昨日、朝日に下記のような記事が出ていました。

朝日新聞デジタル
ゼレンスキー氏、男性の出国求める請願書に「故郷守ろうとしてない」

ウクライナは現在、戒厳令と総動員令がセットになった戦時体制下にあり、政党活動は禁止され、18~60歳の成人男性の出国も禁止されています。もちろん、ロシアの理不尽な侵攻に対して一丸となって戦うためですが、政党活動が禁止されているというのは、実質的に政府のやることに異を唱えることができないということでもあります。その意味では、きつい言い方ですが、今のウクライナはロシアよりむしろ全体主義的な状況にあると言っていいのかもしれません。

余談ですが、昨日の「モーニングショー」では、ロシアでは戦場に派遣する兵士が不足して、片目がない身障者まで駆り出されているというウクライナのニュースを紹介していました。そして、例によって例の如く電波芸者コメンテーターの石原良純や山口真由らがああでもないこうでもないと与太話をくり広げていました。

もっとも、ロシアは徴兵制度はあるものの、ロシア軍は志願兵が主体で、徴兵制によって集められた兵士の割合は全体の2割以下だと言われています。ホントに身体障害者を戦場に派遣するほど兵員不足なら、もっと徴兵制の運用を強化するでしょう。スマホのアクセスログなどのチェックはあるみたいですが、ウクライナと違って男性の出国も可能です。そのため、多くの若者が侵攻に失望して国を離れていると言われているのです。

戦争なのですから、情報戦が行われるのは当然です。にもかかわらず、そうやって敵か味方かの二項対立で多分にバイアスのかかったニュースを取り上げ、戦争当事国の片方に肩入れするような「言論の自由度ランキング」71位の国のメディアでは、現在の戦況を含めて”ホントのこと”を知ることはできないでしょう。日本のメディアの報道は極めて政治的で、むしろ戦争を煽るものと言うべきなのです。

話は戻りますが、記事によれば、ウクライナでは、成人男性の出国禁止に対して、出国を「可能にすることを求める請願書に2万5千人の署名がインターネット上で集まっている」のだそうです。

そのネット請願に対して、ゼレンスキー大統領は、次のように「不快感を示した」のだとか。

「この請願書は誰に向けたものなのか。地元を守るために命を落とした息子を持つ親たちに、この請願書を示せるのか。署名者の多くは、生まれ故郷を守ろうとしていない」


バイデンと一緒になって「ウクライナ頑張れ」と外野席から声援を送っている人たちから見れば、ゼレンスキーの言うとおりで、何と「身勝手」な人たちなんだろうと思うかもしれません。

しかし、私は、民衆は国家に対して「身勝手」を言う権利と言うか、資格はあるだろうと思います。それが民主主義ではないのか。「身勝手」が言えないなら全体主義国家でしょう。「国を出るなら勝手に出ろ、その代わり二度と戻ってくるな」と言うのならまだわかりますが、国を出ることは一切認められない、そんな人間は”非国民”だとでも言いたげなゼレンスキーの発言は、どう見ても全体主義者のそれに近いものです。

ゼレンスキーが求めているのは、最後の一人まで戦えということです。文字通り戦前の日本が掲げた「進め一億火の玉だ」と同じ愛国心を求めるものです。ゼレンスキーは国を守るために国民に銃を渡すと言っています。総動員令というのは国民皆兵と同義語なのです。その意味では(暴論を承知で言えば)ブチャなどのジェノサイドも、「起こるべくして起こった」とも言えるのです。国民皆兵であれば、誰が兵士で誰が兵士でないか(誰が銃を持っているか)わからないでしょう。戦場の極限状況の中では疑心暗鬼に囚われ、「だったら皆殺しにしてしまえ」と命令が下されるのは「あり得ないことではない」ように思います。同じようなジェノサイドは、旧日本軍もやったし、アメリカも朝鮮やベトナムでやってきたのです。

今も毎日多くのウクライナ国民がロシア軍の銃弾の犠牲になっているのは、ゼレンスキーの言うとおりです。しかし、ゼレンスキーら指導部は、厳重に警護された安全地帯にいて、ただ国民を鼓舞するだけです。もちろん、鼓舞すればするほど国民の悲劇は増すばかりです。それでも、ゼレンスキーは、今の時点で和平交渉を行うつもりはないと明言しています。

もしかしたら、国民の犠牲と引き換えに、和平交渉に向けて有利な条件を創り出そうとしているのかもしれません。犠牲になった国民に対しては、「お前は英雄だ」と言っておけばいいのです。戦争では、いつの時代も国家が「英雄」の空手形を乱発するのが常です。

今回の戦争は、21世紀とは思えない古色蒼然としたものだと言われますが、しかし、戦争に駆り出される国民の間に、戦争で死んで「英雄」扱いされるより(戦争で犬死するより)、目の前の幸せを守る方が大事だという考えが前の世紀より浸透しているのはたしかな気がします。井上光晴が『明日』 という小説で、原爆投下の前日(1945年8月8日)の長崎の庶民の一日を描いたように、国家が強いる”運命”より以前に、私たちには人生の夢や希望や悲喜こもごもの日常が存在するのです。戦争のやり方は進歩していないけど、戦争に向き合う人々の意識は多少なりとも進歩していると言えるのではないでしょうか。

小室さんと眞子さんの結婚で盛んに言われた”幸福追求権”を持ち出すまでもなく、自分の運命は自分で決める、戦争で死にたくない、そのために、国を出て戦争で死なない人生を選択したいと思うのはごく自然な気持でしょう。でも、国の指導者は、愛国心を盾に彼らを”非国民”扱いして不快感を示すのです。不快感だけならまだしも、警察権力を使って拘束した上で、強制的に前線に送ることだってあるかもしれません。

「平和国家」の国民を自認するのなら、バイデンやメディアに煽られて「ウクライナ頑張れ」と声援を送るだけでなく、戦争で死にたくないと思う人たちの存在や、その人たちの視点からこの戦争を見ることも必要ではないのか。

反戦平和のためには、あるいは「ウクライナを救え」と言うのなら、戦争で死にたくない(銃を持ちたくない)と思っているウクライナの人たちや、ロシアの内外で侵攻に反対し心を痛めているロシアの人たちと、国を越えて「連帯」することでしょう。

ヒューマニズムを標榜するなら、戦争の論理や国家の論理より個人の論理、個人の事情を優先する考えをまず持つことでしょう。日本でのメディアの報道姿勢や国民の関心の持ち方を見ると、所詮は戦争の論理や国家の論理を忖度し拝跪したものにすぎません。そんなものはヒューマニズムでも何でもないのです。

前も書きましたが、たとえば、テレビで得々と戦況を解説している防衛省管下の防衛研究所の研究員にしても、彼らはヒューマニズムとは無縁な(税金を使って)戦争を研究する専門家です。戦略や戦術を研究して理論化する、言うなれば”戦争屋”なのです。その簡易版が「軍事評論家」と称するフリージャーナリストたちです。そんな彼らの戦争の論理がテレビを通して”お茶の間”を席捲し、多くの国民のこの戦争に対する視点を決定付けているのは否定すべくもない事実でしょう。これこそプロパガンダと言うべきではないでしょうか。
2022.05.24 Tue l ウクライナ侵攻 l top ▲
マリウポリのアゾフスターリ製鉄所で、2ヶ月以上に渡って抵抗していたウクライナ軍(アゾフ大隊)がついに投降、ウクライナ政府も任務の完了=敗北を認めました。

アゾフスターリ製鉄所の陥落について、朝日新聞は、これで「ロシアが占領するクリミア半島とウクライナ東部をつなぐ要衝を、ロシアが近く完全制圧する可能性が高くなった」と伝えています。

併せて、「ウクライナ戦争で最も長く血なまぐさい戦闘が、ウクライナにとって重要な敗北に終わる可能性がある」というロイター通信の見方も紹介していました。

朝日新聞デジタル
ロシア軍、マリウポリ完全制圧へ 「最も血なまぐさい戦闘」が節目

また、メディアは、当初、投降した兵士たちがロシア支配地域に移送されたことで、今後、兵士たちは捕虜交換に使われる見込みだと報じていました。ところが讀賣新聞は、ネオナチのアゾフ大隊の兵士たちは、ウクライナに引き渡さない可能性が出てきたと伝えています。

讀賣新聞オンライン
「アゾフ大隊」兵士の引き渡し、ロシア拒否か「彼らは戦争犯罪者」…捕虜交換の禁止案

ロシア下院は18日、ウクライナ南東部マリウポリのアゾフスタリ製鉄所から退避した武装組織「アゾフ大隊」の兵士と、ロシア兵との捕虜交換を事実上禁じる法案を審議する。アゾフ大隊の兵士のウクライナへの引き渡しにロシアが応じない可能性が出てきた。


私たちは、こういった報道を見ると、頭が混乱してしまいます。私たちが日頃接している報道では、士気の高いウクライナ軍によって、ロシア軍は各地で劣勢を余儀なくされ、それに加えて厭戦気分も蔓延しているため、今にもロシアの侵攻は失敗で終わるかのようなイメージを抱いていたからです。

もっとも、「国境なき記者団」が先日発表した2022年の「報道の自由度ランキング」では、日本は世界180の国や地域のうち71位でした。私たちが日々接しているのはその程度の報道なのです。

何度も言いますが、戦争なのですから敵も味方もありません。どちらもプロパガンダが駆使され、真実が隠されるのは当然のことです。でも、日本人はそんなことは露ほども念頭になく、まるでサッカーの代表戦と同じように、「ウクライナ大健闘」を信じ込んでいるのでした。

ウクライナから日本に避難した人たちが、記者会見で、祖国を離れて安全な日本に避難したことに後ろめたさを覚えるとか、祖国のために戦っている同胞を誇りに思うとか、今年の秋(何故か今年の秋を口にする人が多い)までには戦争が終わって祖国に帰ることを望んでいるとか言うと、日本人も彼らに同調して、そう遠くない時期にウクライナ勝利で戦争が終わるかのように思い込んでいるのです。

しかし、それは、ウクライナ人たちが戦時体制の中で、自由にものを考えることを禁止されているからに他なりません。ロシアの侵略はまぎれもない蛮行=戦争犯罪ですが、でも、もはやウクライナは取り返しがつかない国家の分断に向っているように思えてなりません。

とは言え、ウクライナの国民たちは皆が皆、”ロシア化”に反発しているわけでもありません。ロシア語の話者たちの中に、ロシアへの帰属を望んでいる人たちがいるのも否定できない事実です。一方で、ロシアの支配地域に住んでいながら帰属を望まない人たちもいます。

勝ったか負けたか、敵か味方かではなく、そんな国家に翻弄される人々の視点で戦争を見ることも大事でしょう。いつの戦争でもそうですが、そこには私たちの想像も及ばない個々の事情とそれにまつわる悲劇が存在するのです。

どっちの国が正しいかではないのです。まして、どっちの国に付くかでもないのです。大事なのは、人々が国家から少しでも自由になることでしょう。戦争の際、「国のために死ぬな」という言葉がリアリティを持つのはそれ故です。国家の論理に対して、人々の個々の論理、個々の事情が対置されるべきだし優先されるべきなのです。ホントに戦争に反対し「ウクライナを救え」と言うのなら、まず「国のために死ぬな」と言うべきでしょう。

「ウクライナを救え」の人たちの間では何故かタブーになっていますが、そもそも今のウクライナは、ロシア革命に勝利したボリシェヴィキによって半ば人工的に作られた国という側面もなくはないのです。プーチン政権は、それを持ち出して、ロシア語の話者が多く住む地域をロシアに併合する暴挙に出たのでした。もちろん、そこには、NATOの東方拡大に対する危機感やロシア帝国再興の野望(大ロシア主義)もあったでしょう。

一方、ウクライナ国内でも、オレンジ革命による民主化への高まりによって、逆に「二つのウクライナ」が政治的に大きなテーマになり、ネオナチの集結とともにロシア語話者に対する差別や迫害がエスカレートしていったのでした。「民主主義」とネオナチが、反ロシアと愛国(ウクライナ民族主義)で手を結んだのです。そこにも、西欧的価値観=西欧民主主義の限界と欺瞞性が露呈されているように思います。そして、オレンジ革命の「二つのウクライナ」は、2014年のユーロマイダン革命の悲劇へとつながっていったのでした。

何度もくり返しますが、勝ったか負けたかでも、敵か味方かでもないのです。戦争で命を奪われた人々は「英雄」でもないし、「美談」の主人公でもありません。占領されると、お前はどっちの側だと旗幟鮮明を迫られ、敵側だと見做されると拷問されて殺害されるのです。「お国のため」という美名のもとに兵士になり、国家からは「英雄」だと持ち上げられ、家族からは「誇り」だと尊敬されても、敵国に捕らえられると容赦なく命を奪われ、”家庭の幸福”も一瞬にして瓦解します。

それでもアメリカは、和平の「わ」の字も口にすることなく、「お前たちは英雄だ」「もっとやれ」「もっと戦え」「武器はいくらでも出すぞ」と言って、ゼレンスキー政権を煽りつづけているのでした。まるでそうやってロシアをウクライナに張り付かせていた方が、都合がいいかのようにです。そこにあるのは、ヒューマニズムや民主主義で偽装された大国の都合=国家の論理だけです。

先日、床屋で髪を切っていたら、テレビからロシア軍がアゾフスターリ製鉄所に籠城するアゾフ大隊に対して、白リン弾を使用したというニュースが流れました。すると、それを観ていた床屋の主人が、「でも、アメリカだってベトナムで同じことをやってたじゃないですか。だからドクちゃん何とかちゃんみたいな奇形児が出来たんでしょ」と言ってました。たしかに、その通りです。アメリカはどの口で言っているだという話でしょう。

しかも、アゾフスターリ製鉄所で化学兵器を使ったという話も、確証がないままいつの間にか消えてしまったのでした。このようにウクライナ側の情報も、(ロシアに負けず劣らず)フェイクなものが多いのです。

ウクライナは、アメリカやNATO諸国にとって、所詮は”捨て駒”なのです。誰かも同じことを言って炎上していましたが、ロシアの体力を消耗させるのために、アメリカが用意したサンドバックのようなものです。「ウクライナを救え」と言うのなら、いい加減そのことに気付くべきでしょう。


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2022.05.19 Thu l ウクライナ侵攻 l top ▲
「きっこのブログ」でおなじみのブロガー・きっこが、先日、次のようにツイートしていたのが目に止まりました。


なんだよ、これは。山で遭難した人間をそんな目で見ていたのか、と思いました。開いた口が塞がらないとはこのことでしょう。

きっこは、「オムライス党」と呼ぶ社民党のシンパであることを公言し、特に激しい安倍政権批判で人気ブロガーになったのですが、こういった登山に対する予断と偏見を何のためらいもなく書き散らしているのを見て、あらためて彼女の底の浅さ、危うさを痛感させられた気がしました。

それは、(古い言い方ですが)朝日新聞の”リベラル風”とよく似ているように思います。

前も書きましたが、1950年代半ばに、北朝鮮への帰還事業と並行して「内地に居留する旧植民地出身者を追い出す」ために、旧厚生省が主導した生活保護叩きのキャンペーンが行われたのですが、その際、キャンペーンのお先棒を担いだ朝日新聞には、「こんなに贅沢な朝鮮人受給者」「(受給者の家に行くと)真新しい箪笥があった」「仕事もしないで一日中のらりくらい」というようなバッシングの記事が連日掲載されていたそうです。今のネトウヨが主張する「在日特権」のフォーマットは60年前の朝日新聞にあったのです。

私たちは、”左派的なもの”や”リベラル風なもの”をまず疑わなければならないのです。

もちろん、登山というのはあくまで趣味=遊びにすぎません。登山が趣味の人生であっても、登山より大事なものは沢山あります。新興宗教にのめり込む信者と同じように、仕事そっちのけで登山にのめり込む人間もいますが、そんな人間はハイカー(登山愛好者)の基準ではないし、ましてや憧れでも尊敬の対象でもありません。私が登山ユーチューバーの動画を観て違和感を抱くのはその点です。だからと言って、きっこのような言い草はないでしょう。これではヤフコメなどの下等な”遭難者叩き”と寸分も変わらないのです。

たかが登山の話なのに大袈裟と思われるかもしれませんが、そこには”左派的なもの”や”リベラル風なもの”が依拠するこの社会の本質が露呈されているように思えてなりません。右か左かではないのです。右も左にも共通するこの社会の本質こそが問題なのです。

きっこのブログは、所詮この社会を構成するマジョリティ=規範に依拠し思考停止した薄っぺらな言説にすぎないのです。それでは、差別と排除の力学によって仮構されたこの社会や市民としての日常性の本質に、絶対に行き当たることはないでしょう。きっこは、「現実をかすりもしない」(宮台真司)左派リベラルの弛緩したトートロジーから生まれた(手垢にまみれた”左派リベラル風”の常套句をただ駆使するだけの自称政治通の人たちにとっての)愛玩物アイドルにすぎないのではないか。それがこのような、リゴリスティックな予断と偏見に満ちたもの言いを生んでいるのではないかと思いました。
2022.05.17 Tue l 社会・メディア l top ▲
昨夜、テレビでサンドイッチマンやバナナマンが出ている番組を観ていたとき、ふと先日自殺した渡辺裕之のことが頭に浮かびました。

ちょうど自殺のニュースが出る前日だったと思いますが、たまたま観ていた深夜の通販番組に彼が出演していたのです。深夜の通販番組に出演しているのは、こう言っては何ですが、既に旬を終え、しかも結婚してそれなりに年を取ったタレントが多いので、家族のために仕事を選んでおれないんだろうなと思ったりするのでした。

ただ渡辺裕之の場合は、売れなくなったという印象はなかったので意外でした。通販番組独特のわざとらしい空気にまだ慣れてないのか、観ているとどこかぎこちない感じがありました。しかも、胸に大きなエンブレムが付いたおせいじにも趣味がいいとは言い難いポロシャツの通販でしたが、「実は僕もこれを着ているんですよ。どうですか? いいでしょ」とブレザーを脱いでそのポロシャツをひけらかすシーンでは、日頃ダンディを売り物にしているだけに何だか痛々しささえ覚えました。

勝手な推測ですが、そんな場違いな仕事と自死がどこかでつながっているのではないか。自殺のニュースを聞いて、ふとそう思ったのでした。

で、お笑い芸人の番組でどうして渡辺裕之の自殺を思い出したのかと言えば、芸能人でみずから死を選ぶのは、渡辺だけでなく神田沙也加や竹内結子や三浦春馬の例を見てもわかる通り、歌手や俳優が多く、お笑い芸人はあまりいないなと思ったからです。お笑い芸人というのは、そういった行為とは遠い存在のような気がしたのです。サンドイッチマンやバナナマンのどうでもいいようなお笑いとそのはしゃぎぶりを観ていたら、そんな偏見に囚われたのでした。

ところが今朝、ダチョウ倶楽部の上島竜平が自死したというニュースが流れてびっくりしました。

私は一時、仕事で四谷三丁目に日参していた時期があり、四谷三丁目は太田プロが近かったので、太田プロのタレントもよく見かけました。迎えの車を待っているのか、四谷三丁目の交差点に、耳にイヤホンをはめた某宗教団体の”私設公安”の傍で、人待ち顔で立っている彼を見かけたことがありますが、それはどこにでもいるようなちょっと崩れた感じのおっさんでした。ハンチング帽にアロハシャツの恰好で地下鉄の駅から出て来たのに遭遇したこともありますが、どう見ても街中をうろついている職業不詳のオヤジ風で、芸能人のオーラなど微塵もありませんでした。

あの身体を張ったリアクション芸の裏に、こんな孤独な心があったのかと思うと、余計痛ましく、そして切なく思えてなりません。コロナ禍でリアクション芸の機会が失われ、このまま自分の出番が失くなっていくことを感じ取っていたのかもしれません。あるいは、芸能界の恩人と言って憚らなかった、志村けんの死のショックを未だ引き摺っていたのかもしれないと思ったりもしました。

コロナ禍をきっかけに、飛沫感染の怖れがあるからなのか、ドリフのDNAを受け継いだような身体を張ったギャグは、すっかりテレビの世界から姿を消しました。でも、コロナ禍はあくまできっかけにすぎなかったように思います。もうあんな大仰なリアクション芸で笑いを誘う時代ではなくなったのです。

ある日突然、自分の仕事が失くなるというのは、芸能界だけでなく、いろんな職業についても言えることです。ペストやスペイン風邪のときも、同じようなことが起きているのです。「新しい生活様式」なる国家が強制する”ファシスト的日常性”とは別に、パンデミックによって世の中の慣習や嗜好が変わるのは、当然あり得る話でしょう。それとともに、用をなさない仕事も出て来るでしょう。同じように仕事を失ったり、あるいは先行きに不安を抱いたりして、暗い日々を過ごしている人も多いはずです。

私たちは「芸能界」と一括りに呼んでいますが、しかし、その中にはさまざまなジャンルがあり、さらにそのジャンルの中でも芸の分担が細分化されているのです。潰しのきかない芸能界にあって、自分の得意芸の出番がなくなる不安は想像に難くありません。

一方で、いつの間にか、情報番組の司会やコメンテーターにお笑い芸人が起用されるようになっています。彼らに求められているのは、頭の中身は二の次に、機を見るに敏な状況判断とバランス感覚、ボキャブラリーの貧弱さを補って余りあるような口達者、それにお笑い芸人特有の毒を消して”好い人”を演じられる器用さです。

「竜兵会」の後輩芸人たちも、みんなそうやって時流に乗り、人気芸人になっています。同じリアクション芸人の出川哲郎も、”好い人”へのイメージチャンジに成功し、好感度もアップしました。何だか不器用な上島竜平だけが、仲間内で取り残されたような感じでした。

さらにコロナ禍だけでなく、ウクライナ侵攻をきっかけにした戦争の影も私たちを覆うようになりました。そんなえも言われぬ憂鬱さの中に、今の私たちはいるのです。私もそのひとりです。

こんな時代だからこそ笑いが必要だと業界の人間は言いますが、それは強がりやカラ元気みたいなものでしょう。テレビにはお笑い芸人たちが溢れていますが、しかし、現実は呑気にお笑いが溢れるような時代の気分ではないのです。
2022.05.11 Wed l 訃報・死 l top ▲
田中龍作氏は、5月3日の記事で、キーウの基地で遭遇した日本人義勇兵を取り上げていました。

田中龍作ジャーナル
【キーウ発】日本人義勇兵 「自由と独立を守るためには武器を取って戦わなければならない」

元自衛隊員の義勇兵は、まだ正式にウクライナ軍の兵士と認められてないため、無給だそうです。志願の動機について、下記のように書いていました。

 志願の動機は―

 「(旧ソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破って満洲に侵攻してきた)1945年と同じことがまた起きたと思った」

 「かつて交際していた女性の祖父は満洲で終戦となったためシベリアに抑留された」。

 57万5千人の日本軍将兵・満蒙開拓団員などがシベリアに連行され、強制労働に従事させられた。5万5千人が病気や衰弱などで死亡した(厚生省調べ)。

 「ロシアはウクライナに対しても当時と同じようなことをした」

 「自由と独立を守るためには武器を取って戦わなければならないことを日本人は認識していない」 

 「私戦予備罪を押してでも行く価値があると思い志願した」


しかし、この義勇兵は、田中氏が書いているように、ホントにただの義憤に駆られた人なのか。彼こそ、前に藤崎剛人氏が書いていた、世界中からウクライナに集まっているネオナチのひとりではないのか。

田中宇氏は、Qアノンまがいのコロナワクチンを巡る発言などにより、ややもすれば陰謀論の権化のように言われる毀誉褒貶の激しい人ですが、ウクライナ・ネオナチ説について、次のように書いていました。

田中宇の国際ニュース解説
ウクライナ戦争で最も悪いのは米英

ウクライナ軍は腐敗していたため国民に不人気で、2014年の政権転覆・内戦開始後に徴兵制を敷いたものの、徴兵対象者の7割が不出頭だった(2017年秋の実績)。多くの若者が徴兵を嫌って海外に逃げ出していた(若者の海外逃亡の結果、国内で若手の労働力が不足した)。予備役を集めて訓練しようとしても7割が出頭せず、訓練の会合を重ねるほど出席者が減り、4回目の訓練に出席したのは対象者の5%しかいなかった(2014年3-4月の実績)。(略)


親露派民兵団やロシア側に対抗できる兵力を急いで持つことを米英から要請されていたウクライナ政府は、政府軍の改善をあきらめ、代替策として、ウクライナ国内と、NATO加盟国など19の欧米諸国から極右・ネオナチの人々を傭兵として集め、NATO諸国の軍が彼らに軍事訓練をほどこし、政府軍を補佐する民兵団を作ることにした。極右民兵団の幹部たちは、英国のサンドハースト王立士官学校などで訓練を受けた。民兵団は国防省の傘下でなく、内務省傘下の国家警備隊の一部として作られた。ボー(引用者註:NATOの要員だったスイス軍の元情報将校)によると、2020年時点でこの民兵団は10万2千人の民兵を擁し、政府軍と合わせたウクライナの軍事勢力の4割の兵力を持つに至っている。ウクライナ内務省傘下の極右民兵団はいくつかあるが、最も有名なのが今回の戦争でマリウポリなどで住民を「人間の盾」にして立てこもって露軍に抵抗した「アゾフ大隊」だ。


今回のロシア侵攻を考えるとき、このようなゼレンスキー政権の極右化の問題も無視することはできないのです。もちろん、だからと言って、ロシアの戦争犯罪が免罪されるわけではありません。ただ一方で、ほぼ内戦状態にあったウクライナ東部において、ゼレンスキー政権が「極右民兵団」を使ってロシア系住民(ロシア語話者)を迫害していたのは、いろんな証言からもあきらかです。もちろん、ロシアへの併合を目論むロシア系民兵組織も同じことをやっています。しかし、「極右民兵団」によるロシア系住民の迫害が、ロシアに「個別的自衛権」の行使という侵攻の口実を与えることになったのは事実です。

そこにアメリカの”罠”があったのではないか。結果として、ゼレンスキー政権はバイデン政権からいいように利用され、そして煽られ、和平交渉の糸口さえ見つけることもできずに、総力戦=玉砕戦に突き進むことになったのでした。これではウクライナ国民はたまったものではないでしょう。でも、バイデン政権にしてみれば、してやったりかもしれません。アメリカはウクライナに巨額の軍事援助を行っていますが、それは同時に民主党政権と密接な関係にある産軍複合体に莫大な利益をもたらすことになるからです。

このように和平の働きかけも一切行わず、8千キロ離れたワシントンからただ戦争を煽るだけのバイデン政権の姿勢(それを異常と思わない方がおかしい)が、今回の侵攻を考える上で大きなポイントになるように思います。

今回の侵攻で、その帰趨とは関係なく、ロシアの国力や軍事力が大きくそがれ、プーチンの目論見とは裏腹に、ロシアが国家として疲弊し弱体化するのは否めないでしょう。一方で、プーチンの神経を逆なでするかのように、NATOはさらにフィンランドとスウェーデンの加入が取り沙汰されるなど、拡大の勢いを増しているのでした。言うなれば、アメリカは、ウクライナ国民の犠牲と引き換えに、ロシアをウクライナ侵攻という”泥沼”に引きずり込むことに成功したのです。そこに民主主義国家VS権威主義国家という、多極化後にアメリカが選択するあたらな世界戦略が垣間見えるように思います。

アメリカが唯一の超大国の座から転落して世界が対極化するということは、アメリカがみずから軍隊を派遣するのではなく、今回のように”同盟国”に武器を提供して”同盟国”の国民を戦わせることを意味するのです。そう方針転換したことを意味するのです。アメリカにとって、戦争は政治的な側面だけでなくビジネスの側面も強くなっており、そのため戦争の敷居が格段に低くなったのは事実でしょう。

日本でも早速、対米従属愛国主義の政治家ポチたちが、敵基地への先制攻撃を可能にする憲法9条の改定や核シェアリング(実質的な核武装)の導入など、戦争ができる体制を作るべきだと声高に主張し始めています。しかも、2014年のクリミア半島とルハンスク州南部・ドネツィク州東南部侵攻の際には、ウラジーミルとシンゾーの関係を優先して欧米の制裁に歩調を合わせなかった安倍晋三元首相が、今度は先頭に立って核武装を主張しているのですから開いた口が塞がらないとはこのことでしょう。

でも、実際に戦場で戦うのは自衛隊員だけでなく国民も一緒です。ウクライナでも見られたように、避難した民間人を警護するという建前のもと、実際は弾除けの盾に使われることだってあるでしょう。戦争なのですから何だってありなのです。政治家ポチの勇ましい言葉に踊らされている「風にそよぐ葦」の国民は、戦争に対するリアルな想像力が決定的に欠けていると言わねばなりません。ウクライナが可哀そうという感情に流されるだけで、戦争の現実をまったく見てないし見ようともしてないのです。

何だかまわりくどい話になりましたが、このような敵か味方かの国家の論理に依拠した今の報道は、ウクライナが可哀そうという”善意の仮面”を被ったもうひとつのプロパガンダと言うべきなのです。
2022.05.08 Sun l ウクライナ侵攻 l top ▲
子供の日だからなのか、5月5日放送の「モーニングショー」で、Z世代の消費行動が取り上げられていました。

Z世代とは、いわゆるミレニアル世代に続く「1990年代半ばから2010年代生まれ」の25歳以下の若者を指す世代区分で、日本では主にマーケティングの分野で使われている場合が多いようです。

Z世代の特徴として真っ先にあげられるのは、生まれながらにしてネットに接していたデジタル・ネイティブだということです。そのため、テレビよりYouTubeやSNS等のネット利用時間が多く、情報収集も、テレビや新聞や雑誌などではなく、TwitterやYouTube、Instagram、TikTokのようなウェブメディアが主流だということです。自分が興味がない情報は最初からオミットして、興味のある情報だけを選択するのも特徴で、そのスキルが先行世代より長けていると言われているそうです。

でも、ものは言いようで、これって単なるスマホ中毒じゃないのかと思ったりします。私の中には、スマホに熱中するあまり、電車の中や駅のホームで、おばさんに負けじとやたら座りたがる若者たちのイメージがあります。

また、自分が「押す」アイドルやユーチューバーなどに対して、惜しげもなくお金を使って応援する「ヲタ活」なども、この世代の特徴だと言われています。一方で、「押し」のユーチューバーにスパチャ(投げ銭)するために、親のクレジットカードを勝手に使い、後日多額の請求が来て親子間でトラブルになるケースもあるみたいで、先日の新聞にもそういった話が出ていました。他に、給料が手取り20万円しかないのにスパチャに10万円使っている若いサラリーマンの話も出ていました。「ネットはバカと暇人のもの」と言った人がいましたが、ユーチューバーはもちろんですが、スパチャの30%を手数料として天引きするGoogleにとっても、彼らは実に美味しい存在だと言えるでしょう。

Z世代の彼らは如何にも主体的にネットを駆使しているように見えますが、しかし、一枚めくるとこのような煽られて踊らされる「バカと暇人」の痴呆的な光景が表われるのでした。しかも、彼らが取捨選択している(と思っている)情報も、膨大な個人データの取得(ビッグデータ)でより高度化されたアルゴリズムで処理されたものです。パーソナルターゲティング広告に象徴されるような、あらかじめプロファイリングされて用意された(与えられた)情報にすぎないのです。

番組では、前の世代が自分が興味があるものをネットなどに上げることで自己承認を求めたのに対して、Z世代は最初から「インスタ映え」して自己承認されることが前提の商品(「もの」や「こと」)を求める点が大きく違っていると言っていましたが、デジタル・ネイティブとは、バーチャルな世界にどっぷりと浸かりいいように転がされる、クラウド=AIに依存した人間のことではないのかと思いたくなります。

ナノロボット工学の進化により、「人間の脳をクラウドに接続する日は限りなく近づいている」というSFのような研究論文がアメリカで発表されたそうですが、Z世代の話を聞くと、何だかそれが現実化しつつあるような錯覚さえ抱いてしまうのでした。

しかし、幸か不幸かそれはあくまで錯覚にすぎません。私たちはGoogleが掲げた「Don't be evil」という行動規範や「集合知」「総表現社会」「数学的民主主義」などという言葉を生んだWeb2.0の理想論にずっと騙され、ネット社会に過大な幻想を抱いてきましたが(「Don't be evil」は既にGoogleの行動規範から削除されています)、今回のウクライナ侵攻を見てもわかるとおり、現実は戸惑うほど古色蒼然としたものです。戦争を仕掛ける国家指導者は昔の人間のままです。もちろん、前線で戦う兵士も、戦火の中逃げ惑う国民も、昔の人間のままです。ロシア文学者の亀山郁夫氏が言うように、私たちは依然として、ドフトエフスキーが描いた19世紀の人間像がそのまま通用するような世界に生きているのです。IT技術は、あくまで情報を処理する上での便利なツールにすぎないのです。

Z世代が日常的に接して依存しているネットの情報も、テレビや新聞などの旧メディアから発せられたものばかりです。ネットは、その性格上、セカンドメディアである宿命からは逃れられないのです。インフルエンサーやユーチューバーから発せられる情報も、ネタ元の多くは旧メディアです。商品の紹介はメーカーからの案件が大半です。この社会の本質は何も変わってないのです。

むしろ私は、番組を観ながら、ネットを通した「自己承認欲求」という極めてパーソナルで今どきな心理までもが資本によって外部化されコントロールされるという、現代資本主義のあくなき欲望の肥大化とその在処ありかを考えないわけにはいきませんでした。

そこに見えるのは、あまりに無邪気で能天気で無防備な、飼い馴らされた消費者としての現代の若者の姿です。だから、Z世代が今後の消費形態を変える可能性があるなどと、やたら持ち上げられるのでしょう。

ゲストで出ていた渋谷109のマーケティング部門の担当者も、Z世代の若者たちは如何に個性豊かにネットを利用しているかを得々と説明していましたが、それこそマーケティング業界お得意のプロパガンダと言うべきなのです。

こういった「世代論」は、マーケティング業界の常套句のようなもので、今までも何度も似たような話が繰り返されてきました。

昔は女子高生が流行を作るなどと言ってメディアに情報を売っていた怪しげなマーケティング会社が渋谷や原宿に雨後の筍のようにありました。その怪しげなビジネスも、いつの間にか大資本(東急資本)の看板に付け替えられ、もっともらしく箔づけされていることに隔世の感を覚えましたが、この手の話は眉に唾して聞くのが賢明でしょう。


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2022.05.05 Thu l ネット l top ▲