私は花粉症がひどく、その習慣で真夏の暑い時期を除いて1年の3分の2はマスクをしています。また、予備がないと不安症候群なので、常にマスクをストックしています。

しかし、気が付いたらストックも残り少なくなっていました。花粉症の時期も近づいて来たので、あわてて近所のドラッグストアに行きました。ところが、マスクの棚はスッカラカンで「売切れ」の札がかかっていました。1週間くらい前までは、「花粉シーズン到来」などというポップが付けられて、店先やレジの横などで山積みにされて売られていました。それが跡形もなくなっていたのです。

私は、まさかと思って別のドラッグストアや百円ショップをまわりました。案の定、どこも同じでした。この1週間の間にマスクは店頭から姿を消したのです。

帰って、アマゾンや楽天やYahoo!ショッピングなど、ネット通販のサイトをチェックしてみました。しかし、ネットで売られているのは、普段の10~20倍の値段が付けられた商品ばかりで、便乗値上げのオンパレードでした。アマゾンには、25枚入りで100万円(ご丁寧に1枚当たり4万円と付記)の使い捨てマスクがマーケットプレイスで出品されていました。出品者も狂っていますが、それを黙認(?)しているアマゾンも狂っているのです。

また、アマゾンが直接商品を扱うprimeでは、イオンのプライベートブランドであるトップバリューのマスク(65枚入り)を通常価格の10倍以上の1万円で販売していました。アマゾン自体が便乗値上げに加担しているのですからお話になりません。まさネットを支配するに彼らGAFAは、強欲資本主義が生んだリバイアサン(怪物)と言っていいかもしれません。

テレビでは、マスク不足が深刻な中国で、マスクをめぐって各地で騒動が起きている、というニュースが連日伝えられていますが、なんのことはない日本も同じなのでした。さらに言うに事欠いて、日本のマスク不足は中国人が買い占めているからだと言い出す始末で、これではテロルとしての日常性が牙を剥く”不穏な噂”がいつ出てきてもおかしくないでしょう。

たしかに、中国人(観光客)がまとめ買いしているのは事実かもしれませんが、だからと言って、それがマスク不足の原因だと決めつけるのは、あまりにも乱暴で誇張した見方です。そうやって既に”不穏な噂”がまき散らされていると言っていいかもしれません。言うまでもなく、マスク不足は、日本人自身が買いだめしているからです。

店の人に訊くと、平日の昼間、時間を持て余しているおばさんやおっさん、それに小さな子供を連れた母親などが殺到して、あっという間に売り切れたのだそうです。おそらくテレビのワイドショーを見て駆け付けたのではないでしょうか。たまたま居合わせた近所の人は、「まるで奪い合うように買っていた」と言ってました。

その話を聞いて、東日本大震災のとき、アリとキリギリスのアリのように、自転車の荷台に米や水などを乗せて、一日に何度もスーパーと自宅を行き来していた近所のおばさんやおっさんの姿を思い出しました。あのときも、米や水やティッシュペーパーなどが、あっという間に店頭から消えたのでした。

中国の出来事は、対岸の火事ではないのです。新型コロナウイルスに関して、ヨーロッパなどではアジア人に対する偏見が広がりつつあるそうですが、ヨーロッパの人間から見れば、中国人も韓国人も日本人も同じようにしか見えないのでしょう。実際にやっていることも大差ないのです。

カルロス・ゴーンの問題もそうですが、人質司法などを見ても、中国や韓国や日本はどこも同じ「民主主義の未熟なアジア」にしか見えないでしょう。「オレたち(日本)は、中国や韓国と違うんだ」といくら言っても、どんぐりの背比べにしか見えないでしょう。

私が高校時代を過ごした地元は、海外からの観光客も多い温泉地で、しかも、5500名の学生のうち、半数が海外(主にアジア)からの留学生で占められる国際色豊かな大学もあります。

以前、帰省した折に会った、地元で家業の病院を継いでいる同級生は、「最近、見たこともないような症状の患者がいるんだよな」「留学生や観光客を通して今まで日本になかった病原菌が持ち込まれているからじゃないかな」と言ってましたが、今回の新型コロナウイルスの問題で、私はその話を思い出したのでした。

もっとも、感染症の世界的な流行は今までも何度もありました。交通が発達し経済活動が拡大して人の往来が多くなるにつれ、新しい感染症が世界大に広がるのは、ある意味当然でしょう。

一方で、今回の新型コロナウイルスが、とりわけ中国人の食文化や衛生観念に、大きな影響を与えることになるのは間違いないでしょう。野生動物を食べる習慣も減るでしょうし、マスクや手洗いやうがいもある程度習慣化するのではないでしょうか。感染症の世界的な流行は、そうやって今までも人類の生活文化に大きな影響を与えてきたのでした。

中国人観光客はマスクもしないで迷惑だと言いますが、電車に乗るとわかりますが、日本人もマスクをしないで咳き込んでいる迷惑な人間はいくらでもいます。もっとも、新型コロナウイルスは粒子が微細なので、マスクではブロックすることはできない(感染の予防はできない)そうです。むしろ、細かな手洗いとうがいの方が効果的なのだとか。でも、ワイドショーなどは当初、そういったことはひと言も伝えずに、ただ「マスク売り場に急げ!」とばかりに視聴者を煽るだけでした。

日本人にとって、今回の新型コロナウイルスも所詮は他人事なのでしょう。(いつもそうですが)迷惑をかけられた、あるいは「ざまあみろ」という感覚しかないのてす。そして、空疎な愛国心で自演乙して、中国人に対するヘイトを剥き出しにするだけです。そこにあるのは、大塚英志の言う「旧メディアのネット世論への迎合」で生み出される”最低の世論”です。そして、”最低の世論”に引き摺られるこの国のトンチンカンで夜郎自大な姿なのでした。


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2020.01.31 Fri l 新型コロナウイルス l top ▲
若い頃、親しくしていたモデルの女の子は、常々、男性モデルは「性格の悪い人間が多い」と言ってました。

彼女に言わせれば、男性モデルはお金を持ってないので(モデルでは飯は食えないので)、自分の“美貌”を売りに女性にたかることしか考えてない「最低の男」が多いそうです。当時、ホストという職業があったのかどうかわかりませんが、今で言うホストのようなものかもしれません。その中で唯一「性格がいい」と褒めていたのは、阿部寛だけでした。

また、のちに“スキャンダル王”として芸能マスコミを賑わすことになる某男性タレントから誕生パーティに誘われたときも、「あの男は女を騙すことしか考えてないから気を付けた方がいいよ」と同じモデル仲間から忠告されたと言ってました。案の定、数年後、彼はお金と女にまつわるスキャンダルを起こして芸能界から姿を消したのでした。

私は、東出昌大の「不倫」報道を見て、昔の彼女から聞いたそんな話を思い出したのでした。東出昌大もモデル出身だそうで、彼もまた、女にたかることしか考えてない「最低の男」だったのかもしれません。もとより、杏にしても、東出から口説かれ東出の「最低の男」の部分に惚れて、みずからも熱を上げたのではないか。さらに、東出昌大は、杏を口説いたときと同じ手口で、唐田某を口説いたのではないか。「不倫」はただその延長上にあっただけなのでしょう。

今回のスキャンダルで、杏に同情が集まり、杏の好感度が上がったと言われていますが、私は、まったく逆でした。私は、杏が二十歳のときに、一般的な登山ルートでは国内で最難関と言われる奥穂・西穂間を縦走したと聞いて、彼女を尊敬していましたが(芸能界とは関係ない?)、今回の件ではがっかりしました。

東出の「不倫」は、カルロス・ゴーンのケースと同じで、本来家庭内で処理すべき問題だったのではないか。ここまで騒ぎが大きくなったのは、東出にきわめて近い筋からのリークがあったからではないかと言われていますが、もしそれが事実なら、三人の子どもの父親でもある夫に、社会的な制裁を加えるようなやり方は、あまりにもえげつないとしか言いようがありません。なんだか格差婚を盾にした上から目線さえ感じます。

東出と唐田某をこれでもかと言わんばかりに叩く芸能マスコミとそれに煽られる大衆にも、いつものことながら違和感を抱いてなりません。芸能人に聖人君子を求めてどうするんだと言いたくなります。芸能人こそ、聖人君子とはもっとも遠くにいる人間でしょう。何度もくり返しますが、芸能人は、本来、市民社会の埒外に存在する「河原乞食」なのです。「不倫」でもなんでもあるでしょう。聖人君子のような役者になんの魅力があるのかと思います。

同時に私は、あらためて村西とおる氏の下記の文章が思い出されてなりませんでした(引用元の「ポリスジャパン」はリンク切れになっていました)。

女優という生きものには「魔性」が潜んでいます。

すべての行動原理は「自からの利害得失」による、という「魔性」であります。 その女優が「好きになったから」という理由だけで女優が結婚するとはまったく考えられないのでございます。

女優は自分自身に惚れて惚れぬいて、自分しか愛せなくなった人間の就く職業でございます。 由に人前で他人の男とも平気でSEXが出来て、泣き笑い叫び歌えるのでございます。

女優とは人々からの「喝采」に魂を売り渡した人間であります。

「喝采」のためならなんでもやれる、のでございます。 淫売になれるどころか、必要なら人殺しさえやりかねない、それが女優であります。

だから普通の「お嬢さま」では絶対に「ならない」「なれない」のが「女優というお仕事」なのでございます。


それは、女優に限らず男優も同じて、芸能人というのは、ことばの真正な意味において、やくざな存在なのです。

「不倫」で芸能界から追放されるなんて、一体いつの時代の話だと言いたいです。他人の不幸は蜜の味とばかりに、執拗に東出や唐田某を叩くメディアや大衆には、おぞましささえ覚えます。

(やはり前に紹介しましたが)コンドームメーカーの相模ゴム工業が働く女性350人を対象に行った調査によれば、なんと58%が「不倫」の経験があるそうで、そんな「不倫」が当たり前の世の中にあって、このメディアや大衆を覆うリゴリズム(厳格主義)は異常と言うしかありません。私は、そこにもまた、この社会や大衆が持つ”病い”を覚えてならないのです。


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2020.01.27 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
今日、仕事で取引きがある会社から「『新型コロナウイルス』の感染拡大への対応についてのお知らせ」というタイトルで、次のようなメールがきました。

当社では、「新型コロナウイルス」の感染拡大を受け、当社従業員の安全確保および正確な環境状況の把握を目的に下記の期間中、電話でのサポート対応を一時休止いたします。


メールによれば、1月28日から2月7日まで10日間、電話サポートを休止すると言うのです。

私は、メールを読んで一瞬戸惑いました。まさかコロナウイルスが電話で感染するわけではないだろうに、この仰々しさはなんなんだと思いました。

でも、よく考えたら、これは日本国内の話ではないのかもしれません。電話サポートと言っても、専門性を要するようなものではなく単なる問合せにすぎませんので、そのための専門部署を持っているとは思えません。また、会社のサイトを見ても、会社自体が臨時休業するというような告知もありませんでした。

要するに、これは、電話サポートを委託先している中国のコールセンターの話ではないのか。中国政府が新型コロナウイルス対策で、春節の休暇を延長することを決定したというニュースがありましたが、そのために委託先が長期休業を余儀なくされた、その「お知らせ」なのではないか。それを「当社従業員の安全確保および正確な環境状況の把握」などと見栄を張るので、話がややこしくなるのです。

今回の新型コロナウイルスでは、ネットを中心に中国人に対するヘイトが沸き起こっているようですが、中国人に対するヘイトも、ウイルスという見えないものの”恐怖”だけでなく、空疎な愛国心から来る一種の見栄のようなものと言っていいかもしれません。ネトウヨは、韓国人や中国人が日本に来るのは迷惑なだけで、彼らが来なくても日本は困らないと言いますが、でも、実際は来ないと困るのです。このままでは倒産すると悲鳴を上げている観光業者さえいるくらいです。日本の観光業にとっては、新型コロナウイルスが日韓対立につづいて大きな痛手になるのは間違いないでしょう。

日本政府観光局(JNTO)が発表する「訪日外客数のシェア」によれば、日韓対立がはじまる前の2018年の年間シェアは、以下のとおりでした。

日本政府観光局(JNTO)出典
2018年 国籍別 / 目的別 訪日外客数 (確定値)

観光客全体27,766,112人のうち、アジアからの観光客が24,184,765人で87.71%を占めています。そのうち、韓国からは25.13%の6,977,812人、中国は26.74%の7,426,173人です。

日韓対立によって、外国人観光客の半分を占めていた韓国人観光客が激減したことで、大分県の観光業が苦境に陥っているという話は前に書いたとおりですが、今度は韓国人につづいて中国人観光客も激減することになるのです。韓国人観光客が来ないなら、中国や台湾や香港などからの観光客を呼び込めばいいなどと、ネトウヨばりに虚勢を張っていた大分県知事の涙目が目に浮かぶようです。

日本全体から言っても、外国人観光客の半分を占める韓国と中国からの観光客が激減するとなれば、その深刻度は今までの比ではないでしょう。と言うか、今の世界的な観光ブームは、中国をはじめとするアジアの「中進国」の経済発展(経済的な底上げによる中間層の増大)が背景にあるので、今の観光ブームにも翳りがもたらされる可能性があるでしょう。

新型コロナウイルスを持ち込むのではないかと、さも迷惑げにテレビカメラが中国人観光客を追いかけまわしていますが、やがてそのツケがみずからに跳ね返ってくるのは火を見るよりあきらかです。まるでヘイトによって、その現実から目を背けているかのようです。

空疎な愛国心で嫌中憎韓を煽りながら、一方で観光立国を目指す矛盾。この致し難い矛盾を矛盾として認識できないこの国にとって、観光立国なんて所詮は絵に描いた餅と言わねばならないでしょう。

上記の外国人観光客のシェアを見てもわかるとおり、日本にとって欧米はあまりに遠いのです。にもかかわらず、竹内好の「方法としてのアジア」ではないですが、日本にはアジアの一員として生きるという視点が決定的に欠けているのです。その危うさ(薄っぺらさ)が、アジアの経済発展に伴ってこれからますます露わになってくるのではないでしょうか。

韓国人や中国人は迷惑だと言いながら、その一方で韓国人観光客や中国人観光客に依存している日本の観光地のダブルスタンダード。またぞろ、タイやベトナムやフィリピンや欧米にシフトすればいいなんて気休めを言って、みずからの首を絞めていくのでしょうか。愛国心は、なんとトンチンカンで面倒くさいものなんだろうと思います。


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2020.01.27 Mon l 新型コロナウイルス l top ▲
新宿駅~立川駅~青梅駅~武蔵五日市駅8:58~9:58仲の平バス停10:00~11:50西原峠~12:18田和峠~12:48数馬峠~笹ヶタワノ峰13:07~13:30大羽根山~14:35浅間尾根登山口バス停

前回につづいて、三度(みたび)笹尾根に行きました。個人的な都合と天気のタイミングが合わずストレスがたまっていましたが、晴天ではないものの雨は降らないという予報でしたので、いつものように新宿から中央線に乗って武蔵五日市に向かいました。前の二回で歩けなかった部分を歩いて、笹尾根を繋ごうと考えたのです。

ただ、考えることは誰でも同じみたいで、武蔵五日市駅前の「数馬行き」のバス停には、100人以上のハイカーが行列を作っていました。そのため、定期便以外に2台の臨時バスが出ました。

私は、運よく2台目の先頭近くになりましたので、座ることができました。いつものことですが、今日も団体が多く、それが混乱に拍車をかけたようです。途中の登山口にあるバス停にも、前の便で来ていた団体のメンバーが後続組を待っており、どこもハイカーでいっぱいでした。11月に三頭山に行ったときは、平日だったということもあって、バスは満杯だったものの臨時バスが出ることはありませんでした。また、前回も、連休中でしたが、こんなにハイカーの姿はありませんでした。たぶん、明日の日曜日が雨の予報なので、土曜日に集中したということもあるのかも知れません。

団体は、言うまでもなく判を押したように中高年ばかりです。それにしても、おばさんたちのあのハイテンションはなんとかならないものかといつも思います。帰りの電車でも、武蔵五日市駅のホームは山から下りてきたハイカーであふれていましたが、武蔵五日市駅が始発駅だということもあって、電車が着くと、まだ降りている乗客がいるのも構わず、おばさんたちは列を無視して我先に電車に乗り込もうとするのでした。

また、電車の中でも煎餅を食べながら座席を跨いで大声でお喋りをするので、うるさくてなりませんでした。そのため、煎餅の醤油を焦がした匂いが電車の中に漂っていました。まるで小学生の遠足みたいでしたが、もっとも、小学生でも電車の中ではものを食べたらいけないと注意されるでしょう。傍目から見れば、年齢も近いので、私も同類項と見られていたかもしれません。そう思うと、同じ山に行く人間として恥ずかしくてなりませんでした。

行きのバスは、終点の「数馬」のひとつ手前の「仲の平」で降りました。「仲の平」は12月につづいて二度目です。そのときと同じように、「仲の平」のバス停から西原峠に登り、今度は槇寄山とは逆の東の方へ歩こうと思ったのでした。笹尾根の中では西原峠や槇寄山がいちばん標高が高いので、前回と違って今回は下りが基調で、拍子抜けするくらい楽に歩けました。

「仲の平」から西原峠までが唯一の登りでしたが、前回より早く着きました。相変わらず咳が残っていて体調は芳しくないので、自分でも意外でした。

各バス停に蝟集していた中高年ハイカーたちは、笹尾根ではなく、反対側の浅間尾根の方に向かったみたいで、笹尾根ではそれらしき団体と会うことはありませんでした。

「仲の平」のバス停にも30人くらいいましたが、笹尾根に向かったのは私も含めて2人だけでした。また、西原峠への登りで会ったのは、ソロのハイカー3人だけで、他に数馬峠で休憩していたら、6~7人の女性のグループが下から登ってきました。笹尾根を歩いている途中で会ったのは、やはりソロのハイカー2人とトレランのランナー3人だけでした。朝の混雑がウソのように、のんびりと冬枯れの山を満喫することができました。

笹尾根と言っても、笹があるのは一部にすぎません。その笹のあるところで、ハイカーとすれ違った際、「このあたりがいちばん笹尾根らしいですね」と言ったら、「はあ」みたいに怪訝な顔をされました。そんなことも考えずに山を歩いているのかと思いました。山を歩くスタイルが違うと言えばそう言えるのかもしれませんが、子どもの頃から山に親しんできた山国育ちの身には、その反応は信じられませんでした。コースタイムにこだわるだけだけなら、別に山に来なくても近所の河川敷を歩けばいいのです。

笹尾根は北側にあるので雪が残っているのではないかと思ったのですが、雪はほとんど消えていました。ただ、霜柱によって一部歩きにくいところがありました。また、下りでは、落ち葉がぬれていたので滑りやすく、何度もこけそうになりました。

数馬峠から20分くらい歩いた笹ヶタワノ峰の先に大羽根山に向かう下り道がありました。その道を通って浅間尾根登山口のバス停まで下りました。

ただ、下りの道は、前回の小棡峠のときと違って、森林保全に関心が高い中央区の森になっているため、踏み跡も明瞭で道標も至るところにあり、前回のように立ち止まって、GPSや紙地図で確認することもありませんでした。もしかしたら、前回と同じように踏み跡が不明瞭ではないかと思い、(予備がないと不安症候群なので)山と高原地図の地図アプリと国土地理院の地形図のGPS、併せてそれらの紙地図も持って行きましたが、まったく出番はありませんでした。また、雪が残っている場合を想定して8本爪のアイゼンも持って行きましたが、アイゼンも出番はありませんでした。

帰りのバスも臨時便が出たみたいで、2台つづいてやって来ました。朝ほどではありませんが、途中のバス停にも大勢のハイカーがバスを待っていました。

これで、笹尾根は一応区切りがついたので、しばらく行くことはないと思います。武蔵五日市駅も、しばらく行くことはないでしょう。

ただ、丹沢と比べると、奥多摩は魅力のある山が多いので、交通費がかかるけど(今日も5千円近くかかりました)、これからも奥多摩通いはつづくと思います。でも、週末は絶対に行かないと肝に銘じました。



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西原峠への道
山の上の方はガスがかかっています。

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西原峠

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今日は、槇寄山や三頭山とは反対側へ進みます。

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霜柱が残るぬれた道
靴やズボンが泥で汚れました。

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すれ違ったトレランのランナーの後ろ姿

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斜面にわずかに雪が残っているところがありました。

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笹尾根いちばんのビューポイント、数馬峠からの眺望

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笹のある道(笹ヶタワノ峰)

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ここから下ります。

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樹上の不思議な光景
逆光で見えにくのですが、熊棚のように見えなくもない。

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「シャッターポイント」と書かれた地点からの眺望

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大羽根山
下山コースのちょうど中間に当たります。下山コースは、「中央区の森」の中を通ります。

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大羽根山からの眺望

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白樺は、前回下った小棡峠からのルートの方が多かったです。

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「ぬた場」遠景

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「ぬた場」という、野生動物が集まる”ぬかるみ”がありました。「ぬた場」という呼び方は、初めて知りました。

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ネットで調べたら、狐の糞のようです。

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最後の急登(急坂)

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「中央区の森」の中には、炭焼き小屋を復元したものもありました。

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炭焼き小屋

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浅間尾根登山口バス停
2020.01.25 Sat l l top ▲
日韓問題・ゴーン問題と並んで、まともな記事がほとんどないのが、眞子さんと小室圭さんの結婚問題です。どこを見ても、下衆な国民の劣情を煽るような、低俗な(文字通り俗情と結託した)記事しか見当たりません。

しかし、元『週刊現代』の編集長の元木昌彦氏が書いているように、二人の気持にはいささかの揺るぎもないように見えます。

PRESIDENT Online
「圭さんと結婚します」の言葉を国民は祝福する

 宮内庁という役所は警察関係者が多いところである。共謀罪を出すまでもなく、警察は「盗聴」のプロフェッショナルである。

 眞子さんと小室圭は毎日のように、スマホやパソコンを通じてSNSで意思疎通をしているといわれている。そうならば、2人の会話やメールの内容を、何らかの形で宮内庁側が掴つかんでいると考えることは、決して勘繰り過ぎではないと思っている。

 そうしたことを総合して考えても、2人の間に秋風が吹いているという情報は皆無である。

 私が想像するよりもはるかに強い結びつきが2人にはある。そう考えてもいいのではないか。


小室圭さんが、アメリカの弁護士資格を取るために留学したのは、将来、眞子さんとアメリカで結婚生活を送ることを見据えてのことのように思います。それが二人が出した結論ではないのか。

別の言い方をすれば、ヘンリー王子夫妻と同じように、自分たちの国で結婚生活を送ることを諦めたのではないか。あれだけバッシングされれば、この国に嫌気が差すのは当然でしょう。まったく、どこが「ニッポン、凄い!」のかと言いたくなります。

それは、眞子さんの苦悩を身近で見てきた佳子さんも同じではないでしょうか。恋愛をすれば、メディアとメディアが煽るこの国の“最低の世論”から難癖を付けられてバッシングされるのは目に見えているのです。佳子さんも、将来、人生の幸せと自由な生活を求めて海外に行く可能性は高いように思います。

天皇制が時代にそぐわなくなっているのは、もう誰の目にもあきらかです。京都に戻って、日本でいちばん古い家系を持つ一族として、その伝統を継承する役割に徹した方がむしろ幸せなのではないかと思ったりします。ただ、その場合も、明治の田舎侍から押し付けられた“皇室の伝統”には怪しい部分も多いので、もう一度検証する必要があるでしょう。

元木氏が書いているように、宮内庁は警察官僚に牛耳られているので、日々、警察から監視される生活というのは常人には耐えがたいものがあるでしょう。眞子さんや佳子さんのような若い皇族が、「もうこんな生活は嫌だ」と思ったとしても不思議ではないのです。

私は、眞子さんと小室圭さんには同情を禁じ得ません。二人には、初心を貫徹して幸せになってもらいたいと思います。少なくとも、その権利はあるでしょう。

そのために、小室圭さんはアメリカでがんばっているのです。元木氏が書いているように、そこからは「今の若者には珍しいほど勤勉で誠実な姿が見えて」きます。バッシングされる謂れはどこにもないのです。


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眞子さんに対する中傷
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2020.01.22 Wed l 社会・メディア l top ▲
少し前の話ですが、元日に近所のコンビニに行ったときのことでした。そのコンビニに入ったのは初めてでした。

店内にはお客は誰もおらず、ネパール人のような若い女性の店員がひとりいるだけです。やはり、正月から働いているのは外国人なんだなと思いました。

店員は、店の奥で棚の商品の整理をしていました。入口近くにあるレジは空っぽです。こんなことで大丈夫なのかと思いました。

私は、商品を入れたカゴを持って、レジに向かいました。店員の女の子は、横の方のあきらかに私の姿が見える位置にいます。

しかし、レジの前に立っても女の子は知らんぷりです。私は、「すいませ~ん」と声をかけました。でも、女の子は私の方をチラッと見ただけで動く気配はありません。「どうなっているんだ?」と思いました。それで、さらに大きな声で「すいませんっ!」と呼びかけました。

すると、しぶしぶといった感じでレジにやって来ました。しかし、「お待たせしました」と言うわけではなく、無言のままです。外国人なので、そう見えるかもしれませんが、なんだか不愛想で不機嫌そうです。商品を袋に詰め、お金を受け取り、つり銭を差し出す一連の動作も無言で行うだけでした。帰る際、「ありがとうございました」という挨拶もありません。

実際に不機嫌だったのかどうかわかりませんし、それに、殊更愛想よくしろと言うつもりもありませんが、あまり気分のいいものではありませんでした。

個人の問題というより、やはり、これも人出不足の弊害と言うべきでしょう。

元日から働くのは外国人しかいない現実。今や外国人は貴重な人材です。だから、接客マナーをきびしく要求することもできないのでしょう。辞められたら困るので、腫れ物に触るような感じで接しているのかもしれません。でも、忘れてはならないのは、そこには前提があるのです。安い賃金で使える非正規雇用という前提です。不足しているのは、低賃金の非正規雇用の労働者なのです。

それは、スーパーも同様です。毎日のように通っているとわかりますが、人出不足は深刻で、そのために職場が水が低い方に流れる状況に陥っているのは否めないように思います。真面目に熱心に仕事をしていたような人たちはすぐに辞めて行き、神戸の教員いじめの女帝と言ったら言いすぎかもしれませんが、そういった感じのおばさんばかりが残って主のようになっています。最初は、ぎこちなく対応していたおばさんが、半年もするとふてぶてしい態度に変っていたなんてこともめずらしくありません。

昨日も、近所のスーパーに行ったら、おそらく新人なのでしょう、初めて見る30~40代くらいの女性が、レジ回りの掃除をしていました。すると、近くのレジの中にいたおばさんが、「そうじゃないでしょ」「それじゃ掃除してもしなくても同じじゃない」などと、いちいち注意していました。傍から見れば、難癖としか思えません。新人の女性はそのうち嫌気が差して辞めるんじゃないかと思いました。でも、難癖を付けていたおばさんも、一年くらい前は額に汗を浮かべながら慣れないレジを必死で打っていたのです。

私の知っている会社で、定職に就いたことのない生涯フリーターの50~60代の独身男性ばかりをアルバイトで雇っている会社があります。と言って、そういった人間たちを選んで雇っているわけではないのです。そういった人間たちだけが残ったのです。社員も、「まともな人が来ても続かないんですよ」と言ってました。単純労働なので、誰でもいいのでしょう。もちろん、そこにも低賃金の非正規雇用という前提があるのです。辞められたら困るので、仕事に支障のない限り、多少の非常識も目を瞑っていると言ってました。

このように、剰余労働とか労働疎外論とかいった”公式論”だけでは解釈できない、人出不足の現実とその弊害が私たちのまわりにあります。「働き方改革」も、低賃金の非正規雇用の存在が前提で、そこには大きな詐術があります。でも、みんな「いいことだ」と言うばかりです。ひと昔前の言い方をすれば、「本工の論理」しかないのです。

利潤を確保し競争力を維持するためには、できる限り賃金を抑えるしかないでしょう。雇用の安全弁としての非正規雇用も必要でしょう。人出不足というのは、そういった資本の論理が招いた”勝手な都合”にすぎないのです。若年労働力の不足と言うときの若年労働力も、「(外国人労働者並みに)賃金が安い」という意味で使われているにすぎません。

日本がもはや先進国であるかどうかは議論の分かれるところですが、思い上がった先進国が凋落(=自壊)するのは必然のような気がします。少子高齢化ばかりが取り出されますが、むしろ年収300万円以下の労働者が1859.7万人(36.99%)、非正規雇用が2036万人(37.3%)もいるような貧富の差(階層の固定化)の方が問題でしょう。既にそこから自壊がはじまっているのかもしれないのです。


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『新・日本の階級社会』
2020.01.17 Fri l 社会・メディア l top ▲
ネットを見ていたら、「ミタパン、ゴーン被告は逃亡で『日本の司法制度の正しさを証明しているかのよう』」という見出しが目に入り、思わず記事をクリックしました。

msn
デイリースポーツ
ミタパン、ゴーン被告は逃亡で「日本の司法制度の正しさを証明しているかのよう」

いわゆる典型的なコタツ記事で、いちいち目くじらを立てるのも大人げない気がしないでもありませんが、私は、この記事を読んで、「ミタパンってバカなの」と思いました。

女子アナが視聴率稼ぎのためのお人形さんであるのは今更言うまでもありませんが、それにしても、こういったお粗末なアナウンサーが報道番組のキャスターを務めているのですから呆れるばかりです。ワイドショーでアシスタントをしていたとき、控えめな口調で発する短いコメントが視聴者に受けたとかで報道番組のキャスターに抜擢されたのですが、それも横に座る厚化粧のおばさんとの比較で好感を持たれたにすぎないのです。

フジ・サンケイグループは、今や臆面もなく政権の太鼓持ちに堕しており、自民党の準機関紙化(イエロージャーナリズム化)を加速させています。以前、牛丼のすき家を運営するゼンショーへの売却話さえあった産経新聞は、今年の10月を目処に、販売網を首都圏と関西圏に縮小し、全国紙の看板をおろしてブロック紙として再出発するそうです。三田アナの抜擢は、そういったなりふり構っておれない事情と関係があるのかもしれません。

また、ゴーンの会見に関しては、ミタパン以外にも、「お前が言うな」と言いたくなるようなコメントがありました。

それは、日産の西川廣人前社長のコメントです。西川前社長は、記者会見の感想を求められて、次のように言ったそうです。

「ちょっと拍子抜けしましたね。あの程度の話なら日本ですればいい」


朝日新聞デジタル
日産の西川前社長「ちょっと拍子抜け」 ゴーン被告会見

西川前社長が、ゴーンの茶坊主であったのは有名な話で、だから、ゴーン体制下で、代表取締役社長兼最高経営責任者にまで登り詰めたのでしょう。

西川前社長については、下記の記事にもあるように、ゴーンの逮捕容疑と同じような役員報酬に関する有価証券報告書の虚偽記載の疑いがあり、社長を辞任したのもその疑いを持たれたからでした。でも、西川前社長は今も取締役には留まっているのです。

文春オンライン
日産・ケリー前代表取締役が明かした「西川廣人社長の正体」

国連から再三勧告を受けているように、代用監獄や人質司法など、日本の司法制度が民主主義国家とは思えないほど遅れているのは国際的にも知られています。韓国の“検察独裁”は他人事ではないのです。

でも、日本のメディアは、嫌韓報道と同じで、ただ国民の感情を煽るかのように坊主憎けりゃ袈裟まで式にゴーンを叩くだけです。我が振り直すような視点は皆無です。

たとえば、会社法が専門の田中亘東大教授がゴーンの訴迫に対して異議を唱えていた話など、日産の監視活動と同様、メディアに取り上げられることはないのです。

Yahoo!ニュース
共同通信
ゴーン被告の違反罪、教授が異論 会社法が専門の東大田中氏

三田アナは、ゴーンは感情的になっていると言ってますが、感情的になっているのはどっちだと言いたくなります。感情的ということばの意味がわかってないのではないか。

日本のメディアは、ゴーンに対するマイナス記事ばかり取り上げて、ゴーンがさも世界中のメディアから批判されているかのようなイメージをふりまいていますが、実際はゴーンは有罪率99.4%の日本の司法制度の犠牲者であり、そこから逃げて来た(まるで全体主義国家から逃げて来た)ように好意的に捉えている海外メディアも多いのです(むしろ、そっちの方が主流でしょう)。日本のメディアの“ゴーン叩き”もまた、ニッポンファーストの自演乙と言えるのです。

余談ですが、ゴーンが記者会見の中で、英語とフランス語とアラビア語を流ちょうに使いこなしていたのには驚きました。やはり、ゴーンは、グローバル資本主義の使徒にふさわしく知能指数の高いエリートだったんだなとあらためて思いました。それに比べると、ミタパンも日本のメディアも、如何にもバカっぽく見えて仕方ありません。
2020.01.16 Thu l 社会・メディア l top ▲
おととい(1月13日)の成人の日。再び奥多摩の笹尾根に行きました。これが今年最初の山行です。

いつものように、武蔵五日市駅から数馬行きのバスに乗りましたが、休日のダイヤは、6時18分が始発で、次が7時06分、その次が8時56分です。

新宿駅からだと快速に乗っても1時間半以上かかるため、7時06分のバスに乗るのは至難の業で、どうしてもそのあとの便にならざるを得ません。さらに、武蔵五日市駅から檜原街道沿いの登山口までは、近くて40分、奥の方に行けば1時間以上かかるため、山に入るのは10時近くになります。そういった時間的な制約が、笹尾根が人が少ない理由なのかも知れません。

今回も前回と同じ8時56分発(平日は9時発)のバスに乗りました。登山口の最寄りのバス停である上川乗(かみかわのり)に着いたのは9時半すぎでした。

連休ということもあって、出発時、五日市駅前のバス停には40人くらいの人たちが並んでいました。乗客の大半は登山の恰好をした人たちでした。

ただ、横の駐車場では、トレランの団体が何組か輪になってミーティングを行っていましたし、檜原街道では、峠越えのサイクリストたちも多く見かけました。トレランのランナーやサイクリストたちは、中高年が中心の登山者と比べて、みんな若いのでした。彼らから見れば、登山というのは、老人が支配し古い慣習や精神論や自己顕示欲にとらわれた面倒くさい世界なのかも知れません。何度も言いますが、あと10年もすれば老人たちは山に登れなくなるのです。私は、あらためて、旧態依然とした登山が時代から取り残されつつあるのを痛感させられた気がしました。

登山用品の専門店でアルバイトをしている女の子が言ってましたが、店のスタッフの中で山に登るのは彼女だけで、あとはカヤックやキャンプなど他のアウトドアが好きな人間ばかりだそうです。登山用品の専門店と言っても、実際はアウトドア全般に間口を広げていますので、登山に関する専門的な知識もそんなに必要ないのだとか。今や山登りは圧倒的に少数派なのです。

上川乗で降りたのは、私を含めて4人でした。私以外は3人の中高年男性のグループで、バスを降りると、道路の脇で大きな掛け声を上げて準備体操をしていました。私もバス停のベンチに座って身なりを整え、そのあとグループの横をすり抜けて登山口に向かいましたが、それでもまだ準備体操はつづいていました。やけに丁寧に体操をするんだなと思いました。その後、グループの姿を見ることはありませんでしたので、おそらく反対側の浅間嶺に登ったのでしょう。

バス停から登山口までは、檜原街道を左折して、上野原方面の都道33号線の坂道を登って行きます。分岐してすぐの南秋川橋を渡る際、舗道が凍結していて、歩くのに神経を使いました。

10分くらい歩くと、道路脇に退避場所のようなスペースがあり、数台車が止められていました。表示はありませんが、どうやら駐車場のようです。そして、その奥に登山道の入口がありました。

停められている車の中には、「杉並」や「世田谷」のナンバーもありました。見ると、それぞれの車のサイドミラーはカラーコーンと紐で結ばれていました。盗難防止なのか、それとも駐車許可の印なのか、不思議な光景でした。

余談ですが、そのまま都道を進むと甲武トンネルがあります。甲武トンネルは、笹尾根の下を通っている全長1キロ弱のトンネルです。甲武とは、律令制時代の旧国名の甲斐国(甲州)と武蔵国(武州)のことで、甲斐国は現在の山梨県で、武蔵国は現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部がそれに当たるそうです。

笹尾根は、東京(檜原村)と山梨(上野原市)の都県境にある尾根です。両国の住民たちは、昔は笹尾根を登り峠を越えて行き来していたのです。現在、私たちが登山の恰好をしてハアハア息を切らせながら登っている登山道は、昔人の生活道路だったのです。笹尾根の標高は800~900メートルで、尾根筋には1000メートルを越えるいくつかのピーク(山)が連なっています。そのため、何度か登り返しがあり、思った以上に体力を使います。

笹尾根は、広義には三頭山から高尾山までを言う場合もありますが、普通は槇寄山から今回登った浅間(せんげん)峠の間を指すそうです。距離は14キロで、コースタイムは5~6時間くらいです。

ただ、コースタイムには休憩の時間は含まれていませんので、途中で休憩したり、山を眺めたり、植物を観察したり、写真を撮ったりして、のんびり歩くともっと時間が必要になります。

私は、年明け早々風邪を引いて、まだ咳がつづいており、万全の体調とは言えませんでした。そのためもあって、前回の山行から20日も間が空いてしまい、1時間半あまりの登りも身体が重くていつになく息があがりました。そのあとの登り返しもきつくて何度も足が止まりました。ホントは、笛吹(うずしき)峠から大羽根山を通って浅間尾根登山口に下る予定でしたが、途中の小棡(こゆずり)峠で既に午後2時近くになりましたので、予定を変更して小棡峠から下りることにしました。

余談ですが、笹尾根に関連する地名には、小棡(こゆずり)・笛吹(うずしき)・人里(へんぽり)・扁杯(へはい)・六藤(むそうじ)など、読み方が難解なものが多いのも特徴です。

小棡峠から笛吹バス停までのルートはあまり使われてないようで、踏み跡も不明瞭なところが多く、特に落ち葉が積もった広い尾根ではルートがわからず、登山アプリのGPS、それに紙地図とコンパス(ほかに腕時計のコンパスも)を総動員して進む方向を探しました。山を歩く上で、いい勉強になりました。

小棡峠からのルートは道標が少ないので、ピンクリボンがあるとホッとしました。ただ、台風の影響なのか、吹き飛ばされたものも多いようで、斜面に埋まっているピンクリボンもありました。

休日にもかかわらず、山行中に会ったのは4人だけでした。3人は60代~70代の男性、もう一人は40代くらいの女性で、いづれもソロの人たちでした。笹尾根は三頭山の方から歩く人が多いのですが(そっちの方が標高差が小さくて、体力的には楽だそうです)、私は“逆コース”を歩いたので、会ったのは前方から来てすれ違った人だけでした。たぶん後ろからは誰も来てなかったと思います。

1時間半くらいで麓の集落に下りました。集落の中を歩いていたら、散歩をしている男性がいて、私に気付くと「上から下りて来たの?」と声をかけられました。

「はい、小棡峠から下りて来ました」
「エエッ、小棡峠? 歩きにくかったでしょ?」
「あまり人が歩いた形跡がなかったですね」
「そうだよ。小棡峠から下りて来る人はあまりいないよ」

小棡峠と笛吹峠からの道は麓の近くで合流するので、男性は笛吹峠から下りて来たものと思っていたようです。

時刻表を見ると、次のバスは1時間後でした。幸いにも屋根付きのバス停だったので、バス停の中で、山で食べずじまいだったおにぎりを食べたりして時間を潰しました。しかし、日が陰り寒くなりましたので、フリースの上にダウンのベストを着て、さらにその上にパーカーを羽織りました。

武蔵五日市駅に着くと、ホームには東京行きのホリデー快速あきかわ号が停車していました。しかし、反対側のホームに停まっていた拝島行きの電車の方が先に出発するというので、そっちに乗って、いつものように拝島から八王子行きの八高線に乗り換え、八王子からさらに横浜線に乗り換えて帰りました。休日なので、ずっと座って帰ることができました。

帰って確認したら、山行時間は5時間25分でした。


※サムネイル画像をクリックすると、拡大画像がご覧いただけます。

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上川乗バス停

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登山道入口

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登山道入口の斜面にへばりつくように古い家が建っていた。今は使われてない別荘なのか。

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浅間峠への登山道

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登る途中にあった祠

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傾斜のゆるい登山道だったけど、とにかく足が重く息があがりました。

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浅間峠

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浅間峠全景
登山道は旧生活道路なので、それぞれの峠からは山梨県(甲州)側に下りる道があります。

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次の日原峠に向けた尾根道

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同上

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同上

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先の小さなピークが日原峠

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日原峠の道標

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土俵岳への登り返し

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土俵岳

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次は小棡峠に向かいます。

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同上

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同上

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小棡峠

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小棡峠から下ります。

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斜面には5~10センチくらい落ち葉が積もっていました。

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登山道がかろうじてわかる程度です。

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こういう道標があるとホッとします。

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道なのか雨で抉られた跡なのか、わからないところもありました。

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踏み跡が不明瞭な広い尾根は、先端に行くと大概下り口があります。左右の斜面は要注意。

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笛吹バス停
檜原街道の奥の方に行くと、このように屋根付きのバス停が多いので助かります。
2020.01.15 Wed l l top ▲
カルロス・ゴーンの日本脱出行に関して、その後の報道で気になる点がありました。

ひとつは、東京地裁が出した保釈の条件が、妻と会わないことと自宅に監視用のカメラを設置することだったという点です。保釈と言うより、軟禁と言った方がいいような条件です。特に、弁護士が言うように、妻と会えないことが、カルロス・ゴーンを絶望的な気持にさせたのは想像に難くありません。監視カメラを設置するというのも、あまり聞いたことがありません。強権国家では、与党政治家の政敵である野党政治家が犯罪をデッチ上げられて軟禁状態に置かれ、政治活動を制限されるという話がありますが、それとよく似ています。

しかも、当初今年の4月に予定されていた公判がオリンピック後に延期される可能性が高くなったそうで、それもカルロス・ゴーンの焦燥に輪をかけたと言われています。

Bloombergのインタビュー記事で、妻のキャロラインさんは、「日本には『無実であることが証明されるまで有罪』とされる『人質司法』があると指摘。『当局は彼の行動に制限をかけ、今、証拠を探している』と語った」そうですが、それもあながち的外れとは言えないのです。国連からも再三勧告を受けているように、日本の司法が民主主義国家だとは言えないような前近代的なシステムと慣習に縛られているのは事実でしょう。韓国だけでなく、日本もまた司法改革が必要なのです。バカのひとつ覚えのように、「ニッポン、凄い!」と自演乙するだけが能ではないのです。

Bloomberg
ゴーン被告はフランスで裁判を、妻キャロルさんがインタビューで訴え

しかし、検察に輪をかけて異常なのは日産です。日産は、警備会社に依頼してカルロス・ゴーンを24時間監視していたそうです。監視に気付いたゴーン側が人権侵害で刑事告発すると発表した途端に、監視は中止され、その間隙をぬってゴーンの日本脱出行が決行されたと言われています。

どうして日産がストーカー(あるいは公安警察)のようなことをしていたのか。主任弁護人の弘中惇一郎弁護士は、弁護人を引き受けた際、ゴーンの問題は本来日産内部で処理すべき問題で、「なぜ事件になったか奇異」だと言ったそうですが、このような日産の異常な行動に、ゴーン逮捕の闇が潜んでいると言っていいのかもしれません。

日産は花咲か爺さんのように気前よくお金をばら撒いてくれる大スポンサーなので、メディアが日産の監視を取り上げることはありませんが、人権などどこ吹く風の日産のやり方には、日産という会社の体質が顔を覗かせているような気がしてなりません。

かつて作家の高杉良は、『労働貴族』(講談社文庫)という小説で、労使協調によってヒットラーばりの“独裁体制”が敷かれていた日産内部の実態を暴いたのですが、日産という会社の体質は、あの“塩路天皇”時代となにも変わってないということなのかもしれません。

ゴーン逮捕は、ゴーン自身の問題というより日産という会社の問題だったのではないか。そう思えてなりません。
2020.01.06 Mon l 社会・メディア l top ▲
以前、東京支局に勤務する西日本新聞の記者が、東京の“痛勤”電車に対する違和感を書いた記事を紹介したことがありますが、先日、「BUSINESS INSIDER JAPAN」というサイトにも似たような記事が掲載されていました。

BUSINES INSIDER JAPAN
「日本人はなぜ席を譲らない?」とツイートしたら「レディーファーストって意味不明」と猛反発された

尚、Yahoo!ニュースに掲載されていた西日本新聞の記者の記事は、既に削除されています。私がブログに書いた関連記事は以下のとおりです。

関連記事:
思想が生まれる場所

座席を譲る以前の問題として、下記のような「椅子取りゲーム」は私たちが日常目にする光景です。私たちにとっては、もう当たり前の光景にすらなっています。

日本に帰るたびに気になるのが、電車が到着するや我先にと椅子取りゲームのように小走りに席を取り、座った途端に目をつむる(またはスマホの画面に釘付けになり、周りで何が起きているかを全く見ていない)人がとても多いと感じる。優先席に若者が平気で座っていたりもする。


ニューヨーク在住の筆者によれば、ニューヨークの人たちも東京の人たちと同じように、みんな忙しく「自分のことで精一杯だし、他人のことにあまり関心はない」けど、それでもニューヨークでは「おせっかい」だと思われるくらい他人に親切で、「自分より体力のなさそうな人たち」がいると「反射的に」立ち上がって席を譲ろうとする人が多いそうです。

私は、よく「電車の座席に座ることが人生の目的のような人たち」とヤユしていますが、東京の電車の中の光景が日本人のセコさや卑屈さを表しているのは間違いないでしょう。

資本主義は、言うまでもなく利潤の獲得と拡大再生産の循環運動で駆動されており、資本主義社会は、そのための効率第一の競争原理に基づいた社会ですが、電車が来てもないのにホームへの階段を駆け下りて行く人々や電車のドアが開くのももどかしく我先に座席に座ろうと「椅子取りゲーム」を演じる人々は、資本主義社会の競争原理に身も心も冒された「ほとんどビョーキのような」人々と言っても言いすぎではないでしょう。そうしないと「人生に勝てない」と思っているのでしょう。常にそういった強迫観念に苛められているのだと思います。

「自分より体力がない人たち」に席を譲るのは、欧米だけでなく、中国や台湾やベトナムなどアジアの国々でもよく目にする光景だそうです。私も前に、箱根のバスの車内で、年上の人に積極的に席を譲ろうとするアジアの若い観光客のことを書いたことがありますが、あれは「日本に気を使っている」のではなく、彼らの日常に存在するごく普通の行為だったのでしょう。

韓国人の知り合いによれば、もともと韓国は目上の人(年長者)を敬う儒教の影響が強いので、若者が年長者に席を譲る行為はよく見られるそうです。ただ、年長者の中には、自分たちが優遇されるのは当然だと言わんばかりに列に並ばなかったり、平気で割り込んだり人も多いそうです。一方、目上の人(年長者)を敬うべしと言いながら、年金制度は日本に比べても遅れているそうで、そのため惨めな老後を送らざるを得ない高齢者も多く、ホントに韓国社会が儒教の教えに忠実かどうかは怪しいと言ってました。

それは、「日本人はなぜ席を譲らない?」というツイートに対して、レディーファーストって何?と「猛反発」したネット民の反応も似たようなものがあるのかもしれません。

朝の通勤電車は、身障者や年寄りや妊婦が乗ることが少ないので、優先席はあってないようなものだすが、優先席に座っている人たちを見ると、女性が多いのに気付くはずです。女性専用車両以外でも女性の図々しさは結構幅を利かせているのです。また、日中の優先席に座っているのも、私が見る限り、女性が目立ちます。まして、あの中高年のおばさんたちの傍若無人なふるまいに、眉をひそめたくなる人も多いでしょう。

ツィートに反発したネット民たちは、女性=弱い人ではないと言いたかったのかもしれません。あるいは、男女雇用機会均等法や男女共同参画社会の精神からすれば、レディーファーストというのはおかしいではないか、男女平等と矛盾しているのではないかと単純に考えているのかもしれません。

もちろん、日本では、男女雇用機会均等法や男女共同参画社会の精神とは程遠い現実があることは事実でしょう。また、女性だけでなくハンディを背負った人たちに対して、「人間性が麻痺」したような冷たい現実があることも否定できないでしょう。

でも、一方で、レディーファーストだけでは解釈できない現実があることも事実なのです。もしかしたら、図々しいことしか取り柄がないようなおばさんたち(だけでなく若い女性にも多いけど)をどう見るかという問題から考えていくことも、案外大事なのかもしれません。バカバカしい話だけど、バカバカしいと一蹴できない問題を含んでいるのかもしれないのです。

バカのひとつ覚えのように「ニッポン、凄い!」と自演乙するしか能がない人間たちのアホらしさもさることながら、私たちの目の前にある現実は、「言語化すること」よりももっと「大切」なものを示していることも忘れてはならないのです。言語は万能ではないのです。


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電車の中で正義感について考えた
2020.01.05 Sun l 社会・メディア l top ▲
カルロス・ゴーンの日本脱出には驚きました。日本政府は、彼の引き渡しについてレバノン政府と交渉すると言ってますが、しかし、朝日の報道によれば、レバノン政府は、まるでそれに釘を刺すかのように、「『日本出国とレバノン入国は彼の私的な問題』で、レバノン政府は関与していない」と発表したそうです。さらに、記事は次のように書いていました。

また、レバノンのジュレイサティ国務相は12月31日、同国メディアに対し、「彼(ゴーン前会長)はフランスのパスポートとレバノンの身分証をもって合法的に入国した」と説明。レバノンの治安当局も同日、「レバノンに合法的に入国した人物については、法的措置の対象にならない」との見解を示した。

朝日新聞デジタル
ゴーン被告逃亡は「彼の問題」 レバノン政府が関与否定


日本では、「カルロス・ゴーンの行為はおかしい」「ホントに潔白であるというなら裁判で訴えればいい」というような声がありますが、それは所詮、国境の内側の論理にすぎないのです。

罪に当たるどうかも、国境から外に出れば話が別だというのは当然と言えば当然です。吉本隆明の「共同幻想」論ではないですが、今回のスパイ映画を地で行くような脱出行を見るにつけ、私たちを縛る国家というものが、如何に恣意的で空虚なものかということをあらためて知らされた気がしました。国家というのは、つきつめればたかだか地図に引いた一本の線の問題にすぎないのです。

大杉栄の『日本脱出紀』(土曜社)は、ベルリンで開かれる国際無政府主義大会に出席するために、1923年上海経由でフランスに向けて密出国したものの、パリのメーデーで演説したために逮捕され、結局、ベルリン行きは叶わずに、パリ警視庁から国外追放されるまでの自身の手によるドキュメントですが、カルロス・ゴーンの日本脱出のニュースを聞いて、私は真っ先にこの本を思い浮かべました。そして、不謹慎だと言われるかもしれませんが、なんだか痛快な感想さえ持ちました。

カルロス・ゴーンの逮捕は、日産という日本を代表する会社が外国資本に吸収合併されるのを阻止するために、日産内部の日本人幹部と司法取引をしてデッチ上げた国策捜査である疑いは拭えません。また、日本特有の「人質司法」に対して、カルロス・ゴーンが危機感を抱いたのも想像できます。そういった問題を脇に置いて、「潔白なら裁判で主張すべき」と言っても、刑事裁判の有罪率99.4パーセントのこの国では気休めにしか聞こえないでしょう。

今になってカルロス・ゴーンは大悪党のように言われていますが、彼はれっきとしたルノーや日産を束ねるやり手の経営者(つまり、典型的なグローバル資本主義の使徒)で、ついこの前までメディアは彼を英雄扱いしていたのです。

ところが、ご都合主義的なメディアは、嫌韓報道と同じように、カルロス・ゴーンの行為は海外からも非難されている、レバノン市民からも疑問視されているなどと、昨日までの英雄扱いを忘れたかのように(おなじみの)坊主憎けりゃ袈裟まで式に批判しています。でも、いくらそうやって自演乙しても、カルロス・ゴーンが戻ってくることはないでしょうし、彼の“罪”が国際的に認知されることもないでしょう。それが国境の内と外の違いなのです。


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2020.01.02 Thu l 社会・メディア l top ▲
年が変わるのをきっかけにして、ブログとは別に「山行記録」を残すべくメモを整理しています。まだ20座ちょっとなので、今のうちに整理しておこうと思ったのでした。

山に行くようになって、山行を記録する大切さを知りました。山に登るのもひとつの旅ですので、”旅の思い出”を残すということもありますが、それ以外に次回の山行の参考にするという目的もあります。自分の上達度を知る上でも、「山行記録」は非常に役に立つのです。

最初はメモを残すことはしていませんでした。しかし、山に行くまでの電車やバスの時間などを前もってメモしておく必要があり、小さなメモ帳を買ってそれに書いていました。すると、途中のポイントまでの時間をメモするようになりました。そうするうちに、さらに、休憩中に気が付いたことを書くようになったのでした。

ただ、普通のメモ帳なので、サコッシュから出し入れするうちに、表紙がボロボロになりました。また、汗がかかると紙がヨレヨレになったり、文字が滲んだりしました。

他にいいメモ帳はないかとネットで検索していたら、登山する人たちの間で「測量野帳」という測量用のメモ帳を使っていることを知りました。コクヨのそれは「隠れたベストセラー」だそうです。私も早速、ロフトに行って「測量野帳」を買いました。

山行の際は、スマホの登山アプリにダウンロードした地図を使っていますので、メモもスマホにすればいいようなものです。ただ、山行中に気が付いたことなどをメモするとなると、やはり紙に書いた方が手っ取り早くてしっくりするのでした。

飛行機や電車を使った旅だと、そこまでメモに残すということはありませんが、登山だとどうしてメモを取るのか(取ろうとするのか)。それは、やはり、自分の足で歩くということが大きいのだと思います。山に登るというのは、ルートの設定などの計画から当日の行動まで、すべて自分で立案し自分で実行しなければなりません。山に登っていると、息を切らして苦しい思いをすることもありますし、足が痛くてつらい思いをすることもあります。また、日没や道間違いで怖い思いをすることさえあります。

そのように、飛行機や電車の「おまかせの旅」とは違って、登山というのは全てのリスクを自分で背負わなければならないのです。それは、きわめて即自的で「身体的」な行為でもあるのです。私たちは息を切らせて山に登ることで、みずからの内にある「身体的」=原初的なものと向き合っているとも言えるのです。それは、とても新鮮で刺激的な体験です。

前も書きましたが、山の中では、自分を大きく見せるために虚勢を張る必要もなければ、狡猾に計算高く振舞ったり、卑屈になって他人の目ばかり気にする必要もないのです。自然に対して謙虚な自分がいるだけです。だから、山に行くと、浮世の憂さを忘れ「空っぽになれる」のでしょう。
2020.01.01 Wed l l top ▲