ようやくと言うべきか、日本でもオミクロン株の市中感染が確認されるようになりました。欧米では既に万単位で感染者が発生し過去最多を記録するなど感染が急拡大しているのですが、日本はまだ数百人程度です。これは(今まで何度もくり返してきたことですが)日本特有のPCR検査の少なさが影響しているのは間違いないでしょう。

日本の場合、PCR検査は症状があって病院に受診した人か濃厚接触者に指定された人に限られていました。他には、入国者と帰国者に空港で抗原検査が行われていただけです。これでは市中感染の捕捉率が著しく低くなるのは当然なのです。つまり、市中では無症状や軽症の人は完全に野放しで、感染者のデータにも上がって来ないのです。ややもすれば、感染者数が少ないのは、日本の感染対策がすぐれているからという「ニッポン凄い!」の自演乙になりがちですが、間違ってもそんな話ではないのです。

ただ、ここに来て、東京都、大阪府、京都府、沖縄県では希望者が無料でPCR検査を受けることができるようになったようです。「モーニングショー」の玉川氏が言うように、遅きに失した感はありますが、一歩前進と言っていいでしょう。

一方で、今までの変異株に比べて、感染力が強いにもかかわらず逆に重症化率が低い(弱毒化されている)と言われるオミクロン株は、ウィルスの生き残り戦略における最終型だという説もあります。そうやって世界的に集団免疫が獲得され、ウィルスと人間の共生がはじまるというわけです。その意味でも、世界的な集団免疫を阻むワクチン・ナショナリズムはきわめて反動的で、愚の骨頂と言うべきでしょう。

前に紹介した『感染症と文明』(岩波文庫)の著者の長崎大熱帯医学研究所の山本太郎教授も、先日の朝日新聞のインタビュー記事で、次にように言っていました。

朝日新聞デジタル(有料記事)
コロナ2年、「敗北」後にめざす社会は? かぜになるのは10年

※以下、引用はすべて上記記事

  オミクロン株は、「ウイルスに国境はない」と改めて教えてくれました。

  ワクチン接種をアフリカなど途上国でも進めないと、いくら先進国で接種率を高めても新しい変異が出てくる。

  もっと国際協力を進めないといけません。


山本教授によれば、「新型コロナには約3万の塩基があり、1年で0.1%が変異する。つまり1年に30個ほどの変異」が出て来るそうです。デルタ株やオミクロン株はそのひとつにすぎないのです。

ウィルスは人など宿主の細胞のなかでしか増殖できない微生物なので、宿主が死ぬとウィルスも生きていくことはできません。そのため、宿主の寿命を奪うのではなく、逆に弱毒化して宿主と共生(共存)しようとする性質を持っているのだそうです。ウィルスを撲滅しようとすると、ウィルスもそれに抗い有毒化するので、宿主にとっても、弱毒化したウィルスと共生していくのが一番賢明な方法だし、むしろそれしか道はないのです。人もまた自然の一員である限り、自然と共生(共存)するしかないということです。

  ウイルスや他の生物と共生せずに生きることはできません。自分と違うものを排除するのではなく、包摂した社会をどうつくるかが問われています。

  自分と違うものを認めることから始まるのではないでしょうか。

  国籍や肌の色、性的指向……。違う人に共感できる社会であろうよと。


排除したり撲滅したりするのではない、共生するという考えが求められているのです。しかし、パンデミック下の世界では、人々の考えはむしろ逆を向いているように思えてなりません。

ワクチン・ナショナリズムも然りですが、ワクチンだけでなく、政治でも文化でもヘイトな考えが蔓延するようになっています。と言うか、ヘイトが当たり前になっているのです。

新型コロナウィルスは、自然をないがしろにする人間社会のひとりよがりな文明に対する自然界からのメッセージ(警告)であり、同時に未開の周辺域を外部化して際限もなく開発、収奪しつづける資本主義がみずから招いた災禍でもあります。しかし、そう考える人はごく一部にすぎません。前に書いたことのくり返しになりますが、山本教授も次のように言っていました。

  人の活動域が広がり、野生動物のテリトリーにずかずかと入り込む機会が増えました。野生動物の生息域を奪い、ウイルスが人に感染する確率を上げていました。

  そして狭くなった地球が、人から人へと流行を広げました。人の往来が増え、グローバル化が進んだことが拍車をかけたのです。

  新型コロナは、ロンドンやニューヨーク、東京といった巨大都市で大流行しました。人口密度が高く通勤時間も長い。必然です。


  ウイルスの特徴がわからなかった2020年春ごろには、緊張感はあって当然でした。

  しかし、戦う相手とみなし、根絶させようとするのは違います。

  攻撃すれば、相手も強くなろうとする。生物は競争と協調を繰り返し、均衡点を見いだす。そうすることで自然は成り立っています。

  同じ場所で交わっているのではなく、互いにテリトリーを尊重しながら、それぞれの場所で生き続けるのが共存です。


共生の思想しか新型コロナウィルスを克服する方法はないのです。その肝心なことが忘れられているように思えてなりません。

別の言い方をすれば、今回のパンデミックは、人間社会の傲慢さに対する自然界からのシッペ返しとも言えますが、もちろんそれは、『歎異抄』が言う「わがはからい(計らい)」である人間の小賢しい知識で対処できるようなものではありません。今をときめくAIも、野生動物を介した自然界=原始の世界からのシッペ返しに為す術もなく、ほとんど役に立ちませんでした。むしろ、監視社会化という愚かな人間がより愚かに自分で自分の首を絞める方向に使われただけです。にもかかわらず、多くの人たちは、新型コロナウィルスの本質を見ようともせず、自然はコントロールできるかのような傲慢な考えに囚われたままなのです。


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三浦春馬・竹内結子につづいて、今度は神田沙也加なのかと思いました。2019年には菊田一夫演劇賞を受賞するなどミュージカル女優として高い評価を得て、しかもミュージカル女優のひとつの頂点とも言える「マイ・フェア・レディ」のヒロインを務める公演の只中で、宿泊先のホテルの部屋から身を投じたのです。なんだか切なくてやり切れない気持にならざるを得ません。

母親の松田聖子は、国家公務員の父親のもと、プチブルのめぐまれた家庭でなに不自由なく育ち、たとえば彼女のデビューと入れ替わるように引退した山口百恵などとは対極に位置する、新しい時代の衣装を纏ったアイドルと言われました。小倉千加子は『松田聖子論』(朝日文庫)のなかで、松田聖子のことを「<近代家族の退屈>という温室の中で育った、芸能人としては稀有のケースに属する少女」と評し、そこに松田聖子というアイドル歌手の現代性があるのだと書いていました。

神田沙也加は、そんな”豊かな時代”(という幻想)を代表するアイドル歌手の一人娘として生まれたのですが、しかし、三浦春馬や竹内結子と同じように、幼い頃、両親の離婚を経験します。松田聖子と神田正輝が離婚したのは、彼女が10歳のときだそうです。

もちろん両親の離婚が彼女の自死に直接関係しているわけではないでしょうが、しかし、それが幼い少女のトラウマになり、三浦春馬や竹内結子と同じように、彼女のなかに孤独な心をもたらしたのは間違いないでしょう。

また、その後、母親の再婚に伴ってアメリカに移住したものの、再度の離婚で帰国し、転入した私立中学でひどいいじめに遭ったとも言われています。それが心の傷としてずっと残っていたということもあるかもしれません。

彼女が身を投じたとき、外は雪が降っていたみたいで、窓下の屋外スペースに倒れているのが発見された彼女の身体は、30センチくらいの雪に埋もれた状態だったそうです。彼女の人気と評価を不動のものにした「アナと雪の女王」ではないですが、その光景になんだかせめてもの救いがあるような気がしました。

遺書も残されてないみたいなので、具体的に何が原因で35歳の生涯をみずから閉じることになったのか、今となっては誰にもわからないのですが、ただ彼女は人知れずずっと自分のなかの孤独な心と向き合っていたに違いありません。そして、徐々にそのなかに引きずり込まれ、気が付いたとき、もはや後戻りできない自分がいたのではないでしょうか。

宮本亜門がテレビのインタビューで語っていましたが、彼が演出を務めたミュージカルのオーディションに神田沙也加が一般応募して主役の座を射止めたとき、彼女が宮本に「有名人の子どもだから選ばれたのでしょうか?」と尋ねたそうです。しかし、審査の際、彼女が松田聖子の娘であることは知らなかったので、そうではないと答えたら、その大きな瞳で宮本を見つめながら「私、本物になりたいんです」と言ったのだと。そのエピソードには、親の七光りを何の臆面もなく利用する世の二世タレントとは違った苦悩が彼女のなかにあったことを伺わせます。と同時に、歌手になるまで九州に帰らないと言った母親とよく似た意志の強さも感じました。

三浦春馬も竹内結子も、そして神田沙也加も、テレビのバラエティ番組に積極的に出るタイプではなく、むしろお笑い芸人が作り出すわざとらしくハイテンションなバラエティ番組の空気感とはそぐわない感じに見えました。また、みずからのプライバシーを切り売りするタイプの芸能人でもありませんでした。それは、ひとえに孤独な心を持ち、人一倍ナイーブな感性を持っていたからではないでしょうか。そうであるがゆえに、パンデミック下のえも言われぬ陰鬱な空気も人一倍感受していたのかもしれません。

毎年同じことを書いているように思いますが、年の瀬を迎えると「人身事故」で電車が止まることが多くなります。都内に乗り入れる路線では、毎日どこかで電車が止まっています。今では自殺は、電車が止まったとか、人を巻き込んだとか、有名人だったとか、そういった場合にニュースになるだけです。

でも、一方では、毎年2万以上の人たちがみずから命を絶っている現実があるのです。警察庁の統計によれば、昨年(令和2年)の自殺による死亡者は21081人です。もっとも、これでも平成15年の34427人からずっと下がりつづけているのです。男女比で言えば、男性が女性の2倍多いそうです。ただ、前も書いたことがありますが、専門家の間では死亡した人間の背後には、未遂に終わった人間がその10倍いると言われているのです。むしろ、そっちの方が衝撃的です。10倍説に従えば、昨年だけでも自殺未遂者は20万人以上もいることになります。同じ人間が何度も繰り返す場合もあるでしょうが、この10年間で200万人以上が自殺未遂していると考えることもできるのです。それくらい自殺は身近な出来事なのです。

年齢の離れた私でさえ、ニュースを聞いて以来ずっと気分が落ち込だままで、たしかに死んだ方が楽になるかもしれないという思いを抱くことがあります。江藤淳の「形骸を断ずる」ということばにひどく囚われる自分を感じることもあります。まして若い人たちのなかには、三浦春馬や竹内結子や神田沙也加とそう遠くない場所にいると思っている人も多いのではないでしょうか。要は、(言い方が適切ではないかもしれませんが)ちょっとしたきっかけや弾みなのです。それくらい死の誘惑はすぐ近くにあるのです。死を選択するのはホントに紙一重なのです。しみじみそう思えてなりません。


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彼は早稲田で死んだ


元朝日新聞記者の樋田毅氏が書いた『彼は早稲田で死んだ』(文藝春秋)を読みました。

また私事から始めますが、私はロシア文学が好きだったということもあって、高校時代、早稲田のロシア文学科に行きたいと思っていました。先生にそのことを話したら、「早稲田の文学部に行ったら、お前、殺されるぞ」と言われたのです。

結局、学力が伴わなかったので、高校を卒業すると上京して、高田馬場にある予備校に通ったのですが、予備校の講師はほとんどが早稲田大学の教員でした。受験のノウハウを教えるのにどうして大学の先生がと思いましたが、まあ出題する側なのでそれもありなのかなと思いました。でも、授業も大学の講義みたいな通り一辺倒なものだったので、自然と予備校から足が遠のきました。

そのため、予備校から実家に、テストの成績はまあまあだけど何分にも受けた回数が少なすぎますという手紙が届いたほどですが、予備校に行かなくなった私は、アルバイトをしながら、アテネ・フランセの映画講座に通ったり、新宿や高円寺のジャズ喫茶に入り浸ったりする一方で、三里塚闘争に関係する集会などにも参加するようになっていました。当時は身近でも学生運動の余韻がまだ残っていたのです。集会では、「軍報」というチラシが配れて、そこには「本日、✕✕にて反革命分子✕名を殲滅」などというおどろおどろしい文字が躍っていました。既に熾烈な内ゲバも始まっていたのです。

そして、集会などに参加するうちに、革マル派というのはセクトのなかでも”唯我独尊”で怖い存在だというイメージをもつようになり、高校時代の担任の先生のことばが今更のように甦ってきたのでした。もちろん、『彼は早稲田で死んだ』で取り上げられている川口事件が起きたあとでしたが、川口事件によって、暴力を盾にその恐怖で支配する革マル派のイメージが逆に強くなっていったように思います。それはヤクザのやり方とよく似ているのです。以来、どこに革マルが潜んでいるかわからないので軽率なことは言えない、みたいな考えにずっと囚われるようになりました。

革マル派の”唯我独尊”について、「JR『革マル』三〇年の呪縛、労組の終焉」という副題が付けられた『トラジャ』(東洋経済新報社)の著者・西岡研介氏は、同書のなかで次のように書いています。

   63年の結成以来、10年余にわたって「革命的共産主義者同盟全国委員会」(中核派)や「革命的労働者協会」(革労協)など対立セクトと陰惨な”内ゲバ”を繰り返していたが、70年代後半からは組織拡充に重点を置き、党派性を隠して基幹産業の労組やマスコミなど各界各層に浸透。現在も全国に5500人の「同盟員」を擁すると言われており(18年1月現在 警視庁「極左暴力集団の現状等」)、極めて非公然性、秘匿性、排他性の強い思想集団だ。
(『トラジャ』)


『彼は早稲田で死んだ』の著者である樋田毅氏は、1972年一浪ののち、早稲田大学第一文学部に入学。愛知県から上京した著者は、新宿アルタにあるマクドナルドでアルバイトしたり、登山の同好会で丹沢や立山の山に登ったり、さらには体育会の漕艇部に入部して、埼玉県戸田市にある合宿所に移り、漕艇の練習と大学の授業に明け暮れる日々を送るのでした。学ランを着ていたのかどうわかりませんが、著者の樋田氏は「押忍(オスッ)」と挨拶するような体育会系の学生だったのです。

そんななか、1972年11月8日、文学部2年の川口大三郎君のリンチ殺人事件が発生します。11月9日の早朝、文京区の東大病院の構内に若い男性の遺体が放置されているのを出入りの業者が発見し、事件が発覚したのでした。前日、革マル派と対立する中核派のシンパと目された川口君は、文学部のある戸山キャンパスの構内を大学の友人3人と歩いていた際、革マル派の学生たちから、彼らが自治会室として使っていた文学部の教室に連行され、リンチの末殺害されたのでした。

学友たちは川口君が連れ込まれた自治会室に押しかけますが、見張り番の男たちに追い返されます。そのあと、連行されるのを目撃した学生の通報で大学の教員2人が二度自治会室にやって来ます。しかし、やはり見張り番の学生から「お前ら、関係ないから帰れ」「午後11時になると車が来るので俺たちも引き上げる」と言われると、部屋のなかを確認もせずにすごすごと帰って行ったそうです。

朝日新聞が報じた「東大法医学部教室による司法解剖の結果」によれば、死因は次のようなものでした。

死因は、丸太や角材でめちゃくちゃに強打され、体全体が細胞破壊を起こしてショック死していることがわかった。死亡時間は八日夜九時から九日午前零時までの間とみられる。
体の打撲傷の跡は四十箇所を超え、とくに背中と両腕は厚い皮下出血をしていた。外傷の一部は、先のとがったもので引っかかれた形跡もあり、両手首や腰、首にはヒモでしばったような跡もあった。
(『彼は早稲田で死んだ』)


当時、早稲田大学では、第一文学部と第二文学部(夜間)、それに社会科学部(夜間)と商学部の自治会を革マル派が掌握しており、大学当局もそれを公認していました。そのため、学内では革マル派の暴力が日常化していたのでした。

革マル派が早稲田大学の第一文学部の自治会を掌握したのは、1962年頃だと言われているそうです。60年安保の総括をめぐって革命的共産主義者同盟が革マル派と中核派に分裂したのが1963年ですから、革マル派が正式に誕生する前から既に早稲田では革マル派系のグループが一文の自治会を握っていたのです。早稲田の一文は、革マル派の学生運動のなかでも原点、あるいは聖域とも言えるような特別な存在だったのです。

もちろん、授業料と一緒に徴収される自治会費がセクトの大事な資金源になっているのも事実で、そのためにも自治会は組織をあげて死守しなければならないのでした。

   当時、第一文学部と第二文学部は毎年一人一四〇〇円の自治会費(大学側は学会費と呼んでいた)を学生たちから授業料に上乗せして「代行徴収」し、革マル派の自治会に渡していた。第一文学部の学生数は約四五〇〇人、第二文学部の学生数は約二〇〇〇人だったので、計九〇〇万円余り。本部キャンパスのある商学部、社会科学部も同様の対応だった。
(同上)


著者が入学式に向かうため、地下鉄東西線の早稲田駅で下車し、階段を上って入学式が行われる戸山キャンパスの近くの交差点に差し掛かると、両側面に黒色で「Z」と書かれているヘルメットをかぶった男たちが「曲がり角ごとに無言で立って」いて、「緊張した面持ちで辺りを見回し、睨みつけるような鋭い視線をこちらに送ってい」たそうです。

さらに、クラスの教室で行なわれたガイダンスの席には、担任の教授の横に「ワイシャツに、ブレザー、ジーンズ姿」の男が立っており、最初は副担当か助手だろうと思っていたら、男は自治会でこのクラスを担当することになったと自己紹介して、「これから、楽しく、戦闘的なクラスを一緒に作っていきましょう」と挨拶したのでした。しかも、数日後、まだ授業が行なわれていた最中に、突然、件の男が教室に入ってきて、腕時計を見ながら、「後半の三〇分間は自治会の時間です。授業は終わってください」と教授に言い、「この自治会の時間は、第一文学部の学生運動の歴史の中で勝ち取った権利なのです」と説明したそうです。

このように革マル派が学内を我が物顔で支配するのを大学当局は黙認していたのです。と言うか、むしろ主体的に革マル派と癒着していたのです。

それは、のちの国鉄分割民営化の際、旧動労の委員長でありながら分割民営化に際してコペルニクス的転回をはかり分割民営化に全面協力し、分割民営化後のJR東日本労組の委員長(会長)及びその上部団体のJR総連の顧問を務めた松崎明氏と、JR東日本などJR各社との関係によく似ています。国鉄分割民営化の目的のひとつに”国労潰し”があったことが関係者の証言であきらかになっていますが、そのためにとりあえず「敵の敵」である革マル派を利用したとも言えるのです。革マル派とJRの関係については、上記の『トラジャ』に詳しく書かれていますが、人事にまで口出しして社内で大きな権限を持った松崎明氏は、JR東日本では「影の社長」とまで言われていたのでした。

松崎氏は、革マル派創設時の副議長で、当時も最高幹部のひとりと言われていました。革マル派内では、「理論の黒田(黒田寛一議長)、実践の松崎」と言われていたそうです。しかし、本人は革マルとは手を切った、転向した、今は自民党支持だと言って「自由新報」にまで登場し、かつて「鬼の動労」と言われた動労を率いて分割民営化に協力したのでした。しかし、それは革マル派特有の戦略だと言われていました。

   (略)労働組合など既成組織への”もぐり込み”、それら組織の理論や運動の”のりこえ”、さらにはそれら組織内部からの”食い破り”は、「加入戦術」で知られるトロッキズムの影響を色濃く受けた、革マル派の基本戦略といわれている。
(『トラジャ』)


『彼は早稲田で死んだ』のなかでも、警察のKと革マルのKを取った「KK連合」ということばが出てきますが、「KK連合」というのはもともと中核派が革マル派を攻撃するために使っていたことばです。そのため「KK連合」ということばを使うだけで中核派の手先みたいに言われるのですが、しかし、『彼は早稲田で死んだ』を読むと早稲田などでは一般学生の間でも使われていたことがわかります。

「KK連合」は、効率的な治安対策を行なうための公安警察の深慮遠謀による「敵の敵は味方」論だと言われていましたが、内ゲバがどうしてあんなに放置されたのかを考えると、それも単なる謀略論と一蹴できない”深い闇”を想像せざるを得ないのでした。『彼は早稲田で死んだ』でも「社会の闇」という言い方をしていましたが、当時、内ゲバをとおして新左翼運動に絶望した多くの人たちが似たような疑念を持っていたのはたしかでしょう。組織を温存拡大することを基本戦略として、権力との対立を極力回避するある種の待機主義をとりながら、一方で敵対セクトとは「殺るか殺れるか」の「革命的暴力」を容赦なく行使する革マル派の二面性は、警察や大学やJRなどにとって”利用価値”があったと言えるのかもしれません。

余談ですが、私は後年会社に勤めていた際、会社には内緒で原宿に個人的な事務所を持っていました。仕事で知り合った人間と共同で事務所を作ったのですが、その際、取引先でアルバイトをしていた女の子をくどいて電話番兼留守番をして貰っていました。彼女はまだ現役の大学生でしたが、どこか暗い感じの大人しいでした。彼女のお母さんは某難関国立大を出て郵便局で働いているというので、正直言って(郵便局員には悪いけど)奇異な感じがしました。彼女の友人に訊くと、幼い頃、両親が内ゲバで対立セクトに襲われ、お父さんが亡くなったのだそうです。しかも、襲われたのは就寝中だったので、彼女は目の前でそれを見ていたのだとか。それを聞いて、内ゲバの悲劇がこんな身近にもあったのかと思って慄然としたことを覚えています。でも、党派の論理では、そんな個人的な感情などどこ吹く風で、すべては「反革命」の一語で片付けられてしまうのです。

川口君虐殺の直後、一般学生たち600名が一文自治会の田中敏夫委員長らに対する糾弾集会を開いた際も、大学側の要請で機動隊がやって来て、壇上の田中委員長ら革マル派6名を救出するという出来事もあったそうです。

本書のなかでは、そのあたりの事情について、第一文学部の元教授の話が出ていました。

「当時は、文学部だけでなく、早稲田大学の本部、各学部の教授会が革マル派と比較的良好な関係にあった。他の政治セクトよりはマシという意味でだが、癒着状態にあったことは認めざるを得ない。」


著者も、本のなかで、「大学当局は、キャンパスの『暴力支配』を黙認することで、革マル派に学内の秩序を維持するための『番犬』の役割を期待していたのだろう」「私たちは大学当局が革マル派の側に立っていると考えざるを得なかった」と書いていました。

実際に「川口君一周忌追悼集会」では、大学当局が革マル派の集会のみを許可して、革マル派に批判的な新自治会や他の団体の集会は機動隊によって学外に排除されたのでした。そうやって機動隊に排除されるのは、一度や二度ではなかったと言います。しかも、その頃は既に、革マル派に目をつけられた100名近くの学生が学校に通えなくなっていたのです。川口事件以後、戸山キャンパス内に革マル派の防衛隊が立哨するようになり、敵対セクトの活動家やそのシンパを暴力的に排除していたのです。

著者は、川口事件をきっかけに漕艇部を辞めて、事件の真相究明と学内の革マル派の暴力支配に反対するために、一文(第一文学部)に革マル派のダミーではない新自治会を創る運動に没頭することになるのでした。そして、新自治会の臨時執行部委員長に選出されるのですが、著者もまた、のちに革マル派から襲撃され、鉄パイプでメッタ打ちにされて負傷し入院するのでした。臨時執行部委員長に選出される前、学生運動の先輩から「君は革マル派から必ず狙われる。委員長に選出されたら、日本全国、どこまでも逃げまくれ。命を大切にしろ」と言われたそうですが、それが現実になったのです。

当然ながら、新自治会のなかでも、暴力をエスカレートする革マル派に対して、他のセクトの武装部隊の力を借りて革マルと戦うべきだという武装路線派が台頭します。でも、著者は「非武装」「非暴力」を主張し、それを貫こうとするのでした。

その信念を支えるのはフランス文学者・渡辺一夫氏がユマニスム(ヒューマニズム)について書かれた次のような文章でした。それは同じ運動をしているフランス文学専修の先輩から教えられたもので、1951年に執筆された「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という随筆のなかの文章でした。

過去の歴史を見ても、我々の周囲に展開される現実を眺めても、寛容が自らを守るために、不寛容を打倒すると称して、不寛容になった実例をしばしば見出すことができる。しかし、それだからと言って、寛容は、自らを守るために不寛容になってよい、、という筈はない。
(同上)


しかし、結局、「川口君虐殺」に怒り革マル派の暴力支配からの脱却をめざした「非武装」「非暴力」の運動は、僅か1年も持たずにとん挫してしまいます。事件の舞台になった一文二文の自治会は非公認になりましたが、その一方で、早稲田における革マル派の支配は、以後20年以上も続くことになったのでした。

もしその頃の早稲田に自分がいたらと考えると、やはり私も武装路線を主張したかもしれません。非常に難しい問題ですが、早稲田の悲劇はユマニスムの悲劇でもあるように思えてなりません。

長くなりますが、その後、20年かかって革マル支配から脱した経緯について、著者は「エピローグ」で次のように書いていました。

(略)大学本部側は、川口君の事件の後も、革マル派が主導する早稲田祭実行委員会、文化団体連合会(文科系のサークル団体)、さらに商学部自治会と社会科学部自治会の公認を続けた。大学を管理運営する理事会に革マル派と通じた有力メンバーがいるという噂まで流れていた。
   事態が変化したのは、一九九四年に奥島孝康総長が就任してからだった。「革マル派が早稲田の自由を奪っている。事なかれ主義で続けてきた体制を変える」と就任後に表明し、翌九五年に商学部自治会の公認を取り消した。その時点まで、商学部は約六〇〇〇人の学生から毎年一人二〇〇〇円ずつの自治会費を授業料に上乗せして集め、革マル派の自治会に渡していた。つまり、年間一二〇〇万円の自治会費代行徴収を続けていたのだが、これもやめた。社会科学部の自治会にも同様の措置を取った。
   さらに、九七年には満を持して早稲田祭を中止し、早稲田祭実行委員会から革マル派を排除した。それまで、大学は早稲田祭実行委員会に対して年間一〇〇〇万円を援助し、入場券を兼ねた一冊四〇〇円の早稲田祭パンフレットを毎年五〇〇〇冊(計二〇〇万円)「教員用」としてまとめ買いしていたが、いずれも全廃。早稲田祭は翌九八年に、新体制で再開された。(略)
  奥島総長は、革マル派から脅迫、吊るし上げ、尾行、盗聴など様々な妨害を受けたが、これに屈することなく、所期の方針を貫いた。


早稲田の革マル支配は、ユマニスムではなく別の政治力学によって終焉することになったのでした。

『彼は早稲田で死んだ』には、もうひとつ大きなテーマがありました。それは、当時の一文自治会の幹部のもとを半世紀近くぶりに訪ねて、当時の暴力支配と川口大三郎君虐殺事件について、現在どう思っているのか問いただすことでした。

まず訪ねたのは、当時の一文自治会の委員長と殺害の実行犯の書記長の二人の人物でした。二人とも獄中で「自己批判書」を書いて転向し、革マル派から離れています。特に委員長であった田中敏夫氏は、殺害当日は他の場所にいて直接関与はしていないのですが、学生葬の際、革マル派からただひとり参加して、「会場を埋めた学生たちの怒りと悲しみを、一身に受けていた」そうです。当日の毎日新聞には、「両手で顔を覆って泣き続ける川口君の母、サトさんの前で、深く頭を垂れる田中さんの写真が大きく掲載されて」いたそうです。

しかし、著者が群馬県高崎市の自宅を訪ねたとき、田中氏は前年(2019年)に急性心筋梗塞で亡くなったあとでした。田中氏は1975年、事件から3年後に横浜刑務所を出所すると高崎に帰郷し、父親が経営する金属加工会社の跡を継いだそうです。しかし、ずっと会社を閉じることばかり考えていた田中氏は、55歳のときに会社を畳むと、それからは「周囲との人間関係もほとんど断ち、ひたすら読書と油絵を描くことに時間を費やした」そうです。事件についてはほとんど口を開くことはなかったものの、まれに次のようなひとり言を呟いていたのだとか。

「集団狂気だった」
「ドフトエフスキーの『悪霊』の世界だった」
「全く意味のない争いだった」
「彼らは、川口君を少し叩いたら死んでしまったと言った。だけど、そんなことはあり得ない」
「すべてわたしに責任がある」
(『彼は早稲田で死んだ』)


一方、書記長だった実行犯のS氏は、インタビューに応じて、悔恨の思いを吐露しているものの、インタビューの内容を掲載することにはかたくなに拒否したそうです。ちなみに、川口事件に関しては、5名の革マル派活動家が逮捕されたのですが、S氏が逮捕後完全黙秘から一転して事件の詳細を供述、「自己批判書」を公表してひとり分離裁判を選択したことで、リンチ殺人としての事件の内容があらかたあきらかになったのです。ただ、リンチ殺人と言っても、誰も”殺人罪”では起訴されていません。いづれも傷害と暴力行為で、刑期もS氏が5年、あとは4年でした。

私は、田中氏が生前口にしていたという、「集団狂気だった」「ドフトエフスキーの『悪霊』の世界だった」ということばに、上記の内ゲバで父親を殺された女の子のことを重ねざるを得ませんでした。川口事件が私たちに突き付けたのは、日本の新左翼運動が陥った、よく言われる「大きな過ち」どころではない、もはや”救いようがない”としか言いようのない散々たる世界です。

そして、その”救いようがない”散々たる世界は、「半世紀を経ての対話」というタイトルが付けられた最終章(第7章)にも、これでもかと言わんばかりに示されているように思いました。

それは、当時の一文自治会の副委員長で田中氏が逮捕されたあと委員長になり、「革マル派の暴力を象徴する人物」と言われた大岩圭之介氏との対話です。2012年、事件から40年を機に開かれた川口君を偲ぶ会の席で、大岩氏が「辻信一」という別の名前を名乗り、文化人類学者、「スローライフ」を提唱する思想家、環境運動家として何冊もの著書を出し、明治学院大学で教鞭を取っていることが話題になったそうです(2020年退職。現在は同大名誉教授)。

大岩氏は、事件後革マル派を離れ(と言っても、「自己批判」したわけではなく、ただそう「上司に電話した」だけだそうです)、アメリカとカナダを放浪したあと、カナダのモントリオールのマギル大学に転学した際、同大学で教鞭を取っていた鶴見俊輔氏の知遇を得て、帰国後、鶴見氏の紹介で明治学院大学に職を得たと言われています。その間、アメリカのコーネル大学で文化人類学の博士号も取得したそうです。

大岩氏の”変身”は、学生運動の仲間内では早くから知られていたみたいで、文芸評論家の絓秀実氏も、2013年にTwitterで大岩氏のことに触れていました。別のツイートでは、大岩氏との関係は鶴見俊輔氏の黒歴史だと言ってました。

猫飛ニャン助
@suga94491396

スガ秀美2

スガ秀美1

大岩氏との対話は、あれは若気の至りだった、若い頃に罹る麻疹のようなものだったとでも言いたげな、人を煙に巻くような大岩氏の発言に翻弄され、結局、会話はかみ合わないまま終わるのでした。

大岩氏は、革マルのことは何も知らなかった、暴力も革命云々など関係なく、ヤクザ映画のような幼稚な美学で行使していたにすぎないと言います。さらに、次のような開き直りとも言えるようなことを言うのでした。

大岩  僕はプラグマティズムに惹かれていたのですが、それはすごく簡単に言えば、何事にも絶対的な正しさというものはないという考え方です。正しい人間が間違って悪いことをするのではなくて、むしろ僕たちの人生そのものは間違い得るものであり、人間というのはそういうものであると。
(同上)


大岩氏は、自分の学生運動の体験をそこに重ねるものではないと言っていましたが、なんだか親鸞の悪人正機説を彷彿とするような開き直り方で、これでは殺された川口君は浮かばれないだろうなと思いました。私は、大岩氏の開き直りに、革マル派の呪縛からまだ解き放されてないのではないかと思ったほどです。

相当数の革マル派が浸透していると言われ、最高幹部の松崎明氏が我が世の春を謳歌していたJR東日本労組は、2018年、3万5千人が大量脱退して、現在は組合員が5000人にも満たない少数組合に転落しています。革マル派は早稲田でも長年の基盤を失い、影響力を持つ自治会も団体もほぼなくなりました。革マル派本体の同盟員も現在3000人足らずになったと言われており、同盟員の高齢化、組織の弱体化はあきらかです。

また、教祖・黒田寛一氏亡き後、中央の政治組織局(革マル中央)とJRのフラクション(JR革マル)の対立が深刻化して、実質的な内部分裂が起きているという見方さえあります。

「KK連合」も、早稲田の大学当局との癒着も、過去の話になったのです。つまり、過渡期の「敵の敵は味方」論の蜜月が終わり、用済みになった”革マル切り”が進んでいるということかもしれません。

なによりこういった本が書かれるようになったというのも、革マル派に対する恐怖が薄らいできた証拠と考えていいのかもしれません。
2021.12.16 Thu l 本・文芸 l top ▲
日大闘争と全共闘運動


ついにと言うべきか、東京板橋区にある日大医学部付属病院の建て替えをめぐる背任事件に関連して、日大の田中英寿理事長が東京地検特捜部に所得税法違反容疑で逮捕されました。

田中理事長が、大学やその関連施設に出入りする業者の窓口として、大学が100%出資した「株式会社日本大学事業部」を作ったのは2010年です。以後、出入り業者は取引きする際に「日本大学事業部」を通さなければならなくなり、業者の選定も「日本大学事業部」がやるようになったそうです。司直の手が伸びたと言えば聞こえはいいですが、このようにやっていることがあまりに露骨で、政界や闇社会との関係も取り沙汰されていたので、「巨悪は眠らせない」(という架空のイメージがメディアによって付与された)東京地検特捜部に目を付けられ、ターゲットになったというのが真相でしょう。

所得税約5300万円を脱税したとして逮捕されたのが11月29日で、その2日後の12月1日に日大の臨時理事会は、本人の申し出もあって、田中氏の理事長解任を決定したのでした。

これによって、「アマチュア相撲の学生横綱から、大学職員、理事、常務理事となり、2008年に理事長就任。5期13年にわたり、権限の集約と側近重用で築き上げた『「田中王国』が崩壊、ついに終焉の時を迎えた」(FRIDAY DIGITAL)のです。

私は、このニュースを聞いたとき、(私自身は下の世代なので直接には知りませんが)、1968年から1970年にかけて戦われた日大闘争を思い起こしました。

田中前理事長の存在はもちろんですが、理事長や理事たちが大学を私物化した今回の事件も、日大闘争が道半ばでやり残した問題が露呈している気がしてなりません。

日大闘争との関連を報じたのは、私が知る限りJBpressというネットメディアだけです。朝日などは、田中前理事長とカルロス・ゴーンの共通点なるトンチンカンな記事を書いてお茶を濁しているあり様でした。

JBpressのタイトルと記事の内容は次のようなものです。

JBpress
日大全共闘と敵対、学生用心棒からドンにのし上がった田中英壽

   日大闘争は1968年の4月に始まった。発端は理工学部教授による裏口入学の斡旋だ。動いた金は3000万円。それだけではなかった。さらに調べによると大学当局にも22億円という巨額の使途不明金が見つかった。大学のあり方自体が問われる問題だった。学問の場という知的環境が金まみれになっていたのだ。大学上層部がカネ絡みのスキャンダルの張本人だったという点を見れば、今回の田中英壽、井ノ口忠男の事件と何も変わらない。
(JBpress同上記事)


「国家権力である機動隊は治安維持のプロだから強いのは当たり前だけど、それとは別に日大にはプロのヤクザのような集団がいたな」

  とOB達は振り返る。

  その集団とは“関東軍”と呼ばれる柔道部や相撲部、空手部などの体育会系の学生とそのOBで日大や系列校の職員による集団で、300人くらいが日本刃やハンマーを持って学生に襲いかかってきたのだ。現場ではまさに血の雨が降った。その大学お抱え“関東軍”を率いていたのが日大相撲部で学生横綱にもなった前理事長の田中英壽(74)だ。68年当時は経済学部の4年生だった。
(同上)


また、全共闘の元学生たちの証言をまとめた『日大闘争と全共闘運動』(三橋俊明編・彩流社)の巻末にある「日大闘争略年表」には、次のような記述がありました。

1970年(昭和45年)
二・二五
京王線武蔵野台駅付近でビラ配布中、右翼暴力学生集団に襲撃され日大全共闘商闘委の中村克己さんが重傷。襲われた二九名が逮捕され、一名が起訴。襲撃した右翼学生は後日逮捕されるが、全員が不起訴。

三・二
入院加療中の中村克己さんが永眠。(略)


当時の日大は「ポン大」と呼ばれ、受験のランクもおせいじにも高いとは言えませんでした。大学進学率が15%を超え、「大学の大衆化」が言われ始めた頃だったのですが、日大は文字通りそれを象徴するようなマンモス大学だったのです。しかも、学内は大学側と一体化した体育会系の右翼学生が支配し、「学生運動のない大学」を謳い文句に、集会やデモなどとても考えられないほど厳しい管理下におかれていたのです。そのため、日大闘争は、同時期に戦われた東大闘争などとはまったく異なり、「マルクスも読んだことがない」非エリート学生たちの身体を張った命がけの闘争と言われたのです。

1968年に神田の三崎町で日大生が200メートルのデモをしたのも「画期的」と言われました。それこそデモをするのも命がけだったのです。それは、日大全共闘が掲げた「①経理の全面公開、②全理事の総退陣、③検閲制度の撤廃、④集会の自由を認めろ、⑤不当処分の撤回」の5大スローガンにもよく表われています。日大全共闘は、これを「民主化要求闘争」と呼んでいたそうです(『日大闘争と全共闘運動』より)。

『日大闘争と全共闘運動』は、冒頭、次のような文章で始まっていました。

   1968年五月、日本大学で「使途不明金」に端を発した日大闘争が沸騰しました。
   東京国税局の監査で日本大学の経理に約二〇億円にも及ぶ使途不明金が判明した新聞記事とともに、不正に抗議する学生たちが集会を開いたとニュースが報じました。
  五月二三日、大学当局に抗議する日大生たちによって「栄光のニ〇〇メートルデモ」が起こります。この日のデモをきっかけに、日本大学の本部と法学部・経済学部の校舎が建つ神田三崎町界隈の路上で、大学当局の不正と不当な教育体制に異議を申し立てる抗議デモが毎日のように繰りかえされました。
  五月二七日、大学校舎の前を通る白山通りの路上で、日本大学全学共闘会議(日大全共闘)の結成が宣言されます。日大全共闘は大学に対し大衆団交による話し合いを要求し、各学部に結成された闘争委員会とともに五月三一日に全学総決起大会を開催しました。
  六月一一日、連日にわたって要求してきた大衆団交を実現しようと、経済学部一号館前での全学総決起集会が呼びかけられます。ところが、集会に参加しようと集まった多くの一般学生たちに向かって、体育会系学生や右翼が大学校舎の階上からガラス瓶や鉄製のゴミ箱などを無差別に投げつける暴行を加えたためけが人が続出します。暴力による弾圧に怒った学生たちは法学部三号館へと移動して校舎をバリケード封鎖し、この日から日大闘争はバリケードストライキ闘争へと一気に突入していったのでした。
(「まえがき」より)


身体を張った熾烈な闘争を担う日大全共闘に対しては、変な話ですがファンも多く、日大全共闘の議長だった秋田明大氏は「アキタメイダイ」と呼ばれてカリスマ的な人気を博していました。

同書では、今は故郷の瀬戸内海の島で自動車整備業を営んでいる秋田明大氏のインタビューも掲載されており、その中で秋田氏は、1967年の経済学部学生会が主催した羽仁五郎の講演会が右翼学生に襲撃されるのを目の前で見て、大学に対して怒りを覚えたと述懐していました。

(略)そりゃ、めちゃくちゃでしたよ。二〇人ぐらいの学生を黒い学ランを着た応援団や右翼の連中が大勢やってきて、会場の大講堂で講演を妨害したうえものすごい暴力を振るったんだよね。


日大闘争は、「アウシュビッツ体制」と言われた学内の暴力との死闘の歴史でもあったのです。YouTubeに上げられている「日大全共闘映画班」が制作した当時の記録映画で、火炎瓶を使うかどうかバリケードの中で激しい議論をしているシーンがありますが、その際、具体的に組の名前を上げて、ヤクザがピストルと日本刀を持って学生に襲いかかって来るのだから、防衛的に使用するのはやむを得ないと主張している学生がいました。日大闘争にはホンモノのヤクザも介入していたのです。それが日大闘争の特殊性でもあったのです。闘争では1600余名の逮捕者と、数は不明ですが相当数の学生に退学(除籍)処分が下されたと言われています。

そんな中、JBpressの記事で「あの田中は学生に向かって建物の上から砲丸投げの球を投げ落したんだ」とOBが証言しているように、田中英寿は「関東軍」を率いてスト破りをした功績が認められ、大学職員として大学に残り、のちに学内に恐怖政治を敷いて絶対的な地位を手にするのでした。

もっとも田中前理事長が権勢を誇ったのも、100万人の会員を擁する同窓会組織「校友会」の支持があったからだと言われています。昔、日大は「右翼の巣窟」と言われていましたが、これでは日大そのものがヤクザまがいの暴力支配を許容するような歪んだ体質を持っている学校だと言われても仕方ないでしょう。実際に、過去には田中元理事長が広域暴力団の会長や組長と写った写真も表に出ているのでした。

今の日大もおそらく集会やデモなど考えられないほど厳しい管理下にあるに違いありません。秋田明大氏は見て見ぬふりはできなかったと言ってましたが、それが今の学生たちと根本的に違うところのように思います。「今の学生(若者)は優しい」という声をよく耳にしますが、それはヘタレだからそう見えるだけで、むしろ見て見ぬふりをする方が賢い、正義感なんて損(貧乏くじを引くだけ)みたいな損得勘定が先に立つのが特徴のような気がします。そのため、SNSなどに見られるように、斜に構えて揚げ足取りをすることだけは長けているのです。今回の不祥事に対しても、「そうしたお金があるなら、学費を安くしてほしい」などと間の抜けた発言をするのが関の山です。

日大闘争はまだ終わってなかったのです。ただ、不正に立ち向かう学生がいなくなっただけです。


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2021.12.07 Tue l 社会・メディア l top ▲
中国のテニス選手・彭帥(ほうすい)さんをめぐる騒動について、外交評論家の宮家邦彦氏が、時事通信に示唆に富んだ解説記事を書いていました。(この記事はYahoo!ニュースにも転載されています)

時事ドットコムニュース
中国女子テニス選手、彭帥さんをめぐる騒動の本質【コメントライナー】

宮家氏が記事の中で紹介していた彭帥さんの「告白」の概要は次のようなものです。

「私は良い女の子ではない、悪い悪い女の子だ。あなたは私を自分の部屋に引き入れ、十数年前と同様、私と性的関係を結んだ。あなたは共産党常務委員に昇進し、北京へ行き、私との連絡を一度絶ったのに、なぜ再び私を探し、私に関係を迫ったのか? 感情とは複雑で、うまく言えない。あの日から私はあなたへの愛を再開した。…あなたはとてもとても良い人だった。私は小さい頃から家を離れ、内心極度に愛情に飢えていた。…あなたは私に2人の関係を秘匿させた。関係は終わったが、私にはこの3年間の感情を捨て去る場所がない。私は自滅する覚悟であなたとの事実を明かすことにした」


宮家氏が書いているように、「告白」の中では「『関係を強要された』とは言っていない」のです。しかし、いつの間にか「関係を強要された」話になり、それが独り歩きしているのでした。むしろ、宮家氏も書いているように、「身勝手な相手に捨てられた鬱憤(うっぷん)から自暴自棄になり」告白文を書いて投稿したように見えます。

しかし、告白文は、中国共産党内の権力闘争のみならず中国をめぐる外交問題にまで発展し、北京五輪の「外交的ボイコット」まで話が進んでいるのでした。もっとも最近は、「外交的ボイケット」の理由に新疆ウイグル自治区の人権侵害を上げていますので、まずボイコットありきで理由は二の次みたいな感じもあるのですが、いづれにしても、アメリカのバイデン政権が彭帥さんの「告白」をことさら政治問題化して大きくしたのは間違いないでしょう。

とは言え一方で、今回の騒動に、一党独裁国家である中国社会の暗部が露呈されていることもまた、たしかです。共産党の権力や権威を絶対視する事大主義的な社会の中で、一人の女性の人生が翻弄されたのはまぎれもない事実で、それをどう解釈するかでしょう。もっとわかりやすく言えば、今回の騒動は、共産党の地方幹部が党の権威を利用して、親元を離れてテニスの英才教育を受けている少女と性的な関係を持ち、その後、中央政府の要職に就いてからも彼女の身体と心を弄んだという話なのです。

宮家氏は、騒動の本質について、次のように書いていました。

  筆者には、森羅万象が政治的意味を持つ中国で、幼少からテニス一筋で厳しく育てられ、親の愛情を知らないまま成功を収めたものの、時の権力者に翻弄(ほんろう)された「天才テニス少女」の半生が哀れでならない。
   今ごろ、彭帥さんがどこで何をしているかは知る由もない。が、今後彼女が自由に自らの心情を語ることは二度とないだろう。
   あまりにゆがんだ中国社会は、彼女ほど有名ではないが、彼女と同じような悲しい境遇を生きる人々を毎日生みつつある。これこそが、彭帥騒動の本質ではないか。


党の腐敗と言えばそのとおりですが、私たちが政治を見る場合、こういった個人的な視点から見ることも大事なように思います。吉本隆明は「政治なんてない」と言ったのですが、言うまでもなく私たちの人生にとって、政治は二義的なものにすぎないのです。

私もこのブログで、床屋政談とも言うべき軽佻浮薄な記事を書いていますので、偉そうなことを言う資格はないのですが、政治が一番と考えるような見方では、本来見るべきものも見えなくなるような気がします。それは眞子さんの問題にも言えることでしょう。

たまたま堤未果氏の『デジタル・ファシズム』(NHK出版新書)という本を読んでいるのですが、同書を読むと、デジタル先進国の中国では、政府が最先端のデジタル技術を使って人民の生活の隅々にまで入り込み、そうやって取得した個人情報を共産党が一元管理して人民を監視し支配する、文字通りのディストピアみたいな社会になっていることがよくわかります。独裁的な政治権力とGoogleがかつて(Web2.0で)バラ色の未来のように自画自賛したデジタル技術が結び付くと、とんでもない監視社会が訪れるという好例でしょう。その意味では政治と無縁とは言えないのかもしれません。しかし、だからと言って、私たちの人生は(政治に翻弄されることがあっても)政治が全てではないのです。それだけは強調する必要があります。くり返しになりますが、坂口安吾が言うように、人間というのは政治の粗い網の目から零れ落ちる存在なのです。だから希望があるのです。もとよりバイデンだって、政治に翻弄された彭帥さんの「悲しい境遇」を慮って中国政府を批判しているわけではないのです。どっちがホントなのか、どっちに正義があるのかなんてまったくナンセンスな話です。

今回の騒動についても、アメリカ中国双方の政治的プロパガンダに動員されるのではない、私たち自身の日常感覚に基づいた冷静な視点を持つことが何より大事だと言いたいです。
2021.12.05 Sun l 社会・メディア l top ▲
あらたな変異株、オミクロン株の感染が日本でも確認されました。既にオミクロン株の感染は、アメリカ、カナダ、イギリス、ポルトガル、ベルギー、オランダ、そして韓国などでも確認されているそうです。オミクロン株に関しては、感染力や重症度などまだその詳細がわかっていないようですが、しかし、感染防止の観点から最悪の事態を想定するのは当然で、再び双六が振り出しに戻るかのような世界大の感染拡大が懸念されているのでした。

BBCが言うように、「オミクロン株の出現は、多くの人がCOVID-19は終わったと考えていても、実際には終わっていないことを示している」のです。

同じBBCには、次のような記事が掲載されていました。

BBC NEWS / JAPAN
南ア大統領、各国の渡航制限解除を要請 オミクロン株めぐり

ラマポーザ大統領は演説で、渡航制限に科学的根拠はないと指摘。アフリカ南部諸国が不公平な差別の犠牲になっていると批判した。
(略)
さらに、オミクロン株が発見されたことで、ワクチン供給の不平等が浮き彫りになったと述べ、全ての人がワクチンを接収するまで、変異株の出現は免れないと話した。

南アフリカ自体はワクチン不足には陥っていないが、ラマポーザ氏は、多くの人にワクチンを打ってほしい、それが新型ウイルスと戦う最善手段だと訴えた。


まったくその通りで、ワクチンを先進国が独占している限り、かつて「第三世界」と呼ばれた南の貧しい国からの変異株のシッペ返しはこれからも続くでしょう。

この一見終わりがないかのような新型コロナウィルスとの戦いに示されているのは、資本主義の矛盾です。既に新型コロナウイルスの変異株は100種類以上発生していると言われていますが、富める者(国)と貧しき者(国)が存在する限り、ウイルスが弱毒化され単なる感染症となる日まで、私達は変異株に怯え続けなければならないのです。もちろん、その度に、変異株の震源地である貧しい国の人々が真っ先に多大な犠牲を強いられるのは言うまでもありません。

一方で、製薬会社にとっては、パンデミックは千載一遇のビジネスチャンスでもあります。そのため、開発競争も熾烈を極めているのですが、しかし、彼らが相手にするのは高値で買取ってくれる先進国の政府で、お金のない貧しい国など眼中にありません。もとより、オミクロン株の出現も、製薬会社にとっては益々笑いが止まらない喜ぶべきニュースと言えるでしょう。

資本主義社会にどっぷりと浸かった人間たちは、金のある人間がワクチンを優先的に接種できるのは当たり前だと思うでしょうが、そのために、貧しい国の人々を通してオミクロン株のような変異株による感染が発生して、あらたな感染爆発に恐れ戦かねばならないのです。ワクチンと無縁な人々から見れば、「ざまぁ」というような話でしょう。

独占的にワクチンを供給する製薬会社が、中国とロシアを除いてアメリカとイギリスに集中しているのも、資本主義世界を支配する古い政治の力学がはたらいているからでしょう。

そんななかで中国は、先進国が欧米のワクチンを独占するその間隙を縫って、みずから開発したワクチンをアジアやアフリカの発展途上国に無償提供することで、一帯一路構想の参加国を増やすなどその影響力を広げようとしています。

地球温暖化を方便とした「脱炭素戦争」の背景に、アメリカと中国の世界覇権をめぐる争いがあるのはあきらかですが、このように新型コロナウィルスのワクチンをめぐる競争にも、米中の”見えない戦争”が影を落としているように思えてなりません。

ファイザー(米)やモデルナ(米)やアストラゼネカ(英)のような製薬会社、あるいはアマゾン(米)やグーグル(米)のような巨大IT企業が文字通り火事場泥棒のように巨万の富を手に入れるその傍らでは、先進国と発展途上国の格差や国内の階層間の格差は広がる一方で、そこにグローバル資本主義の本質が如実に示されているように思います。

まさにノーブレーキで貪欲に暴走する資本に歯止めをかけない限り、格差の拡大にも歯止めがかからないのは自明ですが、私たちの今の生活を虚心坦懐に見ればわかるように、自己満の幻想と欲望に酔い痴れた先進国の人間にとって、そういったものの考え方はもはや自らの死を意味する自己否定に等しいものです。私たち自身もまた、資本主義の矛盾を体現した危うい存在に過ぎないのです。

しかも、岸田政権が日本に到着する国際線の新規予約の停止を航空会社に要請したものの、翌日には撤回するというドタバタ劇を演じたことからもわかるように、感染防止の水際対策は両刃の剣でもあるのです。資本が国境を易々と飛び越え、経済がグローバル化した今の資本主義世界では、物流や人流を完全に止めることはもはやできないのです。

資本の原理によって必然的に生み出される格差。その所産である南の貧しい国から断続的に出現する変異株。グロール資本主義の宿命とも言うべき物流や人流につきまとう両刃の剣。新型コロナウィルスが暴き出したのは、このような資本主義の避けようのない矛盾です。ウィルスの脅威の前には、資本主義は張子の虎にすぎないという市場原理主義の脆さ、自己矛盾なのです。


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2021.12.02 Thu l 新型コロナウイルス l top ▲