侵攻前からキーウ(キエフ)に入っていたフリージャーナリストの田中龍作氏は、ロシア軍がキーウ(キエフ)に侵攻した際も、大手メディアの記者たちがまるで蜘蛛の巣を散らすように逃げ去るのを尻目に戦火のなかにとどまり、今なお現地の生々しい状況を発信しつづけているのですが、4月25日の記事で次のように書いているのが目に止まりました。

田中龍作ジャーナル
【キーウ発】たとえ戦争広告代理店があったとしても

  湾岸戦争(1991年)やコソボ紛争(1990年代)の頃と決定的に違うのは、SNSの普及である。デッチあげは「ウソだ」とすぐに告発される。

  もう一つ決定的に違うのは、ウクライナでは言論の自由が保障されていることだ。ゼレンスキー大統領をクソミソにこき下ろしても許される。(略)

  戦争広告代理店による捏造があったりしたら、住民がSNSで告発するだろう。それが今のところない。

(略)
 
  「ネオナチ説」「自作自演説」を唱える言論人に共通するのは、虐殺の現場に一歩も足を踏み入れず、住民の話をひと言も聞いていないことだ。


最初に断っておきますが、今のウクライナは非常事態宣言が発令された挙国一致の戦時体制下にあるので、「言論の自由」は保障されていません。昔の日本と同じで、民主的な制度(権利)は完全に停止されています。野党の政治活動も停止させられていますし、それどころか先日は新ロシア派の野党の党首が逮捕されています。もちろん、「ゼレンスキー大統領をクソミソにこき下ろしても許される」自由などあろうはずもないのです。そんなことを口にしたら、当局に密告されて「ロシアの手先」のレッテルを貼られ、とんでもない目に遭うでしょう。

それより私が看過できないと思ったのは、「『ネオナチ説』『自作自演説』を唱える言論人に共通するのは、虐殺の現場に一歩も足を踏み入れず、住民の話をひと言も聞いていないことだ」という箇所です。

しかし、実際には私が知る限り、「言論人」でロシアの荒唐無稽な主張をそのままなぞったような主張を唱えている人はほとんどいません。「ロシア寄り」と言われている人たちも、ロシアの侵略は弁解の余地もない蛮行だけど、だからと言ってゼレンスキーが言っていることを百パーセント信じていいのかと主張しているだけです。

にもかかわらず、ウクライナ可哀そうVSプーチン憎しの人たちは、「ロシアの侵略は弁解の余地もない蛮行」という断りを故意に無視し、”ゼレンスキー批判”だけを言挙げして「陰謀論」「ロシア寄り」と決めつけ、問答無用に悪罵を浴びせるのでした。彼らには、そういった”客観的な視点”も利敵行為に映るみたいです。敵か味方か、旗幟を鮮明にしなければ、戦争を語ってはいけないとでも言いたげです。田中氏は、針小棒大なもの言いをすることで、ウクライナ可哀そうVSプーチン憎しの人たちの「俗情と結託」(大西巨人)しているにすぎないのです。

もっとも、ウクライナ可哀そうVSプーチン憎しの彼らも、最近はウクライナ問題に関心が薄らいでいるという指摘もあります。それはそうでしょう。彼らは、メディアのセンセーショナルな戦争報道に動員された(煽られた)人たちにすぎないので、メディアの情報量が減っていけば、関心も薄らいでいくのは当然なのです。そのうち(大声で”正義”を叫んでいた人ほど)、「いつまでウクライナのこと言ってるんだ?」なんて言い出すに決まっています。所詮はその程度の存在にすぎないのです。

どういった団体なのかよくわかりませんが、「世界の共産党・労働者諸党」が2月25日に発表した緊急声明「ウクライナにおける帝国主義戦争に反対する」では、ロシアのウクライナ侵攻を批判する一方で、次のようにウクライナ政府も批判しているそうです。

  われわれは、ウクライナにおけるファシスト・民族主義勢力の活動、反共主義および共産主義者迫害、ロシア語話者住民への差別、ドンバスの人びとへのウクライナ政府の無力攻撃を糾弾する。

  われわれは、ヨーロッパ=大西洋諸国[=NATO諸国]が彼らのプランを実施するため、ウクライナの反動的政治勢力をファシスト集団も含めて利用していることを糾弾する。

(『「世界」臨時増刊 ウクライナ侵略戦争』所収「資料と解説 異なる視点―第三世界とウクライナ危機」)


これは、所謂「どっちもどっち」論とも言えますが、少なくとも世界の左派の間では、ゼレンスキー政権は「ファシスト」「民族主義者」「反共主義者」に支えられた反共右派政権であるとの認識が共通していたのは事実のようです。

ウクライナは、人口が4130万人で、ヨーロッパで7番目に人口の多い国ですが、今のウクライナが建国されたのはロシア革命時の1917年で、正式に独立したのはソ連崩壊後の1991年です。

しかし、ウクライナは、「東ウクライナ」と「西ウクライナ」の二つのウクライナがあると言われるように、ウクライナ語とロシア語が併存する言語やカトリック教会と3つの正教会からなる4つの教会が存在する宗教など、多元的な文化を内包している若い国です。言うまでもなく、ウクライナの多元的な文化は、他の旧東欧諸国と同様、ソ連によって人為的に「人民共和国」が作られた建国の経緯から来ているのでした。ちなみに、ウクライナ国民のうち、35~40%がロシア語の話者で、同じ割合でウクライナ語の話者が存在し、残り20%がロシア語とウクライナ語の両方を話すバイリンガルだそうです。

下記の論稿の執筆者のアンドリー・ポルトノフ氏(ベルリン・フンボルト大学客員教授)によれば、「教育や人文学においては、ウクライナ語は支配的であるものの、ロシア語はマスメディア、政治、ビジネス、科学の分野において明白に浸透している」のだそうです。

WEBアスティオン
ウクライナ史に登場した「ふたつのウクライナ」とは何か(上)─ウクライナ・アイデンティティ
アンドリー・ポルトノフ(ベルリン・フンボルト大学客員教授)

ウクライナの公用語はウクライナ語ですが、ロシア語も準公用語の扱いでした。ところが、オレンジ革命(2004年)を機に、二つのウクライナという「定型句」が流布されるようになり、ウクライナのアイデンティティを求める機運が高まったと言われます。

ふたつのウクライナという定型句(つまり、ナショナルな意識に目覚めたウクライナと、〔ロシアおよびソ連の影響が残った〕「混ざりものの」('creole')ウクライナであり、前者が好ましい規範とされる)は、政治的選択の範囲、あるいは所属集団の選択の動機を単純な図式に押し込めることになる。

そして、その図式では、規範とそこからの逸脱という二者択一の考えが生まれてしまうのである。

(ウクライナ史に登場した「ふたつのウクライナ」とは何か・上)


私は、ウクライナのナショナリズムを考えるとき、「ウクライナのナショナリズムの要素が、法の支配、社会的正義、移動と表現の自由といったヨーロッパの神話に溶けあわされたのである」というアンドリー・ポルトノフ氏の指摘が重要であると思いました。「民主化運動」が排外主義的なナショナリズムと融合し、西欧的デモクラシーがその方便に使われたというパラドックス。そこには、右か左か、独裁か民主かでは捉えきれない、現代世界が抱える深刻な問題が伏在しているように思いました。

「帝国主義戦争」というのは、ロシア革命に際してレーニンが唱えたテーゼですが、そういった古い左派の視点も一概に無視できないものがあるように思います。と言うか、そういった視点でこの戦争を見ると、今まで見えなかったもの(見えにくかったもの)も見えてくるような気がするのです。

ウクライナの経済成長率は、ロシアがウクライナ領のクリミア半島に侵攻し併合した2014年がマイナス6.58%、翌年の2015年がマイナス9.79%に落ちたものの、その後、プラスの成長が続いて経済は持ち直していました。ところが、ゼレンスキーが大統領に就任した翌年の2020年にいっきにマイナス3.80%に落ち込んだのでした。そのため侵攻前、ゼレンスキー政権の支持率は41%まで下がり、ウクライナで反ゼレンスキーデモが頻発していたのでした。田中氏自身も記事のなかで、「開戦前、反ゼレンスキーデモで掲げられたプラカード。DICKTATORは独裁者と男性器(大統領はコメディアン時代、裸踊りで人気を博した)をかけたシャレだ」というキャプションを付けて、反ゼレンスキーデモの写真を掲載していたくらいです。

では、侵攻前に反ゼレンスキーデモに参加したような人々は、どうなったんだろうと気になります。これ幸いに、アゾフ大隊のようなネオナチから排斥(処刑?)されたりしてないだろうかと心配せざるを得ません。

当たり前の話ですが、何事にも表もあれば裏があります。況や政治や戦争においてをやです。それを伝えるのがジャーナリストではないのか。自由な言論による談論風発、百家争鳴がジャーナリストの生命線でしょう。何度もくり返しますが、国家に正義などないのです。戦争で亡くなった人々は「英雄」なんかではないのです。ましてや、「美談」であろうはずもありません。

田中氏は、「オレはお前たちと違ってこの目で現場を見ているんだ」とすごんでいるつもりかもしれませんが、しかし、敵か味方か、勝ったか負けたかの二項対立(=国家の論理)でしか戦争を語ることができないという点では、田中氏も、大手メディアの記者たちも、同じ穴のムジナのようにしか見えません。「戦時下の言語」に与するのはジャーナリズムの死ではないのか。そう言いたくなります。
2022.04.26 Tue l ウクライナ侵攻 l top ▲
ウクライナのドネツク州にあるマリウポリで、ウクライナ政府軍の最後の拠点となっているアゾフスターリ製鉄所をめぐる攻防戦は、製鉄所内に閉じこもって抵抗を続けるウクライナ軍がロシア軍の再三の降伏勧告にも応じなかったことで、プーチン大統領が火器による攻撃の中止を命令。今後は「ハエも入り込めないよう封鎖」(プーチン)した兵糧攻めの戦術に転換するというニュースがありました。

アゾフスターリ製鉄所は、ソ連時代に作られたウクライナ国内最大の製鉄所で、核攻撃でも耐え得るように地下に要塞を備えているそうです。アゾフスターリ製鉄所は、その名称からもわかるとおりアゾフ大隊の地元(誕生の地)にあり、地下要塞に立てこもっているのはアゾフ大隊を中心とする部隊だと言われています。

しかも、地下要塞には、アゾフ大隊だけでなく、1000人近くの一般市民も避難しているため、世界中のメディアが注視するなか、ブチャの二の舞を怖れるロシア軍も容易に手が出せないというのが真相かもしれません。こう言うとまた「ロシア寄り」と批判されるかもしれませんが、製鉄所を前にして地団駄を踏んでいるロシア軍を見るにつけ、ウクライナ政府のメディア戦略は見事に成功しているように思います。

でも、よくよく考えてみれば、アゾフ大隊の抵抗は一般市民=民間人を盾にした”背水の陣”と言えないこともないのです。ブチャでの「ジェノサイド」キャンペーンで敵を牽制する方法を学んだウクライナ政府は、今回もメディアを使って、「またジェノサイドをくり返すのか」とロシア軍を牽制しているようにも見えます。

製鉄所の地下要塞に避難しているのは、女性や子どもや高齢者が大半のようですが、悲しいな、彼らもまた、「人間の盾」として国家に利用されていると言わざるを得ません。

ホントに戦争に反対して平和を求めるのなら、くり返しになりますが、「国家のために死ぬな」と声を上げるべきでしょう。ロシアとウクライナ双方に対して、「一般市民=民間人を戦争に巻き込むな」「戦争を美談にするな」と言うべきでしょう。私たちは、侵略する国の非道さとともに、国民に銃を渡して総力戦を強いた上に、戦場で戦う国民を英雄扱いする国家の非道さ、いかがわしさも考える必要があるのです。

勝ったか負けたか、(どっちが)敵か味方かではないのです。勝とうが負けようが、敵であろうが味方であろうが、一度きりの人生を戦争で奪われた人々は、決して浮かばれることはないのです。

一方、Yahoo!ニュースには、次のようなCNNの記事が転載されていました。記事は、今回の戦争でも看過してはならない大事な問題を伝えているように思いました。

Yahoo!ニュース
CNN.co.jp
ウクライナに供与した大量の兵器の行方、米国も把握しきれず

(略)長期的なリスクとして、そうした兵器の一部が米国の意図していなかった相手の軍や武装組織の手に渡る可能性があると、米当局者も軍事アナリストも指摘している。


「短期的な保証はある。だが戦争という霧の中に入ればほぼゼロになる」。米国が入手した情報について説明を受けた関係者はそう語る。「短い期間が過ぎれば大きなブラックホールの中に落ち、ほとんど感知できなくなる」


以前、ロシアの政治や経済はマフィアに支配されていると盛んに言われた時期がありました。それがいつの間にか、マフィアがオリガルヒと言い換えられるようになったのですが、それはウクライナも同じです。ウクライナも、ロシアに勝とも劣らないマフィアが支配する社会だったはずです。

私もふと、あのマフィアたちはどこに行ったんだろうと思いました。高潔な愛国人士に生まれ変わり、銃を手に先頭に立って戦っているのでしょうか。まさか、そんなことがあるんだろうかと思います。

戦争終結後、欧米から供与された武器で過激に武装したアゾフ大隊が、イスラム原理主義組織と同じように、ウクライナにとって”獅子身中の虫”になるのではないかと前に書きましたが、それはマフィアのような犯罪組織も同じでしょう。

「ブラックホール」のなかに消えていった大量の武器が、来るべき「全体主義の時代」に、あらたな”戦争の種”を蒔き散らす危険性もなくはないのです。
2022.04.22 Fri l ウクライナ侵攻 l top ▲
私もほぼ2日に一度スーパーに買物に行くのですが、最近の食品や日用品の相次ぐ値上げは尋常ではありません。既に値上げされた商品は6000品目にも上るそうです。しかも、今までと違って値上げの幅も大きいのです。

この値上げをもらたした要因は、言うまでもなく円安です。では、何が今の急激な円安をもたらしているのかと言えば、日米の金利差によるものだと言われています。

今や先進国で金融緩和を続けているのは日本だけです。どうして日本だけが金利を抑制する金融政策を転換しないのか。その背景について、メディアに登場する専門家は誰も説明しません。ただ、円安は、日米の金融政策の違いによるものだと決まり文句を言うだけです。

そのことについて、Yahoo!ニュースのオーサーコメンテーターの山田順氏は、次のように書いていました。

Yahoo!ニュース(個人)
なぜ、円はロシアのルーブルより弱いのか? 誰もズバリ言わない円安の本当の理由。

 金融緩和をやめて、引き締めに転じれば、当然ながら金利は上昇する。インフレに対する金融対策はこれしかない。しかし、そうすると、国債利払い費がかさみ、国家財政が破綻してしまう可能性が現実になる。
(以下、引用はすべて同じ)


つまり、政府日銀の金利抑制策の背景には、危機的なレベルに達している国家財政(莫大な国債の利払い負担)の問題が伏在しているというわけです。政府の失政のために、国民の生活が犠牲になっているのです。

昨日(20日)も、日銀は指定した利回りで国債を無制限に買い入れる「指し値オペ」(公開市場操作)を行ったという報道がありました。ただ、日銀が買った国債に利払いは生じませんので、この場合は、日銀がお札を刷って政府の借金を帳消しにしているだけです。言うなれば、MMTを実践しているようなものです。しかし、それだけあらたに刷ったお札が市中に出回ることになるので、さらなる円安&インフレ要因になるのは素人でもわかります。

もちろん、市中に出回ると言っても、空中からばら撒かれるわけではないので、私たちの懐に直接入るわけではありません。学校の教科書では、経済の法則でまわりまわって懐に入って来ることになっていますが、賃金の実状からもわかるように、実際はまったくまわって来てないのです。

東京はときならぬ再開発ブームで、まるで競い合うように超高層ビルがあちこちに建てられていますが、そんな異様な光景と今の”金余り”は無関係ではありません。市中に出回ったお金はそういったところに集中的に注がれているのです。政府と日銀は、自国の通貨の価値を下げながら、そうやって不動産バブルを煽っているのです。

でも、超高層ビルのなかで働いている人間の半分は非正規雇用です。建物だけは立派でオシャレだけど、働いている人間たちの生活はちっとも豊かではないしオシャレでもないのです。それが今の日本の現実です。

しかも、円が安くなっているのはドルだけではないのです。ユーロや人民元、さらには経済制裁を受けている(はずの)ロシアのルーブルに対しても安くなっているのです。「そんなバカな」と言われるかもしれませんが、「そんなバカな」ことが現実に起きているのです。

ただ一方で、円安がアメリカとの金利差に連動していることもからわかるように、ロシアのウクライナ侵攻と同じように、アメリカが超大国の座から転落して世界が多極化するという世界史の書き換えと無関係でないのも事実です。対米従属の所産という側面も忘れてはならないのです。

ロシアが原油や石炭や天然ガスなどの支払いをドルではなくルーブルに変えるように各国に要請したというニュースを前に伝えましたが、そこにあるのも世界経済の基軸であったドル(建て)からの脱却です。ウクライナ侵攻をきっかけに、ロシアも公然とその姿勢をあきらかにしたのでした。

 かつて世界の産油国は、石油取引で手にした莫大なドル収入を、ロンドンを中心とした世界中のオフショア金融市場を通じてドル建て金融商品で運用してきた。その最大の金融商品は、アメリカ国債だった。

 つまり、世界の資産はほぼドル建てであり、グローバル企業も富裕層も、みなドルで資産を運用してきた。ロシアのオリガルヒも同じだ。

 しかし、いま、その体制がウクライナ戦争をきっかけに崩れようとしている。バイデン大統領が、「軍事介入はしない」と言って、ロシアのウクライナ侵略を許したために、こんなことになってしまった。この老大統領は、ドルの価値を低下させ、アメリカの世界覇権を失わせつつあることに気がついているのだろうか。


気がついてないわけがなく(笑)、もはやそれしかアメリカの生きる道はないからです。

 アメリカはなぜ、イタリアやテキサスより小さい約1兆5000億ドルのGDPしか持たないロシアを脅威としたのか? ただ、核を持っているだけで、軍事費にいたってはアメリカの10分の1である。

 そんな国のために、アメリカが世界覇権を失い、ドルが基軸通貨から転落するとしたら、世界は無秩序になる。


それが多極化ということなのです。金との兌換通貨でもないドルが、いつまでも基軸通貨でいられるわけがないのです。金本位制から変動相場制に移行しても、ドルが実質的な基軸通貨でありつづけたのは、圧倒的な経済力と軍事力を背景にした”経過処置”にすぎなかったのです。

最新版の2021年「世界の一人当たり名目GDP国別ランキング」(IMF発表)によれば、日本は28位です。一方、韓国は30位でまだ韓国に追い抜かれていません(「一人当たり購買力平価GDP」では2019年に既に抜かれています)。ちなみに、2000年は2位、アベノミクスが始まる前の2012年でも13位でした。アベノミクス以降、それだけ日本の経済力は落ちているのです。

一方、2000年から2018年の「一人当たり名目GDP成長率」は、中国が12.9%、韓国が5.7%、アメリカが3%なのに対して、日本は0.7%と際立って鈍化しています。これでは、「世界の一人当たり名目GDP国別ランキング」も、国民の平均年収と同じように、早晩、韓国に抜かれるのは間違いないでしょう。

賃金も然りで、2000年から2020年までの20年間で、各国の賃金は1.2倍から1.4倍に上がっていますが、日本だけが横ばいでほとんど上がっていません。にもかかわらず、急激な円安で円は20年前の水準まで下落、物価が急上昇しているのです。単純に考えても、益々生活が貧しくなり格差が広がるのは目に見えています。当然の話ですが、国の経済力が衰えるというのは、それだけ国民が貧しくなるということでもあるのです。

 円安は円が売られるから起こる。しかし、いまの円安は、円売りではなく「日本売り」だ。日々、経済衰退する国の通貨を、投資家はもちろん、誰も持ちたがらない。


この現実をどうして日本人は見ようとしないのか。それが不思議でなりません。韓国に抜かれる悔しさもあるのかもしれませんが、まるで見ないことが「愛国」であるとでも思っているかのようです。前の記事で書いた高齢者の貧困問題と同じように、みんな目を遠ざけて問題を先送りしているだけです。
2022.04.21 Thu l 社会・メディア l top ▲
先日、新宿三丁目駅で副都心線に乗ろうとしたら、突然、後ろにいたおばあさんから「これは新丸子に行きますか?」と訊かれました。それで、「はい、行きますよ」と言ったら、おばあさんも私の後につづいて電車に乗ってきました。見ると、80歳近くになろうかというかなり高齢のおばあさんでした。

ちょうどシルバーシートがある乗車口だったのですが、シルバーシートは初老のおっさんやおばさんとスマホ中毒の若者に占領されていました。休日になるとこれに子ども連れのファミリーが加わるのですが、いづれも電車の座席に座ることが人生の目的のような人たちです。

私とおばあさんは、ドアを間にして向い合せに立ったのですが、おばあさんはドアの横の手すりに身を持たせるように立っていました。そして、心許ない手付きでショルダーバックから手帳を取り出すと、それを読み始めたのでした。私は最初、文庫本かなと思ったのですが、文庫本ではなく同じサイズくらいの手帳でした。

電車が揺れるので、手すりにしがみつくように掴まり如何にも読みにくそうにしながら、上体を折り曲げるようにして読んでいました。

なんだろうと思って手帳を目をやると、人体のようなイラストがあり、その下にびっしり文字が書き込まれていました。ただ、私の距離では何が書いているのか判別できませんでした。

東横線に乗り入れている新副都心線は、新宿三丁目の先の北参道や原宿・表参道で降りる客が多くていっきに車内が空くのですが、やはり、北参道をすぎるとシルバーシートに空きができました。しかし、おばあさんは座ろうとせず、相変わらず手帳に目をやっているだけです。

これは決してオーバーではなく、私は今まで、あんな高齢者が電車でずっと立っている姿を見たことがありません。あり得ないとさえ思いました。しかも、原宿・表参道の先は渋谷なので、また電車の座席に座ることが人生の目的のような人たちが目を血走らせて乗ってきます。

私は、おっせかいかなと思いつつも、「うしろの座席が空きましたよ」と言いました。しかし、おばあさんは「ありがとうございます」と言って座ろうとしません。そのうち電車は渋谷駅に着きました。案の定、ニワトリのように首をキョロキョロさせ目を血走らせた人々が乗り込んでくると、座席はあっという間に埋まってしまいました。

新宿三丁目から乗ったのは各駅停車だったのですが、各駅停車は渋谷までで、渋谷から先の東横線内は急行になりますという車内放送がありました。となれば、新丸子は急行は停まらないので、自由が丘で各駅停車に乗り換えなければなりません。

私はおばあさんに近づいて、「渋谷から急行になりますので、自由が丘で各駅に乗り換えてください。新丸子は急行は停まりませんので」と言いました。おばあさんは、半分きょとんとした感じでしたが、「はあ、そうですか。ありがとうございます」と言ってました。

しかし、不安なのかそれから反対側のドアの上にある路線図にしきりに目をやっていました。そして、電車が次の中目黒駅に着く寸前でした。突然、おばあさんは私に向って「どうもご親切にしていただいてありがとうございました」と言って頭を下げ、ドアの方に身体を向けて見るからに降りる体勢を取ったのでした。

私はあわてておばあさんに近づいて、肩を叩きながら、「次は中目黒ですよ」「ここで乗り換えてもいいけど、自由が丘まで行けばホームの反対側に各駅停車が停まってますので、自由が丘で乗り換えた方がいいですよ」と言いました。そして、おばあさんが不安に思っているようなので、「私も自由が丘で乗り換えますので大丈夫ですよ」と付け足しました。

そうするうちに、電車は中目黒駅に到着しました。中目黒も乗降客が多いので、再びシルバーシートに空きができました。それで「座ったらどうですか。自由が丘に着いたら案内しますので心配しなくていいですよ」と言いました。すると、「どうもありがとうございます」と言って、やっと座席に腰を下ろしたのでした。

やがて電車は自由が丘の駅に着きました。私は、座席から立ち上がると、おばあさんに向かって「自由が丘に着きましたよ」と言いました。ドアに向って立っていると、後ろから「お上りさんなので何にもわからなくて」というおばあさんの声が聞こえてきました。シルバーシートの横に座っていた人にそう言ったようです。

「お上りさん」ということは東京に住んでいるんじゃないんだ、だから不安そうにしていたんだなと思いました。ただ、服装はとても地方から来たとは思えないような普段着です。しかも、エコバックのような布袋を手に持ち、肩からやはり布製のかなり使い古された感じの小さなショルダーバッグをたすき掛けに下げているだけです。「お上りさん」ならもっと他所行きの恰好をしているだろうにと思いました。

自由が丘駅に着いて、反対側のホームに停まっている各駅停車のドアのところまで一緒に行って、「これに乗って三つ目の駅で降りてください。三つ目が新丸子ですから」と言いました。おばあさんは「どうもありがとうございました。ご親切にしていただいて助かりました」と何度も頭を下げていました。私も同じ電車に乗るのですが、ちょっと照れ臭かったので、おばあさんと別れて隣の車両に乗りました。

電車が新丸子駅に着いたとき、注意して外を見ていたら、ホームに降りてエスカレーターの方に歩いて行くおばあさんの姿がありました。それを見て、ホッとしたものの、取り越し苦労症の私は、同時に不安な気持も湧いてきたのでした。

どうして「お上りさん」のおばあさんがひとりで新宿三丁目から新丸子まで行くのか。「お上りさん」と言いながら他所行きの恰好をしてないのはどうしてなのか。あの手帳は何なのか。

それからというもの、私の妄想は膨らむ一方でした。もしかしたら、おばあさんは認知症だったのではないか。あるいは、振り込め詐欺に遭って新丸子までお金を持って行くように指示されたのではないか。いや、カルト宗教の信者で、新丸子周辺での布教を指定され、それで向ったのかもしれない。あの奇妙な手帳は、講義を受けたときにメモした個別訪問の際の問答集が書かれているのではないか。

やっぱり、もっと詳しく新丸子に行く用事を訊くべきだったかもしれない。新丸子の駅に一緒に降りて、最後まで見届けるべきだったかも。とうとうそんなことまで考えて、後悔の念さえ覚える始末でした。

その数日前に、高齢者問題を扱った「NHKスペシャル」でも取り上げられたことがある某都営団地に行く機会があったのですが、そこで見たのはあまりにも哀しく切ない、そして、身につまされる老人たちの姿でした。そんな老人たちが目の前のおばあさんにオーバーラップして、余計気になったのかもしれません。

高齢者の老後まで、経済合理性=自己責任の論理で語られ、社会からまるで棄民のように扱われる老人たち。無防備な環境のなかで、悪徳訪問販売やカルト宗教の餌食になったり、既に自力で生活する能力を失った認知症の老人が、都会の団地の一室でまるで人目を忍ぶかのように暮らす光景。しかも、一人暮らしの老人も多いのです。

高齢者の老後に暗い影を落としているのが貧困です。生活保護受給世帯のうち、約半数は65歳以上の高齢世帯です。しかも、そのうち約90%が一人暮らし世帯です。そのように、とりわけ一人暮らしの高齢者の貧困問題は深刻です。

労働力の再生産過程から外れた老人たちは、もはや資本主義社会にとっては役に立たない用済みな存在でしかないのです。あとは孤独と貧困のなかで、人生の終わりを待つだけです。それが老後の現実です。

団地で会った高齢者たちは生きる気力さえ失い、ただ毎日をやり過ごしているだけのように見えました。何だか生きていることが申し訳ないとでもいうような感じすらありました。

もちろん、そんな老人たちは私たちの明日の姿です。でも、そう思っている人は少ないのです。多くの人たちは見たくないものとしてあえて目を遠ざけている感じです。そして、そうやって見て見ぬふりをすることが、経済合理性=自己責任の論理で老後を語る社会の冷たさを生み、「老いることが罪」であるかのような老後を強いることにつながっているのです。


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2022.04.17 Sun l 日常・その他 l top ▲
『週刊プレイボーイ』のウェブサイトに、新著の宣伝で大塚英志のインタビュー記事が掲載されていましたが、そのなかで今回のウクライナ侵攻にも言及していました。

ちなみに、大塚英志は、戦時下大衆文化が戦意高揚のために如何に活用されたかという研究をすすめているのですが、新著『大東亜共栄圏のクールジャパン「協働」する文化工作』(集英社新書)もそのシリーズのひとつです。刊行と侵攻が重なったのは、「まったくの偶然」だと言っていました。

大塚英志は、ゼレンスキー大統領の演説について、次のように言っていました。

週プレNEWS
大塚英志氏インタビュー「ウクライナ侵攻から見える戦時の国家宣伝の意図とは」(後編)

大塚   (略)ゼレンスキーが用いている動員の話術みたいなものにも注意が必要です。もちろん、ウクライナのほうが侵略された側だし、対プーチンではゼレンスキーが正しいように見える。それでも、第三者である日本が彼らの宣伝戦に巻き込まれて、今度は自分たちの国の選択を間違えるようではいけない。とくにゼレンスキーの国会での演説が、世論を誘導するためのものとして使われようとしていることには注意すべきです。


大塚   ウクライナ市民が市内にとどまり市街戦のため銃を持つ姿が「美談」として日本でも報じられています。そうした戦争美談報道が、人々の戦争への認識をどう情緒的に作り替え、それが有権者としての政治的選択をどう左右してしまうかについて、私たちは冷静に考えなければいけない。この時代錯誤的な姿が改憲論などに与える影響は大きいでしょう。前提として、戦争に感動を求めたらダメだよという自制が必要だと思いますね。


手前味噌になりますが、これは私自身もこのブログでくり返し書いていることです。しかし、今、私たちの前にあるのは、大塚英志の警鐘も空しく響くような現実です。

ウクライナ(国民)が可哀そうVSプーチン憎しの安直な感情に覆われた日本。まるでウクライナ政府のスポークスマンのような発言をくり返す識者たち。スポーツの試合のように、ロシアは敵、ウクライナは味方の論理で戦況を解説する軍事ジャーナリストたち。そこにあるのは善か悪か、敵か味方かに色分けされた二項対立の身も蓋もない風景です。

そういった「戦時下の言語」によって、非核三原則や専守防衛など戦後この国が堅持してきた平和憲法の理念も、何の躊躇いもなく捨て去ろうとしているのでした。ロシアの振り見て我が振り直せではないですが、侵略戦争の反省もどこかに行ってしまったかのようです。

もちろん、それは、右派の話だけではありません。言い方は多少異なるものの、立憲民主党も含めた野党も同じです。むしろ、彼等こそ、この空気をつくり出していると言ってもいいでしょう。

最近、防衛省の防衛研究所の研究員が頻繁にテレビに出演して戦況を解説するという奇妙な現象がありますが、防衛研究所は防衛省直轄の研究機関です。彼らは、間違ってもフリーハンドで解説しているわけではないのです。そこに国家のプロパガンダがないとは言えないでしょう。

これでは大塚英志のような主張も袋叩きに遭うのがオチです。「言論の自由なんてない、あるのは自由な言論だけだ」と言ったのは竹中労ですが、ウクライナ(国民)が可哀そうVSプーチン憎しの感情に囚われた(ある意味で)「善意」の人々は、みずからの感情に少しでも棹さして逆なでするような異なる意見=自由な言論に対して、いつの間にか「ロシアの手先」「陰謀論」というレッテルを貼り牙を剥きだして襲いかかるほどエスカレートしているのでした。こういうのを「善意のファシズム」というのではないか。

私は、前の記事で、戦争に反対するには人々の個別具体的なヒューマニズムこそが大事だと言いましたが、それと今のウクライナ(国民)が可哀そうVSプーチン憎しの感情は似て非なるものです。何故なら、ウクライナ(国民)が可哀そうVSプーチン憎しの感情のなかには、国家の論理=「戦時の言語化」が混在しているからです。だから、一方で、戦時体制を希求するナショナリズムやロシア人に対するヘイトクライムに向かわざるを得ないのです。何度も言いますが、国家に正義なんてないのです。

「あまりにひどい」として、ネットで袋叩きに遭った『アエラ』(3/21号)の的場昭弘神奈川大副学長と伊勢崎賢治東京外語大教授の対談「糾弾だけでは停戦は実現せず」を読みましたが、どこが「ひどい」のかまったくわかりませんでした。

伊勢崎   (略)(NATOは)軍事支援はするものの、届ける確証のないまま、外野席からの「戦え、戦え」という合唱ばかりでウクライナ人だけに戦わせている。非常に歪な構造です。何故「停戦交渉」を言わないのか。
的場   (略)ゼレンスキーのほうはショーをやってしまっている。ぼろぼろの服を着て、追い込まれて大変だという雰囲気を醸し出しながら、民衆には「武器を持って戦え」と。国家同士なら状況次第で降伏しますが民衆は降伏しませんから、どんどん犠牲者が増えてしまう。民衆には絶対銃を渡しちゃだめなんです。そこを煽れるのが彼が役者出身だからというのが皮肉な話ですが。


このように、両人は、どうすれば「一日も早く停戦を実現」できるかについて、至極真っ当な意見を述べているに過ぎません。その前にどっちが悪いか、どっちが敵でどっちが味方かはっきりしろ、と言う方が異常なのです。

的場    私は、ウクライナは中立化するしか生きる道はないと思います。地理的にさまざまな国や民族が行き来し、ときに土足で踏みつけられてきた「ヨーロッパの廊下」のような存在です。ロシアにとってNATO、EU(欧州連合)との緩衝国家(クッション役の果たす国家)でもあります。さらにウクライナを流れるドニエプル川、ドネツ川はロシアへつながり、黒海から入った船はこれらを上がってロシアへ行く。ウクライナがここを「占領」することは難しく、中立化して「開けて」おかないといけないんです。
伊勢崎   そこは国民の意思を越えたところでの「宿命」ですね。ウクライナは緩衝国家を自覚するしかない。西、東、どちらに付くかで、市民は死んではならないのです。日本でも「ウクライナを支持する」として「反戦」を訴えている人がいます。私は違和感がある。悲惨な敗戦を経験した国民なら、なぜ「国家のために死ぬな」と言えないのか。


政治家たちはさかんに「ウクライナに寄り添う」「日本はウクライナとともにある」と言ってますが、そういった扇動(文字通りの動員の思想)は、一方で、この対談にあるような”客観的な視点”はいっさい許さないという、日本社会特有の同調圧力(感情の強要)を誘発しているのでした。

伊勢崎氏は、(日本国民は)「国家のために死ぬな」となぜ言えないのかと言ってましたが、「ウクライナに寄り添う」「日本はウクライナとともにある」と言う政治家たちは、「国家のために死ぬことは美しいのだ」と言いたいのがミエミエです。

某軍事ジャーナリストは、みずからのツイッターで、「ヨーロッパの廊下」や「宿命」ということばだけを切り取ってこの対談に罵言を浴びせていましたが、それも同調圧力に便乗したきわめてタチの悪いデマゴーグと言うべきでしょう。戦争は、軍事ジャーナリストにとってバブルのようなものなので、「勝ったか負けたか」「敵か味方か」を煽ることで自分を売り込んでいるつもりかもしれませんが、それが彼らをしておぞましく感じる所以です。

案の定、ヤフコメなどは、軍事ジャーナリストの口真似をした俄か軍事評論家たちによる、”鬼畜露中”の痴呆的なコメントで溢れているのでした。戦争のような悲惨なニュースであればあるほど、それをバズらせてマネタイズすることしか考えてないYahoo!ニュースはニンマリでしょうが、これではどっちが”鬼畜”かわからないでしょう。
2022.04.13 Wed l ウクライナ侵攻 l top ▲
今日、朝日新聞にロシアのペスコフ大統領報道官が、イギリスのテレビ局のインタビューで「ロシア軍は多大な損失を被った。我々にとって大いなる悲劇だ」と語ったという記事が出ていました。

朝日新聞デジタル
ロシア大統領報道官「多大な損失、大いなる悲劇」 自軍の苦戦認める(有料会員記事)

たしかに記事にあるように、「ロシア側が自軍の苦戦を認めるのは珍しい」のですが、私が注目したのではそこではなく、次のような箇所です。

 ロシア国防省は3月25日時点で1351人のロシア兵が死亡したとしている。一方、ウクライナ軍参謀本部は今月8日の発表で1万9千人のロシア兵を殺害したと主張している。


ロシアのプロパガンダばかりが取り沙汰されていますが、ウクライナだってプロパガンダを流しているはずです。戦争とはそういうものでしょう。

私たちは、いわゆる”西側”の情報に接しているので、ロシアだけがウソを吐いていると思っていますが、両方ウソを吐いている場合もあるのではないか。

上記の戦死者数がそれを示しているように思います。出来る限り数を少なく発表して被害を小さく見せるロシアと、逆に数を盛って戦果を強調するウクライナの姿勢の違いが、この二つの数字によく表われているように思います。

キーウ(キエフ)周辺からロシア軍が撤退したニュースも、ウクライナ側から言えば「撃退」したことになるのです。たしかに侵略者がいなくなったので「解放」されたのは事実だし、ロシアの作戦がウクライナ軍の抵抗で「うまくいかなかった」と見ることができるかもしれませんが、「撃退」したというのはいささかオーバーな気がします。ロシアがウクライナ東部での戦いに傾注するために撤退したというのが真相でしょう。

ブチャのジェノサイドで、ロシア軍に銃殺され路上に放置された遺体のなかに、白い腕章をした遺体があったというニュースを見て、私は、白い腕章って何だろうと思い調べてみました。

腕章と言ってもただの布切れですが、田中宇氏によれば、市街戦では敵と味方を見分けるために、ウクライナ側の住民は青い腕章を巻いているそうです。他の映像を見ると、たしかにウクライナ軍の兵士たちは青い腕章を巻いていました。一方、白い腕章は、文字通り白旗を上げたもので、ロシア軍に降参して恭順の意を示した印なのだそうです。白旗を上げるというのが万国共通だとは思いませんでしたが、となれば、白い腕章を巻いた遺体は、ロシア側に寝返ったとして処刑された可能性もなくはないのです。

もちろん、ロシア軍の虐殺や略奪や性暴力は事実でしょう。キーウに入って精力的に取材している田中龍作ジャーナルの記事などを見ても、ロシア軍の蛮行は弁解の余地がありません。

参考サイト:
田中龍作ジャーナル

ブチャの遺体がウクライナの「自作自演」だというロシアの主張があまりに荒唐無稽で、お話にならないのは言うまでもありません。

しかし、だからと言って、ウクライナ軍は、ロシア軍と違って聖人君子のような軍隊なのかという疑問があります。ロシア軍が撤退したあとにブチャに入ってきたウクライナ軍のなかにはアゾフ大隊も含まれていたと言われます。アゾフ大隊は、まるでヒットラーの時代を彷彿とするようなネーミングの国家親衛隊に所属しており、通常の軍事行動以外に、治安維持や工作員の摘発など”国家警察”としての役割も担っているそうです。

前の記事でも書いたように、アゾフ大隊は、国内の少数民族や性的マイノリティーや左派活動家を標的にして暴力を振るったりしていたのですが、それにとどまらず、今回プーチン政権が分離独立を画策しているドネツクやルガンスクなどでは、ロシア系住民を拉致して殺害したり、暴行、拷問などを行ってきたのは公然の事実で、それがロシアに侵攻の口実を与えたという指摘もあるくらいです。そんなネオナチのアゾフが、戦場でお行儀のいい、模範青年のような振舞いをしているとはとても思えません。むしろ、極限状況下では、排外主義的なネオナチの本性をむき出しにしていると考えるのが普通でしょう。

ネットには、住民からウクライナ軍の兵隊の妻だと密告された女性がロシア兵にレイプされ殺害された、という記事が出ていましたが、短期間とは言え、ロシア軍が占領していた間には当然密告を強要されることはあったでしょう。なかには拷問されて取り調べられた人間もいるかもしれません。協力を拒否して銃殺されたケースもあったに違いありません。

今のウクライナは、政党活動が禁止され、国民総動員令で18歳〜60歳までの成人男性の出国も禁止されるなど、民主的な制度が停止された戒厳令下にあります。そして、ウクライナ政府は、国民に武器を渡して徹底抗戦を呼びかけているのです。成人男性だけでなく、武装できない女性や老人たちが、市街戦に備えて火炎瓶や土のうを作っている場面が映像でも流れていました。そうやって昔の日本のように、「民間人」も一丸となって戦えと言っているのです。

武装した民兵が、女性や子どもや老人たちの周辺を警護していることもあるでしょう。あるいは、一部で指摘されているように、民兵が女性や子どもや老人たちを盾に応戦したり、そのなかに紛れて敵を待ち伏せたりすることだってあるかもしれません。戦争なのですから何でもありなのです。

そうなれば、戦闘員と「民間人」の識別も困難になりますし、遭遇した「民間人」が民兵ではないかと疑心暗鬼に囚われるようになるのは当然でしょう。ロシア軍による憎悪を伴った暴力が「民間人」にも向けられるようになったのも、(語弊を招く言い方ですが)当然の成り行きとも言えるのです。一方で、ロシア側に協力した人間が、ウクライナの国家親衛隊から”裏切り者”として処刑されたケースがあったとしても不思議ではないように思います。

「民間人」が虐殺されたのは事実だとしても、今のようにメディアが報道している内容が全てかと言えば、必ずしもそうとは言いきれない現実があるのではないか。ゼレンスキー大統領は、ブチャに外国首脳やメディアを”招いて”、みずから悲惨な現場を案内したりしていますが、今のジェノサイド報道には、情報発信に長けたウクライナ政府による政治的プロパガンダの側面がないとは言えないでしょう。

戦争でいちばん犠牲になるのは女性と子どもと老人だと言われますが、検証のためと称して、まるで見世物のように、いつまでもブチャの路上に並べられている彼らの遺体を見るにつけ、死んでもなお国家の宣伝に使われ、(それが事実だとしても)「可哀そうなウクライナ人」を演じなければならない彼らの不憫さを思わないわけにはいきません。

そう言うと、今回の戦争はロシアの一方的な侵攻からはじまったのではないか、ロシアが侵攻しなかったら住民の虐殺も発生しなかった、だから全てはロシアの責任だ、というお決まりの反論が返ってくるのがオチです。でも、そういった紋切型の解釈で済ませてホントにいいんだろうかと思えてなりません。真相は真相としてあきらかにすべきではないのか。

先日の「モーニングショー」で、コメンテーターの女性が、ゲストで出ていた防衛省の防衛研究所の研究員に、「ロシアはこんなことをしたらもう二度と国際舞台に出て来ることはできないように思いますが、プーチンはそのことをどう考えているんでしょうか?」と質問していました。それに対して、防衛研究所の研究員は、「ロシアの狙いは世界が多極化することなんで、欧米とは別に自分たちの極を造ることしか考えてないのだと思いますよ」というようなことを言ってました。

それは今回のウクライナ侵攻を考える上で大変重要な話だと思いますが、司会の羽鳥慎一はあっさりとスルーして、次のロシアが如何に極悪非道かという話に移っていったのでした。

女性コメンテーターが言う「国際舞台」というのは、たとえば国連やG20のようなものを指しているのかもしれませんが、そういった発想自体が既に古く、世界の多極化を理解してないと言えます。

前からしつこいくらい何度もくり返し言っているように、アメリカが唯一の超大国の座から転落して世界が多極化するのは間違いないのです。そのなかで、大ロシア主義や”新中華思想”やイスラム主義が台頭して、欧米とは違う価値観を掲げる「全体主義の時代」が訪れるのもまた、間違いないのです。今、私たちはそんな世界史の転換(書き換え)の真っ只中にいるのです。

先のアフガンからの撤退や今回のロシア侵攻に対するバイデン=アメリカ政府の”腰砕け”に見られるように、もはやアメリカが唯一の超大国などではなく世界の警察官の役割も果たせなくなったことは、誰の目にもあきらかになっています。今、私たちが見ているものこそ、多極化する世界の光景なのです。

7日に国連総会で採択された国連人権理事会におけるロシアの理事国資格を停止する決議は、賛成が欧米や日本など93カ国、反対はロシアや中国・北朝鮮など24カ国で、採択に必要な投票の3分の2を超えて資格停止が成立したのですが(採決を受けてロシアは理事会から脱退)、投票数に含まれない棄権はインドやブラジルやメキシコなど58カ国にも上ったのでした。中南米やアフリカや東南アジアの多くの国は棄権にまわっています。

私たちが日々接する報道から見れば考えられないことですが、そこからも多極化という世界史の転換を読み取ることができるように思います。敢えて棹さすことを言えば、ロシアは必ずしも世界で孤立しているわけではないのです。

イスラム学者の中田考氏は、先日出演したビデオニュースドットコムで次のように言ってました。

マル激トーク・オン・ディマンド (第1095回)
ロシアのウクライナ侵攻と世界の反応に対するイスラム的視点

(略)中田氏は現在、われわれが「国際秩序」と呼んでいるものは、17世紀以降、西欧を中心に白人にとって都合のいい理屈をいいとこ取りして作られたものに過ぎず、そのベースとなるウェストファリア体制下の主権国家という考え方も、それを支える「自由」や「民主」、「平等」などの概念も、あくまで白人が非白人を支配するために都合よく考え出された概念に過ぎないと、これを一蹴する。

 実際、西欧の帝国主義が世界を席巻する前の17世紀の世界は、「東高西低」と言っても過言ではないほど、オスマン帝国(トルコ)やサファヴィー朝(イラン)、ムガール帝国(インド)、清(中国)などアジアの帝国が世界で支配的な地位を占め、空前の繁栄を享受していた。中田氏はその時代がイスラム教にとっても全盛期だったと語る。しかし、1699年のカルロヴィッツ条約でオスマン帝国が欧州領土の大半を失った後、西欧諸国が帝国主義的な植民地政策によって経済的に優位な立場に立ち、18世紀以降、かつてのアジアの帝国は植民化されるなどして西欧諸国から支配され、好き放題に搾取される弱い立場に立たされた。その関係性はその後の2度の世界大戦を経た後も、大枠では変わっていない。
(概要より)


同時に、私たちがいる”西側世界”も、「全体主義の時代」に引き摺られるかのように、政治は右へ全体主義の方へ傾斜しています。ヨーロッパでは極右政党が台頭しており、明後日(10日)から始まるフランス大統領選挙でも、ロシア寄りの極右・国民連合のルペン候補が現職のマクロン大統領を「猛追」しているというニュースがありました。ハンガリーでは、4月3日に行われた総選挙で、政権与党が勝利して、右派で強権的なオルバン政権が信任されています。ハンガリーはEU加盟国ですが、ウクライナに武器の提供はしないと明言していますし、ロシア産原油の支払いをプーチンの要請に従ってルーブルに変更することを決定しています。それどころか、アメリカでも、バイデン政権が一期で終わるのは必至で、もしかしたら共和党を簒奪したトランプの復活もあるのではないかと言われているのです。

右へ傾斜しているという点では、日本も例外ではありません。野党の立憲民主党まで含めて、戦争に備えるために、防衛予算を増やして非常時に対応した現実的な安保政策を再構築すべきだという声が大きくなっています。東浩紀が称賛したように、国家がどんどん際限もなくせり出して来ているのです。それが国民の基本的な権利の制限と表裏一体であるのは言うまでもありません。でも、世論もそれを容認しているように見えます。

メディアも国民も、戦争が長引くにつれ、益々安直にプーチン憎し、ウクライナが可哀そうの敵か味方かの二項対立で戦争を語るようになっているのです。でも、それでは目には目を歯には歯の復讐律しか生まないでしょう。政治家たちが短絡的なナショナリズムを振りかざして悪乗りしているように、それこそが動員の思想と言うべきなのです。

マイケル・ムーアが言うように、ウクライナ侵攻におけるメディアの戦争プロパガンダは、戦争主義者たちにとって”願ってもない成果”をもたらしつつあるのです。バイデンの再三に渡る挑発的な発言は、どう見ても戦争を煽っている(火に油を注いでいる)としか思えませんが、何故かそう指摘するメディアはありません。これでは、常に敵を必要とする産軍複合体は笑いが止まらないでしょう。
2022.04.08 Fri l ウクライナ侵攻 l top ▲
岸田首相の特使として、ウクライナの避難民支援のためにポーランドを訪問していた林外務大臣は、昨日(日本時間4日)、日本行きを希望する避難民20名を政府専用機の予備機に乗せてワルシャワを出発。今日(日本時間5日)、羽田空港に到着するそうです。

このニュース、なんだか人道支援に積極的に取り組む日本政府の姿勢をアピールするパフォーマンスのように思えてなりません。政府専用機で避難民を移送するなどという、こんな大仰なやり方をするのは日本だけです。

しかし、定員が150人の予備機に乗れるのは僅か20名。自力で渡航手段を確保するのが困難な人というだけで、その選定基準も定かではありません。なかには、日本のアニメにあこがれて、日本でマンガを学びたいという若い女の子も含まれているようです。

昨夜放送された「報道ステーション」によれば、その女の子は前にメインキャスターの大越健介氏の現地取材に出たことがあるそうです。それで、アピールするのに好都合だとして選ばれたのではないか、と余計なことまで考えてしまいました。

国外に避難したウクライナ人は既に400万人を越えていますが、そのうち日本が受け入れたのは3月30日現在で337人(速報値)です。言うまでもなく高額な渡航費(飛行機代)がネックになっているからです。

政府専用機で避難民を運ぶというのなら、1回きりでなく、それこそ何度でもピストンで運べばいいように思いますが、そういった予定はないようです。

各自治体が、避難民を受け入れます、公営住宅を用意してサポートします、とアピールしていますが、それも地方都市では10人とかそれくらいを想定しているにすぎません。大きいのは掛け声だけなのです。

日本政府の方針は、渡航費はあくまで自分で用意するというのが原則です。遠くて渡航費が高額なのを幸いに、そうやって避難民が押し寄せるのをコントロールしているような気がしてなりません。

2020年12月現在、日本にいるウクライナ人は1867人で、そのなかで1404人が女性です。女性が多いのは、ロシアンパブ(外国人パブ)などで働く出稼ぎのホステスなどが多いからかもしれません。そこにも平均年収が日本の5分の1以下というウクライナの現実が投映されているような気がします。

ニュースなどを見ると、日本政府は避難民の多くは日本にいる親戚や知人を頼って来ると想定しているようです。本音はなるべく縁故のある人間だけにしてもらいたいということかもしれません。

でも、日本人の受け止め方はきわめて安直で情緒的です。避難民が迎えに来た親戚と空港で抱き合うシーンに胸を熱くして、日本政府の人道支援に対して、日本国民として誇らしい気持すら抱いているかのようです。そこに冷徹な政治の思惑がはたらいていることは知る由もないし、知ろうともしないのです。

私たちは、可哀そうなウクライナ人VS憎きロシアのプーチンの感情のなかで、いつの間にか「戦時下の言語」でものを考え、語るようになっているのです。そうやって、メディアによる「戦争の『神話化』」(藤崎剛人氏)に動員されているのです。誤解を怖れずに言えば、ウクライナのためにキーウ(キエフ)に残って戦うゼレンスキー大統領が「英雄」に見えたら、それはもうアゾフと心情を共有していると考えていいでしょう。

作家の津原泰水氏のTwitterで知ったのですが、映画監督のマイケル・ムーアは、ポッドキャストでウクライナをめぐるマスコミ報道を次のように批判していたそうです。

長周新聞
米映画監督マイケル・ムーアが批判するウクライナ報道 「戦争に巻き込もうとする背後勢力に抵抗を!」

 ゼレンスキーの演説は強く感情的なものになるだろうが、その背後に私の知っている者たちがいる。私たちを戦争に引き込もうとしている奴らがいるが、それはプーチンのような人々ではない。

 私は、旧ソビエト連邦とソ連崩壊後のロシアを訪問したことがある。その時に数回プーチン氏と顔を合わせて、ウクライナについて考えを聞いたこともある。その時のプーチンの考えと今のプーチンの考えは、何も変わってはいない。

 変わったのは、私たちを戦争に引きずりこもうとしている奴が出現したことだ。それは政治家、マスメディア、戦争で何千万、何億ドルともうけようとする軍需企業だ。私たちは、「われわれはウクライナに行かねばならない。われわれは戦争しなければならない」という内側からの誘惑に対して抵抗しなければならないのだ。

 アメリカは第二次世界大戦後の75年間に世界で暴虐の限りを尽くしてきた。それらは朝鮮、ベトナム、カンボジア、ラオス、中近東諸国。中南米ではチリ、パナマ、ニカラグア、キューバ。第一次イラク戦争とそれに続くグロテスクなイラク戦争、アフガニスタン戦争など数えたらきりがない。

 アメリカはイラクで、アフガニスタンで100万人もの人々を殺し、多くの米兵が死んだ。その陰には息子を失った親、夫を失った妻、父親を失った子どもたちがいる。もはや、アメリカ人は戦争することは許されないのだ。

 私はアメリカのテレビがどんな放送を耳や目に押し込んでいるかを確認するとき以外はスイッチを切っている。テレビは毎日、毎日、悲しいニュースばかり流している。道路の死体や子どもたちを見せて、ひどいひどいと刷り込むことであなたの心をむしばんでいく。悲しければ、悲しいほど、大衆洗脳と戦争動員プロパガンダ効果があるのだ。


今もキーウ(キエフ)近郊のブチャで、410人の民間人とみられる多数の遺体が見つかったというニュース映像がくり返し報じられ、欧米各国もロシア軍によるジェノサイドだとしてロシアを強く非難、対ロ制裁をさらに強化すべきだとの声が高まっています。

このロシア軍の行為を民間人や民間施設を攻撃することを禁止したジュネーブ条約に違反する「戦争犯罪」だと非難しているのですが、しかし、戦場の極限下において、そういった条約がどれほど効力を持つのかはなはだ疑問です。不謹慎かもしれませんが、「戦争ってそんなもんだろう」「お行儀のいい戦争なんてあるのか」「それを言うなら戦争そのものが犯罪じゃないのか」と言いたくなります。

ジェノサイドがセンセーショナルに報じられることによって、欧米にさらなる制裁を促して和平交渉を有利に持っていくという意図がまったくないとは言えないでしょう。

もちろん、ロシア政府は、フェイクだ、ウクライナの演出だ、とお得意の謀略論を展開してジェノサイドを否定しています。日本でも安倍晋三元首相に代表される右派が、先の戦争での南京大虐殺や従軍慰安婦を否定していますが、それと同じです。そうやって戦争犯罪を否定することが愛国者の証しなのでしょう。

だからと言って、ロシアを非難するヨーロッパの口吻も額面通りに受け取るわけにはいかないのです。EU加盟国は、ここに至っても未だにロシアから天然ガスや石油の供給を受けているのです。ちなみに、2020年度にロシアがパイプラインで外国に送った天然ガスの84.8%がEU向けだそうです。『エコノミスト』(毎日新聞)によれば、「侵攻後25日間でEUがロシアに支払った輸入総額は(略)160億ユーロ(約2兆円)を超えている」そうです。

なかでもドイツとフランスの依存度が高く、ドイツが輸入した天然ガスの55.2%はロシアからノルドストリーム1(NS1)という海底パイプラインを使って供給を受けたものです。現在もノルドストリーム1は稼働しています。ロシアからの天然ガスの供給がストップすれば自国の経済が大混乱に陥るので、それだけはなんとしてでも避けなければならないというのがドイツなどの本音なのでしょう。もちろん、その背後には、ロシアとの貿易で巨利を得ているコングロマリットの意向もあるでしょう。

戦争ほど理不尽でむごいものはありません。「民間人」に被害が及ぶのは、知らないうちに自分たちが味方の軍隊の盾にされているからということもあるのですが、戦争でいちばんバカを見るのは「民間人」と呼ばれる市井の人々です。それこそ自力で避難する手段を確保することができずに戦場に取り残された人たちなのです。それが戦争の本質です。戦争がどんなかたちで終結を迎えようと、犠牲になった無辜の人々は浮かばれることはないのです。

「祖国のために」末端の兵士が憎悪をむき出しにして殺し合い、市井の人々が進駐してきた敵の兵士に殺害されたり拷問されたりレイプされたりする傍らで、国家の中枢にいる権力者や資本家たちは、みずからの延命や金儲けのために、落としどころを見つけるべく、戦闘相手国と丁々発止のかけ引きを行っているのです。もちろん、市井の人々の悲劇も、かけ引きの材料に使われているのは言うまでもありません。

井上光晴は、『明日』という小説で、長崎に原爆が投下される前日、明日自分たちの身に降りかかって来る”運命”も知らずに、小さな夢と希望を持ってつつましやかでささやかな日常を送る庶民の一日を描いたのですが、私は、今回の戦争でも、『明日』で描かれた理不尽さややり切れなさを覚えてなりません。

しかも、マイケル・ムーアが言うように、戦争がビジネスになっている現実さえあります。戦争では日々高価な武器が惜しみなく消費されるので、軍需産業にとってこれほど美味しい話はないのです。今回の戦争にも、そういった資本主義が持っている凶暴且つ冷酷な本性が示されているのです。それが西欧の醜悪な二枚舌、ダブルスタンダードを生み出していると言えるでしょう。

私たちは、メディアの戦争プロパガンダに煽られるのではなく、冷静な目で戦争の現実とそのカラクリを見ることが何より大事なのです。
2022.04.05 Tue l ウクライナ侵攻 l top ▲