東京では、新型コロナウイルスの「新規感染者」が4日連続で50人以上記録し、なんらかの規制が必要ではないかという声も出はじめています。

と言っても、その多くは無症状か軽症の市中感染者です。トランプではないですが、検査数が増えればそれだけ感染者が増える(市中感染者が確認される)のは当たり前です。逆に言えば、検査数をコントロールすれば、「新規感染者数」もコントロールできるのです。「新規感染者数」に政治的な思惑が含まれているのではないかと考えるのは、一概に穿ちすぎとは言えないのです。私たちは、「新規感染者数」の推移をもっと冷静に見る必要があるでしょう。

病院に行くと、待合室の椅子にはひとり置きに✕印が付けられ、隣の人と「密」にならないように対策が取られています。飲食店などもそうです。今は飛行機の座席もひとつづつ空けているそうです。

ところが、その一方で、通勤電車は相変わらずギューギュー詰めで座っています。それどころか、まるでそれがサラリーマンの習性であるかのように、「密」な座席を奪い合う”椅子取り合戦“が繰り広げられているのです。緊急事態宣言が解除され乗客が増えたことにより、「電車の座席に座ることが人生の目的のような人々」の恥も外聞もない行動が否が応でも目に付くのでした。

そのくせ、そんな人間に限って、街頭でマイクを向けられると、「緊急事態宣言が解除されて街や電車の中に人が多くなり怖いですね」などと利いた風なことを言うのです。

先週の日曜日の夜に久しぶりに渋谷に行きましたが、酔っ払って千鳥足で歩いている若者たちのグループが多くありました。そのほとんどはマスクも付けていません。若者たちは、つばきが飛ぶのも構わず大声でバカ話をしながら、通りを我が物顔で歩いてました。

病院や飲食店やスーパーや、あるいはレジャー施設などが感染防止策に苦慮する一方で、通勤電車や街中ではまるでそれを嘲笑うかのような無防備な光景が存在しているのです。

私は、せめてマスクくらいしろよと言いたくなりました。私たちは、そんな無防備な人たちとなるべく接触しないように自己防衛しなければならないのです。と同時に、マスクや手洗いなどの最低限の自己管理を行わなければならないのです。それは、休業要請や外出自粛や移動自粛といった「ファシスト的公共性」とは別の話です。

少し前の「パチンコ店」と同じように、今度は「新宿」「夜の街」が小池都知事の“仮想敵”になっていますが、でも肝心要の通勤電車は放置されたままです。「感染経路不明」のケースが多いとか言われていますが、通勤電車の中で感染すれば「不明」になるのは当然でしょう。

新宿のホストたちを集中的に検査するのなら、その前に、30歳以下の若者と、通勤電車を利用するサラリーマンやOLたちを集中的に検査すべきでしょう。その方が、モグラ叩きのようなクラスター対策よりよほど意味があるように思います。そうすれば、「感染経路」云々が、如何に木を見て森を見ない話であるかがわかるはずです。

歩きスマホも同じですが、世の中には一定数の無知で無神経な「どうしうようもない」人間たちが必ず存在します。しかも、「ファシスト的公共性」にとって、そんな人間たちがむしろ必要とされていることも忘れてはならないのです。何故なら、プロパガンダのためには彼らは都合がいいからです。

個人のオツムと意識の問題であるにもかかわらず、まるで全体責任であるかのようにシステムの問題へと転化され、「ファシスト的公共」の口実にされるのです。「新宿」「夜の街」などというワンフレーズには、くれぐれも注意すべきでしょう。それより、どうして「密」の象徴のような通勤電車が放置され、見て見ぬふりをされているのか。そのことを何度もくり返しくり返し言わねばならないのです。
2020.06.30 Tue l 新型コロナウイルス l top ▲
池袋駅~西武秩父駅~三峯神社駐車場~【霧藻ヶ峰】~三峯神社駐車場~西武秩父駅~東飯能駅~八王子駅~菊名駅

※山行時間:約4時間(休憩含む)
※山行距離:約8キロ
※標高差:437m
※山行歩数:約19,000歩


おととい(25日)、奥秩父の霧藻ヶ峰に登りました。

前夜、山に行く準備をしたものの、どこの山に行くかはまだ決まっていませんでした。そして、布団に入ってあれこれ思案していたとき、「そうだ、この前行けなかった霧藻ヶ峰に行こう」と思い立ったのでした。

霧藻ヶ峰は、三峯神社から雲取山に行く三峯ルートの途中にあるピークです。三峯ルートは、片道だけで10キロ強の長丁場ですが、霧藻ケ峰は、三峯神社から歩いて3分の1くらいのところにあります。

三峯神社の奥の院の妙法ヶ岳に登った際、前方に雲取山に向かう稜線が見渡せたのですが、その稜線の下に林道が走っていてトンネルがあることに気付きました。私は、埼玉に住んでいた頃、秩父の峠道もよく車で走ったのですが、その林道とトンネルは走ったことがありませんでした。霧藻ヶ峰は、トンネルの上の稜線を歩いた先にあります。地図を見ていたら、ふと、妙法ヶ岳から見た風景を思い出し、あの稜線を歩いてみようと思ったのでした。

池袋駅から6時50分発特急ちちぶ3号で西武秩父に行きました。秩父駅からは9時10分発の三峯神社行きのバスに乗り、三峯神社の駐車場に着いたのは10時半前でした。バスには、10人くらい乗っていました。その中でハイカーは4人だけでした。

秩父駅では雨が降っていましたが、三峯神社に登ると雨は上がっていました。ただ、一面濃い霧に覆われており、バスから降りたハイカーのおばさんは、「これじゃ何も見えないよ」と連れのおばさんに嘆いていました。

駐車場からは、三峯神社とは反対の方向の妙法ヶ岳に登ったときと同じ道を歩きます。しかし、反対の方向に歩き出したのは私だけでした。他のハイカーはどこに行ったんだろうと思いました。

二つ目の鳥居で、妙法ヶ岳方面と霧藻ヶ峰・雲取山方面の道が分岐します。霧藻ヶ峰は、鳥居をくぐらずに右手に進みます。登山道は、途中まで緩やかな登りですが、ずっと樹林帯の中を歩かなければなりません。それに、森の中も霧が立ち込めているので、幻想的と言えばそう言えますが、薄暗くまったく見通しがききません。しかも、少し登ると、急に雨が降りはじめました。あわててレインウエアを着て、カメラにも雨用のカバーを付けました。レインウェアを着たので、汗がいっそう噴き出し、雨粒と混ざって首筋からタラタラとしたたり落ちていました。

今回は、心拍数が上がらないように、「ゆっくり」「ゆっくり」と自分に言い聞かせながら歩きました。特に、平坦な道では、努めてゆっくり歩くようにしました。平坦だと(時間を稼ぐために)どうしても急ぎ足になりがちですが、とどのつまりそれは次の登りのためのエネルギーを浪費することになるのです。そのため、登りになった途端、心拍数が上がって足が進まなくなってしまうのです。

霧藻ヶ峰は標高1523メートルですが、三峯神社との標高差は400メートルちょっとしかなく、山行時間も短いので、ほとんど休憩を取らずに最後まで登ることができました。ただ、こんなユルユルの登山をすると、一方で、何か手抜きをしたような後ろめたさを抱くのも事実です。

妙法ヶ岳と分岐する手前で、三峯神社の奥の院(妙法ヶ岳)から下りてきた4人の家族連れとおぼしき人達とすれ違った以外、上りも下りも誰とも会いませんでした。

三角点のある霧藻ヶ峰の山頂?は、植生を守るためか、ロープが張られて「立ち入り禁止」になっていました。しかし、山ではよくある話ですが、「立ち入り禁止」の札が外され、明らかに立ち入った形跡が見られました。

何度も言いますが、山ではすれ違うときに「にんにちわ」と挨拶するので、山に来る人間は如何にも“善人”のように思われますが(登山者性善説?)、実際は下界と同じなのです。マナーの悪い人間はいくらでもいるし、泥棒だっています。下界の人間が登って来るのですから、そんなに”善人”がいるわけないのです。

前の記事でも書きましたが、昔のように明るい道を歩いて、ときどき立ち止まっては、目の前の風景に心の中で感嘆の声をあげながらしばらく見入るような、ゆったりした気持で山に登ることは、もう叶わなくなったのです。「非日常性」とか「ストレスの解消」とか、そういったものを求める気持も希薄になっているのかもしれません。たしかに、樹林帯の中をただ下を向いて歩くだけの今の登山では、ゆったりした気持を持てるわけがないのです。

トレランの影響なのかどうか知らないけど、地図のコースタイムと競争しているような、文字通り下界の論理をそのまま持ち込んだような登山者に、マナーを求めるのはないものねだりの子守唄(懐かしの中原理恵「東京ららばい」)なのかもしれません。

山頂から10分くらい下ると、大きな岩に秩父宮夫妻のレリーフがありました。その先には、霧藻ヶ峰休憩所とベンチがありました。休憩所は、平日は閉鎖され、週末だけ小屋番が来て開けているそうです。

私は知らなかったのですが、霧藻ヶ峰という山名は、昭和の初めに秩父宮によって命名されたのだそうです。それまでは黒岩山と言われていたとか。ここにもやむごとなき登山の痕跡が存在するのでした。まるで神様のような扱いですが、それと「自立した登山者であれ」という登山が持つ”自主自立の精神”は、どう折り合いを付けているんだろうと思いました。

日頃、登山者に対して、しかめっ面で偉そうな態度の小屋のオヤジが、皇族が来たら別人のようにヘラコラして、皇族が来たことを殊更アピールする。それは、会社の上司にも見られる如何にも日本人的な”二面性”と言えるのかもしれません。そんな嫌な光景を想像しました。

妙法ヶ岳のときも書きましたが、秩父と言えば秩父困民党のことを思い出さないわけにはいきません。生糸価格の下落によって生活に窮した秩父の自由党員たちが秩父困民党を組織して武装蜂起し、秩父に「臨時革命政府」を樹立して、明治政府と対峙したのでした。そして、革命を鎮圧せんとする天皇制国家の武装警察や憲兵隊との間で、奥秩父や上武(今の埼玉北部や群馬南部)の山域でゲリラ戦を展開したのでした。

奥多摩もそうですが、秩父でも峠道を人々は自由に行き来していたのです。生活物資だけでなく、自由民権思想などの文物も峠を越えて流通していたのです。

秩父在住の高校の先生で、登山家であり秩父事件の研究者でもある安谷修(ハンドルネーム)氏は、自身のサイトに掲載した「秩父山地の歴史と文化」という文章の中で、秩父事件について、次のように書いていました。

1882年ごろから、政府によるデフレ誘導政策によって、生糸など農産物の価格が暴落し、養蚕地帯では、人々の暮らしは破滅に瀕していた。そうした中で自由党員によって組織された人々が「秩父困民党」を名乗り、専制政府打倒をめざして武装蜂起したのである。秩父地方は困民党によって制圧され、秩父郡役所には革命本部がおかれた。
 政府は警察だけでなく、陸軍の東京・高崎鎮台兵、憲兵隊を動員して秩父地方を包囲し、事件の鎮圧をはかった。困民党軍は、熊谷・川越方面への出口にあたる三沢村(現在皆野町)の粥仁田峠で警官隊と衝突し、本庄方面への出口にあたる金屋村(現在児玉町)で東京鎮台兵と銃撃戦の末敗北したが、軍を立て直して藤倉村(現在小鹿野町)の屋久峠を越えて群馬県に逃れ、さらに十石峠を越えて長野県佐久地方に進出した。困民党軍が壊滅したのは11月9日、東馬流(現在小海町)における高崎鎮台兵との銃撃戦及び海ノ口(現在南牧村)での銃撃戦においてである。
 ゲリラ戦や組織化の過程では、城峰山を主峰とする上武山地の山々が主舞台となった。ここには、秩父と群馬県の各集落を結ぶ、多くの峠道がある。平地では陸軍の圧倒的な火力に敗北したが、網の目のように張りめぐらされた峠道では、困民党が自在なゲリラ戦によって、警官隊を翻弄した。この中には廃道も多いが、現在なお使われている道もある。
 秩父事件の舞台は、ここ秩父の里山からじつに長野県八ヶ岳山麓までを含む、広大な山岳地帯なのであるが、秩父事件の話はここで終わるわけではない。 蜂起の際の最高指導者田代栄助は、秩父市を見下ろす武甲山に潜伏の後とらえられた。長野への転戦の指導者、北相木村の菊池貫平は、故郷の名山である御座山に潜伏の後、甲府へ逃れた。秩父事件の発起人のひとり落合寅市は、いったんは高知県に逃亡した後、雁坂峠を越えて秩父に戻ってきた。

山と渓ときのこと酒と
秩父山地の歴史と文化
http://www.yasutani.com/prof/titibun.htm


私たちは、現在、その峠道の一部を登山道としてザックを背負って歩いているのです。

ちなみに、現天皇(浩宮)は、雲取山には3度登っています。三頭山と雲取山は、やむごとなき登山の”聖地”と言っていいのかも知れません。

嘘かホントか、現天皇のやむごとなき登山に際して、雲取山の避難小屋が新しく建て替えられたのだとか。真偽はともかく、その手の話は珍しくありません。檜原村にある6千万円をかけた総ヒノキ造りのトイレといい、三頭山の避難小屋や遊歩道といい、我々下々のハイカーは、(主権在民の世の中であるにもかかわらず)やむごとなき登山のおこぼれを頂戴して喜んでいるのです。


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歩きはじめの道も霧が立ち込めていました。

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最初の鳥居。鳥居をくぐって進むのですが、間違えて右へ行ってしまいました。

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よく間違える人がいるみたいで、このような警告板がありました。

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二つ目の鳥居。ここから右へ分岐します。

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道標(指導標)を確認。

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樹林帯の中も濃い霧。

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炭窯跡。私の祖父も自家用の炭を焼いていたことがあり、小学生のとき、一度だけ炭俵を背負子で担いで家まで運んだことがあります。きついというより恥ずかしかったので、二度とやりませんでした。

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炭窯跡。

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雨も上がり、明るくなってきた。

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季節柄、登山道にヒキガエルがやたら出ていました。行きと帰りに4匹遭遇した。私たちは、子どもの頃、ヒキガエルを「バッコン」と呼んでいました。

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光が差し込むと、幻想的と言えないこともない。

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地蔵峠に到着。道標。

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地蔵菩薩。

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霧藻ヶ峰まで300メートル。

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表札が逆光で見えにくい。

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道を上下すると、小高い上にトイレ。

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さらに進むと、大岩にレリーフ。ここで山開きが行われるらしい。

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記念碑とレリーフの案内板。

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レリーフの岩をまわると休憩所の建物があった。

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休憩所前のベンチ。ここで持参したコンビニのおにぎりを食べた。

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霧藻ヶ峰休憩所(看板は「休憩舎」)の全景。

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休憩所の前はまぶしいくらいの新緑に覆われていた。空が晴れて陽が差してきたので、汗と雨でぬれたTシャツをベンチの上に広げて干したら、すぐ乾いた。

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雲取山へ行くには、休憩所の前を通って、お清平に下ります(ここから白岩山に向けてきつい上り下りがあるらしい)。

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帰りにレリーフを撮り直した。

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三角点。

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三角点からも真っ白で眺望はなし。晴れていれば、三峯神社の方向が見えるそうです。

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地蔵峠の表札も、あらためて撮り直しました。

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登山口に近づくと、また霧。
2020.06.26 Fri l l top ▲
奥多摩の奥の方の山に行きたいなと思います。いわゆる公共交通機関を利用した日帰り登山だと、どうしても行く山が限られてしまいます。同じ日帰りでも、早朝から登ればもっと行く山の範囲が広がるのですが、このブログでも書いているように、横浜の自宅から早朝5時すぎの始発電車に乗っても、実際に山に入ることができるのは早くて8時すぎ、奥の方だと9時半すぎになってしまいます。

公共交通機関を利用した日帰り登山では、(人が多くて意識的に避けている山を除いて)登ることのできる山はもうほとんど登ったと言っていいかもしれません。それで、昔みたいに前泊しようかなと思っています。奥多摩駅の近くに前泊すれば、6時ちょっと過ぎの始発のバスに乗ることができるのです。あるいは、山小屋に泊まって1泊2日で山行するか、どっちかでしょう。

私の田舎でもそうでしたが、昔は今のように車で日帰り登山という発想がなかったし、道路事情も悪く公共交通機関(バス)も便利ではなかったので、山に登るときは前泊するのが当たり前でした。奥多摩でも、奥多摩駅(昔は氷川駅)の近くの日原川沿いに、始発のバスに乗る登山者ご用達の山小屋(旅館)があったそうです。

調べると、私と同じように考えているハイカーがいるみたいで、奥多摩駅の近くにハイカーがよく利用する格安の民宿がありました(おせいじにもキレイだとは言えないと書いていたけど)。

私も子どもの頃、近所の旅館に泊まったハイカー達が早朝薄暗いうちから登山口に向かって歩いて行く姿を見たことがあります。大きなリュックを背負い、列を作ってやや前かがみになりながら、黙々と歩を進めて行くそのうしろ姿が、子ども心にとても印象的でした。

前も書きましたが、我が家は一時、本業とは別にアイスキャンデー屋(つまり、アイスクリームの製造販売)をやっていたことがあり、そのときは夏の登山シーズンになると、山の中腹の休憩場所でアイスキャンデーを売っていました。休憩場所までは馬で運んでいたそうです。

先日、丸山で会った高齢のハイカーの方から、昔の奥多摩の山の話を聞いたら、ますます昔の奥多摩を知りたいと思いました。それで、昔の奥多摩を写した写真がないかと思ってネットを検索したら、下記のサイトが見つかりました。

ロッジ山旅
横山厚夫さんのちょっと昔の山
http://yamatabi.info/yokoyamaindex.html#y1

これは、横山厚夫さんという登山家の方が撮った写真を、山梨県北斗市の「ロッジ山旅」というロッジのオーナーが、みずからのサイトに掲載して公開したものです。こういった写真を公開して残すというのはホントに貴重なことだと思います。

私は、ここに掲載された半世紀前の写真を見ていたら、同じ登山でも今と昔とでは全然違うことを痛感させられました。それは、今、山に登りながずっと抱いている違和感につながるものです。

たとえば、先日登った川苔山の写真などが一目瞭然です。

http://yamatabi.info/yokoyamaq3.html

1963年と言いますから、57年前の川苔山です。今と比べると、同じ山とは思えません。同じ尾根でも、その眺望はまったく違います。今のように植林が行われていなかったので、奥多摩の山の上の方はカヤトが多く、明るい道だったのです。真ん中の写真には、説明にもあるとおり、山頂下の東の肩にあった売店の建物が写っています。今の東の肩は樹林帯を登った上に忽然と現れる休憩場所といった感じですが、昔は遠くからも目印になるような開けた尾根の上にあったのです。

いちばん下の獅子口小屋の写真ですが、丸山で会った高齢のハイカーが話していたのは、この獅子口小屋のことかも知れません。一度、小屋跡を訪ねてみたいけど、獅子口小屋跡に行く大丹波川沿いの林道が台風19号の後遺症で通行止めになっているため、今は行くことができません(昨秋の台風19号の奥多摩の被害は甚大で、今も多くの登山道が通行止めになっています)。

昔の登山道は、このように開けた明るい道が多かったのです。特に尾根道はそうでした。

私の田舎は、家の外に出ると、いつも背後に久住連山(「くじゅう連山」「九重連山」というのは最近の呼び方で間違い)が聳えていましたが、三つの山の中でいちばん右手にあった黒岳だけが登山者が少なく人気がありませんでした。どうしてかと言えば、黒岳は原生林に覆われた山で、見通しが悪く登山道が暗かったからです。

昔の登山は、眺望が開けた明るい道を歩くのが普通だったのです。ちなみに、私の田舎の山は植林が行われてないので、今でも昔と変わらない山相が保たれています。

下記の「三国峠、浅間峠」は、ちょうど自粛前の4月に生藤山から笹尾根を歩いて浅間峠を降りたときとまったく同じコースの写真です。

http://yamatabi.info/yokoyamaq1.html

こんなに眺望が開けていたとは信じられないくらいです。途中の熊倉山も「周りの木が育って眺めは少ない」と書いていますが、今と比べると全然明るくて眺望にめぐまれています。

下記の「三国峠越え」のいちばん上の写真は、佐野川峠から甘草水を経て三国峠(三国山)までの桜並木の写真だと思われますが、今は植林されたまま放置された樹木に覆われ(しかも、桜の木の多くは病気で花も咲いてない)、まったく違った風景になっています。

http://yamatabi.info/yokoyamaq49.html

御前山も、今は眺望が少ない暗い(地味な)山になっていますが、昔はカヤトと笹の多い明るい山だったことがわかります。

http://yamatabi.info/yokoyamaq15.html

今、奥多摩の山を歩いていると、登りの多くは樹林帯の中の暗い道を歩かねばなりません。眺望もないので、ただ下を向いて歩くだけの苦行のような山登りを強いられるのです。それでは、コースタイムに対して何分速いとか遅いとか、地図のコースタイムと競争しているような、何のために山に登っているのかわからない軽薄な登山者が多くなったのは当然かもしれません。

私は、横山厚夫さんの写真を見て、「そうだったよな、昔の山は明るかったよな~」としみじみ思い、しばし昔を(子どもの頃を)懐かしんだのでした。
2020.06.24 Wed l l top ▲
池袋駅~飯能駅~芦ヶ久保駅~【丸山】~芦ヶ久保駅~東飯能駅~八王子駅~菊名駅

※山行時間:約6時間(休憩含む)
※山行距離:約9キロ
※標高差:658m
※山行歩行数:約21,000歩


おととい(17日)、奥武蔵(注:埼玉の山域)の丸山に登りました。去年の9月にも登っていますので、10ヶ月ぶり2度目です。登りは前回と同じ西武秩父線の芦ヶ久保駅から登りました。下りは前回は大野峠を経由して赤谷という集落に降りたのですが、今回は登りと同じルートをピストンしました。

朝の西武秩父線の電車は、平日にもかかわらずハイカーの姿が目立ちました。自粛前と比べても、むしろ多いくらいでした。ただ、さすがに団体はいませんでした。

平日ということもあって、ハイカーの大半は中高年です。と言うか、高齢者が目立ちました。飯能駅で西武秩父線の電車を待っていたら、ホームで「ちびくろサンバ」のバターになった虎のように、ベンチの周りをぐるぐる回っていた夫婦とおぼしき高齢のハイカーがいました。山歩きの準備運動をしていたのでしょう。また、電車の中でも、芦ヶ久保のひとつ手前の正丸峠が近づいてくると、やにわに立ち上がってストレッチをはじめたお爺さんもいました。新型コロナウイルス対策なのか、覆面にサングラスの月光仮面のような恰好をした男性もいました。山に行くのは変わった人間が多いと言われますが(私もそのひとり?)、自粛明けでいっきに奇人変人が姿を現したという感じでした。

芦ヶ久保駅で一緒になった72歳の男性と途中まで一緒に歩きました。若い頃山に登っていたものの中断し、70歳をすぎてから再び山に行き出したそうです。再開してまだ1年ということでしたので、私とほぼ同じです。

やはり、人がいない山をひとりで歩くのが好きだと言ってました。丸山は初めてだと言うので、登山口まで案内する格好になり、それからしばらく一緒に歩きました。しかし、自分のペースで歩けないので、いつもより息が上がって調子が狂ってしまいました。もっとも、丸山自体も、標高差(高低差)は650メートルで、登りの累計標高差も1000メートルもなく、登山道も奥多摩の山に比べて全然登りやすいにもかかわらず、なぜか地味にきつい山なのです。

そのため、幸か不幸か、途中から遅れはじめて、完全に置いて行かれました。それどころか、あとから来た5~6人からも追い抜かれました。山頂に上がって、話をしたら、追い抜いて行った人たちもみんな70代でした。なんだか自分が情けなくなりました。

途中で何度も心拍数をはかりましたが、160まで上がっていました。年齢からすれば「非常にきつい」状態で、それでは足を止めたくなるのも当然です。70代の老人たちから「160は上がりすぎですよ」「普通は130くらいですよ」と言われました。下りのときにはかったら130でした。たしかに、130だったら普通に歩けるのです。

前回と比べたら、山行時間はほとんど同じでした。前回はストックを使わなかったのですが、今回はストックを使って登りました。それでも変わらなかったのです。この10ヶ月間山に行っても、まったく進歩がないのです。愕然とはしなかったものの、少し落ち込みました。

たしかに、日常においても、体力が付いたという認識はありません。駅の階段を上るときも、相変わらず息が上がりますし、電車を途中で降りて3つくらいの駅間をよく歩くのですが、前となにか変わったかと言えば、そんなに変わったようには思えません。年齢を経ると他人より歩くのがめっきり遅くなりましたが、ときどき他人に合わせて急ぎ足で歩くとすぐ筋肉痛になります。

そんな話をしたら、山頂で会った老人たちから「そうですかぁ」と怪訝な顔をされました。みんなは、山に来るようになって「体力が付いた」という自覚があるそうです。

心拍数についてネットで調べると、運動時に心拍数が上がること自体は悪いことではなく、むしろ、安静時の心拍数の方が重要だそうです。安静時に心拍数が高いと問題なのだとか。また、運動中も、休むとすぐ心拍数が下がれば特段問題はないと書いていました。心筋梗塞を発症するようなケースでは、安静時の心拍数が高く、且つ運動しても心拍数があまり上がらないのだそうです。

私の場合、安静時の心拍数はそんなに高くなく「普通」です。山に登ると、160くらいまでいっきに上がりますが、足を休めると130まですぐ下がりますので、それも問題があるとは思えません。

心拍数が上がりやすいというのは、それだけ体力がない証拠なのかもしれませんが、だったら1年近く山に行っているのにどうして体力が付かないのかと思います。心拍数が上がりやすいというのは、心肺能力自体に問題があるのか、それとも体力がないからなのか、なんだかニワトリと卵のような話ですが、それを知りたいと思いました。

それで、帰った夜に、さっそく通販でパルスオキシメーターを注文しました。これからは、山に行くときはパルスオキシメーターを持って、登山中も心拍数だけでなく血中酸素濃度もはかろうと思っています。

丸山の山頂でも何人かの”月光仮面のおじさん”がいました。山頂標識の前でスマホで写真を撮ってほしいと言われたので(スマホを差し出しながら「写メをお願いします」と言っていた)、「仮面を取らなくていいんですか?」と皮肉を言ったら、「いいんです」と言ってました。

「写メ」を撮った”月光仮面のおじさん”は74歳とかで、昔の秩父や奥多摩の山の話をしていました。ソーシャルディスタンスで2メートル以上離れて立ち、しかもマスクをして喋るので山の名前がよく聞き取れなかったのですが、「〇〇山にも50年前は山小屋があったんですよ」などと言ってました。

山小屋だけでなく、昔は奥多摩の御前山や川苔山や本仁田山の山頂には売店もあったという話を聞いたことがあります。地元の人がジュースなどを売っていたそうです。御前山の山頂の粗末な小屋の前で、割烹着姿のおばんさんが接客している写真をネットで見たこともあります。

昔は今のようにコンビニもないし、ましてや道の駅もなく、マイカーによる日帰り登山も少なったので、登山客の便宜をはかるために、売店や山小屋が至るところにあったのでしょう。登山口の周辺でも、地元の人が営む売店や食堂があったみたいで、今もその名残りを見ることができます。もちろん、ハイカーも今とは桁違いに多かったのです。前も書きましたが、1969年に西武線が秩父まで延伸する前までは吾野駅が西武線の終点でした。吾野駅が終点だった頃は、週末の奥武蔵の山は今では考えられないくらい多くのハイカーで賑わっていたそうです。

山から降りたあとは、地元の食堂や売店を廃業に追いやった芦ヶ久保駅の下にある道の駅で、アイスクリームを食べてしばらく休憩しました。

東飯能から八高線で八王子、八王子から横浜線で帰りました。電車の中は、休校処置が終わった高校生たちでいっぱいでした。

帰って体重をはかったら2キロ減っていました。


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芦ヶ久保駅。

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登山口に行く途中から見えた、秩父の象徴武甲山。

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登山道に入ってすぐのところにある無人の売店。

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道標にある「川越山の家」には昔、車で行ったことがありますが、今は閉鎖されています。バブルの頃は、奥武蔵の山の中に、別荘の分譲地もありました。

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きれいに手入れされた防火帯。

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防火帯で”月光仮面のおじさん”に追い抜かれた。

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去年の台風の爪痕?

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別の”月光仮面のおじさん”からも追い抜かれた。

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最後の階段を登ると、山頂が見えてきた。

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山頂標識

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展望台からの眺望(展望台には望遠鏡も設置されています)。

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同上。

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宝くじの収益金で建てられた立派な展望台。

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来た道を戻ります。

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登山口の近くにある獣除けの柵。

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麓の集落が見えてきた。

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登山口の脇に繋がれている名物の犬。いつも激しく吠えるのですが、夏バテなのか、ぐったりして吠えることもなく大人しかったです。「バイバイ」と言ったら、顔を上げて「なんだ、お前は」みたいな感じでこっちを見ていました。なんだかさみしそうでした。
2020.06.19 Fri l l top ▲
れいわ新選組の山本太郎の東京都知事選出馬表明について、立憲民主、共産、社民の3野党が宇都宮健児氏への支援を決めているため、野党支持層の票が分散するのではないかと懸念する声があります。特に、立憲民主党周辺や「アベ政治を許さない」左派リベラルの市民運動の当事者たちからは、利敵行為だというような強い意見も出ているそうです。

山本太郎がどうしてこれほど立候補に拘ったのか、よくわからない部分もありましたが、立候補に際して、その裏事情が見えてきました。

れいわ新選組が野党共闘の条件として掲げる「消費税5%引き下げ」(党の公約は「消費税廃止」)を野党統一候補(宇都宮健児氏?)の選挙公約に採用するように主張したことに対して、財政再建=緊縮派の立憲民主党がどうしても消費税の引き下げを認めることはできないとかたくなな姿勢を崩さなかったため、折り合いが付かなかったのだそうです。

立憲民主党にとっては、消費税10%はかくも絶対譲れない重要な政策なのです。言うまでもなく、消費増税は民主党政権の悪しき“遺産”でもありますが、その“遺産”を守ることが立憲民主党のレーゾンデーテル(存在理由)とでも言いたげです。立憲民主党と自民党の間に、どれほどの違いがあるのかとあらためて思わざるを得ません。

もとより、何度も書いていますが、消費税の問題ひとつ取ってもあきからなように、野党共闘は単なる野合に過ぎません。野党共闘によって、何か政治が変わるような幻想を振りまいているのは、もはや犯罪的ですらあります。

個人的には、ブレイディみか子氏にはもう何の興味もありませんが、ただ、彼女が言った「右か左かではなく上か下かだ」という社会運動のトレンドが、コロナ禍による大倒産&大失業時代を迎えて、よりはっきりしてきたように思います。もうひとつ、彼女の言葉を借りれば、野党共闘なんて「『負ける』という生暖かいお馴染みの場所でまどろ」んでいる「勝てない左派」のアリバイ作りにすぎません。都知事選では、現職の小池百合子が圧勝するのは誰が見てもあきらかで、左派リベラルは“革新幻想”の再現で、負け戦のお茶を濁そうとしているようにしか見えません。

そもそも60年代後半以後の社会運動は、こういった“古い政治”を否定することからはじまったはずなのです。ところが、元全共闘のジジババたちによって、その“古い政治”が墓の下から掘り出され、“革新幻想”を振りまくアイテムとして再利用されているのでした。これほど愚劣な光景はありません。

でも、何度もくり返しますが、これはとっくに終わった政治なのです。こんな時代錯誤なことを何万遍くり返してもなにも変わらないのです。変わりっこないのです。

アメリカのミネソタ州ミネアポリスで、黒人男性が白人警察官に圧迫死させられた事件に端を発した黒人差別の抗議運動が、これほどアメリカ社会にインパクトを与える大きな運動になるとは誰も思っていなかったでしょう。今回の運動は、共和党だけではなく民主党も批判の対象になっているのです。警察官の暴虐は、トランプ政権からはじまったわけではないのです。初の黒人大統領であったオバマは、人種差別の根絶のために何をしたのか、という疑問の声が運動の中から沸き上がっているそうです。これこそが真にラジカルな(根源的な)問いかけと言えるでしょう。

今、求められているのは、このようなラジカルな運動なのです。

カリフォルニア州在住でアメリカ事情に詳しい町山智浩氏が、下記の記事で語っていた、アンティファやブラック・ブロックの存在は、これからの社会運動のあり方を考える上で(文字通り「勝てない左派」の運動を乗り越えるものとして)、興味をそそられるものがありました。

Yahoo!ニュース
ABEMA TIMES
黒人差別への抗議行動に紛れて略奪・破壊を繰り返すアンティファ、ブラック・ブロックとは

町山智浩氏は、こう言います。

「アンチ・ファシズム(Anti-Fascism)の運動から派生して出てきた人たちで、トランプ大統領を支持する右翼や白人至上主義者に対抗、集会に現れて物を投げたり、殴り合いをしたりしてきた。それがさらに精鋭化したのが、最近出てきた全身黒ずくめの“ブラック・ブロック”(BLACK BLOC)だ。もはやアンチ・ファシズムでもなく、反資本主義・無政府主義(アナキズム)なので、大統領就任式で放火事件を起こしたり、民主党に対しても攻撃をする(略)」



「アンティファとブラック・ブロックが興味深いのは、組織ではないというところだ。リーダーもいなければ、会員になるというようなこともない。お互いを知れば組織になってしまうし、誰かが捕まって証言すれば共謀したとされてしまうので、集まってもお互いに話もしないのがルールだといわれている。だから呼び掛けすらほとんどなく、“何月何日何時にどこで”というSNSの投稿を見て、リツイートなどもせずにパッと集まって、パッと解散する。“フラッシュモブ”のような感じに近い」


私は、町山氏の話を読んで、笠井潔氏が『3.11後の叛乱』の中で言及していたルイ・オーギュスト・ブランキの「結社」の思想を思い起こしました。

前に書いたように、笠井氏がブランキを持ち出したのはしばき隊を称賛するためだったのですが、しばき隊にブランキを当てはめるのはまったくの買い被りで、トンチンカンな話と言わざるを得ません。それより私は、ブラック・ブロックの行動にこそブランキ主義と通底するものがあるように思えてならないのです。そして、そういったスタイルがこれからの社会運動のトレンドになるように思えてなりません。

また、町山氏は、抗議運動がここまで拡大した背景について、「コロナによる経済危機が根本にある」とも言ってました。

 「1930年の大恐慌もリーマショックも、金融の問題、バブルの問題だった。しかし今回は実体経済の縮小というかつてない問題だ。戦争が起きれば大量生産・大量消費が起きるので特需になるが、それとは逆。おそらくアメリカにとって初の経験ではないか。しかもロックダウン状態が3カ月も続き、失業者は4000万人を超えている」


アメリカの黒人差別に対する抗議運動は(あるいは世界大に広がった人種差別反対運動は)、文字通り右か左かではなく上か下かの運動でもあるのです。

アメリカのような大衆蜂起が期待できない東洋の島国では、コロナ禍でますます追いつめられている下層の人々に対して、上か下かの政治もあるのだということを訴えることからまずはじめるしかないのです。たしかに危ういところはありますが、とりあえず山本太郎がその役割を担っているのは間違いないでしょう。


関連記事:
『3.11後の叛乱』
山本太郎は間違ってない
山本太郎は間違ってない・2
2020.06.17 Wed l 社会・メディア l top ▲
6月9日に、カイロ大学が突然(そして、奇妙な)声明を発表した裏には、どうやら都議会の動きが関係していたようです。私は知らなかったのですが、都議会の自民党を中心に、小池知事に対してカイロ大学の「卒業証明書」の提出を求める決議案が出されていて、10日に決議される予定だったとか。それで、カイロ大学の声明で機制を制したというのが、どうやら真相だったみたいです。決議案は、10日の議決寸前に取り下げられたそうですが、おそらく二階ら自民党本部の“小池人脈”による働きかけがあったと考えるのが自然でしょう。

Yahoo!ニュース
日刊スポーツ
小池氏への決議案取り下げ、カイロ大学の声明も一因

小池都知事は、12日の出馬会見の席で、学歴詐称疑惑について、「すでに原本も示し、カイロ大学も正式にお認めいただいているものと考えている」と答えたそうですが、「原本を示し」たというのは、前回(2017年)の都知事選の際、小池都知事お気に入りのフジテレビに「卒業証書」と「卒業証明書」を「貸し出した」ことを言っているのでしょう。フジテレビは、「とくダネ!」の中で、画面上に「卒業証書」と「卒業証明書」を映し出して、本人に代わって潔白を証明したのでした。しかし、『女帝 小池百合子』は、以前小池の自著に掲載されていた「卒業証書」と「とくダネ!」の「卒業証書」では、カイロ大学のロゴマークが違っていると書いていました。また、「卒業証明書」についても、写真の貼り方やカイロ大学の印鑑がホンモノと違うことを指摘していました。

考えてみれば、カイロ大学の声明などという面倒くさいことをせずに、手元にある「卒業証明書」を議会に提出して疑惑を晴らせばいいだけの話です。フジテレビで証明したからなどと言わずに、何度でも出せばいいのです。どうしてそんな簡単なことができないのか。何か「卒業証明書」を直接見せることができない理由があるのではないか、そう思われても仕方ないでしょう。

と思ったら、出馬会見でアクリル板に入れた「卒業証明書」を公開したそうです。しかし、公開した「卒業証明書」は、カイロ大学のロゴや学長のサインが違っているとか、通常の「卒業証明書」に押印されている外務省の印鑑がないとか、従来から指摘されていた疑問を解消するものではなかったようです。そもそもみずから1年落第したと言っているのに、どうして4年で卒業したことになっているのかという、小学生でも抱く疑問は今回も解明できていません。今回の行為を見ても、その厚顔さ=強心臓は常人の比ではないなとあらためて思いました。

6月11日に「東京アラート」が解除されましたが、ロックダウンだとか西浦博北大教授と一緒に「重篤患者86万人・死者42万人」だとか、散々“危機”を煽っておきながら、最後は何だか肩透かしを食ったようにあっけないものでした。これでは、自粛要請によって、破産か自殺かにまで追い詰められた自営業者はたまったもんじゃないでしょう。

でも、これが“小池劇場”と言われるいつものやり方です。築地市場の移転問題も然りで、水質汚染がどうだとか築地も残す(豊洲に移転しても将来築地に帰ることができるようにする)とか言いながら、いつの間にか全て曖昧になり、尻すぼみになってしまいましたが、そこにも小池都知事お得意の嘘とはったりと強心臓が遺憾なく発揮されているように思います。メディアがきちっと報道せず、都民が騙されたという自覚を持たない限り、小池都知事の嘘とはったりと強心臓の“小池劇場”はこれからも続くことでしょう。

それに、ひとつだけ言えるのは、小池都知事にとって、都政は国政復帰(それもステップアップした復帰)のためのあくまで踏み台に過ぎないということです。「小池さ~ん! 頑張って!」と手を振っている都民も、かつての細川護熙や小沢一郎と同じように、ただ踏み台にされているだけです。

ネットには、小池都知事が「甥」だとか「従弟」だとか言っていた、練馬区桜台の「エコだハウス」で一時同居していた元秘書に関する「不可解な融資」と、小池都知事自身の「“闇金業者”からの不正献金」の記事が出ていましたが、問題なのはこの秘書だけではありません。

Yahoo!ニュース
ディリー新潮
小池都知事が隠したい“金銭スキャンダル”
闇金業者から「違法献金」も


もうひとり、小池都知事の「懐刀」と言われ、前回の都知事選の選挙参謀を務めた秘書の存在が前から注目されていました。彼は、35歳で自民党公認で都議になったのですが、任期中に都議を辞任して日本維新の会から衆院選に出馬して落選。翌年、日本維新の会から再度都議選に立候補するものの落選して、アントニオ猪木氏の議員秘書などをしていたそうです。その頃に小池百合子が声をかけ、都知事選の選挙対策本部長を任せられ、都知事選に圧勝するのでした。それで、「永田町を回遊していた彼の人生は劇的に変わ」り、小池都知事の特別秘書になったのでした。

ちなみに、特別秘書の年収は1千4百万円で、当然都知事の秘書ですから給与は都(税金)から支給されます。さらに、運転手付きの公用車まで与えられていたそうです。

彼の行状について、『女帝 小池百合子』は、次のように書いていました。

  夜の豪遊ぶりは、つとに知られている。
  キャバクラやショーパブが好きで、特別秘書になってからも足しげく通っていた。そのハレンチな豪遊ぶりを『週刊ポスト』(二〇一七年六月二月号)が写真入りで報じている。
  記事によれば、ある店では、バケツに入れたチップを掴むとポールダンスをする女性のビキニの中に素手で押し込んでいたという。女性たちは気前のいい野田(引用者:秘書の姓)の前に列をつくる。ブラジャーを外すと野田は喜んで、「ウォー」と雄たけびを上げる。
   店が終わるまで粘り、ダンサーの外国人女性と腕を絡ませて歩き、タクシーに乗る。それが深夜二時過ぎ。この日、彼と連れ立っていたのは民進党から都民ファーストの会への移籍を望む都議たちであった。公認が欲しかったのだろう。


また、都議時代の彼についても、次のように書いていました。

  都議時代は石原慎太郎の価値観に強く共鳴していた。朝鮮学校補助金削減や尖閣諸島の購入を熱烈に支持し、激しい中国批判を繰り返した。「新しい歴史教科書をつくる会」に所属し、『WiLL』や『正論』といった雑誌にも、たびたび寄稿した。
  二〇一二年には自民党を離党し、日本維新の会に入党。九月十八日の都議会では、「占領期に制定された現行憲法は無効と確認し、大日本帝国憲法が現存すると決議がなされること。皇室典範は占領期に作られたものであり無効であって明治典範その他、宮務法体系を復活させるべき」だと請願した。つまりは現行憲法の否定者である。


しかし、2017年10月の衆院選で、小池率いる希望の党は大敗します。そのため、秘書のリストラが行われ、秘書の間でも齟齬が生じるようになり、彼も特別秘書を退任することになりました。ところが、なんと彼は、東京都水道局の外郭団体である東京水道サービス株式会社(TSS)の社長に就任したのです。

(略)水道に対する知識もなく、行政経験もなく、さらにいえば社会人経験もない、政界を暗躍して「小池の弾除け」と自称する四十六歳の男が、都知事の鶴の一声で特別秘書から、今度は外郭団体に天下って社長になるというのだ。
  小池が口封じのために高給の再就職先を用意したと批判の声が上がるのは当然だった。


都政の私物化はとっくにはじまっているのです。しかし、それでも小池都知事にとって都政は、あくまで国政にステップアップして復帰するための踏み台に過ぎないのです。小池都知事のパフォーマンスに右往左往している都民こそいい面(ツラ)の皮でしょう。
2020.06.13 Sat l 社会・メディア l top ▲
小池百合子都知事が、7月の都知事選に向けて、10日に出馬会見を開くのではないかと言われていた前日の9日、突然、カイロ大学が「(小池都知事が)1976年10月にカイロ大学文学部社会学科を卒業したことを証明する」との声明を発表したのにはびっくりしました。さらに驚くべきことに、在日エジプト大使館が、カイロ大学の声明文をフェイスブックで公開したそうです。これも異例でしょう。ただ、予定されていた(?)10日の出馬会見は延期される見込みだとの報道がありました。

朝日新聞デジタル
小池都知事は「カイロ大学を卒業」 大使館が声明文公開

一個人の卒業疑惑に、大学が声明文を発表するというのは前代未聞で、どう考えても不自然です。まして、卒業疑惑が「カイロ大学及びカイロ大学卒業生への名誉毀損(きそん)であり、看過することができない」などと言うのは異常且つ異様です。そのくせ、具体的な”証拠”は何も出してないのです。”アラブの春“を弾圧した軍部が実権を握る「なんでもありの軍事国家」の中で、小池百合子の“過去”を知る「早川さん」が恐怖を抱くのもわかる気がします。

元恋人の舛添要一氏も、この声明を受けて、次のようにツイートしていました。

カイロ大学が小池都知事が1976年に同大学を卒業したと声明。卒業証書や卒業に至る経過、成績表は公開せず。先進国の大学なら、全ての記録を保管し公表できる。声明など出すこと自体が政治的で胡散臭い。日本からの援助を期待する外国政府まで使う。立候補前の政治工作だろう。
@MasuzoeYoichi


私はパリ大学とジュネーブ大学に籍を置いたが、大学が声明まで出してそれを追認することはない。出すなら声明ではなく当時のデータだ。データ抜きなら政治的都合で何とでも言える。エジプトという専制国家ならではの腐敗の極みだ。証拠も出さずに○○が卒業生だと声明を出す先進国の大学は絶対にない。
@MasuzoeYoichi


かつて小池都知事から私が聞いたのはカイロ大学「首席卒業は、学生が一人しかいなかったから」という話だ。私は、外国人学生専用のコースかと思った(私が留学したフランスでは外国人専用の博士号コースがあった)が、「学生一人」すら嘘だったようだ。飽くなき権力欲は怖い。
@MasuzoeYoichi


要は声明文などより、舛添氏も言うように「データ」を開示すればいいだけの話です。また、小池百合子自身も、「首席で卒業」した自分のアラビア語(文語)のレベルを披露すればいいのです。それが論より証拠というものでしょう。

声明によって、逆にますます疑惑が深まったように思えてなりません。

尚、舛添氏がツイッターでリンクしているJBpressの記事では、カイロ・アメリカン大学の留学体験がある作家の黒木亮氏が、小池百合子のアラビア語の語学レベルを検証していました。ちなみに、カイロ・アメリカン大学というのは、国立のカイロ大学とは別の私立大学で、小池百合子がカイロ大学に編入するまで籍を置いていた(と言われる)大学です。

以下が黒木氏の記事の一覧です。

JBpress

徹底研究!小池百合子「カイロ大卒」の真偽〈1〉
「お使い」レベルのアラビア語
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58847

徹底研究!小池百合子「カイロ大卒」の真偽〈2〉
卒論の”嘘”
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58851

徹底研究!小池百合子「カイロ大卒」の真偽〈3〉
エジプトで横行する「不正卒業証書」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58857

徹底研究!小池百合子「カイロ大卒」の真偽〈4〉
「不正入学」というもう一つの疑惑
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58869

徹底研究!小池百合子「カイロ大卒」の真偽〈5〉
カイロ大学の思惑
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58870

【最終回】小池百合子「カイロ大卒」の真偽
卒業証明書、卒業証書から浮かび上がる疑問符
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58871

議会答弁でさらに深まった小池都知事の「学歴疑惑」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59731

「カイロ大卒業」を取り繕うエジプトの小池人脈
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60763

一方、大手新聞社やテレビ局などは、この問題については最初から腰が引けています。言うまでもなく、彼らは、東京オリンピックで東京都と(主催と協賛の)共存関係にあるからです。彼らにとっては、触らぬ神に祟りなしなのでしょう。

もともと小池百合子がメディアを足場にここまでのし上がって来たのも、アラブ通を自認するジャーナリストたちが、彼女を持ち上げたからだと言われています。

『女帝 小池百合子』も次のように書いていました。

  中東通としてテレビに登場する新聞記者の大半は、アラビア語を解さない。男社会の中で生きている彼らは小池のような女性に一様に甘く、親切だった。
  フリーランスの若い男性ジャーナリストたちは、そのあり様を冷ややかに、かつ、呆れてみていたようだ。元AP通信社の浅井久仁臣は一緒にアフリカや中東で取材したこともある朝日新聞の伊藤正孝のことを、人間としては信頼していたと断ったうえで、そんな伊藤が小池に手もなく取り込まれているのを見て、小池のカイロ時代を知るだけに「女を見る目がないな」と感じたと自身のブログ(二〇〇五年八月十六日)で明かしている。
  伊藤はこの後、小池の政界入りにも協力し、常に彼女に便宜を計り続けた。また、自分の出版記念パーティでは、キャスターになった小池に司会も頼んでいる。
  新聞各社の男性たちはこぞって、小池に自分の力を誇示しようとした。仕事を紹介する人もいれば、紙面を提供する人、人脈を与える人もあった。
  新聞で活字にされた瞬間に「カイロ大学卒」は事実として認定され、流布されていく。その信頼をもとに彼女の世界は広がっていった。


記事の中の伊藤正孝氏は、のちに筑紫哲也のあとを継いで『朝日ジャーナル』の編集長になった人物で、私も『朝日ジャーナル』を愛読していましたので、名前は知っていましたし、彼が書いた記事も読んだ覚えがあります。

鼻の下の長いジャーナリストたちは、あのミニスカートからすらりと伸びた足と、じっと自分を見つめる大きな瞳にいとも簡単に篭絡されたのでしょう。

そして今も、新型コロナウイルスの報道に見られるように、メディア戦略に長けた都知事にいいように手玉に取られ、各メディアは彼女の広報担当のようになっています。いつの間にか、「東京アラート」なるものが感染状況を知る唯一の指標のようになっているのでした。なんのことはない、新型コロナウイルスも、小池都知事の政治的パフォーマンスの格好の場になっているのでした。
2020.06.09 Tue l 社会・メディア l top ▲
今日、パソコンを立ち上げたら、Googleに次のようなメッセージが掲げられていました。

人種的平等、そしてそれをさがしもとめる人々を、私たちは支持します。


このメッセージは、アメリカのミネソタ州ミネアポリスで、黒人男性が白人警察官に圧迫死させられた事件に端を発して世界中に広がった、人種差別反対の運動に呼応したものでしょう。

私は、そのメッセージを見るにつけ、だったらGooglは、ヘイトの巣窟になっているYahoo!Japanとの提携をやめるべきではないかと真っ先に思いました。

伊藤詩織さんも、ツイッターだけでなくYouTubeやヤフコメの書き込みに対しても、今後法的対応を取ることをあきらかにしていますが、Google(Google日本法人)は、海の向こうの人種差別運動だけでなく、自分の足元のYouTubeやヤフコメの書き込みにも目を向けるべきなのです。

特に、ヤフコメのヘイトな書き込みには目に余るものがあります。Yahoo!Japanは対応していると言っていますが、実際は放置に等しいものです。Yahoo!Japanがヤフコメを閉鎖しないのは、ニュースがヘイトな書き込みによってバズることがビジネス上美味しいからでしょう。Yahoo!Japanにとってのニュースの価値は、アクセス数なのです。アクセス数によってニュースをマネタイズすることなのです。だから、どんなに批判を受けてもヤフコメを閉鎖することなど考えられないのでしょう。

Yahoo!Japanは、言うまでもなくソフトバンクグループの総師である在日朝鮮人の孫正義氏が率いる会社です。孫正義氏は、『あんぽん』の記事でも触れましたが、佐賀県の鳥栖駅近くの朝鮮部落で、泥水に膝まで浸かりながら懸命に勉強して久留米大付設高校に進学し、入学後アメリカに渡ってカリフォルニア大学バークレー校に留学、今日の礎を築いたのでした。小学生のとき、「チョーセンジン出ていけ」と言われて石を投げつけられ、そのときの傷が今でも頭に残っているそうです。日本に「帰化」するに際して、通名の「安本」ではなく朝鮮名の「孫」にこだわったのも、本人が言うようにそのときの頭の傷が原点になっているからでしょう。

そんな誰よりも差別のむごたらしさを知悉しているはずの人物が率いるネットメディアが、かつて石を投げつけられたのと同じような理不尽な民族差別を放置し、見て見ぬふりをしているのです。それどころか、差別を商売の(金儲け)の手段に使っているのです。お金のためには、かくも節操もなく悪魔に魂を売るものなのかと愕然とせざるを得ません。前も書きましたが、私は、人間のおぞましささえ覚えてなりません。

人種差別というと、アジアに住む私たちはなにか他人事のように思ってしまいますが、私たちのまわりにも同じようなヘイトが蔓延しているのです。

Google(Google日本法人)が「人種的平等、そしてそれをさがしもとめる人々を、私たちは支持します」と崇高なメッセージを掲げながら、足元にあるYouTubeやヤフコメのヘイトな実態に目を向けないのなら、それはどう考えても詭弁と言うしかありません。


関連記事:
『あんぽん 孫正義伝』
2020.06.09 Tue l ネット l top ▲
女帝小池百合子


石井妙子著『女帝 小池百合子』(文藝春秋社)を読みました。

「救世主か? “怪物”か? 彼女の真実の姿」と帯に書かれた本書の肝は、なんと言っても、カイロ大学に留学していた際に、小池百合子と同居していた女性の証言です。小池百合子は、名門のカイロ大学を「正規の四年で(しかも首席で)卒業することのできた最初の日本人」と主張し、それが売りでメディアに登場して、現在の足場を築いたのでした。

ちなみに、小池百合子は、カイロ大学の留学時代に、アラビア語の語学学校で知り合った男性と学生結婚しています。それは、今回小池百合子の謎に包まれた”アラブ留学時代“を証言した「早川さん」と1回目の同居をはじめたあとの話です。小池百合子と「早川さん」が知り合ったのは、語学学校の共通の知人の紹介だったそうです。

その頃の小池百合子は、カイロ大学とは別の私立大学に通っていたそうですが、しかし、同居人の「早川さん」が「勉強しないでも平気なの?」と訊いたほど、本やノートを開くことはまったくなく、アルバイトに明け暮れていたということでした。お父さんが「石油を扱う貿易商」で、芦屋の「お嬢さま」だと聞いていたのに、親がまったく送金してこないので「驚いた」そうです。

関西学院大学を1年で中退してカイロにやって来た当時の小池百合子は、カイロ在住の日本人の中では飛びぬけて若く、日本人社会の中では「アイドルのような存在」でした。そのため、毎夜、二人が同居する家に商社マンなど男性が遊びにやって来るので、語学留学していた「早川さん」はこれではなんのためにカイロにやって来たかわからないと悩んだほどでした。

一方、結婚生活は、本人によれば「半年」とか「数ヶ月」とかで破綻してしまいます。ただ、小池百合子が再び「早川さん」の前に現れたのは、結婚するために引っ越してから3年後のことで、離婚後どこでどう暮らしていたのかはわからないと書いていました。そして、そこから二度目の同居がはじまったのでした。

結婚している間に、彼女は、父親の知り合いのエジプト政府の要人(副首相?)の紹介で、カイロ大学の2年に編入した(コネ入学した)と言われています。しかし、神戸にいた父親は事業に失敗して破産してしまいます。父親の仕事は、「石油を扱う貿易業」と言っていましたが、石油を直接輸入していたわけではく、「業転」(業者間取引の略)と言われる仕事をしていたにすぎません。

車に乗っていると、車体にエッソや昭和シェルやキグナスなどの石油会社の社名が入ってない無印のタンクローリーが走っているのを見かけることがありますが、あれが「業転」なのです。そういったタンクローリーは、メジャーの系列店とは別の安売りスタンドなどに、正規の流通で余った?ガソリンをスポットで納入しているのです。父親は、そのブローカーの仕事をしていたのです。

父親は、兵庫二区から衆院選挙に出馬するなど無類の「政治好き」でしたが、一方で、「大風呂敷で平気で嘘を吐く」「政治ゴロ」だったと陰で言う人もいます。破産後の小池家の”後見人”になった朝堂院大覚こと松岡良右氏は、父親の出馬について、「選挙に出て、あの家は傾いたんじゃない。傾いていたから一発逆転を狙って、後先を考えずに選挙に出たんやろ。議員になってしまえば、借金も返せると浅はかに考えて」と言っていたそうです。

父親の経歴について、本書は次のように書いていました。

   海軍中尉だったと語る一方で彼はまた、周囲に「満鉄経理部で働いていた」「満鉄調査部にいた」「満鉄の野球部で活躍した」とも語っている。だが、海軍にいたのなら満鉄にいられるわけはなく、満鉄にいたのならば海軍にいたとは考えにくい。


そういった「大風呂敷で平気で嘘を吐く」性格は、娘も受け継いでいるという声もあります。娘は父親を憎んでいたと言われており、事実、父親の話をすると不機嫌になったそうですが、しかし、二人は「一卵性父娘」だったと言う人も多いのです。

学歴だけでなく、芦屋のお嬢様だったという生い立ちも、間一髪飛行機事故を回避して命拾いしたという逸話も(それも二度も)、亡くなった父親や母親に関する美談も、もちろん、政治の世界に入ってからの数々の発言やパフォーマンスも、嘘とはったりで、「蜘蛛の糸を掴む」ようにして「虚飾の階段」を登るその過程でねつ造された「物語」だと書かれていました。

本書を読む限り、彼女の虚言は枚挙に暇がなく、学歴詐称はそのひとつに過ぎません。ただ、その後の彼女が歩んだ人生を考えれば、学歴詐称によって、小池百合子はルビコンの川を渡ったと言っていいのかもしれません。

先日、都議会で本書について自民党の都議から質問を受けた際、小池都知事は次のように答えたそうです。

自民党の清水孝治氏は、先日発売された「女帝小池百合子」というタイトルの書籍を手に質問。一部を音読するひと幕まであった。「百合子さん」と繰り返す清水氏に、小池氏は「これほど、本会議場でファーストネームで呼ばれたことは初めて」と、笑い飛ばした。

日刊スポーツ
小池知事、学歴詐称報道に「読んでいないので…」


本書を読むと、こういったはぐらし方こそ、如何にも彼女らしいなと思います。

学歴詐称問題は、今までも何度も取り沙汰されてきました。しかし、「嘘も百回繰り返せば真実になる」というナチス・ドイツの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの言葉を実践するかのように、こういったはぐらかしと強心臓で否定し続けてきたのでした。もちろん、学歴詐称が事実であれば、公職選挙法違反になるのは言うまでもありません。

アラビア語には、口語と文語があり、文語は非常に難解で、外国人が文語をマスターするのは至難の業だと言われているそうです。

  エジプトでは現在も、口語(アーンミンヤ)と文語(フスハー)が明確に分かれており、日常では口語が使われている。
  一方、文語はコーランに典型的な四世紀頃から続く古語で、アラブ各国のインテリ層の間では、この文語が共通語として使用される。
  ニュースや大統領の演説には、格調高いこの文語が用いられ、書物や新聞も当然、文語である。カイロの大学の教科書も、教授の講義も文語でなされる。文語は大変に難解で、エジプトの庶民階層に非識字者が多い理由もここにある。
(中略)
  アラビア語を母国語とする人でも苦しむ、この文語を外国人、とりわけ日本人が習得するのは並大抵のことではなく、だからこそカイロ大学を正規に卒業した日本人は数えるほどしかいないのだ。
(中略)
  アラビア語の口語すら話せなかった小池が、文語をマスターして同大学を四年で卒業する。そんなことは「奇跡」だと嫌味を込めて語る人は少なくない。


しかも、本人は、首席で卒業したと主張しているのです。

彼女の主張について、「ある国際関係の専門家」は、「あの小池さんの意味不明な文語を聞いて、堪能、ペラペラだ、なんて日本のマスコミは書くんだから、いい加減なものだ。卒業証書なんて、カイロに行けば、そこら中で立派な偽造品が手に入りますよ」と言っていたそうです。また、「日本在住のエジプト人女性が語った言葉も私には忘れられない」と著者は書いていました。

「たどたどしい日本語で、『私、東大出たよ、一番だったよ』と言われたら、日本人のあなたは、どう思いますか。東大、バカにするのかって思うでしょ。(略)」


ある日、同居人の「早川さん」が帰宅したら、小池百合子がしょんぼりしていたそうです。どうしたのと訊いたら、進級試験に落ちたと。しかも、よくよく聞けば、それは最終学年ではなく、3年から4年に進級する試験だったそうです。そのため、追試も受けられない。それで結局、彼女は、日本航空の現地スタッフとして働きはじめたのだそうです。

ところが、それからほどなく、サダト大統領夫人が日本に来るので帰って来いという父親からの連絡を受けて一時帰国し、父親が娘を「カイロ大学卒」として日本アラブ協会に売り込んだのが功を奏して、大統領夫人の接待係に採用されたのです。そして、それが彼女の人生の大きなターニングポイントになったのでした。

当時の東京新聞には、彼女のことが次のように紹介されていたそうです。

「この九月、日本女性として初めてエジプトのカイロ大学文学部社会学科を卒業し、十月中旬に帰国したばかり」(一九七六年十月二十七日)


日本から戻ってきた小池百合子は、「嬉しそうにスーツケースから新聞を取り出すと早川さんに見せた」そうです。

(略)早川さんは読み進めて思わず声をあげた。
「百合子さん、これって・・・・」
  見上げると小池の視線とぶつかった。驚く早川さんを見て、小池はいかにも楽しそうに微笑んでいた。そんな小池を目の当たりにして、早川さんはさらに当惑した。
「百合子さん、そういうことにしちゃったの?」
  小池は少しも悪びれずに答えた。
「うん」


カイロに戻ってきたのは、カイロでの生活を精算して日本に帰国するためでした。最後の夜、彼女は「早川さん」に次のように言ったのだとか。

「あのね。私、日本に帰ったら本を書くつもり。でも、そこに早川さんのことは書かない。ごめんね。だって、バレちゃうからね」


「早川さん」は現在もカイロに住んでいますが、しかし、小池百合子の”過去”を知る人間として、恐怖すら覚えるようになっているのだとか。政治家として権力を持った元同居人。しかも、現在のエジプトは「なんでもまかり通ってしまう軍事国家」です。なにより、民主的な法秩序より人治的なコネやツテが優先されるアラブ世界。こうして”過去”の話をあきらにしたのも、あえて声をあげることで、みずからの身を守ろうとしているのかもしれません。

日本に帰国した小池百合子は、日本テレビの朝の情報番組「ルックルックこんにちは」で、竹村健一の対談コーナーのアシスタントとしてデビューします。さらに、「東京12チャンネル(現テレビ東京)の天皇」と言われた社長の中川順氏に気に入られ、「ワールドビジネスサテライト」のキャスターに抜擢されるのでした。そして、「ワールドビジネスサテライト」のキャスターを踏み台にして、政界に進出し、誇大妄想の泡沫候補で、「政治ゴロ」と言われた父親の夢を娘が叶えたのです。

政界に入ってからも、日本新党、新進党、自由党、保守新党、自民党と渡り歩き、その間、細川護熙・小沢一郎・小泉純一郎などの権力者に接近することで、「政界の渡り鳥」「爺々殺し」「権力と寝る女」などという陰口をものともせず、政治家としても華麗な転身を遂げていったのでした。そして、今や憲政史上初の女性総理大臣候補と言われるまでになっているのです。

彼女の政界遊泳術については、新進党時代の同僚議員であった池坊保子氏の証言が正鵠を得ているように思いました。

「(略)小池さんは別に政治家として、やりたいことはなくて、ただ政治家がやりたいんだと思う。そのためにはどうしたらいいかを一番に考えている。だから常に権力と組む。よく計算高いと批判されるけれど、計算というより天性のカンで動くんだと思う。それが、したたか、と人には映るけれど、周りになんと言われようと彼女は上り詰めようとする。そういう生き方が嫌いじゃないんでしょう。無理しているわけじゃないから息切れしないんだと思う」


現在、新型コロナウイルスを奇貨として、小池百合子東京都知事はまさに水を得た魚の如くお得意のパフォーマンスを繰り広げています。まるで日本の救世主=ジャンヌ・ダルク(彼女自身、「政界のジャンヌ・ダルクになりたい」と言っていた)であるかのようです。たとえば、彼女がぶち上げた「東京アラート」なるもので歌舞伎町がやり玉に上げられていますが、そんな彼女のパフォーマンスによって、多くの人たちが苦境に陥り、破産か自殺かの瀬戸際にまで追い詰められていることも忘れてはならないのです。もちろん、本書でも再三書かれていますが、彼女をここまで祭り上げたメディアの罪も大きいのです。

小池百合子が「カイロ大学を首席で卒業した」ことをウリに日本に帰って来ると、鼻の下を伸ばしたジャーナリストたちが中東通で才色兼備の彼女に群がり、政界や財界の要人たちとのパイプ作りに一役買ったのですが、なかでも、のちに『朝日ジャーナル』の編集長になった朝日新聞(元カイロ特派員)の故伊藤正孝氏は、今の政治家・小池百合子の”生みの親”としてあまりに有名です。

本人たちは否定していますが、彼女が結婚まで考えたという”元恋人”の舛添要一氏は、彼女の学歴詐称問題について、次のようにツイートしていました。

舛添要一6月6日ツイッター

私は、舛添氏のツイートを見て、木嶋早苗が逮捕された際、唯一金銭抜きで交際していた恋人(某新興宗教団体の本部職員だった男性)が警察から彼女の本名を聞かされて、その場に膝から崩れ落ちたという話を思い出しました。木嶋早苗は、本命の恋人にも本名を伝えてなかったのです。伝えていたのは偽名だったのです。小池百合子にも、似たような心の闇があるのではないか。そんな気がしてなりません。


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2020.06.08 Mon l 本・文芸 l top ▲
武蔵小杉駅~立川駅~青梅駅~鳩ノ巣駅~【川苔山】~鳩ノ巣駅~青梅駅~拝島駅~八王子駅~菊名駅

※山行時間:約8時間(休憩含む)
※山行距離:約13キロ
※標高差:1043m
※山行歩数:約31,000歩


昨日、川苔山(川乗山・かわのりやま)に登りました。

午前5時6分の東横線に乗って、武蔵小杉駅で南武線に乗り換えれば、立川で奥多摩行きの始発電車に連絡するので、乗り換えのための待ち時間も少なく(青梅線や五日市線は、とにかく待ち時間が長いのが悩みの種です)、午前7時には、川苔山の最寄り駅の鳩ノ巣駅に着く予定でした。

ところが、東横線に乗ってウトウトしていたら、武蔵小杉駅を乗り越してしまったのです。あわてて隣駅で下車して武蔵小杉駅に戻ったのですが、当初乗る予定だった南武線の電車には間に合いませんでした。

そのために、スムーズな乗り換えができなくなり、立川駅で青梅行きに、青梅駅で奥多摩駅行きに乗り換えることを余儀なくされて、鳩ノ巣駅に着いたのは、予定より1時間以上遅れてしまいました。

このように、横浜の自宅から奥多摩に行くには、電車だけでも片道2時間はかかります。奥多摩の山に登る場合、多くは奥多摩駅や武蔵五日市駅からさらにバスに乗らなければならないので、移動時間は3時間は見なければならないのです。

ちなみに、丹沢に行くのも、小田原に近い小田急線の駅からバスに乗らなければならないので、やはり同じくらいかかります。丹沢の場合も、横浜より都内からの方がむしろ便利なのです。

自分のミスによるものとは言え、時間的に一抹の不安を覚えながら、鳩ノ巣駅から登山口に向かいました。鳩ノ巣駅は、本仁田山に登ったときに利用しましたし、途中の大根ノ山ノ神の分岐点まではそのときと同じ道を歩きますので、勝手知ったような感じで登りはじめました。ところが、久しぶりの登山なので、足が重く息が上がってなりませんでした。

1時間くらい歩くと、大根ノ山ノ神の分岐に到着します。大根ノ山ノ神では、いつものようにお賽銭をあげて手を合わせました。大根ノ山ノ神からは本仁田山への道と分かれ、林道を10メートルくらい下がると川苔山の登山口の階段があります。余談ですが、奥多摩の山は、バス停から集落の中の坂道を登り、いちばん上の家の横に登山口がある場合と、今回のように、斜面に造られた階段を登って行く場合が多いのです。

川苔山は、奥多摩屈指の人気の山で、登山ルートもいろいろありますが、いちばんの人気はなんと言っても百尋ノ滝を経由して登る川乗橋ルートです。川乗橋ルートは、大半と言ってもいいくらい多くのハイカーが利用する定番コースですが、昨秋の台風19号による被害で、日原への道路が長い間通行止めになっていたためアクセスが途絶えていました。先月、道路はやっと復旧したのですが、登山道の木橋に崩落の危険性があるとかで、登山ルートは依然通行止めになっています。山頂付近でも川乗橋に向かう道は、ロープが張られて封鎖され「通行止め」の札が下げられていました。

私が今回登ったルートは、川乗橋から登って来た人たちの下山ルートに使われるケースが多いようです。また、本仁田山から隣接する尾根を使って登る人も多いみたいで、私もあとになってそうすればよかったと思いました。

なにしろ、今回のコースは、距離が(いづれも往復)13キロ弱、時間にして休憩時間も含めると8時間以上かかるのです。

川苔山の登山道に入った途端、拍子抜けするような平坦な道に代わり、身体も慣れてきたということもあって、最初に抱いた不安もいつの間にか消えていました。ところが、1時間近く歩き、水の涸れた沢を何度か越えると、徐々に傾斜がきつくなりました。もっとも、単純標高差(高低差)でも1000メートルを越えるので、きついのも当然なのです。

しばらく歩くと、上から下りて来るハイカーとすれ違うようになりました。全部で7~8人すれ違いましたが、全員ソロのハイカーでした。おそらくすれ違ったハイカーたちがこの日に川苔山に登った全員だと思います。主要ルートが通行止めのため登山者も少なく、川苔山は今までになく静かな山になったのです。だから、私も登ろうと思ったのでした。

下山して来たハイカーたちに訊くと、距離が長いためか、皆早朝から登っているみたいです。何のことはない、皆が下山している中で、私ひとりが遅れて登っているのでした。秋冬だと日没になり無謀と言えますが、今の季節だと日没前の下山は可能なので、このまま山頂を目指すことにしました。

そして、文字通りほうほうの体で山頂に着きました。もちろん、誰もいません。30分くらいいて、持参したおにぎりを食べましたが、誰も登って来ませんでした。やはり、私が最後の登山者だったみたいです。

ちなみに、すれ違ったハイカーでマスクをしていたのはひとりだけでした。それも、銀行ギャングのようなバンダナ風のマスクをしていたので、一瞬ギョッとしました。

下山にも3時間強かかりましたが、腿の筋肉が悲鳴をあげ、途中でロキソニンのテープを貼って、騙し騙し下りました。

山田哲哉氏は、『奥多摩 − 山、谷、峠、そして人』の中で、「僕は、奥多摩に通いだした人には、この川苔山と大岳山に一度は登ることを勧めている」と書いていました。

   川苔山はボリュームがあり、周囲の尾根からいったん大きく標高を下げて再び隆起する山容からは独立峰のような強い印象を受ける。そして本仁田山へと続く尾根を筆頭に、四方に尾根を延ばし、そこに食い込む急峻で明瞭な沢によって極めて複雑な山容をつくりだしている。山頂からは、東京都と埼玉県を分ける長沢背稜に続く山脈とのつながりが見てとれる。雲取山へと続く尾根の位置関係、雲取山から延びるもう一本の尾根・石尾根の様子もよくわかる。奥武蔵の山とのつながりなども手に取るように見えるため、多摩川北岸の山々を理解する上で、ぜひ登ってほしい山なのだ。「次は、あの山」「あの山にも行かなくちゃ」と、登りたい山々が次々と生まれてくる。


きつくて、ときどき心が折れそうになりましたが、でも、一方で、久しぶりの山行だったので、「山っていいなあ」とあらためて思いました。そして、そう思うと、なんだか胸奥に熱いものが込み上げて来るのでした。

帰りは、いつものように拝島から八高線で八王子、八王子から横浜線で帰って来ましたが、乗客は普段に比べて少ないものの、座席に座っていると、「電車の座席に座ることが人生の目的のような人々」が容赦なく座って来てスマホをいじりはじめるのでした。なんだかスマホをいじるためには「密」をも厭わない感じで、これが麻生財務相の言う「民度の高い」民族であるゆえんなのでしょう。身体が密着するだけでなく、時折咳ばらいをする人も多く、ソーシャルディスタンスなどどこ吹く風なのでした。何度も言いますが、通勤電車の「密」を黙認しながら、一方でソーシャルディスタンスの感染防止策を要望するのは、文字通り頭隠して尻隠さずのような話でしょう。苦境に陥っている個人経営の飲食店や商店などを見るつにつけ、正直者がバカを見る世の中なんだなとしみじみ思います。


※サムネイル画像をクリックすると拡大画像がご覧いただけます。

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鳩ノ巣駅からこのような集落内の坂道を歩いて登山口に向かいます。

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本仁田山に登ったときと同じ登山道を歩いて、大根ノ山ノ神の分岐に向かいます。

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大根ノ山ノ神。

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川苔山の登山道。1キロくらい平坦な道が続きました。

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昨秋の台風19号の名残なのか、倒木が登山道を塞いでいました。

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最初の渡渉(ただし水はありません)。

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いつの間にか新緑の季節になっていた。

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この時期は、山にとって裏ベストシーズンです。みんな山に行こうよと言いたい。

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徐々に岩が出て来た。

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新緑の中に、川乗橋ルートと合流するチェックポイントの「東の肩」が見えて来た。

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道標に下げられたさまざまな注意書き。

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通行止めのロープ。

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さらに進むと山頂が見えてきた。

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山頂の様子。

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おなじみの山頂標識と三角点。

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ここにも通行止めのロープ。

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山頂はガスがかかっていました。雲取山がかすかに見えました。

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登山道脇の木の枝にぶら下げられたマスク。

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川苔山の登山口。入山時撮り忘れたので、下りた際、あたらめて撮りました。
2020.06.05 Fri l l top ▲
先の戦争での総動員体制下において、今、考えれば狂っていたとしか思えないようなマンガみたいなことを、国家に帰順する国民は真顔で行っていました。その代表例が、竹槍でB29を撃ち落とす訓練でした。しかも、国民は心の中で「バカバカしい」と思いながら嫌々やっていたのではありません。人民史観のマルクス主義者たちは、人民は心の中では「バカバカしい」と思いながら天皇制ファシズムの圧政の下で仕方なくやっていたんだと言いますが、脳天気なドグマに取り憑かれたマルクス主義者が言うほど人民は賢明ではないのです。

今回の新型コロナウイルスでも、似たような話がいくらでもあります。たとえば、緊急事態宣言の発令(発出)に伴い、登山の自粛を呼びかける共同声明を出した山岳4団体(日本山岳・スポーツクライミング協会、日本勤労者山岳連盟、日本山岳会、日本山岳ガイド協会)は、緊急事態宣言の解除を受けて、登山再開に向けてのガイドラインを発表したのですが、その中に次のような項目がありました。

日本山岳会
政府の緊急事態宣言全面解除を受けて
山岳スポーツ愛好者の皆様へ


5.登山中でもマスクを着用しましょう。マスク着用時は、熱中症及び脱水には十分留意し、こまめに水分摂取を心がけましょう。


私は、一瞬我が目を疑いました。登山のプロたちが、マスクをして山に登れと言っているのです。

このガイドラインを受けて、登山をテーマにする某ユーチューバーが、実際にマスクをして高尾山に登ってみましたという動画をYouTubeにアップしていました。そして、「やっぱり、登るときにマスクをしていると息が苦しいですっ」と言っていました。

また、登山関連のSNSでも、高尾山に登った際、登山道ですれ違った人を数えたら、マスクをしていない人が18人で、マスクをしている人は8人しかいなくて、「とても残念な結果でした」と書いている人がいました。

また、前から人が来てないときはマスクを顎にかけて、人がやって来たらマスクをして「こんにちわ」と挨拶していたら、「疲れました」と書いている人もいました。

これでは竹槍でB29を撃ち落とすという話を誰も笑えないのです。

まさに狂気としか思えません。山岳4団体は、今や登山界における大政翼賛会と同じような存在になっているのです。こんなバカバカしい話を誰もバカバカしいと言えない(言わない)異常さ。

登山が趣味の旧知の医者に言わせれば、山で挨拶しても、感染のリスクなどほとんどないそうです(「そんなことより通勤電車をどうにかするべきだ」と彼も言ってました)。前も言いましたが、私たちは、山ですれ違う人といちいちハグしたりキスしたりするわけではないのです。むしろ、これ以上の換気はない山こそ、いちばん感染のリスクが少ないと考えるべきでしょう。

汗から感染するという話にしても、CDC(アメリカ疾病予防管理センター)などの専門家は、ウイルスの感染は、汗ではなく咳やくしゃみなどの呼吸飛沫を介して起こると言っています。汗から感染というのは過剰反応と言っているのです。

ところが、スポーツジムは、(ホントは中高年会員の社交場と化したジムにおいて、会員同士の無防備なお喋りでクラスターが発生したにもかかわらず)汗から感染するという濡れ衣を着せられて休業を余儀なくされ、自粛解除後もソーシャルディスタンスのために、機器を半分しか使用できないような対策を強いられているのです。あれではどう見ても採算は合わないでしょう。

「8割削減」も「県をまたぐ移動」もそうですが、今、私たちはまさに竹槍でB29を撃ち落とすというのと同じような狂気の中にいるのです。ただ、それに気付いてないだけです。
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