、お金もかからずお手軽なので、イベントの穴埋めにはうってつけなのでしょう。

こうしてイベントに行ったり街を歩いたりすると、クリスマスなど師走の風景から疎外されている自分をしみじみと感じます。こういうのを「広場の孤独」(堀田善衛)と言うのだろうかと思いました。

来週あたり、”登り納め”ではないですが、今年最後の山に行こうかなと思っています。やはり、誰もいない冬枯れの山を歩く方が心が落ち着きます。今の自分にはそっちの方が似合っている気がするのでした。


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2019.12.20 Fri l 横浜 l top ▲
昨日(月)、奥多摩の槇寄山(まきよせやま)に登りました。槇寄山は、檜原村にあり、先月登った三頭山の下山ルートによく使われる山です。

武蔵五日市駅前のバス停から、三頭山に登ったときと同じ路線のバスに乗りました。ただ、三頭山の登山口がある都民の村への直通バスは、12月~3月(休日は12月~2月)まで冬季運休しているため、都民の森の手前にある「数馬」行のバスに乗りました。

先月三頭山に登ったときは、バスは満員で座れない人もいたくらいでしたが、昨日は駅から乗ったのは数人でした。しかも他の乗客は途中の檜原村役場までで全員降りたので、それから先は乗客は私ひとりでした。

武蔵五日市駅から1時間20分バスに乗り、終点のひとつ手前の「仲の平」というバス停で降りました。既に時間は午前10時をまわっています。新宿からは3時間半かかりました。

「仲の平」のひとつ手前には、「数馬温泉センター」というバス停があります。「数馬温泉センター」の前にある数馬の湯は、食事処なども併設された温泉施設で、三頭山から槇寄山を縦走して数馬に下りる人たちの多くは、下山後に数馬の湯で汗を流すのが目的なのでした。尚、「数馬」「仲の平」「数馬温泉センター」のバス停は、それぞれ歩いて数分の非常に近い距離にあります。

槇寄山は、標高1188メートルで、笹尾根という尾根にあるピークのひとつです。笹尾根は、丹沢の表尾根ほど有名ではありませんが、奥多摩を代表する尾根のひとつで、最終的には高尾山まで(距離にして33キロ)つづいています。私が先月、下山に使ったヌカザス尾根とはちょうど反対の南側にあります。笹尾根は、ヌカザス尾根のような急登はなく、平坦で歩きやすいので、ハイキングに使う人たちも多いそうです。今は亡き田部井淳子さんが、笹尾根を好んで歩いたという話はよく知られています。

槇寄山には2時間弱で登りました。難所もなく、初心者向けのハイキングにはうってつけの山だと思いました。途中、樹林の間から三頭山や大岳山を見ることもできました。

登りも下りも誰にも会いませんでした。ただ、山頂で休憩していたら、ソロのハイカー二人が登ってきました。

槇寄山は、笹尾根の通過点のような扱いなので、山頂手前の西原峠にある道標には槇寄山の表示がなく、どっちに行っていいのかわからず戸惑いました。結局、三頭山と表示された方向に5分歩くと山頂に着きましたが、そういったところもぞんざいな扱いになっているのがよくわかります。

でも、山頂に行くと、「おおっ」と思わず声を上げました。眺望を確保するために木を伐採したのか、富士山の方角の南側が拓けており、丹沢の山々の背後に聳える富士山の雄大な姿が目に飛び込んできたのでした。冠雪した富士の嶺は、奥多摩の山の風景の中に、ひときわその存在感を放っていました。私は、ここは穴場だなと思いました。

山頂には、テーブルが二つあるきりです。山頂標識も、槇寄山の文字が消えかかった古い木の柱があるだけです。

ベンチに座って行動食で持ってきたチョコレートを食べていたら、40代くらいの男性が登って来ました。見ると、トレランの恰好をしています。

「トレランですか?」
「はい、一応、そうです」
「走って登ってきたのですか?」
「いや、登りはさすがに走れなかったです」

聞けば、三多摩地区の某市に住んでおり、最初はマラソンをしていたのだそうです。

「最初は都心の方に向かって走っていたんですよ。でも、それに飽きたので、山の方に向かって走っていたら、いつの間にか山の中に入るようになったんです(笑)」
「なんだか、マンガみたいな話ですね(笑)」
「そうなんです。マンガみたいな話ですよ(笑)」

マラソン歴は長いけど、トレランはまだ1年くらいだと言ってました。ただ、体形は見るからにアスリート向きの細い身体をしています。体脂肪率は11パーセントだそうで、体脂肪率23パーセントの人間から見れば驚異の体形です。

「すごいですね!」
「いや、トレランをする人は、体脂肪率が一桁の人が多いですよ。私も一桁が目標なんですが、これが限界なのか、なかなか一桁にならないんですよ」
「食事制限などはしているんですか?」
「いや、全然」

運動をしている人に「食事制限」は愚問だったかなと思いました。

彼もまた、単独行が好きなタイプの人間で、トレランの同好会などの雰囲気が好きではなく、彼らとは距離を置いているそうです。

前にレースに出場した際、下り坂で顔から転倒して大けがをしたので、それ以来、下りに対する恐怖心を払拭することができないでいるという話から、山での歩き方などの話になって、結局2時間近く話し込みました。単独行が好きな者同士で波長が合ったのかもしれません。

山に行っているうちに、登りの際、身体が(特に上下に)ブレるとひどく疲れることがわかりました。マラソン中継の解説でも、身体のブレや揺れがどうのという話が出てきますが、登山も同じなのだと思います。

山から帰った夜、テレビで「帰れマンデー」という旅番組を観ていたら、マラソンの高橋尚子がゲストで出ていましたが、彼女は山道を歩くシーンで、手を後ろに組んで歩いていました。そうやって身体がブレるのを防いているのでしょう。山に登るときも、前で腕を組んだりしますが、あれも同じで、姿勢を保ち身体がブレるのを防ぐという意味もあるのだと思います。

山では、「徐々に体重(重心)移動しろ」と言われますが、一方で、「腰で歩け」とも言われます。腰を使うというのが、体重(重心)移動のポイントのように思います。

私は、岩や階段に片足を乗せた際、次の動作に移るのに心持ちワンテンポ遅らせるようにしています。そして、腰を使って下の足(軸足)から上の足へ体重(重心)を移動するのです。そうやってひとつひとつの動作を、意識して行うように心がけています。登山というのは、2万5千歩から多いときは3万5千歩くらい歩くので(しかも足への負担が半端ない山道を歩くので)、一歩一歩の違いが大きな違いになって表れるのです。

若い頃に無茶をして膝を痛めると、膝のキズは一生残ることになります。よく言われますが、関節は筋肉などと違って鍛えることはできないのです。それが関節とほかの部位との根本的な違いです。

山に行くと、(若い人に多いのですが)ドカドカドカと力まかせな歩き方で追い抜いて行く人たちがいますが、そんな人たちは、やがて膝を痛めて山に来れなくなる可能性が高いでしょう。彼らは、歩行技術などどこ吹く風で自己流で山に登っているのでしょうが、もったいないなといつも思うのでした。

姿勢が大事だというのも同じことです。「体幹を使って歩く」という言い方をする人もいますが、頭が下がり前かがみになって歩くと、どうしても膝に負担がかかってしまいます。オーバーな言い方をすれば、体重や歩行の衝撃を膝で支えるような恰好になるからです。頭を上げ背筋を延ばして正しい姿勢で歩けば、身体の軸(体幹)で身体を支えるようになるので、その分膝の負担が軽減されるのです。

また、以前『山と渓谷』の膝痛に関する記事の中で、体重(重心)を受ける足の膝は、伸ばした方が膝の負担が軽くて済むとカイロプラクターの方が言ってましたが、考えてみればその方が理に叶っているように思います。普通、下りでは、膝を曲げ膝をクッションにして歩けと言われますが、階段など段差の大きなところでは、着地したらなるべく膝を伸ばして軸足からの体重(重心)移動を受けるというのも、大事なポイントのように思います。

記事の中でカイロプロテクターの方は、山登りで重要なのは筋力よりバランス感覚だとも言ってました。ベテランの登山ガイドの方なども、よくそう言います。中高年に転落・滑落事故が多いのは、年齢とともにバランス感覚が衰えるからだそうです。スクワットをして膝を痛めるより、バランスボールなどを使ってバランス感覚を養った方がいいと言われますが、たしかにそうかも知れません。

私自身、若気の至りで膝に古キズがあり、しかも、長身で猫背なので、自分の歩き方と照らし合わせるとよくわかるのでした。

そんなことを話していたら、三頭山の方からやはり40代くらいの女性が登って来ました。聞けば、ヌカザス尾根から三頭山に登り、これから私たちと同じ「仲の平」へ下山するのだとか。

三頭山から槇寄山に来たのは、「笹尾根をつなぎたかったから」と言ってました。今まで二回に分けて高尾山まで歩いているので、今回で笹尾根の縦走が完結するのだそうです。「今年中に完結したいと思っていたのでよかったです」と言ってました。

私が、ヌカザス尾根を下った話をしたら、「エエッ、あれを下りたんですか? 登っていたとき、これは下りの方が大変そうだなと思いましたよ」と言ってました。

彼女は、奥多摩湖から三頭山の山頂まで4時間かかったそうです。今日は三頭山の山頂には誰もいなくて、ヌカザス尾根でもすれ違ったのはひとりだけだったとか。

彼女もまた、単独行が好きなんだなと思いました。おこがましいですが、私は、加藤文太郎の『単独行』を読むと、ひとりで山に行く勇気のようなものを貰います。同じように、こうやってソロで山にやって来ている人たちと話をすると、共感するところが多いのでした。

私は、あらためてひとりがいいなあと思いました。そして、最後はこうしてひとりで死んでいくんだろうなと思いました。

二人がそれぞれ下山したあと、私は、しばらくひとりで山頂に残り、それから下山しました。1時間ちょっとで「仲の平」のバス停に戻りました。

しかし、次のバスまで45分くらい時間があります。「仲の平」のバス停にはベンチしかないので、隣の「数馬温泉センター」まで歩きました。数馬の湯は定休日でしたが、前には屋根付きの立派なバス停がありましたので、そこで食べ残したおにぎりを食べて、バスを待ちました。

武蔵五日市駅に戻って来たのは、夕方の6時すぎでした。それからJR五日市線に乗って、いつものように拝島で八高線、八王子で横浜線、菊名で東横線に乗り換えて帰りました。最寄り駅に着いたときは、午後8時半をまわっていました。

時間の短いお手軽な山行でしたので、足の調子も良くて、いいリハビリになりました。


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武蔵五日市駅 ※スマホで撮影

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駅前のバス停。誰もいない。※スマホで撮影

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「仲の平」バス停

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西原峠

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槇寄山の山頂標識。文字が消えかかっていて読み取れない。

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山頂の様子

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数馬の湯
2019.12.17 Tue l l top ▲
混迷を深めていたイギリスのEU離脱(ブレグジット)も、離脱の是非を問う下院の総選挙で、離脱強硬派のジョンソン首相が率いる与党の保守党が圧勝したことにより、来年1月末までの離脱が決定的になりました。

一方、離脱に対して賛成から残留に舵を切り、方針が一貫しなかった野党の労働党は大敗。党内最左派(オールドレイバー)のジェレミー・コービン党首は、責任を取って辞任することになりました。

かねてからブレイディみかこ氏は、ブレグジットについて、下層の労働者たちがどうして労働党に三下り半を突き付け、保守党を支持するに至ったかを、右か左かではなく上か下かの視点からルポルタージュしていました。私も、再三、このブログでブレイディみかこ氏のルポを紹介していましたので、離脱が決定的になった今、氏の最新報告を読みたいと思い、「UK地べた外電」というルポを連載していた晶文社のサイト・スクラップブックにアクセスしてみました。しかし、案の定、連載は昨年の3月から途絶えたままでした。

晶文社 スクラップブック
UK地べた外電

また、氏のオフィシャルブログも、最近は本の宣伝ばかりで、オリジナルの文章はすっかり姿を消しています。そのため、Yahoo!ニュース(個人)に転載されていた文章も、2017年6月から途絶えたままです。

その一方で、ブレイディみかこ氏はすっかり売れっ子になっており、毎日新聞や朝日新聞で「時評」を連載したり、新潮社から本を出したりしています。さらに、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)では、毎日出版文化賞の特別賞を受賞しています。

最近はよく帰国しているみたいなので、まだ保育士をつづけているのかどうかわかりませんが、オフィシャルブログに矢部太郎と対談したことを自慢げに書いている氏を見ていると、(私の感覚では)なんだか痛ましささえ覚えてなりません。

ブレイディみかこ氏には、「アナキズム・イン・ザ・UK」というブログもありますが、やはり2015年から途絶えたままです。売れっ子になったので、アナーキーな心情も忘却の彼方に追いやったということなのでしょうか。

私自身は全共闘運動に乗り遅れた世代ですが、私たちは、全共闘運動に随伴してさかんに学生たちを煽っていた“左翼文化人”たちが、運動が終焉を迎えると手の平を返したように豹変し、お得意の自己合理化をはかりながら体制内に戻って行ったのを嫌と言うほど見てきました。

それをある人は「新左翼ビジネス」と呼んでいました。今は右の時代なので、愛国ビジネスやヘイトビジネスが盛んですが、左も例外ではないのです。

"左翼文化人"たちは、左派のシンパの人間たち向けに、受けのいい文章を書いて禄を食んでいたにすぎないのです。でも、私たちは、"左翼文化人"が売文業者だったなんてゆめゆめ思っていませんでした。貨幣ならぬ”文字の物神性”のようなものに呪縛されている私たちは、文字になって”書かれたもの”を無定見に信じるがゆえに、いとも簡単に騙されてしまったのでした。

今のブレイディみかこ氏を見ていると、もうタダの文章は書かない(無料経済はやめた)、大手出版社と全国紙しか相手にしないとでも言いたげで、残念な気がしてなりません。


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2019.12.15 Sun l 本・文芸 l top ▲
今日のYahoo!ニュースに、日刊工業新聞の下記の記事が転載されていました。

Yahoo!ニュース
韓国からの訪日客減も…盛り上がる九州観光のワケ

記事はこう書きます。

 同県(引用者:大分県)内の10月の観光統計調査(速報値)のうち、英国からの延べ宿泊者は前年同月比59・1倍の1万3949人、フランスが同21・6倍の4261人となった。前年の統計がない豪州は9065人を記録した。従来の主力だった韓国からの来訪者が日韓関係の冷え込みで大幅に落ち込む中、県内観光を大いに盛り上げた。


しかし、これはどう考えても、一時的な「活況」にすぎないのです。だからなんなんだというような記事です。

日韓対立の影響で、韓国の格安航空の定期便が運休したために、大分県は観光客の半分以上を占めていた韓国人観光客が激減して深刻な状況に陥っているのですが、そんな大分県にとって、ワールドカップの「活況」などホンの気休めでしかないのです。

前月の9月の観光統計調査によれば、県内の韓国からの宿泊客数は前年同月に比べ31464人(83・9%)減の6026人にまで落ち込んでいるそうです。この数字をみても、その深刻度が伺えます。

地元で宿泊業や飲食業などをしている知人たちに聞いても、ワールドカップのときは欧米の観光客の需要はあったけど、ワールドカップが終わった今は「真っ暗闇」「閑散としている」と言っていました。そして、彼らはおしなべて、「日本人(観光客)はお金を持ってない」「お金を使わない」と言います。もはや日本人頼りでは、観光業は成り立たないのです。

日刊工業新聞の記事は、ワールドカップで如何にも光明が見えてきたかのように書いていますが、光明なんてどこにもないのです。

大分県の広瀬知事は、韓国に代わる台湾や中国からの航空路線の就航をはたらきかけていきたいと言ってましたが、今まではたらきかけて実現しなかったのに、そんなに都合よく実現するのだろうかという疑問を抱かざるを得ません。これも気休めと言うべきでしょう。

日韓対立に関する報道では、困っているのは韓国で、そのうち韓国が日本に泣きを入れてくるだろうというような見方が多くありましたが、ホントに困っているのは日本ではないのかと思えてきます。

日韓対立に対する安倍政権の姿勢は、北朝鮮に圧力を加えれば、そのうち北朝鮮が泣きを入れて拉致被害者を差し出してくるという、荒唐無稽な拉致対策とよく似ています。拉致被害者の家族たちも、そんなネトウヨ的妄想を真に受けていたのです。

ところが、手詰まりになった安倍政権は、最近は、北朝鮮に対して「無条件対話」を呼び掛けるまで後退しているのです(でも、北朝鮮からは相手にされない)。韓国に対しても同様で、強気な態度が徐々に影を潜め、対話を模索しはじめているフシさえあります。まず最初にネトウヨ的妄想ありきという感じで、やっていることが場当たり的なのです。

私たちはトランプの振る舞いの中に、彼を支持するアメリカ国民の民度の低さを見て嗤ったりしますが、それこそ岡目八目と言うべきで、安倍政権も似たかよったかなのです。アメリカ国民の民度を嗤えないのです。

安倍政権の本質は、案外、下記のような記事にあるのかもしれません。

Yahoo!ニュース
NEWS ポストセブン
安倍内閣は立場弱い者に居丈高 根底に学歴コンプレックスか

「ニッポン、凄い!」と自演乙している間に、政治でも経済でも日本の国際的な地位は低下の一途をたどるばかりです。アベノミクスということばもいつの間にか聞かれなくなりました。だから、よけい自演乙せざるを得ないのかもしれません。衆愚=国民をごまかせても、現実はごまかせないのです。


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2019.12.11 Wed l 社会・メディア l top ▲
一昨日(金)、東丹沢の仏果山(ぶっかさん)に登りました。仏果山は、神奈川県の清川村と愛川町の境界にあり、宮ヶ瀬ダム沿いに主要な登山口があります。

朝7時15分、新宿発の小田急ロマンスカーに乗り、本厚木で下車。本厚木からバスに乗って、約30分で「仏果山登山口」のバス停に着きました。今回は初めてなので、「仏果山登山口」からのいちばんわかりやすいルートで登ることにしました。ネットで調べたとおり、バス停のすぐ後ろに登山口の階段がありました。

前回の大岳山で膝に負担を感じたので、今回は「軽い登山」を選んだつもりでした。標高も747メートルなので、鼻歌交じりで登れるのではないかとタカをくくっていたら、予想に反して案外登り応えのある山でした。

宮ケ瀬越という尾根に出ると、右が仏果山で左が高取山に分岐していました。とりあえず、右の仏果山に向かいましたが、下山時、高取山にも寄りました。

丹沢名物の階段もありましたし、山頂の手前はロープが張られたちょっとした岩場(らしきもの)もありました。岩を登るのに、足をかけるところがなくて、片足を腰のあたりにかけ、下の足を蹴上げてその反動で登るような恰好になったのですが、その際、腰を捻ったみたいで、腰痛が翌日まで残りました。

あれじゃ身体の小さい人たちは登れないだろうと思いましたが、皆さん、ちゃんと登って来ているのです。おそらくほかの方法があったに違いありません。私は、その方法を見つけることができなかったのです。小さなことですが、なんだか自分の未熟さを知った気がしました。

行きのバスでは、中年の男性に引率された10人くらいのおばさんのグループと一緒でした。いわゆる「おまかせ登山」のご一行です。見事なほど、子どものように身体の小さいおばさんたちが揃っていました。登山は、競馬の騎手と同じで、身体の小さい人が有利ですが、おばさんとて例外ではないのです。日本が登山大国になったのは、日本人の体格が登山向きであったという理由も大きいのだと思います。だから、欧米のようなトレッキングやハイキングではなく、日本人はバカの高上りのように、みんな山頂を目指すのです。今のアウトドア(キャンプ)ブームは、そんな薄っぺらな山の文化に対するアンチテーゼと言えなくもないでしょう。

道中では、昭和初期の登山家・加藤文太郎の山行日記『単独行』(青空文庫)を読んでいましたので、よけい「おまかせ登山」に対しての違和感を抱かざるを得ませんでした。

加藤文太郎は、神戸にある三菱の造船所に勤めながら、休日を利用して山に出かけていたのですが、それはほぼ単独行(今で言うソロ)でした。今のような詳細な登山用の地図がなかったので、地元のガイドを雇いパーティを組んで登るのが主流だった当時にあって、とりわけ北アルプスの山々を単独で登攀したことにより、人々に知られる存在となったのでした。

また、新田次郎の代表作『孤高の人』は、加藤文太郎をモデルにした小説として知られています。気象庁の職員であった新田が富士山山頂の気象レーダーの建設に従事していたとき、冬の富士山山頂にひとりで登ってきた若者=加藤文太郎に心を打たれ、のちに『孤高の人』を書いたと言われています。

高等小学校を卒業後、働きながら工業学校の夜間部を出て造船技師になった加藤は、当時、インテリが多くを占めていた登山の世界では異色の存在でした。『単独行』を読むと、加藤もまた、家族や職場のストレスから逃れるために山に通っていた一面があることが伺えます。涸沢が「唐沢」と書かれていたり、上高地には島々から徳本峠を経て入るなど、今と違った部分もありますが(登頂の証しに名札を立てたり名刺を置いたりするのも今と違いますが)、しかし、山小屋の存在や途中で出会う登山者の様子などは、驚くほど変わってないのでした。山岳部の学生だけでなく、加藤と同じように休日を利用して北アルプスにやって来るサラリーマンも結構いたことがわかります。

昭和の初めにも、今と同じように人生に悩み、その答えを求めて山にやって来る若者たちがいたのです。そんなナイーブな彼らにとって、のちに訪れる戦争の時代(天皇制ファシズムが猛威を振るい、自由を奪った時代)は、どんなにつらかっただろうと想像せざるを得ません。戦場に行く前に、最後の思い出に山に登った若者もいたに違いありません。

2時間弱で仏果山の山頂に着きました。仏果山は、近くの禅宗の坊さんが座禅修行した山だそうで、そのためか、山頂にも小さな石仏がありました。

途中、会ったのはひとりだけでした。山頂のベンチでは、若い女性の二人組と中年女性の二人組がそれぞれ休憩していました。でも、しばらくすると下山して行き、誰もいなくなりました。私は、持参した昼食(コンビニのおにぎり)を食べて、ひとりでまったりしていました。とそのときです。来るときにバスで一緒だったおばさんたちのグループがドカドカと登って来たのでした。

「やっと着いたっ!」などと歓声を上げていました。リーダーの男性が、「ここで昼食にします」と告げていました。どういったグループなのかわかりませんが(なにかのツアーなのかもしれない)、中には花の絵の一覧表を入れたファイルを持っている人もいました。しかし、これじゃ花の探索もできないだろうと思いました。

山頂が賑やかになったので、下山することにしました。違うルートを下りようかと思いましたが、三頭山でのミスが頭をかすめ、ピストンで下りることにしました。途中、高取山にも寄りましたが、それでも1時間半くらいで下山することができました。

最近の私は、登りよりも下りに神経を使っています。基本に忠実に丁寧に下りようと心がけると、かえって疲れます。でも、足を守るためにはそうせざるを得ないのです。登山は、登りよりも下りの方が難しいというのを痛感させられています。

登山口のバス停で30分以上待ち、午後3時前のバスに乗って帰りました。本厚木からは小田急線で町田。町田からは横浜線で菊名。菊名から東横線に乗り換えて、最寄り駅に着いたのは午後4時半すぎでした。

山行時間も短かったので、足の疲れもそんなになく、心配した痛みも出なくてひと安心と思ったのもつかの間、町田駅で横浜線に乗り替えるのにホームへの階段を下りていたとき、突然、左足がカクンと力がぬけたようになったのでした。再びショックを受け、しばらく山に行くのはやめようかとか、整形外科に診察に行こうかとか、今、悩んでいる最中なのでした。


※今さらですが、サムネイル画像をクリックすると拡大画像がご覧いただけます。

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「仏果山登山口」のバス停。これは下りのバス停で、登山口は向かいの上りのバス停の方にあります。

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登山届は回収されてないようで、差し込み口からはみ出すほど満杯でした。

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紅葉はいくらか残っていましたが、もうあとわずかでしょう。

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丹沢名物の階段もありました。

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紅葉の間から見える宮ヶ瀬ダムの湖面

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宮ケ瀬越

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山頂手前の急登。登ったあと上から見下ろす。

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山頂標識

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山頂には鉄塔の見晴台が設置されていました。見晴台からの眺望。

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正面が帰りに寄った高取山

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宮ヶ瀬ダム

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もうひとつの山頂標識

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高取山

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高取山にも仏果山と同じ鉄塔の見晴台がありました。宮ヶ瀬ダムは高取山の方がよく見えます。

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先程登った仏果山

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下山した。

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バス停の前から宮ヶ瀬ダムの湖面

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バス停と登山口の遠景。登山口には、小菅村で行方不明になった女児の捜索ビラが貼られていました。
2019.12.08 Sun l l top ▲
今、夕方のニュースを観ていたら、「沢尻被告の保釈を認める決定」という速報があり、東京湾岸署からの中継がはじまりました。湾岸署の玄関には、沢尻被告が頭を下げて謝罪するシーンをカメラにおさめるべく、大勢のメディアが陣取っていました。

今日、沢尻エリカは麻薬取締法違反(所持)の疑いで起訴されたのですが、起訴された当日に保釈というのは異例だそうです。それだけ事件は限定的で、今後の広がりはないということなのでしょう。

警視庁の組織犯罪対策課と東京地検は、権力の面子に賭けて起訴したのでしょう。しかし、それは、当初描いた構図とは違って、沢尻エリカみずからが白状した棚ぼたのMDMA所持の起訴になったにすぎないのです(ほかにもLSDが見つかったという報道もあります)。しかも、所持と言っても、悪ガキが好奇心で持っていた程度の少量です。尿検査も陰性で、本当に依存性があったどうかさえもわかりません。結局は、沢尻エリカと彼女にクスリを渡した元恋人のデザイナー(ヤンキーの聖地=横浜で修行した典型的なストリート系のヤンキーデザイナー)の二人を起訴しておしまいになる可能性が大きいでしょう。

文字通り、大山鳴動して鼠二匹(一応、二匹出てきたけど)といった感じです。前も書きましたが、これほど拙速で杜撰な捜査はありません。まるで鼠よりも大山鳴動する(させる)ことが目的だったみたいです。警視庁と密通して捜査情報をもらった手前もあるのか、TBSはヘリコプターまで飛ばして「湾岸署の上空から中継」なんてやっていますが、どこまで恥さらしなんだと思いました。

こういったなんでもありの人権侵害(=市中引き回し)は、文春の“ロス疑惑”報道からはじまったのでした。小泉政権によって衆愚政治の堰が外されたように、文春によって報道の(人権の)堰が外されたのです。そして、なんでもありになったのです。

自宅に帰れば、自宅周辺が大騒ぎになるので、政治家と同じで、とりあえず病院に逃避して「クスリと絶縁」を演出したいのかもしれません。今後も芸能界に残るためには、そうせざるを得ないのでしょう。TBSの夕方のニュース番組のカマトトアナウンサー(ワイドショーや夕方のニュースでは、主婦受けを狙っているのか、カマトトな男性アナウンサーが多いのが特徴です)は、「病院で治療」を強調していましたが、(何度も言いますが)尿検査の結果が陰性だったのですから、「治療」するほどの依存性があるのかどうかもわからないのです。今や報道番組も、真実は二の次でそういった印象操作に走ってばかりで、ワイドショーとの見分けもつかないほどになっています。

TBSと同じ系列のスポニチは、尿検査が陰性だったことについて、大河ドラマが決まったので”クスリ絶ち”をしていたのではないかと書いていましたが、本当に依存性があるなら”クスリ絶ち”などできないはずです。言っていることがメチャクチャなのです。

どっかで聞いたセリフですが、「沢尻エリカよ、爪の垢程度のMDMAごときで頭なんか下げるな」と言いたかったけど、どうやら頭を下げるシーンはないみたいです。バカボンのパパではないですが、「それでいいのだ」と思いました。


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田口被告の土下座
メディアの印象操作
2019.12.06 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
山に行くには当然ながら怪我のリスクも伴います。また、山登りは、お金のかかる趣味でもあります。服や用具も、「専門性」を盾にバカ高いのが常ですが、お金がかかるのは服や用具だけではありません。

よく山で会った人から、日帰りで山に行くのに、5千円の予算で納めるようにしているという話を聞きますが、私の場合、5千円ではとても納まりません。

昨日の大岳山に行ったときも、1万5千円おろして出かけたのですが、帰ってきて財布に残っていたのは2千円でした。パスモに5千円チャージしたのですが、残金は400円になっていました。このように交通費もバカにならないのです。私鉄に比べて割高なJRやバスを利用することが多いからでしょう。

これで月に3回から4回山に行くと、結構な出費になります。それ以外に、ちょくちょく用具を買い替えたりすると、山登りは贅沢な趣味の部類に入ると言っても過言ではないのです。

今は違いますが、昔は、山登りはインテリのスポーツと言われていました。私は、山登りの“拠点”でもあった九州のくじゅう連山の麓の温泉場で育ちましたが、たしかに昔は登山客はインテリが多かったように思います。ちなみに、くじゅう=久住で初めての遭難者は、九大(旧九州帝大)の医学部の学生のパーティです。

余談ですが、よくくじゅう=久住を「九重」と書きますが、あれは間違いです。深田久弥も九重山と書いていましたが、九重山なんてありません。正確には久住山です。久住山の麓にあるのは久住町で、九重町ではありません。くじゅう=久住連山の反対側(今は、九州横断道路ができて交通の便がよくなったので、“表側”のようになってますが)に九重町がありますが、あれは「くじゅうまち」ではなく「ここのえまち」です。

だから、私などは、山と高原地図で「九重山」と記載されているのを見ると、つい「ここのえやま」と読んでしまいます。もちろん、そんな山はありません。

また、くじゅう=久住で人気がある坊がつるや法華院温泉も、住所は竹田市(旧直入郡)久住町有氏です。九重町ではないのです。くじゅうの南口の登山口も、久住町有氏です。昔は、坊がつるや法華院温泉は山を越えて行くところだったのです。父親と一緒に久住連山の大船山に登ったときも、頂上から「あれが法華院で、その向こうが坊がつるだ」と教えてもらったことを覚えています。みんな、山を越えて、登山口と同じ町内の法華院や坊がつるに行っていたのです。坊がつると言えば、「坊がつる賛歌」が有名ですが、あの歌はもともと広島の高等師範(現広島大学教育学部)の山岳部の部歌を九大の山岳部が替え歌にして歌っていたもので、そこにも登山がインテリのスポーツであったことが伺えるのでした。

どうして、くじゅう=久住が九重になったのか。くじゅうが従来からあった阿蘇国立公園に入ることになったとき、新しい呼称を協議にするのに、山の反対側の(旧玖珠郡)九重町が「オレたちも『くじゅう』だ」と言い出したのでした。さらに、政治力を使って強引に「くじゅう」であることを主張したのでした。それまでの呼称に従えば、「阿蘇久住国立公園」になるはずでしたが、それに九重町が異を唱えたのでした。

うちの親たちも「そんなバカな話があるか」とひどく憤慨していましたが、しかし、九重側の政治力が功を奏して、折衷案として久住をひらがなで表記することになり、「阿蘇くじゅう国立公園」に決定したのでした。それが間違いのもとで、以後、徐々に「くじゅう」が「九重」に代わり、今のような「九重山」「九重連山」などというありもしない山名がまかりとおるようになったのです。

話が脇道に逸れましたが、登山がインテリのスポーツであったのは、それだけお金がかかるからという事情もあったでしょう。それと、登山と地質学や植物学や地理学や医学が切っても切れない関係にあったので、そういった学問的な関心を入口にしてインテリの間で登山が盛んになったという一面もあるのかもしれません。

イギリスの登山家ジョージ・マルローが、「どうして山に登るのか?」と問われて答えた(と言われる)、「そこに山があるから」ということばは人口に膾炙され有名になりましたが、(本多勝一氏も著書で書いていましたが)実際は「そこに山があるから」ではなく「エベレストがあるから」と答えたのだそうです。マルローはエベレストの初登頂を目指していて、当時、初登頂は国威発揚のための英雄的な行為でした。「山があるから」と「エベレストがあるから」とでは、意味合いがまったく違ってきます。マルローの「エベレストがあるから」という発言の裏には、今のオリンピックと同じようなナショナリズムと結びついた登攀思想(初登頂主義)があるのです。そういった帝国主義的な発想の所産でもあった登攀思想の意図を隠蔽し、哲学的な意味合いを持たせてカムフラージュするために、発言が歪曲(意訳)されたのだと思います。

つらつら考えるに、私が山に登る理由は、まずなんと言っても年齢的な体力の衰えに対する焦りが大きいように思います。ある年齢に達すると、自分はこんな歩き方をしていたのかと、自分の歩き方に違和感を抱くようになりました。筋力の衰えによって、歩き方にも微妙に変化が訪れたからでしょう。特に、階段を下りるときが顕著でした。いつの間にか下りることに過分に神経を使っている自分がいました。

登山というのは、整備されてない山道(トレイル)を歩くことなので、登山によって自分の歩き方に対する違和感を少しでも拭いたいという気持があるように思います。もちろん、健康に対する不安もあるでしょう。山に行ったからと言って、病気にならないという保障はありませんが、山に行って身体を鍛えれば病気から遠ざかることができるのではないかという”信仰”も心の底にあるように思います。

だから、山に行って筋肉痛になるのは、自分にとってはうれしいことでもあるのです。筋肉痛なんて若いときの話だと思っていたので、この年で筋肉痛になるのはいくらか若くなったような幻想さえ抱かせるのでした。

二つ目は、言うまでもなく日常からの逃避です。以前(もう13年前)、このブログで田口ランディの「空っぽになれる場所」という記事を書きましたが、山に行くことで空っぽになりたいという気持もあります。

何度も言いますが、電車が来てもいないのにホームへの階段を駆け下りて行くサラリーマンやOLたち。そうやっていつも資本が強いる”時間”(=資本の回転率)に追われ、その強迫観念の中で生きているサラリーマンやOLたち。しかも、それがこの社会で誠実に生きる証しだみたいなイデオロギーさえ付与されるのです。しかし、彼らの先に待っているのは、過労死かメンヘラかリストラでしょう。

この社会で生きる限り、そんな”誠実に生きるイデオロギー”から逃れることはできません。でも、一時でもいいから逃れたい、ストレスを解消したいという気持も当然あります。だからこそ、山に来てまでコースタイム(時間)にこだわったり、他人に対する競争心をひけらかす者たちを軽蔑したくなるのです。

三つ目は、子どもの頃に見た風景をもう一度見たいという気持です。言うなれば、望郷の念とないまざった過去への憧憬です。その中には、一緒に山に登った父親との思い出も含まれています。子どもの頃、いつも視界の中にあったくじゅう=久住の山々。木漏れ日や草いきれ。風で木の葉がこすれる音。小鳥や森の動物たちの鳴き声。そんなものが、胸にせまってくるほどなつかしく思い出されることがあります。元気なうちに父親と一緒に登った山にもう一度登りたいという気持は、年を取れば取るほど募って来るのでした。


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