令和元年のテロリズム2


前にBAD HOPについて書いた際に紹介した『ルポ川崎』(CYZO)の著者・磯部涼氏の最新刊『令和元年のテロリズム』(新潮社)を読みました。

今回の本では、2019年5月28日の朝、神奈川県川崎市登戸のバス停で、市内にあるカリタス小学校のスクールバスを待っていた同校の小学生や見送りに来ていた父兄が、2本の包丁を振りまわしながら走ってきた男に次々と襲われ、15名が負傷し2名が死亡した「川崎殺傷事件」。その事件から数日後の6月1日に、練馬区早宮の自宅で、元農林水産省事務次官の父親が長男を刺殺した「元農水省事務次官長男刺殺事件」。さらにそれから1ヶ月半後の7月18日に、京都市伏見区のアニメ制作会社・京都アニメーションの第1スタジオが放火され、36人が死亡、33人が負傷した「京都アニメーション放火事件」。令和元年の5月末から7月までの2ヶ月間に起きたこれらの事件を取り上げています。また、終章では「上級国民」という新語を生んだ、元通産省工業技術院院長の87歳の老人が運転する車が東池袋の都道で信号を無視して暴走し、11名を撥ね、うち横断歩道を渡っていた母子を轢死させた「東池袋自動車暴走死傷事件」についても、「元農水省事務次官長男刺殺事件」との関連で取り上げていました。

個人的な話からすれば、前に勤めていた会社にカリタスを出た女の子がいました。父親が会社を経営しているとかいういいとこの娘でしたが、彼女の話によれば、カリタスでは挨拶する際「こんにちわ」ではなく「ごきげんよう」と言わなければならないのだそうです。その話を聞いたとき私は爆笑したのですが、カリタス学園はそのくらい時代離れした「上流階級」の幻想をまとった学校のようです。でも、もちろん、この国には「上流階級」なんて存在しませんので、実際に通っているのはぽっと出の成金か、せいぜいがその二代目三代目の子どもたちにすぎません。

また、元農水省事務次官が長男を刺殺した早宮小学校に隣接する自宅も、私が一時仕事の関係で親しくしていた人の家の近くでした。何度か行ったことがあったので、もしやと思って地図で調べたらすぐ近所でした。その頃はまだ道路も整備されておらず、狭く曲がりくねった昔の道が住宅街のなかを走っていました。そのため、車で行くと駐車するのに苦労した覚えがあります。東大法学部を出て当時は農水省の審議官をしていたエリート一家は、平成10年、そんな練馬の路地の奥に、場違いとも言える瀟洒な洋館を建てて引越してきたのでした。

こんな個人的な話と何の関係があるんだと思われるかもしれませんが、ただ、自分の思い出を重ねることで、牽強付会かもしれませんが、事件はそう遠くないところで起きているんだという感慨を抱くことはできるのでした。

それだけではありません。知り合いでアパート経営している人がいるのですが、その人が以前語っていた話もこれらの事件との関連を思い起こさせました。

この10年から15年くらいの話だそうですが、仕事をしていない無職の入居者が増えていると言うのです。入居時に仕事をしていても仕事を辞めるとそのまま無職で住みつづけるケースも多いのだとか。でも、家賃は遅れずに払われている。別に生活保護を受給しているわけではない。保証会社も保証してくれるので問題はない。

どうしてそんなことが可能かと言えば、「保証人がちゃんとしているから」だそうです。保証人は親です。親が無職の入居者を援助しているのです。しかも、無職の入居者は必ずしも若者とは限らないのだそうです。30代から50代くらいまでが多いと言っていました。

そこから見えてくるのは、現在、7040あるいは8050問題などと言われて社会問題化している中高年のひきこもりの問題です。自宅だけでなく、自宅外のアパートでもひきこもっているケースが少なからずあるということなのでしょう。そこには、問題を先送りする厄介払いという側面もあるのかもしれません。

この7040/8050問題について、同書では次のように書いていました。

   8050問題――あるいは7040問題とは、引きこもりが長期化した結果、当事者が40代~50代に差し掛かって社会復帰が更に困難になる上、それを支える親も70代~80代と高齢化、介護の必要に迫られ、家庭環境が崩壊しかねないことを危惧するものだ。ちなみに”引きこもり”という言葉が公文書で使われるようになったのは平成の始め、その後、同元号を通して抜本的対策が打てなかったことは、改元以前の平成31年3月に内閣府が発表した、40歳から64歳の引きこもりが推計で61万3000人存在するという衝撃的な調査結果に明らかである。平成28年、引きこもりは若年層の問題だとして15歳から39歳に絞り、54万1000人という調査結果を出していた。しかし中高年層の事例の指摘が相次ぎ、いざ上の世代を調査してみると、重複する部分もあるものの若年層以上の数が存在したわけだ。また、5割が7年以上、2割弱が20年以上にも亘って引きこもり続けていることが分かった。この調査は当事者に回答させる手法で、引きこもりの自覚のないものは対象外。数字は氷山の一角だという指摘もある。


『令和元年のテロリズム』で取り上げられた事件のなかでは、「川崎殺傷事件」と「元農水省事務次官長男刺殺事件」がその典型でした。

「川崎殺傷事件」の犯人は、幼い頃両親が離婚、親権を父親が持ちましたが、その父親も蒸発。そのため、父親の祖父母の家で伯父夫婦によって育てられます。伯父の子ども、つまり犯人の従姉兄たちは犯行の標的となったカリタス小学校に通いますが、犯人は公立の小学校に通っており、そのことが積年の恨みになっていたのではないかという見方があります。しかし、中学を卒業して職業訓練校に進み、就職してから趣味ではじめた麻雀にのめり込み、雀荘の従業員として30歳まで働いたあとに、伯父の家に戻り、以後、事件を起こす51歳まで20年間ひきこもった生活をしていたのを伯父夫婦は面倒を見ているのです。犯人が恨みを持ったとすれば、むしろ幼い頃両親が離婚して人生の歯車が狂うことになった自分の境遇に対してでしょう。

伯父夫婦も高齢になって訪問介護サービスを受けるようになり、老人介護施設に入ることを検討しはじめます。しかし、同居する甥のことが気がかりで、市の「精神保健福祉センター」に相談しているのでした。そして、センターからの助言で、甥の部屋の前に「今後についての意思を問いただす手紙」を置いたのでした。すると、甥は伯父夫婦の前に姿を現わして、「『自分のことは自分でちゃんとやっている。食事や洗濯だって。それなのに”引きこもり”とはなんだ』と言った」そうです。それを聞いて、伯父夫婦は「本人の気持を聞いて良かった。しばらく様子を見たい」とセンターに報告したそうです。しかし、それをきっかけに犯人は犯行の準備をはじめたのでした。伯父夫婦と顔を合わせたのもそれが最後だったそうです。

最近、兵庫県稲美町で、同居しながら家族とほとんど顔を合わせることがなかったと言われる51歳の伯父が、両親の留守中に家に放火して小学生の二人の甥を焼死させたり、鎌倉でもひきこもっていたとおぼしき46歳の男が78歳の伯父を刺殺するという事件が起きましたが、それらの事件のニュースを見たとき、「川崎殺傷事件」の犯人のことを思い出さざるを得ませんでした。おそらく、事件にまで至らないものの、同じようにひきこもり追いつめられている人間たちは、私たちが想像する以上に多いのではないでしょうか。それを「自業自得」「自己責任」の一語で片付けるのは簡単ですが、しかし、そうやって臭いものに蓋をする世間に、まるで刃を向けるかのようなこの手の事件は今後もつづくように思います。また、電車内の無差別刺傷事件も立てつづけに起きていますが、それも同じ脈絡で捉えることができるように思います。

一方、「元農水省事務次官長男刺殺事件」で44歳のときに父親に刺殺された息子も、大学進学を機に実家を出て母親が所有する目白の一軒家で一人暮らしを始めるのでした。しかし、就職がうまくいかず、やがてひきこもった生活をするようになります。息子は、大学を出たあとアニメーションの専門学校に進むほどアニメ好きなのですが、それがひきもこる上で恰好の拠り所になり、ゲーム三昧の生活を送るようになるのでした。SNS上では、「ドラクエX」の”ヲチ”として有名だったそうです。

中学2年の頃から家庭内暴力が始まり、それまでも遠縁の精神科の病院に入院したり、ネットが炎上したことでパニックになって措置(強制)入院させられたこともあったそうです。最初は統合失調症の診断を受け、のちに精神医療をめぐる時代の変化でアスペルガー症候群の診断を受けています。ただ、アスペルガー症候群と診断されたのは40歳になってからでした。

入院も長くは続きませんでした。本人の「退院したい」という意向に家族が従ったためです。そのため、病院で適切な治療を持続的に受けることができなかったとも言えます。それどころか、薬を処方してもらうのに、本人ではなく父親が変わりに病院に出向いていたそうです。

また、悲惨なことに、兄のひきこもりが原因で縁談が破談したことを苦にして、長女が事件の5年前にみずから命を絶っているのでした。しかし、息子のひきこもりや家庭内暴力、それに娘の自殺については、極力外部に伏せていたみたいで、周辺の人間たちもそんな家庭内の問題があったことは誰も知らなかったそうです。狂牛病問題で事務次官を更迭されたあとも、駐チェコ日本国特命全権大使に任命されるほどのエリートだったので、もしかしたら息子や娘のことは「世間体が悪い」と考えていたのかもしれません。

著者も書いているように、誤解を怖れずに言えば、ひきもこりが何らかの精神的な失調を発症しているケースも多いのです。そのためにも適切な治療が必要なのです。同書のなかでも、息子によるSNSの書き込みが紹介されていましたが、それは、選民思想と差別主義、かと思えば自虐と露悪趣味のことばが羅列された、攻撃的で支離滅裂なひどい内容のものでした。もちろん、病気だからなのですが、でもネットでは、似たような書き込みを目にすることはめずらしくありません。

「元農水省事務次官長男刺殺事件」については、下記の公判の際の検察側とのやり取りに、この問題の根っこにあるものが顔を覗かせているように思いました。

尚、文中に出て来る固有名詞の「英昭」は父親、「富子」は母親、「駒場東邦」は息子が通っていた高校、「英一郎」は息子の名前です。

   検察側からは英昭に対しても子育てについて質問が投げかけられた。そしてその答えは所々富子と食い違う。例えば英昭によれば駒場東邦時代のいじめを学校側に相談しようと考えたが、英一郎に拒否されたのだという。並行して起こった家庭内暴力に関して行政へ相談することは、親子関係の悪化を懸念して出来なかった。「それはメンツの問題ではないですか?」。検察側が訊くと、英昭は「答えにくい質問ですね。そうだとも、違うとも言える」と述べた。


この三つの事件は、時間の連続性だけでなく、いろんな側面において関連しているように思えてなりません。

それをキーワードで表現すれば、メンヘラと身内の自殺です。もとよりメンヘラ(心の失調)と自殺のトラウマが無関係ではあり得ないのは、今更言うまでもないでしょう。

「京都アニメーション放火事件」の犯人は、昭和53年に三人兄妹の次男として生を受けました。でも、父親と母親は17歳年が離れており、しかも父親は6人の子持ちの妻帯者でした。当時、父親は茨城県の保育施設で雑用係として働いており、母親も同じ保育施設で保育士として働いていました。いわゆる不倫だったのです。そのため、二人は駆け落ちして、新しい家庭を持ち犯人を含む三人の子どをもうけたのでした。中学時代は今のさいたま市のアパートで暮らしていたそうですが、父親はタクシーの運転者をしていて、決して余裕のある暮らしではなかったようです。

そのなかで母親は子どもたちを残して出奔します。そして、父親は交通事故が引き金になって子どもを残して自死します。実は、父親の父親、つまり犯人の祖父も、馬車曳き(馬を使った運送業)をしていたのですが、病気したものの治療するお金がなく、それを苦に自殺しているのでした。また、のちに犯人の妹も精神的な失調が原因で自殺しています。

犯人は定時制高校を卒業すると、埼玉県庁の文書課で非常勤職員として働きはじめます。新聞によれば、郵便物を各部署に届ける「ポストマン」と呼ばれる仕事だったそうです。しかし、民間への業務委託により雇用契約が解除され、その後はコンビニでアルバイトをして、埼玉県の春日部市で一人暮らしをはじめます。その間に母親の出奔と父親の自殺が起きるのでした。

さらに、いったん狂い始めた人生の歯車は収まることはありませんでした。犯人は、下着泥棒をはたらき警察に逮捕されるのでした。幸いにも初犯だったので執行猶予付きの判決を受け、職安の仲介で茨城県常総市の雇用促進住宅に入居し、郵便局の配達員の職も得ることができました。

しかし、この頃からあきらかに精神の失調が見られるようになり、雇用促進住宅で騒音トラブルを起こして、家賃も滞納するようになったそうです。それどころか、今度はコンビニ強盗をはたらき、懲役3年6ヶ月の実刑判決を受けるのでした。その際、犯人の部屋に踏み込んだ警察は、「ゴミが散乱、ノートパソコンの画面や壁が叩き壊され、床にハンマーが転がっていた光景に異様なものを感じた」そうです。

平成28年に出所した犯人は、社会復帰をめざして更生保護施設に通うため、さいたま市見沼区のアパートに入居するのですが、そこでも深夜大音量で音楽を流すなど騒音トラブルを起こすのでした。著者は、「再び失調していったと考えられる」と書いていました。そして、そのアパートから令和元年(2019年)7月15日、事前に購入した包丁6本をもって京都に向かうのでした。彼の場合も、精神的な失調に対して適切な治療を受けることはなかったのです。

生活困窮者を見ると、たとえばガンなどに罹患していても、早期に受診して適切な治療を受けることができないため、手遅れになってしまい本来助かる命も助からないというケースが多いのですが、精神疾患の場合も同じなのです。

不謹慎を承知で言えば、この「京都アニメーション放火事件」ほど「令和元年のテロリズム」と呼ぶにふさわしい事件はないように思います。私も秋葉原事件との類似を連想しましたが、著書も同じことを書いていました。

また、著者は、小松川女子高生殺人事件(1958年)の李珍宇や連続射殺魔事件(1968年)の永山則夫の頃と比べて、ネットの時代に犯罪を語ることの難しさについても、次のように書いていました。

「犯罪は、日本近代文学にとっては、新しい沃野になるはずのものだった。/未成年による「理由なき殺人」の、もっともクラシックな典型である小松川女子高生殺し事件が生じたとき、わたしはそのことを鮮烈に感覚した。/この事件は、若者が十七にして始めて自分の言葉で一つの世界を創ろうとする、詩を書くような行為としての犯罪である、と」。文芸評論家の秋山駿は犯罪についての論考をまとめた『内部の人間の犯罪』(講談社文芸文庫、平成19年)のあとがきを、昭和33年の殺人事件を回想しながらそう始めている。ぎょっとしてしまうのは、それが日々インターネット上で目にしているような犯罪についての言葉とまったく違うからだ。いや、炎上に飛び込む虫=ツイートにすら見える。今、こういった殺人犯を評価するようなことを著名人が書けばひとたまりもないだろう。
    秋山は犯罪を文学として捉えたが、犯罪を革命として捉えたのが評論家の平岡正明だった。「永山則夫から始められることは嬉しい」「われわれは金嬉老から多くを学んできた。まだ学びつくすことができない」と、犯罪論集『あらゆる犯罪は革命的である』(現代評論社、昭和47年)に収められた文章の書き出しで、犯罪者たちはまさにテロリストとして賞賛されている。永山則夫には秋山もこだわったが、当時は彼の犯罪に文学性を見出したり、対抗文化と重ね合わせたりすることは決して突飛ではなかった。一方、そこでは永山に射殺された4人の労働者はほとんど顧みられることはない。仮に現代に永山が同様の事件を起こしたら、彼がアンチヒーローとして扱われることはなかっただろうし、もっと被害者のバッググランドが掘り下げられていただろう。では近年の方が倫理的に進んでいるのかと言えば、上級国民バッシングが飯塚幸三のみならずその家族や、あるいは元農林水産省事務次官に殺された息子の熊澤英一郎にすら向かった事実からもそうではないことが分かる。


この文章のなかに出て来る秋山駿の『内部の人間の犯罪』や平岡正明の『あらゆる犯罪は革命的である』は、かつての私にとって、文学や社会を語ったりする際のバイブルのような本だったので、なつかしい気持で読みました。でも、当時と今とでは、犯罪者が抱える精神の失調や、犯罪を捉える上での倫理のあり方に大きな違いがあるように思います。

しかし、いくら脊髄反射のような平板な倫理で叩いても、それは気休めでしかないのです。こういったテロリズム=犯罪はこれからもどとめもなく私たちの前に出現することでしょう。むしろ、貧困や格差の問題ひとつをとっても、テロリズム=犯罪を生み出す土壌が益々拡散し先鋭化しているのは否定できません。だからこそ、そのテロリズムの底にある含意(メッセージ)を私たちは読み取る必要があるのです。そこにあるのは、坂口安吾が言う政治の粗い網の目からこぼれ落ちる人間たちの悲鳴にも似た叫び声のはずです。

「京都アニメーション放火事件」の犯人はみずからも大火傷を負い命も危ぶまれる状態だったのですが、懸命な治療の結果、命を取り止めることができたのでした。「あんな奴、助ける必要ない」という世間の怨嗟の声を浴びながら、彼は「こんな自分でも、必死に治療してくれた人がいた」と感謝のことばを述べ涙を流したそうです。なんだか永山則夫の「無知の涙」を思い浮かべますが、どうしてもっと早くそうやって人の優しさを知ることができなかったのかと悔やまれてなりません。しかし、それは、彼個人の問題だけではないように思います。


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BAD HOP
秋葉原事件
2021.11.26 Fri l 本・文芸 l top ▲
新版山を考える


今朝(日曜日)、用事があって西武池袋駅から午前8時前の電車に乗ったのですが、車内は中高年のハイカーでいっぱいでした。ホームで会った人たちを含めれば100人はいたかもしれません。しかも、その大半はグループ(団体)でした。

グループを見ると、男性だけの数人のグループもありますが、おおむね女性(つまりおばさん)が主で、そのなかにリーダー格の男性(つまりおっさん)が数名いるというパターンが多いように思いました。おばさんたちのテンションが高いのはいつものことですが、お山の大将みたいなおっさんたちも負けず劣らずテンションが高い上に、集団心理によるマナーの悪さも手伝って、まさに大人の遠足状態なのでした。電車に乗っていて、途中で遠足に行く小学生たちが乗り込んで来ると「今日はついてないな」と思ったりしますが、山に行くおばさんやおっさんたちもそれに負けず劣らず姦しくて、思わず眉をひそめたくなりました。彼らは、車内マナーだけでなく、身体も小学生並みです。山に登る人たちは、ホントに競馬の騎手みたいに身体の小さい人が多いのです。

今日は午後から雨の予報でしたが、それでも緊急事態宣言も解除されたし、新規感染者数も激減したし、ワクチン接種も済んだので、そうやってみんなで山に繰り出しているのでしょう。午前8時前に池袋を出発するような時間帯では遠くに行けるはずもなく、おそらく紅葉狩りも兼ねて西武池袋線沿線の飯能の山にでも登るつもりなのでしょう。

私は山に行くことができないので羨ましい反面、休日の人の多い山によく行く気になるなと思いました。とてもじゃないけど、私などには考えられないことです。

登山人口が高齢化して減少の一途を辿っているなかで(今が登山ブームだなどと言っているのは現実を知らない人間の妄言です)、この中高年ハイカーが群れ集う光景は一見矛盾しているように思われるかもしれませんが、そこは大都市東京を控える山なのです。腐っても鯛ではないですが、週末になると、田舎では考えられないような多くのハイカーの姿を駅で見ることができるのです。おそらく、今日のホリデー快速おくたま号(あきかわ号)が停まる新宿駅の11番ホームも、ザックを背負ったハイカーで通勤ラッシュ並みにごった返していたことでしょう。

でも、奥武蔵(埼玉)でも丹沢でも奥多摩でもそうですが、彼らが行く山は限られています。みんなが行く山に行くだけです。そして、リーダーの背中を見て歩くだけです。

そんな彼らを見ていると、私は、本多勝一氏が書いていた「中高年登山者たちのために あえて深田版『日本百名山』を酷評する」(朝日文庫『新版山を考える』所収)という文章を思い出さないわけにはいかないのでした。

本多氏は、生前の深田久弥氏と個人的にも交流があったようですが、しかし、「『日本百名山』という本を内実相応のものとして相対化する」ために、「ここであの世の深田さんには片目をつぶってウインクしながら、あまりに絶対化されたことに対するバランスをもどすべく(引用者註:「あまりに」以下は太字)、この本についての悪口雑言罵詈讒謗ばりざんぼうを書くことに」したと書いていました。

ちなみに、「中高年登山者たちのために」は『朝日ジャーナル』の1989年10月20日号に掲載されたのですが、その枕になっているのは、同年の『岳人』10月号の「日本百名山に登山はなぜ集中するのか」という座談会です。『岳人』の座談会について、本多氏は、「故・深田久弥氏の著書『日本百名山』をそのまま自分もなぞって喜んでいる『画一化登山者』たちを問題にしています。この種のモノマネ没個性登山者の急増は、中高年登山者の急増と関連しているという指摘に考えさせられるものがありました」と感想を述べていました。

余談ですが、『岳人』が百名山登山を批判する座談会を企画するなど、今の『岳人』には考えられないことです。当時の『岳人』は中日新聞が編集発行していました。でも、今はモンベルに買収され、モンベルの関連会社が発行元になっています。モンベルにとっては、百名山様々なので、百名山登山を煽ることはあっても批判することなど間違ってもないでしょう。それは『山と渓谷』も同じです。部数減で経営環境がきびしくなったとは言え、山に関しても、政治と同じで、昔の方が見識を持っていたし”骨”もあったのです。

本多氏はこう書きます。

  思うに、深田さんは確かに山が好きだったけれど、山と旅をめぐる雰囲気を愛したのであって、「山それ自体」への関心があまり深くなかったのではありませんか。その意味では「山に対する愛情の深さが、ひしひしと伝わってくる」ような本は、書きたくても書けなかったのでしょう。「山それ自体」とは「自然それ自体」であって、具体的には花であり木であり岩であり雪であり鳥であり魚であり虫であるわけです。抽象的な自然は存在しません。しかしそれらに対する関心が深田さんは薄かった。


だから、逆に言えば、NHKの番組も相俟って、人並みとモノマネを処世訓とする中高年ハイカーには受け入れやすかったのかもしれません。でも、本多氏は、そこに「深田百名山」のジレンマがあったのだと言います。

  生前の深田さんが最も忌み嫌っていた類の人間とは、これは確信をもって言えますが、はかならぬ深田百名山をそのままなぞっているような人々なのです。他人が選んだ山を盲目的になぞるだけ、独創性も自主性もない、すなわち冒険精神とは正反対の極にあるかなしきメダカ民族。「深田クラブ」が、もし深田さんの志を尊重するために存在するのであれば、そんなメダカ行為を直ちにやめて、自分自身の眼で山を選ぶことです。(略)
  もっときびしいことを言えば、もし「深田クラブ」が深田版『日本百名山』を契機に結成されたとすれば、これを解散することこそが深田さんの志にそうものかとさえ思われるのです。


でも、山のリストは今や『日本百名山』だけではありません。「深田クラブ」や日本山岳会などによって、「日本二百名山」「日本三百名山」、さらには作家の田中澄江が選んだ「花の百名山」もあります。それどころか、地方や県単位でも百名山が選定されています。そうやって登山人口の減少とは裏腹に、「自立した登山者であれ」という登山の精神とは真逆な「モノマネ没個性登山者」=おまかせ登山者は増加する一方なのです。
2021.11.21 Sun l 本・文芸 l top ▲
眞子さんと小室圭さんが結婚され、日本を飛び立ちましたが、その姿を見ながら「私たちにとって結婚は、自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択でした」という眞子さんのことばが思い出され、涙が出そうになりました。

天皇制云々以前の問題として、若い二人に誹謗中傷を浴びせ、ここまで追いつめた日本社会や日本人の下劣さについて、私たちはもっと深刻に受け止める必要があるでしょう。

でも、それも、今の日本では馬の耳に念仏のような気がします。ネットを見ればわかるように、二人に対する誹謗中傷と「在日」や生活保護受給者などに対するヘイト・スピーチは同じ根っこにあるのですが、そういった認識はほとんどありません。

眞子さんの下記のような発言は、今の日本社会に対する痛烈な批判、違和感を表明したものと言えるでしょう。

これまで私たちが自分たちの心に忠実に進んでこられたのは、お互いの存在と、励まし応援してくださる方々の存在があったからです。今、心を守りながら生きることに困難を感じ傷ついている方が、たくさんいらっしゃると思います。周囲の人のあたたかい助けや支えによって、より多くの人が、心を大切に守りながら生きていける社会となることを、心から願っております。


天皇制反対のイデオロギーに縛られ、二人の問題について見て見ぬふりをしてきた左派リベラルもまた、眞子さんから批判されるべき対象ですが、その自覚さえ持ってないかのようです。彼等もこの日本社会のなかでは、ヘイト・スピーチを行なう差別主義者と同じ穴のムジナと言っても言いすぎではないのです。仮にヘイト・スピーチに反対していてもです。

政治の幅は生活の幅より狭いと言ったのは埴谷雄高ですが、私たちにとってたとえば恋愛は、病気などと同じようにどんな政治より大事なものです。そういった人生の本質がまったくわかってないのではないか。ましてや、好きな人と愛を貫く気持など理解できようはずもないのです。

大袈裟すぎると思われるかもしれませんが、私は、天皇制反対のイデオロギーに拘泥して二人の問題を見て見ぬふりしてきた左派リベラルに、「自由」とか「平等」とか「人間の解放」とかを口にする資格はないとさえ思っています。

余談ですが、先の衆院選における「野党共闘」の総括をめぐり、「野党共闘」周辺のグループが山本太郎や北原みのりや前川喜平氏などに対して、「限界」なるレッテルを貼ったりして執拗にバッシングしていますが、それを見るにつけ、時代は変わっても相変わらず衣の下からスターリン主義の鎧が覗いている気がしておぞましい気持になりました。その行き着く先は、言うまでもなく近親憎悪と「敵の敵は味方」論なのです。そういったことも含めて、私はイデオロギーにとり憑かれた”左翼の宿痾”というものを考えないわけにはいきませんでした。

二人の出国を前にして、元婚約者の男性が400万円の解決金を受け取ることになり、いわゆる金銭問題も急転直下して解決しましたが、何だか出国のタイミングに合わせて手打ちをしたような気がしないでもありません。

どうしてもっと前に400万円を渡さなかったのかという週刊誌の記事がありましたが、渡さなかったのではなく、下記の小室さんの発言にあるように、元婚約者が小室さんのお母さんと直接会うことに拘り400万円を受け取らなかったからです。文字通り七つ下がりの雨とも言うべきお母さんに対する執着心が問題を長引かせてきたのです。

付き合っていたときに使ったお金は貸したものだ、別れたから返せ、というチンピラまがいの要求に対して、小室さんは立場上妥協に妥協を重ね、結局、「解決金」として400万円を支払うことにしたのですが、にもかかわらず、お母さんに直接会うことが条件だとして問題をこじらせたのでした。そのあたりの下衆な事情を百も承知で、週刊誌はあたかも小室さんに誠意がないかのように悪意をもって報じてきたのです。元婚約者も、そういったメディアのバッシングを背景に要求をエスカレートしていったフシがあります。

それは、小室圭さんの会見の際の次のような発言からも伺えます。

私が母に代わって対応したいと思い、母の代理人弁護士を通じてそのことをお伝えしました。元婚約者の方からは、元婚約者の方の窓口となっている週刊誌の記者の方を通じて、前向きなお返事をいただいています。


何のことはない元婚約者の代理人は、弁護士などではなく未だに「週刊誌の記者」(実際はフリーライター)が務めていたのです。彼がバッシングのネタが尽きないように、元婚約者のストーカーもどきの執着を「借金問題」としてコントロールしてきたのではないか。某大手週刊誌に近いと言われるフリーライターは、小室家の金銭問題を演出する工作員みたいな存在だったのではないのか。そんな疑いが拭えません。少なくとも週刊誌やスポーツ新聞やテレビのワイドショーにとって、彼の存在は実においしいものだったと言えるでしょう。

『噂の真相』が健在だったなら、そのあたりのカラクリを暴露したはずです。こんな人権侵害のやりたい放題のバッシングが許されるなら、もう何でもありになってしまいます。公人・私人という考え方も極めて恣意的なもので、その刃がいつ私たちに向かって来るとも限りません。そのためにも、元婚約者や代理人のフリーライターの素性、それにフリーライターと週刊誌の関係など、小室問題の真相が衆目の下にあきらかにされるべきで、『噂の真相』のスキャンダル精神を受け継ぐと言っているリテラや『紙の爆弾』など(マイナーだけど)骨のあるメディアにもっと奮起して貰いたいと思います。

大塚英志が言う死滅しつつある既存メディアがまるで悪あがきをするかのようにネット世論に迎合した結果、バッシングがエスカレートして閾値を越え、狂気と言ってもいいような領域に入っていったのでした。東京大学大学院教授の林香里氏は、朝日の「論壇時評」で、今年度のノーベル平和賞に輝いたフィリピンのオンライン・ニュースサイト「ラップラー」の創設者マリア・レッサさんの「ソーシャルメディアは『人間の最悪の性向を技術的に増幅させている』」というニューヨーク・タイムズのインタビューでの発言を紹介していましたが、既存メディアとネット世論を媒介してバッシングを増幅させたYahoo!ニュースの存在も見過ごすことはできないでしょう。もちろん、その背後に、日本社会や日本人の底なしとも言える劣化が伏在しているのは言うまでもありません。そういった構造と仕組みを知る上でも、週刊誌的手法を逆手に取ってこの問題を総括することは非常に大事なことのように思います。
2021.11.16 Tue l 社会・メディア l top ▲
山と渓谷田部重治


奥武蔵(埼玉の山域)や奥多摩などの東京近郊の山をメインにする登山系ユーチューバーの動画を観ていたら、ユーチューバー自身が「北アルプスのような高い山に登るのが偉いことで、奥武蔵のような低山に登るのは一段低い登山だという風潮がありますが、あれには違和感を覚えます」と言っている場面がありました。たしかにそういったおかしな風潮があるのは事実です。もっともそういった風潮は、日本の近代登山の黎明期から存在していたのです。前衛的(戦闘的)なアルピニズム思想に対して、「静観派」、あるいは「低山派」「逍遥派」などと呼ばれ、当時から「一段低い登山」だと見做されていたのです。

「静観派」の代表的な登山家であり、登山の大衆化に思想的に寄与したと言われる田部重治は、1931年(昭和6年)6月発刊の『峠と高原』という雑誌に、「高山趣味と低山趣味」と題して次のように書いていました。

  山を愛する人にして、それが豪壮なるが故に好むものもあろう。或いはその優美なるが故に登るものもあろう。或いは深林美を愛するが故に、或いは渓谷を好むがために、或いは眺望を欲するが故に、或いはそれらの凡ての理由以外に、山に登ること、その事をたのしむためにすらも登る理由を見出す人もあろう。
(略)
  私は、いわゆる、低山と称せられるものに於いても、以上のごとき登山の条件を有するものの決して少なくないことを見出す。むしろ東京附近からの日帰りや一泊の日程に於いて登攀しうるものの内に、こういう条件に叶うものの多いことに驚いている。それらは多摩川の本流、支流の山々の於て、相模の山に於て、秩父の山に於て多く見出される。これらの山々は美わしき山容、深林、渓谷に於て、決して軽視することの出来ないものをもっている。
(略)
  私は特に、都会生活の忙しい間から、一日二日のひまをぬすんで、附近の五、六千尺(引用者注:1尺=約30cm)の山に登攀を試みる人々に敬意を表する。これらの人々の都会附近の山に対する研究は、微に入り細を究め、一つの岩にも樹にも、自然美の体現を認め、伝説をもききもらすことなく、そうすることにより彼等は大自然の動きを認め人間の足跡をとらえるように努力している。私はその意味に於て、彼らの真剣さを認め、ある点に於て彼らに追従せんことを浴している。

(「高山趣味と低山趣味」 ヤマケイ文庫『山と渓谷 田部重治選集』所収)


私などは感動すら覚える文章ですが、その対極にあるのがヨーロッパ由来のアルピニズムです。

「征服」とか「撤退」とか、あるいは「ジャンダルム」もそうですが、登山に軍隊用語が使われているのを見てもわかるように、アルピニズムが近代合理主義の所産である帝国主義的な征服思想と軌を一にしていたのはたしかでしょう。特にアルピニズム発祥の地であるヨーロッパのキリスト教世界では、山は悪魔の棲むところ、魔界だと思われていました。だから、山に登ることは「征服」することだったのです。原始的な採集経済のなかで、山を自然の恵みを与えてくれる存在として、畏敬の念をもち信仰の対象とした日本のそれとヨーロッパのそれとでは異なる精神風土があったのです。もとよりヨーロッパアルプスなどに比べて標高が半分以下の山しかない日本では、山に対する考え方だけではなく、山に登るという行為自体も根本的に違っていたはずです。

日本では、既に7世紀の後半には役小角えんのおづぬ(役行者)によって修験道が開祖され、修験者(山伏)が山のなかで修行していたと言われています。また、8世紀後半には男体山、9世紀後半には富士山に登った記録も残っているそうです。ヨーロッパでアルピニズムが生まれたのは18世紀と言われていますので、日本の登山の歴史はヨーロッパよりはるかに古いのです。「静観派」は、どちらかと言えば、日本の伝統的な登山の系譜に属するものと言えなくもないのです。

一方、「日本アルプス」を命名したウィリアム・ガーランドが来日したのは1872年(明治5年)、日本の近代登山の父と呼ばれるウォルター・ウェストンが来日したのは1888年(明治21年)です。そして、彼らによって持ち込まれたヨーロッパのアルピニズムが日本の近代登山形成のベースになったのでした。日本の近代登山が、多分に帝国主義的な征服思想と結びついた「高い山に登るのが偉い」というような風潮に囚われるようになったのは当然と言えば当然かもしれません。でも、言うまでもなくそれは強者、勝者の論理にほかなりません。

私の田舎の山は九州本土では最高峰の山塊にありましたが、子どもの頃、6月の山開きの日にはそれこそ老若男女みんなこぞって山に登っていました。それは、「おらが山」とでも言うような山岳信仰の原初的な心情が人々のなかに残っていたからだと思います。ミヤマキリシマのピンク色の花が咲き誇る山頂に立って、自分たちの町(文字通り「おらが村」)を眺めるときの誇らしさをみんなで共有していたのです。そのために登っているような感じがありました。

私たちは、国威発揚のために山に登る昔の登山家でも、山岳ビジネスのため、あるいは自分の名前をコマーシャリズムに乗せるために山に登る現代のプロの登山家でもないのです。何か勘違いしていませんかと言いたいです。そして、そういった勘違いが、ユーチューブの俄か登山者や”北アルプス信者”や百名山登山などに散見される、自然に対する畏敬の念の欠片もなく、ただピークハントだけが目的のような軽薄な登山に繋がっているように思えてなりません。それだったら田部重治が言うように、「消防夫」や「軽業師」と変わらないのです。
2021.11.10 Wed l 本・文芸 l top ▲
衆院選における立憲民主党の惨敗は想像以上に深刻だと言えるでしょう。あれだけ「野党共闘」による政権交代を訴えながら、獲得した議席は改選前を下回ったのです。片方の共産党も同様です。文字通り、大山鳴動してネズミ一匹に終ったのでした。

選挙が近づいた途端に新規感染者が激減したのも魔可不思議な話ですが、もちろん、だからと言ってパンデミックが収束したわけではありません。百年に一度などと言われるパンデミック下においてもなお、立憲惨敗、自民単独過半数、自公絶対安定多数のこの結果は、今まで何度もくり返してきたように、立憲民主党が野党第一党であることの不幸をあらためて痛感させられたと言えるでしょう。立憲民主党に対しては、野党としての存在価値さえ問われていると言っても過言ではありません。

立憲民主党はホントに野党なのか。今回の選挙で立民は、消費税を5%に下げるという公約を掲げました。それを聞いたとき、多くの有権者は、民主党政権(野田内閣)が公約を破って自公と「社会保障と税の一体改革に関する三党合意」なるものを結び、今日の増税路線に舵を切ったことを思い出し呆れたはずです。

当時、枝野代表は経産大臣でした。蓮舫は行政改革担当の内閣府特命担当大臣、安住淳に至っては財務大臣だったのです。野田元首相も現在、立民の最高顧問として復権しています。みんな昔の名前で出ているのです。

このように消費税5%のマニフェストだけを見ても、よく言われるブーメランでしかないのです。立民や国民民主党などの旧民主党が、自民党を勝たせるためだけに存在していると言うのは、決してオーバーな話ではないのです。

今回の選挙結果を受けて、さっそく国民民主の玉木代表があたかも連合に愁眉を送るかのように立民にゆさぶりをかけていますが、今後立民に対して旧同盟系の芳野体制になった連合の右バネがはたらき、反共の立場を明確にして自民党と中間層の取り込みを争うという中道保守政党としての”原点回帰”が進むのは間違いないでしょう。でも、それは、ますます自民党との違いが曖昧になり、野党としての存在価値をいっそう消失させ、立民が自己崩壊に至る道でもあるのです。にもかかわらず、今の立民には、連合が自分たちを潰す獅子身中の虫であるという最低限の認識さえないのです。芳野友子会長はとんだ食わせ物の反共おばさんで、ガラスの天井が聞いて呆れます。

だからと言って今回のような「野党共闘」に希望があるかと言えば、今までも何度も言っているように、そして、今回の選挙結果が示しているように、「野党共闘」が”人民戦線ごっこ”を夢想した理念なき数合わせの野合にすぎないことは最初からあきらかだったのです。そんなもので政治が変わるはずもないのです。立憲民主党や国民民主党が野党になり切れないのは、何度もくり返しますが、労働戦線の右翼的再編と軌を一にして生まれた旧民主党のDNAを受け継いだ、連合=右バネに呪縛された政党であるからにほかなりません。その根本に目を瞑って「野党共闘」の是非を論じても、単なるトートロジーに終わるだけでしょう。

「野党共闘」の支援者たちのSNSをウオッチしても、この惨敗を受けてもなお、小選挙区で立民の議席が増えたことを取り上げて、「野党共闘」があったからこの程度の敗北で済んだのだなどと言い、相変わらず夜郎自大な”無謬神話”で自演乙しているのでした。

立民は小選挙区では増えたものの、支持政党を選択する比例区では致命的と言っていいほど議席を減らしました。比例区で野党第一党が有権者に見放された事実こそ、投票率の低さも含めて野党不在の今の政治の深刻さを表しているように思います。つまり、自公政治に対する批判票の受け皿がない、立民がその受け皿になってないということです。皮肉なことに今回の「野党共闘」によって、それがいっそう露わになったと言えるでしょう。

昔、著名なマルクス経済学者の大学教授が、社会党の市会議員選挙だかにスタッフとして参加した経験を雑誌に書いていましたが、そのなかで、選挙運動を「偉大なる階級闘争だった」と総括しているのを読んで、まだ若くて尖っていた私はアホじゃないかと思ったことを覚えています。共産党はもちろんですが、「野党共闘」の接着剤になったと言われる市民連合なるものも、もしかしたらそのマルクス経済学者と同じような、「負けるという生暖かい場所」で惰眠を貪っているだけのとんちんかんな存在と言うべきかもしれません。「アベ政治を許さない!」というボードを掲げるような運動がほとんど成果を得ることなく後退戦を余儀なくされた末に、苦肉の策として「野党共闘」が構想されたという事情も見過ごすことはできないでしょう。ものみな選挙で終わるのです。

ヨーロッパで怒れる若者たちの心を掴み、議会に進出して今や連立政権の一翼を担うまでになった急進左派(それはそれで問題点も出ていますが)と日本の野党との決定的な違いは、街頭での直接的な要求運動、抵抗運動が存在するかどうかです。誤解を怖れずに言えば、ヨーロッパの急進左派は火炎瓶が飛び交うような過激な街頭闘争から生まれ、それに支えられているのです。でも、日本の野党はまるで逆です。「アウシュビッツ行きの船に乗る」とヤユされた立民への合流によって、むしろ地べたの社会運動が次々と潰されている現実があります。「野党共闘」もその延長上に存在しているにすぎません。

コロナ禍によって格差や貧困の問題がこれほど深刻且つ大きく浮上したにもかかわらず、その運動を担う政治勢力が存在しない不幸というのは、とりもなおさずホントの野党が存在しない不幸、立憲民主党が野党第一党である不幸につながっているのです。

前も引用しましたが、シャンタル・ムフの次のようなことばをもう一度(何度も)噛みしめて、今の政治と目の前の現実を冷徹に見る必要があるでしょう。

  多くの国において、新自由主義的な政策の導入に重要な役割を果たした社会ー民主主義政党は、ポピュリスト・モーメントの本質を掴みそこねており、この状況が表している困難に立ちむかうことができてない。彼らはポスト政治的な教義に囚われ、みずからの過ちをなかなか受入れようとせず、また、右派ポピュリスト政党がまとめあげた諸要求の多くが進歩的な回答を必要とする民主的なものであることもわかってない。これらの要求の多くは新自由主義的なグローバル化の最大の敗者たちのものであり、新自由主義プロジェクトの内部にとどまる限り満たされることはない。
(略)右派ポピュリスト政党を「極右」や「ネオファシスト」に分類し、彼らの主張を教育の失敗のせいにすることは、中道左派勢力にとってとりわけ都合がよい。それは右派ポピュリスト政党の台頭に対する中道左派の責任を棚上げしつつ、彼らを不適合者として排除する簡単な方法だからである。
(『左派ポピュリズムのために』)


今、求められているのは、右か左かではなく上か下かの政治なのです。むしろ極右が「階級闘争」を担っている側面さえあるのです。シャンタル・ムフは、左派が極右に代わってその政治的ヘゲモニーを握るためには、自由の敵にも自由を認める(話せばわかる)というようなヤワな政治ではなく、自由の敵に自由を許すなと言い切るような「対抗的で闘技的な政治」が必要だと訴えているのでした。彼女はそれを「民主主義の根源化」と呼んでいました。

  ソヴィエト・モデルの崩壊以来、左派の多くのセクターは、彼らが捨て去った革命的な政治観のほかには、自由主義的政治観の代替案を提示できてない。政治の「友/敵」モデルは多元主義的民主主義とは両立しないという彼らの認識や、自由民主主義は破壊されるべき敵ではないという認識は、称賛されてしかるべきである。しかし、そのような認識は彼らをして、あらゆる敵対関係を否定し、政治を中立的領域でのエリート間の競争に矮小化するリベラルな考えを受入れさせてしまった。ヘゲモニー戦略を構想できないことこそ、社会ー民主主義政党の最大の欠点であると私は確信している。このため、彼らは対抗的で闘技的なアゴニスティック政治の可能性を認めることができないのである。対抗的で闘技的な政治こそ、自由ー民主主義的な枠組みにおいて、新しいヘゲモニー秩序の確立へと向かうものなのだ。
(同上)

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