世界は、資本蓄積に必要な資源の変遷とともに、100年ごとに覇権が変わっていくという壮大な理論があります。

まず19世紀の最初の100年は石炭のイギリス(大英帝国)、次の100年は石油のアメリカでした。そして、現代はレアメタルの中国に覇権が移りつつある、と言うのです。新型コロナウイルスによるパンデミックがそれを(覇権の移譲)をいっそう加速させる役割を果たした、と。しかも、国家間はしばらく「対立」が続くものの、覇権の移譲は、本質的には「対立」ではなく資本の「コンセンサス」だと言います。

対米従属が骨の髄まで沁み込んだ日本人にとっては、背筋に冷たいものが走るような話かもしれません。

その中国ですが、日本などと同じように、1995年代後半から2009年生まれのZ世代が消費の中心になりつつあり、既にZ世代は約2億8千万人おり、全人口の約18.1%を占めるまでになっているそうです。

先日もTBSのNews23でやっていましたが、この世代の特徴は、前の世代のような「海外ブランドを仰ぎ見るような感覚」(人民網日本語版)がないことだそうです。むしろ、「国潮」(国産品)を着ることがトレンドにさえなっている、と言うのです。

そう言うと、日本人は、中国政府の政策で愛国主義が台頭して、それが消費動向にも反映されているからだろう、というような見方をする人間が多いのですが、必ずしもそうではなく、外国製品に引けを取らないほど中国製品のクオリティが上がっている、という理由が大きいのです。若者たちは、「国内ブランドのデザインには生まれ変わったような感じがあり、モデルの更新ペースも速い」(同)という印象を持っているそうです。

私も前にハイアールの話をしましたが、もう中華製の安かろう悪かろうの時代は終わったのです。ましてハイテク製品の分野では中国はトップを走っています。だから、西側の国はあんなにファーウェイを怖れたのでしょう。

昨日もテレビ東京で、中国に出店していた飲食や小売などの企業が撤退するケースが多くなっており、やはり中国進出は「政治のリスクが大きすぎる」というようなニュースをやっていましたが、それは「政治のリスク」ではなく、「国潮」の台頭が要因と考えるべきでしょう。

来月11日から入国規制が全面解除になりますが、中国人観光客がホントに以前のように戻ってくるのか、楽観視はできないように思います。まして、かつてのような”爆買い”は期待できないのではないか。もちろん、円安が追い風であることはたしかですが、中国もどんどん豊かになっており、上で見たように消費のトレンドが大きく変わっているのです。

今年は日中国交正常化50周年だそうですが、アメリカの尻馬に乗って対中強硬策を取っても(それこそ「政治のリスク」を負っても)、泣きを見るのはどう考えても日本の方です。武士は食わねど高楊枝では国はやっていけないのです。

下の表のように、コロナ前の2019年の外国人観光客の地域別のシェアを見ると、アジアからの観光客が圧倒的に多く、全体の82.7%です。中でも東アジアが70.1%を占めています。テレビ東京「Youは何しに日本へ?」でインタビューするのは、何故か欧米豪の観光客ばかりですが、彼らは13.0%にすぎません。

国別のシェアを見ても、中国本土からの観光客が959.4万人で、東アジアの中で42.9%を占めています。香港を含めると53.1%になります。

2019年訪日外国人旅行者地域国別シェア
2019年訪日外国人旅行者地域国別シェア
※国土交通省観光局資料より抜粋

次の消費額(つまり、経済効果)を見ると、中国人観光客の存在感がいっそう際立ちます。外国人観光客が日本で消費したお金の総額は4兆8千135億円ですが、国別では、1位が中国1兆7千704億円、2位が台湾9千654億円、3位が韓国4千247億円です。中国人観光客は、買物だけでも9千365億円も消費しているのです。

2019年訪日外国人旅行消費額
2019年訪日外国人旅行消費額
※国土交通省観光局資料より

そんな中で、中国経済が発展して消費のトレンドが変わっていることは、日本の観光にとっても不安材料です。日本製品に対する魅力が薄れていくだけでなく、日本の食べ物や観光地に対しても同様に魅力を失っていく懸念があります。ましてや、”アジア通貨危機”に見舞われたら観光立国どころではなくなるでしょう。

一方で、円安で益々日本が「安い国」になったことにより、不動産や企業が中国資本に買い漁られている、という現実があります。数年前に、千代田区などの都心の一等地の高級マンションが中国人に買われており、特に角部屋などの「いい部屋」を買っているのは中国人ばかり、という話をしましたが、その傾向は益々強くなっているのです。現在、マンション価格がバブル期を凌ぐほど高騰しているのも、日本人ではなく中国人が作った市況なのです。

安い国ニッポン。その恩恵に浴しているのは、中国をはじめとする外国資本で、肝心な日本人は給与は上がらない上に逆に物価高で苦しんでいるあり様です。そのために、手元の物を質入れするみたいに、日本の資産を外国資本に売り渡しているのです。”アジア通貨危機”も、中国にとっては絶好のチャンスと映るでしょう。

とは言え、(何度も言うように)日本はもはや観光しかすがるものがないのです。何とも心許ない話ですが、とにかく、みんなで揉み手してペコペコ頭を下げるしかないのです。神社で米つきばったみたいに三拝している日本人を見て、白人の若いカップルが手を叩いて笑っていましたが、いくら笑われても頭をペコペコ下げるしかないのです。

安倍元首相は、「愛国」を隠れ蓑に、旧統一教会に「国を売った」だけでなく、アベノミクスによって日本を八方塞がりの「安い国」にしてしまったのです。これでは「国賊」と言われても仕方ないでしょう。なのに、どうして「安倍さん、ありがとう」なのか。しかも、よりによって旧統一教会と一緒に、そう合唱しているのですから何をか言わんやでしょう。


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2022.09.30 Fri l 社会・メディア l top ▲
ジョーカー


国葬では、菅元首相の弔辞が参列者の涙を誘ったそうで、菅元首相は文才があると書いているメディアもありましたが、その前に、国葬と言っても、実際はイベント会社がとりしきる内閣のイベント(国が主催する「お別れの会」)であった、ということを忘れてはならないでしょう。小泉政権のシングルイシューの”郵政選挙”で知られるところとなりましたが、もはや政治と広告代理店は切っても切れない関係にあるのです。

また、ネットを見ていたら、「小林よしのり氏、安倍元首相国葬で2万人超訪問の一般献花に私見『統一教会の動員で十分集まる』」(日刊スポーツ)というニュースの見出しがありました。

それで、小林よしのり氏のブログを見たら、次のように書いていました。

YOSHINORI KOBAYASHI BLOG
献花2万人超は統一協会の動員で十分

秘書みなぼんが昨夜、こうメールしてきた。
「一般の献花に行列ができたことを、Hanada、WiLLはじめネトウヨは『これが日本人の本当の民意だ!』『国葬に半数以上が反対とか偏向報道だったんだ!』とか騒いでいて滑稽ですw こんな平日に献花で並ぶとか、統一協会の信者もかなり動員されてますよね」

確かに献花がたった2万人超なら、統一協会の動員で十分集まる。
統一協会の権力浸食問題は、そういう邪推や偏見を生んでも仕方がないということなんだ。
わしも統一協会が献花に来ないはずないと思っているがな。(略)


平日の昼間なのに、2万5889人(政府発表)の人たちが献花に訪れ、3時間も4時間も並んでいたのです。しかも、インタビューによれば、遠くからわざわざ訪れた人たちも結構いるのです。山梨から献花に訪れたと答えていた親子連れがいましたが、子どもは学校を休んで来たんだろうか、と思いました。

旧統一教会にとって、安倍(岸)一族は、教団の財政を支える「資金源」を与えてくれた大恩人です。それこそ足を向けて寝られないような存在です。

8月16日にソウルで開かれた、故文鮮明教祖の没後10年を記念するイベントでも、安倍晋三元首相を追悼する催しが行われ、スクリーンに大きく映し出された安倍元首相の写真に向かって参加者が献花をしていました。昨日の国葬でも、多くの信者たちが行列に並んでいたとしても不思議ではないでしょう。

テレビ東京の「世界ナゼそこに?日本人」で取り上げられた中に、合同結婚式でアフリカなどの奥地に嫁いだ日本人花嫁が多く含まれていたという話がありましたが、昨日の国葬でも、もしかしたら、献花の花束を持って並んでいた信者をインタビューして、「賛否両論あります」なんて言っていたのかもしれません。

国葬が終わった途端、二階俊博元幹事長が言っていたように、「終わったら反対していた人たちも、必ずよかったと思うはず」という方向に持って行こうとするかのような報道が目立つようになりました。その最たるものが、菅元首相の弔辞に対する本末転倒した絶賛報道です。今、問われているのは、安倍元首相の政治家としてのあり様なのです。クサい思い出話や弔辞の中に散りばめられた安っぽい美辞麗句や修辞なんかどうだっていいのです。弔辞は、当然ながら安倍元首相を美化するために書かれたものです。この当たり前すぎるくらい当たり前の事実から目を背けるために、弔辞に対する絶賛報道が行われているとしか思えません。

国葬では、安倍元首相のピアノ演奏や金言集のような演説の動画が流されていましたが、あれだって編集した誰かがいるのです。仮にゴーストライター(スピーチライター?)がいても、ゴーストライターがいるなんて言うわけがありません。こんな「名文」を貶めるなんて許さないぞという恫喝は、同時に「名文」が持ち上げる安倍の悪口を言うことは許さないぞ、という恫喝に連動していることを忘れてはならないのです。その心根は、旧統一教会のミヤネ屋に対する恫喝まがいのスラップ訴訟にあるものと同じで、Yahoo!ニュースや東スポやSmartFLASHや現代ビジネスやディリー新潮などのような品性下劣なメディアは、ネトウヨと一緒になってその恫喝にひと役買っているのです。

ここに至っても、文化庁の担当者は、「解散命令を請求するのは難しい」と言ってくれるし、そうやって安倍を庇うことで自分たちも庇ってくれるのですから、教団にとって日本はどこまでもアホでチョロい存在に見えるでしょう。

一方、上映を国葬当日にぶつけた『REVOLUTION +1』は、狙い通りかどうかわかりませんが、大きな話題になっています。ただ、2日間限定で上映されたのはあくまで編集前のラッシュなので、当然毀誉褒貶があります。だからこそ、否が応でも、劇場用に編集された本編に対する期待が高まってくるのでした。

そんな中、やはり上映会の会場に来ていた切通理作氏が、みずからのユーチューブチャンネルで、町山智浩氏と『REVOLUTION +1』について語っていたのを興味を持って観ました。

YouTube
切通理作のやはり言うしかない
切通理作/足立正生作品『REVOLUTION +1』を語る【特別ゲスト】町山智浩

動画では、いろんな角度から『REVOLUTION +1』が論じられていました。これだけ論じられるというのは、国葬にぶつけたという話題だけにとどまらず、足立正生監督の新作が出たこと自体が既に「事件」だったということなのでしょう。

編集前ということもあるのでしょうが、『REVOLUTION +1』が今までのシュールレアリスムの手法を使った足立作品に比べれば、非常にわかりやすかった、「敷居を低くしていた」と切通氏は言っていました。松田政男の「風景論」が生まれる端緒になった「略称・連続射殺魔」などに比べると、作品の前提になっている事件に予備知識がなくても理解できる作品になっているので、その分、カタルシスを得て「すぐ忘れる」懸念がある、というのはそのとおりかもしれません。家に帰ってもずっと考えなければ理解できないような作品こそ、いつまで心に残るのです。それがどう編集されどんな作品として完成されるのか、そういった楽しみもあるように思います。

私は町山智浩氏の話の中で、興味を持った箇所が2つありました。ひとつは、映画で主人公の父親が大学時代、学生運動家と麻雀仲間だったという設定になっているそうですが、それは監督のノスタルジーではなく、実話に基づいたものだと言うのです。

山上容疑者の父親は、1972年のテルアビブ空港乱射事件で自爆した赤軍派の活動家と京都大学の同級生で、顔見知りだったという話があるそうです。

もうひとつ、いちばん興味を持ったのは、山上容疑者が2019年に公開された映画「ジョーカー」を大変評価しており、Twitterで何度も「ジョーカー」について投稿しているという話です。

読売新聞の記事によれば、山上容疑者の「ジョーカー」に関する、ツイッターへの投稿は14回にも及んでいたそうです。

私は、「ジョーカー」を観たとき、真っ先に思い浮かべたのは永山則夫でした。(永山則夫は母親を殺してはいませんが)特に主人公のアーサーの母殺しは、永山と近いものがあるような気がしました。

アメリカで「ジョーカー」が公開される際、犯罪を誘発するのではないかと言われ、公開に難色を示す声もあったそうですが、結局、アメリカでは何も起きなかった。しかし、日本で起きた。町山氏は、そう言っていましたが、山上容疑者は、アーサーの絶望や、そこから来る哀しみや怒りに共感したのかもしれません。特に、母親殺しや同僚殺しに、自分を重ね合わせていたのかもしれません。それは衝撃的ですが、しかし、納得できる気もします。

名門の政治家の家に生まれたというだけで、周りからチヤホヤされ、小学校からエスカレート式で大学まで進み、漢字もろくに読めないのに総理大臣にまでなった安倍晋三に対して、頭脳明晰だったにも関わらず父親の自殺や母親の入信などがあって貧困の家庭に育ち、大学進学も叶わず、様々な資格を取得しても人間関係が原因で仕事が続かず、不遇の人生を歩むことになった山上容疑者は、黒澤明監督の「天国と地獄」を思わせるような対称的な存在です。

しかし、町山氏が言うように、それはたまたまにすぎないのです。「親ガチャ」にすぎないのです。安倍晋三と山上徹也が入れ替わることだってあり得たのです。

山上容疑者は、そんな自分の人生を、自己責任のひと言で一蹴するような社会の不条理に対して引き金を引いたのではないか、と想像することもできるように思います。
2022.09.28 Wed l 旧統一教会 l top ▲
今日、山に行こうと思っていたのですが、寝過ごしてしまい行くことができませんでした。それで、再び寝たら、次に目が覚めたのは午後でした。

テレビを点けたら、どこも喪服を着たアナウンサーたちが国葬の模様を中継している画面ばかりでうんざりしていたところ、テレビ東京が「昼めし旅」を放送していたのでホッとして、遅い朝飯を食いながらそれを観ました。

国民の60%だかが反対しているというのに、読売新聞の調査では47都道府県のうち43知事が参列し、欠席したのはわずか4知事だけだそうです。しかも、テレビ各局は(テレ東を除いて)特別番組を組み、喪服姿のアナウンサーたちがさも暗い表情を装って、美辞麗句をちりばめた安倍元首相に対するお追従の原稿を読み上げているのでした。

個人的にはあまり信用していませんが、それでも60%の民意はどこに行ったんだ、と思いました。「ニッポン低国」というのは竹中労の言葉ですが、まさに最後はみんなで思考停止に陥ってバンザイする「ニッポン低国」の光景を見せつけられているような気がしました。

自宅から遺骨が出る際には20名の自衛隊の儀仗隊が先導し、遺骨が乗った車が国会や総理官邸ではなく、何と防衛省をまわって会場の武道館に向かい、武道館に到着したのに合わせて、北の丸公園で弔意を表す19発の空砲(弔砲)が放たれるという、驚くべき企画がありましたが、何だかそれも空々しく見えました。

安倍元首相は、旧統一教会のエージェントと言ってもいいような人物だったのです。「反日カルト」の旧統一教会を日本に引き入れ、日本人をサタンと呼ぶ「反日カルト」に日本を「売ってきた」一家の3代目なのです。「保守」や「愛国」や「反共」や「売国」という言葉が虚構でしかなかったことを、文字通り体現する人物なのです。

私は、「愛国」と「売国」が逆さまになった”戦後の背理”ということをずっと言ってきましたが、旧統一教会の問題によって、まさにそれがきわめて具体的に目の前に突き付けられたのです。それでもまだ事実を事実として見ようともしない人間たちがいるのです。それは、今なお空疎な「愛国」にすがるネトウヨだけでなく、黒い喪服を着たメディアの人間たちも同じです。

今日の国葬には、7人だかの皇族も参列したそうですが、ここでも統治権力の外部にある、天皇制という「法の下の平等」を超越した擬制を利用して、みずからを正当化するこの国の無責任体制が示されているのでした。

赤坂真理は、『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書)の中で、天皇を「元首」とする自民党の改憲案について、「権力を渡す気などさらさらないのに、『元首』である、と内外に向けて記述する」厚顔さと、「天皇権威を崇め、利用し、しかし実権を与えない」夜郎自大を指摘していましたが、そうやってみずからの無責任体制を認知させるために天皇制を利用する、それが日本の「国体」なのです。右翼は、そんな「国体」を死守する、と言っているのです。むしろ、左翼の方が、「君側の奸」みたいなことを言って政権批判しているようなあり様です。ここにも、底がぬけた日本の現実が露わになっている気がします。

ただ、こうやって大々的に「安倍政治」を葬送したことで、旧統一教会との不埒な関係も、人々の記憶の中に永遠に残ることになったとも言えます。

旧統一教会をめぐる問題もそうですが、東京五輪のスキャンダルや急激な円安をもたらしたアベノミクスの問題など、これから「安倍政治」の精算が進むのでしょうが(進まざるを得ないのですが)、今日の国葬が”トンチンカンな出来事”として歴史に記述されるのは間違いないでしょう。

世界的な景気減速が明白になり、特にアジアは軒並みに通貨が暴落しており、アジア通貨危機の再来さえ取り沙汰されています。そんな中で一人勝ち、というかいちばん痛手が少ないのは、やはり中国なのです。

日本は今のマイナス金利政策を転換しないことには、この円安から抜け出すことはできませんが、しかし、金利を上げれば途端に不況が襲ってきます。30年間ほとんど給料も上がってない中で経済が落ち込めば、その影響は今の比ではないでしょう。でも、今のままでは円安と物価高が進むばかりです。

この一周遅れのドツボにはまったのも、アベノミクスの失政によるものです。安倍政権があまりに長く続きすぎたために、経済においても、もはや取り返しがつかないような事態にまで進んでしまったのです。

通貨安で千客万来と言うのは、どう見ても発展途上国の発想でしょう。そもそも売春や児童ポルノを含めて観光しか頼るものがないというのも、発展途上国の話です。でも、日本は発展途上国ではありません。もうそこまで没落したということです。

にもかかわらず、どうして「安倍さん、ありがとう」なのか。旧統一教会がそう言うのならわかりますが、どうして日本の国民が、「反日カルト」と一緒になって「安倍さん、ありがとう」と言わなければならないのか。何がそんなにありがたいのか。何だか悪い夢でも見ているような気持になります。

からゆきさんではありませんが、日本の女性たちが、生活のために、外国人観光客相手に春をひさぐような時代になっているのです。日本の女性目当てに、(ひと昔前の日本人のように)中国や韓国の男性たちがツアーを組んで日本の風俗街を訪れているのです。日本は、女性までが買われるような国になったのです。

そんな国にした張本人を、「ありがとう」などと言いながら国をあげて手厚く見送っているのです。
2022.09.27 Tue l 社会・メディア l top ▲
今日(26日)、新宿のロフトプラスワンで行われた「REVOLUTION+1」の上映会の後のトークパート(トークショー)が、vimeo.comでライブ配信されていましたので、それを観ました。

vimeo
【REVOLUTION+1】トークパート
https://vimeo.com/753485644/09313605ac

トークパートは明日も行われるようですが、今日出ていたのは、足立正生監督と宮台真司、それにヒップホップミュージシャンのダースレイダーで、司会は井上淳一氏が務めていました。

その前に、トークでもちょっと触れられていましたので、歌手の世良公則のことについて、私も書いておきます。実は、私も昨日の記事で書いていたのですが、あまり個人攻撃するのも気が引けたので削除したのでした。

それは、世良公則の次のようなツィートに対してです。


ネトウヨならまだしも、表現を生業とする人間として、「この異常な状態を許す」「それが今の日本」「国・メディアは全力でこれに警鐘を鳴らすべき」という発言には唖然とするしかありません。まして、彼は映画を観てないのです。作品を観てないにもかかわらず、国家なりメディアなりが「警鐘を鳴らすべき」、つまり、(解釈の仕方によっては)表現を規制すべきとも取れるようなことを言っているのです。

政治的立場がどうであれ、表現行為は最大限自由であるべきだというのは、表現を生業とする者にとって共通事項でしょう(そのはずです)。自由な表現にもっとも敏感であるべき表現者として、この発言はあり得ないと思いました。

また、彼は、今日は次のようなツイートをしていました。


投稿の時間を見ると、立て続けに届いていますので、たしかにしつこい感じはありますが、SNSでみずからの考えを発信していると、この程度の誹謗は想定内と言ってもいいようなレベルのものです。もしかしたら、酔っぱらっていたのかもしれません。

「内容から危険な人物と判断」「事務所から警察に報告する案件であるとの連絡を受けました」というのは、いくらなんでもオーバーではないかと思いました。何だか一人相撲を取っているような感じがしないでもありません。

閑話休題それはさておき、トークでは、宮台真司が、まずホッブスの『リバイアサン』を引き合いに出して、自力救済の話をしていました。統治権力が信頼できなくなり、社会や政治の底がぬけた状態になったら、人々は(国家以前のように)自力救済するしかない。しかも、コミュニティ(共同体)も機能しなかったら、もはや自力救済はみずからの暴力に頼るしかなくなる、というようなことを言っていました。

ホッブスが言うように、自然状態では、お互いがみずからの生き死を賭けて暴力で争う「万人の万人に対する闘争」になります。それで、「万人の万人に対する闘争」を避けるために、それぞれの権利を受託して仲介する装置として「国家」が登場したのです。しかし、国家が与えられた役割をはたさなくなったら(つまり、底がぬけた状態になったら)、もとの「万人の万人に対する闘争」の状態に戻るしかないのです。

底がぬけた状態になればなるほど、国家はおのれの責任を回避するために、自己責任だと言うようになります。そんな寄る辺なき生の中で自力救済を求めようとすれば、「ローンウルフ型テロ」や「拡大自殺」に走る人間が出て来るのは当然と言えば当然なのです。

会場に来ていた東京新聞の望月衣塑子記者が、撮影現場を取材した際に、足立監督が語っていたという話を披露していたのが印象に残りました。

山上徹也容疑者は、父親の自殺、母親の入信、兄の病気と自殺、貧困による大学進学断念という不本意な人生を歩む中でも、酒にも女にもギャンブルにも逃げることなく、愚直にまっすぐに生きて来た。そんな人間の気持を映画で描いてあげたいと思った、と足立監督は言っていたそうです。私はそれを聞いて、監督が日本赤軍に合流するためにパレスチナに旅立ったときの気持が、何となくわかったような気がしました。もっとも、パレスチナに行ったもうひとつの目的は、「赤軍-PFLP・世界戦争宣言」の続編を撮るということもあったようです(ただ撮影したフィルムは空爆で焼失したと言っていました)。

会場には、望月衣塑子記者以外にも、映画監督の森達也氏、漫画家の石坂啓氏、ドイツ語翻訳家の池田香代子氏、脚本家の荒井晴彦氏、映画監督の金子修介氏、評論家の切通理作氏などが来て、それぞれ映画の感想を述べていました。若松孝二監督や松田政男氏らも生きていたら、間違いなく会場に来ていたでしょう。

世良公則ではないですが、未だに「元日本赤軍のテロリスト」みたいなイメージが先行していますが、足立正生監督が前衛的なシュールレアリスムの作り手として知られた伝説の映画監督であり、多くの人たちが彼の新作を待ちわびていたことが、よくわかる光景だと思いました。

ついでに言えば、「やや日刊カルト新聞」の藤倉善郎氏が、カルト新聞とは別に、ライターの村田らむ氏との雑談をYouTubeに上げているのですが、昨日上げたYouTubeの中で、先行上映会で「REVOLUTION+1」を観た感想を述べていました。しかし、それはひどいものでした。

「REVOLUTION+1」のトークでも、荒井晴彦氏が辛辣な感想を述べていましたので、否定的な感想がひどいというのではありません。二人して映画を嘲笑するような、そんな小ばかにした態度があまりにもひどいのです。批判するならもっと真面目に批判しろと言いたいのです。それに、村田らむ氏は、世良公則と同じように映画を観ていないのです。ただ余談と偏見でものを言っているだけです。

YouTube
フジクラム
藤倉が安倍銃撃事件を題材にしたフィクション「REVOLUTION+1」を観ました

しかも、村田らむ氏は、足立正生監督について、次のようなツイートをしていました。


私は映画を観てないのですが、映画の中で、優しくされたアパートの隣人の女性とセックスしようとするが、寸前で主人公がハッとして拒否するというシーンがあるみたいです。それに関して、監督が村田らむ氏が書いているような説明をしたのかもしれません。村田らむ氏も映画を観てませんので、それを藤倉氏から聞いて、ツイートしたのでしょう。これじゃ#MeToo運動の名を借りた個人攻撃じゃないか、と思いました。

私は知らなかったのですが、ウキペディアによれば、村田らむ氏が出した『こじき大百科―にっぽん全国ホームレス大調査』や『ホームレス大図鑑』という本は、路上生活者を差別しているという抗議を受けていづれも絶版になっているようです(そのあと『紙の爆弾』の鹿砦社から同じようなホームレスの本を出していたのには驚きました)。唐突に4年以上前に書いた#MeTooの記事を出して批判するというのも、そのときの「左翼」に対する個人的な感情みたいなものもあるのかもしれない、と思いました。

上の動画を観てもらえばわかりますが、嘲笑しているのはどっちだというような話なのです。二人して「左翼だから」というような言葉を連発して、面白おかしく話のネタにしていましたが、何でも笑いにすればいいってものではないでしょう。

前に藤倉氏が菅野完氏と一緒に、渋谷の松濤の世界平和統一家庭連合の本部にイベントの招待状だかを持って行くという動画を観たことがありますが、その如何にもYouTubeの視聴者向けに行われたような悪ふざけに、私は、違和感と危うさを覚えたことがありました。「やや日刊カルト新聞」にはもともと遊びの要素みたいなものがありますが、鈴木エイト氏がマスコミの寵児になり注目を浴びたことで、勘違いが度を越してエスカレートしているのではないか、と思ったりしました。

藤倉善郎氏は、日本脱カルト協会がカルト化していると批判していましたが、自分たちも軽佻浮薄の中に自閉してカルト化しているのではないか、と心配になりました。
2022.09.27 Tue l 社会・メディア l top ▲
安倍元首相の国葬が火曜日(27日)に行われますが、それに合わせて都内の駅ではゴミ箱が使えないように封がされ、車内でも「ゴミはお持ち帰り下さい」という放送がくり返し流されていました。ここは山か、と思いました。

トイレも警察官が定期的に見まわっているようですが、だったらどこかの山のように、簡易トイレ持参で「糞尿もお持ち帰り下さい」と放送すればいいんじゃないか、と思いました。

この分では登山帰りに大きなザックを背負って歩いていると、職務質問されないかねないような雰囲気です。また、駅の構内でも各所に警察官が配備され、あたりに鋭い視線を走らせています。彼らの目には、目の前を行き交う国民がみんなテロリストに見えているのかもしれません。

全国から2万人の警察官が動員された「厳戒体制」というのは、さながら戒厳令下にあるようなものものしさですが、そうやって恫喝まがいの国家の強い意志を私たちに示しているのだと思います。

一方、テレビ各局も当日は特集番組を組んでいるそうです。国家の要請に従って、「歴史的な一日」を演出するつもりなのでしょう。

どんなに反対意見が多かろうが、最後は国家が求める”日常”に回収されるのです。自民党の二階俊博元幹事長は、「(オリンピックと同じように)終わったら反対していた人たちも、必ずよかったと思うはず」と発言していましたが、そうやって「必ずよかったと思う」ように仕向けるのでしょう。実際に、オリンピックも最後には「やってよかった」という意見が多数になったのでした。

国民なんて所詮そんなものという声が、どこからか聞こえてくるようです。二階は別に耄碌なんかしていないのです。彼の大衆観は間違ってないのです。

『ZAITEN』の今月号のコラムで、古谷経衡氏は、次のように書いていました。

(略)現在の右派界隈を総覧すると、統一教会と自民党(安倍家・清話会)との関係については、黙殺とする姿勢が多数を占めている。それは統一教会には一切触れずに、ひたすら安倍時代を回顧するというノスタルジー的姿勢で、実際に今年9月号の『WiLL』『Hanada』両誌は事前協定でもあったかのように「安倍回顧・ありがとう特集」を組み、表紙は揃って安倍晋三氏である。
(『ZAITEN』10月号・「『政治と宗教』で返り血を浴びる言論人」)


安倍元首相が「反日カルト」と一心同体だった、「保守」や「愛国」が虚構だった、という事実を彼らは何としてでも否定しなければならないのです。でないと、自分たちの存在理由がなくなってしまいます。

しかし、旧統一教会が「反日カルト」であることは、もはや否定しようもない事実です。安倍家が三代にわたって旧統一教会と深い関係にあったのも、否定しようがないのです。彼らが依拠する「愛国」や「反共」も、「反日カルト」からの借り物でしかなかったことがはっきりしたのです。だったら、とりあえず現実を「黙殺」して、「安倍さん、ありがとう」と引かれ者の小唄のように虚勢を張って、その場を取り繕うしかないのでしょう。

もとより、旧統一教会や旧統一教会と政治の関わりを叩くことは、山上容疑者の犯罪を肯定することになるという、ネトウヨや三浦瑠麗や太田光などにおなじみの論理も、きわめて歪んだ話のすり替えにすぎません。彼らは、もはやそんなところに逃げ込むしかないのです。

そんな彼らにとって、たとえば、27日の国葬に合わせて公開される映画「REVOLUTION+1」などは、とても看過できるものではないでしょう。その苛立ちは尋常ではありません。

今の20数年ぶりの円安もアベノミクスの負の遺産ですが、国家ともども長い間“安倍の時代”に随伴し、我が世の春を謳歌してきた者たちにとって、”安倍の時代”の終わりはあまりにもショッキングで受け入れがたいものだったはずです。

何度も言うように、山上徹也容疑者の犯行がなかったら、安倍元首相と「反日カルト」の関係が白日の下に晒されることもなかったのです。旧統一教会めぐる問題が、こんなにメディアに取り上げられることもなかったのです。山上容疑者の犯行をどう考えようが、そのことだけは否定しようのない事実でしょう。

ただ、旧統一教会をめぐる問題でも、有象無象の人間たちが蠢いているという話もあり、(変な言い方ですが)一筋縄ではいかないのです。別に旧統一教会に限りませんが、なにせ相手はお金を持っている宗教団体なのでアメとムチはお手のものです。

前も書きましたが、信仰二世の問題も、言われるほど単純な問題ではないように思います。カルトに反対しているからとか、脱会運動をしているからというだけで、”正義”だとは限らないのです。

笑えないお笑い芸人もいますが、一方で、カルトをお笑いにして(嘲笑して)お金を稼いでいる反カルトもいます。今は、そんなミソもクソも一緒くたになった状況にあることもたしかでしょう。

また、国葬は国民を「分断」する愚行だという識者の声も多く聞かれます。たとえば、朝日の「国葬を考える」という特集でも、「『国葬』が引き起こした国民の分断」とか「国葬で人々はつながれるのか  岸田首相に求められる『包摂の言葉』」などという見出しに象徴されるように、「分断」を危惧する声が目立ちました。

朝日新聞デジタル
国葬を考える

でも、そういった論理は、結局、二階が言うような「(オリンピックと同じように)終わったら反対していた人たちも、必ずよかったと思うはず」という国家が求める”日常”に回収されるだけの、日本の新聞特有のオブスキュランティズムの言葉でしかありません。宮台真司が言う「現実にかすりもしない言葉」にすぎないのです。識者たちは、新聞のフォーマットに従ってものを言っているだけなのです。

そんな中で、どこまで事件が掘り下げられているのかわかりませんが、この映画のような”直球”は貴重な気がします。「国葬反対」と言っても、こういった国家と正面から向き合う”直球”の言葉はきわめて少ないのです。

未だに左翼だとか右翼だとか、そんな思考停止した言葉しか使うことができない不自由な人間も多くいますが、映画でも文学でも、表現するということが、世の中の公序良俗に盾突くことは当然あるでしょうし、表現者なら、それを躊躇ってならないのは言うまでもありません。

2万人の警察官に守られて挙行される国葬に、ひとりの老映画監督がみずからの作品を対置するという(不埒な)行為こそ、自由な表現の有り得べき姿が示されている、と言っても過言ではないのです。

ネットには、映画の公開を前にメイキング動画がアップされていました。


企画・脚本は井上淳一。撮影監督は三谷幸喜作品にも名を連ねるあの高間賢治。音楽はドラマ「あまちゃん」の大友良英。予算わずか700万円の映画であっても、足立正生監督の心意気に、こんな豪華なメンバーが集まったのです。

今回上映されるのは、未編集のラッシュで、正式な劇場公開は年末だそうです。都内の上映会に予約しようとしたら、いづれもSOLDOUTでした。
2022.09.25 Sun l 社会・メディア l top ▲
コメンテーターひろゆき(1)よりつづく

ひろゆきは、よく2ちゃんねるを「捨てた」という言い方をしています。

前に記事で紹介した『僕が2ちゃんねるを捨てた理由』(扶桑社新書054)の中で、ひろゆきは、「2009年、2ちゃんねるをシンガポールのパケットモンスター社に譲渡しました」と言っていました。

尚、『僕が2ちゃんねるを捨てた理由』は、ひろゆき自身が、自分は長い文章を書くのが苦手なので、「今回も前著の『2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?』と同様、ライターの杉原光徳さんに文章にしてもらったりしています」、とゴーストライターの存在を明言しています。

「譲渡した理由」について、ひろゆきは同書で次のように言っていました。

(略)もっとも大きな理由というのが、ちょっと前から2ちゃんねるの運営に関して僕のやることがほとんどなかった、ということです。記事の削除やIPアドレスの制限、苦情が入ったり殺人予告が行われたときにアクセスログを提出する、といったものはすでにシステム化されていて、ほとんど関与していなかったのです。なので、やっていたことといえば、2ちゃんねるの運営にかかわっているボランティアの人同士がもめたときなどに仲裁に入るぐらい。しかも、『メガネ板とコンタクト板を分けるべきか?』といったどうでもいい話でもめた時の仲裁に入るくらいだったのです。
  で、それだけの仕事しかなかったのに、2ちゃんねるかかわっているにもどうなのか? と思ったのです。さらに、もし2ちゃんねるを手放したら、どうなるのか?  というのを見てみたくなってしまったのですね。言ってしまえば、「2ちゃんねるを手放したのは実験的なもの」だったのです。


しかし、のちにパケットモンスター社は実態のないペーパーカンパニーであることが判明しています。

清義明氏は、そのことについて、「論座」の記事で次のように書いています。

朝日新聞デジタル
論座
Qアノンと日本発の匿名掲示板カルチャー

  2011年3月27日付の読売新聞は、このパケットモンスター社が経営実態のないペーパーカンパニーだったとの現地調査を伝えている。それによれば、同社の資本金は1ドル。本店登記された場所は会社設立代行会社の住所、取締役も取締役代行をビジネスにしている人だったとのことだ。典型的なタックスヘイブンを利用した節税対策の手法である。

  同紙によるとパケットモンスター社の取締役と登記されている人は「頼まれて役員になっただけで、2ちゃんねるという掲示板も知らない」と証言し、日本から手紙などが来ても日本語が読めないため放置しているとも語った。同社の事務所とされる住所にいた人に聞くと、あっさりと「バーチャルオフィスだよ」と笑っていたそうだ。


「捨てた」というのは、ウソだったのです。実際に、2ちゃんねるが(「捨てた」のではなく)乗っ取られて、ひろゆきの手を離れたのはずっとあとになってからです。

ひろゆきが2ちゃんねるを設立したのが1999年ですが、もともとはあめぞうという別の匿名掲示板があり、2ちゃんねるはその名のとおり、あめぞうの「避難所」のような位置づけだったそうです。しかし、あめぞうはトラフィックに耐えられずサーバーダウンが常態化したことなどにより、2000年閉鎖してしまいます。

その結果、2ちゃんねるのトラフィックがいっきに増え、2ちゃんねるもあめぞう同様、大きなトラフィックに耐えられるサーバーの必要性に迫られることになったのでした。

そんな中、(のちに家宅捜索を受けることになる)札幌のIT会社の仲介で紹介されたのが、アメリカにサーバーを置いて日本で無修正のアダルトサイトを運営していたNTテクノロジー社のジム・ワトキンス氏です。そして、ひろゆきは、日本向けのホスティングサービスも行っていたNTテクノロジー社に、サーバーの管理を委託することになるのでした。

(略)この2001年前後に、ジム氏のNTテクノロジー社は2ちゃんねるから月額約2万ドルを受け取っていると2004年7月12日号のアエラ誌で答えている。そしてそれに加えてジム氏は有料課金の2ちゃんねるビューアのサービスの権利を得た。後に、このサービスは年間1億以上の売上を稼ぐようになる。こうしてジム氏はサーバーを手配し、以降2ちゃんねるは安定した通信環境で運営できるようになっていった。(略)

  一方で西村氏は自身で東京プラス社(2002年9月設立)、未来検索ブラジル社(2003年4月設立)を立ち上げ、それぞれ代表取締役と取締役に就任。広告事業や、影では企業向けの2ちゃんねるの書き込みのデータサービスや、ジム氏によれば企業向けの誹謗中傷投稿の削除業務などをビジネスとして展開しはじめたようだ。
(同上)


この時期、ひろゆきは2ちゃんねるを舞台に、文字通りマッチポンプのようなビジネスもはじめたのでした。それは、ヤクザの手口に似ています。

ところが、2011年から2012年にかけて、「麻薬特例法違反事件と遠隔操作ウイルス事件に関連する書き込みが2ちゃんねるにあったとの理由」で、ひろゆきの自宅や自身が経営する会社などが4度にわたり家宅捜索されたのでした。また、2013年には、東京国税局から、2ちゃんねるの広告収入のうち、約1億円の”申告漏れ”を指摘されたのでした。これは、再々の削除要求にも従わなかったひろゆきに対する、国家の意趣返しの意味合いがあったのは間違いないでしょう。

何のことはない、2ちゃんねるを「捨てた」はずのひろゆきが、2ちゃんねるの運営責任者として捜査の対象になったのです。ひろゆきが「譲渡した」と主張するシンガポールのパケットモンスター社も、警察や国税は、単なる「トンネル会社」にすぎないと見做したのです。

また、2013年には、2ちゃんねるで個人情報が大規模に流出するという事件も起きました。当時、私もこのブログで書きましたが、個人情報の流出によって、2ちゃんねるの投稿と有料会員のクレジットカードが紐付けされ、その情報が企業に販売されていたことも判明したのでした。

そのことがきっかけに、ひろゆきとジム・ワトソン氏の間で内輪もめが勃発します。ひろゆきが、2ちゃんねるをNTテクノロジー社から自分の会社に移転しようとしたのでした。ところが、ジム・ワトソン氏は、それに対抗して、2ちゃんねるのドメインを同氏が新たにフィリピンに設立したレースクィーン社に移転したのでした。

パスワードも変更されたため、ひろゆきは、2ちゃんねるの管理サーバーにアクセスすることができなくなります。ジム・ワトソン氏は、内輪もめに乗じて、2ちゃんねるのドメインとサーバーのデータの二つを手に入れることに成功したのでした。

翌年(2014年)、ひろゆきは、移転の無効を訴えて裁判を起こします。その裁判の中で、ジム・ワトソン氏は、ドメインの移転について、「シンガポールのペーパーカンパニーであった西村氏のパケットモンスター社に、ドメインを管理する団体から、その法人に運営実態がないとクレームが入ったからだ」と証言したそうです。ひろゆきのウソが逆手に取られたのです。

また、ジム・ワトソン氏は、サーバー代をもらってないので、サーバーの名義を自分の会社に移転したとも証言したそうです。

結局、2019年に、ひろゆきが訴えた「2ちゃんねる乗っ取り裁判」は、最高裁で原告棄却の判決が下され、ひろゆきの敗訴が確定したのでした。もっとも、実質的には、2ちゃんねるは2014年からジム・ワトソン氏に乗っ取られていました。

裁判について、清氏は次のように書いていました。

  一審ではジム氏が証人として出廷しなかったことがあり西村氏側が勝訴したが、二審でジム氏が出廷すると判決は一転した。判決に決定的な影響したのは、そもそもジム氏との西村氏側に契約書が存在しなかったという呆れるような事実である。

  また、2ちゃんねるビューアのトラブルか起きてから追加で払ったサーバー代の前払金は、西村氏とジム氏とチャットで決めたもので、そのパスワードを西村氏が忘れてしまったため、証拠として提出できないとのこと。

  ジム氏の裁判での主張は、月額約2万ドルをもらっていたのはサーバー代ではなく広告収益の共同でビジネスしてきた分配金である、ということだ。その金額はどうやって決めたかと問われて、ジム氏は「温泉で西村氏と日本酒を呑みながら決めた」ということだ。

  挙句の果てに、裁判でジム氏は、西村氏は2ちゃんねるのスポークスマンにすぎず、最初からプログラミングの技術力もさほど高くなかったし、ウェブサイトの運用にはついていけないレベルだったとし、これに限らず西村氏には2ちゃんねるの運営でやることは特になかったとまで言っている。サイトを事実上運用してきたのはNTテクノロジー社ということだ。

  極めつけに、西村氏にサイトの管理実態はないという証拠に、西村氏の著書『僕が2ちゃんねるを捨てた理由』を提出されて証拠採用されてしまう始末だ。
(同上)



日米の匿名掲示板カルチャーの伝番の系統図
(「Qアノンと日本発の匿名掲示板カルチャー」より引用)

2ちゃんねるが乗っ取られたことで、ひろゆきは、掲示板ビジネスを日本からアメリカに移すことにします。

上の「日米の匿名掲示板カルチャーの伝番の系統図」を見てもわかるとおり、日本のおたくカルチャーにあこがれるアメリカ人によって、日本のふたばちゃんねるをそっくり真似た4chanがアメリカで作られていました。ひろゆきは、その4chanを買収したのでした。すると、同時期、ジム・ワトソン氏も、まるでひろゆきに対抗するように、4chanから派生した8chanを買収して、掲示板ビジネスをはじめます(2019年に8kunと名称を変更)。

やがて、二つの掲示板は、陰謀論者Qアノンを心酔するトランプ支持者たちの巣窟となっていきます。そして、承知のとおり、トランプ支持者たちは、アメリカ大統領選が不正だったとして、連邦議事堂襲撃事件を起こすのでした。そのため、言論の自由を重んじるアメリカンデモクラシーの伝統に則り、プラットフォーマーの責任を原則として問わないことを謳った、通信品位法(1996年)第230条の改正が、連邦議会で取り沙汰されるようになったのでした。

清氏も、「西村氏が管理する4chanはオルタナ右翼の発祥の地と目されるばかりか、Qアノンが最初に現れた掲示板である」と書いていました。また、「4chanが変質したのは西村氏が経営権を取得してからだというのはVICE誌も指摘している」として、次のように書いていました。

  しかし西村氏は投稿規制にこれまで以上に積極的ではなく、一応はルールとしてあった人種差別投稿の禁止というルールがほとんど守られなくなった。そして一部のボランティアの管理者の独断による掲示板の運用が進み、一応は存在していた差別的な投稿の禁止のガイドラインが著しく後退してしまったという。(略)

  そうして、アニメやコスプレやスポーツについて話したり、時にはポルノ画像を閲覧したりするためにサイトにアクセスしたユーザーは、ネオナチや白人至上主義、女性嫌悪や反ユダヤや反イスラムのイデオロギーについての投稿を学んでいく。ヘイトの「ゲートウェイコンテンツ」に4chanはなっているというわけだ。こうして4chanは極右や差別主義者の政治ツールになってしまった。ここに集まる白人至上主義や女性差別主義者の群衆は、やがてそしてここにトランプ支持者のコア層となっていく。これがいわゆるオルタナ右翼である。(略)

  ネットリテラシーなど関係なく、様々な人々を吸引した4chanは、そうしてヘイトの巨大な工場となった。アメリカのパンドラの箱は開いた。そこからダークサイドの魔物が次々と姿を現していく。

  その魔物のひとつがQアノンだ。
(同上)


Qアノンの陰謀論の拡散に一役買ったような人物が、コメンテーターとして再び日本に舞い戻り、「論破王」などと言われて若者の支持を集め、さらには社会問題についても、お茶の間に向けてコメントするようになっているのです。

2ちゃんねるを「捨てた」という彼の発言を見てもわかるように、ひろゆきが言っていることはウソが多いのです。だからこそ、「論破王」になれるとも言えるのです。

”賠償金踏み倒し”もさることながら、そんな人物に、常識論や良識論を語らせているメディアの”罪”も考えないわけにはいきません。

それは、みずからのコメントに対する批判・誹謗に対して、こともあろうにスラップ訴訟をほのめかすようなお笑い芸人を、ニュース・情報番組のキャスターに起用しているメディアも同様です。件のお笑い芸人が、自分たちにとって、獅子身中の虫であることがどうしてわからないのか、と思います。

コメンテーターひろゆきの存在は、このようにみずから緩慢なる自殺を選んでいるメディアの末路を映し出していると言えるでしょう。
2022.09.24 Sat l ネット l top ▲
『ZAITEN』2021年9月号のインタビューで、近現代史研究家・辻田真佐憲氏が、次のように語っていたのが目に止まりました。

ZAITEN
【全文掲載】辻田真佐憲インタビュー「『2ちゃんねる』ひろゆきの〝道徳〟を 甘受する『超空気支配社会』の大衆」

辻田氏は、SNSはもはや「〝リアルを忍ぶ仮の姿〟ではなくなった」と言います。そして、SNSを通して、「人々が空気の微妙な変化を読み、キャッチーな言動で衆目を集め、動員や自らの利益に繋げようとする中で、新たなプロパガンダや同調圧力が生み出されている」と言うのです。「それは、言論のクオリティや深度を問わない空虚なゲームでしか」ないのだ、と。

そして、「こうしたゲームに長けているのが、連続性に重心を置かず、瞬間的な立ち振る舞いをよしとする人たちで」、その典型が西村博之(ひろゆき)だと言います。でも、彼は、「それこそ『誹謗中傷を是とするネットメディアでカネを稼いだ人』と言われても仕方がない」人物なのです。

  (略)そんなひろゆきが今や、メディアで堂々と「道徳」を語っています。つまり、"武器商人"が平和を説くような状況を、人々が受け入れているわけで、これをどう解釈すべきか。つまり、「今日言っていることと、明日言っていることが違っていても問題ない」「瞬間的に話題になれば、言い逃げであったとて構わない」「過去を顧みず、今、数字とカネを得られれば勝ちである」ということです。超空気支配社会の元で、そうした価値観が息づいているのは間違いありません。


私も前から言っているように、昔、職場には、交通違反で捕まってもどうすれば切符を切られずに逃れられるかとか、違反金を払わずに済むにはどうすればいいか、というようなことを得々と話すおっさんがいました。ひろゆきはそれと似たようなものです。

清義明氏は、朝日新聞デジタルの「論座」で、2ちゃんねるを立ち上げネットのダークヒーローとして登場し、数々の賠償金請求訴訟で雌伏のときを過ごした末に、今日のようにメディアのコメンテーターとして“華麗なる復活”を遂げた、この20年のひろゆきの生きざまを、5回にわたってレポートしていました。その中で、彼の“賠償金踏み倒し”について、次のように書いていました。

朝日新聞デジタル
論座
Qアノンと日本発の匿名掲示板カルチャー

(略)「誰かが脅迫電話を受けたとしたら、携帯キャリアを訴えますか?」(『VICE』2008年5月19日 )と西村氏はうそぶく。

「裁判所には行ってたこともあるんですが、あるとき寝坊したんです。でもなにもかわらなかった。それで裁判所に行くのをやめたんです」(『VICE』2009年5月19日)と西村氏はインタビューで答えている。

  敗訴しても、賠償金は踏み倒すと豪語していた。そうして裁判に協力しないばかりか被害者補償を財産がないとして無視するようになり、挙句の果てには「時効も法のうち」と豪語するようになった。(略)

  こうした不作為により、2007年3月20日の読売新聞によれば、この時点で少なくとも43件で敗訴。それでも「踏み倒そうとしたら支払わなくても済む。そんな国の変なルールに基づいて支払うのは、ばかばかしい」「支払わなければ死刑になるのなら支払うが、支払わなくてもどうということはないので支払わない」と平気な顔をしていた。完全な確信犯の脱法行為である。


ひろゆきは、損害賠償請求を起こされた当時は、プロバイダー責任制限法がまだなかったので、責任を問われる筋合いではないと言っているそうですが、それについても、清氏は、次のように指摘していました。

  プロバイダ責任制限法という法的なルールか出来たのは2002年。西村氏が訴えられた民事訴訟の多くは、その法律が施行された後のことだ。訴えた人は、プロバイダ責任制限法のルールにそって、それぞれに損害や精神的な被害を与えた書き込みを要請したのだが、それでも西村氏は削除しなかったのである。警察庁の外郭団体からの年間5000件の削除依頼も正式な2ちゃんねるの手続きを経ていないということで放置していた。


私も、当時、ひろゆきが住所として届け出ていた新宿だったかのアパートの郵便受けに、訴状や支払い命令などの「特別送達」の郵便物が入りきらずに床の上まであふれている写真を見たことがありますが、ひろゆきはそうやって賠償金の支払いをことごとく無視してきたのです。その金額は4億円とも5億円とも、あるいは10億円以上とも言われています。

そして、10年の時効まで逃げおおせた挙句、2ちゃんねるで名誉を毀損され泣き寝入りするしかなかった被害者を、上記のように「ざまあみろ」と言わんばかりに嘲笑ってきたのです。

そのひろゆきが、今やメディアのコメンテーターとして、どの口で言ってるんだと思うような常識論や良識論をお茶の間に向けて発信しているのです。

それどころか、福岡県中間市の「中間市シティプロモーション活動」のアドバイザーに就任したり、金融庁のYouTubeに登場して、何故か「以前から知り合い」だという金融庁総合政策課の高田英樹課長と、「ひろゆき✕金融庁  金融リテラシーと資産形成を語る」という対談まで行っているのでした。対談の中で、ひろゆきは、「友達に聞かれた場合は、とりあえず全額NISAに突っ込めって言ってます」と語っていたそうです。

中間市や金融庁の担当者は、ひろゆきの”賠償金踏み倒し”について、口をそろえて「詳細は承知していない」と答えていますが、それは旧統一教会との関係を問われた政治家たちの“弁解”とよく似ています。まして、「以前から知り合い」だという金融庁総合政策課の高田英樹課長が、ひろゆきの素性を知らないわけがないでしょう。

一方で、ひろゆきは、旧統一教会の問題では、いつの間にか批判の急先鋒のような立ち位置を確保しているのでした。

PRESIDENT Onlineでは、鈴木エイト氏と対談までして、何だかメディアのお墨付きまで得ている感じです。しかし、同時に、国葬に関する発言に見られるように、その言動には多分にあやふやな部分もあります。要するに、営業用にそのときどきの空気を読んで世間に迎合しているだけなので、流れが変わればいつ寝返るか知れたものではないでしょう。Qアノンの陰謀論を拡散した人物が、旧統一教会批判の急先鋒だなんて、悪い夢でも見ているような気がするのでした。

PRESIDENT Online
鈴木エイト×ひろゆき「自民党の旧統一教会"自主点検リスト"は、あまりに杜撰でひどすぎる」

東洋大学教授の藤本貴之氏も、メディアゴンのメディア批評で、“賠償金踏み倒し”を自慢げに語るような人物が、旧統一教会を批判していることに「強い違和感を覚えた」、と書いていました。

メディアゴン
4億円踏み倒し「ひろゆき氏」の統一教会批判に感じる違和感

藤本氏は、「法の抜け穴を見つけだし、法の盲点を突く脱法テクによって、法律的にグレーであっても、100%黒でない限り『何が悪いんですか?  悪く感じるのは、あなたの感想ですよね?』」という、旧統一教会などのロジックは、ひろゆきの“賠償金踏み倒し”の屁理屈にも共通するものだと言います。

筆者が感じた違和感というのは、ひろゆき氏のロジックと脱法テクニックも、結局は旧・統一教会のような団体とほとんど同じではないのか、という点だ。もちろん、ひろゆき氏は霊感商法をしているわけではないし、高額な壺を売っているわけでもない。しかし、手法や考え方はほぼ同じではないのか。

違法でなければ何をしてもよい、ロジカルに説明できれば間違えていない、論破できれば相手が悪い・・・というスタンスは脱法反社組織のそれとまったく同じだ。被害者が泣き寝入りしがちであるという点も似ている。


大塚英志は、「旧メディア のネット世論への迎合」ということを常々言ってましたが、コロナ禍のリモートの手軽さもあって、ネットのダークヒーローをコメンテーターとして迎えた旧メディアは、文字通りネット世論に迎合したとも言えるのです。ひろゆきがテレビの視聴率にどれだけ貢献しているのかわかりませんが、そうやって旧メディアは、ネットの軍門に下ることでみずからの首を絞めているのです。

コロナの持続化給付金詐欺には、闇社会の住人だけでなく、学生や公務員といったごく普通の若者たちも関与していたことがわかり、社会に衝撃を与えました。彼らには、犯罪に手を染めたという感覚はあまりなく、どっちかと言えば、ゲーム感覚の方が強かったのだろうと思います。「法の網をかいくぐってお金を手に入れるのが賢い。それができない頭の悪い人間は下層に沈むしかない」とでも言うような、手段を問わない拝金主義の蔓延は、ひろゆきの“賠償金踏み倒し”やそれを正当化する屁理屈と通底する、ネット特有のものとも言えるのです。

ネットの黎明期に、「ネットは悪意の塊だ」と言った人がいましたが、ネットによって悪知恵が称賛されあこがれの対象にさえなるような風潮が若者たちをおおうようになったのは事実でしょう。その「悪意」の権化のような人物が、コメンテーターとして旧メディアにまで進出してきたのです。

ひろゆきは、2009年に出した『僕が2ちゃんねるを捨てた理由』(扶桑社新書054)の中で、「テレビのモラルとネットのモラル」について、次のように言っていました。

  雑誌でもテレビでもネットでも、コンテンツを作るうえで間違った方向に走ってしまうことはよくあります。とはいえ間違った方向に走ったら、「これは違うよね、よくないよね」と言って軌道修正すべきでしょう。しかし、テレビには軌道修正する動きが見えてこない部分があります。だったら、「ネットの情報なんて、もっとモラルがないし、ヒドイ」とか思う人もいるはず。
  でもよくよく考えてみてください。ネットは、誰もが情報発信できるツールなので、そもそもモラルがないのです。しかし新聞や雑誌、テレビなどは、ものすごい参入障壁があるぶんモラルがあって格式があるメディア。だからこそ、自社のイメージをよくするためにも、企業が番組スポンサーとして多額の広告費を払うのです。そうやってスポンサーのイメージをよくするために、いいイメージのコンテンツを作らなければいけないのに、情報の軌道修正を謝り、格式の高さを自ら捨てはじめている。


今読むと、これ以上の皮肉はないように思います。これが、ひろゆきが「論破王」と言われるゆえんかもしれません。テレビはひろゆきに愚弄されているのです。それがまるでわかってない。(つづく)

コメンテーターひろゆき(2)へつづく
2022.09.23 Fri l ネット l top ▲
エリザベス女王の国葬の模様が連日、歯の浮いたような賛辞とともにテレビで放送されています。まるで大英帝国の残虐な侵略の歴史を、忘却の彼方に追いやったかのようなお追従のオンパレードです。

今の時代に国王なんてあり得ないだろう、などと言おうものなら、それこそひねくれものの戯言のように言われかねないような雰囲気です。

イギリスの立憲君主制は昔の王政とは違うんだ、特別なんだ、という声が聞こえてきそうですが、でも、それってただ君主制を延命させるための方便にすぎないのではないか、と思ってしまいます。

そうまでしてどうして君主制を延命させなければならないのか。そう言うと、イギリスは連邦国家なので、国民を統合する象徴が必要なんだ、などとどこかで聞いたことのある台詞が聞こえてきそうです。

もっとも、イギリス連邦というのは、大英帝国の侵略史の残り滓みたいなものでしょう。やはり、イギリス国民の中には、左右を問わず、未だに”過去の栄光”を捨てきれない気持があるんじゃないか、と思ったりします。EU離脱も、同じ脈絡で考えると腑に落ちる気がします。

またぞろこの国の左派リベラルのおっさんやおばさんたちの中から、安倍元首相の国葬はノーだけど、エリザベス女王の国葬はイエスだ、という声が出て来ないとも限らないでしょう。

何故か日本には、イギリスは法の支配が確立した立憲主義の元祖のような国なので、今のような理想的な立憲君主制が生まれたのだ、と言う人が多いのですが、そのためか、二大政党制を志向する政治改革だけでなく、”開かれた皇室”など天皇制のあり方などにおいても、日本はイギリスをお手本にしているフシがあります。

しかし、イギリス王室の血塗られた歴史を見てもわかるとおり、君主制は所詮君主制であって、民主主義にとって不合理且つ不条理な存在であるのは否定すべくもないのです。それに、イギリス連邦も日本で見るほど一枚岩ではなく、スコットランドの独立も現実味を帯びつつあると言われています。

一方、日本でも1週間後に、エリザベス女王とは比ぶべくもない「反日カルト」の木偶みたいな人物の国葬を控えていますが、安倍派の世耕弘成参院幹事長は、先日の同派の会合で、国葬について、憲政史上最長の8年8カ月間、首相の地位を担った「その地位に対する敬意としての国葬だ」と強調したそうです。

日本国憲法は、第14条に、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と謳っていますが、世耕氏が言うような理由で、国費を使って国葬を行うのは、まさに法の下の平等に反する行為と言ってもいいでしょう。学校の授業で、子どもから憲法との整合性について疑問が出されたら、教師はどのように説明するつもりなのか、と心配になりました。

余談ですが、ひろゆきは、いくら反対だからと言って、葬式のときくらいは静かに見送るべきだ、とトンチンカンなことを言ってましたが、葬儀は既に7月12日に増上寺で終えているのです。国葬と言っても、実際は「お別れ会」のようなものです。そもそも賠償金を踏み倒したことを得意げに語るような人物から、冠婚葬祭の礼節を説かれる筋合いはないでしょう。何だか説教強盗に遭ったような気持になるのでした。

もうひとつ余談を言えば、自民党の村上誠一郎元行政改革担当相は、国葬に欠席する旨をあきらかにした上で、安倍元首相について、「財政、金融、外交をぼろぼろにし、官僚機構まで壊した。国賊だ」と批判していました。どこぞの痩せたソクラテスになれない肥った豚や仔犬も笑ってる愉快なサザエさんに聞かせてやりたい話です。二人は、村上氏の爪の垢でも煎じて飲んだ方がいいでしょう。(※この部分はあとで追記しました)

時事ドットコムニュース
安倍氏国葬を欠席へ 自民・村上氏

岸田首相は、今回の国葬について、内閣府設置法を根拠に決定した、と言っていますが、しかし、今回の国葬は、同法が定める「内閣の儀式・行事」ではなく、岸田首相自身も明言しているように「国の儀式」なのです。であるならば、どう考えても、「天皇の国事行為」を模したとしか思えません。岸田首相は、政治=統治権力の外部にある、天皇制という「法の下の平等」を超越した擬制の中から、国葬の理屈を引っ張り出して、自分たちに都合がいいように解釈したにすぎないのでしょう。

それは、国葬だけではありません。そのときどきに、政治=統治権力の外部にある天皇制という”治外法権”の中から都合のいい理屈を引っ張り出して来るのが、日本の政治、統治の特徴です。そして、その先にあるのが丸山眞男が言う日本特有の無責任体制です。

丸山眞男は、日本の近代政治における無責任体制の原型を明治憲法に見るのですが、そのメカニズムは、当然ながら戦後憲法下にも貫かれています。

  明治憲法において「殆ど他の諸国の憲法には類例を見ない」大権中心主義(美濃部達吉の言葉)や皇室自律主義をとりながら、というよりも、まさにそれ故に、元老・重臣など憲法的存在の媒介によらないでは国家意思が一元化されないような体制がつくられたことも、決断主義(責任の帰属)を明確化することを避け、「もちつもたたれつ」の曖昧な行為連関(神輿担ぎに象徴される!)を好む行動様式が冥々に作用している。「補弼」とはつまるところ、統治の唯一の正当性の源泉である天皇の意思を推しはかるゝゝゝゝゝと同時に天皇への助言を通じてその意思に具体的内容を与えることにほかならない。さきにのべた(引用者註:「國體」にみられる「抱擁主義」と表裏一体の)無限ゝゝ責任のきびしい倫理は、このメカニズムにおいては巨大な無責任ゝゝゝへの転落の可能性をつねに内包している。
(丸山眞男『日本の思想』岩波書店)


つまり、日本人が好きな「連帯責任」みたいなものは、いつでも無責任(体制)に反転し得るということです。「みんなで渡れば怖くない」というのは、集団の中に埋没して「誰も責任を取らない」日本人の精神性エートスを表しているのです。

今回の国葬は、莫大な税金を使った文字通りの”お手盛り”と言えるでしょう。そこにあるのは、国家を私物化する政権与党の世も末のような醜態です。それはまた、「愛国」を唱えながら「反日カルト」に「国を売っていた」「保守」政治家たちの”国賊”行為にも通底するものです。(ブルーリボンのバッチを胸に付け)日の丸に拝礼して、「天皇陛下バンザイ」とか「日本バンザイ」と叫んでおけば、どんなことでも許されるという無責任体制。

その傍らでは、下記に書いているように、人知れず亡くなり、誰も立ち会う人もなく荼毘に伏され、無縁仏として「処理」される人々もいます。同じ国の国民とは思えないこの天と地の違い。国葬には、そんな「社会的身分」や「門地」で差別される、国家の構造が露わになっているように思えてなりません。でも、政治家はいわずもがなですが、家畜化された国民も、「自己責任だ」「自業自得だ」などとアホ丸出しで天に唾するようなことを言って、その国家の構造を見ようとはしないのです。


関連記事:
「福祉」の現場
ある女性の死
かくも脆く儚い人生
2022.09.20 Tue l 社会・メディア l top ▲
Yahoo!ニュースに、コラムニストの佐藤誠二朗氏が書いた次のような記事が転載されていました。

Yahoo!ニュース(ライフ)
集英社オンライン
みちのく車中泊の旅で最大の失敗は、犬を連れてきたことだった

スタインベックが『チャーリーとの旅』で書いていたような犬との車旅にあこがれて、6歳の愛犬と一緒に「車中泊東北一周の旅」に出かけたときのことを綴った記事ですが、結局、愛犬がホームシックにかかってしまい、予定より3日繰り上げて9日間の旅を終え東京に戻ることになったという話です。しかし、私の目に止まったのは、記事よりコメント欄の方でした。

次のようなコメントが書かれていたのです。

同じスタインベックの「怒りの葡萄」というアカデミー賞映画で世界恐慌の中、借金で農地と家を奪われた農家の家族が家財道具一式をフォード車に詰め込み職を求めてアメリカ各州を放浪するストーリーがあったけど、今の日本でも俺が住んでるトコの近隣市の日立市内で家電メーカーをハケン切りされて寮・社宅を追い出された非正規が家財道具を貸しコンテナ倉庫に入れ自身は車中泊してスマホで就活しているカーホームレスも多く見かける。
未練がましくなぜ日立市内のかつての寮の近くで車上生活しているのか図々しく聞いたことがあるけど追い出された日立市内の借り上げ寮は外付け郵便ポストで寮に今も届く郵便物を取り出すためだとの話を聞いて心が苦しくなったよ! 住所を変更しようにも変更する住所が無いんだから…
いま貧困は日常でよく見かける風景になってしまった。


記事とはまったく関係のない話ですが、私たちはこういった現実は知っているようで、案外知らないのではないか、と思ったのでした。

今の20数年ぶりと言われる円安にしても、「物価が高くなった」とかいった漠然とした感覚があるだけで、まだ生活が逼迫するような状況に追いつめられているわけではありません。このように、今の日常に安楽している人々の想像力が及ぶ範囲はたがか知れているのです。もとより、所詮は他人事で想像力さえはたらせない人も多くいます。

メディアにしても、円安で値上げが目白押しといった程度のおなじみの文句を並べているだけです。それどころか、入国制限の緩和と結び付けて、円安で外国人観光客が殺到して千客万来が期待できるような話さえふりまくあり様です。

しかし、円安は日米の金利差だけではなく、「買い負け」や「日本売り」による要因も大きいという声もあります。そもそも先進国で日本だけが超低金利政策(マイナス金利政策)を取り続けなければならないのも、そうしなければならない切実な事情があるからです。

円安が日米の金利差だけによるものなら、今の超低金利政策を転換すればいいだけの話です。こんな超低金利政策を維持しているのは、今や日本だけなのです(スイスもマイナス金利政策を取っていますが、早晩欧米各国に連動して方針転換すると言われています)。

でも、それができないのです。いつまで経っても体力が回復しないので、栄養剤の注入を止めるわけにはいかないのです。でも、他の国はとっくに体力が回復して次のレースに参加しています。日本だけが参加できない。それでは、「買い負け」や「日本売り」になるのは当然です。円安が進行すれば、益々「買い負け」や「日本売り」が進むでしょう。今の日本は、そういったどうしようもない負のスパイラルに陥っているのです。

日本の没落は、IMFが発表するデータを見ても明白です。
数値は主に下記サイトより引用しています。

世界経済のネタ帳
世界のランキング
https://ecodb.net/ranking/
※元データはIMF - World Economic Outlook Databases (2022年4月版)。

日本の名目GDP(国内総生産)はアメリカ・中国に続いて第3位ですが、アメリカが22,997,50(単位10億ドル)、中国が17,458,04(同)に対して、日本は4,937.42(同)でその差は大きく開いています。それどころか、第4位のドイツが4,225.92(同)で、すぐまじかにせまっているのです。名目GDPは、為替相場や物価だけでなく、人口規模にも影響されます。2020年現在の人口を比べると、ドイツは8324万人で日本は1億258万人ですので、人口は20%少ないのです。それでも名目GDPはほぼ肩を並べるくらいになっているのです。ちなみに、為替相場と物価を換算した購買力平価GDPだと、日本はインドにぬかれて4位になります。

これは購買力平価の指標にもなっているのですが、各国の物価を比較するのに、「ビッグマック価格」がよく知られています。「ビッグマック価格」は、ビッグマック1個の価格をUSドルに換算して比較したものですが、2022年は、日本は54ヶ国中41位の2.83USドル(390円)でした。でも、その後、急激な円安で円がおよそ36%下落していますので、順位はさらに下がっているはずです。今や日本は、先・中進国の中でもっとも安い国になりつつあるのです。不動産から買春まで、「安くておいしい国」になっているのです。

昔はスケベ―なおっさんたちが韓国にキーセン観光に行っていましたが、今はまったく逆で韓国から買春ツアーで来るようになっているのです。それは韓国だけではありません。中国や中東あたりからもツアーでやって来るそうです。

また、国民一人当たりの豊かさを示す一人当たりGDPは、日本は名目で第28位(前年より-4位)、購買力平価で36位(-3位)です。韓国の一人当たりGDPは、名目、購買力平価ともに30位です。購買力平価一人当たりGDPでは既に韓国にぬかれているのです。平均年収でもぬかれていますので、そういった国民の生活実態(豊かさ)が一人当たりGDPにも示されていると言えるでしょう。

平均年収に関しては、IMFのデータとは外れますが、OECDが「世界平均年収ランキング」(2020年現在。USドル&購買力平価換算)を発表しています。それによれば、加盟国38ヶ国の中で、日本は38,515USドルで22位、韓国は41,960USドルで19位です。

一方、経済成長率になると、もっと衝撃的な数字が出てきます。経済成長率とは、「GDPが前年比でどの程度成長したかを表す」もので、以下の計算式で算出した指標です。

経済成長率(%)= (当年のGDP - 前年のGDP) ÷ 前年のGDP × 100

それによれば、日本は何と191位中157位なのです。前年が107位だったので、1年で50位も下落しているのです。

何だか溜息が出るような数値ばかりですが、「豊かさ」ということで言えば、日本はもはや先進国ではないのです。ただ、2000兆円という途方もない個人金融資産、つまり、過去の遺産があるので、それを食いつぶすことで先進国のふりができているだけです。

これらの指標は、まさにYahoo!ニュースのコメントにあるような光景を裏付けていると言えるでしょう。「一億総中流」なんて言っていたのはどこの国だ?、と思ってしまいます。ついこの前までそう言って「豊かな国ニッポン」を自演乙していたのです。

しかも、家電メーカーの工場で派遣切りに遭ったという話も、今の日本を象徴しているように思いました。日本の白物家電が世界の市場を席捲していたのも今は昔です。ひと昔前まで、安かろう悪かろうの代名詞のように言われていた中国のハイアールは、今や大型白物家電では世界シェアナンバーワンの企業になっています。三洋電機もハイアールと合併しましたが、結局、ハイアールブランドに統合されてしまいました。日本のメーカーは見る影もないのです。

日立の光景が映し出しているのは、先進国で最悪と言われる格差社会=貧困の現実です。こんな光景が日本の至るところに存在するのです。もちろん、それは、非正規の労働者だけの話ではありません。低年金や生活保護でやっと生を紡ぐ高齢者やシングルマザーなど、「自己責任」のひと言で社会の片隅に追いやられている人たちはごまんといます。でも、多くの日本国民は、そういった人たちを見ようとも、知ろうともしないで、ネットの同調圧力に身を任せて、明日は我が身の現実から目をそらすだけなのです。

同じスタインベックの作品や同じ車中泊の話に対して、さりげなく逆の視点を提示したこの投稿主は凄いなと思いました。

自分とは違う生活や生き方をしていたり、違う言語や文化で生きている人たちのことを、想像力をはたらかせて知る、知ろうとすることが「教養」であり、その手助けになるのが「人文知」です。コンビニの弁当売場のように、過去のデータを分析して売り上げを予想し仕入れ数を決めるような思考=「工学知」では、絶対に知ることができない現実です。”他者”を知る、知ろうとする思考は、間違ってもAIに代用できるようなものではないのです。


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2022.09.17 Sat l 社会・メディア l top ▲
何だかみんな死んでいくという感じです。

先達と呼んでもいいような、若い頃にその著書を読んでいたような人たちの訃報がこのところ相次いでいるのでした。最近はその著書なり映像なりに接する機会はありませんでしたので、なつかしさとない混ざったかなしくせつないしみじみとした気持になりました。もちろん、私よりはるかに年上で、しかも多くは90歳を越したような長寿の方ばかりです。

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森崎和江
6月15日逝去、享年95歳

詩人でノンフィクション作家の森崎和江氏は、総資本と総労働の戦いと言われた三井三池争議をきっかけに、谷川雁とともに筑豊の炭住(炭鉱労働者用の住宅)に移住し、同人誌『サークル村』などを発刊して、炭鉱夫たちへの聞き書きをはじめたのでした。その聞き書きは、『まっくら  女坑夫からの聞き書き』(岩波文庫)などに発表されています。また、『サークル村』は、のちに『苦海浄土』を書いた石牟礼道子氏や上野英信氏などのすぐれた記録文学も生み出しています。

森崎和江氏は、谷川雁との道ならぬ恋が有名ですが、その体験もあって、ボーヴォワールを彷彿とするような『第三の性 はるかなるエロス』や『闘いとエロス』(ともに三一書房)など女性性に関する著書も残しています。また、九州から東南アジアに娼婦として出稼ぎに行った女性たちの足跡を辿った『からゆきさん』(朝日文庫)というルポルタージュも多くの人に読まれました。

結局、敗北した闘争の総括をめぐって谷川雁と別れることになるのですが、一方、「東京に行くな」と言っていた谷川雁は、九州を捨てて上京してしまい、闘争に関係した人たちの顰蹙を買うことになります。

『原点が存在する』というのは谷川雁の著書ですが、森崎和江氏は、文字通り九州で「原点」を見続けた表現者だったのです。また、谷川雁は、『工作者宣言』で「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆である」という有名な箴言を残したのですが、それを生涯実践したとも言えるように思います。

尚、上京した谷川雁は、役員として招かれた語学教育の会社の労働争議で、社員だった平岡正明と対立することになります。また、「連帯を求めて孤立を恐れず」という谷川雁の箴言は、10年後に東大全共闘のスローガンに用いられ話題になりました。

前に韓国を旅行した際、慶州を訪れるのに、『慶州は母の叫び声』(ちくま文庫)という本を読んだ記憶もあります。尚、私が最後に読んだのは、中島岳志氏との共著『日本断層論』でした。

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『消えがての道』 九州に生きる

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山下惣一
7月10日逝去、享年86歳

山下惣一氏は、佐賀県在住の農民作家です。私は九州にいた頃、仕事で身近に見て来た農業や農村の現状について自分なりに考えることがあり、農や農村を考える集会などによく出かけていました。山下惣一氏は、そこで何度か会ったことがあります。著書ではユーモアを交えた飄々とした感じがありましたが、講演では、当時「猫の目農政」と言われた”理念なき農政”に対する怒りがふつふつと伝わってくるような話しぶりが印象的でした。その静かな怒りの背景にあるのは、”諦念の哀しみ”みたいなものもあったように思います。

私もその後、九州をあとにして再度上京することになったのですが、そのとき私の中にあったのも、田舎に対する同じような感情でした。

訃報に際して、朝日新聞の「天声人語」が山下氏を「田んぼの思想家」と称して、次のように書いていました。

朝日新聞デジタル
(天声人語)田んぼの思想家

  農作業を終え、家族が寝静まった後、太宰治やドストエフスキーを読み、村と農に思いをめぐらせる。きのう葬儀が営まれた農民作家山下惣一さんはそんな時間を愛した▼(略)山下さんは佐賀県唐津市出身。中学卒業後、父に反発し、2回も家出を試みる。それでも農家を継ぎ、村の近代化を夢見た。減反政策に応じ、ミカン栽培に乗り出すが、生産過剰で暴落する。「国の政策を信じた自分が愚かだった。百姓失格」と記した


谷川雁と山下惣一氏に接点があったのかどうかわかりませんが、「農作業を終え、家族が寝静まった後、太宰治やドストエフスキーを読み、村と農に思いをめぐらせる」その後ろ姿には、まぎれもなく「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆である」山下氏の生きざまが映し出されていたように思います。

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鈴木志郎康
9月8日逝去、享年87歳

鈴木志郎康氏は、私自身が何故かずっと気になっていた詩人でした。何故、そんなに気になっていたのか、このブログでも書いています。

私が気になっていた「亀戸」の詩は、鈴木氏がまだNHKに勤務していた頃の作品ですが、「亀戸」という地名が当時九州で蟄居していた私の心に刺さるものがあったのだと思います。九州の山間の町の丘の上にあるアパートの部屋で、その詩を読んだ当時の私を思い出すと、今でも胸が締め付けられるような気持になるのでした。

関連記事:
「亀戸」の詩

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ジャンリュック・ゴダール
9月13日、享年91歳

もちろん、私は、ヌーヴェルヴァーグの旗手と言われた頃のゴダールを同時代的に観ているわけではありません。ただ、予備校の授業をほっぽり出してアテネ・フランセの映画講座に通っていた私は、当然ながらゴダールの作品も観ていました。

ゴダールと言えば、トリュフォーとともに「カンヌ国際映画祭粉砕」を叫んで会場に乗り込んだ話が有名ですが、海外の映画祭で受賞することばかりを欲して、いじましいような映画ばかり撮っている今の風潮を考えると、あの時代は遠くなったんだなと思わざるを得ないのでした。

私はまだ10代でしたが、アテネ・フランセの上映会で、足立正生監督の『赤軍 PFLP・世界戦争宣言』を観たとき、ゴダールに似ているなと思ったことを覚えています。その際、ゲストで来ていた監督に対して、カメラの目の前でパレスチナの兵士が撃たれたらどうするか、カメラを置いて銃を取るのか、というような質問があったのですが、それからほどなく監督はパレスチナに旅立ったのでした。

ある日、新宿の紀伊国屋書店に行ったら、ゴダールの映画ポスターの販売会のようなものをやっていて、階段の上に、買ったばかりの「中国女」だったかのポスターを持ち、もう片方の手に缶ピー(缶入りのピース)を持った長髪の同世代の若者が、物憂げに座っていたのが目に入りました。その姿が妙にカッコよく見えたのを覚えています。

あの頃は、論壇にもまだ新左翼的な言説が残っていたということもあって、近所で幽霊屋敷と呼ばれるような実家に住んでいると噂された小川徹が編集長の『映画芸術』や松田政男の『映画批評』なども、過激で活気がありました。まさに、缶ピーが似合う時代でもあったのです。

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たしかに”時代の意匠”というのはあるのだと思います。大塚英志ではないですが、私たちの時代、厳密に言えば、私たちより前の時代は、今では信じられないくらい「人文知」が幅をきかせる(ことができた)時代だったのです。そんな時代の残り火を追い求めていた私は、間違いなくミーハーだったと言っていいでしょう。でも、そんなことがミーハーになれる時代だったのです。
2022.09.16 Fri l 訃報・死 l top ▲
日本がバカだから戦争に負けた


とうとう角川歴彦会長に司直の手が伸びました。私は意地が悪いので、「ザマー」みたいな気持しかありません。

その前に、文春オンラインの次の記事が目に止まりました。

文春オンライン
「絶対に捕まらないようにします」元電通“五輪招致のキーマン”への安倍晋三からの直電

記事は、『文藝春秋』10月号に掲載されているジャーナリスト西崎信彦氏の「高橋治之・治則『バブル兄弟』の虚栄」の一部を転載したものですが、その中に次のような語りがあります。

  安倍政権が肝煎りで推進した五輪招致のキーマンとなる男は、当時の状況について知人にこう話している。

「最初は五輪招致に関わるつもりはなかった。安倍さんから直接電話を貰って、『中心になってやって欲しい』とお願いされたが、『過去に五輪の招致に関わってきた人は、みんな逮捕されている。私は捕まりたくない』と言って断った。だけど、安倍さんは『大丈夫です。絶対に高橋さんは捕まらないようにします。高橋さんを必ず守ります』と約束してくれた。その確約があったから招致に関わるようになったんだ」


この「五輪招致のキーマンとなる男」とは、言うまでもなく、先月17日に受託収賄容疑で東京地検特捜部に逮捕された、東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の元理事の高橋治之容疑者です。

と言うことは、この事件も安倍案件だったのか。安倍元首相が亡くなってことによって、重しが取れて今までのうっぷんを晴らすかのように検察が動き出したのかもしれない。そんなことを考えました。

ここに来て、公安調査庁や警視庁公安部が、ひそかに旧統一教会を監視していたという話が出ています。ウソかホントか、週刊誌には、警視庁公安部が旧統一教会と安倍首相(当時)の関係を監視していた、という話さえ出ているのでした。

上記の「大丈夫です。絶対に高橋さんは捕まらないようにします。高橋さんを必ず守ります」という安倍首相の生々しい発言がホントなら、一連の摘発は、まさに検察・警察の(安倍元首相に対する)意趣返しとみることもできなくはないのです。もしかしたら、権力内部にそんな暗闘が生まれているのかも、などと思ったりもしました。

前の記事でも紹介した『日本がバカだから戦争に負けた  角川書店と教養の運命』(星海社新書)で、著者の大塚英志氏は、次のように書いていました。

  ぼくはプラットフォームを中世の楽市のような「無縁」的空間に譬えることができると思います。
「無縁」とは、それぞれのコミュニティ全てに対して「外部」です。この「外部」で物と物が流通するわけで、それが「市」です。これは世俗の外にあるのだけれど、同時に世俗の権力に拮抗する別の権力に支えられなくてはいけないわけです。(略)
  プラットフォームが既存のメディアや流通の外部で「自由」でありながら、しかしこの自由を誰が担保するのか、という問題ですね。今の日本のプラットフォーム企業はこれを「政権与党」に担保してもらうことを求めたわけです。プラットフォームの側は公共性の形成ではなく、マネタイジングを目的とし、与党に権力への同調圧力の装置を提供することで相互的関係を結んだからです。「楽市楽座」という無縁の場は、信長っていう新しい権力の庇護によって始めて可能になった。何が言いたいのかと言うと「無縁」という「外部の公共性」は旧権力からは自由ですが新しい権力の庇護がいる、ということです。それがwebという「無縁」と、「新しい権力」としての安倍以降の与党との「近さ」でも現れている。


そう言えば、ドワンゴが主催する「ニコニコ超会議」にも、2013年と2014年の2回、安倍首相が来場しています。また、夏野剛社長は、2019年に安倍首相によって、内閣府規制改革推進会議の委員に任命されています(2021年8月からは議長に指名)。

角川歴彦会長は、兄の角川春樹氏と確執があり、いったんは角川書店を追い出されたのですが、春樹氏がコカイン密輸事件等によって逮捕されたのに伴い、角川書店に戻ると、70年代からはじまった文化の「オタク化」「サブカルチャー化」を背景に、いっきにメディアミックス路線に舵を切り、ドワンゴとの合併にまで進むのでした。大塚英志氏は、それを「人文知」から「工学知」への転換だと言っていました。角川歴彦会長には、もともと「工学知」しかなく、だから、川上量生と馬が合ったのだと言うのです。

メディアミックスとオリンピックの公式スポンサーがどう関係あるのか、門外漢には今ひとつわかりませんが、要するに、79歳の鼻マスクの爺さんがネットの守銭奴たちの甘言に乗せられて暴走した挙句、いわくのある人物との闇取引に手を染めて晩節を汚した、という話なのではないか。かえすがえすも「ザマー」としか言いようがないのです。

本のタイトルの「日本がバカだから戦争に負けた」というのは、角川文庫の巻末に掲げられていた創業者・角川源義の「角川文庫発刊に際して」を、著者の大塚英志氏が評した言葉ですが、もっともその「名文」も、角川源義自身のオリジナルな文章ではなく、文豪に委託して書いて貰ったものだそうです。

角川書店と言えば、私たちは高校時代に使っていた漢和辞典の『字源』でなじみが深い出版社ですが、その『字源』も、千代田書院という出版社が大正時代から重ねてきた凸版を買い取ったものにすぎないのだとか。つまり、角川書店は、自社で開発したものは少なく、「リユースの刊行物が中心」の出版社で、今日のプラットフォーム企業としてのKADOKAWAに対しても、もともと整合性が高い企業体質を持っていた、と言っていました。

角川歴彦が好んで口にしていたのは、「ソーシャル社会」という馬が落馬した式のいわゆる重言(重ね言葉)ですが、それは「SNSでつながった社会」という意味です。

でも、大塚氏が言うように、SNSを使うということは、そのプラットホームに無意識のうちに自分自身を最適化する、しなければならない、ということでもあるのです。

その意味では、SNSは「自由な意見や自己表現の場」ではないのです。大塚氏は、アントニオ・ネグリのアウトノミア(自律)という言葉を使っていましたが、SNSは間違っても自律ではなく他律のシステムなのです。Twitterの言葉は、ロラン・バルトが言う「教養」なしでも読める「雑報」なのだと言います。それが「ソーシャル社会」なるものの本質です。

それは、次のように描かれる世界です。

  (略)角川の歴彦(ママ)のことばを借用すると、近代が構築して来た「社会」とは別に、「サブの社会」、今ふうに言えばオルタナティブな社会、あるいは、もう一つの社会、とでもいうべきものがそれぞれの国の中に今や存在しているということだ。それは、従来の階級とは異なったものだから、階級闘争は起きにくく、互いの憎悪によって対立する。貧困の問題も含め、今、起きているのは、階層化というよりは分裂なのである。


前にTwitterで新しい社会運動のスタイルが生まれると言ったリベラル系の”知識人”がいましたが、むしろ私は、SNSに依拠した社会運動の”危うさ”を感じてなりません。イーロン・マスクのTwitter買収問題に一喜一憂する「自由な言論」+社会運動って何なんだ、と言いたいのです。

日本に限っても、ネットと連動したメディアミックスやプラットフォームというと、何だか新しいもののように思いがちですが、しかし、何度も繰り返すように、日本のネット(プラットフォーム)企業には相も変らぬ、お代官様にへいつくばるような事大主義の発想しかないのです。日本のプラットホーム企業の「理念」のなさは「見事なもの」で、そもそもそう批判されても批判だと気づかないほどだ、と言っていましたが、その先にオリンピックの公式スポンサーという俗物根性があったと考えれば、何となく納得ができます(一部にはeスポーツの青田狩りという声もあるようですが)。

また、大塚英志氏は、「『保守』とか『日本』とかいう連中が『参照系』とする『日本』はひどく貧しいわけです」と言っていましたが、彼らにはそんな政治権力にすがる低俗な発想しかないのです。しかも、その「日本」にしても、隣国のカルト宗教が作成したテンプレートをトレースしたものにすぎなかったという散々たる光景を、現在いま、私たちは見せつけられているのです。

私も余計なお節介を言わせて貰えば、ニコニコ動画を根城にするネトウヨたちも、自分たちが安倍を介して「反日カルト」の走狗にさせられていた現実をぼつぼつ認めた方がいいのではないか、と思うのでした。でないと、これから益々「愛国」の始末ができなくなってしまうでしょう。帯にあるように、みんなが「バカ」になった時代の「次」も、やっぱり「バカ」だったではシャレにもならないのです。
2022.09.14 Wed l ネット l top ▲
昨年の8月に、京都府宇治市のウトロ地区の建物などに放火したとして、放火や器物損壊などの罪に問われた被告対して、8月30日、京都地方裁判所は、求刑どおり懲役4年の実刑を言い渡しました。

この事件に関して、BuzzFeedNewsは、今年の4月に下記のような記事を掲載していました。

BuzzFeedNews
在日コリアン狙ったヘイトクライム、ヤフーが被害者に「心よりお見舞い」動機に“ヤフコメ”その責任は

BuzzFeed Newsの接見と文通を通じた取材に対し、被告は、不平等感や嫌悪感情が根底にあったと説明。「(在日コリアンが)日本にいることに恐怖を感じるほどの事件を起こすのが効果的だった」と話した。

さらに、自らの情報源が「Yahoo! ニュース」のコメント欄にあったと説明。「ある意味、偏りのない日本人の反応を知ることができる場だと思っていました」としたうえで、こんな狙いがあったと明かした。

「日本のヤフコメ民にヒートアップした言動を取らせることで、問題をより深く浮き彫りにさせる目的もありました」


つまり、被告の話で示されているのは、Yahoo!ニュースがネットで自分が見たい情報しか表示されなくなる「フィルターバブル」の役割を果たしているということです。そして、ヤフコメが、かつて津田大介が朝日新聞の「論壇時評」で紹介していたように、「人々は他者からの承認目的で共通の『敵』を見つけ、みずからの敵視の妥当性を他者の賛意に求め、それを相互に確認し続ける解釈の循環を作り出す」(朝田佳尚「自己撞着化する監視社会」・『世界』6月号)場になっているということです。

朝日新聞デジタル
(論壇時評)超監視社会 承認を求め、見つける「敵」 

BuzzFeedNewsはヤフーとつながりが深い媒体ですが、ヤフーに対して「プラットフォームの社会的責任」についてどう思うか、取材しています。しかし、ヤフー広報室の回答は、相変わらず通りいっぺんなもので、コメント欄を見ればわかりますが、現在もヘイトな投稿は事実上「放置」されたままです。判決を伝えるニュースに対しても、判決を肯じない「でも」「しかし」のコメントが多く見られました。

ヤフー広報室の回答に対して、記事は次のように疑問を呈していました。

「Yahoo! ニュース」は月間225億PVを達成したこともある、日本最大級のニュースプラットフォームだ。「Yahoo! Japan」全体では月間アクティブユーザーは8400万人(2022年3月)。運営するヤフーは、企業として大きな社会的責任を背負っている。

事業者の「使命」を掲げるのであれば、自社のサービスが一因となった「ヘイトクライム」に対し、より一層はっきりとしたメッセージの発出と、これまでの対策の見直し、強化が必要なのではないだろうか。


しかし、私も何度も書いていますが、Yahoo!ニュースにとって、ニュースはページビューを稼いでマネタイズするためのコンテンツにすぎないのです。そのためには、とにかくニュースをバズらせる必要があるのです。その手段としてコメント欄はなくてはならないものです。Yahoo!ニュースがコメント欄を閉鎖することなど、天地がひっくり返ってもあり得ないことです。

ヤフー広報室が言う「健全な言論空間を提供することがプラットフォーム事業者としての使命」なるものが建前にすぎず、パトロールやAIを使った「悪意ある利用者や投稿の排除」や「外部有識者の意見を受けた見直し」も、単なるアリバイ作りにすぎないことは、誰が見てもあきらかです。それは、前から言っていることのくり返しにすぎません。

本来「公共」であるべきプラットホームを、マネタイズのツールにすること自体が「社会的責任」を二の次にしたえげつない守銭奴の所業と言わねばなりません。それは、KADOKAWA(ドワンゴ)も同じです。

プラットホームであるからには、言論・表現の自由を担保しなければなりません。でないと、ユーザーも「自由」に投稿することはないでしょう。要するに、ヤフーやKADOKAWAは、言論・表現の自由で釣って、「自由」に投稿するプラットフォームを提供しているのです。動機がどうであれ、それ自体はきわめて「公共的」なものです。

しかし、ヤフーやKADOKAWAは、その一方で、「自由」な投稿を(ユーザーのあずかり知らぬところで!)お金に換えているのでした。ページビューやビッグデータがそれです。だから、「自由」に投稿できると言いながら、会員登録を求めているのです。そうやって他のサービスを利用した履歴と紐付けることで、個人情報に付加価値を付けているのでした。にもかかわらず、彼らは会員の投稿に責任はないと言うのでした。

折しも私は、KADOKAWAの問題に関連して、大塚英志氏の『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の連帯』(星海社新書)という本を読んでいたのですが、同書の中に、次のようなヤフーに関する記述を見つけました。

   「投稿」はプラットフォームにとっては「コンテンツ」です。ヤフーニュースだけ見て、コメントは読まない、ということはあまりない。「投稿」する場を提供しているだけで、「投稿」の中味に責任はありません、って明治時代以降「中央公論」も「文學界」も、どの論壇誌も文芸誌も、言ってない。でも、プラットフォームの連中はずっとそう言って来た。
   もういい加減、それは詭弁だろ、プラットフォームとメディアは「同じ」なんだ、と誰かが言うべきですからぼくが言います。


(略)新聞も政治的ポジションは違いますが、それは記事を新聞社が自ら書き、社説その他で立場を明確にしているわけで、その責任は新聞社にあります。メディアの責任、というのは「公器」としての責任で、新聞社で立場が異なることも「公」の形成の大事な容器です。報道した内容の責任は新聞社が負う。だから、ネトウヨはあれだけ朝日新聞を叩く「大義」があったわけです。本当はヤフニュースが転載した朝日の記事が気に入らなければ、朝日じゃなくて転載したヤフーニュースを叩くべきです。Googleニュースと違ってヤフーニュースはヤフーの人間が記事をセレクトしている。つまり、「編集」しているのです。そこには「朝日の記事を選んだ責任」がある。それなのにヤフーは読者に「叩く材料」をただ提供している。


ヤフーは、そうやって巧妙に責任回避しながら、ニュースをマネタイズしているのでした。そこで求められるのは、ニュースの真贋や価値などではありません。多くのコメントが寄せられてバズるかどうかなのです。ヤフーにとっての価値は、どれだけページビューを稼げるかなのです。そのために、編集者みずからがリアルタイムにバズりそうな記事を選び、キャッチーなタイトルを付けてトピックスに上げているのです。それがYahoo!ニュースの編集者の仕事です。彼らはジャーナリストではありません。言うなれば、ハサミと糊を持ったまとめサイトの主催者のようなものです。そこにYahoo!ニュースの致命的な欠陥があるように思います。

ここからは個人的な悪口ですが、子どもの頃、佐賀県の鳥栖の駅前の朝鮮人部落で暮らしていた孫正義の頭には、「朝鮮人出て行け」と言われて日本人から投げ付けられた石によってできた傷跡がまだ残っているそうです。そんな孫正義が成りあがったら、今度は同胞に対するヘイトクライムを煽ってお金を稼いでいるのです(と言っても言いすぎではない)。しかも、ユーザーが勝手にやっていることだ、自分たちには責任はないとしらばっくれているのです。

人間のおぞましさとまでは言いませんが、ヘイトクライムの問題を考えるとき、孫正義のような存在をどう捉えればいいのか、と思ってしまいます。ひどい民族差別の記憶を持っている(はずの)彼でさえ、自分が民族差別に加担しているという自覚がないのです。

被告が在日コリアンに憎悪を募らせる根拠になった「在日特権」なるものも、まったくの子どもじみた妄想にすぎまないことは今更言うまでもありません。被告は拘置所で面会するまで、実際の在日コリアンと会ったことすらなかったそうです。単なるアホだろうと思いますが、しかし、被告は特別な人間ではありません。過半の国民も似たようなものでしょう。

Yahoo!ニュースのコメント欄が、そんな無知蒙昧な人間に差別感情を吹き込み、類は友を呼ぶスズメの学校になっているのです。被告は、犯行を振り返って、「ヤフコメ民」を多分に意識していたような発言をしていますが、そうやってヒーローになりたかったのかもしれません。彼らにとって、ヤフコメはまさにトライブのような存在なのでしょう。

被告の背後には、裁判で裁かれることのない”共犯者”がいるのです。その陰の”共犯者”は人の負の感情を煽ることで、それをビジネスにしているのです。そういったネットの錬金術師たちの存在にも目を向けない限り、ヘイトクライムの犯罪性をいくら法律に書いても、なくなることはないでしょう。


関連記事:
『あんぽん 孫正義伝』
『ウェブニュース 一億総バカ時代』
2022.09.13 Tue l ネット l top ▲
元『週刊現代』編集長の元木昌彦氏がPRESIDENT Onlineに連載する下記の記事に、旧統一教会に関して「衝撃的」とも言えるようなことが書かれていました。それは、情報誌『エルネオス』(休刊)の2018年4月号で行われた、樋田毅氏との対談の中の話です。

PRESIDENT Online
だから「生ぬるい追及」しかできない…朝日新聞が認めない「統一教会側との談合」という信じがたい過去

一連の赤報隊事件の中で、朝日新聞阪神支局の記者2名が銃撃されたのは1987年5月3日ですが、当時、『朝日ジャーナル』は、霊感商法で多くの被害者を出している統一教会(当時)に対して、詐欺商法を糾弾するキャンペーンを行っていました。そのため、「社員のガキをひき殺す」という脅迫状が届いたり、朝日新聞に国際勝共連合の街宣車が押しかけたりしていたそうです。

樋田氏によれば、「朝日ジャーナル誌上で霊感商法批判の記事を書いた記者は、信者とみられる複数の男たちによって四六時中監視されていたし、娘さんが幼稚園に通う際、これらの男たちが付きまとうので、家族や知人が付き添っていた時期」もあったそうです。また、赤報隊事件の3日後には、東京本社に「とういつきょうかいのわるぐちをいうやつはみなごろしだ」という脅迫状が届き、その中には「使用済みの散弾容器二つが同封されていた」こともあったそうです。

朝日の大阪本社は赤報隊事件のあと専従取材班を組んで、事件の真相に迫るべく「地を這はうような取材」を行なうのですが(樋田氏はのちに専従取材班のキャップになる)、対談では次のような話が出て来ます。

【元木】  (略)襲撃事件の前に、対策部長と名乗る男が、「サタン側に立つ誰かを撃ったとしても許される」と、信者の前で言っていたとも書かれています。

統一教会は、当時、全国に二十六の系列銃砲店を持ち、射撃場も併設していた。樋田さんたちは、「勝共連合の中に秘密軍事部隊が存在していた」と話す信者にも会っていますね。

【樋田】  (略)秘密軍事部隊のほうは、脱会した元信者の紹介で、学生時代の仲間で、やはり脱会していた夫婦から、「三年前に脱会する直前まで秘密軍事部隊にいて、銃の射撃訓練も受けていた」と打ち明けていたというので会いましたが、朝日の記者と名乗って話を聞いていないので、当時は記事にできませんでした。


当時、旧統一教会が全国に銃砲店を持っていたとは驚きです。こんな宗教団体があるでしょうか。当時から旧統一教会の中に、ヨハネの黙示録に出てくる「鉄の杖」を「銃」と解釈する”裏教義”があったかもしれません。それが、今の七男が設立したサンクチュアリ教会に引き継がれているのではないか。

また、元木氏は次のようなことも書いていました。

  警察は新右翼の捜査は熱心にやってくれたようだが、統一教会への捜査は及び腰だったという。

  樋田氏はこうも話してくれた。

「明治大学の吉田忠雄教授から聞いた話ですが、元警察官僚で総理府総務副長官の経験もあった弘津恭輔氏が『勝共連合が少々むちゃをしても、共産党への対抗勢力だから許される』と発言したと聞いています」

  こういう警察側の姿勢が、統一教会を追い詰められなかった大きな要因ではなかったか、そうした疑問は残る。


ところが、さらに驚くべき話があります。記者たちが多くの脅迫や嫌がせにもめげず取材にかけまわっている中で、朝日新聞の上層部は統一教会との手打ちを模索し、事件から2年後の1988年に、統一教会と朝日新聞の幹部たちの間で実質的な「手打ち」をしていたことが判明したのでした。

統一教会と「内通」していたベテラン編集委員の仲介で、「広報担当の役員と東京本社編集局の局次長の二人が、世界日報の社長や編集局長らと会食」していたのです。会食は2回行われたそうです。

旧統一教会と政治、特に政権与党がズブズブの関係を築き、政治の深部まで旧統一教会に蚕食されたその傍らで、メディアや警察も、まるで政治に歩調を合わせるかのように、旧統一教会に対する姿勢をトーンダウンしていたのです。そうやって「保守」政治家たちが、「愛国」を隠れ蓑にして、「反日カルト」に「国を売っている」「日本終わった」現実が隠蔽されたのです。

にもかかわらず、今なお旧統一教会に対する批判に対して、政治と宗教は分けて考えるべきだ、信教の自由は尊重すべきだ、感情的になって解散を求めるのは極論だ、旧統一教会なんかよりもっと大事な政治案件がある、教団を「絶対悪」と見ること自体がカルト的思考だ、教団を叩くことは信仰二世の社会復帰を拒むことになる、などという声が出ているのでした。旧統一教会から見れば、そういったカルトの本質から目をそらした訳知り気な声は、願ってもない「利用価値のあるもの」と映るでしょう。実際に、そういった訳知り気な声は、「宗教弾圧」だと抗議する教団の論拠と多くの部分が重なっているのでした。どこまでトンマな「エバ国家」なんだろうと思います。

カルトである彼らは、バッシングが続いていても怯むことなどあり得ません。手を変え品を変え、いろんなダミー団体を使って活動を続けており、最近のキーワードは、「平和」「SDGs」「医療従事者支援」だそうです。自治体や公的な団体が後援しているからと言って油断はできないのです。

問題なのは、カルトが何たるかも考えずに、「リベラル」や「ヒューマニズム」の建前論を振りかざして、結果的にカルトに抜け道を与えているような人たちです。カルトはときに「リベラル」や「ヒューマニズム」を利用することもあるのです。そのことにあまりにも鈍感すぎるのです。

口幅ったい言い方をすれば、自分たちの自由を脅かす存在とどう向き合うか、自由を奪う存在にどこまで寛容であるべきか、旧統一教会をめぐる問題が、そういった「自由と寛容」という重いテーマを私たちに突き付けているのはたしかでしょう。

それは、私たち自身が、自分たちにとってカルトとは何かを問うことなのです。そのためには、まずカルトを知ることでしょう。その上で、自分たちの自由のリスクも勘案しながら、国家に対して「解散命令」なりを要求することなのです。

あの足立正生監督が、山上徹也容疑者を描いた映画を、国葬の日の公開に合わせて突貫工事で撮っているというニュースがありましたが、映画を撮ろうと思った動機について、「この事件は事件として扱われて、半年ぐらい1年ぐらいで忘れられる可能性すらある」ので、「そういったことにしちゃいけないと思った」からだと言っていました。また、「俺は山上徹也の映画を撮る。徹底的に山上のフォローに回る。公開は断固国葬の日にやる。これが俺の国家に対するリベンジだ」とも語っていたそうです。その言やよしと思いました。

足立正生監督が言うように、30年前のように大山鳴動して鼠一匹で終わらせてはならないのです。今また、当時と同じように、信教の自由や感情論を方便に、元の鞘に収めようとする言説が出始めているように思えてなりません。あまり騒ぐと信者や信仰二世が孤立して戻って来る場所がなくなるという、その手の言説は別に目新しいものではないのです。

じゃあ、ほとんど叩かれることがなかったこの30年の間に、信仰二世は孤立することなく社会に戻って来ることができたのか、と言いたいのです。どうして、山上徹也のような人物が出て来たのか、出て来ざるを得なかったのか。「リベラル」や「ヒューマニズム」の建前論をかざして事足りとするような人たちは、その根本のところをまったく見てないような気がしてなりません。

旧統一教会に関しては、信仰二世の問題だけではありません。政治との関係もあります。それらを貫くカルトの問題があります。「リベラル」や「ヒューマニズム」の身も蓋もない建前論でカルトに抜け道を与えた挙句、「統一教会はもう飽きた」「いつまで統一教会の話をしているんだ?」となったら元も子もないのです。それでは結局、信仰二世の問題も現状のまま置き去りにされることになりかねないでしょう。

カルトの規制に関して、フランスの「反カルト法」がよく引き合いに出されていますが、フランス在住のジャーナリストの広岡裕児氏が、『紙の爆弾』10月号で「反セクト法」について書いていました。

「反カルト法」は信教の自由を侵す危険性があるという主張がありますが、それについて、広岡氏は、フランスの「反セクト法」=「アブー・ピカール法」は、(カルトを)「精神操作(マインドコントロール)とそれを使う危険な団体と定義」しているにすぎず、「宗教とは関係ない」と書いていました。

  統一教会問題の本質は精神操作(マインドコントロール)である。ところが、宗教学者たちはいまでも宗教団体における精神操作(マインドコントロール)を認めていない。これを認めると、宗教には自由意思で入るという彼らの学問の基礎が崩れてしまうからだ。
  日本で四十年来議論が進まず統一教会が跋扈している責任の一端は宗教学者にある。
  いま提起されている統一教会と政治の関係は、「宗教(団体)」と政治の関係ではなく、「重大または繰り返しの圧力、またはその人の判断を変質させるのに適した技術の結果心理的または肉体的な服従の状態を創造し利用する団体」と政治の関係なのだ。
  宗教問題ではないから宗教団体の規制とは無縁である。既成宗教は何の心配もいらない。本質をみきわめて犠牲者を減らすことを考えるべきだ。
(『紙の爆弾』10月号・広岡裕児「『反カルト法』とは何か」)


現在、「フランスでは統一教会はなきに等しくなった」そうです。「でも、それは『反カルト法』で解散させられたからではない。法的根拠ができたために、追及を逃れようとさまざまなセクト的団体は、活動を穏健化させ、金銭的要求などもおさえている」からだそうです。つまり、法律の抑止効果のためなのです。

しかし、私は、カルトを宗教団体に限定せずに、「精神操作(マインドコントロール)とそれを使う危険な団体」と対象を団体一般に広げたことで、民主主義にとってはリスクが大きすぎるように思いました。そう考えると、個人的には、やはり現行法(宗教法人法)で対処するのが適切なように思います。

鈴木エイト氏によれば、今、教団がいちばん怖れているのが「解散命令」だそうですが、消費センターへの接触も、被害届(被害の拡大)を窓口で防ぐという狙いがあるのは明白です。それくらい教団も必死なのです。

「自身が信仰を望まない場合でも宗教活動を強制させられる」、いわゆる「宗教虐待」を受けている「統一教会の祝福2世」の方が、change.orgで、宗教虐待防止のための法律制定を求めるネット署名を立ち上げています。

change.org
【統一教会・人権侵害】宗教虐待防止のための法律制定を求めます。#宗教2世を助けてください #宗教2世に信教の自由を

その中で、「提言」と「問題の概要」について、次のように書かれていました。

【提言】
子供の基本的人権(信教の自由・幸福追求権など)を守るために必要な法律の整備をお願いします。
①虐待の定義に「宗教虐待」の概念を追加
②子供に対する宗教虐待の禁止、刑事罰化
③他者に対して宗教虐待を行うように指導する行為を厳罰化

【問題の概要】
多くの日本の宗教信者の子供(宗教2世)は「自身が信仰を望まない場合でも宗教活動を強制させられる」という問題を抱えています。(以後「宗教虐待」と呼びます。)

これは、宗教組織が存続するために、資金源・労働力となる信者が抜け出せない様な『歪んだ教義』を作り上げている事が大きな原因です。宗教組織が、更なる信者確保のために真っ先に狙うのは信者の子供です。宗教組織(特に新興宗教)が信者の子供を狙うのは常套手段なのです。

しかし、この問題は『非常にセンシティブな家庭内の問題』として日本社会は介入しません。蹂躙され続ける宗教2世の存在を、2世自身が独力のみで家族を捨てて脱会することの厳しさを日本社会は十分に認知せず、問題が存在しないものとして扱われてきました。日本の立法機関や行政機関による「家庭内の問題や宗教活動に対して強く干渉しない姿勢」がこれらの被害を増大させてきました。

宗教2世には、日本国憲法の定める『基本的人権』がありません。日本社会はこの人権蹂躙を許してはいけないと私は強く確信しています。これは宗教組織が仕組んだ『虐待』の問題なのです。

日本では信教の自由が認められているからこそ宗教組織は活動できる。一方その結果、信者の子供たちの人権が侵されています。


社会保障にしても、日本では「世帯」が基本です。まず家庭(家族)による自助努力が前提なのです。行政による援助はその先にしかありません。それは、カルトの問題も同じです。それが日本を「カルト天国」にした所以なのでしょう。

これを読むと、救済のための法整備とともに、教団の活動を規制する必要があるということがよくわかります。専門家の話では、マインドコントロールから脱するには、まず教団との連絡を絶つことが大事だそうです。信仰二世の問題の前には子どもを信仰に縛り付ける親の問題もありますが、いづれにしても本腰で彼らを救済しようと思えば、「解散命令」なりで教団の活動を規制することが前提なのです。そして、教団から引き剥がして、徐々にマインドコントロールを解くことから始めるしかないように思います。

なのに、それがどうして感情論に走るのは危険だとか、信仰二世を孤立させ苦しめるという話になるのか、私には理解できません。そういった主張は、30年前と同じ”元の木阿弥論”のようにしか聞こえないのです。「宗教虐待」を受ける子どもを親と教団に縛り付ける、非情な主張のようにしか思えないのです。もし、そういった”元の木阿弥論”の背景に、自民党と連立を組む公明党=創価学会の意向や忖度が存在しているとしたら、問題はもっと深刻だと言えるでしょう。

カルトは、信教の自由とは別の次元の話です。それを橋下徹や太田光のように、バカのひとつ覚えのように信教の自由で解釈しようとすると、あのようなトンチンカンな醜態を晒してしまうことになるのです。

30年前と同じ愚を繰り返してはならないのです。

※タイトルを変更しました。(9/12)
2022.09.09 Fri l 旧統一教会 l top ▲
東京オリンピックをめぐる汚職事件で、今度は大会スポンサーであったKADOKAWAの元専務と事業担当の室長が、東京地検特捜部に贈賄容疑で逮捕されたというニュースがありました。

KADOKAWAが大会スポンサー選定のキーパーソンの高橋治之容疑者(実際は電通時代の同僚を社長にしたダミー会社)に、コンサル料として支払った金額は7600万円と報道されています。

ただ、今回逮捕されたのは、あくまで窓口になった担当社員にすぎません。決裁した(はずの)角川歴彦会長や夏野剛社長にも捜査の手が及ぶのか注目されます。

夏野社長で思い出すのは、パンデミック下でオリンピック開催が強行され世論が沸騰していた時期に、ABEMA TVで飛び出した”トンデモ発言”です。

調べてみると、放送されたのは2021年7月21日で、FLASHによれば下記のような内容です(FLASHの記事では2019年になっていますが、2021年の間違いです)。夏野氏はまだ子会社のドワンゴの社長でした。

Smart FLASH
「五輪汚職」報道のKADOKAWA 夏野剛社長が五輪をめぐり語っていた「アホな国民感情」“上から目線”の大暴言

  番組では、子供の運動会や発表会などが無観客なのに、五輪だけ観客を認めると、不公平感が出てしまうという話題になった。その際、夏野氏は

  「そんなクソなね、ピアノの発表会なんかどうでもいいでしょ、オリンピックに比べれば。それを一緒にするアホな国民感情に今年、選挙があるから、乗らざるを得ないんですよ。

  Jリーグだってプロ野球だって入れているんだから。オリンピックを無観客にしなければいけないのは、やっぱりあおりがあるし、それからやっぱり選挙があるから。そこに対してあまり国民感情を刺激するのはよくないという判断。もうこのポリティカルな判断に尽きると思いますよ」

と、国民の素朴な不平の声に対し、“上から目線”の、まるで馬鹿にしたような発言を繰り広げたのだ。


この身も蓋もないおっさんの”上から目線”。こんな人物が、NTTドコモでiモードの立ち上げに参画したとして、日本のネット業界の立役者のように言われているのです。

楽天の三木谷浩史氏やかつてのライブドアの堀江貴文は、ネットで金を集めるとプロ野球の球団の買収に乗り出したのですが、そこに示されたのも目を覆いたくなるような古臭いおっさんの発想です。ドワンゴにとっては、それがオリンピックだったのでしょう。

もっとも、パンデミックという予想外の出来事や大会前のゴタゴタで公式パンフレットの販売も中止になり、結局、大会組織員会に払ったスポンサー料2億8千万円と高橋理事に払った斡旋料7600万円でKADOKAWAが手にしたのは、ほとんど人の目に止まることもない「大会スポンサー」というクレジットタイトルだけだったのです。大会スポンサーという「名誉」を手にしたと言えばそう言えるのかもしれませんが、傍目には、爺殺しのドワンゴとおねだり理事の口車に乗せられて、3億5千万円の大金をドブに棄てたようにしか見えません。文字通り「ザマ―」みたいな話なのでした。

クスリを無料で差し上げますよと言ってお客を囲い込み、ジャンキーになった頃を見計らって有料にするという、ヤクの売人みたいな商法が当たり前のように通用するのがネットなのです。あるいは、欠陥商品を売ってもあとでアップデートだと言って修正すれば、ネットでは欠陥商品を売った責任は問われないのです。既存のビジネスから見れば、こんな美味しい世界はないでしょう。

KADOKAWAとドワンゴが合併したときから、こうなるのは必然だったという声もありますが、合併については、私も下記のように、大塚英志氏の著書を紹介する中で何度か触れています。

角川とドワンゴの経営統合
https://zakkan.org/blog-entry-954.html

ネットの「責任」と「倫理」
https://zakkan.org/blog-entry-998.html

『メディアミックス化する日本』
https://zakkan.org/blog-entry-1002.html

あらかじめ作られたプラットフォームに従って物語が二次創作されていくシステムは、日本の出版文化の黎明期から固有のものだったのですが、とりわけKADOKAWAがドワンゴと合併することによって、その課金化が歯止めもなく進んだのでした。

ネットの登場によって、プラットフォームを金儲けの手段にした”愚劣なシステム”が大手を振ってまかり通りようになったのですが、KADOKAWAはそれに便乗してメディアミックスの総合企業として新しいビジネスモデル(課金システム)を打ち立てようとしたのです。

やや視点は異なりますが、ネットの”愚劣なシステム”について、私は、上記の「ネットの『責任』と『倫理』」の中で次のように書きました。

たしかに、ネットというのは「発話」(発言)すること自体は「自由」です。その意味では、「民主的」と言えるのかもしれません。しかし、現実において、私たちが「発話」するためには、ニコ動や2ちゃんねるやTwitterやFacebookやLINEなどなんらかのプラットフォームを利用しなければなりません。そして、プラットフォームを利用すれば、「発話」は立ちどころにあらかじめコントロールされたシステムのなかに組み込まれることになるのです。「一人ひとりの断片的な書き込みやツイートは、実は今や『民意』という『大きな物語』に収斂する仕掛け」になっているのです。私たちの「発話」は、その”宿命”から逃れることはできないのです。

一企業の金儲けの論理のなかに「言論・表現の自由」が担保されているというこのあやふやな現実。これがネット「言論」なるものの特徴です。


そこにいるのは、間違いなく踊るアホである私たちです。
2022.09.08 Thu l ネット l top ▲
Newsweek913.jpg


『Newsweek』(9・13号)で、ノンフィクションライターの石戸諭氏が、「統一教会を『絶対悪』と見るべきか」というタイトルの記事を書いていました。

石戸氏も、教団と政治の関係は実はあまりたいしたものではなく、ただ、教団が自分たちを大きく見せるために誇大に宣伝しているだけだ、「信用保証」に使っていただけだ、と書いていました。教団が叩かれているけど、「政治との距離や信者の実態は正確には知られていない」と言うのです。

そして、石戸氏は、「カルト信者の脱会支援」を行っている瓜生崇氏の次のような言葉を紹介していました。

「(略)宗教が政治に訴えるのは自由です。教会が『反社会的』だから政治に関わってはダメだという主張もある。でも、伝統宗教だって寄付やお布施の問題はあるし、統一教会も69年以降は霊感商法もかなり減っている。今、違法な行為に手を染めていない信者はどうなりますか? 暴力団と同じ扱いにするなら信仰を理由に銀行口座開設も許されなくなる」
特定の宗教を法人としてつぶしたところで、信者の信仰は続く。だが、届け出も登録もなくなってしまった宗教は地下に潜ってしまい、問題を起こしたとしても責任を取る主体すら明らかでなくなる。過激な言葉で統一教会を批判する人々は、どこまで考えているのかと瓜生は思う。


仮に教団に「解散命令」が下されても、瓜生氏が言うように「信仰を理由に銀行口座開設も許されなくなる」ということはありません。宗教法人法と、いわゆる暴対法や全国の自治体で施行されている暴力団排除条例を混同すること自体メチャクチャです。

瓜生氏は、私も信仰する浄土真宗大谷派の僧侶だそうですが、旧統一教会の問題を考えるのに、憲法20条の「政教分離」の問題にもまったく触れていません。それも驚きでした。それどころか、宗教が政治に接近するのは自由だとさえ言うのでした。

石戸氏は、記事の最後に、「〈自分たちは絶対善の正しい存在、相手は絶対悪〉という思考こそがカルト的な思考なのです。社会がそれにとらわれてはいけない」という瓜生氏の言葉を紹介していましたが、悪人正機を説教したにしても、あまりにも粗雑な現状認識と言わざるを得ません。日本はカルトに「鈍感」だと言われていますが、もっと「鈍感」になれと言っているようなものです。これでは、旧統一教会を擁護するのかと抗議されでも仕方ないでしょう。

私も前に仕事の関係で、旧統一教会とは別のカルト宗教の二世信者の若者とつきあいがありましたが、私の経験から言っても、彼らが社会に適応するのは至難の業だと思います。

もちろん、同じ信仰二世でも濃淡があり、信仰にどっぷり浸かっている人間と信仰と距離を取っている人間がいると思いますが、瓜生氏や石戸氏が取り上げているのはどうも後者のようです。でも、実際にそういった例は少ないのではないか。

山上徹也容疑者のように、カルトに狂った親の元に生まれ、信仰とは別に、半ばネグレクトのような扱いを受けて育てられた子ども対しては、援助の仕組みを設けて社会が受け入れる体制を作ることは必要だと思います。

ただ、一方で、カルトの家に生まれ、親とともにマインドコントロール下に置かれて信仰を余儀なくされた子どもが信仰から離れるのは、傍で考えるほど簡単なことではないと思います。たとえはよくないかもしれませんが、虐待の世代連鎖というのがあるように、育った環境はときに理不尽でむごいものでもあるのです。昔、親がよく「血は汚い」と言っていましたが、親と子の関係は傍で考えるほど簡単ではないのです。

あまり過剰に教団を叩くと、二世信者たちが社会から孤立して益々行き場がなくなると言いますが、しかし、孤立するも何も彼らは最初から社会に背を向けているのです。そういった前提も考えずに安易な「ヒューマニズム」で救済の手を差し伸べるだけなら、前も書いたように、逆にカルトに利用されるのがオチでしょう。

実際に、教団が全国の消費者センターに接触しはじめているとして、全国弁連(全国霊感商法対策弁護士連絡会)が注意を喚起したという報道がありました。

毎日新聞
「旧統一教会が消費生活センターに接触」 全国弁連が注意喚起

  全国弁連によると、8月下旬以降、名古屋市や大阪府、広島県などにある、少なくとも全国8カ所の消費生活センターに、旧統一教会の地元教会から来訪や電話で「(教団に関する)相談には誠実に対応するので、連絡してほしい」という趣旨の申し出があったという。全国弁連は1日、消費者庁所管の独立行政法人「国民生活センター」に、こうした申し出に応じないよう全国の消費生活センターへの周知徹底を求めた。


カルトはどんなことでもするのです。だからカルトなのです。これを差別だと言われたら言葉もありませんが、カルトの本質を軽視してはならないのです。

テレビに出て来る信仰二世を見ると、ごぐ普通のどこにでもいる若者が親の信仰で悩んでいるように見えますが、マインドコントロールされてない若者の方が取材に応じるという事情も考慮に入れる必要があるでしょう。哀しいかな、子どもは親を選べないのです。カルトに狂った(はまった)親に育てられた子どもが、社会になじめないのはある意味で当然なのです。まずそういった共通認識を持つことが大事でしょう。

信者やその子どもたちを「被害者」として捉えて救済の手を差し伸べ、社会が温かく迎えるというのはとてもいいことですが、しかし、そのやり方は教団には通用しないと思った方がいいでしょう。たとえば、一時山上徹也容疑者の母親を引き受けていた弁護士の伯父さん(母親の義兄))などは、それをいちばん痛感しているはずです。

東洋経済 ONLINE ※追記(9/10)
山上容疑者を凶行に駆り立てた一族の「壮絶歴史」
統一教会からの「返金終了」が山上家貧窮の決定打

やはり、為すべきことは教団の活動に対する規制です。「解散命令」も視野に入れた規制が必要なのです。それが信仰二世の問題なども含めた、旧統一教会をめぐる問題の解決策だと思います。大前提と言っていいのでしょう。

石戸氏は、政治との距離は「正確には知られていない」と書いていますが、それはジャーナリストとしてあまりにも怠慢と言わざるを得ません。というか、知ろうとしてないのではないか。これほど明白な現実が目の前に突き付けられているのです。しかも、よりによってそれは、政権与党と韓国のカルト宗教の関係なのです。憲法改正やLGBTや夫婦別姓や女性天皇などに関して、自民党「保守」派と旧統一教会の主張が、どうしてあんなに似通っているのか。あるいは国際勝共連合設立の経緯などを考えれば、政治との距離が「正確には知られていない」などとはとても言えないはずです。

石戸氏は、「統一教会を批判する側にも、相手の実像を見極めるより深い思考が必要になる」と書いていましたが、何をか況やと思いました。

旧統一教会を「絶対悪」だと決めつけて感情的にバッシングすると、益々信者やその二世の子どもたちの社会的な孤立を招くと言うのは、何だか話を別の方向に持って行こうとしているように思えてなりません。教団に対する批判に、あえて冷水を浴びせるようなもの言いには、やはり反論せざるを得ないのです。

旧統一教会をめぐる問題にはいろんな側面がありますが、バッシングしているのは、旧統一教会と政治(主に政権与党)との関係であり、赤報隊事件に関する疑惑や、今なお続いている教団に批判的なジャーナリストや弁護士に対する脅迫や嫌がらせに見られるような、カルト特有の狂暴な反共団体という側面に対してです。何故、公安調査庁が内密に監視していたのか。公安警察が強制捜査の準備をしていたのか。権力でさえ危険視していた教団の体質を考えないわけにはいかないでしょう。それらが「政治の力」で潰された現実を無視して、旧統一教会は言われるほど危険ではなかったと断じるのは、詭弁と言わざるを得ません。

名称変更の問題でも、文化庁宗務課長として関わってきた前川喜平氏の「当時の下村文部科学大臣の意思が働いていたことは間違いない」(野党のヒヤリングでの証言)という発言については、「証拠がない」水掛け論だとして一蹴する一方で、何故か石戸氏の取材を受けた下村博文氏の「(旧統一教会と手を)切っていい」という発言を取り上げて、教団も高齢化して集票マシーンとしては力がなくなったので「簡単に『切る』と言えた」のだろう、と書いているのでした。何だか下村氏の言い分をただ垂れ流しているだけのような感じで、下村氏の発言をそう「簡単に」信用していいのか、と思わざるを得ませんでした。

旧統一教会はただの、、、宗教団体ではないのです。問題の所在は、旧統一教会がカルトであるということなのです。石戸氏の記事は、どう見ても、橋下徹や古市憲寿や太田光や、あるいはパックンと同じように、その肝心な点が捨象され”宗教一般”として論じ問題を矮小化するものでしかありません。どうしてこんな牽強付会な記事を書いたのか、首を捻らざるを得ません。

ここにも、大山鳴動して鼠一匹に収斂しようとする言説があるように思えてならないのでした。
2022.09.07 Wed l 旧統一教会 l top ▲
安倍銃撃事件からやがて2ヶ月が経とうとしています。事件をきっかけに、「30年の空白」を経て再び旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の問題がメディアに取り上げられるようになったのですが、この問題に対する言説にも微妙に変化が出てきたような気がします。私なりに解釈すると、それは三つに分類できるように思います。

一つ目は、橋下徹や古市憲寿や太田光や田崎史郎らが言う、旧統一教会と言えども「信仰の自由」は認められるべきだ、という意見です。要するに、旧統一教会の宗教と政治活動の顔を分けて考えるべきだと言いたいのだと思いますが、そもそもカルトというのは、宗教活動と政治活動を分けられるような性格のものではありません。だからカルトなのです。そういったカルトに対する認識が欠落したお粗末な言説、いうか屁理屈と言わざるを得ません。

彼らの屁理屈は、韓国で世界平和統一家庭連合の信者たちが、日本の報道に対して抗議デモをした際に掲げていた、「宗教弾圧をやめろ!」「信仰の自由を尊重しろ!」というスローガンとまったく同じです。このようなカルトが何たるかも考えない単細胞な屁理屈こそカルトの思う壺(!)と言えるでしょう。

橋下徹は、旧統一教会の宗教的な部分まで規制するのは、憲法第20条の「信教の自由」に反すると言ってましたが、それを言うなら、まず後段の「政教分離の原則」を問題にすべきでしょう。ちなみに、憲法第20条は次のように謳われています。

1  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。


公明党の石井啓一幹事長は、4日の「NHK日曜討論」で、宗教法人への寄付について、「重要なのは、本人の自由意思で行われたかどうか。自発的な意思で行われたかどうかということが重要だ」と述べたそうですが、問題はそういったところにあるのではなく、その先の心理学等を駆使した現代の宗教的帰依、つまり洗脳(マインドコントロール)にあるのです。旧統一教会の信者たちだって、縛られたり殴られたりして強奪されているわけではないのです。創価学会の信者たちと同じように、自発的に献金しているのです。だから、問題があるのです。石井幹事長の発言は、天に唾する”苦しい弁解”のようにしか聞こえません。それより、今回の問題をきっかけに、自民党と公明党=創価学会の関係も含めて、政治と宗教の問題を根本から問い直すべきなのです。

朝日新聞デジタル
公明・石井幹事長「自由意思を妨げるような寄付の勧誘は対策を」

二つ目は、細野豪志やパックンや安倍応援団だった右派文化人たちに見られるような、旧統一教会の問題にいつまで関わっているんだ、もっと大事な政治案件があるはずだ、という意見です。でも、今回の問題で、憲法改正や夫婦別姓やLGBTや外交防衛など、国の根幹に関わる「大事な政治案件」が、韓国のカルト宗教の主張をそのままトレースしたものにすぎなかったことがわかったのです。日本はそんな国だったのです。

日本の政治の深部まで「反日カルト」に蚕食され、安倍元首相に代表される日本の「保守」政治家たちが、「愛国」を隠れ蓑に「反日カルト」に「国を売っていた」のです。旧統一教会の問題は、とてもじゃないけど、「いつまで関わっているんだ」というような、そんな軽い問題ではないのです。それこそ徹底的に究明しなければならない、「日本終わった」ような問題なのです。細野豪志やパックンらの言説は、そんな世も末のような深刻な問題に蓋をしようとする、きわめて反動的で悪質な詭弁としか言いようがありません。パックンはハーバード大出身がウリで、ニュース番組のコメンテーターなどにも起用されていましたが、何だかここにきて馬脚を露わした気がします。

三つ目は、一部のジャーナリストたちに見られますが、旧統一教会と政治との関わりについて、実態はそれほどでもなく、教団が自分たちを大きく見せるためにオーバーに言っているにすぎない、という意見です。それどころか、古参信者の中には、韓国の本部と手を切り日本の支部が”独立”して、純粋な宗教団体として出直すべきだという声もある、と”怪情報”を披瀝するジャーナリストもいます。

古参信者というのが、ポリタスTVの中で樋田毅氏が話していた人物と同じなのかどうかわかりませんが、たしかに、文鮮明教祖が亡くなったことで教団の求心力が落ちたところに、遺族の間で跡目争いが勃発して、教祖の家庭が教団名とは真逆にバラバラになったので、嫌気が差したというのは考えられなくもありません。しかし、相手はどんなウソでも平気で言うカルトなのです。だからと言って、宗教的な帰依がなくなったり、憲法改正して日本を「神の国」にするとか、「エバ国」と「アダム国」を自由に往来できるように日韓トンネルを掘るとかいった、文鮮明の”御託宣”から自由になっているわけではないのです。仮に今の体制に嫌気が差しているとしたら、むしろ逆に、かつての生学連(生長の家学生会全国総連合)のように、原理主義に回帰してより過激になっていくということも考えられます。彼らは、文鮮明の悲願を達成するために、長い時間をかけて、日本の政治の奥深くにまで触手を伸ばしてきたのです。その”持続する志”は、今のようなバッシングで萎えるような、そんなヤワなものでは決してないでしょう。

あれだけ共産主義を悪魔の思想のように言っておきながら、ある日突然、(日本からふんだくった)2千億円とも言われる持参金を持って北朝鮮を訪問して、金日成と”義兄弟”の契りを結ぶという、天地がひっくり返るような出来事があったにもかかわらず、彼らの文鮮明に対する帰依心はゆるがなかったのです。なのに今になって、霊感商法を反省して宗教の原点に帰るみたいに言うのは、眉に唾して聞く必要があるでしょう。

どんな手段を使ってでも目的を達するというのがカルトです。そのためにはどんな風にも装うしどんなことでも言います。私は、むしろ、カルトを過小評価し軽視することの怖さを覚えてなりません。

霊感商法や多額の寄付などの被害者(信者)を救済する必要があるという声を受けて、政府が今日から電話相談窓口を開設するそうです(ただし今月末までの期間限定)。また、河野太郎消費者担当大臣もさっそく得意のパフォーマンスで、消費者庁に「霊感商法等の悪質商法への対策検討会」の設置を命じたそうですが、その実効性はともかく、もしかしたら、被害者救済にも教団がダミーを使って介入してくる可能性さえあるのではないかと思ったりもするのです。カルトはなんでもありなのです。

それにしても、急に電話相談をはじめるなど白々しいにもほどがあります。じゃあ、安倍銃撃事件がなかったら何もしなかったのか。今まで通り知らぬ存ぜぬを決め込んで、「反日カルト」との蜜月を送っていたのかと言いたくなります。

山上容疑者の行為を美化するのかと言う声もありますが、事件後の流れを見ると美化したくなる人間の気持もわからないでもありません。山上容疑者の犯行があったからこそ、このように旧統一教会の問題が表に出て、政府も相談窓口を設置したのです。言論の自由と言いながら、それまで(30年間)メディアは何も報道しなかったのです。言論の自由は絵に描いた餅にすぎなかったのです。民主主義が機能していなかったから、テロが義挙として美化されることになるのです。

先日、本村健太郎弁護士が日テレの「情報ライブミネヤ」で、次のように発言していたそうです。

ディリーニュース
本村弁護士、旧統一教会「布教活動が違法と司法判断」解散申し立てないのは「怠慢」

  宗教法人法第81条(解散命令)の条文には「著しく公共の福祉を害すると認められる場合」「宗教団体の目的を著しく逸脱した場合」とあり、本村氏は「これには十分、すでに該当しているはずなんです」と説明。「文化庁、行政の怠慢だと思います。文部科学大臣が権限を行使して早急に、あるいはとっくの昔に裁判所に統一教会の解散命令申し立てをするべきだったんです」と切った。

  本村氏は2001年の札幌地裁が統一教会の布教活動の違法性を認定した判決を下しており、最高裁まで争われたが、確定判決となっていることも説明。「すでに裁判所は統一教会のやっている布教活動そのものが違法であるという司法判断が下っているんです。最高裁で確定しているんです。にもかかわらず行政、あるいは政治家の方がやれることをやっていないだけなんですね」と“怠慢”をあらためて強調した。
(上記ディリニュースの記事より)


まさにこれが旧統一教会をめぐる問題の肝で、私たちがめざすべき終着点だと言っていいでしょう。でなけば、元も子もないのです。それこそ大山鳴動して鼠一匹で終わるだけです。

一方で、まだカルト認定してないうちに、感情だけで「解散命令」に走るのは危険だ、という意見がありますが、だったら、カルト認定って誰がするのですか?と問いたいのです。裁判官が異端審問官のように、「はい、これはカルトです」と認定するのか。本村氏が言うように、既に「布教活動の違法性を認定した判決」が最高裁で確定しているのです。現に信者本人だけでなく”信仰二世”の問題も出ているのです。

「自由の敵に自由を許すな」という言葉がありますが、「自由の敵だとまだ認定されないので、自由の敵にも自由を認める」と言ったら、自分の自由は守れないでしょう。旧統一教会がいつも衝いてくるのはそこなのです。その一方で、教団を批判するジャーナリストなどに、あれだけの脅迫や嫌がらせを行ってきたのです。今も批判的なメディアに対する抗議はすさまじいものがあると言われています。

ウクライナがヨーロッパにおける重要な拠点なので、ロシア侵攻の前から、国際勝共連合がアゾフ連帯を支援していたという話があります。と言うと、ロシアを利する陰謀論だと言われるのがオチですが、カルトとネオナチは親和性が高いということを忘れてはならないのです。

教団は、一連の報道に対して、宗教弾圧だ、集団ヒステリーだ、魔女狩りだと言っています。そういった教団の常套句と、まだカルト認定されてないとか、感情に走っているとかいったわけ知り気の口吻は、見事なほど共鳴しているのでした。それは、オウム真理教の坂本弁護士一家殺害事件などでも見られた言説でした。中にはカルト認定できるような新しい法律を作ればいい、と主張する声もありますが、その方がはるかに危険でしょう。もっとも、テレビで感情に走っているとか言っている弁護士は、旧統一教会の問題とはもっとも遠いところにいるようなタレント弁護士ばかりです。

このようにいろんな言説が出ていますが、その多くは問題のすり替えにすぎません。そうやってものごとの本質が隠蔽されていくのです。私には、早くも腰砕けに終わりそうな兆候のようにしか見えません。でも、旧統一教会の問題を”ありふれた話”として終わらせてはならないのです。大手新聞のようなオブスキャランティズムに回収させてはならないのです。

4日の「NHK日曜討論」では、自民党の茂木幹事長が、自民党と旧統一教会の関係を指摘されると、「共産党は左翼的な過激団体と関係があると言われてきた」と発言して物議をかもしていますが、それなども旧統一教会から吹きこまれたトンデモ話ではないのかと思ってしまいました。日本共産党と「左翼的な過激団体」が不倶戴天の間柄で、「反革命」「トロッキスト」と罵り合っているのは常識中の常識です。政権与党の幹事長がそんな初歩的なことも知らないのかと唖然としました。それこそ立憲民主党を「極左」と呼ぶネトウヨと同じレベルの話で、公安調査庁の報告書も読んだことがないのかと思いました。

旧統一教会の彼らは今もなお、丹沢の山ヒルのように日本の政治の深部に張りついたまま、じっと息を潜んで嵐がすぎるのを待っているのです。自民党が調査したと言っても、ただアンケート用紙を配っただけです。ここに至っても自民党が、どうしてそんな子どもだましのようなやり方で切り抜けようとしているのかと言えば、旧統一教会と手を切ることができないことを彼らがいちばんよくわかっているからでしょう。

本村弁護士が言う「怠慢」も、政治との蜜月と連動しているのは間違いないでしょう。オウム真理教は政権与党とつながりがなかったので「解散命令」が下されたけど、旧統一教会は政権与党と親密な関係にあるので「解散命令」が下されることはない、という見方はまったく的外れとは言えない気がします。そこに日本の問題があるのです。旧統一教会をめぐる問題は、戦後史の闇と言っても言いすぎではないのです。そういった背景も考える必要があるでしょう。

立憲民主党などの野党も、何故かその「怠慢」を指摘していませんし、宗教法人法による「解散命令」を視野に入れた主張もしていません。できもしない新しい法律で対処するようなことを言うだけです。まして、野党の中にも「鶴タブー」が存在するのか、「政教分離」の問題は俎上にすらのぼってないのです。
2022.09.05 Mon l 旧統一教会 l top ▲
朝日新聞が、先週末(27・28日)の世論調査で、岸田内閣の支持率が前回の57%から47%に「大幅に下落」(不支持率は25%から39%に上昇)したと伝えていましたが、でも、下落したのは10%にすぎません。「大幅に下落」と言うほどではないのです。これだけ自民党と旧統一教会の関係が取り沙汰されても、まだ47%の支持率を維持しているのです。他の新聞も、支持率がいちばん低いのが毎日(20・21日)の36%で、共同(10・11日)と読売((10・11日)はともに51%です。

また、政党支持率に至っては、僅かに下落したとは言え、自民党が他党を圧倒する一人勝ちの状況はいささかも変わりがないのです。二階の「自民党はビクともしない」という発言が「傲慢」だとか言われて叩かれていましたが、傲慢でも何でもないのです。そのとおりなのです。

「日本の誇り」などと言われたときの総理大臣が先頭になって、「反日カルト」に「国を売ってきた」ことがあきらかになったにもかかわらず、日本の国民はこの程度のゆるい反応しか持てないのです。しかも、「国を売ってきた」連中から、どうせ時間が経てば忘れるだろうと見下されているのです。ソウルの市民がテレビのインタビューで、「日本人がどうして韓国のカルト宗教をあんなに支持するのか理解できない」と言ってましたが、それは「日本人はアホでしょ」と言われているようなものです。こんなゆるい反応では大山鳴動して鼠一匹で終わりかねないでしょう。まして、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の「解散命令」など夢のまた夢のような気がします。

でも、「アホ」なのは国民だけではないのです。

今日のYahoo!ニュースに次のような記事が出ていました。

Yahoo!ニュース
時事通信
国葬出席「悩ましい」 党内議論に委ねる意向 立民・泉氏

立憲民主党の泉健太代表は、「国が関与する儀式は一つ一つ重たい。本来であれば基本的に出席する前提に立っている。それが本当に悩ましい」と語ったそうです。何を言っているんだ。その「儀式」が問題なんだろう。下の東京新聞の記事でも読めよ、と言いたくなりました。

東京新聞 TOKYO Web
安倍元首相の国葬、際立つ特別扱い 内閣府設置法の「国の儀式」としては天皇の国事行為以外で初

野党第一党の党首が「法的な根拠のない」儀式を追認してどうするんだ、と思います。それどころか、泉代表の発言は、国葬に反対している運動に冷水を浴びせるものと言っていいでしょう。

こういった発言をするのは、泉代表が社会運動の経験がないことが大きいような気がします。前も書きましたが、スペインのポデモスもギリシャのシリザもイギリスのスコットランド国民党も、もちろん緑の党も、どこも地べたの運動の中から生まれた政党です。「ミクロからマクロへ」という言葉がありますが、目の前の生活課題や政治課題を問う運動の集積として政党があるのです。泉代表は、そんな運動とはまったく無縁な政治家です。どちらかと言えば自民党や維新の政治家に近いタイプの政治家です。

今の旧統一教会と自民党のズブズブの関係が白日の下にさらけ出され、野党第一党の立憲民主党にとってこれほど大きなチャンスはないはずなのに、政党支持率はいっこうに上がらず、相変わらず10%前後を低迷しています。実際に、通常の議会政治における与野党のバランスから言っても、もはや「野党第一党」と言えるほどの勢力を持っているわけではありません。

このように立憲民主党はみずからずっこけて”敵失”を演じ、自民党に塩を送るばかりです。それは今に始まったことではありません。得点を入れるチャンスが来ると、何故かいつもゴール前で転んで(しかも自分で転んで)みすみすチャンスを逃すのでした。まるで得点を入れたくないかのように、です。”兄弟党”である国民民主党が本音を晒して自民党にすり寄っていますが、国民民主と立憲民主がどう違うのか、明確に答えることができる人はどれだけいるでしょうか。

先の参議選でも、選挙前の予想では自民党が議席を減らすのは間違いないと言われていました。立憲民主ら野党にとっても議席を回復させるチャンスがありました。でも、安倍銃撃事件があったとは言え、そのチャンスを生かすことができなかったのです。ひとりで勝てる力もないのに、共産党との野党共闘を拒否して自民党にみすみす議席を譲った一人区も多いのです。

にもかかわらず、執行部は責任を取らず泉代表は居座ったままです。党員たちも執行部を一新させることさえできなかったのです。一応目先を変えるために、”昔の名前”を呼び戻したりしていますが、「責任を取らない政党」というイメージは変わっていません。それが、立憲民主党に対する不信感や失望感につながっているのは間違いないでしょう。

そんないい加減で無責任な総括の背後に、スポンサーの連合の影がチラついていることをみんな感じています。泉代表の厚顔無恥な居座りを支えているのが、連合のサザエさんであることを国民はわかっているのです。

連合は未だに「反共」を旗印にした二大政党制なるものを希求し、今や改憲勢力の中に入った国民民主党を支持する姿勢も変えていません。連合が「反共」に執拗にこだわるのは、連合の執行部が、サザエさんも含めて、旧統一教会と思想を共有していた旧民社党の流れを汲む勢力に占められていることと無関係ではないでしょう。そんな連合にとって、泉代表は都合のいい存在なのだと思います。

泉代表が”対決型”ではなく”政策提案型”野党を掲げたときから、こうなることは目に見えていたのです。でも、その”自滅路線”を誰も止めることができなかったのです。止めようともしなかったのです。

吉本隆明の受け売りではないですが、既に日本では、家計消費がGDP(名目国内総生産)の50%以上を占めるようになっています(2020年は52.0%)。それに伴い、ちょっと古いですが、総務省統計局が国勢調査に基づいて集計した「産業別15歳以上就業者数の推移」を見ても、2007年(平成17年)の時点で、第三次産業の就業者数は全体の67.3%を占めるに至っています(第二次産業は25.9%、第一次産業は5.1%)。一方で、厚生労働省が発表した2021年の「労働組合基礎調査」によれば、労働組合の推定組織率は全労働者の16.9%(1007万8千人)にすぎません。連合に加入する組合員は約700万人と言われていますので、連合の推定組織率は12%前後です。

「生産」と「消費」を社会との関連で考えると、生産に携わる労働者を主眼に置く旧来の左翼的な思考が既に失効しているのはあきらかです。つまり、労働者の概念自体を変えるべきなのです。労働組合も、学校の生徒会と同じような役割においてはまだ有効かもしれませんが、社会運動として見た場合、組合員たちも昔と違って政治的に保守化しており、ほとんど存在意味を失くしているのは事実でしょう。もとより、連合に組織された12%の労働者は、大半がめぐまれた正社員(正職員)にすぎないのです。

立憲民主党は、「現状維持&少し改革」程度の”保守中道”の政党です。にもかかわらず、労働戦線の右翼的統一=連合の誕生と軌を一にして生まれた旧民主党の組織を引き継いでいるため(連合の組織内候補を引き継いだため)、連合をバックにした労組の論理を内に抱えたまま、今日の凋落を迎えてしまったのでした。

労組が「現世利益」を求めるのは当然ですが、ただ連合などの根底にあるのは、生産点(生産の現場)で油まみれで酷使され搾取される人々=労働者みたいな古色蒼然とした”左翼的概念”です。もちろん、彼らは左翼ですらなく、旧同盟=旧民社党の流れを汲む右派労働運動のナショナルセンターにすぎません。ただ、「現世利益」を求める方便として、換骨奪胎された”左翼的概念”が便宜的に利用されているのでした。

でも、”左翼的概念”は歴史的役割を終えています。むしろ、企業の論理から身をはがして、「消費」や消費者という発想に立った方が、ひとりの生活者として、今の社会のあり様や問題点も視えてくるものがあるはずです。階級的視点は、生活者のそれとも重なるのです。それが、今の資本主義が私たちに要請する思考のあり方でもあるのだと思います。

たとえば、家計消費がGDPの半分以上を占めるようになった現在、従来の労働組合によるストライキだけでなく、消費者のストライキもあって然るべきでしょう。労組のストライキが賃上げや待遇改善など企業内にとどまるのに対して、消費者のストライキ=不買運動は企業を外から直撃するラジカルな性格を持っており、その社会的なインパクトは労組の比ではないはずです。

一方で、東電労組に見られるように、ときに労組が企業の論理を代弁して社会運動に敵対するケースも多くなっています。リストラに伴ういじめなどに関しても、労組が会社側に立つケースも見られます。学校のいじめ問題や生活保護などに対する違法な”水際作戦”の問題でも、労組が機能していないどころか、管理者の側に立っていることも多いのです。

今、求められているのは、右か左かではなく上か下かなのです。「反共」という右のイデオロギーにふりまわされる時代ではないのです。まして、日本の「保守」が主張する「反共」が文鮮明の思想をトレースしたものにすぎないことが、旧統一教会をめぐる問題ではっきりしました。「愛国」や「保守」や「反共」は虚構だったのです。

しかし、立憲民主党は古い概念に囚われたままです。消費者や市民という視点は二の次に、「反共」イデオロギーに固執して、未だに連合にふりまわされているのでした。本来の意味におけるリベラルでさえないのです。プロ野球のシーズンが終わると、監督が親会社の社長(オーナー)に報告に行くのと同じように、選挙が終わると代表が連合の会長に報告に行くような政党なのです。だから、参政党のようなデマゴーグ政党にも票を奪われるのでしょう。

ましてや、スーツの襟に、「極右」(旧統一教会のエージェントの別名)の証しであるブルーリボンのバッチを付け、希望の党から国民民主党を渡り歩いた政治家が代表に就くなど、立憲民主党にとって本来あり得ないことだったし、あってはならないことだったはずです。泉代表は、旧民主党や旧新進党時代は代表選で前原誠司氏や細野豪志氏を推薦しているように、もともと彼らに近い政治家です。もちろん、連合の意向もあったのでしょうが、立憲民主党はそんな政治家を党の顔として選んだのです。下手すれば、党内で意に沿わないことがあると、グループを引き連れて離党し、再び前原氏と合流ということだってあるかも知れません。

今回の旧統一教会の問題にしても、立憲民主党には、安倍一族を筆頭とする「愛国」政治家たちによって「国が売られていた」事実を突きつけるような、ラジカルな視点はありません。国葬に対しても、党の代表が出席したいと言っているくらいですから、本音では反対しているわけではないのでしょう。

今まで何度もこの台詞をくり返してきましたが、立憲民主党が野党第一党である不幸をあらためて痛感してなりません。もはや立憲民主党は、「よりまし」でも「次善」でもないのです。「野党第一党がこれ以上弱くなったらどうするんだ?」「 自公の暴走をこれ以上許していいのか?」  そんな脅しに屈せずに、きっぱりと立憲民主党に引導を渡すべきでしょう。


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2022.09.02 Fri l 社会・メディア l top ▲