参議院選挙が公示され、駅前では候補者が揃いのTシャツを着たスタッフを従えて、愛想を振り撒きながら演説をしている光景が日常になっています。

聞くと勇ましい国防の話は多いのですが、もっとも身近で切実な格差社会=貧困の問題はどれも通りいっぺんなものばかりで、候補者がホントに貧困問題の切実性を共有しているかはなはだ疑問です。もとより貧困問題はあまり票になりにくいという側面もあるのかもしれません。

当然ながらどの候補者も物価高の問題には触れてはいますが、それも貧困にあえぐアンダークラスに向けてというより、まだまだ余裕があるミドルクラスの有権者に媚を売るような主張が多いのです。

でも、日本は先進国で最悪の格差社会を有する国です。生活保護の基準以下で生活する人が2000万人もいるような国なのです。

所得から所得税・住民税・社会保険料など租税公課を差し引いた金額が可処分所得ですが、さらに世帯ごとの可処分所得を世帯員数の平方根で割った金額を等価可処分所得と言います。そして、ちょっとややこしいのですが、等価処分所得の中央値の半分に引いたラインが「貧困線」になります。その貧困線に満たない(達しない)世帯員の割合が相対的貧困(率)と呼ばれます。相対的貧困(率)はOECD(経済協力開発機構)で定められた計算式に基づいて算出される国際基準で、そのボーダーラインの可処分所得は2019年で127万円だと言われています。

厚労省が発表した「2019年国民生活基礎調査」によれば、ボーダーラインの可処分所得が127万円未満の国民は、全体の15.4%だそうです。人数で言えば、約1930万人です(上の生活保護基準以下の数値とほぼ一致する)。つまり、日本の相対的貧困率は15.4%で、G7の中ではワースト2位です。

子ども(17歳以下)の相対的貧困率は13.5%、約260万人です。また、ひとり親世帯の相対的貧困率は48.1%、約68.2万世帯です。

日本では、これだけ多くの人たちが可処分所得127万円以下で生活しているのです。127万円を月に直せば10万円ちょっとです。その中から家賃や電気代やガス水道代やNHK受信料!を払い、残りのお金で食費をねん出しているのです。マンションや一戸建ての家を持っているミドルクラスのサラリーマン家庭が口にする「生活が苦しい」とは、まるでレベルが違うのです。

音楽評論家の丸屋九兵衛氏のTwitterを見ていたら、次のようなリンクが貼られていました。


アホな人間は、日本人は何でもすぐ政治のせいにするなどと言って、貧しいのも自己責任であるかのような言い方をするのが常ですが、カナダの大学が言うように、日本の貧困は「世界的にも例の無い、完全な『政策のミス』による」ものなのです。個人の努力が足りないからではないのです(上記のリンクは途中までしか表示されていません。「Twitterで会話をすべて読む」をクリックすると、最後まで表示されます)。

今でも何度もくり返し言っているように、日本には「下」の政党が存在しなことがそもそもの不幸だと言えます。(上か下かを問う)「下」の政治が存在しないのです。

同じ丸屋九兵衛氏は、次のようなツイートにもリンクしていました。


いくら「日本凄い!」と自演乙しようとも、日本がどんどん貧しくなっているのは誰の目にもあきらかです。誰も本気で戦場に行く気もないのに、口先だけの”明日は戦争”ごっこをしている場合ではないのです。

今、必要なのは「下」の政治なのです。フランスでは、「下」の政治を5月革命のDNAを受け継ぐ急進左派とファシストの極右が担っているのですが、日本ではそれが決定的に欠けているのです。

いつものことですが、メディアも政権党を側面から応援するために、格差社会の現実から目を背け”明日は戦争”を煽るばかりです。貧困にあげく人たちは完全に忘れられた存在になっています。彼らの切実な声をすくい上げる政党がないのです。その意味では、今回の参院選も、いい気な人たちのいい気なお祭りのようにしか見えません。
2022.06.29 Wed l 社会・メディア l top ▲
ウクライナ侵攻がロシアの侵略であることは論を俟ちません。そんなのは常識中の常識です。しかし、だからと言って、ロシア糾弾一色に塗り固められた報道が全てかと言えば、もちろん全てではないでしょう。まったく別の側面もあるはずです。

旧西側のメディアが伝えているように、ホントにウクライナが小春日和の下で平和で穏やかな日々を過ごしていた中に、突然、無法者のロシアがやって来て暴力を振るい家の中をメチャクチャにしたというような単純な話なのでしょうか。

2004年のオレンジ革命、2014年のマイダン革命とウクライナは国を二分する騒乱の渦中にありました。その中で、西欧流民主主義を隠れ蓑にしたしたウクライナ民族主義が台頭し、ロシア語話者に対する迫害もエスカレートしていったのでした。ロシアはその間隙を衝いて、ロシア系住民を保護するためという大義名分を掲げてクリミア半島に侵攻し併合したのです。

それは、ソビエト連邦やソ連崩壊時の独立国家共同体の理念を借用した行為であるとともに、国民向けには大ロシア主義=ロシア帝国再興の夢を振り撒く行為でもありました。

ただ、当時のウクライナは文字通り内憂外患の状態にあり、政治は腐敗しマフィアが跋扈し常に暴力が蔓延しており、欧州でいちばん貧しく遅れた国と言われていたのです。今回の侵攻で英雄視されているアゾフ大隊もそんな中で登場したネオナチの民兵組織で、国内の少数民族や社会主義者や労働運動家や性的マイノリティやロシア語話者に対する弾圧の先頭に立っていたのです。

でも、ロシアによるウクライナ侵攻によって、そういったウクライナのイメージはどこかに行ってしまったのでした。

欧米から供与された武器が闇市場に流れているのではないかという指摘もありますが、まったく荒唐無稽な話とは思えません。

今日、Yahoo!ニュースには次のような記事も出ていました。

Yahoo!ニュース
AFPBB News
ウクライナ侵攻で薬物製造拡大の恐れ 国連

国連薬物犯罪事務所(UNODC)は、薬物に関する年次報告書で、ロシアによるウクライナ侵攻で、ウクライナ国内の「違法薬物の製造が拡大する恐れがあると警告した」そうです。

 年報によると、ウクライナで撤去されたアンフェタミン製造拠点の数は2019年の17か所から20年には79か所に増加した。20年に摘発された拠点数としては世界最多だった。

 侵攻が続けば、同国における合成麻薬の製造能力は拡大する可能性があるとしている。

 UNODCの専門家アンジェラ・メー(Angela Me)氏はAFPに対し、紛争地帯では「警察が見回ったり、製造拠点を摘発したりすることがなくなる」と説明した。
(上記記事より)


これなども、今まで私たちが抱いている「可哀そうなウクライナ」のイメージが覆される記事と言っていいかもしれません。

俄かに信じ難い話ですが、ゼレンスキー大統領が国民総動員体制を敷いて、最後の一人まで戦えと鼓舞している傍らで、「合成麻薬の製造能力が拡大する可能性がある」と言うのです。しかも、それを国連が警告しているのです。

日本のメディアの「可哀そうなウクライナ」一色の報道に日々接していると、文字通り脳天を撃ち抜かれたような気持になる記事ではないでしょうか。それともこれも陰謀論だと一蹴するのでしょうか。

また、『紙の爆弾』(7月号)には、こんな記事がありました。

ウクライナから避難民とともに日本に入国したペットについて、「農林水産省は入国に際し、180日間の隔離などの狂犬病の動物検疫を免除する特例を認めた」そうです。どうしてかと言えば、避難民が動物検疫所係留の管理費用を払うことができず、費用負担できなければ「殺処分になる」というメールを検疫所から受け取ったことに端を発して(でも、実際にはそういったメールは送信されてなかった)、テレビや超党派の動物愛護議員連盟が費用免除を訴えたからです。それで、農水省が「人道への配慮」により検疫免除の特例を認めたのでした。

しかし、ウクライナは、「毎年約1600件の狂犬病の症例が報告され」「狂犬病が動物と人間の間で広まっている欧州唯一の国」なのです。そのため、農水省の決定に対して、専門家の間から狂犬病のリスクを持ち込む「善意の暴走」という批判が起きているそうです。もっとも、記事によれば、動物検疫所に係留されているのは、犬5匹と猫2匹にすぎないそうです。

言葉は悪いですが、これもウクライナの”後進性”を示す一例と言えるでしょう。と同時に、「可哀そうなウクライナ」の感情だけが先走る日本人の薄っぺらなヒューマニズムを示す好例とも言えるかもしれません。

でも、そう言いながら、日本が受け入れている避難民は、今月の24日現在で1040人にすぎません。大騒ぎしているわりには、受け入れている避難民はきわめて少ないのです。善意のポーズだけなのです。

ウクライナ侵攻に反対を表明しているあるロシア人ユーチューバーは、最近、侵攻以来届いていた「クソリブ」がほどんど届かなくなり、それはそれで逆に悲しいことでもあると言っていました。どうしてかと言えば、「クソリブ」が届かなくなったのは日本人の間でウクライナ侵攻に対する関心が薄れてきたことを示しているからだと。熱しやすく醒めやすい日本人の性格をよく表した話だと思いました。

私たちは今回の戦争について、はたしてどれだけ知っているのでしょうか。というか、どれだけ知らされているのか。「可哀そう」の感情だけでなく、もっといろんな角度から知る必要があるでしょう。そして、ゼレンスキーのプロパガンダに抗して、「戦争で死ぬな」と言い続ける必要があるのです。
2022.06.27 Mon l ウクライナ侵攻 l top ▲
いわゆる侮辱罪を厳罰化する刑法改正が先の国会で成立しました。今回の改正は、フジテレビの「テラスハウス」に出演していた女子プロレスラーの木村花さんがネット上の誹謗中傷が原因で自殺したことが直接のきっかけでした。改正案でも「ネット上の誹謗中傷を抑止するため」と説明されています。

今までの侮辱罪の法定刑は、拘留30日未満、もしくは科料1万円未満でしたが、改正により1年以下の懲役または禁錮、もしくは30万円以下の罰金に強化され、時効も1年から3年に延長されました。つまり、拘留ではなく懲役刑が科せられることになったのです。

刑法には別に名誉棄損罪があります。名誉棄損と侮辱はどう違うのか、それも曖昧なままです。ただ、侮辱罪の方が名誉棄損罪に比べてハードルが低いのはたしかでしょう。

リテラでも、侮辱罪のハードルの低さを次のように指摘していました。

リテラ
「侮辱罪の刑罰強化」の目的は政権批判封じ=ロシア化だ! 自民党PT座長の三原じゅん子は「政治家にも口汚い言葉は許されない」

 そもそも、名誉毀損罪は公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した場合に成立するが、例外規定として、公共の利害にかんする内容かつ公益を図る目的があり、その内容が真実であれば罰せられない。また、真実だと信じてもやむをえない状況や理由、つまり「真実相当性」があれば悪意はないとして違法性は阻却されることになっている。一方、侮辱罪は事実を摘示しなくても公然と人を侮辱した場合に成立し、名誉毀損罪のような例外規定がない。何をもって「侮辱」とするかは極めて曖昧だ。
(同上)


そのため、三原じゅん子議員のような「政治家への言論を規制したいという目論見に対し、何の歯止めもなされていない」(同上)のが実情です。「侮辱罪の厳罰化をめぐる法制審議会の審議でも『政治批判など公益のための言論なら罰されない』という意見が出されているが、しかし、公益性があるかどうかを判断するのは権力側の捜査当局」(同上)なのです。要は権力の胸三寸なのです。

2019年の前回の参院選の際、北海道の札幌で、街頭演説していた安倍晋三首相(当時)に対して、男性が「安倍辞めろ」「帰れ」とヤジると北海道警の警察官がやって来て強制的に排除され、さらに別の男性が「増税反対」と訴えると、同じように移動するように求められ、演説が終わるまで警察官に付きまとわれたという事件がありましたが(のちの裁判で札幌地裁は、北海道警の行為は「表現の自由」を侵害するもので違法と認定)、これからはそういった行為も、告訴されれば侮辱罪として摘発される可能性がないとは言えないでしょう。

もっとも、当局のいちばんの狙いは、摘発より抑止効果だという指摘があります。厳罰化によって、政治家や著名人や有名企業に対する批判(悪口)を委縮させ封じ込める効果を狙っていると言うのです。

リテラも次のように書いていました。

そもそも、世界的には侮辱罪や名誉毀損罪は非犯罪化の流れにあり、当事者間の民事訴訟で解決をめざす動きになっている。国連自由権規約委員会も2011年に名誉毀損や侮辱などを犯罪対象から外すことを提起、「刑法の適用は最も重大な事件に限り容認されるべきで拘禁刑は適切ではない」としている。ところが、今回の侮辱罪厳罰化は世界の流れに逆行するだけでなく、もっとも懸念すべき権力者への批判封じ込めに濫用されかねないシロモノになっているのである。


また、言論法やジャーナリズム研究が専門の山田健太専修大学教授も、「琉球新報掲載のメディア時評のなかで、こう警鐘を鳴らしている」そうです。 

〈日本では、政治家や大企業からの記者・報道機関に対する「威嚇」を目的とした訴訟提起も少なくない。いわば、政治家が目の前で土下座させることを求めるかのような恫喝訴訟が起きやすい体質がある国ということだ。そうしたところで、より刑事事件化しやすい、あるいは重罰化される状況が生まれれば、間違いなく訴訟ハードルを下げる効果を生むだろう。それは結果的に、大きな言論への脅威となる。〉
(同上)


しかし、侮辱罪の厳罰化に便乗しているのは与党の政治家や有名企業だけではありません。野党の政治家や、あるいはリベラル系と言われるジャーナリストやブロガーなども同じです。彼らにも、自分たちに向けられた批判(悪口)に対して、すぐ訴訟をチラつかせるような姿勢が目立ちます。しかも、無名の市民のどうでもいいようなSNSの書き込みに対して過剰に反応しているケースも少なくないのです。そこには、「自由な言論」(竹中労)に対する一片のデリカシーもないかのようです。彼らは、所詮権力と利害を共有する”なんちゃって野党”にすぎないことをみずから白状しているのです。

参院選が近づくにつれ、立憲民主党界隈からのれいわ新選組に対する攻撃もエスカレートする一方です。国会の対ロシア非難決議に、れいわ新選組が唯一反対したことを根拠に、何だか主敵は自公政権よりれいわ新選組と考えているのではないかと思えるくらい、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い式にエスカレートしているのでした。大石あきこ議員の(岸田総理は)「資本家の犬」「財務省の犬」という発言も、彼らにはヤユしたり嘲笑したりする対象でしかないのです。彼らは、この国の総理大臣が「資本家の犬」「財務省の犬」だとは寸分も思ってないのでしょう。

戦争中の鬼畜米英と同じで、ロシア非難の翼賛的な決議に同調しないれいわ新選組はまるで「非国民」のような扱いです。特に、ゴリゴリの左派系議員の憎悪をむき出したような発言を見るにつけ、三つ子の魂百までではないですが、衣の下からスターリン主義の鎧が覗いたみたいでおぞましささえ覚えるほどです。ここでも左派特有の”敵の敵は味方論”が顔を覗かせているのでした。

ブルーリボンのバッチを胸に付け、「ミサイル防衛・迎撃能力向上」「ハイブリッド戦への対応」の「強化」など、「防衛体制の整備」(立憲民主党参院選2022特設サイトより)を訴える野党第一党の党首。今までの対決姿勢から政策提案型へ路線変更したことで、先の国会では内閣が提出した法案61本が全て可決・成立し、国内外の難題が山積しているにもかかわらず、国会は惰眠を貪るような牧歌的な光景に一変したのでした。

先日行われた杉並区長選挙では、市民団体が擁立した野党統一候補が4選を目指した現職に競り勝ちましたが、参議院選挙では連合からの横槍が入ったこともあり野党共闘にはきわめて消極的で、一人区で候補者を一本化できたのは半分にも満たないあり様です。そのため、杉並区長選の”追い風”を生かすこともできないのでした。そもそも生かすつもりもないのでしょう。

参院選を前にして、自民党を勝たせるためだけに存在する旧民主党のずっこけぶりはまったく見事としか言いようがありません。傍から見ると、敗北主義の極みみたいですが、でも、当人たちは危機感の欠片もなく”敵の敵”に塩を送りつづけているのでした。

れいわ新選組の対ロシア非難決議反対については、下記のような評価があることも私たちは知る必要があるでしょう。

JAcom
「れいわ」の見識をロシア非難に見る【森島 賢・正義派の農政論】

全体主義への道を掃き清めているのは誰なのか。何度も言うように、私たちは、”左派的なもの”や”リベラル風なもの”をまず疑わなければならないのです。


※タイトルを変更しました。
2022.06.22 Wed l 社会・メディア l top ▲
AFPの記事によれば、NATOのイエンス・ストルテンベルグ事務総長が、ウクライナ侵攻は今後数年続く可能性があると述べたそうですが、たしかに和平交渉が完全にとん挫している今の状況を考えると、その言葉に首肯せざるを得ません。と同時に、戦う前から戦意喪失しているロシア軍は早晩敗退するだろうと言っていた、当初のメディアの報道は何だったんだと思わざるを得ません。言うまでもなく、持久戦になれば、悲劇はその分増すことになるのです。

経済制裁でロシアが苦境に陥っていると言われていますが、しかし、日本の異常な円安と物価高、アメリカのインフレと大幅な利上げに伴うNYダウの暴落などを見ていると、むしろ苦境に陥っているのは反ロシアの側ではないのかと思ってしまいます。

アメリカ(FRB)がNYダウの暴落を覚悟で大幅な利上げに踏み切ったのも、ドル崩壊を阻止するためでしょう。そこに映し出されているのは、超大国の座から転落するアメリカのなりふり構わぬ姿です。そして、何度も何度もくり返しくり返し言っているように、世界は間違いなく多極化するのです。ウクライナ侵攻もその脈略で捉えるべきで、手前味噌になりますが、このブログでも2008年のリーマンショックの際、既に下記のような記事を書いています。

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世界史的転換

少なくとも資源大国であるロシアや「世界の工場」から「世界の消費大国」と呼ばれるようになった中国を敵にまわすと、世界が無傷で済むはずがないのは当然でしょう。それが、どっちが勝つかとか、どっちが正しいかというような単純な話では解釈できない世界の現実なのです。

今回のウクライナ侵攻のおさらいになりますが、元TBSのディレクターでジャーナリストの田中良紹氏は、『紙の爆弾』(7月号)で、アメリカの世界戦略について次のように書いていました。

  米国の世界戦略は、世界最大の大陸ユーラシアを米国が支配することから成り立つ。米国はユーラシアを欧州・中東・アジアの三つに分け、欧州ではNATOを使ってロシアを抑え、アジアでは中国を日本に抑えさせ、そして中東は自らがコントロールする。
(「ウクライナ戦争勃発の真相」)


しかし、アフガン撤退に象徴されるように、アメリカは中東(イスラム世界)では既に覇権を失っています。アジアの「中国を日本に抑えさせ」るという戦略も、ここぞとばかりに防衛費の大幅な増額を主張し軍事大国化を夢見る(「愛国」と「売国」が逆さまになった)対米従属「愛国」主義の政治家たちの思惑とは裏腹に、その実効性はきわめて怪しく頼りないものです。と言うか、中国を日本に抑えさせるという発想自体が誇大妄想のようなもので、最初から破綻していると言わねばならないでしょう。

今回のウクライナ侵攻にしても、ロシアを「抑える」というバイデンの目論みは完全に外れ、アメリカは経済的に大きな痛手を受けはじめているのでした。それに伴い、バイデン政権が死に体になり民主党が政権を失うのも、もはや既定路線になっているかのようです。

  ウクライナ戦争はバイデンにとって、アフガン撤退の悪い記憶を消し、インフレを戦争のせいにできる一方、米国の軍需産業を喜ばせ、さらに厳しい経済制裁でロシア産原油を欧州諸国に禁輸させれば、米国のエネルギー業界も潤すことができる。そうなればバイデンは、秋の中間選挙を有利にすることができる。
(略)
しかしバイデンの支持率は戦争が始まっても上向かない。米国民は戦争より物価高に関心があり、バイデン政権の無策にしびれを切らしている。
(同上)


これが超大国の座から転落する姿なのです。ソ連崩壊によりアメリカは唯一の超大国として君臨し、「世界の警察官」の名のもと世界中に軍隊を派遣して、「悪の枢軸」相手に限定戦争を主導してきたのですが、ソ連崩壊から30年経ち、今度は自分がソ連と同じ運命を辿ることになったのです。今まさに世界史の書き換えがはじまっているのです。

(略)ロシアに対する経済制裁に参加した国は、国連加盟国一九三ヵ国の四分の一に満たない四七ヵ国と台湾だけだ。アフリカや中東は一ヵ国もない。米国が主導した国連の人権理事会からロシアを追放する採決結果を見ても、賛成した国は九三ヶ国と半数に満たなかった。
米国に従う国はG7を中心とする先進諸国で、BRICS(ブラジル・ロシア・インド・中国・南アフリカ)を中心とする新興諸国はバイデンの方針に賛同していない。このようにウクライナ戦争は世界が先進国と新興国の二つに分断されている現実を浮木彫りにした。ロシアを弱体化させようとしたことが米国の影響力の衰えを印象づけることにもなったのである。
(同上)


最新のニュースによれば、フランス総選挙でマクロン大統領が率いる与党連合が過半数の289議席を大幅に割り込む歴史的な大敗を喫したそうです。

その結果、急進左派の「不服従のフランス」のメランションが主導する「左派連合」が141議席前後に伸ばし、野党第1党に躍り出る見通しだということでした。また、極右のルペンが率いる「国民連合」も前回の10倍以上となる90議席を獲得したそうです。

もちろん、この結果には、今までもくり返し言っているように、右か左かではない上か下かの政治を求める人々の声が反映されていると言えますが、それだけでなく、ウクライナ一辺倒、アメリカ追随のマクロン政権に対する批判も含まれているように思います。

極右の台頭はフランスだけではありません。来春行われるイタリア総選挙でも、世論調査では極右の「イタリアの同胞」がトップを走っており、今月イタリア各地で行われた地方選挙でも「右派連合」が主要都市で勝利をおさめており、ムッソリーニ政権以来?の極右主導の政権が現実味を帯びているのでした。

このように、ウクライナ侵攻が旧西側諸国に経済的にも政治的にも暗い影を落としつつあるのです。

一方、次のような記事もありました。

Yahoo!ニュース
共同
ロシア軍、命令拒否や対立続出 英国防省の戦況分析

Yahoo!ニュース
讀賣新聞
ゼレンスキー氏、南部オデーサ州訪問…英国防省「ウクライナ軍が兵士脱走に苦しんでいる可能性」

どうやらロシア軍だけでなく、ウクライナ軍にも兵士の脱走が起きているようですが、ホントに「戦争反対」「ウクライナを救え」と言うのなら、ウクライナ・ロシアを問わずこういった「厭戦気分」と連帯することが肝要でしょう。しかし、日本のメディアをおおっている戦争報道や、メディアに煽られた世論は、そんな発想とは無縁に、最後の一人まで戦えというゼレンスキーの玉砕戦を無定見に応援しているだけです。「戦争で死ぬな」とは誰も言わないのです。まるで金網デスマッチを見ている観客のように、ただ「やれっ、やれっ」「もっとやれっ」と観客席から声援を送っているだけです。そんなものは反戦でも平和を希求する声でも何でもないのです。


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2022.06.20 Mon l ウクライナ侵攻 l top ▲
去年の秋までスマホは二台続けてHUAWEIを使っていました。いづれも3年くらい使ったと思います。

しかし、二台目は何故か地面に落とすことが多くて、画面にかなり傷がついてしまいました。とは言え、使うのに支障をきたすほどではなかったのですが、去年の秋にふと思い付いて新しいスマホに買い替えることにしました。

新しく買ったのは、某国産メーカーのXというミドルレンジの機種で、今まで使っていたHUAWEIと比べると3倍くらい高いスマホです。

しかし、半年以上使ってみて、HUAWEIからXに替えたことを後悔しています。これだったら、HUAWEIの画面を修理して、ついでにバッテリーも新しく交換した方がよかったような気さえします。あるいは、最近、HUAWEIの代わりにハイスペックな割りに低価格なOPPOというメーカーのスマホが出ていますが、それでもよかったように思います。

そう言うと、ネトウヨまがいな連中から、個人情報を中国共産党に流されていいのかというお決まりな”反論”が返って来るのが常です。しかし、別に中国共産党でなくても、個人情報はGoogleにいいようにぬかれています。そして、スノーデンの話では、その個人情報をアメリカ国家安全保障局 (NSA)が勝手に覗いているのです。スマホを使っている限り、そこでやりとりされる個人情報は裸も同然なのです。そんなのは常識中の常識でしょう。

「ニッポン凄い!」の自演乙をいつまで続けていても、このように現実はどんどん先に、ニッポンがそんなに凄いわけではない方向に進んでいるのでした。日本のメディアは、「日本的ものづくりの大切さ」みたいな物語を捏造して、どうみてもお先真っ暗のような町工場の未来をさも希望があるかのように描くのが好きですが、でも、私たちの前にあるのは容赦ない、誤魔化しようのない現実です。

「中華製」というのは、中国製品をバカにする言葉ですが、いつの間にかバカにできない「中華製」の商品が私たちの前に溢れるようになっているのでした。日本人の多くは、未だ「中華製」は所詮コピーにすぎないと「格下」に見るような偏見に囚われていますが、しかし、私にはそれは負け惜しみのようにしか思えません。もとより技術移転というのはそんなものでしょう。日本製品だって昔はモノマネと言われていたのです。とりわけIT技術で管理された現代の工業製品の世界では、キャッチアップする速度も昔とは比べものにならないくらい速くなっているのです。もちろん、よく言われるようにイノベーション能力がこれからの中国の大きな課題ですが、少なくとも中国が安価でハイスペックな商品を造る段階まで達したのはたしかでしょう。

ひるがえって考えれば、そこに、いつまでも過去の栄光にすがり、武士は食わねど高楊枝で「ニッポン凄い!」を自演乙している日本人及び日本社会の問題点が浮かび上がってくるのでした。

外資系大手のカナディアン・ソーラー・ジャパンの社長である山本豊氏は、朝日のインタビュー記事で、「外資系企業で長く働いた経験から、日本メーカーに共通する弱点」を次のように指摘していました。

朝日新聞デジタル
存在感失った日本メーカー 外資系社長が語る「圧倒的に劣る3点」

  「日本メーカーは、日本流の品質管理、日本流の生産計画が一番いいという『神話』で動いている。アジアの拠点に日本からマネジメント層を送り込み、日本流のやり方でやるんだ、アジアの人は安い労働力として使うんだという、そういう上から目線。それではなかなかうまくいかない。客観的に見ると、日本の製造業は生産計画、品質管理、すべての面でかなり遅れている。データの取り方、使い方が昭和のやり方のまま。こと量産でコストを落とすことの真剣さは完全に中国に負けている」


ここで言う「神話」こそが「ニッポン凄い!」という自演乙にほかなりません。経済(名目GDP)成長率も先進国で最低であるにもかかわらず、急激な円安と物価高に見舞われている日本が、これから益々経済的に衰退して貧しくなっていくのは誰が見ても明らかでしょう。でも、日本のメディアは、インバウンドで日本経済が復活するかのような幻想をふりまいています。前も書きましたが、外国人観光客が日本に来るのは、日本が安い国だからです。安い国ニッポンを消費するためにやって来るのです。ただそれだけのことなのに、そこに日本再生のカギがあるかのように牽強付会するのでした。

一方で、中国のゼロコロナ政策を嘲笑うような報道も目立ちますが、私は逆に、ゼロコロナ政策に中国経済の”余裕”すら感じました。もちろん、一党独裁国家だから可能なのですが、もし日本だったらと考えても、あんなに徹底的に都市封鎖して経済活動を完全に止めることなどとてもできないでしょう。

案の定、日本は、弱毒化したとは言え、新規感染者がまだ毎日1万人以上出ているにもかかわらず、経済活動を再開しなければ国が終わるとでも言わんばかりに、昨日までの感染防止策もほとんど有名無実化するほど焦りまくっているのでした。マスクにしても、感染が落ち着いたのにどうして日本人はマスクを外さないのかと、まるでまだマスクをしているのはアホだとでも言いたげな新聞記事まで出るあり様です。しかし、そんな手のひら返しをした末に打ち出された経済活動再開の目玉が、日本のバーゲンセールとも言うべきインバウンドなのです。もうそれしかないのかと思ってしまいます。この前まで人流抑制とか言っていたのに、一転して人流頼みなのです。

もっとも、そのインバウンドにしても、コロナ前の2019年度の訪日外国人観光客31,882,049人のうち、実に33%が中国からの観光客です。欧米の中でいちばん多いアメリカ人でさえ5%にすぎません。しかも、中国人観光客の個人消費額は欧米人の約5倍で、人数だけでなく落とすお金においても中国頼りなのです。中国から観光客がやって来ない限り、インバウンドの本格的な経済効果も見込めないのが現実なのです。

1千万人単位の国民に対していっせいに無料のPCR検査を行なう中国の凄さにも驚きましたが、その上海の街の様子や検査の行列に並ぶ市民の恰好などを見て感じるのは、日本以上に洗練された豊かな都市の光景です。一党独裁国家だからという理由だけでは説明がつかない、中国の底力を見せられた気がしました。

HUAWEIがあれだけ叩かれたのも、アメリカにとってHUAWEIが脅威だったからでしょう。個人情報云々は建前で、5GのインフラをHUAWEIに握られるのを何より怖れたからでしょう。

『週刊エコノミスト』の今週号(6/21号)に掲載されていた「ウクライナ危機の深層」と題する記事で、執筆者の滝澤伯文(たきざわおさふみ)氏は、ウクライナ侵攻をきっかけに今後、世界の「軸」はアジアに移ると書いていました。もちろん、それは中国が世界の「軸」になるという意味です。

アメリカがウクライナを支援する背景には「経済利権」維持の狙いがあり、バイデン政権の中枢やその周辺には、「経済・軍事における米国の覇権を死守し、基軸通貨ドルを維持したい『最強硬派』と、米国は総体的な優位を維持しながら、中国との共存もやむなしと考える『多極主義者』」が存在し対立しているそうです。

  米国の政権中枢部は、中国とも協調すべきとする多極主義者たちのほうが多数派であり、仏独など大陸欧州も同様だ。国内総生産(GDP)で中国に抜かれても、米欧の優位性はまだしばらく続くという考え方だ。
  とはいえ、資本主義経済の優劣は人口が決め手になる。すなわち、経済では中国が勝者となり、白人優位が終わり、清王朝の最盛期だった18世紀前半以来世界の軸が300年ぶりに欧米からアジアにシフトする。究極的には、これを容認するかしないかが最強硬派多極主義者の違いだ。両者の暗闘の帰越はウクライナでの戦況さえ左右しかねない。
(『週刊エコノミスト』6/21号・「ウクライナ危機の深層」)


アメリカの尻馬に乗って核武装を唱え対抗意識を燃やす前に、まず日本人がやらなけばならないのは、好きか嫌いかではなく、虚心坦懐に現実を見ることでしょう。そうしないと、アジアの盟主として、世界を分割する覇権国家として、再び世界史の中心にその姿を現わした中国にホントの意味で対抗などできないでしょう。いつまでも現実から目をそむけて、負け犬の遠吠えみたいことを続けていても仕方ないのです。


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2022.06.17 Fri l 社会・メディア l top ▲
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武蔵小杉駅~渋谷駅~池袋駅~飯能駅~東吾野駅駅~【ユガテ】~【スカリ山】~【北向地蔵】~鎌北湖~毛呂駅~高麗川駅~昭島駅~立川駅~武蔵小杉駅

※山行時間:約5時間(休憩等含む)
※山行距離:約5.5キロ
※累計標高差:登り約496m 下り約455m
※山行歩数:約16,000歩
※交通費:2,828円



一昨日、埼玉(奥武蔵)の山に行きました。1年3ヶ月ぶりの山行です。

このところ長雨が続いており、予定が立てづらかったのですが、一昨日は朝から曇り空で雨が降るのは夜という予報でしたので、急遽、予定を立てて行くことにしました。

膝はまだ多少の痛みは残っています。そのため、どうしても痛い方の足をかばうところがあります。ただ、最初の頃と比べると「劇的」と言ってもいいほど改善しました。

病院も2月で終わりました。水も溜まらなくなったので、「これでいいでしょう」「あとは膝まわりをストレッチして下さい」とドクターから言われて、治療は終了になったのでした。

ドクターの見立ては「オーバーユース」でした。変形膝関節症もそんなに進行していないと言われました。ただ、私の場合、身体が大きくてその分体重も重いので、治りも遅れがちで、「ほかの人に比べて不利なんですよ」と言われました。

とは言え、自分では未だに湿布薬とサポーターは欠かせません。病院との縁が切れたので、湿布薬は薬局で買っています。

昨日は、湿布薬を貼って、頑丈なサポーターでガードして出かけました。サポーターを締めすぎたため、太腿の血流が悪くなり、痺れが出た以外は、そんなに痛みはありませんでした。ストック(トレッキングポール)を使いましたが、特別に痛みが増したということもありませんでした。

当然のことですが、体力は元に戻っています。また一からやり直すしかないのです。それを考えれば気が重いのですが、山に行きたい気持は募るばかりなので、自分を奮い立たせて出かけたのでした。

今回行ったのは、前に二度歩いたことのある西武秩父線の東吾野(ひがしあがの)駅と峠を越えた先にある鎌北湖の間のトレッキングコースです。よく知っている道なら、万一膝が痛くなってもエスケープすることができるだろうと考えたからでした。

早朝5時すぎの東急東横線に乗り、そのまま地下鉄副都心線で池袋駅まで行って、池袋から西武池袋線の飯能行きの特急ラビューに乗りました。飯能駅に着いたのが7時すぎでしたが、線路をはさんだ反対側にあるホームには、既に3分後に発車する秩父行きの電車が停まっていました。エスカレーターを急ぎ足で登り、電車に駆け込むと電車はすぐに発車しました。

余談ですが、特急ラビューは世界的な建築家・妹島和世氏がデザインした車両です。自宅のすぐ近所には、(このブログでも前に書きましたが)妹島氏がデザインした住宅があり、できた当初は建築家の卵とおぼしき学生たちがカメラを持ってよく見学に来ていました。また、お父さんが医者をしていた隈研吾氏の実家も近くにありました。その縁で、近所の寺院の庫裡の建て替えや境内の整備に、「子どもの頃遊び場だった」という隈研吾氏が担当したプロジェクトもはじまっています。

西武秩父線の東吾野駅に着いたのは7時半すぎでした。降りたのは私ひとりでした。

池袋駅で特急電車を待っていたら、秩父方面から到着した電車の車体が雨で濡れていたので、もしかしたら雨が降っているのかもしれないと思い不安になりました。私は”予備がないと不安症候群”なので、スマホには”お天気アプリ”をふたつ入れています。それを見ると、ひとつは曇りなのですがもうひとつは雨の予報です。もし雨だったら秩父まで行って、温泉にでも入って帰ろうと思いました。

しかし、東吾野駅に着いたら雨は上がっていました。雨は上がったばかりみたいで、駅前のベンチは座ることができないほどまだ濡れていました。

飯能から秩父までは谷底の川沿いを国道299号線が走っているのですが、秩父線はそれを見下ろす高台を走っており、国道に出るにはどこの駅からも坂道を下らなければなりません。

通勤時間帯にもかかわらず人気のない駅前の広場で準備をして、坂道を下り、交番の前を通って国道を少し進むと、吾野神社の階段が見えてきます。今回歩く登山道は社殿の横にあります。

この登山道は「飛脚道」と呼ばれています。江戸時代、飛脚の緊急用の裏道だったそうです。その道を現代の私たちは、重いザックを背負い登山靴を履いて歩いているのです。

3年ぶりですが、道案内の指導標も新しくなり、しかも、日本語の下に英語でも行先が書かれていました。前にも書いたことがありますが、都内から近いということもあって、このあたりのトレッキングコースは外国人が非常に多いのです。実際に歩いていると、必ずと言っていいほど外国人とすれ違います。昨日も、峠の途中にあるユガテという集落で休憩していたら、若い白人の女性二人組が英語でキャーキャーお喋りしながら通り過ぎて行きました。

前に峠の茶屋のご主人が、外国人のハイカーが多いので、週末はイギリスへの留学経験がある知り合いの女の子にアルバイトに来てもらっている、と話していたのを思い出しました。

平日のしかも梅雨の合間なので、山中で遭う人は少なくて6~7人くらいしかいませんでした。外国人の女性以外はみんな中高年のハイカーでした。

雨が上がったばかりなので、周辺の草木はまだ濡れており、地面もぬかるんでいます。そのため、靴やスボンの裾も泥ですぐ汚れてしまいました。それに、岩や木の枝にうっかり足を乗せると滑ってしまいます。私も急登を下っている際に濡れた木の枝に足を乗せてしまい尻もちをつきました。

今回のルートは、途中に小さな山が点在しているのが特徴で、ユガテに行く途中にも、橋本山という山があって、そこに差し掛かると「男坂」と「女坂」の案内板が立っていました。私は今までは「女坂」を歩き橋本山をスルーしていたのですが、今回は「男坂」から橋本山を登ってみることにしました。

この「男坂」「女坂」という表示は山の「あるある」で、身近でも高尾山や御岳山や大山や伊豆ヶ岳や武川岳などにあります。「男坂」は直登して山頂に至るコース、「女坂」は山頂を巻く(あるいは巻いて山頂に至る)コースの意味で、「男坂」はきつい道、「女坂」はゆるやかな道を示しているのです。

しかし、今のジェンダーレスの時代に、こういった表現に違和感を抱く人もいるでしょうし、時代にそぐわないという声が出てもおかしくないでしょう。「男坂」「女坂」には、男=きつい=逞しい、女=楽=ひ弱という固定観念が間違いなくあるのでした。

山は男のもんだよ、女が山に来るのは迷惑だみたいに嘯くおっさんが山に多いのは事実ですが(そういうおっさんたちに限って熊鈴がうるさいとかアホなことを言う)、そういうおっさんたちもあと10年もすれば山から姿を消すでしょう。そんなアナクロなおっさんたちが牽引してきた”山の文化”がこれから大きく変わるのは間違いありません。

だからと言って、何度も書いているように、アナクロなおっさんに引率され武蔵五日市駅や秦野駅のバス停に蝟集する、おまかせ登山のおばさんたちの振舞いが、ジェンダーレスとはまったく異なる次元の問題であることは言うまでもありません。一方で、女性登山家が”登山界”で「名誉男性」のような扱いを受けることにも違和感を覚えてなりません。

前に人流の「8割削減」を受けて登山の自粛を呼びかけた日本山岳会の愚行を批判しましたが、そもそも昔取った杵柄のようなおっさんたちが牛耳る日本山岳会の”歪さ”も考えないわけにはいきません。それこそ「男坂」「女坂」の象徴のような組織と言えるでしょう。「山の日」ってなんだよ、国立公園と言いながら、登山道の整備も民間のボランティア任せのようなおざなりな現実を見れば、もっと他にやるべきことがあるだろう、と言いたいのです。

橋本山の「男坂」はたしかにきつかったですが、ただ距離か短かったのでそれほどつらく感じませんでした。小さな山なので、山頂と言ってもそれほど広いスペースがあるわけではなく、ただの見晴らしのいい場所という感じでした。昔、埼玉に住んでいたとき、この山域にもしょっちゅう来ていて、林道に車を止めて見晴らしのいい場所までよく登っていましたが、橋本山も前に来たような錯覚を覚えました。

ユガテで休憩したあと、エビガ坂というチェックポイントまで行き、エビガ坂の分岐からは今まで歩いたことのないルートに歩を進めました。同じ鎌北湖に下りるのに、少し迂回して下りようと思ったのでした。

しばらく進むと、今回のメインであるスカリ山がありました。スカリ山は標高434メートルの低山で、このルートにある小さな山のひとつにすぎないのですが、スカリ山が注目されたのは伐採されて眺望がよくなってからで、それまでは誰からも見向きもされない「不遇の山」だったそうです。従来のハイキングルートはスカリ山を巻く(スルーする)ように設定されていたため、道標もなく、道も整備されておらず、道迷いも発生していたのだとか。特に、今回登った西側からは急登がつづき、ミッツドッケの山頂への直登ルートによく似ていました。きつさもミッツドッケの山頂に匹敵すると言ってもオーバーではないくらいでした。

岩と石がむき出しになった急登を登ったら、まったく眺望のないスペースに出ました。あれっと思ってスマホでルートを確認すると山頂はまだ先の方でした。でも、先は急な下りになっています。「エッ、これを下るのかよ」と思っていたら、60代くらいの女性がひとりで登って来ました。

「ここが山頂ではないんですよね?」
「そうみたいですね。私も初めてなんですがスマホで見るともっと先ですね」と言ってました。そして、そのまま急坂を下って行きました。

地面が濡れているので、身体を横向きにして慎重に下らなければならず神経を使いました。小さなコルに下りると、また見上げるような急登が目の前に現れました。足が全然進まず筋力が落ちていることを嫌というほど思い知らされました。ヒーヒー息が上がり、頭から玉のような汗が滴り落ちています。でも、一方で、そんな自分がちょっと嬉しくもありました。そうやって再びひとりで山に登る喜びを実感しているのでした。

山頂の手前の木の枝に「スカリ山」という小さな札が下げられていました。まだ人にあまり知られてない頃の名残りなのでしょう。その札を過ぎると突然、開けた場所に出ました。スカリ山の山頂でした。

「いやあ、これは凄いな」と思わず声が出ました。想像だにしなかった眺望が北側に広がっていました。小さなベンチが四つ山頂を囲うようにありました。眺望を見渡せるベンチに、夫婦とおぼしき60代くらいの男女のハイカーが座っておにぎりを食べていました。その横のベンチには、手前のスペースで会った女性が座っていました。女性は私の方に振り返ると、「お疲れ様でした」と言いました。そして、帰り支度をはじめ、「どうぞ、ここに座って下さい」と言いました。私は、「いいですよ。こっちに座りますので。ゆっくりして下さい」と言いましたが、女性はそのままザックを背負うと「お先に失礼します」と言って、登って来た道と反対側の道を下って行ったのでした。

反対側の道もかなりの急登で、私はそこで尻もちをついたのですが、ただ、距離は短くてそれほど時間もかからず林道に出ました。反対側からだと林道に車を停めれば、急登ではあるものの短時間で登ることができます。私が昔よくやっていたスタイルなので、もしかしたらここも来たことがあるかもしれないと思ったりしました。

スカリ山の標高434メートルは私の田舎より低いのですが、山頂からは毛呂山町や坂戸市の街並みだけでなく、遠くに長沢背稜から延びる蕎麦粒山や日向沢ノ峰(ひなたざわのうら)などの山々や群馬の山も見渡すことができました。

アスファルトの林道を15分くらい歩くと、今回のもうひとつの目的である北向(きたむかい)地蔵が林道沿いにありました。北向地蔵にお参りすると、再び登山道に入りあとはゆるい坂道をひたすら鎌北湖に向けて下って行きます。40~50分歩くと鎌北湖畔の廃墟になったホテルの横に出ました。

帰ってスマホのアプリで歩いたルートを確認すると、5つの山を登ったことになっていましたが、私が山頂を意識したのは、橋本山とスカリ山と、それからスカリ山の隣りにある観音ケ岳という3つの山だけでした。

鎌北湖では堤防の上に座って、コンビニで買ってきたおにぎりを食べました。下りて来たのが12時半近くで、1時間近く湖畔でゆっくりしたあと、鎌北湖から約1時間かけて八高線の毛呂駅まで歩きました。鎌北湖から毛呂駅までは5キロ近くあります。今まで何度も歩いていますが、一昨日がいちばんつらく感じました。山を歩くよりつらかったかもしれません。

毛呂からは昭島、昭島からは中央線で立川、立川からは南武線で武蔵小杉、武蔵小杉からは東横線で最寄り駅まで帰りました。途中の電車の乗り換えにえらく時間がかかり、最寄り駅に着いたのは午後5時半近くになっていました。鎌北湖から何と4時間もかかったのです。

帰ってズボンを脱いだら、お尻から下に一面泥が付いていました。知らぬが仏で、その汚れたズボンで電車を乗り継いで帰って来たのでした。


※サムネイル画像をクリックすると拡大画像がご覧いただけます。

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西武池袋線・特急ラビューむさし1号の車内(1号車)

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東吾野駅

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吾野神社の階段

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吾野神社

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吾野神社の謂れ

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吾野神社にあった標識

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登山道(飛脚道)

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途中からの眺望

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途中の分岐にあった標識

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分岐

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橋本山山頂標識

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橋本山からの眺望

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橋本山の山頂

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飛脚道の案内図

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ユガテの入口にあった標識

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ユガテ入口

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ユガテの案内看板

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ユガテ

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同上

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同上

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エビガ坂分岐

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同上

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スカリ山登り口

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急登を上から見る

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急登

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同上

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「スカリ山」木札

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スカリ山山頂
雨で煙っていたため、山頂から見た山の写真はうまく撮れていませんでした。

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スカリ山山頂標識

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北向地蔵

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北向地蔵の謂れ

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鎌北湖への道

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同上

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湖畔の廃墟のホテル

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鎌北湖
2022.06.10 Fri l l top ▲
前の記事の続きになりますが、今回のウクライナ侵攻をきっかけに、国家はホントに頼るべきものなのか、できる限り国家から自由に生きるにはどうすればいいのか、ということを考えることが多くなりました。

今のように無定見に身も心も国家に預けたような生き方をしていたら、たとえば、ウクライナのように”国家の災難”に見舞われたとき、私たちは容赦なく国家と運命をともにすることを余儀なくされるでしょう。

国家に命を捧げるのが「英雄」とされ、それを支えた家族の物語が「美談」として捏造され称賛されても、人生の夢や希望が一瞬にして潰えてしまい、家族とのささやかでつつましやかな日常もはかない夢と化してしまうことには変わりがないのです。

そういった考えは、前の戦争のときよりは私たちの中に確実に根付いています。大震災からはじまってコロナ禍、そしてウクライナ侵攻と、国家が大きくせり出している今だからこそ、そんな”身勝手な考え”が大事なように思うのです。

現在、与野党を問わず政治家たちの間で、核武装も視野に敵基地攻撃能力を保有して、ロシアや中国の脅威に対抗しようというような勇ましい言葉が飛び交っていますが、では、誰がロシアや中国と戦うのですか?と問いたいのです。汚れ仕事は自衛隊に任せておけばいいのか。そうではないでしょう。

時と場合によってはロシアや中国と戦争することも覚悟しなけばならないというのは、当然ながら自分の人生や生活より国家の一大事を優先する考えを持つことが必要だということです。国家や家族を守るために、みずからを犠牲にするという考えを持たなければならないのです。

国家の論理と自分の人生、自分の生き方はときに対立するものです。俗な言葉で言えば、利害が対立する場合があります。まして命を賭す戦争では尚更でしょう。当然、そこに苦悩が生まれます。しかし、天皇制ファシズムの圧政下にあった先の大戦においては、そういった苦悩はほとんど表に出ませんでした。むしろ、没論理的に忠君愛国に帰依するような生き方に支配されたのでした。私たちは、のちに第一次戦後派と言われた若い文学者たちが、官憲の目を逃れて人知れず苦悩していたのを僅かながら知るのみです。しかし、現代はそうではありません。ささやかでつつましやかな幸せを一義と考えるような”ミーイズム”が人々の中に当たり前のように浸透しています。

そんな戦争に象徴される国家の論理と自分の生き方との関係性を考えるとき、朝日に掲載されていた次のような記事がとても参考になるように思いました(私は朝日新聞デジタルの有料会員なので、どうしても朝日の記事が中心になってしまいますがご容赦ください)。

最初は、過酷な引き揚げ体験を持つ五木寛之氏のインタビュー記事です。

朝日新聞デジタル
国にすてられ、母失った五木寛之さん 「棄民」の時代に問う命の重さ

五木氏は、現在は「棄民の時代」だと言います。そして、次のように言っていました。

 ――「はみ出した人々」ですか。初期のころから使ってこられたフランス語の「デラシネ」という言葉も印象的です。

 「デラシネとは『流れ者』じゃない。すてられた国民のことなんですよ。今の言葉だと、まさに難民です。これからの世界で、難民の問題がとても大きくなっていくでしょう。どうも、デラシネ、根無し草というと流れ者のような感じで、自分から故郷を出て行ってフラフラしている人っていうイメージを持つ人もいるんですが、ぜんぜん違う。たとえば、スターリン時代に、まさにウクライナなどから強制的に移住させられてシベリアへ移った大勢の人たちもそうです。政治的な問題や経済的な問題で、故郷を離れざるを得なかった人たちのことをデラシネだと僕は考えている」

 「私自身が難民であり、国にすてられた人間でした。敗戦の時に、日本の政府は、外地にいた650万人もの軍人や居留民が帰ってきては食料問題などもあって大変だと考えたんでしょうが、『居留民はできるだけ現地にいろ。帰ってくるな』という方針を打ち出していたのです。それを知ったときには怒り心頭に発しました。一方で当時の軍の幹部や官僚、財閥などの関係者といった人々は、私たち一般市民と違って、戦争が終わる前から家財道具と一緒に平壌から逃げ出していたのですから」

 「平壌はソ連兵に占領され、母を失い、収容所での抑留生活を余儀なくされました。戦後2年目に、私たちはそこから脱北しました。妹を背負い、弟の手を引いて、徒歩で38度線を越え、南の米軍キャンプにたどり着いたのです。国にすてられた棄民という心の刻印は一生消えません」

 「デラシネの基本思想だと私が思っているのは、評論家の林達夫さんの指摘です。移植された植物の方が、そこに原生の植物より生命力があると。最初からその地に生まれ育ったものより、無理やり移されたものには、『生命力』や『つよさ』があるというのです。もちろん例外はあるでしょうが、僕はそれを頼りにして生きてきました」

 「難民として世界に散らばって生きていかざるをえない人々が日々たくさん生まれていますが、その境遇をマイナスとだけ捉えないで、どうかプラスとして考えて生きていって欲しいと思います」


「棄民」というのは、文字通り国家に棄てられたという意味です。「難民」も似たような意味ですが、しかし一方で、「棄民」の方が国家との関係性において積極的な意味があるような気がします。国家に棄てられたというだけでなく、みずから国を棄てた(棄てざるを得なかった)というような意味もあるような気がするからです。だったら、五木氏が言うように「棄民の思想」というのがあってもいいのではないかと思うのです。

今の日本にも、「難民」ではなく、実質的に「移民」と呼んでもいいような人たちが政府の建前とは別に存在します。彼らは、ときに日本人から眉をしかめられながらも、逞しく且つしたたかに生きているのは私たちもよく知っています。そんな彼らの中に、私は「棄民の思想」のヒントがあるような気がするのです。

ロシアや中国に対抗するというのなら、国の一大事か自分たちの幸せかの二者択一を迫られる日が、再び来ないとも限りません。今のウクライナを見てもわかるように、国家というのはときにそんな無慈悲な選択を迫ることがあるのです。それが国家というものなのです。

話が脇道に逸れますが、健康保険証を廃止してマイナンバーカードに一本化するという政府の方針も、たとえば国家が国民の健康状態を一元管理できれば、医療費の抑制だけでなく、いざ徴兵の際に迅速に対応できるという安全保障上の思惑もなくはないでしょう。もちろん、そうやってマイナンバーカードが義務化されれば、GooglePayどころではないさまざまな個人情報を紐付けることも可能で、ジョージ・オーウェルも卒倒するような超監視社会の到来も”夢”ではないのです。

たまたま今、『AI監獄 ウイグル』(新潮社)という本を読んでいるのですが、著者のジェフリー・ケインは、本の中で、中国政府はウイグル自治区を「ディストピア的な未来を作り上げる最先端の監視技術のための実験場に変えた」と書いていました。その先兵となったのが、アメリカのマイクロソフトと中国のIT企業が作った合弁企業です。それを著者は「不道徳な結婚」と呼んでいました。

もちろん、その監視技術は、コロナウイルス対策でも示されたように、ウイグルだけでなく、既に中国全土に広がっているのです。そうやって超監視社会に進む中国の現実は、私たちにとっても決して他人事ではないのです。と言うか、日本政府は中国に対抗するために、中国のようになりたいと考えているようなフシさえあるのでした。国民の個人情報を一元管理して迅速で効率的な行政運営をめざす日本の政治家や官僚たちにとって、もしかしたら中国共産党や中国社会こそが”あるべき姿”なのかもしれないのです。

もうひとつは、明治大学教授(現代思想研究)の重田園江氏が書いた、映画監督セルゲイ・ロズニツァをめぐる言説の記事です。

朝日新聞デジタル
体制に同意せざる者の行き場は 映画監督セルゲイ・ロズニツァに思う

ちなみに、セルゲイ・ロズニツァは、「1964年、ベラルーシ(当時のソ連)に生まれ、幼少期に一家でキーウに移住した。コンピューター科学者として勤務した後、モスクワの全ロシア映画大学で学んだ。サンクトペテルブルクで映画を制作し、今はベルリンに移住している」映画監督で、文字通り五木寛之氏が言う「デラシネ」のような人です。

彼は、ウクライナ侵攻後、ロシア非難が手ぬるいとしてヨーロッパ映画アカデミー(EFA)をみずから脱退したのですが、ところが翌月、今度はウクライナ映画アカデミー(UFA)から追放されたのでした。UFAがセルゲイ・ロズニツァを追放した理由について、重田氏は次のように書いていました。

UFA側の言い分はこうだ。ロシアによる侵略以来、UFAは世界の映画団体にロシア映画ボイコットを求めてきた。あろうことかロズニツァはこれに反対している。彼はロシア人の集団責任を認めていないのだ。ロズニツァは自らを「コスモポリタン(世界市民)」と称している。だが戦時下のウクライナ人に望まれるのは、コスモポリタンではなくナショナル・アイデンティティーなのだ、と。


ここにも今の戦時体制下にあるウクライナの全体主義的な傾向が見て取れるように思います。さらに重田氏はこう書いていました。

 ロズニツァは、コスモポリタンであることを理由に人を非難するのはスターリニズムと同じだという。スターリンは晩年、「反コスモポリタン」を旗印にユダヤ人迫害を強めたからだ。ロシア、そして世界の至るところに「ディセント=体制に同意せざる者」がいる。映画を通じて体制への疑念や物事の多様な見方を表現する者たちは、世界から排除されれば行き場を失うだろう。

(略)

 国家に住むのは人びとである。彼らは多様な感情と思想を持って生きている。悲惨な戦争のさなかにあっても、ナショナル・アイデンティティーに訴えて少数者や異端者を排除するのは危険である。ロズニツァはそれを誰よりも理解している。

 芸術家は、ハンナ・アーレントがエッセー「真理と政治」において示した、真理を告げる者である。政治は権力者によるうそをばらまくことで、大衆を操作し動員してきた。これに対し、芸術家は政治の外に立って、人びとが真理とうそを区別するための種をまく。政治がコスモポリタンたる芸術家を排除し、うそと真理を自在に作り変えるなら、真理はこの世界から消え去るだろう。後に残るのは政治的意見の相違だけだ。

 私たちは戦争をめぐるうそを聞かされすぎた。いまは世界を蝕(むしば)むこうした言葉を聞くべき時ではない。真理とうその区別がなおも世界に残ることを望むなら、その種を芸術と歴史のうちに探すべき時だ。


敵か味方かという戦時の言葉に席捲された世界。それは芸術においても例外ではないのです。もちろん、戦争当事国であるかどうかも関係ありません。

いくら侵略された被害国だからと言って、コスモポリタンであることを理由に非難され追放されるような社会、そんな国家(主義)を私たちはどう考えるかでしょう。だったら、「棄民の思想」を対置してそれをよすがに逞しく且つしたたかに生きていくしかないのではないか。そんな人々と「連帯」することが大事ではないのかと思います。

もっとも、UFAのような愚劣な政治の言葉は、ウクライナだけではありません。先日、国家の憎悪を一身に浴び20年の刑期を終えて出所したS氏(どっかのブログを真似てイニシャルで書いてみた)に対する、日本共産党や立憲民主党に随伴する左派リベラル界隈の人たちから浴びせられた罵詈雑言も同じです。愚劣な政治の言葉でひとりの人間の存在を全否定する所業は、昔も今も、左も右も、ウクライナも日本も関係ないのです。S氏の短歌のファンである私は、衣の下から鎧が覗いたような彼らの寒々とした精神に慄然とさせられたのでした。
2022.06.04 Sat l ウクライナ侵攻 l top ▲