年末年始は本を読んで過ごしました。でも、あっという間に過ぎ、何だか年末と年始の区切りもないような感じでした。

年を取るとやたら昔のことが思い出され、センチメンタルな気分になるものです。正月もまた然りで、昔、正月は文字通りハレのイベントでした。しかし、今はさみしい風が吹いています。

子どもの頃、年の瀬も押し迫ると、親と一緒に近所の洋品店に行って、新しい服を買うのが決まりでした。下着はもちろんですが、セーターやジャンパーなども買って貰いました。そして、田舎だったのでどこに行くわけでもなかったけど、正月にはそれらを着て晴れがましい気持になったことを覚えています。

また、年末になると、どの家もそうでしたが、散髪に行くのが慣例になっていました。余談ですが、九州では「床屋」のことを「散髪屋」と言ってました。ちなみに、母親が行く美容院は「パーマ屋」でした。

その習慣は今でも私のなかに残っており、正月が近づくと必ず新しい下着を買っています。もっとも、今はAmazonで買っています。散髪にも欠かさず行っています。

母親たちも「パーマ屋」に行ってパーマをかけていました。そのため、正月はどの家のおばさんもみんな一緒の髪型をしていました。

子どもの頃、婦人会というのがあって母親たちはみんなそれに入っていました。しかも、えんじ色の婦人会の「会服」というのもあって、婦人会の旅行に行くときもそれを着て行ってました(先日、メルカリに当時の「会服」が出品されていてなつかしい気持になりましたが)。

母親が旅行から帰るとき、お土産を楽しみに家の前で待っていると、貸切バスを降りて通りの向こうから同じ髪型と同じ服装のおばさんたちの集団がやって来るのでした。

あの頃はまだマイカーもない時代でしたし(我が家は父親が「メグロ」のオートバイに乗っていました)地域のきずなも強かったので、とにかく貸切バスで日帰り旅行によく行ってました。商工会の旅行、水道組合(水道は公営ではなく自分たちで簡易水道組合を作って家庭の水を供給していた)の旅行、それから当時、田舎では町内会のことを「部落」と呼んでいたのですが、学校のバス旅行とは別に「部落」の子供会の旅行というのもありました。

そうやって九州の山間の温泉町から年に何回か”都会”(と言っても地方都市に過ぎなかったけど)に遊びに行くのが楽しみだったのです。旅行も現在のように神社仏閣や自然の景観を求めて行くのではなく、とにかく街場やその近辺の遊園地などに行くのが主でした。そのときも必ず散髪して、下着も新しいものを着て行ってました。

近所の洋品店の「おいさん」(おじさんのことを田舎では「おいさん」と呼んでいた)は、年に何回か別府から関西汽船に乗って大阪の船場に商品を仕入れに行っていました。大きな風呂敷包を何個も背負って仕入れから帰ると、近所のおばさんたちが新しく仕入れた洋服の品定めに行くのがならわしでした。あたらしく仕入れた洋服は、おばさんたちには、都会の風も一緒に運んできた流行はやりのものに映ったのでしょう。

年を取ると年々年賀状も少なくなります。そのわずかな年賀状のなかに田舎の友達からのものがありました。彼の年賀状はいつも三が日が終わってから届くのですが、それには理由があるのです。

大晦日、隣町の宮崎県の山に登り尾根の上から初日の出を撮影して、それを年賀状にして送って来るからです。もうそんな年賀状が10年近くつづいています。若い頃は子どもたちも含めた家族の連名で年賀状が届いていましたが、ある年から山の初日の出の年賀状に変わったのでした。

その年賀状のなかに「何度か電話したけど出ませんでした」と書いていました。それで、電話してみました。

すると、「見放されたのかと思ったよ」と言うのです。私が着信に気が付かなかっただけなのですが、借金の申し出の電話だと思われて電話に出るのを拒否されたのかと思ったそうです。

彼のことは前も書いた覚えがありますが、彼は田舎でも旧家で大きな商家の跡取り息子でした。叔父さんは私がかつて勤めていた会社の関連会社の社長をしていたし、彼も含めて姉弟もみんな東京の大学に進んだような分限者(金持ち)でした。

そして、彼は会社勤めを数年したあと、田舎に帰って家業を継ぎ、典型的なお嬢様育ちの女性と見合い結婚しました。私も結婚式に出席しましたが、それは盛大な結婚式でした。しかし、やがて商売がうまくいかなくなり家も没落。借金を抱え、奥さんとも離婚したのでした。

奥さんは実家に帰り、三人の子どもたちも母親の方に付いたので、以来、子どもたちとも音信不通になっているそうです。それどころか、子どもも既に結婚して孫も生まれたみたいだけど、孫の顔も一度も見てないと言っていました。もしやDVが原因なのではと思って問いただしたら、そうではなく、商売がうまくいかなくなり借金が嵩んだことが原因だと言っていました。そのため、今は老人ホームに入っているお母さんと二人だけの生活になったのです。年賀状が山の初日の出に変わったのはそれからです。

彼自身、この10年間は借金の返済に追われていたと言っていました。夜はホテルの皿洗いのバイトをしたり、土木工事のバイトまでやっていたそうです。重機など運転できないので、現場監督から怒鳴られながらスコップで土を掘り起こす「いちばんきつい仕事をやらされた」と言ってました。食事も山に行って取って来た山菜を使ったりして、出来る限りお金をかけない「昔では考えられないような」質素な生活をしていたそうです。アルバイトのあと、深夜の田舎道を軽自動車で自宅に帰る途中、死にたいと思ったことが何度もあると言っていました。そんな生活をつづけたお陰で去年借金を完済してひと息ついたそうです。「コロナが落ち着いたらまた帰っちきちょくれ。ゆっくり話したいことがあるけんな」と言っていました。

生まれ育った土地で、そんな没落した姿を晒して生きるのは、想像する以上にしんどいものがあったはずです。でも一方で、それまであまり付き合いのなかった高校時代の同級生が野菜を持って来てくれたり励まされたりして、田舎でも人の温かさを感じることはあったと言っていました。彼は「捨てる神もあれば拾う神もある」と言ってましたが、田舎に帰って嫌なことも多かったけど、それでも帰ってよかったと今でも「思っちょる」と言っていました。私は自他ともに認める人間嫌い、田舎嫌いの人間なので、なんだかそれは私に向けて言っているようにも聞こえました。

内田樹氏も、阪神大震災に遭遇した際に娘と二人で避難生活をした体験を語ったインタビューのなかで、人の情けが身に染みたと言っていましたが、晩年田舎で一人暮らしをしていた私の母親も、時折電話してきて、近所の○○さんがよくしてくれてありがたいというような話をしていました。他人にあんなに親切にするなんて普通はできないよと言っていました。

その近所のおばさんは私も知っていますが、しかし、少なくとも私が知る限り、我が家とそんなに親しい付き合いはしていませんでした。だから、母親からその話を聞いたとき意外な気がしたのですが、でも、ホントに親切心から母親の世話を焼いてくれていたようです。

年末年始に読んだ本のなかに、伊藤亜紗編『「利他」とは何か』(集英社新書)という本があったのですが、そのなかで編者の伊藤亜紗氏は、ジャック・アタリが主張する「合理的利他主義」について、次のように書いていました。

  合理的利他主義の特徴は、「自分にとっての利益」を行為の動機にしているところです。他者に利することが、結果として自分に利することになる。日本にも「情けは人のためならず」ということわざがありますが、他人のためにしたことの恩恵が、めぐりめぐって自分のところにかえってくる、という発想ですね。自分のためになるのだから、アタリの言うように、利他主義は利己主義にとって合理的な戦略なのです。
(『「利他」とは何か』)


伊藤氏は、「利他」を考える場合、共感ではなく、「『自分にとっての利益』を行為の動機」にするような合理的な考え方(理性)の方が大事だと言います。何故なら、共感だけでは新型コロナウイルスのような「地球的規模の危機」に対応できないからだと書いていました。

共感には、仏教で言う「施し」のような観念がどうしても入り込んできます。そういった観念は、相手のためになることをすれば相手もそれを返してくれるという考えに行き着いてしまいます。『「利他」とは何か』でも書いていましたが、それでは相手をコントロール下に置くことになるのです。しかし、”私(我)”を残した上で、人のためにすることがまわりまわって自分のためになるというふうに考えれば、義務感からも解放され、率直に優しい心や親切心を持てるような気がするのです。それは、たとえば一つの部屋にいて、他人を温かくすれば自分も温かくなるというような考え方です。

伊藤氏の「地球的規模の危機」の話に戻れば、たとえばコロナ・ナショナリズムで先進国がワクチンを独占して南の発展途上国にワクチンが届かなければ、今回のように変異株による感染に繰り返し襲われ、いつまで経ってもパンデミックから解放されないのです。今必要なのは、南の貧しい発展途上国の人たちが可哀そうだからというような共感より、同じ地球に住む人間みんなが同じようにワクチンを打たなければパンデミックは収まらないという事実を直視した(理性に基づいた)考えなのです。

彼はサラリーマン時代が短くあとは自営業だったので、年金も月に6万円くらいしかないそうです。「老後は月に6万円でどう暮らしていくか、それが課題じゃ」と言っていました。

でも、スーパーボランティアの尾畠さんだって月に5万円の年金生活で、ああやって全国各地にボランティアに出かけたり、地元の由布岳の登山道を整備したり、山に登ったりしていたのです。

高校時代、私は尾畠さんがやっていた魚屋の前を毎朝通って学校に通っていたのですが、ああいった精神というのもやはり登山が育んだ一面があるような気がしてなりません。私は最初、変な爺さんみたいにしか思っていませんでしたが、こうして再び山に登るようになり、だんだん年老いて行くと、尾畠さんの生き方の凄さが痛感されてならないのでした。

アドバイザー契約を結ぶメーカーから提供された馬子にも衣装のような登山服を着た著名な登山家が語る登山や、YouTuberがGoogleからの広告料を目当てに発信する軽薄な登山と、尾畠さんのそれとは似て非なるものですが、尾畠さんのような「吾唯知足」の生き方のなかにこそ自分たちの老後のヒントがあるのではないか。そんな話をして電話を切ったのでした。
2022.01.10 Mon l 日常・その他 l top ▲