第49回衆院選挙が19日に公示され、31日に投開票行われることになりました。

今回の選挙のポイントは「野党共闘」だと言われています。朝日の記事によれば、全国289選挙区の75%の217選挙区で候補者が一本化され、与野党による事実上の一騎打ちは約140選挙区にのぼるそうです。

朝日新聞デジタル
初の衆院選の野党共闘 217選挙区で一本化、強さには濃淡か

そのなかの東京8区で、公示前に「野党共闘」をめぐってトラブルがありました。

公示の10日前の10月8日、れいわ新選組の山本太郎代表が、突然記者会見を行ない、「野党統一候補」として東京8区から立候補することを表明したのでした。

東京8区は、杉並区(ただし方南1・2丁目を除く)を対象にする選挙区です。小選挙区制になってから今まで8度の選挙ではいづれも自民党の石原伸晃氏が当選しており、田中龍作ジャーナルのことばを借りれば、石原氏の「金城湯池」とも言うべき選挙区です。

しかし、この突然の山本代表の出馬会見にびっくりしたのは、立憲民主党の吉田はるみ候補を野党統一候補として担いでいた市民運動や立民の地元の関係者でした。「晴天の霹靂」「怒り心頭」と報じるメディアもありました。そして、その怒りは山本代表に向けられたのでした。

山本太郎は「限界系左翼」の盲動みたいな言い方をされ、今までの市民運動(と言ってもただの選挙運動)の成果を反古にする利敵行為だとの非難が浴びせられたのでした。吉田氏の支援者のなかには、「山本太郎さんに鼻をつまんで投票しない」というボードを掲げて抗議活動を行なう人たちまで登場する始末でした。

ところが、その後、山本自身があきらかにしたところによれば、東京8区の野党統一候補は山本で行くように水面下で話が進んでいたそうです。しかも、話を持ってきたのは立民の方で、枝野代表も承知済みだったとか。その際、山本氏が出馬すれば吉田はるみ氏を降ろすという生くさい話まで出たそうです。

そんななか、岸田内閣が誕生し、選挙日程が前倒しされた。でも、いっこうにラチがあかない。それでしびれを切らした山本が強行突破するかたちで立候補を表明したということでした。

しかし、山本太郎がフライングして立候補を表明し、彼に批判が集中すると枝野代表も立民中央も「困惑している」と言い出し、山本との”密約”についても知らぬ存ぜぬを決め込んだのでした。

結局、山本太郎が立候補を辞退することで一件落着になったのですが、すると今度は枝野代表や立民中央の姿勢を批判したリベラル系のジャーナリストに対して、「野党共闘」の周辺にいる支援者が「限界系ジャーナリスト」などというレッテルを貼って悪罵を浴びせはじめたのでした。

このトラブルで露呈されたのは、まぎれもない”もうひとつの全体主義”です。社民主要打撃論ならぬれいわ主要打撃論とも言うべき左翼政治のお家芸です。また、リベラル派であっても自分たちの意に沿わないジャーナリストは容赦なく叩くやり方には、あの夜郎自大な”無謬神話”さえ垣間見えるのでした。

立民の某国会議員は、それまで散々山本太郎を非難しておきながら、辞退が決まると一転して「山本太郎さんの英断に感謝します」とツイートしていましたが、なんだか白々しく思えてなりませんでした。私たちは、そんな白々しいことばの裏で、衣の下から鎧が覗いていたのを見過ごすことはできないのです。

「野党共闘」とはそんなスターリン主義的な左翼リゴリズムと保守反動が同床異夢する野合にすぎないのです。文字通り「『負ける』」という生暖かいお馴染みの場所でまどろむ」古い左翼(左派リベラル)の姿にほかなりません。

こんな選挙になにを期待しろというのでしょうか。AかBかなどという二者択一論にどれほどの意味があるというのか。もちろん、政権交代なんて左派特有の大言壮語、誇大妄想にすぎません。「左翼小児病」というのはレーニンの有名なことばですが、このような夢見る夢子のようなおめでたさは「左翼中二病」と言うべきかもしれません。

折しも朝日の衆院選に関連した特集で、下記のような記事が掲載されていました。

朝日新聞デジタル
韓国に抜かれた日本の平均賃金 上がらぬ理由は生産性かそれとも…

私もつい先日、このブログで同じような記事を書いたばかりですが、朝日の記事も次のように書いていました。

経済協力開発機構(OECD)の2020年の調査(物価水準を考慮した「購買力平価」ベース)によると、1ドル=110円とした場合の日本の平均賃金は424万円。35カ国中22位で、1位の米国(763万円)と339万円も差がある。1990年と比べると、日本が18万円しか増えていない間に、米国は247万円も増えていた。この間、韓国は1・9倍に急上昇。日本は15年に抜かれ、いまは38万円差だ。日本が足踏みしている間に、世界との差はどんどん開いていた。


もちろん、賃金が上がらない理由のひとつに非正規の労働者が多くなったということがあります。しかし、いちばん大きな理由は、非正規の問題も含めて労働組合が弱くなった、戦わなくなったからです。労使協調路線が当たり前のようになったからです。それは、言うまでもなく1987年の連合の誕生=労働戦線の右翼的再編からはじまったのです。一方で企業の「内部留保」は「500兆円に迫るほど積み上がって」おり、自民党でさえ「分配」を政策に掲げるほど、企業はお金をため込んでいるのです。

その労働戦線の右翼的再編と軌を一にした政界再編の申し子のような存在が、今の立憲民主党であり国民民主党の旧民主党です。その根っこを見ることなしに、自公の悪政を正すには政権交代が必要だと言うだけでは、文字通り木を見て森を見ないおためごかしの論理と言わざるを得ません。どう考えても、立民や国民民主が今の状況を剔抉しているとは思えないし、そもそもどれほど自民党と違うのかもわかりません。その選択の幅はきわめて狭いのです。二大政党制を前提とする「政権選択選挙」なんて茶番でしかないのです。花田清輝の口吻をもじって言えば、すべてが選挙に収れんされ、そして、ものみな選挙で終わるのです。
2021.10.21 Thu l 社会・メディア l top ▲
山に行けないということもあって、青空文庫で加藤文太郎の『単独行』を再び読んでいます。

加藤文太郎が初めて北アルプスに登ったのは、今から95年前の大正15年7月、21歳のときでした。Wikipediaには「1923年(大正12年)頃から本格的な登山を始める」と書いていますので、登山歴はまだ3年くらいです。その2年前には、「神戸の三菱内燃機製作所(三菱重工業の前身)」に勤務しながら、兵庫県立工業学校の夜間部を卒業しています。尚、加藤文太郎が厳冬期の北鎌尾根で命を落としたのは30歳のときです。その登山人生は僅か10年ちょっとにすぎなかったのでした。

Wikipedia
加藤文太郎

7月25日の日曜日の早朝、長野県大糸線の有明駅に着いた加藤文太郎は、徒歩で5時間以上かけて登山口にある中房温泉に向います。そして、中房温泉でひと風呂浴びて昼食を食べたあと、たぶん今と同じ登山道だと思いますが、燕岳へ向けて歩き始めたのでした。

当時、登山は大変お金のかかる贅沢なスポーツで、ハイカーの大半は経済的にも恵まれたインテリ層でした。そんななかで、末端の工場労働者にすぎなかった加藤文太郎は異色の存在だったのです。しかも、今のように詳細な登山地図もなかったので、多くはパーティを組み山に精通している地元の人間にガイド(道案内)を頼んで登るのが一般的でした。そんななか、加藤はガイドもなくひとりで北アルプスや南アルプスなどの山を登攀したのでした。そのため、『単独行』を読むと、常に道に迷い、今で言う”プチ遭難”みたいなことをくり返しながら登っていることがわかります。日没になると、行き合わせた作業小屋に泊まったり、あるいは野宿をしながら山行を続けていました。当時はヘッドランプもなかったので、暗くなると提灯を提げて歩いています。しかも、夜9時頃まで山中を彷徨うこともめずらしくありません。

初めての北アルプスは、7月25日から8月4日まで11日間に渡りました。燕岳に登ったあと、翌日には「アルプス銀座通り」(今の表銀座)を縦走して大天井岳に登り、さらに東鎌尾根を経て槍ヶ岳に登っています。当時から、燕岳から常念岳に至る縦走路は「アルプス銀座通り」と呼ばれていたことがわかります。殺生小屋(今の殺生ヒュッテ)に宿泊したあと、南岳から北穂高に至る大キレットを通り、北穂に登頂。そのあとたまたま見つけた無人小屋に泊まり、翌日奥穂高岳にも登っています。奥穂からはさらに前穂高岳にも登り、途中の雪渓に苦労して道に迷い野宿しながら上高地に下りています。そのときのことを加藤は次のように書いていました。

途中道瞭らかならず偃松等をわけ、あるいは水の流れるところ等を下る、なかなかはかどらず。 されば谷を下ればよしと思い雪渓に出ずれば非常に急にして恐ろし、尻を着けアイスピッケルを股いで滑れば、はっと思う間に非常な速度にて滑り出し、止めんとすれども止らず、アイスピッケルにて頭等を打ち、途中投出され等して数町を下りたり。そのときもう駄目なりという気起り気遠くなる思いなり。岩にぶつかるならんと思い少し梶をとりようやくスロープ緩きところに止り幸いなりき、あやうく命拾いしたり。それよりアイスピッケルを取りに行く困難言葉に表わされず、小石を拾いてそれにて足場を作り一歩一歩進む。
(略)
かかる困難をせざりしならむにこれもまた後日のためならむか。経験得るところ多し。これらすべて実に偉大なる恐るべき山なり。穂高は実にアルプスの王なりとしみじみ感ぜり、神の力に縋らずして命を全うすることを得ざるなり、有難く感謝せり。


加藤の初めての北アルプスはこれにとどまりません。上高地に下りたあと、平湯(温泉)から安房峠を徒歩で越えて乗鞍岳に登り、さらに御嶽山から中央アルプスの木曽駒ヶ岳、宝剣岳、空木岳まで登っているのです。もちろん、今のように安房トンネルもありませんし、乗鞍スカイラインや駒ヶ岳ロープウェイなどあろうはずもありません。特に空木岳はきつかったみたいで、「道なきを進み疲れはてて九時頃山中へ一泊」と書いていました。

余談ですが、「北アルプス 初登山」の日記を読むと、登山が大衆化する前とは言え、燕岳などは95年前も今と変わらない登山風景があったことがわかります。燕岳の登山道では、「途中女学生の一隊多数下山するに逢う」と書いていました。ただ、当然ながら今のようなおばさん軍団はいません。

北アルプス 初登山

  A 大正十五年七月二十五日(日曜日)晴れ
  午前六時三十五分有明駅着、 少し休む。自動車あれども人多く自分は徒歩にて出発、自動道なれば道よし、有明温泉を経て川を遡る。名古屋の人(高商生) と一緒に行く。アルプス山間たる価値ありき、中房温泉着約十二時、名古屋内燃機の人四人(加藤という人もありき)と逢えり、温泉に入浴昼食をとり一時中房温泉発、急なる登りなり、四時半燕小屋着、途中女学生の一隊多数下山するに逢う。サイダーを飲み高い金を払う。軽装(ルックザックを置き)にて燕頂上へ五時着、三角点にて万歳三唱せり。途中立山連峰、白馬、鹿島槍を見、鷲羽連峰等飛んで行けそうなるほど近くはっきりと見え心躍る、燕小屋へ引返し午後六時泊、槍は雲かかりて頂上見えず。

  二十六日(月曜日)晴後雨
  燕小屋午前六時出発、この路アルプス銀座通りといい非常に景色よく道も良し、今朝の御来迎は相当よく富士などはっきり見え槍も見ゆ。大天井岳の前にて常念道、喜作新道の岐れ道あり、そこにルックザックを置き、大天井頂上を極む。三角点にて万歳三唱、豪壮なる穂高連峰、谷という谷に雪を一杯つめ、 毅然とそびえたるを見、感慨無量なり、もとの道に引返しルックザックをかつぎ喜作新道を進む。右高瀬川の谷を眺め、眺望よきこと言語に絶す。この辺の景色北アルプス第一ならむ。西岳小屋にて休み焼印を押し、昼食をなす。途中広島の人(東京の学校にいる)東京の人(官吏)と三人となり十一時半頃出発、途中にて人々に別れ、一人にて道を行く、殺生小屋着二時半、途中大槍小屋に行く道ありて、その辺より雨降り出す。雨を冒して槍の頂上へ出発、ルックザックは小屋に置き、急なる道を進み、四、五十分にて槍肩を経て頂上着、祠あり名刺を置き三角点にて万歳三唱、一時間くらい霧の晴れるを待つ、ときどき 天上沢、槍平方面の見えるのみ、下山、殺生小屋泊、人の多きことに驚けり。


こんなことを言うと顰蹙を買うかもしれませんが、登山をする者にとって、山中を彷徨うというのはどこか冒険心をくすぐられるものがあります。ソロのハイカーが遭難すると、世間からは非難轟々で、山に登らない人間たちからは捜索のヘリを出すのさえ税金の無駄使いだみたいに言われるのが常ですが(そもそも山岳遭難を報じる記事が、そういった非難を前提にするようなパターン化されたものになっているのです)、でも、なかには加藤と同じような山中を彷徨うことに冒険心をくすぐられバリエーションルートに入った者もいるのではないかと思ったりもするのです。山にはそんな魔力みたいなものがあるのです。

加藤文太郎の山行には、紙の地図どころかGPSの地図アプリが欠かせないアイテムになっていて、道を逸れると警告のアナウンスが流れたり、下山すると家族にもメールで連絡が行ったりするような(それどころか、今どこを歩いているか、リアルタイムに現在地を家族と共有できるサービスさえあります)、便利なシステムに管理された今の登山にはない、自分のスキルと体力をフルに使って山に登るという、言うなれば原初的な山登りの姿があるのです。加藤文太郎がいつの時代もハイカーのヒーローでありつづける理由がわかるような気がします。

最終日、加藤は次のように日記を締めくくっていました。

  四日(水曜日)曇
  早朝起き川原に出でんと下れば途中道あり、それを進む、川の左岸のみを行きて川原に出で尾根へ取付きなどしてなかなか苦しき道なり、ようやく小日向の小屋に出で見れば道標あり、自分の下りし道の他に本道とてよき道あり、本道を通らばかかる困難はせざりしに、これよりは道よく道標ありて迷うことなく 九時半飯島駅着、十時の電車にて辰野へ、中央線にて塩尻を経て名古屋へ、東海道線にて神戸へ無事五日午前一時着せり、同二時床につく。痛快言わん方なかりき。かかる大コースも神の力をかりて無事予定以上の好結果を得しはまことに幸いなり、神に感謝せり。ああ思いめぐらすものすべて感慨無量なり。


床に入ったものの、11日間の大冒険を終えた興奮になかなか眠れず、何度も寝返りを打っている加藤の姿が目に浮かぶようです。
2021.10.15 Fri l 本・文芸 l top ▲
小室圭さんの自主隔離期間が終わり、26日の入籍と記者会見が近づきましたが、小室さん一家と眞子さんに対するバッシングは止む気配はありません。むしろ、最低限の節度さえ失い、狂気の領域に入ったと言ってもいいくらいです。

ネトウヨのYouTuberが小室家に押しかけてあたりはばからず大声で「結婚反対」と叫ぶので、近所の人がうるさくて迷惑しているという話も、メディアの手にかかると小室さんが帰宅して近所の人たちは迷惑しているという話になるのです。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いではないですが、全ては小室さん一家が悪いのです。

ましてや、メディアは、結婚反対デモなるものを主催しているのが件のネトウヨのユーチューバーだということや、小室さんのお母さんが遺族年金と傷病手当金を不正受給した疑いがあるとして詐欺罪で告発した(でも「返戻」された)のがネトウヨのジャーナリストであることは何故かあまり触れずに、彼らのチンピラまかいの言いがかりを二人に対するバッシングの材料に使っているのでした。

小室さんのお母さんに対する告発にしても、通常であれば名誉棄損で反訴されてもおかしくないのですが、今のお母さんの立場ではそれは叶わぬことです。それをいいことにやりたい放題のことがまかり通っているのです。

SNSで野党をフェイク攻撃してきたネトウヨの「Dappi」の実体が、実は自民党と取引きするワンズクエストというウェブ制作会社であったことがあきらかになり問題になっていますが、ネットにおいてはそれは特異な例ではないでしょう。ネットを使った情報操作や世論工作は、なにも中国に限った話ではないのです。そして、そういった世論工作に誘導された老人たちが、「ネットで目覚めた」などと言い、まるで憂国の士でもなった気分で愛国運動に動員され、ネトウヨになっていくのです。

眞子さんの結婚に関して、とりわけネトウヨが熱心にバッシングするのも、皇位継承問題に絡む極右の政治的な主張と関係しているからで、そこにも、万世一系の国体を維持するために(!)、「Dappi」と同じような政治の力がはたらいてないとも限らないでしょう。

ところが、女性自身やNEWSポストセブン(週刊ポストのウェブ版)は、「小室佳代さん 眞子さまに追い打ち…刑事告発報道で結婚会見がさらなる修羅場に」(女性自身)とか、「小室佳代さん刑事告発も 小室圭さんは結婚会見で反対世論を変えることはできるのか?」(NEWSポストセブン)などと、ネトウヨの主張をそのまま小室バッシングに利用しているのでした。

こういったフェイクに依存するメディアは、もはやメディアを名乗る資格なしと言わざるを得ません。ネットだけでは採算が合うはずはないので、読者が拒否すればすぐに言論の場から駆逐できるでしょう。ビジネスマンではなく会社員の国である日本では、不買運動が成り立ちにくいのはたしかですし、こういうクソメディアほど錦の御旗のように「言論の自由」を振りかざして大衆を恫喝するのが常です。でも、そんな脅しに屈しない読者の見識と良識が問われているのだと思います。

女性自身やNEWSポストセブンのような大衆の負の感情をこれでもかと言わんばかりに煽りまくる、悪意の塊のようなバッシングに晒されれば、眞子さんが複雑性PTSDになるのも、小室さんのお母さんが自殺を考えるまでに追い込まれるのも当然でしょう。

もっとも、女性自身やNEWSポストセブンのようなおばさん&おじさんメディアは、誰が見てもオワコンで、もはや余命が取り沙汰されるような存在です。だから、なりふり構わずネトウヨと密通して最後の悪あがきをしているとも言えるです。

さらにここに来て、元婚約者がいつものことながらわけのわからないコメントを発表して、メディアに燃料を投下しています。

仮に元婚約者が主張するように「借金」があったとして、たかが400万円のお金を用意できないのが不思議だと誰も思わないのが逆に不思議です。問題が解決しないのは、元婚約者がのらりくらりとわけのわからない理由で解決を拒んでいるからです。お母さんと直接会うことが条件だとか何とか言って、「解決金」を受け取らないからです。

そもそも400万円の「借金」が存在すること自体がずいぶん怪しい話です。ホントに貸したのなら訴訟を起こせばいいと思いますが、法律の専門家に相談したら訴訟は無理だと言われたという話もあります。さもありなんと思います。だから、小室さん側は「解決金」と言っているのでしょう。別れたから付き合っていた頃に使ったお金を返せというのは、本来なら「最低の男」と言われても仕方ないでしょう。でも、何故かそうは言われないのです。

今回、元婚約者のコメントに関する記事が朝日にも出ていたので、元婚約者が朝日の取材に応じたのかと思ったら、なんのことはない、以前と同じようにフリーライターの代理人を通して一方的にコメントを発表しただけなのでした。いつもそうやってタイミングをはかってコメントを発表し、状況を攪乱するのでした。狙いはお金より他にあるのではないかと勘繰りたくなります。そんなにお金に困っているのなら、お金(「解決金」)を受け取ればいいだけでしょう。「頑固」とかそういう問題ではないように思います。「Dappi」ではないですが、一方的に言い分を垂れ流すのではなく、元婚約者の正体をあきらかにするのがメディアの本来の役割でしょう。どうして元婚約者を取材しないのか、それも不思議でなりません。

この問題について、先日の朝日に、北原みのり氏のインタビュー記事が出ていましたが、そのなかで下記のことばが目に止まりました。

朝日新聞デジタル(有料記事)
眞子さまの苦しみ、人ごとではない 北原みのりさんが語る女性の結婚

 ただ、意識のどこかで皇室は「別世界」だと思っていたのです。天皇制そのものが性差別的な要素を含んでいるため、フェミニストも制度そのものに反対の声はあげても、その中で実際に生きている人たちをどう守るかを話すことがなかった。皇室の中にいる女性の人権は語られてこなかったのです。

 しかし今、眞子さまという生身の人が苦しんでいるのが見えています。差別的な日本の法律の一つが皇室典範であり、皇室という制度ではないかと思います。変えようという議論を始めるときではないでしょうか。


この問題に対していわゆる左派の感度が鈍いのは、天皇制そのものに反対するというイデオロギーが邪魔をして、所詮は天皇制内部の揉め事みたいな考えがあるからではないかと思います。どう見ても”もうひとつの自民党”でしかない立憲民主党に同伴しながら、心のなかは頑迷でスターリン主義的な左翼思想に凝り固まっているのが彼らの特徴ですが、そういったヌエ的な彼らの思考態度がこの問題でも露わになっているように思います。

もう天皇制が時代の間尺に合わなくなっているのです。折しも、ガールスカウトの記念イベントで、佳子さんがジェンダー平等を訴えたことが話題になっていますが、今の時代に若い皇族を皇室のなかに閉じ込めるのは無理があるのです。とどのつまりはそういうことでしょう。二人の結婚について、「いいんじゃね」「自由でしょ」とあっさり言い放つ、今どきの若者たちの方がよほどマトモで健全なのです。
2021.10.13 Wed l 社会・メディア l top ▲
二日前のことでした。整形外科の病院に久しぶりに診察に行きました。診察のあと、薬(と言っても湿布薬)を処方され近所の調剤薬局に行ったら、薬剤師から「ひと月ぶりですね」と言われ、そうかもうひと月も行ってなかったんだと初めて気付いたのでした。

そのくらい膝の調子が良かったのです。水は少し溜まっている気がしないでもなかったけど、膝の可動にもほとんど問題もなく痛みらしい痛みもありませんでした。多少の違和感が残っているだけで、前の記事でも書いたように、ハイキングを復活しようかと思っているくらいでした。

そのため、現金なもので、どうしても病院に行くのに足が遠のいていたのです。行かなければと思いつつも、ついつい先延ばしにしていました。変な話ですが、二日前も半ば義務感から重い腰を挙げて病院に行った感じでした。

診察すると、やはり注射器1本分の水が溜まっていました。ドクターに聞くと、11CCくらい溜まっていたと言われました。水の色を聞くと、薄い黄色で特に問題はないと言われました。

注射をどうしますか?と言われ、せっかくなので「お願いします」と答えました。それで、もう何度目かわからないほどのヒアルロン酸の注射を受けました。

ところが、その帰りです。病院から外に出た途端、膝の痛みを覚えたのでした。それからどんどん痛みはひどくなり、半年前の痛みはじめの頃と変わらないくらいの状態にまでエスカレートしました。水もかなり溜まっているようで、膝も醜く変形しています。もちろん、膝も曲がらなくなりました。特に、伸ばしたときに痛みが出ます。夜寝ていても、曲げた足を伸ばすと痛みを覚え目が覚めるほどです。最近は、痛み止めを飲むとほとんど痛みを感じないほどよく効いていたのですが、痛み止めも効かなくなりました。

こんなことってあるんだろうかと思いました。信じられないような話です。だからと言って、もう一度病院に行って事情を話しても、言われることは目に見ているように思います。湿布と痛み止めの飲み薬を処方されるだけでしょう。

文字通り天国から地獄に堕ちたような絶望的な気持になりました。やっと光が射してきたと思っていたのにどうして?と思わざるを得ません。

別の病院に行ってみようかとも思っていますが、今は膝の痛みを我慢するのが精一杯で、わざわざ新しい病院を探して行くほどの余力はありません。それに、別の病院に行っても同じことのくり返しになるのではないかと思ったりもします。

膝痛などの場合、整形外科の病院や整骨院を転々とするケースが多いのですが、痛みを抱えた患者が藁をも掴む気持で彷徨するのもわからないでもありません。でも、一方で、そういったことをくり返さなければならないのはとても空しく面倒なことでもあるのです。

ジョギングにはまった知り合いも、ある日足が痛くなったので、まずスポーツ用品店に行ったそうです。すると、ジョギングシューズとインソールをすすめられ購入することになった。でも、痛みは収まらない。それで、今度は駅前の整骨院に2軒行ったけど、やはり改善しない。仕方がないので整形外科の病院に行ったら、走りすぎだろうと言われて、湿布と痛み止めを処方されただけ。しかし、依然として痛みは続いているので、さらに別の整形外科に行ったところ、疲労骨折という診断を受けて、現在、完治しジョギングも復活したそうです。実際にそのように遠回りをすることも多いのです。

整形外科は「3」の数字がキーワードになるという話を聞いたことがあります。3日、3ヶ月、3年で病態が改善したか様子を見るということらしいです。とりあえず、3日様子を見て、それでも改善しないなら(その可能性が高いけど)、別の整形外科を探して診察して貰うしかないかなと思っています。でも、一方で、今の時代、病院によってそんなに違うものなのかという疑問もあります。
2021.10.07 Thu l 健康・ダイエット l top ▲