昨夜、アメリカのペロシ下院議長宅が襲撃され、夫のポール氏が怪我をして病院に搬送された、というニュースがありました。

毎日新聞
ペロシ米下院議長の自宅襲撃され、夫搬送 襲撃者の身柄拘束

ペロシ氏は、筋金入りの対中強硬派で、先日の台湾訪問で米中対立を煽った(その役割を担った)人物です。その際、日本にも立ち寄っているのですが、まるでマッカーサーのように、羽田ではなく横田基地に米軍機で降りているのでした。ちなみに、トランプが訪日した際も横田基地でした。「保守」を名乗るような右翼と一線を画す民族派は、そのやり方を「国辱だ」として抗議していました。

私は、このニュースを見て、『週刊東洋経済』10月29日号の「『内戦前夜』の米国社会   極限に達する相互不信」という記事を思い出しました。まだ犯人の素性や背景等があきらかになっていませんが、「内戦前夜」と言われるほど分断が進むアメリカを象徴している事件のように思えてならないのでした。

『週刊東洋経済』の同号の特集には、「米中大動乱  暴発寸前!」という仰々しいタイトルが付けられていましたが、唯一の超大国の座から転落したアメリカはまさに内憂外患の状態にあるのです。次回の大統領選では、へたすればホントに「内戦」が起きるのではないか、と思ったりするほどです。

そんな中で、米中の「ハイテク覇権」をめぐるアメリカの中国対抗政策はエスカレートするばかりです。言うなればこれは、アメリカが唯一の超大国の座から転落する副産物(悪あがき)にようなものです。と同時に、「内戦前夜」とも言われるアメリカの国内事情も無関係とは言えないでしょう。

しかし一方で、過剰な中国対抗政策のために、アメリカ自身が自縄自縛に陥り、みずから経済危機を招来するという、負の側面さえ出ているのでした。今の日米の金利差による急激な円安を見ても、もはや経済的には日米の利害は一致しなくなっています。それはヨーロッパとの関係でも同じです。同盟の矛盾が露わになってきたのです。今後”ドル離れ”がいっそう加速され、アメリカの凋落がよりはっきりしてくるでしょう。

アメリカは520億ドル(約7兆円)の補助金と輸出規制を強化するCHIPS法というアメとムチのやり方で、自国や同盟国のハイテク企業に中国との関係を絶つ、いわゆるデカップリングを求める方針を打ち出したのですが、当然ながら中国との取引きに枷をはめられた企業は、業績の後退を招いているのでした。片や中国は、既にアメリカに対抗する、「グローバルサウス」と呼ばれる巨大な経済圏を築きつつあります。

また、EV(電気自動車)に搭載する電池製造のサプライチェーンから中国を排除するインフレ抑制法(IRA)も今年の5月に成立しましたが、しかし、車用のリチウムイオン電池のシェアでは、中国メーカーが48%を占めており、その現実を無視するのはビジネスとしてリスクがありすぎる、という声も出ているそうです(ちなみに、第2位は韓国で30%、第3位は日本で12%です)。

さらには、電池の原料であるリチウムとコバルトの精錬技術と供給量では、世界の供給量の7割近くを中国が握っているそうです。そのため、中国を排除すると電池が供給不足になり、車の価格が上昇する懸念も指摘されているのでした。

半導体にしろ電池にしろ、デカップリングで自給率を上げると言っても、時間と手間がかかるため、言うほど簡単なことではなく混乱は避けられないのです。それこそ返り血を浴びるのを覚悟の上で体力勝負しているような感じになっているのでした。

米中対立は民主主義と権威主義の対立だと言われていますが、私には、全体主義と全体主義の対立のようにしか見えません。「ハイテク覇権」をめぐる熾烈な争いというのは、まさに世界を割譲する帝国主義戦争の現代版と言ってもいいのです。

渋谷が100年に一度の再開発の渦中にあると言われますが、世界も100年に一度の覇権の移譲が行われているのです。でも、当然ながら資本に国境はなく、覇権が中国に移ることは資本の「コンセンサス」と言われています。今どき、こんなことを言うと嗤われるだけでしょうが、「万国の労働者団結せよ!」というのは、決して空疎なスローガンではない(なかった)のです。

もちろん、東アジアで中国と対峙しなければならない日本にとっても、米中対立は大きな試練となるでしょう。今はアメリカの後ろでキャンキャン吠えておけばいいのですが、いつまでも対米従属一辺倒でやっていけるわけではないのです。

アメリカが世界の覇権国家として台頭したのは第二次大戦後で、たかだかこの75年のことにすぎません。中国が覇権国家としてアジアを支配していたのは、千年単位の途方もない期間でした。だから、英語で「chinese characters」と書く漢字をはじめ、仏教も国家の制度も、皇室の伝統行事と言われる稲刈りや養蚕も、日本文化の多くのものは朝鮮半島を通して大陸から伝来したものなのです。

関東近辺の山に登ると、やたら日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東征に関連した神社や岩やビュースポットが出て来ますが、日本武尊とは半島からやってきて先住民を”征伐”して日本列島を支配した渡来人のことで、それらは彼らを英雄視した物語(英雄譚)に由来したものです。ちなみに、九州では、同じ日本武尊でも、九州の先住民である熊襲を征伐した話が多く出てきます。

国家は引っ越すことができないので、好き嫌いは別にしてこれからも東アジアで生きていくしかないのです。中華思想から見れば、日本は”東夷”の国です。それが日本の”宿命”とも言うべきものです。同時にそれは、河野太郎が主導するような、デジタル技術を駆使して人民を管理・監視し、行政的にも経済的にも徹底した省力化・効率化をめざす、中国式の全体主義国家に近づいて行くということでもあります。これは突飛な話でも何でもなく、地政学的に「競争的共存」をめざすなら、そうならざるを得ないでしょう。「競争的共存」というのは、米中関係でよく使われた言葉ですが、今や米中関係は「共存」とは言えない関係に変質してしまいました。

中国のチベット自治区でゼロコロナ政策に抗議して暴動が起きたというニュースもありましたが、私たちにとってそういった民衆蜂起が唯一の希望であるような全体主義の時代が訪れようとしているのです。覇権が300年振りに欧米からアジア(中国)に移ることによって、世界史は大きく塗り替えられようとしているのですが、それは、「反日カルト」の走狗のようなショボい「愛国」など、一夜で吹っ飛んでしまうほどの衝撃をもたらすに違いありません。

中国式の全体主義国家を志向しながら(僅かなお金に釣られて無定見にそれを受け入れながら)、日本は中国とは違う、中国に対抗していくんだ、みたいな言説はお笑いでしかないのです。


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新しい覇権と日本の落日
2022.10.29 Sat l 社会・メディア l top ▲
どうやら新型コロナウイルスの新規感染者数は下げ止まりの傾向にあるみたいです。ネットで「新型コロナウイルス  下げ止まり」と検索すると、下記のような見出しがずらりとヒットしました。

東京新聞 TOKYO Web
「第8波の可能性、非常に高い」…都内感染者数が下げ止まり 旅行支援開始や換気不足も不安材料

千葉日報
千葉県内コロナ8波の兆しか  感染者数下げ止まり  専門家「いまは分岐点」と警鐘

FNNプライムオンライン
県「感染者数の下げ止まり続く」新型コロナ345人感染   大分

Web東奥
コロナ感染者数「県内でも下げ止まり傾向」 - 東奥日報社

山陽新聞デジタル
岡山県内コロナ感染 8週ぶり増加  直近1週間  下げ止まり反転局面か

10月21日付けの記事ですが、東京新聞は次のように伝えています。

  都内の1週間平均の新規感染者数は、第7波のピークだった8月3日に約3万3400人まで増加。その後、減少が続いたが、今月に入って下げ止まりの傾向が強まり、今月11日を境に増加に転じている。19日時点で約3400人。厚労省の集計によると、19日までの1週間に報告された全国の新規感染者数は前週比で1.35倍となった。
(上記記事より)


しかし、世の中は、入国制限の緩和、全国旅行支援、GOTOイートの再開など、「ウィズコロナ」を謳い文句に、まるで新型コロナウイルスは過ぎ去った(恐るるに足りず)かのような空気に覆われています。

新たな変異株による第8波の兆しは世界的な傾向なので、入国制限の緩和によってさらに感染に拍車がかかる怖れもあるでしょう。

入国制限の緩和や旅行支援は、全国旅行業協会(ANTA)の会長である二階俊博氏の意向が反映されているのではないかという声がありますが、あながち的外れとは言えないように思います。

専門家も遠慮がちながら、第8波の備えを訴えはじめていますが、テレビなどは、外国人観光客の爆買いや全国旅行支援やGOTOイートの話題ばかりで、第8波の兆しについてはきわめて小さい扱いしかしていません。

さらには、政府の税制調査会で、消費増税の声が出始めているというニュースもありました。上記の旅行支援やGOTOイートもそうですが、新型コロナウイルスに関する財政支出(各種支援策)に対して、悪化した財政を手当てするために増税論が出て来るのは当然と言えば当然です。「お金を貰ってラッキー」というわけにはいかないのです。旅行や外食に浮かれていても、そのツケは必ずまわって来るのです。

まさに今の全国旅行支援やGOTOイートは、踊るアホなのです。でも、同じアホなら踊らにゃ損みたいになっているのです。

今の円安や物価高、そして住民税や健康保険料など「租税公課」の負担増の中で、再び感染拡大となれば、その影響は第1波や第2波の比ではないでしょう。重症化のリスクは低いのかもしれませんが、感染に加えて経済的な負担がまるで二重苦のように私たちの生活にのしかかってくるのです。打撃を受ける観光業者や飲食店も、もう前のように支援策が取られることはないでしょう。そのため、「風邪と同じ」と言われたり、感染症法を今の「2類相当」から5類へ引き下げたりして、社会経済活動に支障がないように「過少に扱う」のだろうと思います。手っ取り早く言えば、感染しても出勤するようなことが半ば公然と行われるということです。というか、そういうことが暗に推奨されるのです。

一方、パテミックを通して、現金給付を受けたり、キャッシュレス決済が進んだということもあって、国民の間に、みずからの個人情報を国家に差し出すことにためらいがなくなったのはたしかです。ありていに言えば、(お金に釣られて)思考停止=衆愚化がいっそう加速されたのです。そして、河野太郎氏がデジタル大臣になった途端、その変化をチャンスとばかりに、マイナンバーカードと健康保険証の紐付けの義務化が打ち出されたのでした。

消費税が導入されたとき、いったん導入されると税率がどんどん上がっていくという反対意見がありましたが、多くの国民は真に受けませんでした。でも、案の定、税率はどんどん上がり続けています。財務省にとって、これほど便利な税はないのです。

マイナンバーカードも然りで、当初は義務ではないと言っていましたが、いつの間にか義務化されたのです。既に健康保険証だけでなく、運転免許証や給付金の手続きや振込みに便利だからという理由で銀行口座との紐付けも決まっています。このまま行けば、電子決済の機能も付与されるかもしれません。利便性、行政の効率化の名のもとに、そうやって日本の“中国化”が進むのです。

ユヴァル・ノア・ハラリは、携帯電話の通信記録や位置情報、クレジットカードの利用情報などという「行動の監視」だけでなく、パンデミックによって、身体の内側まで監視できるような、「独裁者が夢見ていた」システムができあがった、と言っていましたが、日本でもそれが現実のものになってきたと言えるでしょう。マイナンバーカードに健康保険証が紐付けられることによって、私たちの健康に関する情報が国家に一元的に管理されるようになるのです。でも、健康はあくまで手はじめにすぎません。生活に関するあらゆる情報が、日々の行動とともに監視・管理されるようになるのです。それが日本の”中国化”です。

コスパやタムパを重視するデジタルネイティブの世代の感性も、デジタル独裁=デジタル全体主義にとって追い風であるのは間違いありません。

タブレットを持って記者会見に臨んだだけで、「河野さんは他の大臣と違う」と称賛する(ホリエモンやひろゆきのような)アホらしい言説が、衆愚政治を招来しているのです。どうせ個人情報はGoogleに送られているのだから同じじゃないか、と彼らは言うのですが、そういった発言によって、彼らはデジタル全体主義のイデオローグになっているのでした。
2022.10.27 Thu l 新型コロナウイルス l top ▲
PEAKSのウェブサイトに、下記の記事が出ていました。

PEAKS
クマが上から飛んでくる衝撃動画「登山中に熊に襲われた」 現場の真相を取材

私も、この動画をYouTubeで観ました。

私自身、二子山ではないですが、近辺の山に登ったことがあります。至るところに「熊の目撃情報あり」の注意書きの看板があり、あのあたりは熊の生息地域であることはたしかなようです。

子ども連れの親熊が、子どもを守るために本能的に襲ってきたのでしょうが、「埼玉のジャンダルム」などと言われるほど厳しい岩稜帯が連なる二子山をクライミングしている最中に、熊が頭上から襲って来る映像はたしかに衝撃的です。動画は、現在、470万回再生されており、英語の字幕を入れていることもあってか、世界中に拡散されているようです。

ただ、私が感心したのは、動画の主が「取材のご相談は登山系の媒体に限定させて頂いております」と概要欄で断っていることです。

PEAKSの記事でも、記事を執筆した山岳ライターの森山憲一氏が次のように書いていました。

動画公開後、島田さんのもとにはテレビ局などから動画利用のお願いが多数寄せられているそうだが、いまのところすべて断っている。「衝撃映像」などと題して流され、スタジオの人が「登山は危ないですね」などと語って終わるかたちで消費されたくないというのだ。


遭難事故でもそうですが、メディアは、「安易な登山は危険」「遭難は迷惑」みたいなお定まりの自己責任論で報じるのが常です。ましてや、テレビのバラエティ番組などでは、ゲストのタレントたちが「キャー怖い」とアホみたいな嬌声を上げてそれで終わりなのです。

前に上高地の小梨平でキャンプをしていた女性のハイカーが、テントで睡眠中に熊に襲われて怪我をするという事故がありました。その女性は、大学の山岳部出身のハイカーだったので、朝日新聞の取材を受けたり、『山と渓谷』誌に体験記を発表していました。その中で、「熊に恨みはない」「熊に申し訳ない」と書いていました。

すると、ネットでは、「なんだ、その言い草は」と嘲笑の的になったのでした。彼らは、「人間を襲う熊なんか殺してしまえ」という身も蓋もない考えしかないのです。そして、同じような単純な考えで、遭難したハイカーに悪罵を浴びせるのでした。

登山では必ず記録を付けます。それは、思い出のためだけではなく、何かあったときの検証のためでもあります。どんな山に登るのでも、登山届と記録は必須なのです。

登山において、検証するというのは非常に大事なことです。この動画を検証のため、熊対策のために使ってほしい、という動画主の考えは、本来のハイカーが持っている見識だと思いました。中には熊鈴がうるさいといって、顔をしかめたりブツブツ文句を言ったりするようなハイカー(大概高齢者)がいますが、そういう下等なハイカーは山に来るべきではないでしょう。

今の時期だと、どこのテレビや新聞も、「紅葉が盛りを迎えて登山客で賑わっています」というような定番の”季節ネタ”を取り上げるのですが、遭難事故が起きると、途端に鬼の形相になって、まるで自業自得だと言わんばかりに、遭難者叩きを煽るような口調に一変するのでした。それは、Yahoo!ニュースのようなウェブニュースも然りです。

そのため、遭難者自身や家族が、事故後もSNSのバッシングに苦しむという”二次災害”の問題もあります。

もし登山系ユーチューバーだったら、「衝撃注意」「死ぬかと思った」「危機一髪」などというキャッチ―なタイトルで仰々しく煽って、再生回数を稼ごうとするでしょう。実際に、遠くで熊を目撃しただけで、ここぞとばかりに大袈裟なタイトルを付けてアップしている動画はいくつもあります。

旧メディアでもネットメディアでも、まともな神経で接するのは非常に難しいと思いますが、このように明確な見識を突き付けるのもひとつの方法だと思いました。
2022.10.25 Tue l 社会・メディア l top ▲
先日、田舎から友人が上京して来たので、久しぶりに会いました。何でも天皇夫妻や三権の長が列席したような集まりに出席するために上京したそうで、警備が凄かった、と言っていました。

「こいつ、そんな役職に就いていたのか」と思いましたが、しかし、会えばいつもの他愛のない(いつまでも成長しない)話をするだけです。私は、山用のTシャツとパンツにスニーカーにリュックを背負った恰好でしたが、さすがに彼はちゃんと紺のスーツを着てネクタイを締めていました。

お土産だと言って田舎のなつかしいお菓子も貰いました。見た目は景気がよさそうだったので、食事もご馳走になりました。

その中で、久住連山の話になりました。彼も子どもの頃からの習慣でときどき山に登るので、自然とそういった話になるのでした。

私も前に書きましたが、久住連山が阿蘇国立公園と一緒になるとき、山の反対側の九重ここのえ町が「俺たちも九重くじゅうだ」と言い出して、折衷案として「阿蘇くじゅう国立公園」とひらがな表記になった話や、最近、久住山や久住連山が「九重山」や「九重連山」と表記されていることを取り上げて、「ホントに頭に来るよな」と言っていました。これは、私たちの田舎の人間に共通する感情です。

私は知らなかったのですが、久住連山とは別に最寄り駅から祖母山への登山バスも出ているそうです。祖母傾山は「おらが山」という感覚はないので意外でしたが、祖母山は日本百名山なので、登山客の便宜をはかっているということでした。「百名山なんて、あんなもん関係ないじゃん」と言ったら、「まあ、まあ、まあ」と言って笑っていました。もっとも、地図上では祖母山も「おらが村」の端っこにあるのです。

私も若い頃、祖母山に登ったことがありますが、そのときは赴任先の町で、役場の職員や学校の教師をしている地元の青年たちが山登りのグループを作っていて、彼らに誘われて一緒に登ったのでした。祖母傾山は、彼らには地元の山でしたが、私自身は、今の奥多摩などと同じように、よその山に登っているような感じでした。私にとっては、やはり久住が地元なのです。中でも大船山が「おらが山」なのです。

祖母山の登山口がある町も、当時、私が担当していた地区だったので、よく車で行っていました。今でも忘れられないのは、登山口の近くにおいしい湧き水が出ているところがあるので、湧き水を飲もうと車を停めて車外に出たら、鮮やかな紅葉が目に飛び込んできて、子どもの頃から紅葉は見慣れているはずなのに、「紅葉ってこんなにきれいなんだ?」と感動したことです。そんなさりげない風景が、一生忘れられない風景になることもあるのです。

これも前に書いたかもしれませんが、地元にいた頃、夜、その友人の家を訪ねて行ったことがありました。友人の家は、私たちの田舎の最寄り駅がある人口が1万人ちょっとの城下町にあります。

私たちの田舎は、ウィキペディア風に言えば、「祖母山・阿蘇山・くじゅう連山の3つの山岳」に囲まれた町で、当時は平成の大合併の前だったので、友人の町は私の実家がある町とは別の自治体でした。大昔は同じ「郡」だったのですが、友人の町が分離して「市」になり、そして、平成の大合併で今度は私たちの町が分離した「市」に統合されたのです。人口が1万ちょっとというのは、合併する前の話で、現在は2万人弱だそうです。

当時、私は、実家とは別に、祖母傾山の大分県側の登山口がある町の隣町の営業所に勤務していました。会社が借り上げたアパートに住んでいたのですが、何故か、ふと思い付いて車で30~40分かかる友人の家を訪ねて行ったのでした。

友人の家は駅の近くの商店街の中にあったのですが、行くとお母さんが出て来て、友人は出かけていると言うのです。1時間くらいしたら帰って来るので、(家に)上がって待っているように言われたのですが、「いいです。ちょっと時間を潰してまた来ます」と言って、町外れにあるパチンコ屋に行ったのでした。

でも、パチンコ屋に入ったらお客は数人しかいませんでした。店内には古い歌謡曲が流れており、うら寂しい雰囲気が漂っていました。

時間が経ったので、再び、友人の家に行き、友人と一緒に近所のホテルの中の小料理屋に行って話をしました。商店街も人通りはまったくなくひっそりと静まり返っていました。もちろん、商店街と言っても、アーケードがあるような立派なものではなく、ただ、昔ながらの店が並んでいるような通りにすぎません。

また、ホテルも、今で言えば民宿やゲストハウスみたいな二階建ての小さな建物です。小料理屋は、おそらく宿泊客が食事をするところなのでしょうが、私たち以外お客は誰もいませんでした。

どうして急に友人の家を訪ねて行ったのかと言えば、たぶん会社を辞めて再び上京することを告げに行ったのだと思います。まるでゴーストタウンのようなひっそりとした町の様子がそのときの自分の心象風景と重なり、それで今でも心に残っているのでしょう。

その頃の私は、仕事はそれなりに順調でしたが、耐えられないほどの寂寥感と空虚感に日々襲われていました。のちに当時の会社の同僚と会ったとき、私がどうして会社を辞めたのか理解できず、みんなで首を捻っていた、と言われたのですが、もとより心の奥底に沈殿するものが他人にわかるはずもないのです。その意味では、私はホントに孤独でした。

私は本を読んだり映画を観たりするのが好きでしたが、当時、私が住んでいた町には本屋は1軒あるだけで、映画館はありませんでした。本屋もめぼしい本は売ってないので、いつも注文して取り寄せて貰っていました。

でも、九州の山奥の人口が2万人足らずの小さな町のアパートで、本を読んでも何だか淋しさを覚えるばかりでした。へたに東京の生活を知っていたので、ミーハーと言えばそうなのですが、新宿の紀伊国屋や渋谷の大盛堂で本を買って、名画座で独立プロのマイナーな映画を観たりするような生活がなつかしくてならなかったのです。そういった空気に飢えていたのでした。

朋あり遠方より来る、そして、旧交を温めるのも、年を取ると何となく淋しさもあります。もう二度と戻って来ない時間が思い出されるからでしょう。

「久住の紅葉を見に帰っちくればいいのに」と言われましたが、「そうだな、今年は無理じゃけん、来年かな」と答えました。でも一方で、来年ってホントに来るんだろうか、と思ったのでした。
2022.10.25 Tue l 故郷 l top ▲
外国為替市場の円相場で、とうとう1ドル=150円の大台に乗りました。これは32年ぶりの円安水準だそうです。

調べてみると、30年前の1990年の大納会の日経平均株価は2万3千848円71銭でした。前年(1989年)の大納会の株価は、3万8千915円87銭で、1年で約39%も下落しています。

つまり、1990年はバブルが崩壊した年であり、日本経済の「失われた30年」がはじまった年でもあったのです。

国税庁の「民間給与実態統計調査」によると、1990年の平均給与は425万2千円です。最新の2020年(令和2年)は433万円で、この30年間ほとんど上がってないことがわかります。

「鈴木俊一財務相は21日の閣議後の記者会見で、為替介入の可能性について、『過度な変動があった場合は適切な対応をとるという考えは、いささかも変わりない』と述べ、従来の発言を繰り返し、市場を牽制(けんせい)した」(朝日の記事より)そうです。

しかし、朝日の別の記事では、「政府の為替政策の責任者である財務官を務めた」渡辺博史・国際通貨研究所理事長の次のような発言を紹介していました。

朝日新聞デジタル
1ドル150円「国力低下を市場に見抜かれている」 元財務官の憂い

  「いまの円安は、日米の金利差でもっぱら説明されているが、私は今年進んだ円安の半分以上は日本の国力全体に対する市場の評価が落ちてきていることが要因だと考えている。実際、日本企業をM&A(合併買収)するのに、1年前の実質2割引きであるにもかかわらず、そうした動きはほぼない。日本の企業や産業技術に対する過去に積み上げられた権威がだんだんなくなっている」


  「日本はもともとエネルギーや食料を輸入に頼る資源小国で、原材料を買い、日本で加工・組み立て、それを輸出し、生き抜いてきた。ところが、自動車を除けば電機などは海外に抜かれ、IT(情報技術)などの成長分野では米中に後れをとった。この10年ほどで日本の貿易収支は赤字が多くなり、投資を含む経常収支の黒字も小さくなってきている。(略)」


  「一方向に為替が動くと皆が思っているときに、介入をしても、砂漠に水をまくようなものだ。世界の為替市場は1日1千兆円の取引があり、うち円ドルだけでも125兆円。政府の外貨準備高が180兆円あるといっても、相場を維持することは無理筋だ。(略)」


この円安は、日米の金利差によるものであることはたしかですが、ただ、それだけではないということです。てっとり早く言えば、「日本売り」でもあるのです。

ドルが実質的な世界の基軸通貨の役割を果たしていたことを考えれば、通貨安が、アメリカが唯一の超大国の座から転落して、世界が多極化するその副産物であるのは今さら言うまでもないでしょう。とりわけ、対米従属を国是とする日本はその影響が大きいとも言えますが、日本はアメリカの属国みたいな存在であるがゆえに多極化後の世界で生きる術がない、ビジョンを描けてない、という深刻な事情があります。渡辺博史・国際通貨研究所理事長が上記の記事で、「日本の国力全体に対する市場の評価が落ちてきている」というのは、そのことを指しているのだと思います。

鈴木俊一財務大臣が、いくら為替介入の可能性を示唆して市場を牽制しても、1日1千兆円の取引がある世界の為替市場の中で、円ドルの取引はわずか125兆円にすぎず、しかも、円安介入の原資である外国為替資金特別会計(外為特金)=外貨準備高は180兆円しかないのです。これでは、鈴木財務大臣の発言が、一時のマネーゲームに使われるだけなのは当然でしょう。介入が「砂漠に水をまくようなものだ」というのは、言い得て妙だと思いました。

一方で、日本と同じように対米従属の度合いが高いフィリピンやタイやマレーシアや韓国などの通貨も下落しており、アジア通貨危機の再来も懸念されています。前回と違って今回の通貨危機では、日本は主役のひとりになるのでしょう。

何度も言いますが、日本が先進国のふりをしていられるのは、2千兆円という途方もない個人の金融資産があるからです。もちろん、それは見栄を張るために食い潰されていくだけです。しかも、誰もがその恩恵にあずかることができるわけではありません。その恩恵にあずかれない人たちは、先進国とは思えないような生活を強いられ下のクラスに落ちていくしかないのです。

コロナ禍で企業も個人も、ものの考え方が大きく変わりました。私のまわりでも、会社を辞めて別の道を歩むという人間もいます。東京の生活が異常だということに気づいた、という声も聞くようになりました。電車が来てもないのに、駅の階段を駆け下りて行くような日常の異常さ、空しさに気づいたということでしょう。何だかそれは自己防衛リスクヘッジのようにも思います。今の経済システムに身も心もどっぷりと浸かっていると、ドロ船と一緒に沈むしかないのです。

コロナ禍の前まで、中国人観光客はマナーが悪くて迷惑だなどと言っていたのに、コロナ禍を経て入国規制が緩和された途端、中国が一日も早くゼロコロナ政策を転換して中国人観光客が戻って来るのを、首を長くして待ちわびているようなことを言いはじめているのでした。岸田首相も、今国会の所信表明演説で、訪日外国人旅行者の消費額の目標を「年5兆円超」と掲げるなど、円安に対してもはやインバウンドしか頼るものがないような無為無策ぶりをさらけ出したのですが、それも訪日外国人旅行者の消費額の40%強を占める中国人観光客次第なのです。

インバウンドだけでなく、対中貿易が日本の生命線であることは統計を見てもあきらかです。財務省の資料によれば、2021年度の対外貿易額において、輸出・輸入ともにトップなのは中国です。アメリカがトップだったのは、輸出・輸入ともに2000年までです。ここでもアメリカの没落が如実に示されているのでした。そのくせ、一方で、相変わらず対米従属にどっぷりと浸かったまま、アメリカの尻馬に乗って米中対立を煽っているのですから、何をか言わんやでしょう。

台湾をめぐる米中対立が「危機的」と言われるほど深刻化したのは、アメリカがペロシの台湾訪問などで中国を挑発したからです。アメリカが怖れているのは、中国の経済力です。前も書きましたが、石油のアメリカから次の100年のレアメタルの中国に覇権が移ることに抵抗しているからです。特に目玉になっているのが半導体です。半導体不足で新車の納期が数年待ちなどと異常な状況が言われていますが、それもアメリカが中国企業との取引きを規制する、いわゆるデカップリング戦略を取ったからです。台湾が半導体の一大生産地であることを考えれば、台湾をめぐる米中対立の背景も見えてくるでしょう。

しかし、レアメタルの中国に覇権が移ることは、資本の「コンセンサス」なのです。資本は、自己増殖することが使命であり、そのためには国家などどこ吹く風なのです。「プロレタリアートに国境はない」と『共産党宣言』は謳ったのですが、当然ながら資本にも国境はないのです。今、取り沙汰されている「危機」なるものは、言うなればアメリカの悪あがきのようなものです。

アメリカが唯一の超大国の座から転落するのは、前からわかっていたはずです。でも、日本は対米従属に呪縛されたまま、何の戦略的な思考を持つこともなかったし、持とうともしませんでした。アメリカの尻馬に乗って軍事的に中国と直接対峙したら、日本は政治的にも経済的にも破滅するのはわかっていながら、漫然と対米従属を続けてきた(続けさせられた)のです。

日本維新の会との連携を進める立憲民主党の泉健太党首は、今日の昼間、都内で行われた講演で、改憲を掲げる日本維新の会とは、「実はそんなに差がないと思っている。憲法裁判所、緊急事態条項は、我々も議論はやっていいと思っている」「必要であれば憲法審で議論すればいい」と発言したそうですが、私は、その(下記の)記事を見て、「それ見たことか」と言いたくなりました。

朝日新聞デジタル
立憲・泉代表「9条も必要なら憲法審で議論すればいい」

仮に軍事的緊張が高まっているとしても、無定見にその流れに乗るのは米中対立の中で貧乏くじを引く(引かされる)だけだ、ということさえ、胸にブルーリボンのバッチを付けたこの野党の党首はわかってないのかもしれません。その意味ではネトウヨと同じです。前から何度もくり返していますが、そもそも立憲民主党は野党ですらないのです。

米中が軍事衝突したら、台湾には米軍基地がないので、沖縄の基地から出撃するしかありません。そうなれば、当然、敵国から攻撃の対象になるでしょう。なのに、どうしてわざわざそのための(戦争の当事者になるための)準備をしなければならないのか。憲法9条は戦争にまきこまれないための最後の砦だったはずです。また、軍事費が増大すれば、国家が経済的に疲弊してにっちもさっちもいかなくなります。ましてや、最大の貿易相手国を失うのです。憲法9条はその歯止めにもなっていたはずなのです。

経済再生大臣の目をおおいたくなるような醜態に象徴されるように、私たちの国家は経済再生なんてただの掛け声で、もはや打つ手もなく当事者能力を失くしているようにしか思えませんが、それは経済だけでなく政治も同じです。

また、今の円安に関しては、世界の多極化という大状況だけでなく、アベノミクスの負の遺産という側面があることも見逃せません。アベノミクスが「日本再生」のために掲げた三本の矢のひとつである、円安を誘導する「大胆な金融施策」が、日本だけがマイナス金利政策から抜け出せない無間地獄を招いてしまったのです。そして、それが「日本売り」の要因になっているのです。その意味でも、安倍元首相は、経済政策においても「国賊」だったと言ってもいいでしょう。

抜本的な改革をしなければ再び「強い経済」が戻って来ない、と識者はお題目のように言いますが、抜本的な改革なんてあるのでしょうか。とてもあるようには思えません。「強い経済」が戻って来ることはもうないのではないか。

むしろ、”強くない経済”の中で、どう生きていくか、どう自分らしく生きていくか、ということを考えるべきではないか、と思います。たとえば、今まで生活するのに30万円必要だったけど、15万円でも生活できるようにするというのも、大事な自己防衛リスクヘッジでしょう。もとより、私たちにはその程度のことしかできないのです。しかし、少なくとも電車が来てもないのに駅の階段を駆け下りて行くサラリーマンなんかより、自分の人生に対しても、社会に対しても、はるかにまともな感覚を持つことができるでしょう。それが生きる術につながるのだと思います。

奴隷の30万円では、いざとなればポイ捨てされるだけです。コロナ禍に加え、円安によって失われた30年が可視化されたことで、多くの人たちは、自分たちの人生が砂上の楼閣であることに気づいたはずです。「年金はもうあてにできない」とよく言いますが、じゃあ年金をあてにしない生き方はどうすればいいのかと訊くと、みんな口を噤むだけです。今必要なのは、「日本を、取り戻す」(自民党のキャッチフレーズ)ことではなく、「自分の生き方を、取り戻す」ことなのです。

私の知り合いも、家庭の事情で田舎に帰って介護の仕事をしていますが、彼女は「東京で介護の仕事をするのは精神的にしんどいかもしれないけど、田舎だと張り合いを持ってできるんだよね」と言っていました。そういった言葉もヒントになるように思います。私は、彼女の言葉を聞いて、”地産地消の思想”ということを考えました。地産地消は食べ物だけの話ではないのです。

まるでコロナが終わったかのように、全国旅行支援で遊びまわろう、遊ばにゃ損、みたいな報道ばかりが飛び交っており、ともすればそういった皮相な部分に目を奪われがちですが、私たちの社会や人生の本質は、もうそんなところにないのだ、ということを自覚する必要があるのではないでしょうか。


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2022.10.21 Fri l 社会・メディア l top ▲
テレビ局の中で旧統一教会の問題に消極的なのは、NHKとフジテレビとテレビ朝日と言われていました。フジテレビは論外ですが、NHKとテレビ朝日が消極的なのは、今なお故安倍晋三元首相に忖度しているからです。死してもなお、旧安倍派は自民党内では最大派閥であり、メディアに対する故安倍元首相の“威光”は、安倍応援団を通して未だに衰えてないのです。旧統一教会と政治家との関係の本家本元は安倍元首相ですが、それに触れることは、安倍元首相を冒涜することになるのです。

テレビ朝日の「モーニングショー」に有田芳生氏が出演したのは8月18日で、私もちょうど観ていましたが、その席で有田氏はオウム真理教の一連の事件のあと、警視庁が旧統一教会に対して強制捜査に入る準備をしていたけど、「政治の力」によってそれが潰されたという(例の)話をしたのでした。

ところがその日を境に、旧統一教会の問題に対する「モーニングショー」のスタンスが、あきらかに変化します。もちろん、有田氏は二度と呼ばれることはありませんでした。

リテラは、この件に関して、「上層部からの一方的な報道中止指示があった」からだ、と書いていました。

  まず、『モーニングショー』への圧力は、18日、有田芳生氏が発した「政治の力」発言がきっかけだった。この発言は、前述のように、Twitter上でも「政治の力」がトレンドワード入りするなど大きな話題になったが、すると、その日のうちに、統一教会の取材に動く現場スタッフに、プロデューサーから「上から指示があった、しばらく統一教会問題はやらない」とストップがかかったのだという。

   「トーンを落とす、とかそういうレベルではなく、一切やるな、ということだったようです。実際、『モーニングショー』の現場は、翌日も有田芳生氏に出演してもらうつもりでスケジュールをおさえ、特別取材班がいくつもネタを仕込んでいた。ところが、それをすべてナシにしろといわれ、統一教会とは何の関係もない話題に差し替え。有田氏にも『別の企画をやることになったので』と、急遽キャンセル連絡を入れさせられたらしい」(テレビ朝日関係者)

リテラ
テレビ朝日で統一教会報道がタブーに!  『モーニングショー』放送差し替え、ネット動画を削除!   圧力を囁かれる政治家の名前


出演がキャンセルされたことは、有田氏も認めています。

前も書きましたが、『ZAITEN』(10月号)の特集「大株主『朝日新聞』の制御不能  老衰する『テレビ朝日』の恍惚」によれば、テレビ朝日及び持ち株会社のテレビ朝日ホールディング双方の代表取締役会長を務める78歳の早河洋氏は、「誰が社長になっても同じ」と社内で言われるほどの「唯一無二の最高権力者」で、篠塚浩社長は「早河さんのAD」とヤユされているのだそうです。

2009年にテレビ朝日初の生え抜き社長になった早河氏は、5年後に会長兼CEOの地位を手に入れてからは、代々の社長に権力を移譲することなく、テレビ朝日の「絶対的な君主」としての地位を固めて行ったのでした。

早河氏が会長になってから、篠塚氏で社長は4人目ですが、その中で朝日新聞から「天下った」のは最初の吉田慎一氏だけで、あとはテレ朝のプロパーが内部昇格しているそうです。朝日新聞はテレビ朝日の30%強の株を握っていますが、早河氏は完全に朝日新聞のコントロールから脱するのに成功したと言えるでしょう。

もっとも朝日新聞も、テレ朝にかまっている余裕はないのです。会社はじまって以来の大リストラが行われている真っ最中だからです。朝日は、全国紙で最多の4100人を超える社員を抱えていますが、9月から11月にかけて45歳以上の社員を対象に「200人以上」の希望退職者を募っているのです。昨年の1月に110名が早期退職しており、今回の200名と合わせると300名の社員がリストラされることになります。

早河会長の秘書だった女性が人事局長に大抜擢されてから、”不適材不適所”のトンチンカンな人事が横行しているという話がありますが、それが関係しているのかどうか、テレ朝では社員の不祥事も続出しているそうです。

今年の2月には、セールスプロモーション局ソリューション推進部長の職にある人間が、あろうことか詐欺容疑で大阪府警に逮捕され、同時に「スーパーJチャンネル」のデスクも同じ容疑で逮捕されるという不祥事がありました。彼らは、大阪市中央区のホームページ制作会社の関係者4人と共謀して、「IT導入補助金」を不正受給した容疑がかけられているのです。

しかし、『ZAITEN』によれば、件の部長は、記事の執筆時点でも処分されておらず、有給休暇を使うなどして休職扱いになっているのだとか。元部長が8月で満50歳になったので、このまま「依頼退職」するのではないかという噂が流れているそうです。そのあたりのいきさつについて、『ZAITEN』は次のように書いていました。

(略)というのも、テレ朝では、50歳の誕生月以降のどのタイミングでも退職する際に申請すれば、「生活設計援助制度」が使えるのだ。この制度は60歳の誕生月まで毎月34万円が支給されるもの。50歳の誕生月で退職した場合、10年間あるので、約4000万円。これとは別に退職金も支払われる。
(『ZAITEN』10月号・上記特集より)


『ZAITEN』は、元部長は「事程左様に会社側が“配慮”をしなければならない存在ということなのか」と書いていました。

「早河王国」になって、テレ朝はエンタメ路線に舵を切り、報道部門が弱体化していると言われます。「ニュースを扱う資質に欠けるような人物」が報道局に送り込まれているという指摘さえあるそうです。上記の「スーパーJチャンネル」のデスクの逮捕だけでなく、会長の覚えめでたく役人待遇のエグゼクティブアナウンサーに昇進した木下容子アナの冠番組「木下容子ワイドスクランブル」でも、昨年、ヤラセが行われていたことが内部告発で発覚しました。

玉川徹氏を晒し者にして針のムシロに座らせるようなやり方も、早河会長や篠塚社長が安倍元首相と会食をするなど安倍元首相に近い存在であったということや、同局の放送番組審議会の委員長が、安倍応援団として知られる見城徹幻冬舎代表取締役社長が就いていることなどが背景にあるのではないかと言われていますが、さもありなんと思いました。


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2022.10.20 Thu l 社会・メディア l top ▲
Yahoo!ニュースに関して、次のようなニュースがありました。

朝日新聞デジタル
ヤフコメ投稿、電話番号登録が必須に 不適切投稿への対策を強化

でも、これがホントに「期待できる」ような改善になるのか。はなはだ疑問です。

ヤフーの場合、一人で最大6つアカウントを持つことができるので、「アカウント停止」がいたちごっこになるのは当然で、そんなことは最初からわかっていたはずです。

つまり、今までの「アカウント停止」処置は、単にアリバイ作りのためにやっていたにすぎないのです。そうやって外向けにやってる感を出していただけです。

今後、投稿するのに電話番号の登録が必須になるということは、いわゆる携帯番号認証コード方式がヤフコメにも採用されるということなのでしょう(ただ私はヤフコメに投稿したことがないので、今とどう違うのかよくわかりません)。だとしたら、「アカウント停止」になっても、携帯番号を複数持つとか、スマホを買い替えて新しい番号を取得すれば、投稿は可能なのです。

ヤフコメの場合、芸能人や事件の当事者などに対する誹謗中傷だけでなく、昨年の8月に発生した京都府宇治市のウトロ地区の放火事件の犯人が、ヤフコメによって在日コリアンに対する憎悪を募らせてきたことをみずから法廷で証言しているように、ヘイトスピーチの巣窟になっているという問題もあります。ヘイト団体やカルト宗教などのメンバーが常駐して、差別的な投稿を半ば組織的に行っているという指摘があります。Yahoo!ニュースのコメント欄が、「日本を、取り戻す」(自民党の標語)ための、彼らの言葉で言えば「思想戦」の場になっているのです。

そういった不埒な行為をもたらしたのは、今までも何度も言ってきましたが、ひとえにヤフーがニュースをマネタイズしているからです。バズるようなニュースをトピックスにあげて煽っているからです。

ヤフーにとって、ニュースの価値はどれだけアクセスを稼ぐかなのです。それによって、ニュースの価値が決まるのです。そのため、コメント欄に巣食うユーザー向けにヘイトスピーチや誹謗中傷を煽るような記事をアップすることになるのです。言うなれば、ヤフーとヘイト団体やカルト宗教は、利害が一致しているのです。ネットは悪意の塊だ、と言った人がいましたが、ヤフーはそういったネットの負の部分を利用しているのです。

Yahoo!ニュースと契約する媒体は、基本的にクリック数によって配信料が決まる仕組みになっていると言われており、週刊誌やスポーツ新聞など節操のない媒体は、バズりそうなコタツ記事を量産してYahoo!ニュースに送信することに懸命になっています。もう言論もひったくれもないのです。ただ目先のお金だけなのです。そういった貧すれば鈍する品性によって、Yahoo!ニュースが作られているのです。

先日も侮辱罪が改正されましたが、そのようにヘイトスピーチや誹謗中傷を書き込むユーザーばかりがやり玉にあがり、背後で彼らを暗に煽っているYahoo!ニュースや週刊誌やスポーツ新聞などは、「言論・表現の自由」の建前の下、ほとんど不問に付されているのが現実です。

もちろん、メディアは相互批判で改善するという理想論もありますが、そもそもYahoo!ニュースがいつの間にかメディアに対して絶対的とも言えるような「力」を持ってしまった現在、Yahoo!ニュースを正面から批判するメディアなんてありません。ましてや、週刊誌やスポーツ新聞にとって、今やヤフーは電通と同じように、ただ地べたにひれ伏すような存在になっているのです。でなければ、あんなに必死になって、みずから首を絞めるようなコタツ記事を書きまくったりしないでしょう。

ニュースの価値をアクセス数ではかり、ニュースをマネタイズする考えがある限り、どんな方法を講じても水が低い方に流れる今の状態を改善することはできないでしょう。要はコメント欄を閉鎖すればいいだけの話です。そうすれば、下劣なコタツ記事も姿を消すでしょう。

でも、ヤフーは本気で改善するつもりなどないようです。今回の対策も、単なるやってる感で誤魔化しているにすぎないのです。


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『ウェブニュース 一億総バカ時代』
2022.10.19 Wed l ネット l top ▲
岸田首相が、旧統一教会に対して、宗教法人法に基づく調査実施の検討に入ることを、17日(月)の国会の予算委員会で表明する、というニュースがありました。

朝日新聞デジタル
政府が旧統一教会の調査検討 法令違反の有無など、首相17日に表明

政府は、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の問題をめぐり、宗教法人法に基づく調査実施の検討に入った。消費者庁の有識者検討会が近くまとめる提言に調査要求が盛り込まれる見通しであることを踏まえ、岸田文雄首相が17日に開かれる衆院予算委員会で表明する考えだ。必要があれば調査をするよう文部科学相に指示するとみられる。

政府関係者が15日、明らかにした。調査は、所轄庁が教団の業務や管理運営についての報告を求める。法令違反など解散命令の要件に該当するかどうかを調べ、結果次第では、教団の宗教法人格を剝奪(はくだつ)する解散命令の請求につながる可能性もある。
(上記記事より)


とは言え、この記事の後半に書いていますが、政府・与党の中では「解散請求」に慎重な声が大勢を占めているようです。その一方で、おざなりなアンケート以外何のアクションも起こさない岸田政権に対して、支持率低下というきびしい世論の声が突き付けられているのです。それで、記事にも書いているように、とりあえず「調査」を指示して世論の批判をかわそうという狙いもあるのかもしれません。「質問権の行使」という迂遠なやり方も、時間稼ぎをして世論が下火になるのを待つという姑息な計算がはたらいているのではないか、と思ったりもします。

ただ、逆に考えれば、いくら向こう3年間選挙がないとは言え、このまま旧統一教会の問題を嵐が去るまでやり過ごすことがさすがにできなくなってきた、そこまで追い詰められた、と言えないこともないのです。岸田首相は、2日前には「解散命令は難しい」と消極的な発言をしていたのです。まさに”急転直下”と言ってもいいような方針転換なのです。

たまたま今の政治に詳しい知人と会った際、この記事が話題にのぼったのですが、彼は、(具体的な発言の内容を待つ必要があるけど)総理大臣が国会でわざわざ表明するということは、国会答弁のノウハウから言えば、「解散命令の請求まで行く可能性がある」と言っていました。

支持率の低下だけでなく、全国霊感商法対策弁護士連絡会(全国弁連)が、文科大臣と法務大臣に対して、解散命令の請求を行うよう申し入れたことや、消費者庁の有識者検討会も、全国弁連と同様な提言を予定しているなど、「解散命令の請求」という伝家の宝刀に対して、外堀が埋められつつあるのは間違いないようです。

消費者庁の検討会は週1回のペースで進められたそうですが、その会合におけるメンバーの菅野志桜里氏(弁護士・元衆院議員)らの発言を、朝日新聞が記事にまとめています。そこには、私たちが想像する以上に明確な方向性が示されているのでした。

朝日新聞デジタル
悪質宗教法人の根っこ、どう絶つ? 消極的な行政に「猛省促したい」

「税優遇のうまみを前提とした搾取のシステムを壊す必要がある。やはり宗教法人としての法人格を剝奪(はくだつ)することは大きな意味がある」(第3回・菅野氏)


「刑事だけでなく、民事も含めて個別の違法行為を組織的に繰り返す団体が、調査を受けて解散命令も受けるというルールが機能するよう提言が必要」(第2回・菅野氏)


「(民事裁判で)伝道、教化、献金要求行為などに組織的な違法が認められたものが積み上がっているし、そのほか明らかになっている数々の問題を直視すれば要件に該当すると考えるのが自然」「所轄庁において質問・報告徴収権を行使して、解散命令請求の判断に向けた調査を速やかに開始すべき」(第6回)


また、検討会の座長である河上正二東大名誉教授も、「非常に消極的な態度を示しているけれども、その姿勢には猛省を促したい」(同上)と文化庁の姿勢を批判し、メンバーの中央大の宮下修一教授も 「あるものをまず活用してダメだったら次に行こうという話になる時に、そもそも『活用しません』とか『やりません』という姿勢自体について私自身も座長と同じように猛省を求めたい。まずそこからスタートすべきだ」(同上)と、文化庁の(公務員特有の)事なかれ主義を批判しているのでした。

このブログを読んでもらえばわかりますが、私は、いくらでも拡大解釈が可能なフランスのような反カルト法ではなく、現行法で処分(解散命令=法人格を剥奪)する方が適切だと考えていますので、この方向性には賛成ですし期待したい気持があります。

もとより、教団があろうがなかろうが、法人格を持っていようが持ってなかろうが、個人に信仰の自由はあるのです。「信教の自由の観点から慎重でなければならない」という政府・自民党の主張は、旧統一教会との関係を絶つことができない彼らの詭弁にすぎないのです。

もちろん、これから旧統一教会から自民党に対する”ゆさぶり(脅し)”も激しさを増すでしょう。「安倍応援団」と言われ(る旧統一教会の走狗のような)メディアや文化人やコメンテーターたちの、「いつまで統一教会のことをやっているだ。他に大事なことがあるだろう」という大合唱もはじまるでしょう。

当然、自民党内の反発もあります。安倍元首相を「国賊」と呼んだ村上誠一郎衆院議員に対して、自民党の党紀委員会は、「極めて非礼で許しがたい」として1年間の党の役職停止処分を下すなど、旧統一教会との関係に蓋をする(言論封殺の)動きもはじまっています。党内で旧安倍派(清話会)が最大勢力であることには、いささかも変わりがないのです。

玉川徹氏の“失言”に対するバッシングも、その動きに連動したものと言えるでしょう。文字通り、彼は国葬と電通という二つの虎の尾を踏んだのです。それにつれ、旧統一教会と安倍元首相の関係を伝える報道も目立って少なくなってきました。

でも、安倍元首相が、「反日カルト」に「国を売ってきた」中心人物であり、「国賊」と呼ぶべき存在であることはまぎれもない事実なのです。「愛国」と「売国」が逆さまになった”戦後の背理”を体現する人物であることは否定しようがないのです。

戦後の保守政治は虚妄だったのです。「愛国」も壮大なるウソだったのです。

そのことを言い続ける必要があるでしょう。メディアに”腰砕け”の兆候が見られるのが懸念材料ですが、そう言い続けることでもっと外堀を埋めなければならないのです。でないと、大山鳴動して鼠一匹になってしまうでしょう。


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カルトと信教の自由
2022.10.16 Sun l 旧統一教会 l top ▲
笹尾根・ハセツネカップ
(笹尾根)


久し振りに登山に関するYouTubeを観たら、登山ユーチューバーの中で既にやめていたり、休止状態のユーチューバーが結構いることがわかり、妙に納得できました。

登山ユーチューバーというのは、単に趣味で登山動画を上げている人のことではありません。直近の1年間で動画の総再生時間が4000時間を超えているとか、チャンネル登録者数が1000人以上など一定の条件を満たして、Googleからアドセンスなどの広告収益を得ている人たちです。

私も一時よくYouTubeの動画を観ていましたが、最近は観ることがめっきり少なくなりました。それはどのジャンルでも同じかもしれませんが、動画をあげるユーチューバーたちのあざとさみたいなものが透けて見えるようになったからです。でも、それは、上のGoogleから与えられた条件を満たすためには仕方ない一面もあります。

もともと他のジャンルに比べると、登山人口はそんなに多くありません。むしろ、ニッチのジャンルと言ってもいいでしょう。同じアウトドアでも、キャンプなどに比べると雲泥の差です。現在いま、アウトドアブームと言われていますが、それはキャンプに代表されるように、あくまで山の下の話なのです。

最近の世代は、デジタルネイティブと言われるように、生まれたときからデジタル機器に親しんでいたということもあり、コスパやタムパ(タイムパフォーマンス)を重視する傾向があり、スマホで動画を観る際も、早送りして観たり(=倍速視聴)飛ばしながら観たり(=スキップ再生)するのが特徴だと言われています。

そういったコスパやタムパを重視する世代にとって、登山なんて効率の悪い典型のような趣味です。実際に山に登るとわかりますが、登山は、倍速視聴やスキップ再生のような感覚とは対極にある、自分の体力とスキルと判断力しか頼るものがない、アナログで愚直で、それでいて文化的な要素もある、(スポーツとも言えないような)きわめて対自的な「スポーツ」です。どうしてわざわざあんなにきつくて、へたすれば怪我をするようなことをするのか理解できません、と言われたことがありますが、バカの高登りと言われれば、たしかにその通りなのです。

しかも、登る山は限られています。そのため、毎年紅葉シーズンになると、涸沢など人気の山にユーチューバーがどっと押しかけて、似たような動画があがることになるのです。私の知る限り、登山ユーチューバーが本格的に登場したのは、ここ3~4年くらいですが、紹介される山は既に一巡も二巡もしており、飽きられるのは当然と言えば当然なのです。

そもそも彼らの多くは、俄か登山愛好家ハイカーにすぎません。普通はもっと時間をかけてステップアップするものです。私が山で会った女性は、登山歴は5年以上になるけど、尾根を歩くのが好きだったので、最初の2年くらいは頂上に登らないで尾根ばかり歩いていた、と言っていました。私も尾根が好きで、昔、地図で尾根や峠を探してはそこを訪ねて行くようなことをやっていましたので、その気持がよくわかりました。

紙の地図を見てあれこれ想像力をはたらかせる楽しみも、デジタルの時代になって失われました。「どんな鳥も想像力より高く飛べる鳥はいない」というのは、寺山修司の言葉ですが、「好き」という感覚には、必ず想像力(妄想)が付随するものです。それは山も同じです。そもそも登山というのは、どこかに人生が投影された非常に孤独な営為です。だから、登山が人を魅了するのでしょう。

私は、人が多い山が嫌いなので、平日しか山に行きませんが、ほとんど人に会うこともなくひとりで山を歩き、途中、疲れたのでザックをおろして地面に座り、水を飲みながらまわりの景色(と言ってもほとんどが樹林だけど)を眺めていると、突然、胸の奥から普段とは違った感情が込み上げてくることがあります。そんなとき、”身体的”ということを考えざるを得ません。ロックは外向的だけどジャズは内向的な音楽だ、とよく言われますが、その言い方になぞらえれば、登山はきわめて内向的な(スポーツならざる)「スポーツ」と言えるように思います。”身体”というのは、内に向かうものだということがよくわかるのでした。

中には、再生回数が見込める人気の山に登るために、飛び級で北アルプスなどに登っているユーチューバーもいますが、そんなユーチューバーにとって、登山はただお金と称賛を得るためのコンテンツにすぎないのかもしれません。そのため、思うように収益があがらないと、山に登るモチベーションも下がってしまうのでしょう。まるで業界人のように、「撮れ高」とか「尺」とか「視聴者さん」などと言っている彼らを見ると、最初から勘違いしているのではないか、と思ってしまうのでした。

結局、残るのは、若くてかわいい女性の動画だけという身も蓋もない話になるのです。山は二の次なのです。

そんな一部の女性ユーチューバーに、コロナ禍で苦境に陥った登山ガイドや山小屋や登山雑誌などが群がり、人気のおこぼれに預かろうという、あさましく涙ぐましい光景も見られるようになりました。ペストやスペイン風邪がそうであったように、新型コロナウイルスで街の風景も人々の意識も変わりましたが(これからもっと変わっていくでしょうが)、登山をめぐる光景も変わったのです。登山が軽佻浮薄な方向に流れることを”大衆化”と勘違いしているのかもしれませんが、それこそ貧すれば鈍する光景のようにしか思えません。

登山は、生活や人生に潤いや彩りをもたらすあくまで趣味にすぎないのです。あえてそんなクサイ言い方をしたいのです。そして、その中から、山に対する思いが育まれ、自分の登山のスタイルを見つけていくのです。その後ろには、平凡な日常やままならない人生が張り付いているのです。だから、「山が好きだ」と言えるのです。トレイル(道)を歩くことは哲学だ、とロバート・ムーア は言ったのですが、そのように登山というのは、ヒーヒー言って登りながら、自分と向き合い哲学しているようなところがあります。

YouTubeとは違いますが、東京都山岳連盟が実質的に主催し笹尾根をメインコースとするハセツネカップ(日本山岳耐久レース)が、今年も10月9日・10日に開かれましたが、ハセツネカップに関して、国立公園における自然保護の観点から、今年を限りに大会のあり方を見直す方向だ、というようなニュースがありました。

私から言えば、ハセツネカップこそ自然破壊の最たるものです。大会の趣旨には、長谷川恒男の偉業を讃えると謳っていますが、トレランの大会が長谷川恒男と何の関係があるのか、さっぱりわかりません。趣旨を読んでもこじつけとしか思えません。

笹尾根のコース上には、至るところにハセツネカップの案内板が設置されていますが、それはむしろ長谷川恒男の偉業に泥を塗るものと言えるでしょう。それこそ「山が好きだ」というのとは真逆にある、YouTubeの軽薄な登山と同じです。

丹沢の山などが地質の問題も相俟ってよく議論になっていますが、登山者が多く訪れる人気の山には、登山者の踏圧によって透水性が低下し表土が流出することで、表面浸食がさらに進むという、看過できない問題があります。ましてや、2000名のランナーがタイムを競って駆けて行くのは、登山者の踏圧どころではないでしょう。ランナーたちが脇目も振らずに駆けて行くそのトレイルは、昔、武州と甲州の人々が行き来するために利用してきた、記憶の積層とも言える古道なのです。

東京都山岳連盟は、「この、かけがえのない奥多摩の自然を護り育むことは、私どもに課せられた責務である」(大会サイトより)という建前を掲げながら、その問題に見て見ぬふりをして大会を運営してきたのです。都岳連の輝かしい歴史を担ってきたと自負する古参の会員たちも、何ら問題を提起することなく、参加料一人22000円(一般)を徴収する連盟の一大イベントに手弁当で協力してきたのです。

ちなみに、コースの下の同じ国立公園内に建設予定の産廃処理施設も、都岳連と似たような主張を掲げています。これほどの貧すれば鈍する光景はないでしょう。


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2022.10.13 Thu l l top ▲
昨日10日の朝8時すぎ(キーウ現地時間)、ロシア軍はキーウ中心部など、ウクライナ各地をいっせいにミサイル攻撃しました。それに伴い、全土で90人以上の死傷者が出たそうです。ウクライナ軍の発表によれば、ロシア軍は83発のミサイルを放ったものの43発が迎撃され、残り40発が着弾したということです。

今回の攻撃で目を引くのは、大統領府や中央官庁が集中するキーウ中心部を狙った攻撃である、と言われていることです。日本で言えば、霞が関を狙ったようなものでしょう。

同時に、キーウ、リヴィウ、ドニプロ、ヴィンニツィア、ザポリッジャ、ハルキウなど各地で、電力施設が攻撃されており、ゼレンスキー大統領が言うように、「ウクライナのエネルギー・インフラが標的」にされた公算が高いのです。キーウの中心部にあるエネルギー関連のインフラ企業「デテック」の本社ビルも攻撃の対象になったそうです。

そこで思ったのですが、今年2月からはじまった侵攻では、キーウへの攻撃もありましたが、その際、中心部の大統領府などの中枢機関への攻撃は手控えていたのか、ということです。昨日の攻撃は5月以来だそうですが、それまでキーウは戦争がひと息ついたかのようなのどかな空気に包まれていて、日本大使館も再開され、避難先から戻って来る人たちも多かったそうです。

昨日のテレビニュースに出ていたキーウ在住のウクライナ人の話でも、プーチンはキーウを手に入れることを考えて街を破壊することを控えていたけど、今回の攻撃でキーウを徹底的に破壊することに舵を切った、というようなことを言っていました。そんなことがあるのか、と思いました。

朝日の記事によれば、ロシアが支配するクリミア共和国のアクショノフ首長は、今回の攻撃について、「作戦初日から敵のインフラをこのように毎日破壊していれば、5月にはすべてが終わり、キエフの政権は粉砕されていただろう」とSNSに投稿していたそうですが、言われてみればそのとおりなのです。

このところ、ウクライナ軍が東部や南部のロシア側支配地域に進撃して次々に奪還している、というニュースが多くありました。また、ロシア下院の国防委員長が、国営テレビの番組で、「我々はうそをつくのをやめなければならない」とウクライナで苦戦を強いられている戦況について真実を国民に伝えるべきだと訴えた、というニュースもありました。このように、西側のメディアでは、ロシア敗色濃厚のような報道におおわれていたのです。

そんな状況下で、10月8日、クリミア半島の東部とロシア本土を結ぶ、クリミア半島併合の象徴とも言うべきクリミア橋が爆破されたのでした。それは、プーチンの70回目の誕生日の翌日でした。

さっそくキーウ市内には、クリミア橋爆破の壁画が掲げられ、その前で記念写真を撮る市民の様子がニュースで伝えられていました。ゼレンスキー大統領も「未来は快晴」と発言して、「ウクライナは歓喜に沸いた」そうです。

前に、プーチンが思想的に影響を受けたと言われている、国粋主義者アレクサンドル・ドゥーギンの娘が車に仕掛けられた爆弾で殺害された事件がありましたが、それもウクライナ政府の情報機関が関わっていた、とニューヨーク・タイムズが伝えています。

プーチン自身も、政権内部の強硬派から「手ぬるい」と突き上げを受けていた、と言われていました。追い込まれたプーチンが戦術核兵器を使う懸念さえ指摘されていたのです。そんな中でのクリミア橋の爆破は、ロシアの強硬派の神経をさらに逆なでするような挑発的な行為とも言えるのです。

案の定、今回の大規模攻撃によって、戦争が振り出しに戻ったと言われています。ベクトルを終結の方向ではなく、逆の方向に向けるような”力”がはたらいているように思えてならないのです。

ウクライナ侵攻で解せないのは、ウクライナ国内を通っているロシアとヨーロッパを結ぶパイプラインが破壊されずに温存されているなど、戦争なのにどこか手加減されている側面があるということです。

侵攻前、アメリカのシンクタンクが、ドイツ経済を弱体化させ、ドイツが牽引するEUの経済力を削ぐことがアメリカ経済の反転につながる、そのためにウクライナを利用してロシアとドイツの関係にくさびを打ち込むことが必要だ、というような報告書を出していたという話があります。実際に、ウクライナ侵攻で対ロシアの天然ガス依存率が35%まで下がったことなども相俟って、ドイツ国内の電気代は何と600%以上値上がりしているそうです。ドイツ経済が苦境に陥っているのは事実なのです。

ロシアとベラルーシが合同軍を編成するというニュースもありますが、厭戦気分が漂っていたと言われた戦況が、再び元に戻り、さらに拡大していくのは必至のような状況なのです。

たしかに、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、アメリアは紛争を終結させるために介入しました。しかし、今回はウクライナに武器を供与してひたすら戦争を煽るだけです。

今回のウクライナ侵攻は、唯一の超大国の座から転落したアメリカの悪あがきのようなものとも言えるのです。世界が多極化する中で、当然、このようにセクター間の争いや潰し合いも起きるでしょう。

今回の争いは、アメリカとドイツとロシアのそれぞれの”極”の潰し合いみたいな側面もあるように思います。その潰し合いの中で漁夫の利を得るのは、言うまでもなく中国です。

先日、OPECプラスが世界需要の約2%に相当する日産200万バレルを11月から減らすことを決定し、インフレに苦しむアメリカなどが強く反発したというニュースがありましたが、これもOPECプラスのメンバーであるロシアの反撃だとの見方が有力です。もはやOPECに対しても、アメリカの力は及ばなくなっているのです。

世界戦争や核戦争に至らないのは、言うまでもなく核の抑止力がはたらいているからですが、それ以外にも、ロシアとヨーロッパの関係に示されているように、20世紀の世界戦争の時代と違って経済的にお互いが強く結び付いており、単純に喧嘩すればいいという時代ではなくなっている、ということもあるような気がします。しかも、それぞれの国民の生活水準も格段に上がっているので、生活水準を維持するために相互の持ちつ持たれつの関係をご破算にすることはできない、という事情もあるように思います。それが最終戦争のブレーキになっているのではないか。

笠井潔は、19世紀は国民戦争、20世紀は世界戦争で、21世紀は「世界内戦」(カール・シュミットの言う「正戦」)が戦争の形態になると言ってましたが、このどこか抑制された戦争のあり様を見るにつけ、20世紀と違って核や経済のブレーキが利いていることはたしかな気がします。

しかし、どんな戦争であれ、真っ先に犠牲になるのは、徴兵される下級兵士や一般市民であることには変わりがありません。

ロシアでは、部分的動員令(徴兵)の発令をきっかけに、各地で戦争反対の大規模なデモが起きました。また、徴兵を逃れるために、ロシアから脱出する若者も続出しているというニュースもありました。そういった国家より自分の人生や生活が大事という”市民の論理”は、ロシアに限らずアメリカやウクライナなどの国家の論理=戦争の論理の対極にあるものです。

笠井潔は、「世界内戦の時代」は同時に「民衆蜂起の時代」でもあると言ってましたが、イランのような宗教国家においても、イスラムの戒律にがんじがらめに縛られていたように思われた民衆が、宗教警察(道徳警察)による少女虐殺に端を発して、「ハメネイ体制打倒」を掲げて蜂起しているのです。今回は、イスラム世界の中で抑圧されてきた女性たち、中でも若い女性が立ち上がったということが大きな特徴です。彼女たちの主張は、(戒律によって)スカーフで髪を覆わなければならないなんてナンセンス、自由にさせれくれ、という単純明快なものです。でも、それは、イスラム世界ではきわめてラジカルな主張になるのです。そのため、当局から狙いに撃ちされ、デモに参加した10代の若い女性の死亡が相次いでいるというニュースもありました。

ハメネイ師は、抗議デモはイスラエルからけしかけられたものだ、と言っているそうです。そんな最高指導者の発言を見ると、イランはもはや自滅の道を辿りはじめているようにしか思えません。イランの女性たちの主張に影響を与えているのは、イスラエルではなくネットです。だから、イラン当局もSNSを遮断したのです。しかし、今の流れを押しとどめることはもうできないでしょう。

それは、ロシアやウクライナも同じです。岡目八目ではないですが、傍から見ると、国家の論理が戦争の論理にほかならないことがよくわかるのでした。

ウクライナの人権団体「市民自由センター」(CCL)が、ロシアの戦争犯罪を記録しているとしてノーベル平和賞を受賞しましたが、CCLは、侵攻前まではウクライナ国内の人権問題を扱っていた団体でした。アゾフ連帯のようなファシストやウクライナ民族主義者による、ロシア語話者や労働運動家や同性愛者などに対する、暴行や拉致や殺害などの犯罪を告発していたのです。ウクライナは、マフィア=オリガルヒが経済だけでなく政治も支配し、汚職が蔓延する”腐敗国家”と言われていたのです。

元内閣情報調査室内閣情報分析官だった藤和彦氏も、次のように書いていました。

  ソ連崩壊後、ウクライナでもロシアと同様の腐敗が一気に広がった。独立後のウクライナはマフィアによって国有財産が次々と私物化され、支配権力は底なしの汚職で腐敗していった。現在に至るまでウクライナには国家を統治する知恵や経験を持った政治家や官僚がほとんど存在せず、マフィアが国家の富を牛耳ったままの状態が続いている。政党「国民の僕」を立ち上げ、大統領に就任したゼレンスキー氏も有力なオリガルヒ(新興財閥)の傀儡に過ぎないとの指摘がある。

Yahoo!ニュース
デイリー新潮
ウクライナは世界に冠たる「腐敗国家」 援助する西側諸国にとっても頭の痛い問題


私たちが連帯すべきは、国家より自分の人生や生活が大事という”市民の論理”です。それが戦争をやめさせる近道なのです。ウクライナかロシアかではないのです。勝ったか負けたかではないのです。

誰が戦争を欲しているのか。もう一度考えてみる必要があるでしょう。


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作家の津原泰水氏が、10月2日に亡くなったというニュースがあり、びっくりしました。

つい先日もTwitterを見たばかりでした。津原氏はわりとマメに更新する人でしたが、8月22日の引用リツイートで止まったままになっていましたので気にはなっていました。でも、まさか闘病中だとは思ってもみませんでした。

享年58歳。若すぎる死と言わねばなりません。

私は、津原泰水氏にとっては古くからの読者ではありません。津原氏を知ったのは、2018年に早稲田大学文学学術院で起きた渡部直己のセクハラ問題のときでした。

津原氏が精力的に渡部直己を批判するツイートをあげているので、この人は何だろう、と思ったのがはじまりでした。

関連記事:
渡部直己氏のセクハラ問題
https://zakkan.org/blog-entry-1341.html

また、その後、『ヒッキーヒッキーシェイク』の文庫化をめぐって幻冬舎の見城徹氏と激しい応酬があり、それも興味を持って見ていました。編集者の間では、津原氏は「ちょっと面倒くさい人」と言われていたそうですが、しかし、見城氏との激しい応酬の中で、見城徹氏の傲岸不遜な実像や幻冬舎の名物編集者の出版をエサにしたセクハラなどを浮かび上がらせた、その喧嘩上手は見事だなと思いました。もとより、作家にとって「ちょっと面倒くさい人」なんてむしろ誉め言葉です。

女優の加賀まりこが、川端康成に誘われて食事に行った際、座布団に横座りしてスカートが少しめくれたら、川端康成から「もうちょっとスカートを持ち上げて」と言われたという話をしていましたが、そういった話は枚挙に暇がありません。ノーベル賞作家で、授賞式のときに羽織袴で「美しい日本の私」と言ったとして、文壇の大家みたいな神格化したイメージがありますが、実際はロリコンの(少女が好きな)爺さんだと言う人が多いのです。今は(小市民こそリアルだとでも言いたげに)優等生のサラリーマンみたいな作家が多いのですが、もともと作家(文士)なんてそんなものです。

ただ(余談ですが)、川端康成に関しては、北条民雄を世に出したという一点において、私は個人的に尊敬しています。北条民雄が23歳で亡くなったときも、連絡を受けた川端康成は、葬儀費用を持って多摩の全生園を訪れ(お金は病院が受け取らなかった)、霊安室で北条民雄の亡骸に面会しています。また、療養所で北條と親しかった患者たちから北條の話を聞いているのでした。それは、1937年(昭和12年)12月のことで、またハンセン病(当時はらい病と言われていた)に対する差別と偏見が社会をおおっている時代でした。

小林秀雄は、北條民雄の「いのちの初夜」について、「文学そのものの姿を見た」と評したのですが、文学には、人権云々以前に、こういった人間に対する温かいまなざしがあります。それが文学の魅力なのです。

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北條民雄
いのちの初夜

津原泰水氏の名前を知ってから、『ブラバン』(新潮文庫)や『11 eleven』(河出文庫)や『ヒッキーヒッキーシェイク』(ハヤカワ文庫)などを読みましたが、私は若い頃、戦前の『新青年』から生まれた夢野久作や小栗虫太郎や久生十蘭や牧逸馬(林不忘、谷譲次)などの異端の作家たちの小説を片端から読んでいた時期がありましたので、津原泰水氏の作品の色調トーンもどこかなつかしさのようなものを覚えました。もっと現代における幻想小説を書いて貰いたかったと思います。いくらネットの時代になっても、人が生きて生活するその根底にあるものは変わらない(変わりようがない)のですから、幻想小説が成り立つ余地は充分あるように思うのです。

『ヒッキーヒッキーシェイク』は、ひきこもりという現代的なテーマを扱ったエンターテインメント小説ですが、少し“暗さ”が足りない気がして、その点に物足りなさを感じました。

津原氏のように、58歳という年齢であっても、ある日、病気を告知され、あれよあれよという間に人生の終わりを迎えることは誰にだってあり得ます。昨日まであんなに怒りや嘆きや、あるいは喜びや希望を語っていたのに、いつの間にかそういった観念も霧消し人生を閉じてしまう。人間は何と儚い存在なのか、とあらためて思わざるを得ません。

そして、世の中は、何事もなかったかのように、いつもの朝が来てまたいつもの一日がはじまるのです。私たちの死は、ほとんど人の目に止まることもなく、タイムラインのように日常の中を流れていくだけです。

安倍元首相の国葬の費用について、政府は十数億円と言ってますが、その中には全国から動員される警察の派遣費用などは入ってないそうで、実際にかかった費用は数十億円になるのではないかと言われています。そんな莫大な国費を使って行われた国葬を目の当たりにして以来、私は、このブログで何度も書いていますが、郊外の「福祉」専門のような病院で、人知れず亡くなっていく身寄りのない人たちのことを考えることが多くなりました。

もう帰ることはないと見込まれたのか、彼ら(彼女ら)の多くは既にアパートも解約され、全財産は、ベットの下にある生活用品が詰め込まれた数個の段ボール箱だけというケースも多いのです。そうやって死を迎えるのです。

火葬されると全財産が入った段ボール箱も焼却処分されます。身寄りがないので、1枚の写真さえ残りません。でも、彼らにだって両親がいたはずです。家族で笑いに包まれた夕餉の食卓を囲んだ思い出もあるでしょう。若い頃は、夢と希望に胸をふくらませて元気に仕事に励んだに違いありません。

東京都においては、葬祭扶助は21万円です。葬祭扶助の場合、火葬のみです。火葬料金も通常の半分で済みますので、一般葬より金額は小さいもののビジネスとしても悪くないのです。しかし、葬祭扶助を多く請け負っているのは、民間の葬儀会社ではありません。福祉事務所から直接委託される「福祉」専門のような葬儀業者(団体)があり、そこが圧倒的なシェアを占めているそうです。その業者(団体)の現場以外の要職は、トップをはじめ天下りの元公務員で占められているおり、葬祭扶助などの「福祉」関係だけで年間7億円の”売上げ”があるのだとか。

生活保護受給者と言っても、病気になる前から受給していたとは限らないのです。中には、病気をして手持ちのお金がなくなり、医療費の支払いに窮して、病院のケースワーカーを通して申請するケースもあるのです。

しかし、生活保護受給者に突き付けられるのは、「自己責任」の冷たいひと言です。数十億円の公金を使い国をあげて手厚く葬られる政治家がいる一方で、税金の無駄使いのように誹謗され、まるで世捨て人のように事務的に処理され火葬場に送られる人たち。柳美里の『JR上野駅公園口』ではないですが、この天と地の違いは何なのかと思ってしまいます。

そう考えると、北條民雄がそうであったように、作家は死んでもなお作品が残り、読み継がれていくので、まだ幸せだと言えるのかもしれません。少なくとも救われるものはあるでしょう。


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国葬における菅義偉元首相の弔辞をめぐって、テレビ朝日「モーニングショー」のコメンテーターの玉川徹氏がバッシングされています。

バッシングの先頭に立っているのは、ネトウヨの他に、橋下徹やほんこんやロザンの宇治原などのような安倍応援団のタレントや、西田昌司や細野豪志や和田政宗といったいわくありげな議員たちです。彼らの主張は、玉川氏を番組から降板させろという一点に尽きます。それは、言論の公平性云々というより、多分に政治的なスタンスによる“報復”の意味合いが強いように思います。彼らの中に、玉川=テレビ朝日=朝日新聞=パヨク=反日というお得意の妄想が伏在しているのは間違いないでしょう。

ちなみに、橋下徹とほんこんは、菅元首相の弔辞について、次のように発言していたそうです。

  橋下徹・元大阪市長は「菅さんと安倍さんは明らかに友人、友情…失礼な言い方かもしれませんけど純粋な小学校、中学校、高校生の友情関係を強く感じましたので、それが強く表れた最後の言葉だったと思います」と声を震わせた。

  ほんこんも「心温まる、感動的な弔辞。新聞の記事で全文を読ませていただいて、凄いなと思ったところで、涙してしまうというところでございました」と絶賛。

リテラ
菅義偉が国葬弔辞で美談に仕立てた「山縣有朋の歌」は使い回しだった! 当の安倍晋三がJR東海・葛西敬之会長の追悼で使ったネタを


西田昌司氏は、極右の議員として知られていますが、有田芳生氏とともに、ヘイトスピーチ対策法の成立に尽力した議員でもあり、私も当時、有田氏のツイッターに西田氏の名前がしばしば出ていたいたのを記憶しています。

ネットをググったら、こんな有田氏のツイートが出てきました。


その西田議員が玉川バッシングの先頭に立っており、国会でも取り上げると息巻いているそうです。今の私には、だから言わんこっちゃない、という気持しかありません。

下記のブログの記事を読んでもらえばわかりますが、私は、ヘイトスピーチ対策法には「反対」でした。

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国家でも政治でも警察でも父親でも何でもいいのですが、権力を一義と考えるような考え方は、西田昌司議員には一貫しているのです。全体主義的な権力志向は、右にも左にも共通したものがあります。ヘイトスピーチ対策法に対しても、そういった懸念がありました。

菅氏の弔辞に関しては、弔辞に感動したとして、中には再登板の声まで出ているというのですから、口をあんぐりせざるを得ません。

一部のネトウヨや極右の安倍応援団の人間たちの感動話を、スポーツ新聞や週刊誌などのコタツ記事が取り上げて、それをYahoo!ニュースが拡散するという構図がここでも見られますが、その狙いについては私も前の記事で次のように書きました。

国葬が終わった途端、二階俊博元幹事長が言っていたように、「終わったら反対していた人たちも、必ずよかったと思うはず」という方向に持って行こうとするかのような報道が目立つようになりました。その最たるものが、菅元首相の弔辞に対する本末転倒した絶賛報道です。今、問われているのは、安倍元首相の政治家としてのあり様なのです。クサい思い出話や弔辞の中に散りばめられた安っぽい美辞麗句や修辞なんかどうだっていいのです。弔辞は、当然ながら安倍元首相を美化するために書かれたものです。この当たり前すぎるくらい当たり前の事実から目を背けるために、弔辞に対する絶賛報道が行われているとしか思えません。※1

国葬では、安倍元首相のピアノ演奏や金言集のような演説の動画が流されていましたが、あれだって編集した誰かがいるのです。仮にゴーストライター(スピーチライター?)がいても、ゴーストライターがいるなんて言うわけがありません。こんな「名文」を貶めるなんて許さないぞという恫喝は、同時に「名文」が持ち上げる安倍の悪口を言うことは許さないぞ、という恫喝に連動していることを忘れてはならないのです。その心根は、旧統一教会のミヤネ屋に対する恫喝まがいのスラップ訴訟にあるものと同じで、Yahoo!ニュースや東スポやSmartFLASHや現代ビジネスやディリー新潮などのような品性下劣なメディアは、ネトウヨと一緒になってその恫喝にひと役買っているのです。※2

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Yahoo!ニュースやスポーツ新聞や週刊誌などに対しては、どの口で言っているんだ、としか思えませんが、それよりもっと違和感を抱くのは、このようにいざとなればみんな右へ倣いして同調する彼らの翼賛的な姿勢に対してです。へそ曲がりの異論さえないのです。しかも、そういった空気を誘導しているのは、ネトウヨまがいのタレントや政治家です。言論を封殺するだけが目的のような連中に、何の留保もなく同調しているのです。言論がこういった下等物件( © 竹中労)たちに占有され弄ばれているのです。

もっとも、こういった言論がどうのというようなもの言いは、今の彼らには馬の耳に念仏かもしれません。東スポでは現在100名のリストラが行われているそうですが、他のスポーツ新聞や週刊誌なども似たようなものでしょう。貧すれば鈍すではないですが、青息吐息のスポーツ新聞や週刊誌は、今やテレビで誰がどう発言したとかいう1本千円もしないコタツ記事をアルバイトの素人ライターに発注して、それで日々のウェブを穴埋めしているのが現状です。そんなコタツ記事をYahoo!ニュースがピックアップして、バズらせてアクセスを稼ぎマネタイズしているのです。彼らにとって、ニュースの価値は、どれだけバズりアクセスを稼ぐかなのです。

もうひとつ、今回のバッシングがこれほど広がったのは、「電通」の名前を出したことも大きいでしょう。言うなれば虎の尾を踏んだようなものです。それで、電通から広告のおこぼれを頂戴している物乞いみたいなメディアが、いっせいにはせ参じてバッシングの隊列に加わったということもあるのではないか。

私も最初、国葬は電通案件ではないかと思っていましたが、しかし、今でも桜を見る会の業者がすべてを仕切ったというのは信じ難い気持があります。それに、玉川氏のバッシングに目を奪われたことで、国葬が一体いくらかかかったのか、という話もどこかに行ってしまったのでした。

そんな中、リテラは、菅元首相の弔辞が実は「使い回しだった」という記事を書いて、強烈なカウンターを放ちました。リテラが、週刊誌の得意技であるスカートめくりをやったのです。それも、よりによって「安倍晋三がJR東海・葛西敬之会長の追悼で使ったネタ」の「使い回しだった」と言うのですから驚きです。それが感動の中身だったのです。

本来ならこういう取材こそスポーツ新聞や週刊誌の仕事のはずですが、彼らは子どもでも書けるようなコタツ記事でバッシングの隊列に加わり、総務省のドンと電通に忠誠を誓うだけです。竹中労だったら、野良犬が餌をもらうために列を作ってどうするんだ、と言うでしょう。

私は、菅義偉氏が総理大臣になったとき、菅義偉氏は政治家ではなく政治屋だと書きましたが、ここでも政治屋・菅義偉の面目躍如たるものがあるような気がしてなりません。

リテラは次のように書いています。

  (略)菅本人も調子に乗って、御用メディアであるABEMAの独占インタビューに応じ、以下のように追悼の辞の執筆エピソードを開陳する始末だった。

「提案があったので、『大変だ』と思って一生懸命資料集めから。一気にではなくまず全体像を入れていくというか、“何をして、何をして…”という構想からした。それと、私自身が今まで発言したものを集めていき、(完成形になったのは)意外に早かった」

リテラ
菅義偉が国葬弔辞で美談に仕立てた「山縣有朋の歌」は使い回しだった! 当の安倍晋三がJR東海・葛西敬之会長の追悼で使ったネタを


  (略)菅前首相は弔辞でこう語っていた。

〈衆議院第一議員会館、千二百十二号室の、あなたの机には、読みかけの本が一冊、ありました。岡義武著『山県有朋』です。
ここまで読んだ、という、最後のページは、端を折ってありました。
そしてそのページには、マーカーペンで、線を引いたところがありました。
しるしをつけた箇所にあったのは、いみじくも、山県有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌でありました。
総理、いま、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。
かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ〉

  ようするに、菅氏は、安倍氏の死後、倒れる直前まで読んでいた本を発見。その読みかけの最後のページに、暗殺された伊藤博文を偲ぶ山縣有朋の歌が載っており、それがいみじくも、自分の思いを表していると語ったのだ。
(同)


しかし、岡義武が書いた『山縣有朋 明治日本の象徴』(岩波新書)は、安倍元首相が2014年12月27日に、ホテルオークラの日本料理店で会食した際、葛西敬之JR東海名誉会長(当時)から薦められた本だそうです。

それから8年も経っているのに、まだ「読みかけ」だったというのは、あまりにも不自然だ、とリテラは書いていました。

実際に、安倍元首相は、2015年1月12日のフェイスブックに「読みかけの『岡義武著・山縣有朋。明治日本の象徴』 を読了しました」と投稿しているそうです。さらに投稿の中で、「伊藤の死によって山縣は権力を一手に握りますが、伊藤暗殺に際し山縣は、『かたりあひて尽くしし人は先立ちぬ今より後の世をいかにせむ』と詠みその死を悼みました」と、わざわざ菅氏が弔辞で引用した歌まで紹介しているのだそうです。

ただ、マーカーペンがホントであれば、今年の5月25日に葛西敬之氏が亡くなり、6月15日に安倍元首相と同じ芝の増上寺で葬儀が執り行われ、その際、安倍元首相が弔辞を読んでいますので、そのために再び本を開いて準備をしていたということも考えられなくもありません。そこにたまたま菅元首相が訪ねて来たと。

安倍元首相は、葛西氏が亡くなった際も、フェイスブックに次のように投稿していたそうです。

一昨日故葛西敬之JR東海名誉会長の葬儀が執り行われました。
常に国家の行く末を案じておられた葛西さん。
国士という言葉が最も相応しい方でした。
失意の時も支えて頂きました。
葛西さんが最も評価する明治の元勲は山縣有朋。
好敵手伊藤博文の死に際して彼は次の歌を残しています。
「かたりあひて尽しゝ人は先だちぬ今より後の世をいかにせむ」
葛西さんのご高見に接することができないと思うと本当に寂しい思いです。
葛西名誉会長のご冥福を心からお祈りします。


もっとも、山縣有朋は、日本軍国主義の元祖みたいな人物で、治安警察法や教育勅語をつくらせた人物です。安倍や菅が、そんな人物の歌を美談仕立てで取り上げるというのは、彼らのアナクロな思想の一端が伺えるのです。

リテラは、記事の中で、菅氏が政治家ではなく政治屋である一面を次のように指摘していました。

そもそも、弔辞というのは故人を偲び、故人に捧げる言葉。メディアに出て、故人を偲ぶのならともかく、弔辞をこう考えてつくったとか、こういうギャンブルでこういう表現を盛り込んだとか、いちいち自慢話する人なんて、見たことがない(普通に考えて、一般人の葬式でもそんな弔辞自慢する人って、ほとんどいないだろう)。
(同)


こういうのを品性下劣と言うのではないでしょうか。

また、朝日新聞も、弔辞について、文庫の解説者の空井護・北海道大教授にインタビューしていましたが、その中で、空井教授は次のように言っていました。

朝日新聞デジタル
菅前首相が引用した「山県有朋」 文庫解説者「出来すぎた話ですね」

菅さんが同書を読んで、「これだ!」と思ったのなら自然です。しかし、安倍さんが生前読んだ「最後のページ」に、マーカーが引かれていたのを菅さんが見つけたなんて。そんな奇遇がこの世の中にはあるんですね。


玉川徹氏には、10日間の出勤停止処分が下されたようですが、今のテレビ朝日は「早河帝国」とヤユされるほど会長兼CEOの早河洋氏の「独裁体制」にあるので、早河氏の鶴の一声で玉川徹氏がこのまま(安倍応援団が望むように)フェードアウトする可能性もなきにしもあらずでしょう。

テレビ朝日は、早河氏の秘書だった女性が人事局長に大抜擢されたことなどもあって、昨年は、元編成部長や元人事局長などが早期退職するなど、大株主の朝日新聞も制御不能な状態になっている、と『ZAITEN』(10月号)は書いていました。

「誰が社長になっても同じ」
  口に出さなくてもテレ朝社員の大多数がそう思っている。社長は“飾り”でしかなく、唯一無二の最高権力者はテレ朝及び持ち株会社の、テレビ朝日ホールディングス(HD)双方の代表取締役会長を務める早河洋(78)であることは新人社員でも知っている。
(『ZAITEN』10月号・「老衰する『テレビ朝日』の恍惚」)


旧統一教会の問題でも、フジサンケイグループともども、テレ朝の腰が引けた姿勢が指摘されましたが、それも自民党(安倍)と近い「専制君主」の意向がはたらいていたからだ、と言われていました。

菅義偉元首相は、長男の接待問題があったように、総務省に大きな力を持つ議員です。それを考えると、玉川氏の運命は決まったようなものと言えるのかもしれません。それを「ざまあ」と言わんばかりにネトウヨや安倍応援団と一緒になって叩いている、Yahoo!ニュースのようなネットメディアやスポーツ新聞や週刊誌は、あまりにもおぞましくあさましいとしか言いようがありません。
2022.10.05 Wed l 社会・メディア l top ▲
資本主義の終焉と歴史の危機


『週刊エコノミスト』の今週号の「金融危機に学ぶ」という小特集の中で、水野和夫氏は「資本主義は終焉を迎えた」と題して、次のように書いていました。尚、文中の「97年」というのは、四大証券」の一角を占めていた山一証券が自主再建を断念して廃業を決めた「1997年11月」を指しています。これは、「97年11月」を日本経済がバブル崩壊に至るメルクマークとして、5人の識者が当時の思いを綴る企画の中の文章です。

  97年は長期金利が初めて2%を割り込んだ節目でもある。翌98年以降も1%台が常態化、政府の景気対策で一時的に景気が上向いても2%を超えることはなくなり、今やゼロ%に至った。これは日本が十分に豊かになり、投資先がなくなったことを意味する。すなわち、投資して資本を増やし続けるという資本主義の終焉しゅうえんだ。この25年間で私たちはこのことを理解する必要があった。
  ところが、政府は成長至上主義を捨てられず、需要不足だからと日銀は延々と異次元緩和を続けている。需要不足ではなく、供給が過剰なのだ。その結果、格差拡大や社会の分断をより深刻化してしまった。カネ・モノの豊かさを求める強欲な資本主義を早く終わらせ、心豊かに暮らせる持続可能な社会への転換が急務だ。
(『週刊エコノミスト』10月11日号・水野和夫「資本主義は終焉を迎えた」)


昨日(10月3日)からはじまった臨時国会の所信表明演説で、岸田首相は、「経済の再生が最優先課題」だとして、いちばん最初に、インバウンド観光の復活による「訪日外国人旅行消費額の年間5兆円超の達成という目標を掲げた」(朝日の記事より)そうです。

経済を再生するのにそれしかないのか、と突っ込みたくなるような何とも心許ない話です。文字通り、観光しかウリがなくなった日本の落日を象徴するような演説だったと言えるでしょう。

私は、2014年の4月に、このブログで下記のような記事を書きました。

これを読むと、8年前に書いたものとは思えないほど、背景にある状況が今とほとんど変わってないことに自分でも驚きます(違うのはアメリカ大統領の名前くらいです)。文中の「ウクライナ問題」というのは、2014年にウクライナで発生したウクライナ民族主義によるマイダン革命に対抗して、ロシアがクリミア半島(クリミア自治共和国)とウクライナ本土のドンバス地方(ドネツィク州とルハーンシク州)を実効支配したことを指しています。以下、再録します。

▽再録始まり ------

水野和夫氏は、新著『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)のなかで、グローバリゼーションについて、つぎのように書いていました。

 そもそも、グローバリゼーションとは「中心」と「周辺」の組み替え作業なのであって、ヒト・モノ・カネが国境を自由に越え世界全体を繁栄に導くなどといった表層的な言説に惑わされてはいけないのです。二〇世紀までの「中心」は「北」(先進国)であり、「周辺」は「南」(途上国)でしたが、二一世紀に入って、「中心」はウォール街となり、「周辺」は自国民、具体的にはサブプライム層になるという組み替えがおこなわれました。


グローバリゼーションとは、資本が国家より優位に立つということです。その結果、国内的には、労働分配率の引き下げや労働法制の改悪によって、非正規雇用という「周辺」を作り、中産階級の没落を招き、1%の勝ち組と99%の負け組の格差社会を現出させるのです。当然、そこでは中産階級に支えられていた民主主義も機能しなくなります。今の右傾化やヘイト・スピーチの日常化も、そういった脈絡でとらえるべきでしょう。水野氏が言うように、「資本のための資本主義が民主主義を破壊する」のです。

一方で、「電子・金融空間」には140兆ドルの余剰マネーがあり、レバレッジを含めればこの数倍、数十倍のマネーが日々世界中を徘徊しているそうです。そして、量的緩和で膨らむ一方の余剰マネーは、世界の至るところでバブルを生じさせ、「経済の危機」を招いているのです。最近で言えば、ギリシャに端を発したヨーロッパの経済危機などもその好例でしょう。それに対して、実物経済の規模は、2013年で74.2兆ドル(IMF推定)だそうです。1%の勝ち組と99%の負け組は、このように生まれべくして生まれているのです。アメリカの若者が格差是正や貧困の撲滅を求めてウォール街を占拠したのは、ゆえなきことではないのです。

もちろん、従来の「成長」と違って、新興国の「成長」は、中国の13.6億人やインドの12.1億人の国民全員が豊かになれるわけではありません。なぜなら、従来の「成長」は、世界の2割弱の先進国の人間たちが、地球の資源を独占的に安く手に入れることを前提に成り立っていたからです。今後中国やインドにおいても、経済成長の過程で、絶望的なほどの格差社会がもたらされるのは目に見えています。

水野氏は、グローバリゼーションの時代は、「資本が主人で、国家が使用人のような関係」だと書いていましたが、今回のオバマ訪日と一連のTPP交渉も、所詮は使用人による”下働き”と言っていいのかもしれません。ちなみに、今問題になっている解雇規制の緩和や労働時間の規制撤廃=残業代の廃止なども、ご主人サマの意を汲んだ”下働き”と言えるでしょう。

史上稀に見る低金利政策からいっこうに抜けだせる方途が見出せない今の状況と、国民国家のかせから解き放され、欲望のままに世界を食いつぶそうとしているグローバル企業の横暴は、水野和夫氏が言うように、「成長」=「周辺」の拡大を前提にした資本主義が行き詰まりつつことを意味しているのかもしれません。少なくとも従来の秩序が崩壊しつつあることは間違いないでしょう。それは経済だけでなく、政治においても同様です。ウクライナ問題が端的にそのことを示めしていますが、アメリカが超大国の座から転落し、世界が多極化しつつあることは、もはや誰の目にもあきらかなのです。日米同盟は、そんな荒天の海に漂う小船みたいなものでしょう。

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△再録終わり ------

この8年間で資本主義の危機はいっそう深化しています。日本だけがマイナス金利政策から抜け出せないことを見てもわかるとおり、とりわけ日本の危機が際立っています。岸田首相の中身のない所信表明がその危機の深刻さを何より表していると言えるでしょう。

でも、その危機は、アメリカの危機=政治的経済的な凋落に連動したものである、ということを忘れてはなりません。20数年ぶりの円安がそれを象徴していますが、日米同盟はもはや難破船のようになっているのです。

今問題となっている物価高を見ても、その深刻さは度を越しています。今年の8月までに値上げの対象となったのは、再値上げなどを含めて累計18,532品目に上り、値上げ率は平均で14%だったそうです。

さらに、ピークとなったこの10月に値上げになったのは、食品や飲料だけでも6,500品目を超えているそうです。もちろん、食品や飲料以外にも、電気料金やガス料金、電車やバスの交通費、あるいは外食費や日常雑貨や各保険料など値上げが相次いでいます。また、同時に、食品を中心に内容量を減らす「ステレス値上げ」も横行しています。

収入が増えず購買力が低下しているのに、物価だけが上がっていくというのは、文字通りスタグフレーションの到来を実感させられますが、しかし、この国の総理大臣は、経済再生は外国人観光客の懐が頼りだと、浅草のお土産屋の主人と同じようなことしか言えないのです。

『週刊東洋経済』の今週号の「少数異見」というコラムで、8月にチュニジアで開かれたアフリカ開発会議(TICAD)が「盛り上がりを欠いたまま閉幕した」ことが取り上げられていました。

TICADは、日本と50カ国以上のアフリカ諸国の首脳が3年に一度集まる会議で、1993年からはじまり今回が8回目だったそうです。

1993年は日本がイケイケドンドンの時代で、経済力で途上国への影響力を持ちたいという大国意識の下、政府開発援助(ODA)の予算を年々積み重ねていた時代だったのです。

でも、それも今は昔です。「もはや大国ではない」という中見出しで、コラムは次のように書いていました。

  しかし、今や日本はミドルパワーだ。世界第2位の経済・技術大国ではなく、「アジアを代表する大国」ですらない。中韓はもちろんASEANのいくつかの国は同格かそれ以上の力をつけた。米中対立は激化し、ロシアは牙をむき始めた。日本が謳歌してきた米国一極による世界秩序の安定は揺らぎ、強い円も失いつつある。日本の対外政策の前提となったファンダメンタルズはもはや存在しない。
(『週刊東洋経済』10月8日号・「少数異見」)


そんな日本は「ただ縮むだけで未来がない」と言うのです。
2022.10.04 Tue l 社会・メディア l top ▲
東電OL殺人事件


ノンフィクション作家の佐野眞一氏が9月26日に亡くなった、というニュースがありました。

私が佐野氏の本の中で印象強く残っているのは、何と言っても『東電OL殺人事件』(新潮社)です。事件が発生してから15年後に再審請求が認められ、服役していたネパール人男性の無罪が確定するというドラマチックな展開もあって、事件のことを書いた私のブログの記事に、一日で4万を越えるアクセスが殺到したという出来事もありました。

佐野氏の著書でベストスリーをあげれば、『東電OL殺人事件』の他に、『あんぽん  孫正義伝』(小学館)と大宅ノンフィクション賞を取った『旅する巨人  宮本常一と渋沢敬三』(文藝春秋)です。

佐野氏は、民俗学者の宮本常一に私淑しており、宮本常一に関する本を多く書いています。ノンフィクションを「現代の民俗学」とも言っていました。宮本の聞き書きは、ルポルタージュの取材と通じるところがあり、そういった宮本の取材方法に惹かれるところがあったのかもしれません。

佐野氏は、著書で、ノンフィクションは「固有名詞と動詞の文芸である」と書いていたそうですが、佐野氏の特徴は、仮にテーマが事件や企業であっても、その中心に人物を据え、その人物を通してテーマの全体像を描写していることです。そのスタイルは終始一貫していました。だから一方で、橋下徹を扱った「ハシシタ・奴の本性」(週刊朝日)のような勇み足を招いてしまうこともあったのだろう、と思います。

また、私もこのブログで、木嶋佳苗のことを何度も書いていますが、彼女に対する記事に関しても、トンチンカンな感じは免れずがっかりしたことがありました。

佐野氏のようなスタイルでノンフィクションを書くと、どうしても主観的な部分が表に出てしまうので、ときに氏の粗雑で一方的な人間観が露呈することもあったように思います。

もちろん、溝口敦氏の記事を盗用・剽窃したような負の部分も見過ごしてはなりません。「ノンフィクション界の巨人」という呼び方もいささかオーバーな気もしました。

竹中労は、『ルポライター事始』(ちくま文庫)で、「車夫・馬丁・ルポライター」と書いていました。そして、彼らに向けて、次のようにアジっていました。

  ピラニアよ、狼よ群れるな!  むしろなんの保証も定収入もなく、マスコミ非人と蔑視される立場こそ、もの書きとしての個別自由な生きざま、死にざまはあるだろう。


佐野氏は、大手出版社に囲われている”大家”のような感じがありましたので、竹中労が言うような一匹オオカミのルポライターのイメージとはちょっと違っていました。それが、夜郎自大な盗用・剽窃事件にもつながったのかもしれません。

佐野氏自身、橋下徹に対する”筆禍事件”で筆を折ると言っていましたので(個人的には、筆を折るほどのことではなかったと思いますが)、最近どんな活動をしていたのかわかりませんが、しかし、昨今の言論をとりまく状況には、古くからの書き手として忸怩たるものがあったはずです。

たまたまYouTubeで竹中労の動画を観ていたら、竹中労が、『失楽園』で有名な17世紀のイギリスの詩人、ジョン・ミルトンが書いた『アレオパジティカ』の中の次のような言葉を紹介しているのが目に止まりました。

「言論は言論とのみ戦うべきであり、必ずやセルフライティングプロセス(自動調律性)がはたらいて、正しい言論だけが生き残り、間違った言論は死滅するであろう。私たちものを書く人間が依って立つべきところは他にない」

『言論・出版の自由  アレオパジティカ』が出版されたのは1644年ですが、同書は、当時、政府による検閲と出版規制が復活したことに対して、それを批判するために書かれた、言論・出版の自由に関する古典的な名著です。

ミルトンは、「Free and Open Market of Ideas」という言い方をしていますが、開放された自由な市場(場)で、喧々諤々の議論を戦わせれば、偽り(fake)は放逐され真実(truth)が勝つ。おのずと、そういった自律的な調整が行われる、と言っているのです。それが自由な言論ということです。

しかし、最近は、特にネットにおける言論に対して、規制を求める声が大きくなっています。メディア自身がそういった主張をしているのです。その声を受けて、10月1日からプロバイダ責任制限法が改正、施行されました。それに伴い、インターネットの発信者情報の開示に非訟手続が新設されて、手続きが簡略化されることになりました。これによって、誹謗中傷などを訴える際のハードルが低くなったと言われています。

ミルトンは、検閲がカトリック教会の“異端狩り”の中から生まれた概念であることを解き明かした上で、次のように言っています。

人は真理においても異端者でありうる。そして単に牧師がそう言うからとか、長老の最高会議でそう決まったからとかいうだけで、それ以外の理由は知らないで物事を信じるならば、たとえ彼の信ずるところは真実であっても、なお彼の信ずる真理そのものが異端となるのである。


また、竹中労は、同じ動画で、フランスの劇作家のジャン・ジロドゥが書いた『オンディーヌ』の中の「鳥どもは嘘は害があるとさえずるのではなく、自分に害があるものは嘘だと謡うのだ」という言葉も紹介していました。

どこまでが誹謗中傷で、どこまでが批判(論評)かという線引きは、(極端な例を除いては)きわめて曖昧です。というか、そもそもそういった線引きなど不可能です。

私も、このブログを17年書いていますが、私のような人間でさえ自由がどんどん狭められているのを感じます。この17年間でも、息苦しさというか、自然と忖度するような(させられるような)空気が広がっているのをひしひしと感じてなりません。

自分たちが他人を誹謗中傷しながら、二言目には名誉棄損だと言い立てるような「水は低い方に流れる」言説がネットには多く見られます。自分と異なる意見に対して、「言論でのみ戦う」のではなく、「異端審問官」の力を借りてやり込めようとするような「自分で自分の首を絞める」愚劣なやり方が、当たり前のようにまかり通っているのです。その最たるものがスラップ訴訟でしょう。

ユヴァル・ノア・ハラリなどが指摘していたように、新型コロナウイルスのパンデミックをきっかけに、国家の庇護や生活の便利さと引き換えに、自分たちの基本的権利を何のためらいもなく国家や企業に差し出すような、身も蓋もない風潮がいっそう加速されました。国家の側にも、政治的には中国を敵視する一方で、国家運営においては中国のようなIT技術を使った人民管理をお手本とするような本音が垣間見えるのでした。行政官の目には、中国のような徹底的に効率化された行政システムは理想に映るでしょう。

ネットの時代は、「総表現社会」の到来などと言われましたが、その言葉とは裏腹に、不自由な空気ばかりが広がっているような気がしてなりません。ネット社会は、文字通り“異端狩り”が常態化・日常化した社会でもあるのではないか、と思わざるを得ません。

今やYahoo!ニュースのようなネットのセカンドメディアをおおっているのは、手間とお金をかけない、子どもでも書けるようなコタツ記事ばかりです。ネットメディアだけでなく、スポーツ新聞や週刊誌のような旧メディアも、最後の悪あがきのように、ネット向けにコタツ記事を量産しています。それは、みずからが淘汰される運命にあることを認めたようなものでしょう。

不謹慎な言い方ですが、佐野眞一氏は、今の言論をとりまく惨憺たる状況の中で、亡くなるべくして亡くなった、と言っていいのかもしれません。彼のようなライターが書く場は、もうほとんど残ってないのです。


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