山に行くようになって、ときどきYouTubeにアップされている登山の動画を観るようになりました。行く予定の山のアクセスや登山道の状況を確認するという目的もあるのですが、ただ山の情報に関しては、YouTubeより登山愛好家のブログなどの方が全然参考になります。

いわゆる登山系ユーチューバーの動画は、必要以上に手が加えられ動画のイメージにこだわったものが多く、実際に山に行く上ではあまり参考になりません。それもシロウト感覚の編集なので、鼻白むことも多いのです。

実際は「なぜ来たんだろう」とか「もう帰りたい」とかそんなネガティブな気持と戦いながら、ハアハア息を弾ませ鼻水を垂らして登っているはずなのに、そんな素の部分は微塵も見せないのです。

若いユーチューバーの動画ほどその傾向が強く、きれいでカッコいいシーンで構成されたものが多いのです。そして、そんな動画から垣間見えるのは、”あざとさ”です。既に一部のユーチューバーの動画には、「企業案件」と呼ばれる、登山メーカーとタイアップしてギアなどを紹介する動画も存在していますが、これは一時問題になったステマのYouTube版のようなものです。

ホントに山が好きなんだろうか、山に登ることを楽しんでいるんだろうかと思ったりしますが、もとより彼らには、はなからそんな感覚はないのかもしれません。山が好きだから動画を撮ったというより、お金を稼ぐ素材として山を選んだと言った方が適切なのかもしれません。

しかし、現実には登山関連のマーケットは非常に小さく、登山系ユーチューバーとして生活するのは至難の業です。あてがはずれたお金目的のユーチューバーは、早晩、YouTubeを投げ出してフェードアウトするのがオチのような気がします。あるいは、キャンプなどの方がまだしもマーケットが大きいので、同じアウトドアでも他に方向転換するか、どっちかでしょう。

結局、ユーチューバーとして残るのは、それなりにかわいい顔をした若い女性が顔出している動画だけ、という身も蓋もない話になるのかもしれません。若い女性の動画なら、登山と無縁なスケベーなおっさんも観てくれるからです。実際に、女性ユーチューバーの中には、どう見ても”中の人”にプロデュースされているとしか思えないような、”アイドル志向”の人物も登場しています。

ただ、『ランドネ』あたりで”元祖山ガール”として売り出された四角友里や仲川希良などは(あまり詳しくないので二人しか名前が出て来ませんが)、まだしも”あるべき登山“に拘る従来の登山スタイルを保持していますが、今の”アイドル志向”の女性ユーチューバーには、そんな拘りはまったくありません。むしろないことがウリになっているのです。それは、男性のユーチューバーも同じです。

でも、一方で、お金に対する欲望は臆面もなく剥き出しなのです。ヤフオクやメルカリの転売に象徴されるように、シロウトぶっているけどお金には結構えげつない、そういった二律背反もネットの特徴です。

YouTubeがいつの間にか”向銭看”たちの欲望が渦巻く場になったのに伴い、ネット通販と同じように、金を掘る人間より金を掘る道具を売る人間の方が儲かるという、シロウトの浅知恵に付け込んだ“ここを掘れワンワン商法”の草刈り場と化していったのは、当然の成り行きでしょう。

しかも、(何度も言いますが)登山関連のマーケットが先細りになるのは目に見えているのです。

5年に一度実施される総務省統計局の「社会生活基本調査」の平成28年版によれば、15歳以上で登山・ハイキングに行った人は、972万7千人(男性494万5千人、女性478万2千人)だそうです。

総務省統計局
登山・ハイキングの状況-「山の日」にちなんで-(社会生活基本調査の結果から)

これだけ見ると、すごい数字のように思うかもしれませんが、これはあくまで年間1回以上登山やハイキングに行った人の数です。登山やハイキングを趣味にする人の数ではないのです。

年齢別で多いのは、やはり60歳以上の高齢者です。男性では、65~69歳がもっとも多く、全体の13.2%、次に60~64歳の12.7%。女性は、60~64歳が12.0%でもっとも多く、次が55~59歳の11.0%です。60代以上の高齢者に限って言えば、男性が36.8%、女性が30.4%を占めています。

マーケティングの年齢別区分に数字を置き換えてみると、以下のようになりました。

男性
M1層(20~34歳)25.5% 平均行動日数5.2日
M2層(35~49歳)19.6% 5.3日
M3層(50歳以上)61.5% 11.8日

女性
F1層(20~34歳) 27.9% 5.3日
F2層(35~49歳)20.1% 4.7日
F3層(50歳以上)43.3% 7.1日

実際に山ですれ違う登山者たちと比べると、これでも若い人の割合が高いように思いますが、この数字はあくまで年間1日以上登山やハイキングに行った人の割合なので、実際と乖離があるのは当然でしょう。

何度も言いますが、あと10年もすれば、男性で36.8%、女性で30.4%を占める高齢者の多くが山に行くことができなくなるのです。いや、その前にコロナ禍で山登りをやめる高齢者が続出する可能性だってあるでしょう。ポストコロナでいろんな業界の風景が一変するのではないかと言われていますが、登山も例外ではないような気がします。高尾山や御岳山や大山などを除けば、山が閑散とするのは目に見えているように思います。奥多摩駅や武蔵五日市駅のバス停の行列も、そのうち見られなくなるかもしれません。

山ガールブームも今は昔で、山ガールの年齢層も(既に山ガールとは言えないほど)上昇しているのは、山によく行く人間なら気付いているでしょう。つまり、後ろの世代が山に来てないのです。しかも、山ガールたちは、奥多摩で言えば、せいぜいが大岳山か三頭山か高水三山くらいで、それ以外の山に足を踏み入れることはほとんどありません。また、丹沢(神奈川)では、大山以外に表尾根で少し見かけるくらいです。奥武蔵(埼玉)や奥秩父も、棒ノ折山以外はほとんど見かけません。もっとも、年間5日前後の山行(?)ではそれが現実なのかもしれません。

こう考えると、一攫千金を夢見る登山系ユーチューバーのアクセス数が思ったほど伸びず、ほとんど自己満足の世界でマスターベーションしているだけというのもわからないでもないのです。趣味でYoutubeをやっている人は別にして、実利を求める彼らが山から遠ざかり、YouTubeを投げ出すのは時間の問題のような気がします。
2020.07.31 Fri l l top ▲
先日、テレビを観ていたら「帰れマンデー」で、レギュラーのサンドイッチマンがゲストの大谷亮平と渡辺直美と一緒に、檜原街道を歩いているシーンが放送されていました。また、今週の「じゅん散歩」は奥多摩が舞台です。さらに、「アド街」も、近々奥多摩を特集するという話があります。

ついこの前までは、観光客が来るのは「迷惑だ」「怖い」と言っていたのに、この変わりようには唖然とするばかりです。しかも、奥多摩の住民が怖れていた東京の感染者は、「迷惑だ」と言っていた頃に比べても全然減ってないのです。

要するに、彼らは、何の見識もなく、政府が言っていることにただ唯々諾々と従っているだけなのでしょう。緊急事態宣言が出されて、外出自粛が叫ばれていたので、それに従って「迷惑だ」「怖い」と言っていただけで、政府が社会経済活動の再開に方針転換したら、今度は「観光客いらっしゃい!」と桂三枝みたいなことを言い出したのです。「じゅん散歩」では、村長まで出演して檜原村の観光を売り込んでいましたが、ついこの前まで、観光客を閉め出すために駐車場を閉鎖していたのは、どこの誰だと言いたくなりました。

私にとって奥多摩は、山登りでずっと通っていただけでなく、自分の田舎に似たところもあって、ことのほか愛着があります。テレビに出て来るのもおなじみの風景ばかりで、「やっぱり奥多摩っていいなあ」とあらためて思います。

しかし、一方で、この奥多摩の人たちの手のひら返しに対しては、じゃあ、あのとき駐車場だけでなく林道や登山道まで閉鎖して、観光客だけでなく登山客まで閉め出したのは一体なんだったんだと言いたいのです。新型コロナウイルスを巡る状況は何も変わってないのに、彼らの態度はわずかひと月半で一変したのです。

もっとも、これは奥多摩の人たちに限った話ではありません。日本の大衆の原像と言ってもいいものです。その結果、西村秀一氏が言うように、今も戦時中と同じように、私たちの日常は、思考停止した異論を許さない「ファシスト的公共性」に覆われているのでした。

鈴木邦男氏が書いていたように、開戦前、国民は東条英機の自宅に、「早く戦争をやれ!」「戦争が恐いのか」「卑怯者!」「非国民め!」というような手紙を段ボール箱に何箱も書いて送り、戦争を熱望したのでした。ところが、戦争に負けた途端、今度は態度を一変して自分たちは「軍部に騙された」「被害者」だと言い始めたのでした。

今、私たちの前にあるのも、それと同じ光景です。政府が右を向けと言えば右を向き、左を向けと言えば左を向くだけの大衆。挙句の果てには、憲法で保障された基本的人権さえも「新型コロナウイルスのために」何のためらいもなく為政者に差し出す始末です。さらに言えば、「ファシスト的公共性」の旗振り役を左派・リベラルの野党が担っているという(戦争前と同じような)末期的光景さえあるのです。
2020.07.30 Thu l 新型コロナウイルス l top ▲
今日のテレ朝の「モーニングショー」では、東京の足立区で施行された歩きスマホ禁止条例の話題を取り上げていました。

足立区の条例では、ゲームはもちろん、地図も音楽も通話も全て禁止にしているのだそうです。それに対して、共産党の女性区議が、一方的に私権を制限するのは問題で、もっと区民の意見を聞くべきだと反対意見を述べている場面が出ていました。

また、若い男性の区議も、スマホやスマートウォッチで心拍数や血圧をはかったりすることがあり、条例はそういった最先端のITテクノロジーの活用を制限することになると反対意見を述べていました。

街頭インタビューでも、地図や音楽や通話まで禁止するのはやり過ぎだとか、夜、痴漢に遭わないために電話をかけている真似をすることがあるけど、それもできなくなるので困るというような若い女性の意見を取り上げていました。

まったくバカバカしいとしか言いようがありません。アホな人間たちのアホな屁理屈、その一語に尽きます。いちいち取り上げるのさえバカバカしいのですが、スマホで地図を見るのなら立ち止まって見ればいいだけの話です。私は、山に登るとき、以前はスポーツウオッチで心拍数をはかっていましたが、心拍数をはかる機能のない時計に変えてからは、スマホのアプリで心拍数をはかっています。その際も(山の中でさえも)、立ち止まってはかっています。また、休憩時にはオキシメーターではかることもあります。

街中を歩いていて心拍数や血圧をはかる人間がどれだけいるのかわかりませんが、別に歩きながらはかる必要などないでしょう。立ち止まってはかればいいだけの話です(言えば言うほどバカバカしくなる)。

通勤時間帯は特に歩きスマホが多く、もしかしたら30~40%の人間が歩きスマホをしているかもしれません。すれ違う際、スマホの場面をチラ見すると、大半はゲームかSNSかYouTubeです。心拍数をはかっている人間なんて見たことがありません。

朝や夕方の通勤時に駅の階段や狭い舗道で、後続者を堰き止めてノロノロ歩いている人間がいますが、それは決まって歩きスマホの人間です。また、歩きスマホの人間とぶつかりそうになることも多く、非常に危険です。迷惑以前の問題として危険なのです。私自身は、歩きスマホなんて怖くてできませんが、それを日常的に平気でやっている人間たちの感覚には疑いを持たざるを得ません。

歩きスマホ禁止を私権制限と捉える共産党区議の如何にも左翼特有の教条主義は、噴飯ものと言わざるを得ません。新型コロナウイルスに伴う「ファシスト的公共性」には目を瞑り、歩きスマホ禁止をあたかも人権侵害のように言い立てるそのヘタレな姿勢こそ、「大衆迎合主義」=ポピュリズムと呼ぶべきでしょう。私は、共産党区議の発言を聞いて、昔、評論家の大野明男氏が、民青の運動方針について、「欲望のナチュラリズム」ということばを使って批判していたのを思い出しました。

それは、スタジオで共産党区議と似たようなコメントを発していた、元朝日社員の浜田某という女性コメンテーターも同じです。彼女もまた、ただリベラルを装っているだけで、何も考えずに発言しているのでしょう。宮台真司が言うように、「いてもいなくてもどうでもいい」典型的なコメンテーターと言うべきでしょう。

とは言え、足立区の条例には罰則規定がないので、どれだけ効果があるか疑問です。効果をもたせるには、やはり罰則規定を設ける必要があるでしょう。個人的には、足立区や大和市だけでなく横浜市でもどこでも、全国の自治体で歩きスマホ禁止条例ができることを願わずにはおれません。

それどころか、歩数計のような技術を応用して、歩行中に操作できないような装置をスマホに組み入れるべきではないかと思ったりします。トランプのモノマネでTiktokを禁止する前に、歩きスマホができないスマホの開発を提唱すべきなのです。たかが歩きスマホと言うなかれで、歩きスマホは単にマナーだけの問題ではないのです。

歩きスマホをしている人間と、感染防止の意識の低い無神経で「どうしょうもない人間」が重なるのは、少しでも考えれば誰でもわかることでしょう。こういった日常にへばり付いている瑣末な問題こそ大事なのです。いわゆる知識人や文化人と呼ばれる人の中には、「たかが歩きスマホで」「歩きスマホごときに目くじらを立てて」と言わんばかりに、高尚ぶって見て見ぬふりをする人がいますが、知識や言葉を生業とする人間としては、きわめて不誠実で無責任な態度と言えるでしょう。本来思想というのは、こういった日常の瑣末な問題の中から生まれるはずだし、生まれるべきものなのです。
2020.07.29 Wed l 社会・メディア l top ▲
また同じことを書きますが、昨夜も山に行く準備をして、睡眠改善薬を飲みベットに入りました。そして、午前4時すぎに目を覚ましてベランダのカーテンを開けて外を見ました。嫌な予感はしていましたが、やはり雨が降っていました。

前夜の天気予報では、丹沢(神奈川)も奥武蔵(埼玉)も雨です。それで、奥多摩に一縷の望みを託したのですが、ウエザーニュースでは、朝方と夕方は雨で日中は曇りでした。一方、日本気象協会では、終日、ほぼ小雨の予報でした。

そもそも家を出るときに雨が降っていたのではモチベーションは上がりようがありません。それにこの長雨で登山道の地盤も緩んでいるでしょうから、泥だらけになって電車で帰ることを考えると、ますますモチベーションも下がらざるを得ません。

まったく、なんという天気だと思います。テレビの気象予報士たちは、今週には梅雨が明けると言っていましたが、最新の予報では梅雨明けはどうやら8月まで伸びそうです。私の記憶でも、こんなに雨の多い梅雨は初めてです。

新型コロナウイルスに加えこの梅雨の長雨で、ストレスはたまる一方です。昨日も、仕事で出かけた際、体力保持のため、都内の地下鉄の駅4つ分を歩いたのですが、その途中で、感情をむき出して激しく子供を叱責する母親に二度遭遇しました。

一度目は、自転車を押しながら小さな男の子を連れて保育園に向かっているとおぼしき母親でした。後ろで、男の子が激しく泣いているのです。もしかしたら、保育園に行きたくないと泣いているのかもしれません。しかし、母親は、男の子を無視したまま自転車を押してどんどん先を歩いていました。男の子は、置いておかれそうになるので、「ママ」「ママ」といっそう激しく泣いていました。すると、母親は、足を止めると、頭を激しく横に振りながら4~5メートル後ろにいる男の子に向かって、「ああっ、もう!」「早くしてってば!」「何やってるのよ!」と、感情むき出しで怒声を浴びせたのでした。男の子の泣き声はさらに大きくなるばかりです。通行人もみんな母子の方を見ていました。おそらく多くの人たちの脳裡には「虐待」の二文字が浮かんでいたのかもしれません。それくらい母親の感情の高ぶりは尋常ではありませんでした。もし、家の中なら手をあげてもおかしくないような感じでした。あれでは、子どもも一緒に感情を高ぶらせるのは当然でしょう。

それから、しばらく歩くと、また舗道で子どもを叱っている母親がいました。子どもを自転車に乗せようとしているみたいで、「何やってるの!」「早く乗ってよ!」「ホントに、もう!」とあたりはばからず声を荒げていました。「病院に行った方がいいんじゃないの?」と言いたくなるような興奮ぶりでした。ぐずぐずしているのでイラついたのでしょうが、それにしても、たかが自転車でそのイラつきようは尋常ではありませんでした。

ステイホームで、DVや離婚が増えたと言われますが、もしかしたら子どもに対する虐待も増えているのかもしれないと思ったりしました。でも、それは、家庭内の親子や夫婦の話だけではありません。先日の電車の中で遭遇した社会不安障害の若者もそうですが、昨日も愛知県の豊橋で、「神になるために人を殺したかった」という若者が車を暴走させて人を死なせる事件がありました。知人も、電車の中でも乗客同士のトラブルを見ることが多くなり、「みんな、ストレスがたまっているんだなあと思うよ」と言っていましたが、そんな街中の光景には、案外無視できない大きな問題が含まれているような気がしてなりません。人間は、デカルトが言うほど理性的な動物ではないのです。自分で感情をコントロールできれば、誰も苦労しません。

三浦春馬の自殺だって、もしかしたら新型コロナウイルスによるストレスが関係しているのかもしれません。見えないウイルスに怯える世間の空気が、人々の心に暗い影を落としていることもあり得ないとは言えないでしょう。木下優樹菜が芸能マスコミに執拗に叩かれているのも、ストレスのうっぷん晴らしという側面もなくはないでしょう。なんだか、昨日目撃した母親たちの感情の異常な高ぶりと重なっているような気がしないでもありません。

これでもかと言わんばかりに、文字通り水に落ちた犬を叩きつづける芸能マスコミや、それに煽られて木下優樹菜にあらん限りの悪罵を浴びせる芸能人のゴシップ好きの(単細胞を絵に描いたような)人間たちを見るにつけ、もはや狂気ということばでしか解釈のしようがないように思います。コロナウイルスに対する恐怖によって、異常が日常化し社会全体が病みつつあるのです。

そう考えると、(自分で言うのもなんですが)山に行けなくてイライラしているなんて、まだかわいいのかもしれません。
2020.07.28 Tue l 新型コロナウイルス l top ▲
やっと自粛明けで山行が再開されたと思ったら、今度は梅雨の長雨で出鼻をくじかれました。今月は山には一度も行けてなくて、既に前回の山行からひと月が経ってしまいました。しかも、7月も後半だというのに、天気予報から雨マークがいっこうに消えません。前も書きましたが、これではモチベーションは下がるばかりです。モチベーションだけでなく、年を取ると体力もすぐ元に戻ってしまうので、その点も深刻です。

来月あたり九州に帰って地元の山に登ろうと思っていましたが、地元の山も先の豪雨によって登山道が寸断され、とてもじゃないが登れる状態ではない、と地元の友人から電話がありました。なんだか踏んだり蹴ったりという感じです。

一方で、感染者数の増大によって再び自粛ムードも高まっています。戦争中の「欲しがりません、勝つまでは」と同じで、「お金より命が大事」という”観念の暴走“によって、この国は、みずからでみずからの首を絞める愚を犯そうとしているかのようです。

もしかしたら、山岳4団体も再び登山の自粛を呼びかける声明を出すかもしれません。「山と広告」ならぬ『山と渓谷』7月号に掲載されたアンケート(登山自粛意識調査)によれば、山岳4団体の声明に対して、81.8%の人が「支持する」と答えたそうです。「支持しない」人は、僅か6.3%です。

でも、「支持する」人たちは、ホントに山に行くことまで自粛すべきなのかと自分の頭で考えることもせずに、ただメディアの「大変だ」報道を受けて、自粛要請に無定見に従っているだけなのでしょう。国家に帰順させることだけが目的の杜撰で登山者を愚弄した声明の問題点さえわかってないのでしょう。これこそ“おまかせ登山”の最たるものと言えるでしょう。まったく、「自立した登山者であれ」が聞いて呆れます。地図読みができるとか、ビバークするのにツェルトがうまく張れるとか、そんなことだけが「自立」ではないのです。

仮にウイズコロナというのがあるとしたら、これまで以上に自己責任と自己判断が求められるのは言うまでもありません。だからこそ、「正しく怖れる」ことが大事なのです。

と、ここまで書いたら、今日(7/23)の東京の感染者が366人で今までの最多記録を大幅に更新したというニュースがありました。また、愛知県(97人)や埼玉県(64人)なども、最多の感染者が確認されたそうです。国内全体でも、初の一日900人越えを記録したそうです。

4日連休の初日に今までの記録を大きく上回る366人の感染者。これほどインパクトのある数字はないでしょう。

私は、このニュースを見て、今日ネットにアップされた「小池都知事はコロナ感染者数を操作している」という週刊新潮の記事を思い出しました。

gooニュース
デイリー新潮
小池都知事はコロナ感染者数を操作している 「連日200人超え」を演出したカラクリ

専門家も指摘する東京都の感染者数の不自然さ。もっとも、東京都には、(私も再三指摘していますが)いわゆる「病床逼迫」に関しても、「数字操作の『前科』がある」のです。

(略)5月初旬、厚労省のHPに都内の入院者数1832人と記された。病床使用率は9割を超えるというので、複数のメディアが東京は「病床逼迫」と報じたが、本誌が都の感染症対策課に確認すると、1832人には自宅療養や宿泊療養者のほか、退院した人まで含まれ、現実の病床使用率は4割にすぎなかった。


危機を煽り視聴者の耳目を集めるのが、視聴率を稼ぐ手っ取り早い方法です。それと同じように、自分の指導力をアピールするためには、危機を煽り、(パチンコ店や”新宿”や”夜の街”など)特定の業種や地域を仮想敵=スケープゴートとして大衆に提供するのが、もっともわかりやすくて効果的なやり方です。まさに、それこそ“虚言の女帝”の得意技と言えるでしょう。

366人という数字に、官邸と東京都の対立を読み解くこともできるでしょう。GoToキャンペーンから除外され、面子を潰されたことに対する意趣返し(GoToキャンペーン潰し)という側面もなくはないように思います。と同時に、連休中の外出自粛を促すために、都民に向けてインパクトのある数字を出したということもあるかもしれません。

週刊新潮の記事でも、前のブログで紹介した西村秀一氏のことばに続けて、次のように(新潮にはめずらしく)「正しく怖れる」ことの必要性を訴えていました。

「(略)いまは、おかしいと思っても反対できなかった戦時中のようだと思うことがあります。“そんなに気にすることはない”“感染する可能性は極めて低い”と言うと、人命を軽視しているとか、ウイルスの怖さをわかっていないとか、すぐ攻撃されます。ウイルスとの戦いというより、社会との戦いです」

 そんな戦いが必要なのも、操作された数字や、根拠がない扇動的な試算に、われわれが踊らされているからだろう。過剰な不安と無用な対策による犠牲をこれ以上生まないためにも、冷静な目をもって、根拠が示された正しい数字を求めていくしかあるまい。


でも、戦時中と同じような”狂気”の只中にある国民には、こんな声が届くはずもないのです。
2020.07.23 Thu l 新型コロナウイルス l top ▲
連日、東京の新規感染者数が200人を超えたとか、大阪も緊急事態宣言解除後最高の50数人を記録したとか、そんな話がメディアによってセンセーショナルに流されています。

小池都知事が例によって例の如く「感染拡大警報」というフリップボードを掲げて記者会見すれば、メディアはここぞとばかりに、感染が拡大しあたかも重大局面に入ったかのように大騒ぎして、大衆の恐怖心を煽るのでした。

GoToキャンペーンの是非や“夜の街”に対する休業要請などが取り沙汰されていますが、今のように恐怖心を煽ればそっちの方向に進むのは当然でしょう。

でも、宮台真司が言うように、200人だとか50数人だとかいう数字は、厳密に言えば、「新規感染者数」ではなく単に「感染が判明した人」にすぎないのです。市中にいる潜在的な感染者が、検査数が増えたことにより(と言うか、“夜の街”の関係者を重点的に検査したことなどによって)顕在化しただけです。だから、感染者と言っても、無症状や軽症の人が大半で、それが3月の緊急事態宣言前とは決定的に違うところです。

客観的な状況(数字の質)がまったく違うのに、あたかも感染拡大の再来のように言い立てる小池都知事と、そんな“虚言の女帝”のパフォーマンスを追認して大衆の恐怖心を煽るメディア。まさに常軌を逸しているとしか思えません。

政府の感染対策は、今のGoToキャンペーンに見られるように、支離滅裂の一語に尽きます。新型コロナウィルスによって、それまで一部で指摘されていた為政者の能力の問題がいっきに露わになったと言っていいでしょう。そんな中で、私たちは、ウイルス学者の西村秀一氏が言うように、「正しく怖れる」ことが求められているのです。

朝日新聞デジタル
ウイルスの実態と合わない対策 過剰な恐怖広げた専門家

もちろん、街中にはどうしようもない人間も、少なからずいます。いくら感染のリスクが言われていても、飲酒や風俗通いをやめられない人間は一定数存在します。マスクもしないで大声でお喋りしながら歩ている若者に対して、「なんだ、このアホは」と思うことは間違ってはいないのです。

とは言え、彼らは、なにも特別な人間ではありません。例えば、(何度も言うように)あれだけ歩きスマホは迷惑だ、危険だと言われながら、未だ歩きスマホをやめられない人間がいますが、それも同類の人間で、どうしようもない人間たちは私たちのすぐ身近にいくらでもいるのです。「(感染者が増えて)怖いですね」と言いながら、通勤電車で座席を奪い合っているサラリーマンやOLたちも同じです。

こう言うと、今の状況が感染拡大なんかではないという話と矛盾しているように思われるかもしれませんが、市中感染の現状がありコロナが終息したわけではないのですから、感染しないための自己防衛が必要なのは言うまでもありません。そのためにも、メディアに煽られることなく今の状況を冷静に捉え、「正しく怖れる」ことが肝要なのです。そのことと無神経で非常識などうしようもない人間たちに眉をひそめる(軽蔑する)ことは、決して矛盾するものではないのです。

メディアの常軌を逸した扇動報道に関して、下記のマル激トーク・オン・ディマンド「メディアはコロナをどう報じてきたか」は、非常に示唆に富んだものがありました。「正しく怖れる」ためのヒントを与えてくれるものがあるように思いました。

ビデオニュース・ドットコム
マル激トーク・オン・ディマンド
メディアはコロナをどう報じてきたか

ちなみに、ゲストの林香里氏は、ドイツ出張から帰国後、新型コロナウイルスに感染していることが判明し、3月21日から3月31日まで感染病棟に入院した経験も持っているのですが、そのときの体験談にも興味をそそられました。身体の不調を覚え、保健所の「帰国者・接触者相談センター」に電話してPCR検査をしてほしいと訴えたところ、保健所から「そんなことをしても何の得にもなりませんよ」と「説き伏せられた」のだそうです。それで、大学病院に行って、CTスキャンの検査をしたら肺炎の兆候が見られたそうです。しかし、大学病院の医師も、PCR検査はできないの一点張りで検査をして貰えなかったのだとか。ところが、翌日、大学病院の医師から、「方針が変更になったのでPCR検査をします」と直々に電話がかかり、検査の結果、感染が判明して入院することになったのだとか。如何にもこの国のドタバタぶりを表している話だと思いました。

テレビは、コロナのお陰で軒並み視聴率を上げているのだそうです。3月は、前年比で平均5%以上視聴率が上がったのだとか。しかし、恐怖心を煽って視聴率を上げたものの、そのために経済活動が停滞したため、逆に広告収入が落ちたというマンガみたいな話になっているのです。

どうしてただ恐怖心を煽るような「単純化」した報道になるのかということについて、宮台真司は、テレビのコメンテーターのレベルに合わせているからではないかと言っていましたが、当たらずといえども遠からずという気がしました。

宮台真司らも口を揃えて言ってましたが、メディアが報道すべきは、「今日の感染者数」ではなく「今日の重症者数」の方でしょう。検査数によって増減し、いくらでもコントロール可能な感染者数なんか取り上げても、ほとんど意味がないのです。それより重症者の動向の方が、感染状況を知る上ではよほど意味があります。

日本は、公表感染者数が欧米に比べて桁違いに少なく(それも二桁も三桁も少ない)、欧米の医療関係者から不思議がられているのですが(と言うか、首を傾げられているのですが)、にもかかわらず医療崩壊の怖れがあると散々言われていました。日本の医療体制はどれだけ貧弱なんだと思いますが、しかし、記者会見でそのことを質した記者は誰もいませんでした。しかも、じゃあ第二波に備えて病院のキャパを増やしたのかと言えば、まったく増やしてないのです。ホントに口で言うほど深刻なのかという疑問さえあります。もとより、医療崩壊の怖れ云々が、PCR検査抑制の口実に使われていたことは事実でしょう。メディアも、そんな肝心な問題については見て見ぬふりで、ただ「感染者が増えて大変だ」とバカのひとつ覚えのように言うだけです。

宮台真司が言ってましたが、アベノマスクで466億円使ったあの時点で、PCR検査には10分の1の45億円しか使ってなかったそうです。そういった政府の“不都合な真実”を報道したメディアも皆無でした。

メディア論が専門の林香里氏は、今のメディアの現状について、昔に比べて放送時間が長くなったニュース番組の中をコンテンツで埋めて、さらにスポット広告を入れるために延べ視聴率を維持しなければならない、そんな目の前のことに追われる日常では、イノベーション(あたらしい発想)が生まれる余地はないと言っていました。プロデューサーも所詮はサラリーマンなので、社内リスクを取るようなことはせず、漫然と(他社と)同じことを繰り返すことに終始するのは、当然と言えば当然かもしれません。それは、お笑い芸人や元スポーツ選手がコメンテーターに次々と採用されるという”珍現象”にも表れているのです。そして、そこで流されるのは、コメンテーターのレベルに合わせた(そのことはとりもなおさず視聴者のレベルに合わせたということでもあります)「陳腐でスカスカの情報」(林香里氏)なのです。

このようなお粗末なコロナ報道の中で、私たちには「正しく怖れる」ための知識と行動が求められているのです。それは、とりもなおさず自己防衛しコロナ禍を生きぬく自分のためでもあるのです。
2020.07.21 Tue l 新型コロナウイルス l top ▲
プロ野球の公式戦も、先週から観客を入れるようになりましたが、甲子園球場の阪神対ヤクルト戦で、興奮した阪神ファンが声を張り上げて応援したため、試合が中断し球審が観客に注意するという一幕があったそうです。スポーツ新聞は、「ファンが試合を止めるという残念な事態が起きた」と書いていましたが、観戦するのも、飛沫感染を防ぐために、大声の応援を禁止しているのです。観客も、球場の収容人数の4分の1だかに制限した予約制にしているそうですが、それもソーシャルディスタンスを守るためなのでしょう。

とどのつまり、これらの予防策は、観客の中に、(他人にウイルスをうつす)発症期間中の患者が混ざっているということが前提になっているからです。しかし、市中感染率さえ把握していない日本では、ホントにいるのかどうか誰も知らないし、誰にもわからないのです。日本の感染対策は、そんな雲を掴むような話が前提になっているのです。それでは、無神経と過剰反応の両極端に分かれるのもわかる気がします。

昨日、旧知の会社に行ったら、自粛解除後に若い社員たちが飲み会を再開しているので「怖い」という話をしていました。フロアの机には、一応、アクリルの仕切り板が付けられていましたし、入口には、体温計と消毒液も常備されていました。しかし、フロアではほんどの社員がマスクを外して仕事をしていました。

普段、マスクをする習慣がないので、マスクをするのが「ウザい」「面倒くさい」のかも知れません。彼らにとって、マスクは、あくまで外に行くときに(仕方なく)付けるものにすぎないのです。その一方で、このような緩んだ空気に危機感を持っている社員も少なからずいるのでした。

私は、このような社内の風景はなんだか今の日本の社会の縮図のように思いました。誰が感染しているのかどうか、ホントに感染した人間がいるのかどうかもわからないのに、感染者がいることを前提に感染防止策を取らなければならないのです。ウィズコロナなるものは、こんな雲を掴むような、実に曖昧な話の中で進められているのです。

それで、私は、「会社がお金を出して全社員のPCR検査か抗原検査をすればいいんじゃないの」と言いました。「そして、感染している社員は発症期間が終わるまで特別休暇を与えればいいんだよ」と。

とりあえず、発症していない社員で仕事をして、感染している社員も発症期間が終われば順に職場に復帰すればいいのです。休むと言っても1週間かそこらなので、そんなに仕事に支障をきたすことはないでしょう。それに、感染者も、せいぜい1割いるかどうかでしょう。

「それは、経営者の見識の問題だと思うけどな」と私は言いました。ホントは「社長がバカであるかどうかの試金石」と言いたかったのですが、さすがにそこまであからさまには言えませんでした。

これは、今の政府にも言えるのです。誰が感染者かわからないのに、横に感染者がいることを前提にソーシャルディスタンスを取れと言っているのです。一方で、何度も言いますが、日毎に混雑度が増している通勤電車は、相変わらず対象外(治外法権)なのです。

山に行くのに電車を利用すると感染のリスクが増すなどと言うくせに(実際はガラガラだけど)、都心に向かう“無神経”と“密”の象徴のような通勤電車は見て見ぬふりなのです。それで、感染経路不明者が増えたなどとまぬけなことを言っているのです。

どうして中国や韓国やアメリカやイタリアやフランスやイギリスやロシアやブラジル(あげたらきりがない)のように、検査をしないのか。アメリカのニューヨーク州では、無症状であっても希望者は無料でPCR検査を受けることができるそうです。ほかの国でも大半は無料のようです。積極的に検査をすれば、新規感染者は今の10倍も100倍も、あるいは1000倍も増えるかもしれません。でも、新規感染者は、一部の重症者を除けば、1週間も休めば社会(職場)復帰できるのです。それに、1000倍も新規感染者が増えれば、感染者がいるのが当たり前になり、感染に対する理解も進み、今のような感染者=不心得者のような差別もなくなるでしょう。また、感染者が可視化されれば、重症のリクスがある高齢者との接触も減るでしょうから、医療崩壊の主因である重症患者の増大も抑えることができるのです。

今、GoToキャンペーンに対して、延期すべしと言う声が大きくなっていますが、しかし、苦境に喘ぐ観光業者にとって、GoToキャンペーンは文字通り旱天慈雨のようなものです。もし、GoToキャンペーンが延期されれば、零細な観光業者はトドメを刺されることになるでしょう。

もちろん、GoToキャンペーンにも怪しげな部分もあります。私は、今まで二度キャンセルしていますので、来月あたり九州に墓参りに帰ろうかと思って(ついでに九州の山に登りたいという本音もあり)、航空券と宿泊料金がセットになったツアーをチェックしていたのですが、GoToキャンペーンの前倒しが決まった途端、半額補助を目論んだのか?ツアー料金がいっきに20~30%跳ね上がったのでした。電通ではないですが、キャンペーンの指定業者は、まるでお約束のように、そうやって税金にたかり暴利を貪る“権益”を行使しはじめているのでした。GoToキャンペーンで安く行けると思っているかもしれませんが、キャンペーンが適用される前に”便乗値上げ”しているので、ツアー料金に関する限り、実際はそんなに安くなっているわけではないのです。

それでも、哀しいかな、零細な観光業者は、少しでもおこぼれを頂戴しようとGoToキャンペーンに一縷の望みを託しているのでした。GoToキャンペーンが一時しのぎの弥縫策であるのは言うまでもありませんが、でも、末端の観光業者の苦境を考えると、弥縫策であっても一時しのぎをするしかないのです。もう以前のようにインバウンド客が戻って来ることはないにしてもです。きつい言い方をすれば、GoToキャンペーンは、これから淘汰される観光業界に対する”餞(はなむけ)”のようなものと言っていいのかもしれません。

霞を食って生きて行くわけにはいかないので、コロナ禍の中でも社会経済活動を再開しなければならないのは当然です。だからこそ、検査が必要なのです。政府が言うように、感染防止策を講じながら社会経済活動を再開するのなら、まず検査をすることでしょう。徹底的に検査をして、市中の感染者を可視化することでしょう。

もちろん、その結果、新規感染者が万単位で増えたとしても、誰が感染しているかわからないよりはるかにマシで、大騒ぎするような話ではないのです。言うなれば、(モーニングショーの玉川徹氏のことばを借りれば)社会経済活動と検査は車の両輪のようなもので、そうやって両方をまわしながらウィズコロナの時代を生き抜いていくしかないのです。

日本政府が検査をサボタージュしているのは、まだオリンピック開催にこだわっているからでしょう。開催国としては、感染者が増えると都合が悪いからです。そのために、こんな雲を掴むような感染防止策しか取れないのです。言うなれば、(できるわけがない)オリンピックのために、国民はみずからの健康(感染)を犠牲にされているのです。でも、多くの国民にはその自覚がないようです。

賢明な国民であるならば、GoToキャンペーンを延期しろなんて言う前に、もっと検査しろ、検査してくれと要求すべきでしょう。
2020.07.16 Thu l 新型コロナウイルス l top ▲
おとといの夜、時間が空いたので、山に行く準備をして床に就きました。そして、早朝4時すぎに目を覚まし、真っ先にベランダに出て夜が明けたばかりの空を見ました。しかし、一面暗い雲におおわれ、今にも雨が降り出しそうな空模様でした。朝の空に一縷の望みを託していたのですが、これでは諦めるしかありません。がっかりしてまたベットに戻りました。

この週末はつかの間の晴れ間が望めそうですが、私は用事があって山に行くことができません。来週は、天気予報ではずっと雨マークです。

このように、梅雨とは言え、今年は雨にたたられて、なかなか山に行くタイミングが合いません。前回の山行から既に2週間近くが経っています。せっかく山行を再開して体力も戻りつつあると思っていたのに、これでは元の木阿弥です。年を取ると体力の問題は深刻で、少なからぬ焦りを覚えています。と言うか、こんなに気勢をそがれると山に行くモチベーションも下がるばかりです。

モチベーションが下がると言えば、ハイカーにとって、政府の不要不急の外出自粛要請に呼応して、登山の自粛を呼びかけた山岳4団体の声明や、自粛解除後に、登山中のマスクの着用を呼びかけたガイドラインなどは、その最たるものと言えるでしょう。

日本山岳会は、戦時下において「日本山岳聯盟」という山岳団体を糾合した翼賛団体の設立を呼びかけるなど、鬼畜米英・大東亜解放の侵略戦争に積極的に関与・協力してきたのですが、自粛の呼びかけや自粛解除後の「新しい生活様式」に準じたガイドラインなどに示されているのは、「自立した登山者であれ」という登山の持つ”自主自立の精神”そっちのけの、ただ国家に帰順することを一義とする翼賛的な姿勢です。戦争協力の時代に日本山岳会の会長を務めた木暮理太郎が神格化されていることにも、私は首を捻らざるを得ません。もっともそれは、同じ山岳4団体に名を連ねた、日本共産党の“友好団体”とも言われる日本勤労者山岳連盟も、似たかよったかなのです。

世界の高峰に日本人として初登頂をめざす、いわゆる「先鋭的登山」が国威発揚と結びついていたことはよく知られていますが、もともと登山と国家は切っても切れない関係にあったのです。戦争中も、登山は「高度国防国家建設」のための「国民心身鍛錬運動」の一翼を担うものとして、むしろ国家から奨励されていたのでした。

『ランドネ』(7月号)の座談会における次のような発言は、多くの登山愛好家が共有するものではないでしょうか。発言者は、静岡大学教授で、日本オリエンテーリング協会顧問の村越真氏です。

村越   山岳団体が出した自粛メッセージのなかで違和感を感じたのは、そうした“自立した登山者としての基本”を強調せず、コロナがあるからというスタンスでしか書かれていないことでした。本当はコロナ禍でなくたって遭難は避けるべきだし、可能な限り自力下山して、救助隊や医療機関に負担をかけるべきではないわけです。
そのごく当たり前のことをいまこそ見直そうという促しが、自粛メッセージから感じさせない点が不充分だと考えています。

(『ランドネ』2020年7月号・「これからの山歩きを考えよう座談会」)


山岳4団体は、戦争中と同じように、ただハイカーを国家に帰順させることしか念頭にないかのようです。まるでそれが彼らの役割であるかのようにです。

もっともそれは、新型コロナウイルスにおける自粛体制そのものにも言えるのです。自粛体制には右も左もないのです。左派であるなら、自粛なんて糞くらえと言ってもよさそうですが、そんな声はまったく聞こえてきません。むしろ、政府の不作為を批判しながら、再度の自粛を主張しているフシさえあるくらいです。

左右が国家にひれ伏す今の自粛体制=翼賛体制は、都知事選で小池都知事が366万票という歴代2番目の得票を獲得したことにも端的に表れています。なにしろ次点の宇都宮健児候補に280万票もの大差を付けた、歴史的と言ってもいいほどの圧勝でした。

私が今回の選挙で注目したのは、投票前に行った下記の東京新聞の世論調査です。

東京新聞 TOKYO Web
誰に投票? 野党支持層は分散【都知事選世論調査】

立憲民主党の支持者の中でも、56.1%が小池知事に投票すると答えているのです(宇都宮氏は22.2%)。国民民主党に至っては、62.9%が小池知事で、宇都宮氏は0%(誤差の範囲?)です。共産党でも、21.4%が小池知事(宇都宮氏59.0%)です。

東電労組主体の電力総連に牛耳られている連合東京が小池知事を推薦したということもあるのでしょうが、野党支持者でも小池都知事の自粛パフォーマンスは、政治信条を越えて支持されているのです。

東京の新規感染者200人超えが3日続いていますが、これから左右を問わず、益々罰則を設けた再度の自粛を求める声が強まることでしょう。もしかしたら、野党がその音頭を取るようになるかもしれません。

多くの国民にはまだその自覚がないようですが、これから大倒産・大失業の時代が待ち構えているのは間違いないのです。コロナ禍があと何年続くか、見通せない状態であるのは否定すべくもない事実でしょう。オリンピックなんてできるわけがないのです。

コロナ禍は、まさに世界史を塗り替えようとしていると言っても過言ではありません。アメリカの苦境と迷走が示しているのは、アメリカが世界の覇権を失って超大国の座から転落することがいよいよ現実になったということです。そして、香港に対する強権の行使や東南シナ海の海洋進出など中国の強気な姿勢が象徴しているのは、アメリカに代わって中国が覇権国家として、その存在感を再び世界史の中に示しつつあるということです。

そんな歴史的なコロナ禍の中にあって、日本は再び内向きの一国主義的な方向に進もうとしているのです。一致団結して危機を乗り越えようという現状認識においては、与野党も左右も寸分も違いはありません。でも、無定見に経済より命が大事だという”情緒“に流され、憲法で保障された基本的な権利を何のためらいもなく国家に差し出している今の状況は、もしかしたら先の戦争と同じように、自粛=自滅への道であるかもしれないのです。

なにより、江戸時代のような”鎖国政策”では飯を食っていけるわけがないのです。たとえば、観光業も国内市場が縮小したからインバウンドに活路を求めたはずなのですが、ここに至ってインバンド頼りからの脱却みたいことがまことしやかに言われているのでした。でも、それは、どう考えても負け惜しみにすぎないのです。大倒産・大失業に加えて、10万円給付やGoToキャンペーンなどのツケで、大増税も間違いなくやって来るでしょう。いくら「ニッポン、凄い!」「ニッポン、がんばろう!」と自演乙しても、今のように内向きになっている限り、にっちもさっちもいかなくなるのは目に見えているのです。星野リゾートの社長も、インバウンドからの脱却、日本の良さを見直すべきみたいなことを言ってましたが、観光業の現状を知る人間として、これほど無責任で稚拙なもの言いはないだろうと思いました。

稚拙と言えば、れいわ新選組の大西某の「命の選別」発言も然りで、大西某は論外としても、この問題では山本太郎の危うさや稚拙さがいっきに露呈されたように思えてなりません。そもそも、元外資系銀行の為替ディラーで、どう見ても新自由主義者でしかない大西某なる人物がどうしてれいわ新選組の比例代表候補だったのか、よくわからない部分がありました(ほかにも不可解な候補予定者が何人もいます)。公務員をもっと増やすとか再度10万円を一律給付するとか、山本太郎の主張には、貧困者対策とどう関係があるのかという疑問もありました。ただ、右か左かではなく上か下かで言えば、山本太郎だけが上か下かの視点を提供していたのはまぎれもない事実で、れいわ新選組の路線自体は(多分に場当たり的なものではあったにしても)間違ってなかったのです。その意味では、れいわ新選組も自滅の道を歩みはじめたと言っていいのかもしれません。

「命の選別」発言は、れいわ新選組を支持する下層の人たちに対する、弁解の余地のない裏切りであるのは言うまでもありません。にもかかわらず、「命の選別」発言にもっとも敏感に反応すべき舩後靖彦参院議員や木村英子参院議員から正式にコメントが出て来ないのも、不思議な気がしてなりません。

一方で、立憲民主党の国会議員や支持者たちが、ここぞとばかりに執拗に“山本太郎叩き”をしていることにも違和感を抱かざるを得ません。そこには、左翼の常套手段である“社民主要打撃論”と同じような、党派的な思惑が垣間見えてならないからです。

余談ですが、立憲民主党の有田芳生参院議員や評論家の安田浩一氏が、これからの日本の中枢を担うのはれいわ新選組と日本第一党だという、れいわ新選組のなりすましツイッターを真に受けて激しく反応していたのは、彼らのネットリテラシーの低さもさることながら、”社民主要打撃論”による先入観が丸出しで、語るに落ちたという気がしてなりませんでした。このような山本太郎を叩いている旧左翼のお粗末さも見過ごしてはならないのです。

れいわ新選組は解党的出直しが必要だという声がありますが、社会運動の基盤のない政党に、今の状況を剔抉する革命的なエネルギーを求めるのは、ないものねだりの子守歌でしかないでしょう。と言うと、なんだか大袈裟な話になりますが、(今まで私たちが知らなかった)事務所運営の杜撰さや秘書の問題などを考えると、山本太郎も所詮は”古い政治”から脱却できない口舌の徒に過ぎなかったと言うべきかも知れません。

しかし、何度もくり返しますが、同時に左の全体主義者のよこしまな“社民主要打撃論”にも、くれぐれも注意しなければならないのです。国家への帰順を一義とする点においては、スターリニストとファシストは紙一重なのです。

立憲民主党や国民民主党が野党である不幸は今更言うまでもありませんが、あらためて野党を取り巻く殺伐とした光景を見るにつけ、すべてが(右も左も)国家に収れんされていくんだなという暗澹たる思いしか抱き得ないのでした。
2020.07.12 Sun l 社会・メディア l top ▲
東京都の新型コロナウイルスの新規感染者数は、その後、50人どころか5日連続で100人を超え、小池都知事の口からは、再び「不要不急の他県への移動」を控えるようにとの発言も出ています。でも、これも「いかさま王」(PRESIDENT Online)のいつもの口舌にすぎないのです。

PRESIDENT Online
いかさま王をまたも選んだ東京都民の罪…あまりに残酷な僕たちの民主主義

メディアは、如何にも「第二波」が到来しつつあるかのような大仰なもの言いをしていますが、100人超えは、岡田晴恵氏が言うように、「一波の燃え残り」であるのは明らかでしょう。要するに、潜在的な市中感染者が可視化されているにすぎないのです。

アメリカでは一日に5万人の新規感染者が発生して、「再び感染拡大が懸念されている」というニュースがありましたが、私は、そのニュースを見て、(不謹慎な言い方ですが)アメリカが羨ましいなと思いました。5万人の新規感染者が出たということは、(正確な数字を見つけることはできませんでしたが)一日に50万件かあるいはそれ以上のPCR検査をしていることは間違いないのです。「アメリカでは、他の国よりもはるかに多くの検査を行っており、常に拡大しているため、感染者数が増え続けている。検査の規模が小さければ、症例数も少なくて済むだろう!」(ツイッターより)というトランプの発言は、必ずしも負け惜しみとは言えないのです。

一方、日本は厚労省が公表している数字を見ても、相変わらず1万件も満たない”低空飛行”を続けています。東京都に至っては、多い日でも2千件台です。もし日本でアメリカと同じように、一日に50万件のPCR検査をしたら、5万人とは言わないまでも1万人以上の新規感染者が出るのは間違いないでしょう。大塚英志ではないですが、新規感染者が少なくて「ニッポン凄い!」というのは、単にPCR検査をコントロールして自演乙しているにすぎないのです。テレビでPCR検査の拡大を訴えていた大谷義夫医師が、「反日」「売国奴」のレッテルを貼られてネトウヨの攻撃の対象になったように、検査をしないで新規感染者数を少なくみせることが、この国では「愛国」になるのです。

朝日新聞デジタル
感染拡大せず「日本スゴイ」…80年前と重なる嫌な流れ

7月1日からレジ袋の有料化が義務付けられ、普段の買い物はともかく、出先で弁当を買ったときなど大変不便になりましたが、そもそも日本から毎年排出されるプラスチックごみの中で、レジ袋が占める割合は2%にすぎないのだそうです。つまり、レジ袋を削減しても、プラスチックごみの削減にはほとんどつながらないのです。小泉環境大臣は、レジ袋の有料化は環境問題に対する意識を高めるために必要だというような言い方をしていましたが、それなら同じ論法を新型コロナウイルスにも適用して、PCR検査や抗体検査を行うべきでしょう。

おとといの日曜日、用事があったので、夕方の電車に乗って都内に行きました。駅に向かっていると、若者のグループが大声で騒ぎながら駅前の舗道を歩いていました。もちろん、誰もマスクを付けていません。既に酔っぱらっているみたいで、タガログ語?みたいな外国語と日本語が飛び交っていました。そのうち、通りの店のガラスドアを蹴破るのではないかと思うくらいの傍若無人な騒ぎようでした。私は、「どうしようもない連中だな」と心の中で悪態を吐きながら、横を通りすぎました。

日曜日なので、渋谷方面の電車は空いていました。電車に乗り込み、横を見ると、3人掛けのシルバーシートに若い男性がひとり座っていました。また、向かいの席には、中年の女性が座っていました。

私は、男性が座っているシートのドア側の席に腰を下ろしました。私と男性との間には一人分の空席があります。男性は、女性のスカートのようなやけに幅の広いズボン(?)を履き、見るからに奇抜な恰好をしています。

ところが、私が席に付くと、男性は急に立ち上がり、私に何やら悪態を吐きながら、斜め前の長いシートに移動したのでした。そして、席に付いてからも私に向かって悪態を吐いていました。それで、私は、「なんだよ。何か文句があるのか?」と言いました。すると、男性は、プリプリした様子で、さらに進行方向の先にある別のシートに移動して行ったのでした。

向かいの席に座っていた女性は、「あの人、変なんですよ」と言って顔をしかめていました。私は、「コロナに過敏に反応しているんじゃないですかね」「ゴミ問題が取り上げられたら、ゴミに対して異常に執着する人間がいるでしょ。あれと同じですよ」と言いました。

電車はやがて日吉駅に着きました。車両の前方を見ると、日吉で降りて行く男性の姿がありました。そして、ドアが閉まりました。ところが、ふと目を上げると、いつの間にか私の前方の窓の外に男性が立っていて、私の方にスマホを向け写真(か動画)を撮っていたのです。向かいの女性もそれに気付いたみたいで、振り返って窓の外を見ていました。ドアが閉まったあとなので、どうすることもできません。こんなことならしばいておけばよかったと思いました。

もしかしたら、私の画像を「頭がおかしいオヤジがいた」などとキャプションを付けてSNSに上げるつもりなのかもしれません。向かいの女性は、「気持が悪いですね。怖いですよ」と言っていました。私は、✕✕に刃物ならぬ✕✕にスマホという不謹慎なことばを思い浮かべました。

おそらく、傍に来ただけでもウイルスに感染すると思っているのでしょう。このように、新型コロナウイルスに過剰に反応するビョーキな人々も既に出て来ているのです。

たしかに、新型コロナウイルスに対する世の中の反応には、無神経と神経過敏(社会不安障害)の両極端に分かれている感じがしないでもありません。

だからこそ、何度も言いますが、感染経路として懸念される、30代以下の若者と通勤電車を利用するサラリーマンやOLたちに対して、集中的に検査を行うべきなのです。検査もしないで、「感染経路が不明な人の割合が増えています」などと言われれば、感情をコントロールできない人の中には、電車の中の男性のように、過剰に反応する人間が出て来るのは当然でしょう。

何度も言いますが、私たちは、自己防衛と自己管理と自己判断でこのコロナ禍の世の中を生きて行くしかないのです。それでなくても大倒産・大失業の時代を迎えようとしているのに、再び自粛なんて言ったら、もう“集団自殺”するしかないでしょう。罰則を設けてもう一度自粛すべきなんて言っているのは、生活感が欠如した無為徒食な人々の過剰反応によるトンデモ話にすぎません。無神経と神経過敏の両極端を排して、自己防衛と自己管理と自己判断で生きて行くためにも、遍く検査を行うことで今の自分の感染状況を知り、ひとりひとりが自覚を持つ必要があるのです。レジ袋の有料化と同じように、そういう自覚を促す必要があるのです。

なんだかいつも身も蓋もないようなことを言っている気がしてなりませんが、一方で、どうしてこの程度の身も蓋もないことさえできないのだろうと思わざるを得ないのでした。
2020.07.07 Tue l 新型コロナウイルス l top ▲