ちなみに、東京都の専用サイトを見ると、28日現在、入院中の感染者は30,794人、ホテルなどの宿泊療養が6,323人、自宅療養が178,862人、さらに入院・療養調整中が70,884人いるそうです。
東京都の病床使用率は50.5%で「まだ余裕がある」はずですが、にもかかわらず70.884人が入院・療養調整中というのはどう考えればいいのか。保健所のコントロールが機能してないのか。あるいは病院側に問題があるのか。いづれにしても、とても正常な状態とは思えません。
奈良で行われた全国知事会で、平井伸治会長(鳥取県知事)は、冒頭「私たちは今、未曽有の危機にあります」と挨拶したそうですが、しかし、そのあと「新型コロナを抑え、経済も回さなければなりません」と述べたそうです。「そういった難しいかじ取りが使命となっている」のだと。
でも、それは、「難しいかじ取り」ではなく「二兎を追う者は一兎をも得ず」で、最初から無理な相談ではないのかと思いました。
できないことでも、みんなでやればできるみたいな精神論は日本人の得意とするものですが、今回の新型コロナウイルスにおいても、そうやって最後は没論理の精神論に行き着いてしまう「日本の思想」の哀しさを感じました。
朝のワイドショーで、コロナに感染したコメンテーターがみずからの体験談を話していましたが、その際、「感染したことで経済を止めたのもたしかで」とわけのわからないことを言っていました。要するに、感染して仕事を休んだことで、「経済を止めた」結果になり申し訳ないと言いたかったようです。
何だかひとりで国家を背負っているような発言ですが、そこにも日本人特有のメンタリティがあるように思えてなりません。でも、それは間違っても思考ではありません。ただ神のご託宣を伏して待つようなメンタリティがあるだけです。だから、いとも簡単に自我の中に国家が入って来るのでしょう。
政府が「経済を止めることはできない」と言えば、識者たちも国民も、さらには公衆衛生学や感染学の立場から感染防止策を進言し啓蒙していたその道の専門家たちも、途端に思考停止に陥って、オウム返しのように同じ台詞を口にしはじめるのでした。「悩ましい問題ですね」と他人事のように言うのですが、悩ましくしているのは自分自身だということがわかってないのです。
たとえば、朝日に載っていた下記のような記事にも、日本人特有の寄らば大樹の陰のメンタリティが示されているように思いました。
朝日新聞デジタル
マスクなし、声出しありの欧州の応援 日本「ガラパゴス化」のなぜ
スポーツライターの増島みどり氏は、マスクを付けて大声も出さずに応援する日本のサッカーの観戦スタイルに、「違和感」を覚えたそうです。「ガラパゴス化」した光景に見えたと言うのでした。
もっとも、それは「海外と比べて」そう見えたという話にすぎないのです。そこにあるのも思考停止です。どうして海外をお手本にしなければならないのかという留保さえ存在しないのです。その手の言説は、私たちのまわりにうんざりするほどあります。
私は、花粉症ということもあり、コロナ禍の前から真夏を除いて1年の3分2以上マスクをしているような”マスク人間”ですが、そんな人間から言わせてもらえば、マスクを外さずに感染防止に努める日本人の潔癖な習性は、むしろ”日本的美徳”と言ってもいいはずです。それがどうして同調を求める日本社会の象徴みたいに言われ、否定的な意味合いで語られなければならないのか。
今回の第7次感染拡大がはじまる前、感染が落ち着いたのでもう終息に向かっていると早とちりしたのか、いつまでもマスクを外さない日本人をヤユするような文章が新聞などメディアに飛び交い、上記の記事のように、マスクを外すことが日常を取り戻すことであるかのようなもの言いが多く見られました。
たとえば、下記のようなキャッチーな記事のタイトルにも、そんな”含意”が顔をのぞかせているように思いました。
朝日新聞デジタル
マスク外す?外さない? 自分で決められない日本社会の空気感
今回の感染拡大では、あらためてエアロゾル感染を防ぐ重要性が指摘されていますが、メディアや識者はつい昨日まで、いつまでマスクをしているんだ、海外を見習え、とマスクを外さない日本人を恫喝していたのです。
海外がそうだからというだけで、それが”いいこと”なのかどうかという検証はないのです。先日のテレビで、フランス人は政府が強制すると、反発しながら一応マスクを装着するけど、強制が解除されるとほとんどの人はマスクを外すという話をしていましたが、新型コロナウイルスの感染防止にとって、それが”いいこと”がどうかが大事なのです。フランス人がマスクを外したので日本人もマスクを外すべきだという話にはならないでしょう。それこそ日本人が好きなエビデンス(!)の問題でしょう。
丸山眞男は、『日本の思想』の中で、「思想評価の際にも、西洋コンプレックスと進歩コンプレックスとは不可分に結びつき、思想相互の優劣が、日本の地盤で現実にもつ意味という観点よりは、しばしば西洋史の上でそれらの思想が
そんな中、「未曾有の」感染拡大を前にして、新型コロナウイルスを感染症法上の「2種相当」から季節性インフルエンザと同じ「5類」に引き下げるべきだ、という声が日ごとに大きくなっています。
「5種」になれば、診察した病院が、感染者の詳細な情報を保健所に届け出る義務(全数把握)がなくなります。代わりに都道府県が指定した指定医療機関が、患者の発生状況を一定の期間ごとに報告するだけです(定点把握)。医療機関や保健所の業務の負担が減るというのは、そのとおりでしょう。
しかし、その代わり、今のようなリアルタイムの新規感染者数のカウントがなくなるのです。もちろん、濃厚接触者という扱いもなくなります。新型コロナウイルスが可視化されなくなるのです。
「5種」に引き下げられると、今までの発熱外来に限られた窓口が一般の病院にまで広がりますので、症状があるのに病院から断られて診察してもらえない「受診難民」が減るのは間違いなく、それもたしかにメリットです。でも、濃厚接触者の追跡がなくなるのは、今後に大きな禍根を残すような気がしてなりません。
濃厚接触者の追跡がなくなれば、当然、今以上に感染は広がります。しかし、どのくらい感染が広がっているのかはわかりません。感染症なのですから、無症状や軽症の人たちも他人に感染させる可能性は当然あります。にもかかわらず彼らは市中に放置されるのです。
また、「5類」引き下げには、別の政治的背景があることも忘れてはなりません。今回の感染拡大では、行動制限をしてないにもかかわらず、感染拡大で休む人間が多くなり、社会インフラや企業活動に支障が出てしまいました。これでは元の木阿弥です。「休む理由をなくせ」「休ませないようにしろ」という資本の要請があったことは想像に難くありません。
一方、メディアも、ほとんど異論をはさむことなく、むしろ逆に、「5種」引き下げの世論を煽っている感さえあります。既に一部の新聞には、今回の第7次の感染が収まったら、「5種」に引き下げになる方向だという記事も出ています。
”日本的美徳”と言えば、弱肉強食の欧米式「社会実験」ではなく、重症化リスクの高い高齢者に対する”配慮”を一義に考える敬老精神もそう言えるでしょう。「5種」に引き下げになれば、高齢者に対する”配慮”もなくなり、「経済をまわす」ためにはある程度の犠牲はやむを得ないという、無慈悲な経済合理主義が大手を振ってまかり通るようになるのです。
資本にとって、眼中にあるのは労働力として使える(再生産できる)健康な現役世代の人間だけです。労働力として使えない高齢者なんて知ったことじゃないのです。ネットでよく高齢者はコストばかりかかる社会のお荷物みたいな言い方がされますが、それは思考停止したネット民が資本の論理を受け売りしているだけです。古市憲寿や落合陽一なども同じようなことを言ってますが、彼らも資本の論理を代弁しているだけです。「資本家の犬」は岸田首相だけではないのです。
もちろん、新型コロナウイルスは終息する目処が立ったわけではありません。いつ終わるか誰にもわからないのです。今後、免疫をすりぬける新種が出て来る可能性もあると言われています。感染が一旦収まっても、それは次の感染拡大までの”準備期間”にすぎないのです。
それに、いくら弱毒化したからと言って、みんながみな無症状や軽症だとは限らないのです。自分が無症状や軽症で済むという保障もないのです。上の東京都のデータを見てもわかるとおり、「風邪みたいなもの」と言われながら、感染して入院中の人、ホテルなどで宿泊療養している人、入院・療養調整中の人を合わせると、10万人以上の人たちが入院・加療を必要としているのです。
「5類」引き下げ、あるいは「5類」並み緩和の方針に対して、医療現場も専門家も与野党の政治家も識者もメディアも国民も、明確に反対する声はほとんどありません。私のような考えの人間は、「不安神経症」などと言われるほど圧倒的に少数です。
一応医療費の公費負担は維持されるようですが、「5種」引き下げになれば、行政レベルの感染対策はほとんどなくなるに等しいのです。もう補償金や支援金を払うことはないぞ、休む理由もなくなったぞ、あとはお前たちの責任でコロナ禍を乗り越えろ、と言われているようなものです。でも、みんな歓迎しているのです。いつの間にかパンデミックという言葉も使われなくなりましたが、「5類」引き下げになれば、パンデミックが終わったかのような空気が益々広がっていくことでしょう。
感染して自宅療養している知人がいるのですが、その知人のもとに、政府が「5類」に引き下げてくれればこんなに騒がれなくてもよくなるのにね、と職場の同僚から慰めのメールが届いたそうです。コロナ疲れもあるのかもしれませんが、なんだか面倒くさいものから解放されたい、という気持の方が先に立っているような気がしないでもありません。新型コロナウイルスはイメージではないのですから、私たちの見方や捉え方が変わったからと言って、ウイルスの性質が変わるわけではないのです。これからも(当分は)新型コロナウイルスに翻弄される日々は続くのです。今の感染状況を見ると、集団免疫というのも随分怪しい話になってきました。なのに、こんな安易な気分に流されてホントにいいんだろうか、と「不安神経症」の私は思うのでした。