30日の東京都の新規感染者は944人です。これは、今までいちばん多かった26日の949人に次いで2番目に多い数字だそうです。

小池都知事は緊急記者会見を開き、感染者が急速に増加して、「医療提供体制もひっ迫しており、危機的状況に直面している」、今のペースで増加すると、「2週間後には日々1000人を超えるペースで新規陽性者が発生していくことになる」と述べたそうです。

Yahoo!ニュース
THE PAGE
「『緊急事態宣言』要請せざるを得なくなる」 小池都知事「年末で感染抑え込みを」

さらに、若者に向けて、次のようにメッセージを発したのです。

(略)「コロナを甘く見ないでください。夜間の外出もしばらくはなし」と警告。「軽症、無症状のまま行動して、結果として感染が拡大すると、コロナ患者のために医療がさらにひっ迫します。ひいてはコロナ以外の救急医療や通常医療も圧迫されてくるのです。受けられるはずの医療が受けられなくなる。助かるはずの命が助からなくなる。だから、『若いから大丈夫』ではありません」と強調した。

Yahoo!ニュース
THE PAGE
小池都知事、若者に「コロナ甘く見ないで」 「こんなはずじゃなかった」では手遅れ


昨日(29日)も用事があって副都心線で渋谷~原宿~新宿~池袋を通ったのですが、渋谷や新宿から乗って来る乗客はコロナ前の休日と変わらないくらいでした。帰省する人が少ない分、街に繰り出す人が多いのでしょう。

繁華街にある飲食店の客の入りは、5割減とか4割減とか言われていますが、逆に言えば、それでもコロナ前より半分くらいの入りはあるのです。飲食店が大変なのはよくわかりますが、今の感染状況を考えれば、その数字にも驚くばかりです。

通勤電車も然りで、緊急事態宣言のときよりはるかに乗客が多くなっています。我先に座席に殺到する乗客たちの行動も、感染拡大下にあるとは思えないくらい元に戻っています。

いくら小池都知事が危機感を煽っても、もう人々が危機感を抱くことはないのです。いったん緩めた手綱は締め直すことはできないのです。そもそもこの感染拡大を招いた一因は、第三次感染を前にして、小池都知事の強い希望により東京都がGoTo除外から解除されたからでしょう。それで都民がいっせいに旅行に出かけるようになり、交通機関も観光地も混雑しはじめたのです。

特に若者たちは、解除をきっかけに感染などどこ吹く風で遊び歩くようになりました。それまでは繁華街を出歩くのにためらいがあったように思いますが、GoTo解除でためらいがなくなり開き直った感じです。若者たちの行動が、年末年始にさらにエスカレートするのは目に見えています。しかも、渋谷や新宿や池袋などの都心だけでなく、私鉄沿線の駅前の飲み屋街も人出が増えています。

若者たちがウィルスの運び屋になっている今の状況では、2週間後、新規感染者数が1000人を超えるのは必至でしょう。

何度も言いますが、「正しく怖れる」などどこかに吹っ飛んでしまったのです。自粛警察でも、無知無神経なノーマスクでもなく、各自が正しい知識に基づいた「正しく怖れる」ことが大事ですが、もう全ては元の木阿弥になってしまったのです。

岩田健太郎医師は、今月初め、菅首相の「トラベルが主要な原因だというエビデンスは存在しない」「トラベル事業の利用者延べ4000万人に対して関連する感染確認は180人程度」という(アホ丸出しの)発言を次のように批判していました。

新型コロナウイルスは、例えば西ナイルウイルスのように渡り鳥が媒介したりはしない。感染の広がりは人から人によるものだ。日本各地に感染が広がっているのは、人がある自治体から別の自治体に移動しているからだ。それ以外の感染経路は想定できない。よって、人の移動が日本での新型コロナウイルス感染を広げているのである。(略)

GoToが日本でコロナ拡大を助長したと考えるほうが合理的だし、そうでないという「エビデンスはない」。

政府がGoToキャンペーンで「コロナなんて怖くない。経済対策のほうが優先だ」といった「ノリ」を作ってしまった罪は大きい。経済対策は重要だが、それは十全なる感染対策とコロナ感染縮小が可能にする対策だ。ブレーキとアクセルを同時に踏めば、つんのめって事故るだけだ。

Web医事新報
【識者の眼】「GoToが広げるコロナの『ノリ』」岩田健太郎


何より、菅首相のステーキ会食は、感染対策の呼びかけをみずからぶち壊す愚行と言えるでしょう。銀座のステーキ店で行われた忘年会のメンバーは、菅首相のほかに、自民党の二階俊博幹事長、林幹事長代理、ソフトバンクの王貞治氏、俳優の杉良太郎氏、みのもんた氏、政治評論家の森田実氏です(出席者は8人で、もう一人の「自民党関係者」が誰なのか不明です)。王以下は、それぞれの分野で業績を残したとは言え、言うなれば現代の幇間と呼ぶべき人間たちです。

しかも、当日は感染拡大によりGoToトラベルの全国一斉停止を発表したばかりなのです。なんだか江戸時代、一般庶民には牛肉を禁止していながら、幕府の上級武士たちは牛肉を食べていた話を彷彿とさせます。これでは、政府が発信する感染防止に国民がソッポを向くのは当然でしょう。しかも、このオキテ破りの会食についても、菅首相に張り付いている大手メディアの番記者たちは、当初スルーしていたのです。『FLASH』かどこだかが報じて大騒ぎになったので、しれっと追随して報道しはじめたのでした。

政治家たちが見くびっているのは国民だけではないのです。歌を忘れたカナリアのメディアも同様です。政治家たちは、書かないとわかっているので、記者の前でこういったデタラメを平然と行うことができるのでしょう。

もしオリンピック開催を強行するなら、春以降、感染が収束した(山を越した)というキャンペーンがはじまるはずです。その際、オキテ破りの会食をスルーした大手メディアが、電通ともども大きな役割を担うのは間違いないでしょう。

追記:
31日の東京都の新規感染者が1337人と発表されました。僅か一日で千人台が現実になりました。
2020.12.30 Wed l 新型コロナウイルス l top ▲
日本の不思議。前から何度も言っていますが、どう考えてもオリンピックなんてできるわけがないのに、何故か誰もそう言わないのです。野党もメディアも誰も言わない不思議。

テレビのスポーツ番組などは、オリンピック開催を前提に、候補選手にまじかに迫ったオリンピックに対する抱負をインタビューしたりしていますが、正気かと言いたくなります。

折しも、政府は今日、「新型コロナウイルス変異種の国内侵入を防ぐため、全ての国・地域からの外国人の新規入国を今月28日から来年1月末までの間、一時停止すると発表した」(共同)そうです。

東京オリンピックは、来年の7月23日から8月8日まで開催される予定です。半年前まで外国人の新規入国を停止するような状態で、ホントに開催できるのでしょうか。それでもできると考えるのは正気とは思えません。

私は、安倍晋三の記者会見を観ているうちに、”安倍晋三という病い”という言葉が浮かんでなりませんでしたが、嘘に嘘を重ねる安倍晋三と同じように、ここに至ってもオリンピック開催が可能と考えるのも、もはや”狂気”の領域に入った気さえします。政府や与党だけではありません。野党もメディアも、その”狂気”を共有しているのです。

2月からワクチンの接種がはじまるそうですが、それが全国民に行き渡るのに1年以上かかると言われています。それどころか、COVID-19が収束するのにあと2年くらいかかるだろうという専門家の声もあります。それでも見切り発車をして開催するつもりなのでしょうか。

外国では、オリンピックの選考会どころか、選手たちは練習さえしていない国も多いのです。そんな国がホントにあと7ヶ月後に選手を派遣することができるのでしょうか。

でも、何度も言いますが、メディアも野党も誰もこんな疑問を口にすることはありません。

先の戦争では負け戦とわかっていても、誰もそう言わずに大本営発表を流し続けたのですが、また同じ愚をくり返しているのです。これでは全体主義国家と同じです。

感染力が強いと言われている変異種のウィルスも広がりつつあります。安倍応援団として、一緒になって嘘を流し続けた産経新聞やフジテレビは、来年の2月には収束するだろうというあらたな嘘を流していますが、変異種のウィルスの問題ひとつをとっても、これから収束までひと山もふた山もあるのは間違いないでしょう。

野党にしても然りです。こんな野党に何を期待するというのでしょうか。そもそもこんな野党が信用できるでしょうか。オリンピック開催という国策に関しては、与党も野党もないのです。先の戦争を遂行した大政翼賛会と同じです。

オリンピック開催という大義名分のために、国の感染対策が後手にまわっているのは、今更言を俟たないでしょう。

幻のオリンピックに何千億円あるいは何兆円の国費を注ぎ込む一方で、明日の1万円のお金もなくてみずから死を選ぶ国民もいるのです。

月に10数万円の生活保護を申請しても、自助努力が足りないと門前払いされる一方で、幻のオリンピックのためには、今も何十億円も何百億円もの大金が(まるでドブに捨てるように)無駄使いされているのです。

眞子さんの1億5千万円の結婚一時金を「税金ドロボー」と悪罵を浴びせるくせに、何兆円何千億円の無駄使いする政治家や官僚には、野党もメディアも国民もみんな寛容なのです。

話は飛躍しますが、ここでも「愛国」とは何かを考えないわけにはいきません。柳美里の『JR上野駅公園口』ではないですが、明日の1万円がなくて死を選らばざるを得ない同朋がいることに涙するのがホントの愛国者でしょう。でも、この国にはそんな真っ当な愛国者はいません。むしろ、柳美里のような在日をヘイトするのが「愛国」者の役割と見做されているのです。古谷経衡が言うように、そこにあるのはただの「愛国ビジネス」です。数億円の白亜の豪邸を建てた”極右の女神”は、今も安倍晋三と一緒に改憲推進の講演活動を行っていますが、かように「愛国」とは濡れ手に粟の美味しい商売なのです

ともあれ、政府も与党も野党もメディアも経済界も、未だにオリンピック開催に拘っている光景は、役人特有の事なかれ主義とドッキングした究極のサンクコストの呪縛と言えないこともないでしょう。


関連記事:
オリンピックなんてできるわけがない
2020.12.27 Sun l 社会・メディア l top ▲
新宿バスタ~山中湖平野バス停~【石割山】~【平尾山】~山中湖平尾バス停~新宿バスタ

※山行時間:約4時間(休憩含む)
※山行距離:約8キロ
※標高差:432m
※山行歩数:約19,000歩
※交通費:5138円


一昨日(24日)、山梨県の山中湖畔にある石割山(1412m)に登りました。石割山の場合、通常は隣接する平尾山や大平山を合わせて登るケースが多いみたいですが、しかし、それだと、行きと帰りのバス停が異なるため、バス便との連絡が面倒になります。電車だと富士急の富士山駅からバスに乗らなければならないのですが、富士山駅からは一日に2便しかありません。

アクセスにいい方法が見つからず、いったんは諦めたのですが、あとて新宿から高速バスを使う手があることに気が付いたのでした。

ただ、高速バスも、途中の富士急ハイランドや河口湖までは頻繁に出ていますが、登山口がある「山中湖平野」まで行くのは、いちばん早い便で10時9分着(新宿バスタ7時45分発)しかありません。午前10時というのは、日の短い秋冬の山行では遅すぎますが、都内から公共交通機関を使って行くにはそれしかないのです。

それで、石割山と隣の平尾山(1318m)を登って「山中湖平野」に戻ることにしました。

このようにバスを使う場合、帰りのバス便との時間の調整が難しく、今回も”予備がないと不安症候群”の私の性格によって、自分で自分をふりまわすことになりました。

帰りのバスは、15時10分と15時25分、それに16時40分があります。当初は、15時10分を予約していました。しかし、私が使う登山アプリのコースタイムだと下山時間が15時05分になっています。時間的にギリギリです。それで、前夜、時間的な余裕をもって16時40分の便に変更したのでした。

今まで高速バスは何度か利用していますが、コロナ以後、どの便も乗客は少なくて気の毒なくらいでした。今回も新宿バスタの待合室は人も少なく、椅子も空いていました。

ところが、私が乗った「富士五湖~新宿線」のバスは違っていました。

高校生とおぼしきグループが20人以上乗ってきたのでした。しかも私は後部の座席を予約していたのですが、後部の座席は彼らで占領されていました。これはたまらんと思って、運転手に「座席を変えてもらえますか?」と言いました。運転手も「そうですね、団体さんに囲まれていますねえ」と言って、タブレットの座席表を示し、「この印が空いている席です。どこがいいですか?」と言われました。それで、前の方の席に変更しました。しかし、前の方も後ろほどではないですが、やはり同じグループの高校生たちが座っていました。おそらく冬休みになり、クリスマスイブでもあるので、仲のいいグループで富士急ハイランドに遊びに行くのでしょう。高校生以外の乗客は、私のほかに若い女性の二人連れがいるだけでした。

高校生たちは男子6女子が4くらいの割合でしたが、遠足気分なので「会話はお控え下さい」という放送もどこ吹く風、とにかくうるさくてなりませんでした。

そして、案の定、高校生たちは富士急ハイランドで降りました。高校生たちが降りて行くと、なんだかバスの中は嵐が去ったあとのように静かになりました。また、若い女性の二人連れも河口湖駅で降りて、以後終点の「山中湖平野」まで乗客は私ひとりになりました。

24日の東京の新規陽性者は語呂のいい888人で過去最高だったそうです。外出自粛の呼びかけにもかかわらず、私も出かけているのですから他人(ひと)のことをとやかく言えないのですが、GoToトラベル停止以後、高齢者や家族連れが行楽地に出かけるのは急速に減ったように思います。しかし、若者は別なのです。彼らは感染しても重症化するリスクも少なく、軽症か無症状なので、感染など恐れずに足りずというのが本音なのでしょう。

外出自粛は主に重症化リスクの高い高齢者に向けて呼びかけられていますが、むしろ、呼びかけるべきは感染拡大の主因である若者たちに対してではないのかと思います。ミツバチのようにウィルスの運び屋になっている若者たちを軽視しているのは、どう考えても解せない話です。

「家庭内感染が多くなった」という話もありますが、これほどバカバカしい話はありません。「家庭内感染」は副次的な感染で、どういう経路で家庭内に感染が持ち込まれたかが問題でしょう。職場か、飲み屋か、あるいは通勤電車か、それを突き止めなければ意味がないのです。

「山中湖平野」のバス停は、立派なバスターミナルになっていました。構内には観光案内所があり、隣にはコンビニもあります。観光案内所の中には、トイレや休憩所もありました。

バス停から石割の湯に向かう県道を10分くらい歩き、ひとつ目の赤い鳥居が立っている分岐を左折してさらに10分くらい歩くと、もうひとつの赤い鳥居が見えてきます。分岐からは石割神社の参道になっているみたいです。

二つ目の赤い鳥居がある場所には、登山者用の駐車場やトイレもありました。二つ目の赤い鳥居に向かって坂道を登る途中、下から車が何台か登って来ましたが、ナンバーを見ると東京や埼玉のナンバーばかりでした。歩いて登山口に向かっているのは私だけでした。

小さな橋を渡って赤い鳥居をくぐると、「天まで続くような石段」が目の前に現れます。日本山岳会による石割山の案内には次のように書いていました。

石割山は長い長い天まで続くような石段を登っていきます。約400段あります。修業です。でもこれがあるから、山頂から見る大展望のご褒美がこたえられません。途中の石割神社には、真っ二つに割れた巨大な岩があります。この岩の割れ目を3回通ると幸運が開けるそうです。山頂からは三角形の美しい姿の富士山が真っ正面に見え、下山のコースは、富士山を見ながら、山中湖を左に見て下っていきます。なだらかな尾根道が続きます。
http://jac.or.jp/oyako/f16/e701010.html


しかし、目に見える石段はまだ半分でした。それを登りきると、また次の石段が目の前に現れるのでした。まさに修行でした。

石段から次のチェックポイントである石割神社まではなだらかな道でした。石割神社には、上記の案内文にもあるように、岩の割れ目を3回まわると運が開けるという言い伝えがあるそうです。私の前を歩いていた夫婦のハイカーは3回まわっていました。そして、「これで初詣の代わりができた」などと言っていました。しかし、私はそういったことにはまったく興味がないので、まわりませんでした。ただ、神社にはいつものようにお賽銭をあげて手を合わせました。

神社から山頂までは20分弱ですが、至るところに張られたトラロープを頼らざるを得ないような結構な急登でした。

石割山の山頂に到着すると、噂にたがわず富士山の雄大な景色が目に飛び込んできました。山頂には既に6人のハイカーが休憩していました。いづれも30代から40代くらいのカップルです。またあとからやはり50代くらいのカップルが登って来ました。

カップルを見ていると、夫婦と思しきカップルは2組くらいで、あとは夫婦とは違うような感じでした。どうしてそう思うのかと言えば、男性がやけにテンションが高くウキウキしているのがよくわかるからです。夫婦だったらあんなにテンションは高くないでしょう。

女性がひとりで山に行くのに不安を抱くのはよくわかります。また、ここにも書いているとおり交通手段も悩みの種です。それで、色目を使うかどうかは別にして、男性に同行を求めるというのはあり得る話でしょう。中には登山系のSNSやツイッターを使って同行者を探すケースもあるようです。SNSで出会いを求めるのは若者ばかりではないのです。 

石割山の山頂にはベンチがないので、それぞれシートを敷いて弁当などを食べていました。私も100円ショップで買ったレジャーシートを持って行きましたが、シートを広げるのが面倒なので、草の上に座っていつものようにどら焼きを食べました。

昨日は暖かな天気でまったく寒さを感じることはありませんでした。そのためもあって、富士山にも徐々に雲がかかりはじめていました。

30分くらい休憩して平尾山に向けて別の道を下りました。下りはじめも急登で、やはりトラロープを掴んで慎重に下らないと、滑って転んで大分県になってしまいます。急登を下りきると、あとはなだらかな下りの道を歩くだけでした。

平尾山まで20分くらいでした。平尾山に着くと、富士山にも雲がかかっていました。平尾山から「山中湖平野」のバス停までは50分くらいでした。

「山中湖平野」のバス停に着いたのが14時前でした。登山アプリのコースタイムより1時間以上も早く戻ることができました。帰りのバスをネットで調べると、14時25分発があります。あわてて帰りのバス便の変更をしようとしましたが、時間切れで変更することができませんでした。

それで、15時10分発のバスに再び変更しました。1時間時間が空いたので、観光案内所で「この近くにラーメン屋さんはありますか?」と尋ねました。観光案内所には、若い女性と中年の女性が二人常駐していますが、左手と右手に二軒あると言うのです。しかし、今、やっているかどうかわからないので行ってみて下さいと言われました。

左手に5分歩くとラーメン屋の看板がありました。しかし、店の前には「準備中」の札が下げられていました。仕方なくUターンして、観光案内所から右手のラーメン屋に行ってみることにしました。

ところが、観光案内所の前を通り過ぎたとき、「すいません!」と言いながら、案内所の若い女性が駆け足でやって来たのでした。「今、電話でやっているかどうか問い合わせていますのでちょっと待ってください」と言うのです。観光案内所に戻ると、中年の女性が電話で問い合わせていました。そして、片手で丸を作って「やっているそうです」と言いました。私は、「ご親切にどうもありがとうございました」と言って、右手にある店に向かいました。店は老夫婦がやっている「くるまやラーメン」でした。味噌ラーメンと半チャーハンを頼みました。考えてみれば、外でラーメンを食べたのは1年ぶりくらいです。

食べているうちに予約した15時10分発のバスに間に合うかどうか心配になったので、ラーメンをすすりながらスマホで15時25分発のバスにもう一度変更しました(どうして15時台に限って15分後にバスが出ているのかと言えば、富士急と京王とバス会社が違うからです)。

結果的には、バス停に戻ったら15時10分発のバスがまだ出発していませんでした。

観光案内所に戻って、「どうもありがとうございました」「お陰でラーメンを食べることができました」ともう一度お礼を言いました。若い女性が「登山だったんですか?」と訊くので、「ええ、石割山と平尾山を登りました」と言いました。すると、「だったらラーメンを食べたくなりますよね」と言って笑っていました。

ホントに親切な人たちで心が和みました。コロナ以後、山に行っても前のように話をすることがなく、感染を懸念しているのか、心なしかハイカーたちも不愛想な感じの人が多いのです。特に山梨や長野など「外」の山に行くと、よけいそう感じます。奥多摩や奥武蔵の山の方がむしろ愛想がよくて親切な気がします。冷たい「外」の世界で、親切にしてもらって気持も暖かくなった気がしました。

「くるまやラーメン」で奥さんに「このあたりも感染が増えているのですか?」と訊きました。私はこのようにすぐ他人に話しかけるくせがあるので、その分冷たくされるケースも多いのです。すると、奥さんは「前は甲府の方だけで、全然いませんでした。しかし、最近この先の部落で感染が出たみたいで、怖いですよ」と言ってました。

私は、山梨でも「部落」という言い方をするんだなと思いました。「部落」は差別用語だとして、最近は禁句になっていますが、私の田舎でも昔は集落のことを「部落」と言っていました。でも、部落差別に対する啓蒙が広がるにつれ、公式には「部落」という言葉を使うことはなくなりました。私もこのブログでは、「部落」ではなく集落という言い方に変えています。

帰りのバスでもトラブルがありました。高速に入ったものの、火災で通行止めになり、大月の手前で下道の甲州街道に下りることを余儀なくされたのでした。甲州街道は文字通りの大渋滞で、新宿バスタ到着が17時55分の予定だったのですが、実際に着いたのは20時近くでした。

始発の「山中湖平野」から乗ったのは私だけで、河口湖駅から若い女性のグループが3人乗り、さらに新興宗教の施設と見まごうような富士急の「富士山駅」からハイカーが2人乗ってきました。また、富士急ハイランドからも2人乗ってきました。

新宿バスタからは、いつものように新宿3丁目駅まで歩いて副都心線&東横線で帰りました。最寄り駅に着いたのは21時すぎでした。クリスマスイブなので、駅前のスーパーに寄って、売れ残って割引になっている寿司とチキンを買って帰りました。


※サムネイル画像をクリックすると拡大画像がご覧いただけます。

IMG_20201224_093321.jpg
行きのバスの中から(スマホで撮影)

DSC09246.jpg
バス停から石割の湯方面の県道に入ります。

DSC09248.jpg
県道から分かれ、途中の最初の赤い鳥居を左へ入る

DSC09251.jpg
もう石割神社の参道

DSC09253.jpg
坂を登ると二つ目の赤い鳥居
車はここまでで行き止まり
駐車場とトイレがあります。

DSC09260.jpg
小さな橋を渡り、鳥居をくぐると「天まで続くような石段」が待ち構えています。

DSC09265.jpg
一つ目の石段

DSC09271.jpg
二つ目の石段

DSC09274.jpg
やっと終わった

DSC09276.jpg
上から見下ろす

DSC09279.jpg
石段を登った上には東屋もあります。

DSC09287.jpg
さらに進むと、神を祀る積石
死者を悼む意味もあるそうです。

DSC09293.jpg
さらに進むと

DSC09319.jpg
石割神社に到着

DSC09331.jpg
石割神社から山頂までは急登が続きます。
トラロープの助けを借りる箇所も多くありました。

DSC09338.jpg
同上

DSC09346.jpg
同上

DSC09351.jpg
同上

DSC09358.jpg
同上

DSC09376.jpg
山頂に着くと富士山がドーンと目の前に見えます。
ただ、バスの中で見たときより雲が多くなっていました。

DSC09384.jpg
山頂の様子

DSC09391.jpg
道標

DSC09393.jpg
山頂標識

DSC09412.jpg
案内板

DSC09415.jpg
下りも急登でロープの助けを借りないと滑ります。
この日は乾いていましたが、ぬかるんでいるときは難儀するでしょう。

DSC09418.jpg
同上

DSC09428.jpg
急登を下りきると、あとはなだらかな下り道

DSC09431.jpg
登山道にマスクが落ちていた。
この日だけで3枚落ちていました。

DSC09434.jpg
平尾山との分岐
正面の道を下りて来ました。帰りは右の道に進みます。
カメラの方向に平尾山があります。平尾山に寄ってこの分岐まで戻ります。

DSC09440.jpg
平尾山に向かう道
5分くらい歩くと、山頂に着きます。

DSC09443.jpg
平尾山山頂

DSC09463.jpg
富士山には既に雲がかかっていた。

DSC09469.jpg
山頂標識

DSC09484.jpg
分岐に戻って下山

DSC09494.jpg
このような歩きやすい道が続きます。

DSC09512.jpg
別荘地に入ります。

DSC09517.jpg
同上

DSC09528.jpg
別荘地内の道をショートカットすると二つ目の赤い鳥居に向かう道の途中に出ました。
ここから「山中湖平野」バス停まで10分くらいです。
2020.12.26 Sat l l top ▲
今日のYahoo!ニュースに、中京テレビが制作した満蒙開拓団の「性接待」についての記事が転載されていました。

Yahoo!ニュース
【75年目の告白】満州・性的な接待を強いられた女性たち “覚悟の告白”で“タブー”打ち破る「しゃべって残していくのが、人間の社会の歴史」(中京テレビNEWS)

ここにはさまざまな問題が伏在しています。単に戦争犯罪の問題だけでありません。戦後の日本社会のあり様も問われているのです。こういった問題をタブー視することで、戦後の平和と民主主義が仮構されてきたのです。もちろん、その延長上に従軍慰安婦の問題も存在しています。

満蒙開拓団の「性接待」の問題は、このブログでも、2年前に朝日新聞の記事に関連して、下記のような記事を書きました。また、従軍慰安婦の問題も、朴裕河(パクユハ)氏の『帝国の慰安婦』を通して、私なりの考えを書いています。

私たちは、こういった問題から目を背けてはならないのです。直視することで戦争を知ることができるのです。もとより私たちは、戦争を知らねばらないのです。


関連記事:
「性接待」と「愛国」
『帝国の慰安婦』と日韓合意
2020.12.22 Tue l 社会・メディア l top ▲
今週の東京都の新規陽性者数は、以下のとおりです。

14日(月)305人
15日(火)460人
16日(水)678人
17日(木)822人
18日(金)664人
19日(土)736人
20日(日)556人

また、12月20日現在の東京都の新規陽性者数(感染者数)の累計は51446人です。

ちなみに、4月7日から5月25日までの緊急事態宣言下において、もっとも新規陽性者数が多かったのは、4月17日の206人です。今はその倍以上の新規陽性者が連日発生しているのです。

今日(日曜日)、用事があって朝から自由が丘~中目黒~渋谷~原宿・表参道~新宿(三丁目)~池袋を走る副都心線に乗ったのですが、COVID-19前の日曜日と変わらないくらい電車の中や駅のホームは多くの乗客で溢れていました。

夕方、地元の駅に戻って来たのですが、駅前も舗道がスムーズに歩けないほど買い物客でごった返していました。また、駅の近くにある飲み屋も、COVID-19前に戻ったかのように客で賑わっていました。みんな、マスクを外し、ワインやビールなどを飲みながら、小さなテーブル越しに向き合って談笑していました。

感染の危機感など微塵もありません。それは、若者だけでなく家族連れも高齢者も、みんな同じです。再び手綱を引き締めようとしても、いったん緩めた手綱はそう簡単に元に戻ることはないのです。

岩田健太郎医師は、日本政府の感染対策は、無謀な作戦で多くの犠牲を出した旧日本軍の「インパール作戦」と同じだと言っていました。

AERA dots
岩田健太郎医師「GoToは異常。旧日本軍のインパール作戦なみ」

GoToトラベルの全面的な解禁によって、旅行に行っても大丈夫という安心感を与えたことで、正しい知識で「正しく怖れる」冷静な判断などどこかに吹っ飛んだ感じです。言うなれば、GoToトラベルの全面的な解禁によって、国全体がみんなで渡れば怖くない式の反知性主義的な考えに蔽われてしまったのです。

GoToトラベルを巡る迷走を見てもわかるとおり、政府の対応はチグハグで、どう見ても感染対策が正常に機能しているようには思えません。そのあたふたぶりを見ていると、危機管理能力以前に政権を担う能力そのものに疑いを持たざるを得ません。

菅義偉首相誕生の際、法政大学出身で大丈夫かという声に対して、法政大学出身者を中心に学歴差別だという反発があったそうですが、しかし、彼が空手部に所属し、髪をアイパーで固め、チョビ髭を生やし、裾の長い学ランを着て、学内を闊歩していた事実はやはり無視できないのです。

メディアはメッキが剥げたと言っていますが、しかし、最初からメッキは剥げていたのです。メディアが持ち上げたから根拠もなく支持率が水ぶくれのように60%を越えたにすぎないのです。

問題になったステーキ会食や会食のはしごなどを見るにつけ、「国民は(バカなので)すぐ忘れる」という国民を見くびった彼の”大衆観”が如実に出ているように思えてなりません。何度も言いますが、彼は政治家ではなく政治屋なのです。

みずからの利権を守るために麻生や二階らが主導した自民党内の無責任な政治力学によって、本来その器ではない人物が総理大臣に祭り上げられたのです。そこにも、圧倒的多数を占める政権党の驕りが見えて仕方ありません。

そもそも麻生や二階らの傲岸不遜な態度に対して、メディアが及び腰になっていること自体が異常と言わざるを得ません。反発するどころか、逆にご機嫌を損なわないように当たり障りのない質問に終始しているあり様です。また、菅首相のぶら下がり会見においても、芸能人の謝罪会見とは違って、代表質問する若い記者のもの言いが、台本を読んでいるようなわざとらしい感じであるのに気付いた人も多いでしょう。その光景には、ぶら下がり会見が記者会見でもなんでもなく、単なる(事前に質問を提出した)小芝居にすぎないことが暴露されているのでした。

メディアが権力を監視する役割を放棄しているのです。歌を忘れたカナリアになっているのです。それは、産経新聞(フジテレビ)や読売新聞だけの話ではありません。権力を忖度し権力にふれ伏す安倍一強の時代はまだつづいているのです。その弊害がCOVID-19でいっきに露わになった気がしてなりません。もちろん、自業自得と言うべきか、そのツケを払う(払わせられる)のは私たち国民なのです。


関連記事:
米大統領選とネトウヨ化したニッポン
2020.12.20 Sun l 社会・メディア l top ▲
DSC09070.jpg


池袋駅~小川町駅~坂本バス停~橋場バス停~粥新田峠~【大霧山】~旧定峰峠~経塚バス停~皆谷バス停~小川町駅~池袋駅

※山行時間:約4時間(休憩含む)
※山行距離:約10キロ
※標高差:571m
※山行歩数:約21,000歩
※交通費:3,834円


冬の低山ハイク第三弾。一昨日(15日)、埼玉県皆野町の大霧山(766.7m)に登りました。

池袋駅から早朝5時半すぎの東武東上線の「小川町行き」の急行電車に乗り、1時間半かけて終点の小川町駅まで行きました。小川町駅からは東秩父村の「白石車庫行き」のバスに乗り換えて30分で「橋場」というバス停まで行きます。

この「白石車庫行き」のバスは、前にサンドイッチマンの「帰れマンデー」という番組にも出ていましたが、私にもお馴染みの場所なのでした。

何度も書いていますが、私は、横浜の前は埼玉の東武東上線沿いに10年以上住んでいました。その頃、白石峠を越えて秩父に行ったり、逆に秩父から白石車庫に下りたりしていたのです。おそらく何十回も行き来したと思います。

当時は、山には登っていませんでしたが、奥武蔵グリーンラインと呼ばれる林道をよく車で走っていました。今は、峠の下から歩いて上に登っていますが、当時は峠の上まで車で行って、1~2時間山のなかを歩いたりしていました。決してオーバーでなく、奥武蔵や秩父には100回近く行ったと思います。だから、グリーンライン上にある一本杉峠 · 顔振(かおふり)峠 · 傘杉峠 · 飯盛峠 · 刈場坂峠 · 大野峠 · 白石峠 · 定峰(さだみね)峠などはなつかしい場所なのです。

山には登らなかったけど、トレッキングシューズだけはずっと持っていました。バスに乗ったのは初めてですが、今回バスが走った道もいつも車で走っていました。

電車が小川町駅に着いたのは、午前7時5分でした。しかし、「白石車庫行き」のバスは既に出たあとでした。次は8時21分です。駅前で1時間以上もバスを待たねばなりません。駅前で客待ちをしていたタクシーの運転手に、「白石車庫までいくらかかりますか?」と尋ねました。すると、6000円くらいだ言うのです。6000円だとやはり躊躇せざるを得ません(3000円くらいなら乗ったけど)。

どこかモーニング(サービス)をやっている喫茶店はないか探したら、駅前に一軒喫茶店がありました。しかし、まだ開店していません。考えてみれば、群馬県に近い埼玉の最奥の町の駅前で、モーニング目当ての客などいようはずもないのです。

結局、駅前のベンチに座って次のバスを待ちました。登山では時間が貴重なので、この1時間はもったいない気がしました。

8時21分発の「白石車庫行き」のバスには、ハイカーが5名と一般客が2名乗りました。ただ、ハイカーを含めた乗客たちはいづれも途中のバス停で降りたので、いつものことですが、最終的に乗客は私ひとりになりました。

今回、大霧山に行こうと思い立ったのは当日の朝4時です。前夜、山に行く準備をして床に入ったものの、行く山は決まっていませんでした。そして、目が覚めた途端、ふと大霧山に行こうと思い付いたのでした。大霧山に関しては、名前は知っていたものの、標高も低いしあまり興味はありませんでした。

ただ、以前、八高線(八王子~高崎間を走るJR線)で隣合わせたおばさんから「大霧山はいいですよ」と言われたことを覚えていたのでした。そのおばさんは、小川町か寄居だかに住んでいて、若い頃から山に登っていたそうで、私の恰好を見て「山に行くんですか?」と話しかけられたのでした。若い頃は、北アルプスなどにも行ったりしていたそうですが、今は70歳を超えて病院通いするようになり、その日も毛呂山の埼玉医大病院に行く途中だと言っていました。

その話を思い出して、準備不足のまま、埼玉に向けて出発したのでした。

「白石車庫行き」のバスに乗っていると、「次は坂本です」とアナウンスが流れました。そのとき、登山アプリの地図にバス停が「坂本(橋場)」と書かれていたことを思い出し、とっさに降車ボタンを押して、「坂本」で降りたのでした。

しかし、降りてからスマホの地図を起動させると、登山口はもっと先の方にあります。ナビに従って川沿いの県道を進むと、次のバス停の「橋場」に着きました。なんのことはない、ひとつ手前のバス停で降りていたのです。ここでも時間のロスが生じてしまいました。

バス停の前の橋を渡り、林道のような県道を15分くらい進むと「登山口」の看板がありました。しかし、県道から外れた山道を15分くらい登ると、再び先程の県道に出ました。さらに県道を10分歩くと、今度は農家の横の林道を入るように看板が出ていました。車は通ることはできませんが、しかし、道幅は広く、登山道という感じではありません。その道を20分くらい進むと、粥新田(かゆにた)峠に出ました。

粥新田峠は、私は初めてでした。と言うのも、正確にはどこからどこまでを言うのかわかりませんが、奥武蔵グリーンラインは今回下山ルートに使おうと思っている定峰峠から「白石車庫」に下るようになっていたからです。つまり、飯能から登る奥武蔵グリーンラインは、東秩父村の定峰峠で終わっているのです。定峰峠と粥新田峠の間に大霧山があり、言うなれば大霧山によって尾根上の林道は遮られているのでした。

ただ、秩父から粥新田峠を経て(バスで通った)東秩父村から小川町に至る道は、正丸峠を越えて吾野に至る道などとともに、江戸時代の秩父往還の重要な道だったそうです。

山田哲哉氏は、『奥秩父 山、谷、峠 そして人』(東京新聞)で次のように書いていました。

秩父から飯能や小川町などを通り、関東平野へと抜ける峠は、 現在の交通手段が主流になる前は頻繁に人や物資の行き交いのあったところだ。 釜伏峠は秩父と熊谷間を結ぶメインの「熊谷通り」に対して「山通り」と呼ばれ、寄居へと抜ける幹線路として使われていた。小川へと越えていた粥仁田峠、 飯能へ向かう正丸峠などは関東平野、東京方面への重要な峠だ。


前も書きましたが、吾野から毛呂山に至る峠越えの道に「飛脚道」と呼ばれる道があるように、江戸時代、奥武蔵の山にはいくつもの道が存在し、それらの道を通して生活物資だけでなく文物も流通していたのです。そして、現在、私たちはそれらの道を登山道と称して息を切らして歩いているのです。

秩父の民衆が武装蜂起して臨時革命政府を作った、日本の近代史上特筆すべき秩父事件も、秩父往還の道をぬきにしては語れないのでした。

粥新田峠には東屋がありました。また、登山届を入れる箱もありました。正確には(?)ここが登山口と言えるかもしれません。私は、バス停から1時間近く歩いて来ましたが、林道が走っているので、車で来れないこともないのです。粥新田峠に車を停めれば、1時間もかからずに大霧山に登ることもできるのでした。

実際に私も昔は、同じようなことをして近辺の山を歩いていたのです。トレッキングシューズを履いていたものの、ザックを背負っていたわけではないし地図を持っていたわけでもありません。ただ、おにぎりとペットボトルが入ったコンビニの袋とタオルを持って山を歩いていただけです。当時は山を散歩しているような感覚でした。

あの頃は山でよく泣いていました。今は泣くことはないけど、でも、同じように泣きたい気分であることには変わりがありません。あの頃は、峠に車を停めて、暮れなずむ秩父の街を見るのが好きでした。大晦日に来たこともあります。また、星空を見るために、山のなかでひと晩すごしたこともありました。

粥新田峠の東屋で10分休憩したあと、大霧山に向けて、初めて登山道らしくなった道を歩きました。山頂直下に急登がありましたが、50分くらいで大霧山の山頂に到着しました。

途中の稜線では寒風にさらされて、凍えるくらいと言ってもオーバーではないような寒さに襲われました。ウインドーブレイカーのフードを被り、風を避けるようにひたすら下を向いて歩きました。

山頂に上がると、八高線で隣り合わせたおばさんが言っていたように、見事な眺望が目に飛び込んできました。武甲山の向こうには雲取山や長沢背稜の山々も見えました。また、正面には両神山の存在感のある山容が構えていました。さらにその向こうには、北横岳や赤岳などの八ヶ岳の山も見ることができました。また、北の方角には白根山も見えました。

ベンチに座って、サーモボトルに入れて持って来た温かいお茶を飲むと、なんだか人心地がついた気がしました。そして、いつものようにどら焼きを食べました。

山頂には30分くらいいましたが、誰も登って来る人はいません。山行中、まだ誰にも会っていません。

帰りに乗る予定にしている「白石車庫」のバスの時刻は14時40分です。これから定峰峠を経て「白石車庫」まで下りると2時間以上かかります。ぎりぎり間に合う気はしますが、しかし、時間的な余裕があまりありません。”予備がないと不安症候群”の私は、やはり、途中でアクシデントがあった場合のことを考えないわけにはいかないのでした。

定峰峠ではなく、旧定峰峠を通って「白石車庫」から三つ手前の「経塚」のバス停に下りるルートだと1時間くらい短縮できますので、余裕を持って旧定峰峠のルートを下ることにしました。

今の定峰峠は林道が造られてからそう呼ばれるようになったのでしょう。秩父往還の頃は、旧定峰峠の方を歩いたはずです。個人的にも旧の方に興味がありました。

新旧の定峰峠は途中まで一緒の道を下りるのですが、その下る手間で、トレランの二人組とすれ違いました。誰にも会わないのが当たり前のようになっているので、前から人がやって来るとドキッとするのでした。

大霧山から約1時間で「経塚」のバス停に着きました。ところが、逆に早すぎたみたいで、バスの時間まで1時間20分もありました。これだったら、定峰峠を通って「白石車庫」に下りても充分間に合った気がします。山のなかのバス停で1時間以上待っても仕方ないので、「経塚」から小川町駅へ向けて5つ先にある「皆谷」というバス停まで2キロの道を歩くことにしました。

この小川町駅から「白石車庫」に至る路線も、昨秋の台風19号によって途中の道路が陥没したため、「皆谷」までの折り返し運転が行われていたそうです。先々月(10月)の23日に、道路の復旧工事が終わって全面開通されたばかりなのです。

途中道路が新しくなっていましたが、道路周辺の風景には見覚えがあり、なつかしい気持になりました。「皆谷」のバス停の横にある商店では、手作りの饅頭を買った覚えがありました。

「皆谷」で20分待つとバスが来ました。小川町まで30分で着きました。バスに乗って気付いたのですが、「皆谷」は登り始めた「橋場」から二つ奥のバス停でした。

小川町駅に着いたのが15時15分で、それから池袋経由の副都心線&東横線で帰りました。最寄り駅に着いたのは17時半すぎでした。


※サムネイル画像をクリックすると拡大画像がご覧いただけます。

DSC08905.jpg
「橋場」バス停

DSC08909.jpg
バス停の前の橋を渡って「三沢坂本線」という県道を進みます。

DSC08912.jpg
「帰れマンデー」にも出ていた蕎麦屋

DSC08917.jpg
最初の「登山口」

DSC08925.jpg

DSC08929.jpg
しらばく歩くと県道に出た

DSC08938.jpg
再び「登山口」に入る
この手前でみかんが一袋100円で売っていました。買いたかったけどみかんを持って登るのは面倒なので諦めました。

DSC08940.jpg
集落の様子

DSC08945.jpg
熊注意の看板が至るところに出ていました。

DSC08955.jpg

DSC08960.jpg
道のあちこちにこのような積石がありました。「死者の追悼」の意味があるそうです。賽の河原の童という不気味なことばを思い出しました。

DSC08962.jpg
瓶のなかにお賽銭を入れて手を合わせました。

DSC08966.jpg
林道の合流点
ここにも熊出没注意

DSC08978.jpg
道標

DSC08981.jpg
粥新田峠に到着
ここまでは車で来ることも可能です。

DSC08989.jpg
同上

DSC08991.jpg
同上

DSC08994.jpg
同上

DSC08997.jpg
同上

DSC09010.jpg
粥新田峠から大霧山に向かう登山道

DSC09026.jpg
同上

DSC09033.jpg
同上

DSC09042.jpg
同上

DSC09051.jpg
トラロープがある最後の急登

DSC09059.jpg
山頂標識

DSC09074.jpg
眺望
秩父から皆野にかけての街並み

DSC09076.jpg
はるか向こうに八ヶ岳の山

DSC09083.jpg
正面に両神山

DSC09085.jpg
痛々しい武甲山の向こうに雲取山と長沢背稜(来年こそ歩きたいと思った)

DSC09113.jpg

DSC09116.jpg
定峰峠に向けて下ります。

DSC09122.jpg

DSC09124.jpg
関東ふれあいの道のハイキングコースなので歩きやすい

DSC09127.jpg

DSC09132.jpg
このあたりでトレラン二人組とすれ違いました。

DSC09134.jpg
定峰峠(旧定峰峠)に下る分岐点

DSC09147.jpg

DSC09149.jpg
ここでも手を合わせました。

DSC09156.jpg
旧定峰峠(定峰峠との分岐)

DSC09170.jpg
いったん林道に出る

DSC09177.jpg
数十メートル進むと、再びショートカットの登山道に入る

DSC09181.jpg

DSC09200.jpg

DSC09208.jpg
再び林道に出る

DSC09220.jpg
麓の集落が見えてきた

DSC09227.jpg
「経塚」バス停

DSC09235.jpg
県道を歩く(通行止めになっていた箇所)

DSC09238.jpg

DSC09244.jpg
「皆谷」バス停
10月までここで折り返し運転が行われていた

IMG_20201214_151434.jpg
小川町駅(スマホで撮影)
2020.12.16 Wed l l top ▲
DSC08714.jpg


武蔵小杉駅~立川駅~青梅駅~武蔵五日市駅~仲の平~【槇寄山】~仲の平~武蔵五日市駅~拝島駅~立川駅~武蔵小杉駅

※山行時間:約4時間(休憩含む)
※山行距離:約7.5キロ
※標高差:530m
※山行歩数:約17,000歩
※交通費:3,850円


昨日(8日)、槇寄山(1188m)に登りました。槇寄山は二度目です。槇寄山は、笹尾根にあるピークで、大沢山を経て三頭山へ縦走する(あるいは逆に三頭山から下山する)のによく使われる山です。

早朝5時に家を出て最寄り駅から武蔵小杉、武蔵小杉から南武線で立川、立川から中央線で青梅、青梅から青梅線で武蔵五日市に行きました。

武蔵五日市駅に着いたのは7時1分でした。武蔵五日市駅からは、いつものように数馬行きのバスに乗ります。バスは7時20分発です。しかし、駅前のバス停には、既に10人くらいが待っていました。そのあとも列のうしろに並んでいましたので、全部で20人以上はいたと思います。そのなかで、ザックを背負ったハイカーは8人でした。前回、槇寄山に行ったのはやはり昨年の12月でした。そのときと比べれば、ハイカーの数が多いように思いますが、やはり天気が良くて暖かったからかもしれません。昨日は、奥多摩でも気温が15度くらいまで上がり、絶好の登山日和でした。

笹尾根自体は、これで5回目です。まさに困ったときの笹尾根なのでした。田部井淳子さんではないですが、特にこの季節になると、冬枯れの笹尾根を歩きたいと思うのでした。

ただ、今回も馬頭刈山のときと同じように、午後の早いバスで帰りたいと思ったので、それを前提にコースを決めました。帰りのバスは、13時20分と14時50分、そのあとは15時台がなくて16時10分です。何度も言いますが、この季節の山は15時を過ぎるともう暗くなってしまいます。それに、自宅に帰るまで2時間半から3時間近くかかるので、14時50分のバスで帰っても、帰宅ラッシュに遭遇してしてしまいます。登山帰りの帰宅ラッシュはちょっとつらいものがあります。

その結果、目標どおり13時20分のバスで帰ることができました。13時20分のバスは、前回の馬頭刈山のときに帰りに乗ったバスと同じ便でした(馬頭刈山の帰りに利用した「和田向」も、同じ路線のバス停です)。「和田向」で乗ったのが14時2分でしたので、「和田向」は、今回乗った「仲の平」から武蔵五日市駅に向かって40分走った(逆に言えば40分手前の)バス停ということになります。

檜原街道沿いには、このように三頭山に向かって左に笹尾根、右に浅間尾根の登山口が点々とあります。私自身も、今まで入山時や下山時に7~8くらいのバス停を利用したと思います。

「仲の平」のバス停で降りたのは、今回で三度目です。「仲の平」は、終点の「数馬」のひとつ手前のバス停で、今回も途中から乗客は私ひとりになりました。「仲の平」に着いたのは、8時半前でした。武蔵五日市駅からは1時間ちょっとかかりました。

もうなじみのバス停なので、身支度をすると、勝手知ったる道という感じでいつもの道を笹尾根にある西原峠に向けて歩きはじめました。

昨日は霜も降りてなかったので、落ち葉も乾いたままで、文字通り落ち葉の絨毯の上をサクサク音を立てながら気持よく歩けました。途中でザックをおろして10分くらい休憩したのが返ってよかったみたいで、前回より20分くらい早く西原峠に着きました。

西原峠から槇寄山の山頂まで5分もかかりません。三頭山の方向に坂をひと登りすると山頂です。

槇寄山に登ると、予想通り冬空の彼方に富士山がくっきり姿を現していました。山頂には既に老夫婦が休憩していましたが、「どうしてラーメン食べないの?」「食べたくないんだよ」と口喧嘩をしていました。奥さんは明るい人ですが、旦那は逆に挨拶もしない暗い感じの人でした。「どうしてラーメン食べないの?」と言っていたのは奥さんの方です。「あなたはいつもそうなんだから」と不満たらたらの様子でしたが、しかし、こうやって連れだって山には来ているのでした。

二人はすぐに下りて行きましたので、あとは写真を撮ったり、どら焼きを食べたりしてひとりの時間を満喫しました。今回は、サーモボトルに温かいお茶を入れてきました。山頂では寒いので、温かいお茶がいいだろうと思ったのですが、昨日はそんなに寒くなかったものの、山に温かい飲み物を持って行ったのは正解でした。

帰りは、今回は笹尾根を30分くらい歩いて、数馬峠(上平峠)から下りました。数馬峠という峠は何故かいくつもあるので、このように括弧で山梨側の地名も付けられているのです。途中の田和峠からも富士山がよく見えました。田和というのも、山梨県の上野原側にあるバス停の名前です。当初、上野原の方へ下りようかと思ったのですが、上野原の方は一日に2便しかバスがなくて、もっと不便なのでした。

数馬峠までの笹尾根は前も歩いたことがありますが、前に歩いたときは霜が残っていてかなりぬかるんでいました。しかし、昨日は霜もなくとても快適でした。やはり、冬枯れの笹尾根はいいなあとしみじみ思いながら歩きました。なんだか子どものときに祖父に山の下刈りに連れて行かれたときに見た風景と似ている感じで、そのときのことが思い出され、涙が出そうになりました。

数馬峠(上平峠)から「仲の平」に下る道は、今回が初めてでした。この道は、守屋地図によれば、「往時の重要な交易路の一つだった」そうです。つまり、武州と甲州を結ぶ道のひとつだったのです。笹尾根にはこういった峠越えの道がいくつもあります。

下りの道はとても歩きやすいし、明るいところも多くて、私がいつも使っている(今回も登りで使った)道よりも全然いい感じでした。前に数馬峠で休憩していたら、この道から女性のグループが登ってきたことがあったのですが、私もこれからはこの道を使おうかなと思いました。昨日も男性がふたりベンチで休憩していましたが、彼らもこの道を登って来たのかもしれません。

ちなみに、今回、山で会ったのは、槇寄山の老夫婦とこの男性二人組だけでした。

しばらく下ると、大きな伐採地の上に出ました。この伐採地は、私が登った道からも見上げることができて、あそこに登りたいなと思ったばかりでした。伐採地の上に立つと、奥多摩の山の景色が目に飛び込んできました。目の前に何も遮るものがないので、三頭山や浅間尾根の稜線を手を取るように見ることができました。

最後に樹林帯のなかの急登を下ると、南秋川の川岸にある廃墟と化したキャンプ場に出ました。朽ちたバンガローがいくつも立っていて、炊事場の跡も残っていました。橋を渡って坂を登ると、檜原街道のバス停からすぐ下りたところに出ました。なんだここが登山口だったんだと思いました。なんだか灯台下暗しのような気持になりました。

初めて来たとき、バス停の近所の人から「この道を進んで一番上の家の横から登るんだよ。川の方に下りたらダメだよ」と言われたのですが、「川の方」というのはここのことだったのでしょう。もしかしたらその頃は昨秋の台風19号の被害がまだ残っていたのかもしれません(奥多摩は台風19号の被害が甚大で、未だ通行止めになっている登山道も多いのです)。

バス停に着いたのは、12時40分でした。予定より20~30分早く着きました。

今回は、8キロのザックを背負って登ったのですが、やはり休憩をこまめに取ったことがよかったのか、逆にいつもより軽快に歩けました。僅か4時間の日帰りハイクなのに、どうして8キロになるんだと思われるかもしれませんが、トレーニングのため、あえて重い荷物を背負って歩いたのでした。ちなみに、いつもは5キロ前後です。

もうひとつは、ガチガチの固い靴を履いたのもよかったのかもしれません。ガチガチの固い登山靴は重くて足が疲れるのですが、しかし、山を歩く上では安定していて非常に歩きやすいのです。これでお気に入りのノースフェイスのトレッキングシューズの出番はなくなるかもしれません。

13時20分のバスに乗り、武蔵五日市駅に着いたのは14時半近くでした。武蔵五日市駅からは拝島、拝島から立川、立川から南武線で武蔵小杉、武蔵小杉から東横線で最寄り駅に帰りました。自宅に帰り着いたのは17時前でした。


※サムネイル画像をクリックすると拡大画像がご覧いただけます。

DSC08659.jpg
「仲の平」バス停

DSC08904.jpg
檜原街道から分かれた坂道を下ります。

DSC08661.jpg
橋を渡って今度は坂道を登ります。

DSC08662.jpg
川沿いの坂道

DSC08663.jpg
登山道に入りました。

DSC08667.jpg
とても歩きやすい道です。

DSC08673.jpg
同上

DSC08680.jpg
道標も古い

DSC08682.jpg
国定忠治が遠見した?
国定忠治は、人口に膾炙されたヒーローだったので、こういった名所?もねつ造されたのでしょう。

DSC08694.jpg
乾いた落ち葉を踏みながら歩くのは気持がいい。

DSC08702.jpg

DSC08709.jpg
西原峠

DSC08714.jpg
槇寄山の山頂に登ると、富士山が目に飛び込んできた。

DSC08725.jpg
槇寄山山頂標識
古くて字が消えかかっている。
もうやむごとなき方が登らないので新調しないのかな?

DSC08727.jpg
三等三角点

DSC08728.jpg
山頂の様子

DSC08736.jpg
数馬峠に向けて笹尾根を歩きます。

DSC08742.jpg

DSC08745.jpg
冬枯れの笹尾根

DSC08749.jpg
同上

DSC08755.jpg
同上

DSC08762.jpg
同上

DSC08765.jpg
同上

DSC08779.jpg
田和峠

DSC08785.jpg
田和峠からの富士山

DSC08792.jpg
田和峠道標

DSC08795.jpg
さらに笹尾根を進みます。

DSC08812.jpg
数馬峠(上平峠)の写真を撮り忘れましたが、既に分岐から下山道に入りました。

DSC08822.jpg
こちらも乾いた落ち葉が気持いい。

DSC08827.jpg

DSC08829.jpg
道標にこんな札もありました。

DSC08841.jpg
何ケ所か倒木が道を塞いでいました。

DSC08845.jpg
伐採地からの眺望

DSC08851.jpg
左奥から、大沢山、三頭山、鞘口峠

DSC08856.jpg
登山道は伐採地をぐるりと周回するようになっていました。

DSC08874.jpg
南秋川の川岸に残るキャンプ場の跡

DSC08876.jpg
同上

DSC08878.jpg
同上

DSC08901.jpg
キャンプ場から上がったところにある道標

IMG_20201208_142229.jpg
武蔵五日市駅のホーム(スマホで撮影)
2020.12.09 Wed l l top ▲
DSC08579.jpg


新宿駅~立川駅~武蔵五日市駅~とうげん橋~【馬頭刈山】~和田向~武蔵五日市駅~青梅駅~立川駅~武蔵小杉駅

※山行時間:約5時間(休憩含む)
※山行距離:約8キロ
※標高差:650m
※山行歩数:約18,000歩
※交通費:3064円


一昨日(2日)、奥多摩の馬頭刈山(まずかりやま・884m)に登りました。馬頭刈山は前から気にはなっていたのですが、前の夜にふと思い付いて、あまり下調べもせずに行きました。

馬頭刈尾根について、山田哲哉氏は『奥多摩 山、谷、峠、そして人』(山と渓谷社)で、次のように書いています。

  東京都心から奥多摩を見ると、大岳山の左手に雄大に伸びる尾根がある。ひとつの山脈と言っても通じるほどに量感のある尾根は、武蔵五日市駅から近く、養沢川と秋川本流が合流する十里木(じゅうりき)に達している。この尾根の名は馬頭刈尾根。中間に馬頭狩山という展望に優れた山頂をもつ。


また、山田氏は、同書のなかで「この尾根からは、地図にもガイドブックにも書かれてない小さな道が、北秋川方向へ何本も分かれる」と書いていましたが、私はそのなかのひとつの千足尾根を登りました。この「千足尾根コース」(守屋地図)は、茅倉という集落から登るのですが、マイナーなコースなので、取りつきに行くにも道案内もないし、林道を登って集落の突端まで来たものの、すぐに登山口が見つからずあたりをウロウロしました。

一般的には、同じ千足でも隣の「千足沢コース」(同)と呼ばれる沢沿いのコースと、武蔵五日市駅に近い「軍道(ぐんどう)」や瀬音の湯、あるいは「十里木(じゅうりぎ)」に下る「馬頭刈尾根コース」(同)がよく使われているようです。

でも、私は、「千足沢コース」は長い林道歩きがあるみたいなので、あえてマイナーと言われている隣の「千足尾根コース」を歩くことにしたのでした。一応、地図にも登山道として記載されていますが、しかし、途中で「廃道」という表示もあったりして、一抹の不安を抱きながら登山口に向かいました。

新宿駅から6時12分発の快速高尾行きに乗り、途中の立川駅で青梅線の武蔵五日市行きに乗り換え、武蔵五日市駅に着いたのが7時36分でした。そして、駅前のバス停から7時43分発の「藤倉行き」のバスに乗り、「とうげん橋」というバス停で降りました。「とうげん橋」までは30分くらいでした。メインルートの「千足沢ルート」だとバス停は「千足」になりますが、「とうげん橋」はそのひとつ手前のバス停です(でも、林道の登り口は二つのバス停の中間にありどちらで降りても同じでした)。

バスには、途中の警察署や高校や小中学校などに出勤する人達が10数人が乗ってきました。しかし、それらをすぎると、バスのなかは私と同じ年恰好のハイカーの男性、通勤客とおぼしき男女二人、それと途中から乗って来た高齢の夫婦の6人になりました。バスは南秋川沿いの檜原街道をしばらく進み、やがて檜原村役場の前の橘橋を渡ると檜原街道から分かれ水根本宿線に入ります。ここからは川も分岐して、南秋川から北秋川になり、バスも北秋川沿いの都道を走ることになります。

やがて左上手に尖がり屋根が特徴の建物が見えてきました。「やすらぎの里」です。サイトを見ると、「やすらぎの里」は、「地域包括支援センター」「子ども家庭支援センター」「高齢者在宅サービスセンター」「老人福祉センター(ふれあいセンター)」「診療所」「保健センター」「福祉作業所」「児童館」の公共の複合施設だそうです。

バスは、北秋川にかかる橋を渡って「やすらぎの里」の構内に入って行きました。そのとき、私は、「あれっ、ここは前に来たことがあるな」と思いました。バスが構内に入って行ったのを覚えていたのです。でも、「藤倉行き」のバスに乗ったのは今回が初めてです。「いつ来たんだろう?」と考え込んでしまいました。

あとで調べたら、檜原街道を進んで行く「数馬行き」のバスのなかで、一日に何便か「やすらぎの里」を迂回する便があるみたいなのです。つまり、「やすらぎの里」でUターンして、再び橘橋から数馬に向かう便があり、それに乗ったことがあったのでしょう。

「やすらぎの里」で、通勤客と老夫婦が降車して、バスのなかはおっさんのハイカーふたりだけになりました。

私が降りるバス停の名前の「とうげん橋」というのは、「やすらぎの里」の構内に入るときに渡った橋のことでした。「やすらぎの里」の構内を出て再び橋を渡り、都道に出るとすぐにバスは停まりました。

バス停のなかで身支度をして、都道を「千足」のバス停の方に向かって歩きはじめました。しかし、登山口がある林道の入口らしきところに来たのですが、表示はなにもありません。あるのは「この先行き止まり」の看板だけです。

何度も言いますが、奥多摩の山は林道を登った先の集落のいちばん上の家の横に登山口がある場合が多いのです。そういった経験とGPSを頼りに林道を登って行きました。

15分くらい登ると林道のいちばん上まで来ました(ただ、左手では林道の延長工事が行われていました)。先端の家の周辺を見回しても登山口らしきものはありません。道標も見つかりません。延長工事をしている方向にあるのかと思いましたが、GPSを見るとルートを外れます。先端の家の人に訊こうかと思いましたが、わざわざ家を訪ねる勇気はありませんでした。

スマホにダウンロードした地図と見比べながら登山口の表示を探していたら、先端の家の上にある岩の影に古い道標を見つけたのでした。どうやらここが登山口のようです。マイナーなルートなので、よくある注意書きなどの類もいっさいありません。

それに、看板はあったものの道らしきものはありません。雑草の生えたところを恐る恐る入って行きました。すると、先の方に踏み跡が付いた登山道らしきものが出て来ました。

踏み跡はありましたが、道標は稜線に出るまでに古いものが二つあっただけでした。それで、GPSとピンクテープを頼りに、踏み跡を辿りながら登りました。しかし、道に迷うことはありませんでした。と言うのも、巻き道のようなものはほとんどなく、ただひたすら直登と言ってもいいような急登がつづいたからです。

馬頭刈山に関しては、標高がそんなに高くないし危険なところもないので、初心者向けのハイキングコースと紹介されているサイトもあれば、急登がつづくのである程度の経験と体力が必要と書いているサイトもあります。それはどちらもホントなのだろうと思います。選ぶコースによって難易度も違ってくるのです。それが山田哲哉氏も書いているように、馬頭刈山の特徴なのです。

どのルートを登っても、大岳山と馬頭刈山を結ぶ縦走路でもある稜線と合流します。あとは稜線を歩いて、どこまで行ってどこで下りるかなのです。それが山歩きの楽しみを味わえる馬頭刈尾根の魅力です。

稜線に出ると、やっと三本目の道標がありました。それに従って鶴脚山(つるあしやま)から馬頭刈山の方向に歩を進めました。20分くらい歩くと、鶴脚山(916m)に着きました。鶴脚山は稜線上にある小さな瘤のようなピークでベンチもありません。写真だけ撮ってさらに稜線を進みました。すると、今度は階段が現れていったん下りるようになっていました。この鞍部が馬頭刈山との境になるのでしょう。

その下りでこの日唯一のトレランの恰好をした若者と会いました。「軍道」から登って来て、これから大岳山まで走りますと言っていました。「がんばって」と言ったら、「はい、ありがとございます。お気を付けて」と言って頭をペコリと下げて登って行きました。グループで来るのはどうしようもない連中が多いけど、ソロで登って来る若者はホントに好青年が多いのです。

いったん下って再び登り返す途中に、下山に使う「泉沢尾根コース」(守屋地図)の道標がありました。やはりあまり使われてないみたいで、心細いほど薄い踏み跡しかありません。さらにそこから5分くらい登ると馬頭狩山の山頂に着きました。

山頂にはベンチが二つと、周辺の山名とハイキングコースが記載された案内板もありました。案内板を見ると、私が下山に使おうと思っているコースは記載されていませんでした。山田氏によれば、1970年頃まで馬頭刈山の山頂には「展望台というには立派すぎるコンクリートの見晴らし台があった」そうです。

ベンチに座っていつものようにどら焼きを食べて30分くらい休憩しました。この日は曇天で眺望はほとんどありませんでした。晴れた日には富士山を見ることもできるそうですが、厚い雲のカーテンに遮られてどこにあるのかさえわかりませんでした。もちろん、誰も登ってきません。

少し寒くなったので、引き返して「泉沢尾根コース」を下りました。このコースは、落ち葉も多くいっそう踏み跡がわかりにくくなっていました。ただ、途中には真新しい道標がいくつも立てられていました。踏み跡が消えたところでは、何度も立ち止まってGPSで確認しながら慎重に下りました。

一方、下っていると、木製の道標が至るところで噛み千切られているのに気づきました(下記写真)。人間がそんなご丁寧な悪戯をするわけがないので、野生動物の仕業なのでしょう。やはり、クマがいるのかと思いました。帰ってネットで調べたら、メインのルートの登山口には「クマ目撃情報あり」の注意書きが出ているそうです。また、新しい道標(指導標)がクマに齧られるのはめずらしくないのだとか。どうして新しい道標を齧るのかよくわかってないそうですが(塗料の臭いに惹かれるからではないかとか言われている)、どうやらクマの仕業に間違いないようです。

途中でウォーッという唸り声みたいものが聞こえてきたので、笛を吹きながら歩きました。また、何度もクマの糞らしきものも見つけましたが(下記写真)、あとで調べたらクマではなくハクビシンの糞のようでした。

ハイカーの多くは、クマに遭遇したことがないと言いますが、実際はクマに遭遇しているのです。ただ、人間が気付いてないだけです。クマの方が先に人間に気付いて、ヤブの中に身を隠したり、逃げたりしているので、人間は遭遇したことがないと思っているだけです。クマに襲われるのは、不意に鉢合わせになってクマがパニックになるからです。それは、クマに限らず犬でも人間でも同じでしょう。だから、鉢合わせにならないように、見通しの悪い場所では音を立てて自分の存在を伝えなければならないのです。そのためには、熊鈴だけでは不充分で、声を出したり笛を吹いたりすることが大事だと言われています。熊鈴を鳴らすと、自分の存在をクマに伝えるので逆に危険だという話がありますが、それは山に登らない人間の無知蒙昧な”都市伝説”のようなものです。

下山したのは13時半すぎでした。入山したのが8時半頃でしたので、約5時間の山行でした。

下りたのは、檜原街道沿いの「和田向(わだむかい)」というバス停です。ここは笹尾根や浅間尾根や三頭山に行くときに何度も通ったことがあります。このバス停には、6千万円かけて作った総ヒノキ造りのトイレがあるのです。それで、やむごとなき方々と同じように、そのトイレで一度用を足してみたいと思っていたのです。

なかに入ると、ヒノキの臭いがして、とても快適に用を足すことができました。また、横には休憩室がありましたので、そこでバスを待ちました。

登りながら、馬頭刈山もやはり奥多摩の山なんだなあと思いました。標高が低くても、奥多摩特有の急登とは無縁ではないのです。六ッ石山や本仁田山や川苔山(鳩ノ巣駅からの舟井戸コース)に似ているなと思いました。山田氏も「馬頭刈尾根から北秋川へと向かうたくさんの踏み跡を、気ままに下ったことがある」と書いていましたが、私もまたひとつ楽しみを見つけたような気がしました。

また、田部井淳子さんではないですが、冬枯れの人のいない山を歩くのはいいなあとあらためて思いました。特にこの時期は、山を歩くのにいちばん好きな季節です。

帰りは、14時2分のバスに乗り、武蔵五日市駅から青梅駅、青梅駅から立川駅、立川駅から南武線で武蔵小杉駅、武蔵小杉駅から東横線で最寄り駅に帰りました。最寄り駅に着いたとき、外はどじゃぶりの雨で、駅から自宅までは徒歩で7~8分ほどなのですが、あまりに雨脚が強いので駅前のドラッグストアでビニール傘を買いました。帰り着いたのは16時すぎでした。


※サムネイル画像をクリックすると拡大画像がご覧いただけます。

DSC08417.jpg
とうげん橋バス停

DSC08421.jpg
やすらぎの里

DSC08423.jpg
都道の脇にあった茅倉の滝

DSC08426.jpg
同上

DSC08427.jpg
登山口までの林道

DSC08429.jpg
登山口

DSC08431.jpg
登山道

DSC08434.jpg
同上

DSC08437.jpg
最初の道標

DSC08443.jpg
登山道

DSC08446.jpg
クマの糞かと思った。

DSC08456.jpg
こんな登りがずっとつづく

DSC08465.jpg
登ってきた道を上から見下ろす

DSC08468.jpg

DSC08472.jpg
笹尾根のような平坦な道になったが、すぐまた急登がはじまった。

DSC08478.jpg

DSC08482.jpg
ようやく先に稜線が見えてきた。

DSC08504.jpg
稜線上の三つ目の道標

DSC08510.jpg
稜線を歩く

DSC08514.jpg
同上

DSC08517.jpg
同上

DSC08525.jpg
日の出山

DSC08533.jpg
御岳山(左奥に大岳山)

DSC08544.jpg
鶴脚山山頂標識

DSC08541.jpg
道標

DSC08548.jpg
再び稜線を歩く

DSC08552.jpg
階段をいったん下る

DSC08556.jpg
稜線上は道標が多く出てきます。

DSC08561.jpg
泉沢の下山ルート(道標は立派だけど、やはりマイナーなルートです)

DSC08564.jpg
馬頭刈山に向けて登り返す

DSC08570.jpg
本日の下山ルートの看板

DSC08573.jpg
先に馬頭刈山の山頂が見えた

DSC08579.jpg
馬頭刈山山頂標識

DSC08582.jpg
山頂の様子

DSC08584.jpg
ここから下山

DSC08588.jpg
下ってすぐ。落ち葉が積もっているのでよく滑ります。尻もちをつきました。

DSC08590.jpg
逆光で見えにくいのですが、道標の半分が折られています。

DSC08600.jpg

DSC08601.jpg
ここも齧られている

DSC08604.jpg

DSC08615.jpg
このあたりは落ち葉で踏み跡がわかりにくくなっており、慎重に下りました。

DSC08620.jpg
山は下刈りがされて人の手が入っているのがよくわかるので、歩いていて不安はありませんでした。

DSC08622.jpg
この道標も半分が折られています。

DSC08625.jpg
これもハクビシン?

DSC08635.jpg
下山口

DSC08640.jpg
バス停に下りる林道の途中にあった貴布祢伊龍神社

DSC08649.jpg
6千万円のトイレ外観(手前から休憩室、女子トイレ、男子トイレ)

DSC08646.jpg
トイレのなかの休憩室

DSC08652.jpg
和田向バス停

DSC08656.jpg
同上(反対側)
2020.12.04 Fri l l top ▲
今日、「安倍晋三前首相の後援会が主催し『桜を見る会』前日の夕食会を巡り、東京地検特捜部が安倍氏本人に任意の事情聴取を要請した」(共同)というニュースがありました。

安倍辞任について、病気はあくまで表向きの理由で、実際は河井夫妻に対する強制捜査に関連して(河井夫妻に自民党本部から振り込まれた買収資金の1億5千万円に関連して)みずからに捜査の手が及ぶのを避けるため辞任したのではないかという見方がありましたが、まさか「桜を見る会」で事情聴取に発展するとは意外でした。

それにしても、国会答弁の嘘八百には今更ながら呆れます。森友問題で、佐川宣寿財務省理財局長(当時)が国会で答弁した際、野党の追及にあたふたしている佐川局長に対して、総理大臣席の安倍が「もっと強気で行け」というメモを渡して叱咤していたそうですが、あれは「強気で嘘を吐け」という意味だったのでしょう。

安倍や菅には、「国民はすぐ忘れる」「世論はその場限りのものに過ぎない」という、国民や世論に対する”冷めた認識”が共通していると言われています。つまり、それは、「国民なんてバカですぐ忘れるので、強気で嘘を吐いてその場を言い逃れればいいんだ」という、ある意味でシビアな大衆観とも言えます。実際その通りなのですが、それがあのような国会軽視にもつながっているのでしょう。

甘やかされて育てられたボンボンにありがちな生来の嘘つきが、自民党内の無責任な政治の力学でなんと総理大臣になってしまった。そんなマンガのような話が安倍一強7年8カ月の実態なのです。

生来の嘘つきが総理大臣になった悲劇については、このブログでも下記の関連記事で書いていますので、ご参照ください。

ただ、確認しておきたいのは、安倍辞任や聴取要請は、決して反安倍の運動によるものではないということです。そういったリベラル左派にありがちな他力本願な自画自賛に対しては釘を刺しておく必要があるでしょう。この一連の流れは、あくまで権力内部の力関係の変化によるものにすぎないのです。

追記:
午後には各メディアが一斉に「聴取要請」の記事をアップしましたが、本人は記者たちの質問に対して、「そんな話は聞いてない」と答えたそうです。ここに至っても白々しく嘘を言い続けるその姿は、なんだか頬をプーッと膨らませて「ボク、知らない」と言い張っていた子どもの頃のエピソードを彷彿とさせるものがあります。三つ子の魂百までとはよく言ったもんだと思います。

こういう人物が総理大臣として、公私混同して国政を運営し、国会で嘘八百を言い続けて来たのですから、これほどの悲劇はないでしょう。しかも、彼は、「愛国者」として右派系の人間たちの間ではヒーロー扱いさえされていたのです。古谷経衡流の言い方をすれば、「愛国ビジネス」にとって格好のシンボル(ブランド)だったのです。



関連記事:
『安倍晋三 沈黙の仮面』
薄っぺらな夫婦 青木理『安倍三代』
『拉致被害者たちを見殺しにした安部晋三と冷血な面々』
2020.12.03 Thu l 社会・メディア l top ▲
未来への大分岐


斎藤幸平編『未来への大分岐』(集英社新書)を読みました。

私は、何事においても悲観論者なので、未来に対してもきわめて悲観的です。ただ、副題にあるように、現在が「資本主義の終わりか、人間の終焉か?」の「大分岐」に差しかかっているというのはその通りでしょう。

本書のなかに、シンギュラリティということばが度々出てきます。技術的特異点(technological singularity)という意味の用語ですが、ウィキペディアでは以下のように説明されていました。

技術的特異点は、汎用人工知能(en:artificial general intelligence AGI)、あるいは「強い人工知能」や人間の知能増幅が可能となったときに起こるとされている出来事であり、ひとたび自律的に作動する優れた機械的知性が創造されると、再帰的に機械的知性のバージョンアップが繰り返され、人間の想像力がおよばないほどに優秀な知性(スーパーインテリジェンス)が誕生するという仮説である。


つまり、シンギュラリティというのは、AIが人間の知能や知性を凌駕する、その臨界点を表わすことばなのです。しかも、ウィキにも書いているように、それが2045年頃やって来るのではないかと言われているのです。そうなれば、私たちは人間ではなくAIに使われるようになるのです。私たちの上司は(実質的には)AIになるのです。サラリーマンの勤務評価もAIが行うようになるのです。入社の採否もAIが決めるのです。住宅ローンの審査も然りです(既にそれははじまりつつあります)。ありていに言えば、私たちはAIに支配されるのです。

もちろん、そうなれば私たち自身、つまり人間の概念も変わらざるを得ません。なんだかSFの世界の話のようですが、そんなSFの世界がもうすぐそこまでやって来ているのです。

本書のなかで、経済ジャーナリストのポール・メイソンは次のように言っていました。

  多くの宗教では、神が人間に魂を与えています。地球上の他のあらゆるものと、人間は異なる。私たちはもっと進んだ存在で、人間は自分たちの思考によって決断を下すことができる。魂は、人間の優越性の証でした。
   たとえば、人間は槍をライオンに向かって投げつけることができるけれども、ライオンはその槍がどこから来たのかさえ理解していない。私たちがなぜ魂を信じ、人間の優越性を当然視しているのかについて、唯物論的に説明すると、そうなります。
   ところが、二十一世紀半ばには、AIが私たちに向かって槍を投げつけるようになり、その槍がどこから来たのか、私たちにはわからないという状況に陥るでしょう。
   AIが私たちを出し抜き、優位に立つのです。人間があらゆる存在に対して優越しているという、多くの宗教が今まで主張してきた前提が融解してしまう。だからこそ、人間とは何か、という固有性についての答えは、人間の優越性ではない、何か別なものに根ざしたものでなければなりません。
(第三部・第四章シンギュラリティが脅かす人間の条件)


では、人間が人間たらしめるものは何になるのか?と斎藤はポール・メイソンに問います。それに対して、メイソンは次のように答えていました。

  それは、人間の自由(引用者:傍点あり)です。だからこそ、人間が機械を活用する必要があります。人間を必要性から解放し、できうる限り少ない労働ですむようにするために、です。
(同上)


こういった楽観主義はマイケル・ハートにも共通していました。マイケル・ハートも、今の情報テクノロジーをアントニオ・ネグリとともに提唱する「コモン」による民主的な管理が必要だと説いていました。「コモン」というのは、国家所有でも私的所有でもない共同管理(所有)というような概念です。むしろ、今の情報テクノロジーは現代資本主義の果実なのだから、その果実を利用しない手はないという考えです。なんだか東西の壁が壊れる前に、旧ユーゴで実験された自主管理型社会主義を思い出しました(でも、そのユーゴも東西の壁が壊れると、凄惨な内戦=民族間紛争に突入したのでした)。

マイケル・ハートは、情報テクノロジーの進化、つまりシンギュラリティの到来によって、むしろ人間は苦の労働から解放されるのだとさえ言います。そのためにも、「アルゴリズムという固定資本の管理権」を「コモン」が手にしなければならないのだと。

  人間のもつ知識が機械に集約・固定されれば、それは、大きな社会的進歩となる可能性があります。だからこそ、私たちが本当にしなくてはならないのは、アルゴリズムを拒否することではなく、アルコリズムという固定資本の管理権を求める闘いなのです。
(第一部・第四章情報テクノロジーは敵か、味方か)


斎藤幸平は、マイケル・ハートの言葉を「固定資本の管理権を手に入れる闘いは、非物質的労働の時代における生産手段をめぐる闘いだ」と解説していました。

しかし、工場がAIに制御されたロボットによってオートメーション化されるのは、ホントに苦の労働から解放されることを意味するのだろうかという疑問があります。工場で吐き出された鉄くずを集めたり、ゴミを捨てたりするのも、やはりロボットなのか。もしかしたら、そういった下働きは人間が担うようになるのではないか、と私などは思ってしまいます。

当然、オートメーション化によって労働者のかなりの部分はリストラされるでしょう。でも、それもマイケル・ハートによれば、苦の労働からの解放を意味するのです。労働力としてみずからを資本に売る、「労働力の再生産」から解放されることになるからです。そのために、マイケル・ハートはベーシックインカムを提唱しています。

となれば、ベーシックインカムのために、マイナンバーと銀行口座や所得額や職歴や学歴や婚姻歴や病歴などの個人情報が紐付けられても、それも良しとすることになるのでしょうか。「コモン」の共同管理のためなら、個人情報が一元管理されても問題はないと考えているのでしょうか。まして、本書のなかでも議論になっていましたが、ベーシックインカムも貨幣に変わりはないのですから、”貨幣の物神性”という問題は依然として残るのではないか。そんな素朴な疑問が次々と浮かんできました。

一方、マルクス・ガブリエルは、「啓蒙の復権」を主張していました。そうあらねばならないという倫理的な考えが大事なのだと言います。その基調にあるものも、ポール・メイソンやマイケル・ハートと同じです。

私は、なんと心許ない話なんだろうと思わずにおれませんでした。情報テクノロジーの進化ではいちばんわかりやすい中国の例を見ても、私にはAIに支配される未来の人間の姿しか浮かびません。

編者の斎藤幸平が「あとがき」で書いていた新しい社会主義像についても、私は楽観主義のようにしか思えませんでした。

  これは(引用者注:コモンは)、「上から」の共産主義、スターリン主義とは異なる、社会運動に依拠した「下から」のコミュニズム(communism)と言える。
  では、なぜ「上からの」社会変革ではだめなのか。現実の社会運動や共同参画に根付かない政策提案や制度改革による、「上からの」社会変革の戦略を、本書では「政治主義」と呼んだが、政治主義は、民主主義の闘争領域を選挙戦へと著しく狭めてしまうのだ。そして、専門家や学者による政策論は問題を抱えている当事者の主体性を剥奪する。
(おわりに―Think Big!)


現に日本では、前にも書きましたが、社民党の立憲民主党への合流に見られるように、社会運動に依拠した政治勢力は壊滅状態に追いやられているのです。これからは野党周辺においても、左派的な社会運動を排除する動きが盛んになるでしょう。「『下からの』コミュニズム」なんて絵に描いた餅のようにしか思えません。しかも、菅政権のデジタル庁構想に見られるように、「サイバー独裁」「デジタル封建制」の方がむしろ現実になりつつあるのです。
2020.12.01 Tue l 本・文芸 l top ▲