朝日新聞デジタル
ゼレンスキー氏、男性の出国求める請願書に「故郷守ろうとしてない」
ウクライナは現在、戒厳令と総動員令がセットになった戦時体制下にあり、政党活動は禁止され、18~60歳の成人男性の出国も禁止されています。もちろん、ロシアの理不尽な侵攻に対して一丸となって戦うためですが、政党活動が禁止されているというのは、実質的に政府のやることに異を唱えることができないということでもあります。その意味では、きつい言い方ですが、今のウクライナはロシアよりむしろ全体主義的な状況にあると言っていいのかもしれません。
余談ですが、昨日の「モーニングショー」では、ロシアでは戦場に派遣する兵士が不足して、片目がない身障者まで駆り出されているというウクライナのニュースを紹介していました。そして、例によって例の如く電波芸者の石原良純や山口真由らがああでもないこうでもないと与太話をくり広げていました。
もっとも、ロシアは徴兵制度はあるものの、ロシア軍は志願兵が主体で、徴兵制によって集められた兵士の割合は全体の2割以下だと言われています。ホントに身体障害者を戦場に派遣するほど兵員不足なら、もっと徴兵制の運用を強化するでしょう。スマホのアクセスログなどのチェックはあるみたいですが、ウクライナと違って男性の出国も可能です。そのため、多くの若者が侵攻に失望して国を離れていると言われているのです。
戦争なのですから、情報戦が行われるのは当然です。にもかかわらず、そうやって敵か味方かの二項対立で多分にバイアスのかかったニュースを取り上げ、戦争当事国の片方に肩入れするような「言論の自由度ランキング」71位の国のメディアでは、現在の戦況を含めて”ホントのこと”を知ることはできないでしょう。日本のメディアの報道は極めて政治的で、むしろ戦争を煽るものと言うべきなのです。
話は戻りますが、記事によれば、ウクライナでは、成人男性の出国禁止に対して、出国を「可能にすることを求める請願書に2万5千人の署名がインターネット上で集まっている」のだそうです。
そのネット請願に対して、ゼレンスキー大統領は、次のように「不快感を示した」のだとか。
「この請願書は誰に向けたものなのか。地元を守るために命を落とした息子を持つ親たちに、この請願書を示せるのか。署名者の多くは、生まれ故郷を守ろうとしていない」
バイデンと一緒になって「ウクライナ頑張れ」と外野席から声援を送っている人たちから見れば、ゼレンスキーの言うとおりで、何と「身勝手」な人たちなんだろうと思うかもしれません。
しかし、私は、民衆は国家に対して「身勝手」を言う権利と言うか、資格はあるだろうと思います。それが民主主義ではないのか。「身勝手」が言えないなら全体主義国家でしょう。「国を出るなら勝手に出ろ、その代わり二度と戻ってくるな」と言うのならまだわかりますが、国を出ることは一切認められない、そんな人間は”非国民”だとでも言いたげなゼレンスキーの発言は、どう見ても全体主義者のそれに近いものです。
ゼレンスキーが求めているのは、最後の一人まで戦えということです。文字通り戦前の日本が掲げた「進め一億火の玉だ」と同じ愛国心を求めるものです。ゼレンスキーは国を守るために国民に銃を渡すと言っています。総動員令というのは国民皆兵と同義語なのです。その意味では(暴論を承知で言えば)ブチャなどのジェノサイドも、「起こるべくして起こった」とも言えるのです。国民皆兵であれば、誰が兵士で誰が兵士でないか(誰が銃を持っているか)わからないでしょう。戦場の極限状況の中では疑心暗鬼に囚われ、「だったら皆殺しにしてしまえ」と命令が下されるのは「あり得ないことではない」ように思います。同じようなジェノサイドは、旧日本軍もやったし、アメリカも朝鮮やベトナムでやってきたのです。
今も毎日多くのウクライナ国民がロシア軍の銃弾の犠牲になっているのは、ゼレンスキーの言うとおりです。しかし、ゼレンスキーら指導部は、厳重に警護された安全地帯にいて、ただ国民を鼓舞するだけです。もちろん、鼓舞すればするほど国民の悲劇は増すばかりです。それでも、ゼレンスキーは、今の時点で和平交渉を行うつもりはないと明言しています。
もしかしたら、国民の犠牲と引き換えに、和平交渉に向けて有利な条件を創り出そうとしているのかもしれません。犠牲になった国民に対しては、「お前は英雄だ」と言っておけばいいのです。戦争では、いつの時代も国家が「英雄」の空手形を乱発するのが常です。
今回の戦争は、21世紀とは思えない古色蒼然としたものだと言われますが、しかし、戦争に駆り出される国民の間に、戦争で死んで「英雄」扱いされるより(戦争で犬死するより)、目の前の幸せを守る方が大事だという考えが前の世紀より浸透しているのはたしかな気がします。井上光晴が『明日』 という小説で、原爆投下の前日(1945年8月8日)の長崎の庶民の一日を描いたように、国家が強いる”運命”より以前に、私たちには人生の夢や希望や悲喜こもごもの日常が存在するのです。戦争のやり方は進歩していないけど、戦争に向き合う人々の意識は多少なりとも進歩していると言えるのではないでしょうか。
小室さんと眞子さんの結婚で盛んに言われた”幸福追求権”を持ち出すまでもなく、自分の運命は自分で決める、戦争で死にたくない、そのために、国を出て戦争で死なない人生を選択したいと思うのはごく自然な気持でしょう。でも、国の指導者は、愛国心を盾に彼らを”非国民”扱いして不快感を示すのです。不快感だけならまだしも、警察権力を使って拘束した上で、強制的に前線に送ることだってあるかもしれません。
「平和国家」の国民を自認するのなら、バイデンやメディアに煽られて「ウクライナ頑張れ」と声援を送るだけでなく、戦争で死にたくないと思う人たちの存在や、その人たちの視点からこの戦争を見ることも必要ではないのか。
反戦平和のためには、あるいは「ウクライナを救え」と言うのなら、戦争で死にたくない(銃を持ちたくない)と思っているウクライナの人たちや、ロシアの内外で侵攻に反対し心を痛めているロシアの人たちと、国を越えて「連帯」することでしょう。
ヒューマニズムを標榜するなら、戦争の論理や国家の論理より個人の論理、個人の事情を優先する考えをまず持つことでしょう。日本でのメディアの報道姿勢や国民の関心の持ち方を見ると、所詮は戦争の論理や国家の論理を忖度し拝跪したものにすぎません。そんなものはヒューマニズムでも何でもないのです。
前も書きましたが、たとえば、テレビで得々と戦況を解説している防衛省管下の防衛研究所の研究員にしても、彼らはヒューマニズムとは無縁な(税金を使って)戦争を研究する専門家です。戦略や戦術を研究して理論化する、言うなれば”戦争屋”なのです。その簡易版が「軍事評論家」と称するフリージャーナリストたちです。そんな彼らの戦争の論理がテレビを通して”お茶の間”を席捲し、多くの国民のこの戦争に対する視点を決定付けているのは否定すべくもない事実でしょう。これこそプロパガンダと言うべきではないでしょうか。