緊急事態宣言は解除されましたが、同時に政府は、「外出自粛の段階的緩和の目安」として4つの「ステップ」を発表しました。

それによれば、5月25日から5月31日までを「ステップ0」として、これまでどおり「県をまたぐ移動」の自粛の継続を求めています。

次に6月1日からは「ステップ1」に移行し、東京・神奈川・埼玉・千葉・北海道内に限り、移動の自粛は解除されるそうです。たとえば、東京から北海道に行くのはOKですが、東京から茨城や群馬や栃木に行くのはNGなのです。如何にも役人が考えそうな杓子定規な内容です。

さらに6月19日からは「ステップ2」に移行して、「県をまたぐ移動」などの自粛の全面的な解除が行われる予定だそうです。

もっとも、これは疫学とは関係なく、単に「政治的な判断」で設定したにすぎないと、政府も認めています。

私たちは、こういった科学的な根拠のない自粛要請によって行動を縛られていたのです。休業要請された街の商店主は苦境に陥り、破産か自殺かの瀬戸際にまで追い詰められ、「STAY HOME」による休業や売上げ低迷によって、多くの労働者が失業の憂き目に遭ったのでした。

このように、「政治的判断」によって、私たちの日常は自粛という名の「ファシスト的公共性」に簒奪されたのです。連日メディアに登場して言葉巧みに自粛要請を行っていた小池都知事がやりたい放題に見えたのも、根拠なき「政治的判断」ゆえなのでしょう。

昨日、私は用事があって、100名近くの院内感染が発生しメディアにも大々的に取り上げられた病院に行く機会がありました。既に外来を再開していましたが、患者の姿はほとんどありませんでした。感染防止のためのソーシャルディスタンスなのでしょう、外来の長椅子には、一人分の間隔を置いてテープで✕印が付けられていました。

また、テレビで、自粛解除によって営業を再開することになった横浜市のカラオケ店の開店準備の様子が放送されていましたが、そこでも同じようにお客が座る椅子は一人分の間隔を置いて✕印が付けられていました。これからしばらくはこういった店も多くなるのでしょう。

そこで、私は思ったのですが、営業を再開した店がそうやって感染対策を講じる一方で、通勤電車は、まるで関係ないと言わんばかりに「密」な状態のままです。日ごとに乗客が多くなっているため、間隔を置いて座る余裕もなくなり、「電車の座席に座ることが人生の目的のような人々」は、少しでも空いている席を見つけると我先に突進して、ギューギューに詰まった座席にお尻をねじ込んでいるのでした。

でも、どうして通勤電車の「密」が黙認されたのか、今、わかった気がします。「3密」や「人と人の接触の8割削減」などが、自治体の首長や役人たちの胸三寸でどうにでもなる「政治的判断」によるものにすぎなかったからです。だから恣意的に(弾力的に)適用したのでしょう。

話をぶり返すようですが、通勤電車の「密」が黙認される一方で、どう考えても「密」とは無縁な登山は強制的に自粛させられたのでした。また、パチンコ店は、それなりの感染対策が施され、通勤電車に比べれば全然感染リスクが小さいにもかかわらず、メディアと自治体によって「密」の象徴のように言われて、前代未聞の”集団リンチ“の標的にされたのでした。こんな理不尽な話はありません。もはや狂気と言ってもいいくらいです。しかし、メディアや自治体は、自分たちがやっていることが狂気だとは露ほども思ってないのです。彼らの子飼いである”自粛警察”が典型ですが、むしろ”正義”だと思っているのです。こんな狂気に支配された日常こそ、「ファシスト的公共性」以外のなにものでもないでしょう。

あらためて、緊急事態宣言やそれに伴う外出自粛や休業要請などは、ホントに必要だったのかと思わざるを得ません。何度も言いますが、感染のピークが緊急事態宣言の前に来ていたのははっきりしているのです。緊急事態宣言を発令(発出)してもしなくても、状況はそんなに変わらなかったのではないかと考えるのは当然でしょう。感染対策としては3月下旬程度の自粛で充分だったのではないか、という説には説得力があるように思います。だったら、休業要請された店がこんなに苦境に陥る必要はなかったのです。

と言うと、大部分の人たちは、「緊急事態宣言は間違ってなかった」「そのために感染拡大を防ぐことができたじゃないか」と言うに違いありません。それどころか、「自粛を守らない人間たちこそが問題で、彼らを罰する法律の改正が必要だ」と言う人も多いでしょう。

このように新型コロナウイルスに伴う問答無用の自粛体制によって、「ファシスト的公共性」の敷居は間違いなく低くなったのです。あとは大衆が求めるように、「ファシスト的公共性」に法的な裏付けを与えるだけです。大衆は、そのようにみずからすすんで自由を国家に差し出すのです。自分で考え自分で判断し行動するより、国家の指示に従った方が”楽“だからでしょう。”自粛警察”は、彼らの親しき隣人なのです。そう考えると、なんだかコロナ後の社会の風景が見えて来るような気がするのでした。
2020.05.27 Wed l 新型コロナウイルス l top ▲
首都圏1都3県と北海道の緊急事態宣言が解除されましたが、しかし、地元の自治体が「県をまたいだ移動の自粛」の継続を要請する可能性もなきにしもあらずです。

何度も言いますが、山を歩くのにどこが「密」なんだと思います。挨拶のときに唾が飛ぶとか、電車やバスが「密」だとか、地元民が感染の恐怖を覚えるとか、そんなバカげた理由によって登山も自粛の対象にされたのでした。

そして、日本山岳会や日本勤労者山岳連盟などの山岳団体が、自治体の自粛要請を無定見に受け入れ、登山の自粛を呼びかけると、それが登山者を縛る大義名分になったのでした。何のことはない、日本山岳会や日本勤労者山岳連盟などの山岳団体が、反知性主義の極みの“自粛厨”になったのです。

しかし、登山の自粛は、いろんなものをごちゃ混ぜにした極めて大雑把且ついい加減な論理で進められています。たとえば、北アルプスのような山と奥武蔵や奥秩父や丹沢や奥多摩の山が一緒くたにされているのです。また、山小屋があるような奥の深い山と日帰り登山が中心の里山の延長のような山も、一緒くたにされています。さらには、ハイキングやキャンプや峠道を走るバイクやサイクリングも、区分けされずに一緒くたに論じられています。まったくバカバカしいとしか言いようがありません。

ただ一方で、感染の怖れ云々は論外としても、これを機会に登山が抱えるさまざまな問題を考えるのも無駄ではないように思います。中でもマナーの問題は、新型コロナウィルスに関係なく、前々から指摘されていたことでした。地元自治体のさも登山者を迷惑扱いするような牽強付会な自粛要請にも、日頃の登山者のマナーに対する地元民の”悪感情”が露呈しているような気がしないでもないのです。

そんな中、私は、下記の南アルプスの入笠山の山小屋の方が書いたブログの記事を興味深く読みました。

マナスル山荘・あれこれ
平時の異常

ブログは次のように書いていました。

登山再開時は公共交通機関ではなくマイカーでの登山を薦めるメディアも多い。山での密集を考えれば、駐車場の台数で入山者制限は必要だと考える。観光行政や営業施設はあふれる車をどのようにコントロールするのか?マイカー登山より、鉄道、バス、ロープウェー・ゴンドラなどの交通機関は入山者をコントロールしやすいと考えるが。

SNSで集まった登山グループを山でよく見かけるようになった。不特定の人が集まり、山で騒ぐ(この手のグループはたいてい山で大騒ぎしている)この手のグループ登山はコロナ後に淘汰されるべきだと思うが、そのような発信をしている山のメディアは今のところ見たことがない。この手の登山者たちが主な支持者だからだろうか?

グループでしか登れない、単独では無理という登山者は登山を止めるか、レベルを落として一人でも安心して登れる山からやり直したらいい。いままでの登山のカテゴリーが自分のレベルを超えていたことに気づくべきだ。もしくはガイドを雇うこと。自粛が解除されるステップとして、ガイド登山はあらゆる面で有効だと考えている。山岳ガイドと一緒に歩いている登山者はSNSのグループ登山者などに比べて格段に品がいい。日本山岳ガイド協会はもっと各ガイドのマーケティングやマネジメントに取り組むべきだと思うが。


同じようなことは、私もこのブログで何度も書いています。車で来る登山者の、特に駐車マナーの悪さはどこの山でもめずらしいことではありません。下山していると、こんなところにまでとびっくりするくらい上の方の林道の脇に登山者の車が停まっていることがあります。そのため、林道を鎖などで車両通行止めにしている山もあるくらいです。そして、車が上の方まで上がることができる山は、空き缶やペットボトルなどゴミが多いのも事実です。

山に行くのに、電車やバスは「密」になるとして、車を推奨する声もありますが、前も書いたように、都心とは逆方向の電車やバスが「密」になるのは週末だけです。「密」を回避するなら、週末の電車やバスの運行をコントロールすればいいだけです。

「SNSのグループ登山者」というのも、何も若者に限った話ではありません。これも何度も書いていますが、SNSでつながった中高年の団体登山のマナーの悪さは、今や山の”定番”と言ってもいいほどです。安全面から単独行がいつもやり玉にあげられますが、しかし、リーダーの背中を見て歩くだけのおまかせ登山では、上記のブログでも書いているように、いつまで経っても登山のレベルは上がらないし、マナーが身に付かないのは当然でしょう。

山への登山者の集中、マイカーの違法駐車等の問題、山小屋の衛生管理、登山者のマナー、山岳遭難防止の取組、自然公園の利用方法、山岳ガイドの役割、違法テント泊・・・平時に表に出なかった問題がいろいろあったはずだ、それがいつの間にか登山界では当たり前のことになってしまっていたのではないか。登山自粛だけを声高らかに叫び、今後のことには何も手を付けなかった登山界は本当にこれでいいのか?
(同上)


たしかにその通りで、新型コロナウイルスをきっかけに、今まで放置してきた問題が露呈したのは事実でしょう。一方で、山岳団体や有名登山家にまったく当事者能力がなく、役人の使い走りでしかないこともはっきりしました。登山雑誌や登山関連のサイトも、自立した登山者とは真逆な無様な姿を晒すだけでした。なんだか個々の登山者が孤立させられているような気さえするのでした。

私たちのような下々の登山者は、国家と通底した組織やそれに付随したさまざまなしがらみとはまったく無縁な存在です。だからこそ、山岳団体のバカバカしい呼びかけにこれ以上引きずられないためにも、新型コロナウイルスをきっかけに、山のことや自分たちのマナーのことについて、問題意識を持って考えるべきではないかと思うのです。

たとえば、オーバーユースと入山料の問題を考えるのもいい機会ではないでしょうか。山の崩落が進んでいる丹沢などが典型ですが、登山道の荒廃防止や植生を守るためにも、入山者を”調整”することを真剣に考える時期に来ているように思います。もちろん、”調整”と言うのは、山の監督者が権限で規制するとか言うのではなく、入山料を徴収すればおのずと登山者の数が減るという意味で言っているにすぎません。

多くの山が国立公園や国定公園の中にありながら(と言っても、国立公園の40%は民有地ですが)、登山道の整備を山小屋のスタッフや地元のボランティアの篤志に頼っているのはたしかにおかしいのです。でも、ありがたいと思っている登山者は多いけど、おかしいと思っている登山者はそんなにいないようです。登山者自身がもう少し「受益者負担」の考えを持ってもいいのではないかと思うのです。

よく「登山文化」とか「山の文化」とかいった言い方がされますが、登山はスポーツであるとともに文化でもあるのです。私たちがこんなに山が好きなのも(息を切らして登りながら「山っていいなあ」と思うのも)、山登りが多分に文化的な要素の強いスポーツだからでしょう。むしろ、登山がスポーツだと言われると、面食らうくらいです。

山小屋にしても、このままでは(少なくとも政府の言う「新しい生活様式」に従えば)山小屋という日本独特の登山文化も廃れてしまうでしょう。荷揚げに欠かすことのできないヘリの問題もそうですが、近年山小屋をとりまく環境が非常に厳しくなっている中で、さらに新型コロナウイルスが追い打ちをかけた格好で、多くの山小屋が存続の危機に陥っていると言っても過言ではないでしょう。

登山の魅力について、非日常性とか達成感とか自己克己とか、あるいは具体的にストレス解消とか絶景との出会いとか体力の限界の挑戦とか、いろいろ言われますが、私にとって、山に登ることの魅力は、何と言っても自由ということに尽きます。山に登ると、何もかも忘れることができるのも、自分に対して謙虚になれるのも、自由だからです。誤解を怖れずに言えば、危険を伴う(ときに命を落とす)ほどの自由があるからです。遭難事故が起きるたびに世間サマから袋叩きに遭うのも、整備された道しか歩いたことのない世間サマから見れば、登山がそれだけ放縦に(自由に)見えるからでしょう。

そんな登山の魅力である自由を守るためにも、そろそろ登山の文化を「守る」という発想も必要ではないかと思います。身も蓋もないと思われるかもしれませんが、入山料や入山者の”調整”もそのひとつの選択肢ではないかと思うのです。
2020.05.25 Mon l l top ▲
フジテレビの「テラスハウス」に出演していた若い女子プロレスラーが、番組の中の言動に対してSNSでバッシングされ、それが原因で自殺するという事件がありました。

自殺を伝える記事には、彼女が死ぬ直前にアップしたインスタの画像が添付されていましたが、それを見ると痛ましいなと思います。

水は常に低い方に流れるの喩えどおり、ネットでいちばん声が大きいのはネットに常駐する「バカと暇人」です。

「ドキュメンタリーは嘘を吐く」と言ったのは、ドキュメンタリー作家の森達也氏ですが、ドキュメンタリーと言っても、そこにカメラがある限り100%ノンフィクションとは言えないのです。まして、編集が加われば尚更です。そして、「ドキュメンタリーは嘘を吐く」ことがわかってない「バカと暇人」たちは、それを真に受け、彼女がプロレスでヒールの役だったということも相俟って、執拗に罵言を浴びせたのでした。

それは「テラスハウス」だけではありません。ヘイトスピーチや個人的な誹謗中傷の巣窟になっているコメント欄をいつまで経っても閉鎖しないYahoo!ニュースも同じです。Yahoo!ニュースを見ていると、あえて炎上するようなニュースをピックアップしてトピックス(先頭ページ)に掲載している感じすらあります。そうやってバズらせてアクセスを稼ぎ、ニュースをマネタイズしようとしているのでしょう。そのためには、負の感情を煽るのがいちばん手っ取り早いのです。

フジテレビは、炎上することが判っていながらあえて彼女の言動を流すことで、視聴率を稼ごうとしたのではないか。そんなえげつないテレビ局の思惑に翻弄され、みずから命を絶つことになった彼女を思うと、あらためて痛ましいなと思わざるを得ません。

世間では彼女をバッシングした人間ばかりが批判されていますが、水が低い方に流れるのがわかっていながら、巧妙にバッシングをけしかけた(そうやってネットとのシナジー効果を狙った)フジテレビが、もしかしたらこの事件の主犯なのかもしれません。ただ、フジテレビが計算を間違ったのは、自殺した彼女が予想に反して繊細だったということでしょう。

しかも、彼女のまわりにいる者たちも、“大人の事情”でテレビ局を表立って批判することはできず、「バカと暇人」をもっぱら非難するしかないのです。そう思うと、かえすがえすも彼女が痛ましく思えてなりません。

今回もテレビのワイドショーを中心に、ネットの誹謗中傷やSNSのプラットホーマーに対する法的な規制の議論が沸き起こることが予想されますが、それは片手落ちでしかないのです。フジテレビの責任に言及しない限り、ただお茶を濁しているだけの無責任な議論と言わねばなりません。
2020.05.25 Mon l 社会・メディア l top ▲
明日(5/25)、首都圏の1都3県と北海道の緊急事態宣言が解除されるようです。予定より1週間早まったのです。

政府が緊急事態宣言を解除する方針を諮問委員会(基本的対処方針諮問委員会)に諮り、諮問委員会がお墨付けを与えて、最終的には安倍総理が決定するのだそうです。

もっとも、諮問委員会に諮ると言っても、諮問委員会がお墨付けを与えるのは最初から予定済みです。諮問委員会というのは、要するに「諮問」という法律上定められた議論をする形式的な機関に過ぎないのです。

諮問委員会は、次のようなメンバーで構成されていますが、文字通りイエスマンの御用学者の集まりなのです。

政治ドットコム
諮問委員会とは?組織目的や影響力について徹底解説

でも、緊急事態宣言が解除されたからと言って、ただちに自粛が解除されるわけではないのです。そのあたりが特別措置法(改正新型インフルエンザ等対策特別措置法)のややこしいところです。東京都のロードマップにあるように、緊急事態宣言が解除されたあとも、私たちの生活は自治体からこと細かに制約されるのです。「ステップ0」とか「ステップ1」とか、あるいは「東京アラーム」とか、なんだか言いたい放題、やりたい放題という感じです。

政府が発令(発出)する緊急事態宣言や自治体の自粛要請の法的な根拠は、3月に僅か2日間の審議で与野党一致で成立した「改正新型インフルエンザ等対策特別措置法」ですが、新型コロナウイルスに関する一連の措置を見ると、文字通り憲法を一時的に停止する“緊急事態条項”が既に発動されているみたいです。いともたやすく、何のためらいもなく憲法で保障された基本的人権が制限されているのでした。それも、自治体の判断で決まっていくのです。建前は自粛ですが、実際は強制に近いものです。

東京都のロードマップを見ると、責任逃れの事なかれ主義満載の、如何にも役人が作った工程表という感じがします。あんなものに従っていたら、今後も休業を要請される個人事業者は首を吊るしかないでしょう。休業中の店の貼り紙には、「5月31日まで休業します」という語句が多くありますが、それは緊急事態宣言が解除された営業を再開できると思っていたからでしょう。しかし、そうではなかったのです。

おそらく小池都知事は、ロードマップの詳細は役人に任せて、自分は、「ステップ0」とか「東京アラーム」とか、お得意の横文字のキャッチフレーズを考えていただけなのでしょう。そうやってみずからのリーダーシップをアピールすることしか考えてないのでしょう。しかし、そのために、多くの零細事業主は、破産か自殺かにまで追い込まれているのです。人生も生活もメチャクチャにされているのです。

あえて突飛なことを言えば、休業要請に従わないパチンコ店は、戒厳令に抗うパルチザンのようなものと言えるでしょう。そうやって、「新型コロナウイルスだから仕方ない」のひと言でみずからに下される”死刑宣告”にNOを突き付けているのです。早起きは三文の得とばかりに朝っぱらから店の前に並んでいるおっさんたちを見ると、ギャンブル依存症の悲惨な現実を痛感してなりません。しかし、だからと言ってパチンコ店など潰れて構わないんだという話にはならないはずです。むしろ、休業要請を撥ね退け、”集団リンチ”にもめげずに営業を続けているパチンコ店は、個人的には立派だなと思います。今の“コロナ戒厳令”は与野党一致の翼賛体制に支えらえれており、その意味では与党も野党も違いはありません。与党か野党か、右か左かで政治を見ることには何の意味もないのです。

吉本隆明は、「政治なんてない」と言ったのですが、もし私たちにとっての“政治”があるとすれば、自粛に抗うパチンコ店や不要不急の外出自粛なんてくそくらえと街に繰り出す不心得な人々の行動の中にあるのだと思います。

感染防止は、役人が作った事なかれ主義のロードマップなどではなく、自己防衛と自己判断に基づいたみずからの総意工夫でやっていけばいいのです。自分の命や生活は自分で守っていくしかないのです。それが私たちに課せられた(「新しい生活様式」ではない)「新しい生活スタイル」です。

都心に向かう電車でも、通勤客が目に見えて多くなっています。今までだとそれぞれがひとり分のスペースを空けて座れるくらいの余裕がありましたが、もうそんな余裕はありません。「電車の座席に座ることが人生の目的のような人たち」が、空いているスペースに容赦なく座って来るようになっています。気温が上がったからなのか、マスクをしていない人も結構見かけます。

私は、これからはまた立って行くしかないなと思いました。どこかの偽善的な革命家が言うように、人民は賢明で常に正しいわけではないのです。アホな人民も多いのです。街に繰り出すと言っても、(アホな人民から)自分を守ることも忘れてはならないのです。それが、自己防衛と自己判断ということです。
2020.05.24 Sun l 新型コロナウイルス l top ▲
今日、大阪・兵庫・京都の関西3県は緊急事態宣言が解除される模様ですが、東京・神奈川・埼玉・千葉の首都圏と北海道は、どうやら今月末の期限いっぱいまで継続されるようです。

あと10日間、緊急事態宣言を継続して何の意味があるのかと思いますが、とにかくできる限り継続してほしいというのが、首都圏の知事たちの総意でもあるみたいです。ろくな補償もなく休業を余儀なくされている商店主たちにとっては、僅かな希望を打ち砕くような決定と言えるでしょう。小池都知事は、「あと10日間我慢して下さい」と平然と言い放っていましたが、そこには破産か自殺かにまで追い込まれている自営業者などに対する一片の配慮も伺えません。おそらく、「仕方ないでしょ」という開き直ったような考えしかないのでしょう。そして、あとは緊急事態宣言を自分の政治的アピールの場にするだけなのでしょう。誰のための、何のための緊急事態宣言なのかということを、考えないわけにはいきません。

緊急事態宣言がいつの間にか”コロナ戒厳令”のようになっているのはたしかで、憲法で保障された移動の自由もどこ吹く風で、首長たちによって「県をまたいだ移動」の自粛が公然と叫ばれているのです。表向きは自粛ですが、実際は県境の国道での検問や県外ナンバーのチェックに見られるように、禁止に等しいものです。緊急事態宣言が解除されても、「県をまたいだ移動」だけは解除の対象から外されているのでした。まるで自分たちの政治的アピールの場を手放したくないかのようです。

首都圏と関西3県を除いた全国の緊急事態宣言が先週末解除されましたが、週が明けてから、都内や横浜などの繁華街でも、いっきに人が増えました。電車も目に見えて乗客が増えてきました。首長やメディアに言わせれば、「気の緩み」ということになるのでしょうが、ほかの自治体が解除になったのにどうして自分たちだけがと考えるのは当然でしょう。

江戸時代ではないのですから、「県をまたいだ移動」という発想自体があり得ないのです。そんなあり得ない話を、首長たちが真顔で呼びかけているのです。専門家会議の諮問委員会メンバーである慶応大学の竹森俊平教授は、衆院予算員会で、「県境をまたぐ際の国内パスポート」の発行を提案したそうですが、「翔んで埼玉」に影響されたのか、とうとう「通行手形」の必要性を訴える専門家まで登場するに至っているのです。狂っているとしか思えません。そんな狂った人たちによって自粛の概要や対象が決められ、私たちに押し付けられているのです。上級国民たちは、そんな自粛のバカバカしさをよくわかっているので、「STAY HOME」を尻目に、宇佐神宮に旅行に行ったり、他人の家で麻雀の卓を囲んだりするのでしょう。「8割削減」や「密」を理由にした自粛要請は、あくまで下級国民が対象なのです。

今まで地方の観光地は、インバウンド頼りでした。政府やメディアも、その旗を振っていました。しかし、今度はインバウンドに頼るのではなく、国内の観光客にシフトしなければならないと言い出しています。そもそも国内の観光客に頼っていたのでは商売にならないので、インバウンドにシフトしたのではなかったのか。地方の観光地で商売をしている人たちはそのことをいちばんよくわかっているはずです。元に戻っても希望がないことは痛いほどわかっているのです。ましてや、既にその兆候が出ていますが、コロナ後に未曽有の経済不況とそれに伴う大失業に見舞われるのは、誰が考えても間違いないのです。国内消費に頼るなどというのは、気休めでしかないのです。

しかも、緊急事態宣言が解除されても、「県をまたいだ移動」の自粛が呼びかけられ、県外から観光に来るなと言っているのです。これでは、地方の観光地で商売をしている人たちにとっては、何のための解除がわからないでしょう。彼らがさらに追いつめられていくのは火を見るよりあきらかです。

地方にいる知り合いの観光業者は、休業の協力金を貰うために、市役所から申請用紙を取り寄せたそうです。ところが、送られてきた用紙を見て、揃えなければならない書類の多さと手続きの煩雑さに「気が遠くなるような気持になり」、協力金を貰うのをあきらめたと言っていました。雀の涙ほどの協力金を貰うのに、どうしてあんなややこしい手続きが必要なのかと憤慨していました。「あきらめさせるために、わざとややこしくしているとしか思えん」と言っていました。

製造業が国際競争力を失い経済的に停滞した日本は、インバウンドによる「観光立国」で経済的な復興をめざすはずでした。

観光庁のサイトでは、「観光立国推進基本法」について、次のように説明しています。

観光庁
観光立国基本法

  観光は、我が国の力強い経済を取り戻すための極めて重要な成長分野です。
   経済波及効果の大きい観光は、急速に成長するアジアをはじめとする世界の観光需要を取り込むことにより、地域活性化、雇用機会の増大などの効果を期待できます。さらに、世界中の人々が日本の魅力を発見し、伝播することによる諸外国との相互理解の増進も同時に期待できます。


もちろん、「訪日観光の振興と同時に、国内旅行振興も重要であります」と言っていますが、少なくとも今回の新型コロナウイルスで、「観光立国」をめざすための片肺を失ったことは間違いないのです。

人出が多くなったことに伴い、どうしようもない人間が沸いて出ているのも事実ですが、しかし、それでも自分たちの意思を行動に移したのはいいことだと思います。いつまでも、御用学者の“トンデモ科学”と医者のご都合主義と首長たちの政治的アピールに利用されていては、バカを見るだけなのです。思考停止していい子ぶるのではなく、自分たちで感染防止の手筈を整え、自分たちで判断し行動に移すべきなのです。自分たちの意思を示すべきなのです。

湘南の海岸にも周辺の道路が渋滞するほど人が押し寄せたとして、神奈川県の黒岩知事があらためて自粛を呼びかけたそうですが、人が戻ってきたことでどうにか息を継いだ業者もいたはずです。

首都圏の1都3県の中で唯一神奈川県だけが、緊急事態宣言の解除の条件である「直近1週間の10万人当たりの累積新規感染者数」の基準を満たしてないとかで、神奈川県民が他県に比べて「気の緩み」が大きいような言い方がされていました。メディアは、例のスマホの通信データを使って、桜木町や横浜駅前の人出の減少率が新宿や渋谷に比べて小さいことを伝えていました。しかし、神奈川県が基準を満たしてないのは、松田町にある県立病院や旭区の聖マリアンナ医科大学病院などの院内感染によるものです。桜木町や横浜駅前の人出などまったく関係ないのです。もちろん、湘南の海岸の人出も関係ありません。

ここにも、ドコモやauの通信データと「8割削減」の”トンデモ科学”が一体となって作り上げた、偽イデオロギーによる責任転嫁の詐術があるのでした。

既に専門家会議や小池都知事が口にしはじめているように、このままだと「第二波」を口実にした私権制限が再び行われる可能性もあるでしょう。その前に、「いつまでも自粛には従わないぞ」「責任転嫁は許さないぞ」という意思を示すことが大事なのです。”自粛警察“のようなテレビが取材に来たら、唾を吐きかけて追い払えばいいのです。アホな人間がインタビューに答えるから、「気が緩んだ人たち」みたいに編集されて放送されるのです。

生きるか死ぬかなら、当然生きる方を選ぶべきでしょう。ホントに困っているのなら、自粛なんてくそくらえと言うべきなのです。その意思を示すべきなのです。
2020.05.21 Thu l 新型コロナウイルス l top ▲
黒川弘務東京高検検事長の賭け麻雀の「文春砲」には、びっくりしました。

黒川氏の趣味はカジノで、黒川氏の”ギャンブル好き”は有名だったそうですが、定年を延長するためにときの政権がわざわざ法律を改正して特例を設けるほど特別扱いされていたので、驕り高ぶった気持がこのような脇の甘さを生んだのかもしれません。今週、政府与党が検察庁法改正案の成立を採決直前に見送ったのも、そのタイミングから見て、この記事を察知したからではないかと言われていますが、あり得ない話ではないでしょう。

飛田新地料理組合の顧問弁護士をしていた橋下徹氏を「売春街の守護神」と呼んだのは文春でしたが、黒川氏も文春などメディアから「官邸の守護神」と呼ばれています。余談ですが、他に「官邸のお庭番」という呼び方もあるそうです。私は、どっちかと言えば、「お庭番」の方が如何にも番犬みたいな感じがするので好きです。

どうして「官邸の守護神」なのか。森友・加計・桜を見る会と安倍政権は次々と政治スキャンダルに見舞われ、一般人(下級国民)なら訴追されて当然のような違法行為も、一人の逮捕者もなく全て闇に葬られたのでした。特に、桜を見る会では、前夜祭の会費を巡って、安倍首相自身の政治資金規正法及び公職選挙法違反の疑いが持たれていましたが、検察は微動だにしませんでした。その背後に、法務官僚として大臣官房長や法務事務次官を務め、次期検事総長と目されている黒川氏の存在があったからではないかと言われているのです。つまり、今のように官邸を「無法地帯」にしたのも、法的な守り神として黒川氏がいたからではないかという疑惑があるからです。

しかし、官邸が黒川氏を特別扱いしたのは、何も過去の論功行賞からだけではなかったのです。検察庁法改正に対する反対の声が大きくなった中で、アクセスジャーナルに次のような記事が掲載されていました。

アクセスジャーナル
安倍首相が逮捕に怯える、河井夫婦公選法違反事件の闇(1・5億円の一部が還流!?)

昨年7月の参議院選挙では、河井案里候補に対して「自民党本部から破格の1億5000万円もの運動資金」が渡され、安倍首相の秘書がたびたび応援に入ったことがあきらかになっています。また、その「運動資金」が広島地検に摘発された公選法違反事件のウグイス嬢だけでなく、選挙区の地方議員たちの買収資金になったのではないかと言われています。ところが、話はそれだけにとどまらず、「運動資金」の一部が安倍首相の周辺に還流しているのではないかという疑惑も持ち上がっているのです。

私は、当初、検察VS官邸に対して信じ難い気持でした。しかし、今回の「文春砲」も含めて、検察庁法改正を巡るさまざまな動きを見るにつけ、もしかしたらこれはアクセスジャーナルのスクープではないかと思うようになりました。

実際に、河井案里議員の公選法違反事件では、広島地検だけでなく、東京地検や大阪地検の特捜部も捜査に加わっているそうです。この並々ならぬ力の入れように、さまざまな穿った見方が出て来るのは当然でしょう。

近いうちに、選対本部の責任者だった河井克行元法相ともども河井夫妻に対する逮捕許諾請求が行われるのではないかという話もあります。そうなれば、検察VS官邸の暗闘がいっきに表面化し、人事に手を突っ込んだことで検察の虎の尾を踏んだ安倍政権に対する、メガトン級の”意趣返し”が明らかになるのかもしれません。

官邸の悪代官たちが慌てふためく姿を見るのは痛快ですが、しかし、忘れてはならないのは、これは時代劇のような勧善懲悪の物語ではないということです。検察=正義というような単純な話ではなく、権力内部の暗闘であることを忘れてはならないのです。

文春に情報を垂れ込んだのは、産経新聞の記者の同僚だと言われていますが、「産経新聞の同僚」というのがミソで、そこにもさまざまな憶測が流れているのでした。保守派で安倍マンセーの三浦瑠麗氏は、次のようにツイッターで呟いていました。

三浦瑠麗ツイッター文春記事
https://twitter.com/lullymiura/status/1263241587858931713

中には、文春なので内調(内閣情報調査室)が関係しているんじゃないかと言っている人がいましたが、その人は60年後半の学生運動の経験者かもしれないと思いました。昔は文春の記事=内調がネタ元が常識でした。

検察庁法改正案の採決を見送ったのも、ネットの世論を読み違えたとか、二階らが政局がらみでストップをかけたからだとか、そういった話でもないのです。こんなときだからこそ、メディアのセンセーショナリズムに踊らされることを厳に慎まなければならないのです。

官邸にとって、黒川氏のスキャンダルは悪事の幕引きをはかる上で、かえって都合がよかったのではないかという見方もあるくらいで、もしかしたら、私たちは、メディアのセンセーショナリズムに踊らされることで、問題の本質から目を反らすよう仕向けられている(目くらましされている)のかもしれないのです。
2020.05.21 Thu l 社会・メディア l top ▲
今日の「モーニングショー」では、冒頭で“自粛警察”を取り上げていました。(マスクの紐が切れたため)マスクをすることができなかった通行人に、「近寄るな」と罵声を浴びせる犬の散歩中の男。仕事でやって来た他県ナンバーの車のフロントガラスに貼られた自粛要請の紙。バイクのナンバープレートに落書きされた「自粛しろ」の文字。中には、六甲山のベンチに、「山に来てないで家のかたずけをしろ」という落書きまでありました。

でも、そういった「ほとんどビョーキのような」”自粛警察“を生み出しているのは、他ならぬ「モーニングショー」などのメディアなのです。また、休業要請を守らないパチンコ店への”集団リンチ”の音頭取りをしたり、県境の国道で検問をしたり、大分県の別府市のように市営温泉の駐車場でナンバープレートをチェックして県外客の入浴を断ったりするなど、常軌を逸した自治体もメディアと同様、”自粛警察”の生みの母です。目に見えないウイルスに怯えることで、かように社会全体が病んでしまったのです。

メディアは、今度は西村経済再生大臣や小池東京都知事が唱える「気の緩み」という新しいスローガンに呼応して、“不心得者”をあぶり出すことにいそしんでいます。ヘリコプターや中継車を飛ばして、観光地や海岸や河原や公園や商店街などの「人波」を映し出しては、「気の緩み」の警告を発するとともに、ここに“不心得者”がいるぞと”自粛警察“を挑発しているのでした。

案の定、最近は「8割削減」という言葉が少なくなりましたが、しかし、今度は「気の緩み」という新しいスローガンで人々を縛ろうとしているのです。もっとも、「気の緩み」も、「8割削減」の“トンデモ科学”を前提にしたものであることは言うまでもありません。

先週の金曜日(5/15)の「モーニングショー」では、番組中に「速報」として、厚労省が、日赤が保管している1000人分の献血を使って抗体検査をした結果、東京都の陽性率が0.6%、東北地方が0.4%だったことがわかった、というニュースが流れました。それを受けて、コメンテーターの岡田晴恵氏と玉川徹氏は、「これは衝撃的な数字ですね」と口を揃えて言っていました。そして、このまま自粛を解除すると、とんでもない感染爆発が発生するかのように言っていました。

ところが、この検査では2019年に採取した検体からも0.4%の陽性率が出たことから、偽陽性の可能性が高く、市中の感染状況を知る上ではまったく参考にならないことが判明したのです。

こういったところにも、「モーニングショー」が囃し立てる「大変だ!大変だ!」のセンセーショナリズムの問題点が露呈しているように思います。

今、行われている都市封鎖や自粛などの(「モーニングショー」が言う)「閉じこもり戦略」は、ペストのときと同じです。ITとか人工頭脳とか言われている時代に、感染対策は旧態依然としたきわめてアナログなものです。

一方で、現代はGoogleやアップルが牽引するIT技術が社会全体を覆っています。同じ都市封鎖や自粛でも、私たちが持ち歩くスマホの通信データを使った監視の技術だけは進歩しているのです。そのため、IT技術と結び付いた「8割削減」なる“トンデモ科学”が、さも疫学上の新理論であるかのように流布されたのでした。しかも、その裏付けになっているドコモやauのスマホの通信データが、いつの間にか人出を計測し自粛の進捗具合を測るバロメーターになったのでした。でも、それは、前に紹介したような、ゴールデンウィーク中に別府温泉の駅前で人出が増えた(ゴールデンウィークで駅周辺の家に閉じこもる人が多くなったことを駅前の人出が増えたと勘違いした)というマンガみたいなレベルの話に過ぎないのです。

でも、そんなマンガみたいなレベルの話を指標にして、大塚英志が指摘したように、テレビなどの旧メディアとネットが密通することで、“不心得者”のあぶり出しやバッシングを益々エスカレートさせているのです。メディアに動員された「ほとんどビョーキのような人々」が、まだ斧や鉈は持ってないものの、関東大震災のときと同じように街頭に繰り出すまでになっているのです。

抗体を持った人が未だ6%や8%しかいないような状況では、第二派・第三派の感染爆発が起きる可能性が高いのは当然ですが、今のような「集団免疫」の戦略もない封じ込め一辺倒の感染対策を続けていると、感染爆発が起きるたびに大騒ぎして、再び都市封鎖や自粛を行わなければならないという場当たり的な対応をくり返すだけでしょう。そして、その監視にIT技術が使われることで、私たちは、医学の進歩によってウイルスの恐怖からいくらか解放されているにもかかわらず、カミュが描いたペストのときより、一挙手一投足までこと細かに監視された息苦しい日常を強いられることになるのです。

コロナ後の社会は、強権的な政治を求める声とIT技術による監視社会化がより強まるだろうと言われていますが、その兆候は既に表れているのでした。(IT技術という新しい衣装を着た)「ファシスト的公共」が日常化する時代がすぐそこまでやって来ているのです。
2020.05.19 Tue l 新型コロナウイルス l top ▲
最初に日本では法的にあり得ない「ロックダウン」ということばを使ったのは、英語が好きな小池百合子都知事でした。以来、おそらく元ヤフージャパン社長の宮坂学副知事のアドバイスもあったのでしょう、小池知事は、毎日のようにメディアの前に出て、東京都の顧問でもあった西浦博北海道大学教授の「人と人との接触を8割削減する」という“お題目”を唱えるようになったのでした。さらに、緊急事態宣言のあと、「8割削減」は「国家目標」のようになっていったのでした。

でも、私のようなシロウトが考えるに、「8割削減」という“プチ都市封鎖”とも言うべき過激な自粛をつづけていると、いつまで経っても集団免疫は進まないので、結局、ワクチンが開発されるまで、今のような“プチ都市封鎖”をつづけるしかないのではないかと思ってしまいます。5%とか8%とか言われる日本の免疫率では、このまま感染が減り続けるとは思えないので、集団免疫の発想を持たない限り、解除と“プチ都市封鎖”を永遠に(ウイルスが開発され国民ひとりひとりに渡るまで)くり返えさなければならないように思います。

しかし、「8割削減」は、専門家会議が認めたように、学術的に検証され認知された理論ではないのです。そんな“トンデモ科学”とも言うべき怪しげな数字が独り歩きして、私たちの行動や社会の経済活動を縛り、個人の生活や国の経済に大きな影響を与えているのです。

地方が自粛解除に向かう中、東京・神奈川・埼玉・千葉の首都圏は、依然「特別警戒地域」として、“プチ都市封鎖”は続けられています。同じ「特別警戒地域」の大阪や兵庫などの関西圏は、独自のロードマップで解除の方向に進んでいますので、解除に慎重なのは首都圏だけです。多大な犠牲を強いる”プチ都市封鎖”に、疑問の声があがらないのが不思議でなりません。

まして、「8割削減」に明確な(科学的な)裏付けはないのです。前に書いたように、ホントにどれだけ感染防止に役立っているのかもわからないのです。緊急事態宣言が発令され「8割削減」が「国家目標」になる前に、既に感染のピークが訪れていたと言われており、実効再生産数も、緊急事態宣言前の4月初めに閾値の1を割っていたことがあきらかになっています。

「8割削減」に関連して、最近は「気の緩み」という言葉が盛んに使われていますが、なんだか自粛を解除するかどうかはアナタたちの心がけ次第よ、そんな心がけでは解除しませんよと言われているような感じです。そうやって私たちに責任が押し付けられているような気がしないでもありません。

私が住んでいるのは神奈川県ですが、神奈川県の黒岩知事はまるで小池都知事のコバンザメのようで、ただ小池都知事が言っていることをオウム返しに言うだけです。林文子横浜市長も然りですが、こういった“非常時”になると、上に立つ者の能力が忖度なしに問われるのです。と言うか、その能力が非情なまでに晒されるのでした。黒岩知事や林市長を見ていると、アナウンサーや車のセールスマンとしては有能だったかもしれませんが、自治体の首長というのはそれとは別の能力が必要なのだということを哀しいまでに痛感させられるのでした。その点、小池都知事のリーダーシップは、黒岩知事や林市長を後ろに従えるほど、彼らを凌駕しているのはたしかでしょう。それは、小池知事が口が達者で、メディア戦略に長けているということも大いに関係しているように思います。

一方で、私たち首都圏に住む人間にとって、小池都知事に引きずられる今の状況は果たして幸せなことなんだろうかと思ったりもします。メディアの露出も、「8割削減」も、パフォーマンスの色合いが濃いように思えてならないのです。そのパフォーマンスに振り回されているということはないのでしょうか。

自民党は、7月の都知事選に対抗馬を立てることを断念し小池都知事を推薦することを決定したようです。これで、小池都知事の再選は確定したも同然です。

小池都知事がけん引した首都圏の過激な自粛要請=“プチ都市封鎖”が、彼女のイメージアップと政治的な野望に大きな貢献をしたのは間違いないでしょう。なんだか小池都知事の一人勝ちのような感じさえしてならないのでした。でも、その陰に、多くの人たちの阿鼻叫喚があることも忘れてはならないのです。
2020.05.17 Sun l 新型コロナウイルス l top ▲
昨日電話がかかってきた田舎の友人は、道路を走っていて、県外ナンバーの車を見るとドキッとすると言ってました。また、近所の家の家族と遭遇した際、その中に他県の大学に行っている息子がいたので、「どうしたの?」と訊いたら、「学校が休みになったので帰って来た」と言っていたそうですが、そう言う息子を見て、思わず後ずさりしている自分がいたと言っていました。

友人は読書が趣味のそれなりのインテリですが、もはやビョーキみたいな感じです。私は、友人の話を聞きながら、出入り業者が、リゾートマンションに「東京の人間が入り込んでいるそうですよ。気を付けた方がいいですよ」と触れ回っていたという、別の友人の話を思い出しました。

「県をまたいだ移動」が人々にこれほどの恐怖心を与えているのです。まるで江戸時代のようですが、国家の脅しはかように効果的なのです。「ファシスト的公共」は、このようにいとも簡単に立ち現れるのです。そして、あとは思考停止に陥った市民たちによる異端者狩り=“集団リンチ”が行われるだけです。

奥多摩の住民が、登山者に「恐怖を覚える」というのも同じでしょう。私は、このブログでも書いているとおり、毎週のように奥多摩の山に通っていましたが、今まで地元の住民と「密」に遭遇したことなどありません。たまに遠くで畑仕事をしている姿を見るくらいです。まして、私たちは奥多摩の地元住民とキスをするわけでもハグをするわけでもないのです。コンビニもないようなあんな山奥に何の「密」があるというのでしょうか。

奥多摩に行く電車やバスが「密」になると言いますが、たしかに登山シーズンの週末に電車やバスが混雑するのは事実です。だったら週末を避ければいいだけの話です。私は誰もいない山をひとりで歩くのが好きなので、普段から週末に行くのを極力避けていますが、ホリデー快速おくたま号(週末だけ運行される奥多摩行きの臨時電車)や週末の御岳山や大山や高尾山のケーブルカーを運行しなければいいだけです(個人的には、中高年の団体登山も禁止にしてもらいたいけど)。

野口健や日本山岳会や日本勤労者山岳連盟などの山岳団体が、「8割削減」のスローガンに無定見に従って、登山の自粛を呼びかけるなんていうのは愚の骨頂です。ここにも、右と左が同居した、有無を言わせない翼賛的な空気が作られているのです。

昨日も、群馬の妙義山で滑落した男性のニュースがYahoo!ニュースに転載され、コメント欄に巣食う“自粛警察”の恰好の餌食になっていましたが、案の定、「日本山岳会などが登山自粛を呼びかけているにもかかわらず」というような言い方がされていました。「登山自粛」がいつの間にか「登山禁止」になっているのです。野口健や日本山岳会や日本勤労者山岳連盟などは、そうやって登山者を縛るだけでなく、“登山者叩き”の口実を与えているのでした。

そもそも、登山者を代表しているかのような野口健や日本山岳会や日本勤労者山岳連盟のふるまいには、ひとりの山好きとして非常に違和感があります。同じ登山愛好家なら、まずやるべきことは、どうすれば感染のリスクを減らすことができるかとか、山に登る上でどういうことを気を付けるべきかとか、そういった注意喚起を促すことでしょう。そして、(山小屋を除いて)登山は「密」ではないということを周知すべきなのです。

また、「密」な山小屋にしても、その存在は、利用するしないにかかわらず、登山者にとっても、あるいは登山文化にとっても、無関心ではいられない問題があるのはたしかです。宿泊料金の値上げも含めて、どうすれば「密」を解消できるかをみんなで知恵を出し合って考えるべきでしょう。国立公園の40パーセントが民有地という現状を考えるとき、前から言っているように、入山料の徴収も視野に入れるべきかもしれません。

驚くべきことは、野口健や日本山岳会や日本勤労者山岳連盟など山岳団体の「登山自粛」の声明に対して、声を上げる登山愛好家があまりに少ないということです。それだけリーダーの背中ばかり見て山に登っているような、「自立していない」登山者が多いということかもしれません。

山に限らないけど、大事なことは自己防衛と自己判断なのです。そういう「生活スタイル」を身に付けることです。買い物や食事に行くときも、あるいは休日に観光地に遊びに行くときも、ちゃんと感染防止の対策を取っているかどうか、自分で見極め自分で判断することでしょう。感染防止策を取ってないような店には行かなければいいのです。また、当然ながら世の中には感染防止の知識も意識もない無神経な人間も一定数存在しますが、そんな人間には(心の中で軽蔑しながら)近づかなければいいだけの話です。

しかも、現在の感染の多くは、院内感染と家庭内感染です。それを「8割削減」「外出自粛」に強引に結び付けているのです。そこに、国家の脅しと詐術があるのです。
2020.05.15 Fri l 新型コロナウイルス l top ▲
先日、東京の感染数は発症日ベースで3月30日にピークを迎えていたという米山隆一氏の寄稿を紹介しましたが、東京都も4月8日だかに感染のピークを迎えていたことを正式に?認めたようです。

じゃあ、そのあとの1か月はなんだったんだと思います。「8割削減」という“トンデモ科学”だけが独り歩きし、ドコモやauのスマホデータを根拠に、「人出がまだ多い」「もっと外出を自粛しましょう」と言われていたのです。そのため、個人経営の商店や飲食店は苦境に陥り、休業要請に従わないパチンコ店などは、メディアや自治体に動員された“自粛警察”によって、まるで非国民のように叩かれたのでした。

たしかに、外出自粛したので、4月8日(あるいは3月30日)以降、感染の拡大を防ぐことができたという見方が成り立つかもしれません。でも、米山氏が書いているように、専門家会議クラスター班の西浦博教授が、「8割削減しなければ42万人が死亡する」という衝撃的な会見を行ったのは、ピークが過ぎた4月15日だったのです。さらに4月21日に発表された専門家会議の提言でも、東京の感染のピークが4月8日だったという話はいっさい出ていませんでした。外出自粛したので4月8日以降感染の拡大を防ぐことができたというのは、後付けの理屈のようにしか思えません。ちなみに、西浦教授はもともと東京都の顧問だったそうで、小池都知事がバカのひとつ覚えのように「8割削減」を口にする理由もこれでわかります。

私たちの行動を縛り、多くの人たちが生活の糧を奪われ路頭に迷うことになった自粛要請に、感染状況がどのレベルにあるのかとか市中感染率がどのくらいかとか、そういった科学的な(疫学的な)根拠はいっさいありませんでした。ただ、「人と人との接触を8割削減する」というスローガンがあっただけてす。もっとも、日本の検査体制では、根拠を求めるのは最初から無理な相談でした。

「8割削減」を目標とする“人出分析”では、こんなニュースさえありました。

毎日新聞
観光地の人出データ 内閣官房HPから「別府駅」削除 住宅密集、自粛で人口密度増

マンガみたいな話ですが、内閣官房が頼っていたのも、スマホのビッグデータだったのです。私たちは、こんなお粗末な(マンガみたいな)データで、行動を縛られていたのです。

最近の感染は、院内感染と家庭内感染が主ですが、たとえば、現在の通勤電車の状況で、どのくらい感染者が出ているのかといったデータなどはいっさいありません。私たちが知りたいのは、そういったデータです。私の感覚では、都内の通勤電車の混み具合は、通常時の50~60%くらいだと思いますが、それだとどのくらいの効果があるのか、あったのかということもわからないのです。感染した場合、感染者に対して行動履歴の聞き取り調査が行われるので、当然、電車通勤の有無もわかるはずです。でも、そういったデータはいっさい発表されていません。それで、なるべく通勤を減らせ、リモートワークに切り替えろと言われるだけです。

政府は、緊急事態宣言解除の出口戦略に向けて、感染対策のために設置した「基本的対処方針等諮問委員会」に、あらたに4人の経済学者を入れることを決定したそうです。そして、それに伴い、あたらしく入った小林慶一郎氏(東京財団政策研究所研究主幹)の発言が再三メディアに取り上げられているように、PCR検査や抗原検査の増加をはかり、感染状況の把握をめざすべく今までの方針を転換すると言われています。

「今頃?」というツッコミはさておくとしても、じゃあ、この1か月はなんだったのかと思わないわけにはいきません。感染対策を医療関係者に丸投げした結果、「医療崩壊を防ぐため」という彼らの常套句によって、ただ、検査が抑制されただけです。一方で、「8割削減」という根拠のないスローガンのために、外出自粛や営業自粛が声高に叫ばれただけなのです。私のようなシロウトには、まったく”無駄な時間”だったようにしか思えません。

先の戦争でも、中身が検証されることなしに空疎なスローガンだけがひとり歩きして、政治家も官僚も軍人も、次第に現実認識を失っていったのですが、この新型コロナウイルスでも同じことがくり返されているのです。

少なくとも、「8割削減」に疑問を呈した人はほとんどいませんでした。それこそ右も左も、みんな「8割削減」に唯々諾々と従ったのでした。そして、いつの間にか「8割削減」が「国家目標」のようになり、緊急事態宣言と一体化することで、“コロナ戒厳令”とも言うべき翼賛体制のスローガンと化していったのでした。ところが、(米山氏が書いているように)今になって専門家会議は、「8割削減」は「学術的にも技術的にも評価方法が確立していない、『評価できない数字』」だったと言い出した(やっと認めた)のでした。この1か月は、「8割削減」という”トンデモ科学”に振りまわされ、ただ国民に犠牲を強いただけの“無駄な時間”だったのです。こんな話があるでしょうか。


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マスクをつけて街に出よう
2020.05.14 Thu l 新型コロナウイルス l top ▲
検察庁法改正案に対して、ネットを中心に反対の声が沸き上がっていますが、しかし、政府与党は成立のためには強硬採決も辞さない構えなのだそうです。悪代官たちにとって、ネットの反対論などどこ吹く風なのでしょう。

私は、検察庁法改正案に関するメディアの報道で、ひとつ解せないことがあります。それは、自民党とともに、この法案の成立を目指している(実際には手を貸している)公明党=創価学会に対しての言及がいっさいないということです。公明党=創価学会は、今までも政権与党として、数々の悪法や森友・加計・桜を見る会などの疑惑隠しに手を貸して来ました。

公明党=創価学会の体質を考えると、安倍政権の独裁的な政治手法と親和性が高いのはたしかでしょう。しかし、公明党は、自分たちは安倍政権に対してブレーキ役だと常々言っています。しかし、実際は、ブレ―キではなくアクセルのようにしか見えません。そういった詭弁を平気で使うのも、公明党=創価学会の体質ゆえでしょう。

公明党=創価学会への言及がないのは、やはり、メディアに鶴タブー(創価学会タブー)があるからではないか。そう思えてなりません。

政府が、閣議決定までした減収世帯への30万円の給付を引っ込めて、ひとり10万円の一律給付に方針を転換したのも、公明党の積極的な働きかけによるものだと言われています。事実、公明党はその成果を大々的にアピールしています。そして、公明党は、今度はアルバイトができなくなり困窮した学生に、10~30万円?の現金を支給する支援策をぶち上げています。よく「区内の小学校にエアコン設置を実現させました」というような公明党のポスターを見かけますが、学生に対する支援策も、そういった公明党特有のポピュリズムの延長にあるものなのでしょう。

10万円の一律給付は当然学生も対象なので、さらにその上に10~30万円が追加して給付されるのです。ホントに困っている人たちを支援するなら、まずネットカフェ難民やホームレスの人たちに給付すべきだと思いますが、あくまで創価学会の都合による支援策なので、最初からそんな発想はないのでしょう。

もしかしたら、公明党の支援策と検察庁法改正案の成立がバーターで取引されているのではないか、そんな穿った見方もしてしまいます。まして、山口那津男代表はじめ、公明党の国会議員には弁護士資格を持った法曹家も多いのです。法治国家として、今回の改正案が如何にヤバいものであるかということは充分わかっているはずです。公明党は、平和と福祉の党を自認しています。一見善良そうな顔をしたワルこそ、気を付けなければならないのです。もしかしたら、悪魔は、普段は善良の仮面を被っているのかもしれないのです。

でも、メディアの報道には、公明党の「こ」の字も出て来ません。これもまた、「異常」と言わねばならないでしょう。
2020.05.13 Wed l 社会・メディア l top ▲
5月5日の子供の日、千葉県松戸市の市長が、休業指示に従わない市内のパチンコ店を訪れ、市職員が「新型コロナウイルス『緊急事態宣言』発令中!」と書かれた横断幕を店舗前に掲げる中、「外出自粛を呼びかけるチラシを利用客や市民に配りながら、協力を呼びかけた」のだそうです。

それに合わせて、マイクを手にした男たちも同店を訪れ、「営業やめろ」「帰れ」などと叫び、利用客と怒鳴り合いになり、「一時騒然とした雰囲気になった」そうです。

松戸市の市長の行為は、正気の沙汰とは思えません。それを「異常」と思わないのも、営業を続けるパチンコ店に対しては、何をやっても許されるような風潮があるからでしょう。

朝日新聞デジタル
パチンコ店騒然、客と自粛派どなり合い 市職員は横断幕

このようにメディアと自治体がタッグを組んで、“自粛警察”を煽っているのです。しかも、その“集団リンチ”はエスカレートするばかりです。東京都知事や大阪府知事を見習って、積極的にメディアに出演する知事が相次いでいるそうですが、彼らは、なんだかアピール合戦をしているような感じすらあります。そうやって新型コロナウイルスをチャンスとばかりに(再選のための)選挙運動をしているのかもしれません。

どうして、新規感染者の発表に、わざわざ知事が出てくるのか。小池都知事が、新型コロナウイルスではしゃいでいるという記事がありましたが、当たらずといえども遠からじという感じです。指導力をアピールするためには、新型コロナウイルスは絶好の機会なのでしょう。

全国知事会での発言などを見ていると、彼らは“自粛”を要請する権限を手放したくないように見えます。群馬県の山本一太知事が、緊急事態が解除されると、「法律に基づいた対応ができなくなる」として、解除の対象から群馬県を除外するよう国に求めたり、解除されても「県境をまたいだ移動の禁止」は維持してもらいたいと知事会が要望するのも、アピールする機会がなくなることを怖れているからかもしれません。

彼らには、新型コロナウイルスとどう共生していくかという視点が決定的に欠けているのです。もっとも、彼らにとっては、そんなことはどうでもいいのかもしれません。

群馬県の伊香保や草津の温泉地は、山本知事の発言にさらに絶望感に打ちのめされたに違いありませんが、しかし、温泉旅館の主人たちは、もともと山本知事の熱心な支持者だったので、自業自得と言われても仕方ないでしょう。

温泉旅館の主人たちも、新型コロナウイルスとどう共生していくかという視点がないのです。自分たちでどのように感染対策をして、お客を迎えるのかという考えすらないのです。ただ、県や国に「お願いする」だけなのです。休業要請を無視して営業を続けるパチンコ店の爪の垢でも煎じて飲んだ方がいいでしょう。

おそらくそのうち「人と人との接触を8割削減する」ということを誰も言わなくなり、「8割削減」の「国家目標」も自然消滅するでしょう。”トンデモ科学”に振りまわされていた人たちこそ、いい面(ツラ)の皮と言うべきなのです。

専門家会議は、先日提言した「新しい生活様式」なるものでは、所謂「ソーシャルディスタンス」を今まで2メートルと言っていたのに、今度は1メートルでいいと言っていました。「37.5度4日間」のPCR検査の目安の撤廃もそうですが、専門家会議が言っていることは、このようにくるくる変わって「いい加減」なのです。それが「医者特有のご都合主義」というものです。

今朝のテレビ朝日の「モーニングショー」では、埼玉の長瀞で、「”立ち入り禁止”の警告を無視して岩畳に立ち入る観光客が続出している」として、その模様を放送していました。観光客に「どうして立ち入ったのですか?」と詰問していましたが、「モーニングショー」には、そもそも岩畳に立ち入ることがどうして「禁止」なのか、どうしてそれが「密」になるのか、という当たり前の疑問すら存在しないのです。ただ思考停止して、”自粛警察”の役割を演じているだけです。「モーニングショー」の姿勢もまた、「異常」と言うしかありません。

中国の武漢では、1か月ぶりに感染者が出たので、全市民1100万人のPCR検査を実施することにしたそうです。また、スペインのサッカーリーグでも、開催に向けて所属する全選手のPCR検査を行ったとか。日本でそんなニュースを耳にすると、まるで別世界の話のように聞こえます。

何度もくり返しますが、自分も含めて誰が感染しているのかわからないので、必要以上に“見えない敵”に怯えるのでしょう。その怯えが松戸の市長や“自粛警察”のような“異常な人々”を生み出しているのです。東京都の小池知事は、「ステイホーム週間が終わったことで、何の根拠もない達成感があって、緩みが出るのが大変心配だ」と発言していたそうですが、その「根拠」を得るためにもPCR検査が必要なのです。国会でも、実際の感染者数がどのくらいいるのか、公式数字の10倍なのか100倍なのか、誰も答えることができなかったという記事がありましたが、そういった日本の現実こそ「異常」と言うべきでしょう。「根拠」がないと言いながら、誰も「根拠」を求めないのです。そして、ただ怯え、自粛に従わない者たちを”集団リンチ”するだけなのです。
2020.05.13 Wed l 新型コロナウイルス l top ▲
カミュの『ペスト』を読みながら、都市封鎖(ロックダウン)と外出自粛の違いはあるものの、目の前の閑散とした街の風景を、『ペスト』で描かれているアルジェリアの街と重ね合わせて見ている自分がいました。

昨日の昼間、窓際に立って、ぼんやりと表の通りを眺めていたときでした。舗道の上を夫婦とおぼしき高齢の男女が歩いていました。買物にでも行くのか、やや腰が曲がった二人は、おぼつかない足取りで一歩一歩をたしかめるようにゆっくりと歩いていました。特に、お婆さんの方がしんどいみたいで、数メートル歩いては立ち止まって息を整え、そして、また歩き出すということをくり返していました。

お婆さんが立ち止まるたびに、先を行くお爺さんも立ち止まってお婆さんの方を振り返り、お婆さんが再び歩き出すのを待っているのでした。

私は、そんな二人を見ていたら、なんだか胸にこみ上げてくるものがありました。二人はそうやって励まし合い、支え合いながら、コロナ禍の中を必死で生きているのでしょう。

高齢者や非正規雇用の労働者やシングルマザーなど、弱い立場の人、恵まれない人ほど、新型コロナウイルスに翻弄され苦境に陥っているのです。中には、生きる希望を失くすほど追いつめられている人もいます。

そのあと外に出たら、近所の花屋の前に人盛りができていました。なんだろうと思って見ると、レジ待ちをしている人たちが店の外まであふれているのでした。みんな、それぞれ花が盛られた小さなバスケットを手に持っていました。

私は、もう母親がいないのですっかり忘れていたのですが、昨日は母の日だったのです。こんな非常時でも、みんな母親を思い、感謝しいたわる気持を忘れてなかったのです。できるなら、そのやさしさを少しでも恵まれない人々や弱い立場の人々に向けてもらいたいなと思いました。

今回の新型コロナウイルスによって、経済格差がさらに広がるのではないかと言われています。たしかに、収入が減った人と減ってない人のことを考えば、今後ますます二極化が進むのは容易に想像できます。未曾有の倒産や失業に見舞われるのは、もはや既定のように言われています。しかし、10万円の定額給付金を見てもわかるとおり、相互扶助の精神なんてどこかに吹っ飛んだような感じです。見えないところで、弱肉強食の無慈悲な世界が広がっているのです。「自分さえよければいい」という剥き出しの本音に社会が覆われようとしています。また、緊急時に強権的に対応できる、専制的な政治を求める声も強くなっています。

休業要請に従った自営業者が破産か自殺かに追い詰められても、器用に二枚舌を使い分ける東京都知事や大阪府知事はまるでヒーローのようにもてはやされているのです。まともな感染対策さえ打ち出せず、無責任な言い逃れに腐心するばかりの安倍内閣の支持率は、思ったほど下がっていません。安倍内閣の支持率40%は盤石なのです。だから、火事場泥棒のように検察庁法の改正を強行しようとするのでしょう。「日本の奇跡」を信じて疑わない人々が40%もいる限り、何があっても悪代官たちは左団扇なのです。

「あんまり文句ばっかり並べても今は特に仕方ない。有事なんだから」と言ったサンドイッチマンの伊達は、福島関連のイベントでは政府ご用達芸人ですが、支持率40%を考えると、彼が好感度ナンバーワン芸人であるのも納得ができます。そのうち「今は有事なんだから検察庁法改正案反対なんて言わずに、みんなで政府を応援しよう」と言うのかもしれません。

カミュの『ペスト』では、ペストは人間が犯した罪の報いだと説いていた神父も、やがてペストに命を奪われるのでした。ペストという不条理は、宗教も政治も経済も、エゴイズムもヒューマニズムも、夢も希望も姑息な処世術も、容赦なく無慈悲に、そして、分け隔てもなく呑み込んでしまうのでした。しかし、愚かな人間は、さらに無慈悲なエゴイズムで、みずからに襲いかかる不条理から逃れようとするのです。それが、今、私たちの目の前にある社会の風景です。

ペストが終息したあと、街は歓喜の声に沸き上がり、生き残った人々は一体感を覚えながら、もとの日常に戻って行こうとします。でも、医者のリウーは、それが「決定的な勝利の記録ではありえないことを知っていた」のです。もとの日常に戻るなんてもうできないのです。『ペスト』は、次のようなリウーの独白で終わっていました。

(略)――ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、そしておろらくいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうということを。

宮崎嶺雄訳『ペスト』(新潮文庫)


70年経ち、ペスト菌は、医学の進歩によって、一部の地域を除いて、私たちの前からほぼ姿を消しました。新型コロナウイルスも、ワクチンが開発されれば、インフルエンザと同じような「ありふれた感染症のひとつ」になるのかもしれません。しかし、もうもとに戻ることはないのです。コロナ以前とコロナ以後では、私たちも社会も大きく変わるのは間違いありません。でも、カミュではないですが、不条理は続くのです。

外出自粛を守らない不心得者や休業要請に従わないパチンコ店に対して、普段は良き父親で良き夫で良き市民で良きサラリーマンであったような人たちが、メディアに煽られ、何の留保もなく目を吊り上げて悪罵を浴びせていた姿を私は忘れることができません。しっかり目に焼き付けておこうと思いました。文字通り、そこには、差別と排除の力学によって仮構される彼らの日常性の本質が顔を覗かせていたからです。関東大震災のとき、朝鮮人の頭上に斧や鉈を振り下ろしたのは、何も特別な人たちではありませんでした。普段は良き父親で良き夫で良き市民で良きサラリーマンであったような人たちだったのです。”善良な市民”なんていないのです。
2020.05.11 Mon l 新型コロナウイルス l top ▲
シロウト考えですが、新型コロナウイルスの終息には、大きくわけて三つの方法があるのだと思います。一つ目は、ワクチンが開発されるまで、できる限り感染者を少なくして時間稼ぎをする、言うなればソフトランディングの方法です。二つ目は、ある程度の感染を許容しながら多くの人に抗体ができるようにして、「集団免疫」の獲得を目指す、ハードランディングの方法です。そして、三つ目は、ソフトとハードを組み合わせたハイブリッドの方法です。

アメリカやヨーロッパの国々が、今、徐々に封鎖を解除する方向に向かっているのは、あきらかに三つ目のハイブリッドの方法を選択しているからでしょう。感染が終息したからではなく、感染の封じ込めによって、一時的に小康状態になったからです。おそらくこれから第二波第三波の感染爆発が起きる可能性は大きく、それも覚悟の上なのでしょう。

いつまでも経済活動を止めていたら、人々の生活が立ち行かなくなるのはどの国でも同じです。ワクチンが開発されるまで時間稼ぎをするなどというのは、現代の高度に発達した資本主義社会では現実的な方法ではないのです。「集団免疫」とまでは言わないまでも、抗体を持った人が一定の割合で存在するようになれば、それだけ感染の速度は遅くなり、ワクチンの開発まで時間稼ぎができるという目算もあるのだと思います。

そのためには、WHOではないですが、「検査、検査、検査」なのです。検査をして、現在の市中感染率がどのレベルにあるのか把握することが不可欠であるのは言うまでもありません。

昨日東京都が初めて「陽性率」なるものを公表しましたが、私は、当初、「陽性率」とは市中感染率のことだと思っていました。ところが、東京都が公表した「陽性率」は、PCR検査した中で陽性の判定が出た人の割合に過ぎないことがわかりました。考えてみれば、検査を受ける人の中には、陰性になったかどうか確定診断するために何度も検査を受ける治療中の患者もいるでしょう。そもそも、日本は外国と違って、保健所がPCR検査の”水際作戦“を行っていますので、検査数も圧倒的に少なく、「37.5度が4日間」の目安ではないですが、感染の疑いが濃い人しか検査を受けられないシステムになっているのです。そんな日本の検査体制で、陽性になった人の割合を出しても、あまり意味があるとは思えません。この「陽性率」は、大阪府が自粛解除の条件として独自に設けた”大阪モデル”の中にも入っていますが、どうして後述する実効再生産数ではなく、信頼性に欠ける「陽性率」なのか、疑念は尽きません。

何度も言いますが、日本は、検査数も感染者数も外国に比べて一桁少ないのです。そのため、日本政府の対応について、海外から批判が続出しているのです。

朝日新聞デジタル
コロナ対応に海外から批判続出 政府、発信力強化に躍起

    英紙ガーディアン(電子版)は4日、安倍晋三首相が緊急事態宣言を延長したことを詳しく報じた。記事では記者会見でも取り上げられたPCR検査にも言及。「日本は検査の少なさで批判されている。日本のやり方は症状が軽い感染者を特定し、追跡することを困難にしている」と指摘した。
(略)
   英BBC(電子版)は4月30日、PCR検査について「日本の検査数の少なさは疑問だ」と題する記事を掲載。日本の感染者数は28万~70万人におよぶという試算を紹介しながら「日本は検査数を増やさないと、パンデミックの終結はかなり困難」という専門家の厳しい見方を取り上げた。
(略)
  韓国のハンギョレ新聞(電子版)も4月30日に社説で「安倍首相は韓国の防疫の成功を無視し、軽んじていた。日本政府とマスコミは当初、自国の対応を自画自賛した」と批判した。


また、日本政府が、海外からの批判に対して、みずからの立場を多言語で発信するために予算を計上したことに対しても、「米紙ワシントン・ポスト(4月15日付電子版)は『経済や株価への執着と、ずるい世論操作のやり方は親友のトランプ米大統領とそっくりだ』と皮肉った」そうです。

昨日だったかテレビでやっていましたが、ドイツのメルケル首相は、週に1回、現在の感染状況を国民に知らせるために、実効再生産数を発表しているのだそうです。メルケル首相は物理学者なので、国民の理解を求めるため、そういった科学的な指標をわかりやすく丁寧に説明しているそうです。受験勉強も経験していないどこかの国の総理大臣が、メルケル首相の真似をするのはとても無理でしょうが、なぜか日本ではこの世界基準とも言うべき実効再生産数を3月19日以降公表していませんでした。

実効再生産数というのは、前後の5日間の感染者数の差を元に、複雑な計算式で算出した現在の感染状況の推移を示す指標です。ひとりの感染者が平均何人に感染させているかを示しており、実効再生産数の数値が1.0より大きいと感染者数が増加、1.0より小さいと減少を示しているそうです。

上記のように、海外からの批判も、日本はPCR検査数や感染者数など基礎データがあまりに少なく、実効再生産数さえ定期的に公表してこなかったという不信感があるからですが、しかし、日本国内では、感染者数が一桁少ないことを「日本の奇跡」「安倍政権の優秀さの証明」と自画自賛していたのです。これが日本がカルトの国であるゆえんですが、安倍首相が緊急事態宣言の延長に際して、ネトウヨ=”自粛警察”の巣窟であるニコニコ動画とYahoo!Japanに出演したのも、「日本の奇跡」「安倍政権の優秀さの証明」と慰撫されたかったのかもしれません。このようにメルケル首相とあまりにも違うこの国の指導者の「バカっぽさ」を見せつけられると、ひとりの国民としてあらためて情けない気持にならざるを得ないのでした。

緊急事態宣言の延長が取り沙汰されるようになった5月1日、専門家会議は、「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」と題する報告書を発表したのですが、その中で、3月19日以降発表がなかった実効再生産数が久し振りに公表されていたそうです。しかも、その数値は、驚くべき事実を示していたのです。

そのことについて、医師であり弁護士でもある前新潟県知事の米山隆一氏は、朝日新聞の「論座」で、次のように書いていました。

livedoor NEWS
論座
専門家会議のコロナ報告書が示す驚きのデータと「5月7日以降」の合理的対策

(略)「発症日」ベースで集計された流行曲線が、今回初めて示されたのですが、その結果は極めて驚くべきものでした。発症日ベースでは、新型コロナウィルス感染症の流行は全国では4月1日に、東京では3月30日に既にピークを迎えていたのです(平均潜伏期間は「5日」程度と言われており、「感染日」のピークはこの更に5日前の3月27日、3月25日であるであると考えられます)。

これを裏付けるように、時刻tにおける再生産数であるRtは、全国、東京都ともに4月1日に、感染が収束に向かう境界値である1.0を下回っており、4月10日現在で全国0.7、東京都0.5となっているとのことです。

このデータは、端的にいって「4月1日の時点で全国・東京都ともに感染はピークアウトし収束に向かっていたのであり、そもそも7日の緊急事態宣言は(少なくとも事後的には)必要なかった」ことを意味します。


ところが、専門家会議は、戦前の関東軍と同じように、実効再生産数が示す数値とは矛盾する方向に突き進んでいくのでした(以下、引用は同上)。

 にもかかわらず、専門家会議クラスター班の西浦博教授は4月15日に、「4月1日の時点で全国・東京都ともに感染はピークアウトし収束に向かっている」という事実に何ら言及することなく、「このまま何もしなければ42万人が死亡する」という衝撃的な記者会見を行って国民の不安を掻き立て、専門家会議が22日に記者会見で発表した「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」においても、この事実への言及は何一つありませんでした。


これは、米山氏が書いているように、恐るべきことです。以後、西浦教授が提唱する「人と人との接触8割削減」が「国家目標」のようになっていくのですが、この「人と人との接触8割削減」についても、専門家会議の報告書は次のように言及しているそうです。

 この報告書の次に驚くべき点は、今まで事実上、国家的目標とされていながらその中身が判然としていなかった「人と人との接触8割削減」について、「『接触行動の変容』をどのように評価していくかについては、学術的にも技術的にもまだまだ課題が多い」として、学術的にも技術的にも評価方法が確立していない、「評価できない数字」であることを事実上、認めたことです。


私のようなシロウトでさえ、「人と人との接触8割削減」は”トンデモ科学”ではないかと前にも書きましたが、専門家会議もそのことをやっと認めたのです。メディアは、ドコモやauのスマホのデータに基づいて、人出が何割減ったとか増えたとか言っていますが、それはただドコモユーザーやauユーザーの行動(しかも、電源をONにしてスマホを持ち歩いている人の行動)に過ぎません。しかし、そんなスマホユーザーのデータによって、私たちの行動が縛られているのです。それどころか、多くの人たちは、生活を破壊され、破産か自殺かの状態にまで追い詰められているのです。もっとも、専門家会議は、今までもその都度「指針」や「提言」を変更しています。専門家会議が言う「指針」や「提言」も、所詮は医者特有のご都合主義の所産に過ぎないのです。

しかし、既に「8割削減」は独り歩きをはじめており、小池都知事もバカのひとつ覚えのようにそれをくり返しています。休業要請に従わないパチンコ店に対する“集団リンチ”も、国道での検問も、県外ナンバーに対するチェックや嫌がらせも、観光客を迷惑扱いする各地の観光地も、奥多摩の自警団も、野口健や山岳団体の登山自声明も、すべて「8割削減」をカルト的に解釈したからにほかなりません。戦前の隣組や国防婦人会と同じように、既に「8割削減」が暴走しはじめているのです。

米山氏が書いているように、私たちの生活様式は緊急事態宣言以前のレベルで充分だったのです。そのことを実効再生産数の数値が示しているのです。つまり、あえて挑発的な言い方をすれば、休業要請に従わないパチンコ店の判断の方が正しかったのです。

たしかに、休業要請に従わないパチンコ店でクラスターが発生したという話は寡聞にして聞きません。パチンコ店自体も、間を空けて行列を作るように呼び掛けたり、機械や店内をまめに消毒したり、客にマスクを配ったり、入店の際検温をしたりと、感染を防止する工夫をしているようです。私も仕事の関係で週に2日程度都心を走る電車に乗っていますが、パチンコ店の「密」より通勤電車の「密」の方がはるかに問題でしょう。パチンコ店のお客より、「電車の座席に座ることが人生の目的のような人たち」の方がはるかに「危ない」でしょう。

もちろん、世の中には、感染防止の知識も意識もない「どうしようもない人間」も一定数存在します。そんな人間には近寄らないようにすればいいだけです。たとえば、三人掛けで真ん中の席が空いた電車の座席に座っていると、中にはラッキー!と言わんばかりに真ん中の席に座ってくる人間がいますが(たいていスマホ中毒のような痴呆的な若者ですが)、その際は立ち上がってドアの横にでも行くようにしています。そういう自己防衛をすればいいだけの話です。

一方で、専門家会議は、先の報告書の内容とはあきらかに矛盾する「新しい生活様式」なるものを提唱しているのですが、そこにも戦前と同じような「もうあと戻りできない」イケイケドンドンのカルト的解釈の暴走があるように思えてなりません。

NHK 特設サイト 新型コロナウイルス
専門家会議「新しい生活様式」の実践例

ワクチンが開発されるまで、専門家会議が提唱する「新しい生活様式」を実践していたら、街の商店主だけでなく、国民の半数は破産か自殺するしかないでしょう。私たちは、「書を捨てよ街に出よう」と言った寺山修司ではないですが、マスクをつけて街へ出るべきなのです。そういった自己防衛と自己判断の「新しい生活スタイル」を身に付けるべきなのです。そして、観光施設や宿泊施設が充分な感染対策をしているかどうかを見極めつつ、観光地にも出かけるべきなのです。県外客はお断りという自治体や観光協会の(小)役人的発想=事なかれ主義に対しては、宿泊施設などがもっと抗議して、みずからに下される“死刑宣告”を撤回させるべきなのです。「座して死を待つより、出て活路を見出す」(諸葛孔明)べきで、休業要請に応じないパチンコ店のバイタリティとしたたかさをもっと見習うべきなのです。そうやってワクチンの開発や「集団免疫」の獲得まで、新型コロナウイルスと共生して生きて行くしかないのです。

米山氏は、終息までの長い道程を生きるためには、「合理的思考」が必要だとして、次のように書いていました。

(略)専門家会議の報告書によって示された客観的なデータと事実から合理的に考えれば、私は、①「国の共通目標」をReに改め、②迅速にReを推計・発表する体制を整え、③症状のある人には迅速にPCR検査を行って症状に応じて直ちに療養・治療できる体制を構築した上で、④継続的にRe<1.0である事が確認された地域から順次「行動変容」の緩和を進め、4月上旬程度の「自粛」「感染症対策」を継続しながら、経済・社会活動を再開し、「今迄の生活様式」を取り戻すこと――が、最も合理的な政策であると思います。

2020.05.09 Sat l 新型コロナウイルス l top ▲
昨日、九州の友人から電話があり、経営する店に配達に来たおしぼり屋から「近所の○○マンションに、東京から来た人間が入り込んでいるそうですから気を付けた方がいいですよ」と告げられたと話していました。

友人が住んでいるのは国内でも有数の温泉地なので、リゾートマンションが多く、おしぼり屋は、リゾートマンションにコロナ禍を避けた人たちが「避難」して来ているのをそう触れ回っているのでしょう。ハイカーに「恐怖を覚える」奥多摩の年寄りや四国の山奥の村の騒動を誰も笑えないのです。

その街では、市営温泉の駐車場にやって来る車のナンバーを市の職員がチェックして、県外から来た客の入浴を断っているそうです。平均年収634万2792円の職員たちが毎日、市営温泉の前に立ってそんなことをやっているのです。

私は、その話を聞いて、「国際観光温泉文化都市」を名乗っていたのはどこの誰だと言いたくなりました。でも、もうなりふり構っていられないのでしょう。

田舎では、感染者が出ると、どこの誰だという噂がすぐ流れるのだそうです。さらに、噂には尾ひれが付き、感染者が若い女性だと一時は「阪神の藤浪と合コンした」と言われるのが定番だったとか。「集団ヒステリー」どころか、完全にとち狂っているのです。中世の「魔女狩り」も遠い昔の話ではないのです。

昨日の緊急事態宣言延長に際しての安倍首相の記者会見について、TBS系列の「はやドキ!」でコメンテーターの龍崎孝氏は、安倍首相が言っていることは何が言いたいのかよくわからなかった」「どうしてわからなかったのかと言えば、今までの政府の感染対策が失敗したからです。そして、経済が持たなくなったので、軌道修正することにしたからです。それを認めないで(ごまかそうとするので)、わかりにくい話になるのでしょう」というようなことを言ってました。

でも、今朝の新聞各紙は、そういった視点は皆無です。どこも政府が提唱する「新しい生活様式」なるものを詳細に解説しているだけで、政府の”広報機関“としての役割に徹しているかのようです。

日本だけがいつまで経ってもPCR検査数が極端に少なく(桁違いに少ない)、日本の「独り負け」と言われるほど感染対策が遅れている一因に、メディアのテイタラクがあります。メディアが、「権力の監視(チェック)」という本来の役割を放棄して”大本営発表”を垂れ流すだけなので、無能な政府の場当たり的な対策に国中が振り回されることになっているのです。緊急事態を錦の御旗に、すべてのメディアがフジサンケイグループ化=翼賛化しているのです。

専門家会議の方針は、徳洲会の徳田虎雄氏が指摘したような医者特有のご都合主義の所産に過ぎません。徳田氏が9歳のとき、3歳の弟が激しい下痢と嘔吐を繰り返し脱水症状を起こしたため、母親に言われて、真夜中に島の医者のもとへ走り往診を頼んだけど、医者は腰を上げてくれなかったそうです。そして、翌日、弟は息を引き取ったのです。徳田氏は、「弟の死がなかったら、僕は医者にならなかった」と自著(『ゼロからの出発 実現できない夢はない』)で書いていました。

自分の病院を持ってからは、「生命(いのち)だけは平等だ」という理念を掲げ、1年365日24時間の受入れを実践し、患者からの心付けを断り、差額ベット代も取らないという、徹底した患者本位の医療を貫いたのでした。そのため、既得権益を守ろうとする日本医師会と激しく対立することになったのですが、そのときも日本医師会は、今と同じように、徳洲会のようなやり方をすると日本の医療が崩壊すると言っていたのです。「医療崩壊」というのは、いつの時代も彼らの常套句=脅し文句なのです。

各地の医師会が反対した徳洲会の病院は、「医療崩壊」どころか、今や地域医療の中核を担う病院として、地域の開業医や自治体から高く評価されているのです。それだけでなく、徳洲会は、鹿児島や沖縄の島嶼部に、選挙がらみだという誹謗中傷を浴びながら、次々と「大規模病院」を作り、「多くの人が目を背けてきた離島医療の相当部分を(略)担ってきた」(青木理『トラオ』)のでした。だからこそ、東大や京大などで学生運動を経験した若くて優秀な医師たちが、徳洲会に理想の医療を求めて、政治信条の垣根を越えて集まり、徳洲会の医療の屋台骨を支えたのでした。

今回の新型コロナウイルスでも、専門家会議をはじめ、国の感染対策に日本医師会の意向が強くはたらいているのはたしかです。そして、それが日本の感染対策に遅れをもたらすことになったのではないかという疑念さえ抱かざるを得ません。現に、PCR検査さえ受けることができず自宅で様子を見るように言われて、徳田虎雄氏の弟と同じように、”無念な死”を迎えた患者も多くいるのです。生命も医療も平等ではないのです。

日本のPCR検査が諸外国に比べて極端に少ないのも、保健所を検査の窓口にして、生活保護などと同じように”水際作戦”を行ったからですが、そのために、岡江久美子の例をあげるまでもなく、失われなくてもいい命が失われることになったのです。「医療崩壊」したから犠牲になったのではありません。「医療崩壊を防ぐため」に犠牲になったのです。日本は外国に比べて、検査数も患者数も10分の1以下なのに、「医療崩壊」の懸念だけが声高に叫ばれているのです。しかし、メディアは、「保健所の職員は大変」「身を削って仕事をしている」というような、愚にも付かない情緒的な報道を繰り返すばかりで、問題の本質を見ようとしません。

そんな不条理で狂った世界の中で、個人的に一時(いっとき)の慰めになったのは、ローリングストーンズが6年ぶりにシングルをリリースしたことでした。しかも、新曲は、「Living In A Ghost Town」(ゴーストタウンに生きる)という曲名が示すように今の都市のロックダウンを歌ったものです。

70代半ばの「高齢者」なのに、何とカッコいいんだろうと思います。こんな時代だからこそ、よけいローリングストーンズと同時代に生まれた幸せをしみじみと感じるのでした。

https://youtu.be/LNNPNweSbp8


2020.05.05 Tue l 新型コロナウイルス l top ▲
今日、ロシアで3日、一日の新型コロナウイルス感染者が10633人発生したというニュースがありました。ちなみに、ロシアの感染者数の累計は、134687人で、死者は1280人だそうです。

私は、このニュースを聞いて、語弊があるかもしれませんが、羨ましいなと思いました。一日の感染者が10633人も発生したということは、それだけPCR検査をしているということなのです。日本は一日の検査数が7〜8千くらいなので、一日の感染者数が1万人を越すなど、最初からあり得ないのです。

にもかかわらず、日本のメディアは、ロシアは大変だ、日本はまだマシだみたいな言い方をしています。前には韓国に対しても、アメリカに対しても、イタリアに対しても、フランスに対しても、同じようなことを言っていました。

そのくせ、自粛だけは厳格で、自粛を守らない人間に対するバッシングはエスカレートするばかりです。感染の実態は隠ぺいされ、現在どの程度の感染状況にあるのかさえわからないのに、いつの間にか自粛が自粛でなくなり、自粛が絶対的なもの、破ってはならないものになっているのでした。

それどころか、感染=悪のように言われ、感染者はまるで犯罪者のように指弾されるのでした。四国の村で、感染者が出たという噂が流れたら、村中がパニックになり、どこの誰だと村役場に問合せの電話が殺到したというニュースがありましたが、それは四国の村だけでなく、日本中で大なり小なり見られる光景です。

自粛要請や休業要請は、要請ではなく強制のようになっているのでした。しかし、要請する側は責任を持ちません。雀の涙のような「協力金」で泣き寝入りさせられるだけです。そのため、要請に従った従順な小売店や飲食店は苦境に陥り、破産か自殺かの状態にまで追い詰められているのです。一方で、要請に従わないパチンコ店は、メディアが動員する「オレたちが我慢しているのに、どうしてあいつらだけ勝手なことをしているのか」という世論=“自粛警察”の標的にされ、文字通り非国民扱いされるのです。そうすることで、いっそう自粛が国民を縛る実質的な命令と化すのでした。自粛に従わないパチンコ店に対する“集団リンチ”が、国民に対する無言の圧力になっているのも事実でしょう。

さらには、新宿や渋谷など都心の繁華街から地元の商店街や公園へ、パチンコ店から千葉や湘南の海や奥多摩や丹沢の山へと自粛の網は広げられていったのでした。

メディアは、このゴールデンウイークも、新たな獲物を求めてヘリコプターを飛ばし、今度はゴルフ練習場の様子を空から映して、ここにもパチンコ客と同類の人間たちがいるかのように世論=“自粛警察”を煽っていました。これが「ファシスト的公共」でなくてなんだろうと思います。

先日、朝日新聞は、「『コロナ自警団』はファシズムか 自粛要請が招いた不安」という甲南大学の田野教授のインタビュー記事を掲載していましたが、私は、その記事を読んで「よく言うよ」と思いました。そういった「ファシスト的公共」を招来しているのは、朝日新聞などのメディアなのです。

朝日新聞デジタル
「コロナ自警団」はファシズムか 自粛要請が招いた不安

おととい、朝日新聞は、栃木県の男体山に単独で登山していた男性が道迷いで遭難して、栃木県防災ヘリで救助されたという記事を掲載していました。

朝日新聞デジタル
入山禁止の栃木の山で遭難 川崎の25歳、ヘリで救出

如何にも「ここにも自粛破りの不心得者がいるぞ」という感じの記事です。案の定、記事はYahoo!ニュースに転載され、ネットの「コロナ自警団」の恰好の餌食になったのでした。

先月の25日には、八ヶ岳で遭難した男性を長野県警の防災ヘリが救助したものの、男性が新型コロナウイルスの感染の疑いが発覚したため、救助した隊員10人が一時自宅待機になったというニュースがありました。これもネットで「それ見たことか」と拡散され炎上したのでした。

男性はその後陰性とわかったそうですが、どうして感染の疑いが持たれたのか、不可解な点も多いのです。ところが、このニュースが、野口健をはじめ登山家や、山岳団体や山関連の商業メディアなどが登山自粛を呼びかける格好の口実になっているのでした。

私は、別に山に行きたいから言うのではありませんが、こういった事故はとりたてて取り上げるほどもない普段でも「よくある話」です。今の状況でも、交通事故だってあるでしょう。公園で遊んでいたり、ジョギングをしていて怪我をすることだってあるでしょう。それで、新型コロナウイルスの対応で忙殺されている医療機関に迷惑をかけるという言い方は、単なる言いがかり、こじつけとしか思えません。特殊な事例を針小棒大に言い立てて、私権制限の口実にするのは、ファシスト的権力の常套手段です。

25日の週末には、北アルプスや八ヶ岳の登山口で、長野県の関係者が入山者をチェックしていたそうですが、そういった地元自治体の“検問”と遭難者に感染の疑いがかけられたことは、何か関係があるのではないか。そんな穿った見方をしたくなります。遭難した男性が一罰百戒のスケープゴートにされたということは、ホントにないのでしょうか。

男体山の記事では、「登山禁止の山に登った」というような書き方をしていましたが、登山自粛がいつの間にか「登山禁止」になっているのです。こういったニュースは、まさに休業要請に従わないパチンコ店に対する“集団リンチ”と同じ手法です。

そもそも私は、どうして「密」とは対極にある登山が「禁止」なのか、未だに理解できません。まして、私は、このブログを読んで貰えるとわかりますが、人の多い山を避けてひとりで山を歩くのが好きな、もともと「密」とは無縁な人間なので、よけい理解に苦しむのです。山に行くのに利用する電車やバスが「密」になると言いますが、それは週末のホリデー快速おくたま号のような話で、平日の下り電車は上りの通勤電車などに比べればはるかにマシです。「密」にならないように、個人個人が気を付ければいいだけの話です。それも言いがかり、こじつけとしか思えません。

いちいち取り上げるのもバカバカしいのですが、ネットには、登山道で「こんにちわ」と挨拶する際に唾が飛ぶので危険だというような書き込みがありました。メディアや登山家や山岳団体が言う「登山禁止」の理由も、そんなネットのおバカな書き込みと大して変わりがないのです。

公園やスーパーに行くより山の方がどう見ても「安全」です。商店街を歩くより山の中を歩く方がはるかに「安心」でしょう。相部屋が常識で、混んでいるとひとつの布団を複数で使用するような山小屋が「密」であるのは事実ですが(だから山小屋には泊まりたくない)、山小屋はとっくに休業していますので、「密」な山小屋は利用しようにも利用できないのです。

ましてや、近場の奥多摩や丹沢にハイキングに行くのに何の問題があるというのでしょうか。地元の自治体が駐車場を閉鎖したり登山口を通行止めにしてハイカーを締め出すのは、異常と言うしかありません。ホリエモンならずとも「集団ヒステリー」ではないかと言いたくなります。麓の町の年寄りが「恐怖を覚える」というのも、自治体やメディアが年寄りの無知に付け込みそう仕向けているだけです。「恐怖」を与えているのは、ハイカーではなく自治体やメディアなのです。

野口健のような登山家や山岳団体などが、国家の要請に無定見に従って、「登山禁止」の世論作りに手を貸しているのもまったく理解できません。彼らはネットの“自粛警察”と同じで、ただお上の言うことに従うという意識しかなく、それ以外は何も考えてないのでしょう。要するに、みんなが自粛しているので自粛すべきだと言っているだけです。「山屋」(野口健)だなんて片腹痛いのです。登山愛好家は、獅子身中の虫である彼らに対して、もっと怒りの声を上げるべきでしょう。

エベレストに登ったからと言って、登山愛好家を代表するようなもの言いはやめて貰いたいと思います。竹中労は、「分をわきまえず偉ぶる芸人」は嫌いだと言ったのですが、「分をわきまえず偉ぶる登山家」は迷惑なだけです。

新型コロナウイルスが私たちに突き付けているのは、自由か独裁かという古くて新しい問題です。「やっぱり自由は尊い」「自由であることは幸せなことだ」と考えるのか、それとも「やっぱり強制が必要だ」「専制的な権力の方が効率がいい」と考えるのか、今、私たちは、民主主義に対する見識を問われているのです。
2020.05.04 Mon l 新型コロナウイルス l top ▲
案の定と言うべきか、緊急事態宣言が延長されることがほぼ決定しました。今日開かれる専門家会議(新型コロナウイルス感染症対策専門家会議)が、あと1ヶ月延長するという政府の方針に沿った提言を出すのは間違いありません。そういった型どおりの“お墨付き”を得て、週明けに安倍首相が正式に発表する予定だそうです。治療法もワクチンもない中で「集団免疫」を獲得するには、経済活動を止め、社会的に多大な犠牲を強いて、時間稼ぎをするしかないのでしょう。

しかし、何度も言いますが、「不要不急の外出を控えて、人との接触を8割減らす」と言っても、それで新型コロナウイルスの感染が終息するわけではないのです。メディアもそういう幻想を振り撒いていますが、それが終息とは別の話だということくらいシロウトでもわかります。

人口の60%だか70%だか、それ以上だかわかりませんが、多くの人たちに抗体ができて「集団免疫」を獲得し、ウイルスと共生の道を歩みはじめなければ終息したことにはならないのです。言うまでもなく、抗体はウイルスに感染して初めてできます。当然、それには死や重症化のリスクが伴います。感染しないで(疑似感染で)抗体を作るには、ワクチンしかありません。

政府や専門家会議が言う「不要不急の外出を控えて、人との接触を8割減らす」という感染防止策は、如何にももっともらしい数理モデルで装飾されていますが、しかし、なんと原始的でなんとまわりくどくいやり方なんだろうと思います。昨日までAIだとかビッグデータだとか顔認証だとか電子政府だとか自動運転だとか言って、デジタル万能の“バラ色の未来”を語っていたのがウソのようです。

そもそもまともにPCR検査もせず市中感染率さえ把握していない状態で数理モデルなど成り立つのか。ホントに「人との接触を8割減らす」ことなど可能なのか。もしかしたら、私たちは、充分な科学的な検証がなされてない”トンデモ科学“のようなもので、多大な犠牲を強いられているのではないか。シロウトながら疑問は尽きません。

1億分の1メートル(つまり、100億分の1センチ)の微細な、細胞さえ持たない(従って自己増殖もできない)、生物と非生物の間にあるようなウイルスに、生物の最上位にいたはずの私たち人類は翻弄され、生存を脅かされているのです。AIもビッグデータもなんの役にも立たないのです。これが自然のシッペ返しでなくてなんだろうと思います。

前も書きましたが、休業要請に従って休業した店の貼り紙には、「5月6日まで」とか「当分の間」という表現が多くありました。

緊急事態宣言を真に受けたということもあるでしょうが、それだけでなく、そこには「そうあってほしい」という願望も込められていたに違いありません。

昨夜のニュースで言っていましたが、どこかのシンクタンクが行った「自己資金はどのくらい持ちこたえられるか?」というアンケートによれば、「1か月」と「2ヶ月」と答えた企業が、全体の20%弱もいたそうです。つまり、20%弱の企業は、緊急事態宣言の延長で倒産の危機に立たされる可能性があるのです。もっとも、アンケートには大企業も含まれていますので、中小企業に限定すれば、さらに割合は高くなるでしょう。まして、個人経営の店などは、いつ立ち行かなくなってもおかしくないほどに追いつめられているはずです。

もちろん、地方と東京など都市部では、事情が違うのは言うまでもありません。いちばんの違いは家賃です。家賃があるかどうか、また、家賃の金額によっても、深刻の度合いには大きな差があるはずです。東京都内で、高い家賃を払って商売をしていた個人商店が、これからさらに1ヶ月、持ちこたえて行くのは至難の業ではないでしょうか。

それに、1ヶ月後に緊急事態宣言が解除されたとしても、「集団免疫」が獲得されてない限り、第二波・第三波の感染爆発に見舞われるのは明らかなのです。あと1ヶ月で終わるわけではないのです。

10万円の個人給付も然りです。給料も下がっていないサラリーマン家庭は、家族分も含めて30万円も40万円も”臨時ボーナス“を貰えるので「ラッキー!」という感じでしょう。一方で、都会のアパートでひとり暮らしをしながら、非正規の仕事で糊口を凌いでいるような人たちは、10万円なんて家賃の支払いですぐ消えていくでしょう。食費だけでなく家賃も貧困のバロメータなのです。都会に住んでいる下層の人間ほど、家賃の負担が大きく、生活に重くのしかかっているのです。

10万円の「特別定額給付金」の支給を含む補正予算が30日に成立したことに伴い、青森かどこかの町で、さっそく10万円の給付が行われたというニュースがありましたが、その中で町の職員から10万円の現金を受け取ったお年寄りは、テレビカメラの前で、「ありがたいです。年金の支給が来月なので、助かります」と言っていました。

私も田舎の出身なのでわかるのですが、田舎の生活は家賃がいらないし、物価も安いので、10万円もあれば、年寄りが2ヶ月くらい暮らすことも不可能ではありません。でも、都会だとそうはいきません。田舎であれば低年金でもなんとか生きていけますが、東京などでは行政からの援助がなければとても生きていけません。

与野党が一致して求めた「一律給付」は、ポピュリズム政治の最たるものと言わざるを得ません。今求められているのは、収入が下がってなくて、そんなに大きな打撃を受けてない人たちは我慢して、その分を給料が下がったり職を失ったり、売り上げが落ちて苦境に陥ったりしている人たちにまわすという、相互扶助の考えでしょう。それを主張する政党がいない現実には失望感しか覚えません。

新型コロナウイルスによって、いろんな人の本性や本音があきらかになった気がします。リベラルだと思われていた政治家や知識人が、実は薄っぺらなリベラル思想しか持ってなくて、なんのためらいもなく“自粛厨”に変身していく姿を、嫌と言うほど見せつけられました。彼らが語っていた自由や平等や平和もGoogleやアップルの信奉者が言う“バラ色の未来”と同じような、独りよがりで空疎な観念の産物にすぎなかったということなのでしょう。
2020.05.01 Fri l 新型コロナウイルス l top ▲