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横浜橋商店街


大晦日、ふと思い付いて、午後からカメラを持って横浜の街を歩きました。

新横浜駅から市営地下鉄に乗り、桜木町で下車して、桜木町から馬車道を経て伊勢佐木町、伊勢佐木町から横浜橋商店街まで歩き、帰りは同じコースを馬車道まで戻り、馬車道からみなとみらい線(東横線)で帰りました。

帰ってスマホを見たら1万5千歩を越えていました。膝は運動不足ということもあるのでしょうが、ちょうど距離の長い山を歩いたあとのような感じで、多少の痛みもありました。

新横浜駅に向かっていたら、住宅街に貸しスタジオみたいなものがあり、その入り口の看板に、某大物ミュージシャン夫妻のセッションの告知が書かれていました。私は、ギョッとして立ち止まって、その看板に目が釘付けになりました。

看板にはただ、「○○・△△セッション」の文字とその下に日にちと料金が書かれているだけでした。料金は、ドリンク付きで2000円です。テレビなどでもほとんど行われないあの大物ミュージシャン夫妻のセッションが2000円。私は、もしかしたら、近所に住んでいて、半ばプライベートでセッションするのかもしれないと思いました。

スマホで検索してみると、やはり、「○○・△△セッション」のワードでヒットしました。それによれば、「1人1曲リクエスト」となっていました。エッ、リクエストにまで応じてくれるのか。凄いセッションだなと思いました。

でも、何かひっかかるものがあるのです。それで、もう一度、スマホに表示されたサイトの説明文を上から下まで丁寧に読み直してみました。非常にわかりにくいのですが、どうやら本人たちが出演するわけではなく、会の主催者のミュージシャンがリクエストに応じて演奏するライブのようです。なのに、どうしてこんなわかりにくい説明文を書いているのか。看板だけ見ると完全に誤解します。ただ、こんなところでホンモノがセッションするわけないだろう、常識的に考えればわかるだろう、と言われればたしかにそのとおりなのです。

子どもの頃、近所の神社の境内にサーカスがやって来たことがあるのですが、そのときのことを思い出しました。その中の催しに、「一つ目小僧」というのがありました。サーカス用の大きなテントの横に建てられた小さなテントの中で、「一つ目小僧」が展示されているというのです。もちろん、サーカスとは別料金です。

私はそれに興味を引かれ、「一つ目小僧を観たい」と親に泣きつきました。親は「ニセモノだ」とか「騙しだ」とか言って取り合ってくれません。それでも一人息子で甘やかされて育てられた私は、ダダをこねて執拗に訴えたのでした。親も(いつものことですが)最後には根負けしてお金を出してくれました。

それで、お金を握りしめいそいそと出かけた私が、テントの中で目にしたのは、理科室にあるようなビーカーに入れられアルコール漬けされた頭の大きな爬虫類らしきものの死骸でした。子ども心にあっけに取られた私は、別の意味で見てはいけないものを見たような気持になったのでした。サーカス団はとんでもない悪党の集まりで、子どもをさらってサーカスに入れるという(今ではあきらかにヘイトな)話も、もしかしたらホントではないかと思ったほどでした。

もっとも、その頃、町内に唯一あった映画館で、葉百合子(ホンモノは葉百合子)という有名浪曲師のコピーの公演が行われたことがありました。うちの親たちは笑っていましたが、それでも町の年寄りは座布団を脇に抱えて出かけていたのです。祖父母も行ったみたいで、親は陰で悪態を吐いていました。

新横浜駅では、もちろん、スーツケースを転がした家族連れの姿が目立ちましたが、しかし、やはりコロナ前に比べると、人の数はあきらかに少ない気がしました。

途中、横浜アリーナの前を通ったのですが、大晦日は桑田佳祐のカウントダウンライブが行なれるはずなのに、開演までまだ時間があるからなのか、周辺もそれほど人が集まっていませんでした。いつもだと、駅からの舗道ももっと人通りが多いのですが、舗道も閑散としていました。アリーナの横にある公園も、開演待ちの観客たちで溢れているのですが、それもありません。帰ってネットで調べたら、横浜駅からアリーナまで無料のシャトルバスが運行されたのだそうです。これもコロナ前にはなかったことで、やはり電車や駅や舗道の”密”を避けるためなのかもしれません。

私もこのブログで書いたことがありますが、前は駅前のマクドナルドなども、コンサートの観客でごった返していましたが、シャトルバスで会場に直行するならそういったこともなくなります。

桜木町の駅前も、閑散と言ったらオーバーですが、やはり人は少なく、いつもと違いました。伊勢佐木モールも、先日、「REVOLUTION+1」を観に行った際、久しぶりに歩いたばかりですが、相変わらず人通りは少なく、うら寂しさのようなものさえ覚えました。

これは何度も書いていますが、私の田舎では、大晦日は「年取り」と言って、家族みんな揃って一日早くおせち料理を食べるしきたりがあります。大晦日が一番の御馳走で、食膳にはおせち料理のほかに刺身なども並びました。祖父母は歩いて5~6分くらいのところに住んでいたのですが、大晦日は祖父母も我が家にやって来てみんなで「年取り」の膳を囲むのでした。だから、大晦日の「年取り」に家族が揃うということは大変重要で、帰省する場合も「年取り」までには必ず(ほとんどが前日までに)帰るのが鉄則でした。その意味では、コロナ禍によって、こちらの大晦日の風景も、九州の田舎に似てきたような気がしないでもありません。

伊勢佐木モールで目に付いたのは高齢者と外国人です。何だか黄昏の日本を象徴するような光景に見えなくもありません。それが”横浜のアメ横”とも言われる横浜橋の商店街に行くと、さらに外国人の割合は多くなり、買物に来ているのは日本人より外国人の方が全然多いようで、耳に入ってくるのは、中国語や韓国語やその他聞きなれない外国語ばかりでした。

そのため、年末と言っても、おせち料理の食材よりエスニックな食材を売っている店が多く、いちばん人盛りができていたのは鶏のから揚げやメンチカツなどを売っていた揚げ物の店でした。私も買って帰りたいと思ったのですが、人をかき分けて店員とやり取りするのが面倒なので、買うのをあきらめました。

横浜橋はキムチを売っている韓国系の店も多いのですが、私は最近、スーパーで居合わせたきれいな奥さんから、旦那さんが虜になっているという美味しいキムチを教えて貰い、私も何故かそれに虜になっていますのでキムチはパスしました。

九州はどうだったか記憶にないのですが、こちらのスーパーでは年末になると商品棚も正月用の食品が並びます。しかも、魚も肉もえらく高くなるのです。別に長生きしたいとは思わないものの、一応年越しの蕎麦を買おうと近所のスーパーに行ったら、いつも買っている蕎麦がないのです。その代わりに縁起物だとかいう無駄な包装を施した年越し用の蕎麦が棚を占領していました。もちろん、いつも買う蕎麦の何倍も高価です。しかも、いつも買う蕎麦と同じシリーズのうどんは売っていました。値段が高く利幅が大きい蕎麦を売るために、蕎麦だけ奥に仕舞ったのでしょう。それで、意地でも蕎麦は買わないぞと思って、うどんを買って帰りました。

年末のスーパーの商品棚を見ていると、新宿や渋谷などの繁華街の喫茶店などで行われていた「正月料金」を思い出します。喫茶店自体が”絶滅危惧種”になっており、そのあとチェーン店のカフェが市場を席捲しましたので、今はもうそういった商習慣もなくなったのかもしれませんが、当時は喫茶店が高いため、「正月料金」の設定がないマクドナルドなどに客が殺到して大混雑していました。

若い頃、正月にガールフレンドと新宿の喫茶店に入ったら、メニューにコーヒーが1200円と表示されているのが目に入り、私は一瞬「ぼったくりの店だ」と思って、いったん下ろした腰を再び上げそうになりました。

しかし、東京生まれのガールフレンドは、あわてふためく私を横目で見ながら、「正月はどこもそうよ」とこともなげに言ったのでした。そして、「大丈夫、あたしが払うから」と。それ以来、彼女の口から「カッペ」という言葉がよく出て来るようになった気がします。「カッペ」というのも、東京に来て初めて知った言葉でした。

最寄り駅に着いて、普段あまり行くことがない駅前のガード下にある小さなスーパーに入ったら、他のスーパーでは取っ払われていた総菜も普段どおり売られていました。私は心の中で「これだよ、これ」と呟きながら、メンチカツやアジフライや鶏のから揚げなどを買って帰りました。

写真は、見て貰えばわかるとおり、「大晦日の横浜」と言ってもそれらしい写真は撮れていません。世の中に対して、引け目を感じ遠慮している今の自分の気持が反映されたような、腰が引けた写真ばかりです。写真屋だった父親がよく言っていた、「前に出て写真を撮れ」「遠慮していたらいい写真は撮れないぞ」という言葉が今更のように思い出されてなりません。


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新横浜・マリノス通り

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新横浜駅

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桜木町駅

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桜木町駅前

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市役所が建てられたのに伴い弁天橋の上に歩道橋ができていた。その上から撮影。

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馬車道・神奈川県立西洋美術館(旧横浜正金銀行)

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馬車道の通り

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馬車道・太陽の母子像(アイスクリーム発祥の地)

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伊勢佐木モール入口

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伊勢佐木モール
2022.12.31 Sat l 横浜 l top ▲
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先日、もう10年以上月に1回通っているかかりつけの病院に行って尿の検査をしたら、血尿が出ていると言われ、レントゲンやエコーの検査受けました。しかし、特に腫れらしきものは見当たらず、腎臓に小さな石があるのでそれが原因だろう、と言われました。

もっとも、血尿が出ているのは自分でもわかっていました。血尿と言っても、石が動いたくらいだと赤いおしっこが出るわけではなく、普段より色が濃くなる程度です。腎臓に石があるのは前に指摘されていましたので、検査を受けるまでもなく、石が動きはじめたなと思っていました。

その後、一昨日おとといくらいからおしっこをするとペニスに痛みを感じるようになりました。おしっこもいまいち勢いがなく、何かが詰まっている感じでした。

昨日きのうも映画を観に行った際、映画館でおしっこをしたのですが、やはり、痛みがあり、色も濃くなっていました。

そして、帰宅したら尿意を催したので、トイレに常備している茶こしを添えておしっこをしました。すると、石がポロリと出たのでした。直径5ミリもないような小さな石でした。そのあとはおしっこをしてもウソのように痛みもなくなりました。

尿の色が濃くなってから10日ちょっと経っています。石が腎臓から尿管に落ち、尿道を通って排出されるのに、それくらい時間がかかったということです。

ドクターの話によれば、石は大きさだけでなく形状などによっても出にくい場合があるそうなので、無事に出てひと安心、というか、まるで生れ出たかのようで、感動を覚えるくらい見事に排出されたのです。

尿管結石に伴う痛みも、ペニスの痛み以外はほとんどありませんでした。一昨日の夜に脇腹が少し痛かったので、あれがそうだったのかとあとで思ったくらいです。

かくして6回目の尿管結石は、これ以上ない大団円で幕を閉じたのでした。


関連記事:
※尿管結石体験記
※時系列に沿って表示しています。
不吉な連想(2006年)
緊急外来(2008年)
緊急外来・2(2008年)
散歩(2008年)
診察(2008年)
冬の散歩道(2008年)
9年ぶりの再発(2017年)
再び病院に行った(2017年)
ESWLで破砕することになった(2017年)
ESWL体験記(2017年)
ESWLの結果(2017年)
5回目の尿管結石(2019年)


2022.12.28 Wed l 健康・ダイエット l top ▲
Revolution+1


足立正生監督の「REVOLUTION+1」の完成版が、先週の土曜日(24日)から公開されましたので、今日、横浜のジャック&ベティに観に行きました。

「REVOLUTION+1」が年内に公開されているのは、横浜のジャック&ベティと大阪の第七藝術劇場と名古屋のシネマスコーレの三館のみです。

私が観たのは公開3日目の昼間の回でしたが、客は半分くらいの入りでした。初日は超満員で、二日目も監督の舞台挨拶があったので入りはよかったみたいですが、三日目は平日ということもあってか、関東で唯一の上映館にしては少し淋しい気がしました。観客は、やはり全共闘世代の高齢者が目立ちました。

国葬の日に合わせてラッシュ(未編集のダイジェスト版)の公開がありましたが、そのときから観もしないで「テロ賛美」「暴力革命のプロパガンダだ」などと言って、ネトウヨや文化ファシストがお便所コオロギのように騒ぎ立てていました。しかし、彼らには「安心しろ。お前たちの心配は杞憂だ」と言ってやりたくなりました。

「REVOLUTION+1」はどうしても「略称・連続射殺魔」(1969年)と比較したくなるのですが、「略称・連続射殺魔」に比べると、饒舌な分凡庸な映画になってしまった感は否めません。ラッシュの限定公開を国葬の日にぶつけたので、もっと尖った映画ではないかと期待していたのですが、期待外れでした。

足立監督は、記者会見で、山上徹也容疑者(映画では川上哲也)を美化するつもりはないと言っていましたが、むしろそれが凡庸な作品になった要因のようにも思います。「やったことは認めないけど気持はわかる」というのは「俗情との結託」(大西巨人)です。むしろ、あえて「美化」することから自由な表現が始まるのではないか。尖ったものでなければ現実をこすることはできないでしょう。

安倍晋三元首相や文鮮明夫妻を痛烈に批判する言葉はありますが、しかし、「ジョーカー」のように、彼らに対する憎悪が観る者に迫ってくる感じはありませんでした。

監督自身も舞台挨拶で、この映画を「ホームドラマ」と言っていたそうですが、主人公と家族の関係もステレロタイプな描き方に終始していました。私は、「家庭の幸福は諸悪の根源である」という太宰治の言葉が好きなのですが、映画のように、家族はホントに”帰るべきところ”なのか、”郷愁”の対象なのかと思いました。だったら、世の中にはどうしてこんなに家族殺しがあるのかと言いたくなります。

主人公の妹が、自分の旧統一教会に対する復讐は(兄と違って)「政治家を変えること」だと言っていましたが、その台詞には思わず笑いを洩らしそうになりました。さらに、妹は次のように言います。

「『民主主義の敵だ』って言うバカもいる。でも、民主主義を壊したのは安倍さんの方だよ。誰が考えても民主主義の敵を攻撃したのは兄さんだよ。だから、私は兄さんを尊敬するよ」

そして、妹は、「青い山脈」みたいに、うららかな日差しに包まれた坂道を自転車で駆け登って行くのでした。私はそのシーンに仰天しました。

安倍元首相を銃撃するシーンの前には、足立映画ではおなじみの水(雨)がチラッと出て来ますが、監督の意図どおりに効果を得ているようには思えませんでした。

主人公の父親が京大でテルアビブ空港乱射事件(リッダ闘争)の”犯人”と麻雀仲間だったという設定や、アパートの隣室に「革命二世」の女が住んでいて、主人公が銃を造っていると打ち明けると、「あんた、革命的警戒心が足りないよ」と諭されるシーンや、主人公が「おれは何の星かわからないけど星になりたい」と呟くシーンが、この映画の”通奏低音”になっている気がしないでもありませんが、しかし、観客に届いているとは言い難いのです。

そもそも映画に登場する「革命二世」や「宗教二世」も、まるで取って付けたような感じで、その存在感は人形のように希薄です。「革命二世」や「宗教二世」の女性に誘われて気弱く断る主人公に、監督の言う山上徹也容疑者「童貞説」が示されており、山上容疑者の人となりを描いたつもりかもしれませんが、そこにはピンク映画時代の古い手法と感覚が顔を覗かせているようで興ざめでした。

山上徹也容疑者の行為がどうしてテロじゃないと言えるのか。それは、単にマスコミや警察がそう言っているだけでしょう。映画はもっと自由な想像力をはたらかせることができる表現行為のはずです。たとえば、(架空の)教団に視点を据えてカルトの残忍さと滑稽さを描くことで、「川上哲也」の一家を浮かび上がらせる手法だって可能だったはずです。その方が足立映画の武器であるシュルレアリスムを駆使できたのではないかと思います。

どうして警察やメディアの視点に沿った「俗情」と「結託」したような映画になってしまったのか。700万円強という低予算で、しかも、実在の事件から日を置かず制作され撮影期間も短かったという事情があったにせよ、とても残念な気がしました。私は、「問題作」にもなってないと思いました。むしろ、戦後民主主義におもねる不自由な映画のように思いました。

映画の出来はともかく、この映画が上映されることに意味があるという意見もありますが、それは政治的に擁護するための詭弁で、ある意味作品に対する冒涜とも言えます。私はその手の言説には与したくないと思いました。

ただ、低予算、短い撮影期間の突貫工事の割には、チープな感じはなく、足立正生監督の「映画を撮るぞ」のひと言で、今の日本の映画界の屋台骨を支える(と言っても決してオーバーではない)錚々たるメンバーがはせ参じた「足立組」の実力を見た気がしました。その点は凄いなと思いました。
2022.12.28 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
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先日のゼレンスキー大統領のアメリカ訪問は、何だったんだと思えてなりません。ゼレンスキー大統領がワールドカップの決勝戦の前に演説することをFIFAに申し出て拒否されたというニュースがありましたが、アメリカ議会でのまさに元俳優を地で行くような時代がかった演説と映画のシーンのような演出。

しかし、アメリカ訪問の目玉であったパトリオットの供与も、報道によれば1基のみで、しかも旧型だという話があります。1基を実践配備するには90人の人員が必要だけど、運用するのは3人で済むそうです。あのアメリカ訪問の成果がこれなのか、と思ってしまいました。

もちろん、配備や運用には兵士の訓練が必要で、それには数ヶ月かかるそうですが、「訓練を受ける人数や場所はまだ未定」だそうです。

今回の中間選挙で下院の多数派を奪還した共和党は、ウクライナへの軍事支援に対して反対の議員が多く、国民の間でも反対が50%近くあるという世論調査の結果もあります。

折しも今日、ウクライナが再びロシア本土を攻撃したというニュースがありました。ゼレンスキー大統領は、奪われた領土を奪還しない限り、戦争は終わらないと明言しています。

今回の大山鳴動して鼠一匹のような「電撃訪問」には、アメリカがウクライナ支援に対して、徐々に腰を引きつつある今の状況が映し出されているような気がしないでもありません。

反米のBRICS側からの視点ですが、アメリカとウクライナの関係について、下記のような指摘があります。私たちは日頃、欧米、特にアメリカをネタ元にした報道ばかり目にしていますが、こういった別の側面もあるということを知る必要があるでしょう。

BRICS(BRICS情報ポータル)
米国企業は、ウクライナの耕地の約 30% を所有しています

記事の中で、執筆者のドラゴ・ボスニック氏は、次のように書いていました。

米国の3つの大規模な多国籍企業 (「カーギル」、「デュポン」、「モンサント」) は合わせて、1,700 万ヘクタールを超えるウクライナの耕作地を所有しています。

比較すると、イタリア全体には 1,670 万ヘクタールの農地があります。要するに、3 つのアメリカ企業は、イタリア全土よりも多くの使用可能な農地をウクライナに所有しています。ウクライナの総面積は約60万平方キロメートルです。その土地面積のうち、170,000 平方キロメートルが外国企業、特に大多数が米国に本拠を置いている、または米国が資金を提供している欧米企業によって取得されています。(略)オーストラリアン・ナショナル・レビューによる報告(ママ)米国の 3 つの企業が、6,200 万ヘクタールの農地のうち 17 を 1 年足らずで取得したと述べています。これにより、彼らはウクライナの総耕地の 28% を支配することができました。


また、ドラゴ・ボスニック氏は、ロシア派のヤヌコーヴィチ政権を倒した2014年の「ユーロマイダン革命」のことを「ネオナチによるクーデター」と表現していました。

ウクライナでは、2004年の「オレンジ革命」と、その10年後の「ユーロマイダン革命」という、欧州派による二つの政治運動があり、現在は「ユーロマイダン革命」後の政治体制下にあります。ただ、それらが選挙で選ばれた政権を倒したという意味においては、「クーデター」という言い方は必ずしも間違ってないと思います。しかも、欧州派が掲げたのは、ありもしない「民族」を捏造したウクライナ民族主義でした。それが「ネオナチ」と言われる所以です。

奪われた領土を奪還するまで戦争はやめないというゼレンスキー大統領の主張は、「オレンジ革命」や「ユーロマイダン革命」で掲げられたウクライナ民族主義に依拠した発言であるのは間違いないでしょう。しかし、ウクライナは、ロシア語しか話さないロシア語話者が3割存在し、公用語も実質的にウクライナ語とロシア語が併用されていた多民族国家でした。ゼレンスキー自身も、母語はロシア語でした。しかし、「ユーロマイダン革命」以降、ウクライナ民族主義の高まりから、公的な場や学校やメディアにおいてロシア語の使用が禁止されたのでした。多民族国家のウクライナに偏狭な民族主義を持ち込めば、排外主義が生まれ分断を招くのは火を見るよりあきらかです。

そんなウクライナ民族主義の先兵として、少数民族のロマやロシア語話者や性的マイノリティや左派活動家などを攻撃し、誘拐・殺害していたのがアゾフ連隊(大隊)です。アゾフ連隊のような準軍事組織(民兵)の存在に、ウクライナという国の性格が如実に示されているような気がしてなりません。

最近やっとメディアに取り上げられるようになりましたが、一方でウクライナには、ヨーロッパでは一番と言われるくらい旧統一教会が進出しており、国際勝共連合がアゾフ連隊を支援していたという話もあります(国際勝共連合は否定)。それに、ウクライナは、侵攻前までは人身売買や違法薬物が蔓延する、ヨーロッパでもっとも腐敗した“ヤバい国”である、と言われていました。ウクライナにおいて、オリガルヒ(新興財閥)というのは、違法ビジネスで巨万の富を築いた、日本で言えば”経済ヤクザ”のフロント企業のような存在です。腐敗した社会であるがゆえに、ヤクザが「新興財閥」と呼ばれるほど経済的な権益を手にすることができたのです。

私は、サッカーのサポーターから派生したアゾフ連隊のような準軍事組織について、ハンナ・アレントが『全体主義の起源』で書いていた次の一文を想起せざるを得ませんでした。アゾフ連隊が、ハンナ・アレントが言う「フロント組織」の役割を担っていたように思えてなりません。

 フロント組織は運動メンバーを防護壁で取り巻いて外部の正常の世界から遮断する、と同時にそれは正常な世界に戻るための架け橋になる。これがなければ権力掌握前のメンバーは彼らの信仰と正常な人々のそれとの差異、彼ら自身の虚偽の仮構と正常な世界のリアルティとの間の相違をあまりに鋭く感じざるを得ない。


また、牧野雅彦氏は、『精読  アレント「全体主義の起源」』(講談社選書メチエ)の中で、ハンナ・アレントが指摘した「フロント組織の創設」について、次のように注釈していました。

 非全体主義的な外部の世界と、内部の仮構世界との間の媒介、内外に対する「ファサード」、一種の緩衝装置としてフロント組織は機能する。(略)この独特の階層性が、(略)全体主義のイデオロギーの機能、イデオロギーと外的世界のリアルティとの関係・非関係を保証するのである。


日本のメディアもそうですが、ジャーナリストの田中龍作氏なども、ウクライナは言論の自由が保証された民主国家だと盛んに強調しています。しかし、それに対して、アジア記者クラブなど一部のジャーナリストが、でまかせだ、ウクライナの実態を伝えていない、と反論しています。そもそも、アゾフ連隊のような準軍事組織が存在したような国が民主国家と言えるのか、という話でしょう。

ゼレンスキー大統領の停戦拒否、徹底抗戦の主張に対して、さすがにアメリカも腰が引けつつあるのではないか。そんな気がしてなりません。

とまれ、どっちが善でどっちが悪かというような“敵・味方論”は、木を見て森を見ない平和ボケの最たるものと言えるでしょう。

何度も言いますが、私たちは、テレビで解説している事情通や専門家のように、国家の論理に与するのではなく、反戦平和を求める地べたの人々の視点からこの戦争を考えるべきで、それにはロシアもウクライナもないのです。


関連記事:
ウクライナのアゾフ大隊
2022.12.27 Tue l 社会・メディア l top ▲
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新型コロナウイルスの感染拡大が続いていますが、重症化リスクは少ないとして、ワクチン接種の呼びかけ以外はほとんど野放しの状態です。しかし、発熱外来には患者が詰めかけて診療制限する病院も出ていますし、病床使用率も軒並み上がっています。

NHKがまとめた12月21日現在の都道府県別の病床使用率を見ると、60%を超えている自治体は以下のとおりです。なお、全国平均も既に55%に達しています。

神奈川県 81%
滋賀県 77%
埼玉県 75%
群馬県 75%
茨城県 70%
愛知県 67%
栃木県 66%
岡山県 65%
福岡県 64%
青森県 61%
福島県 60%
愛媛県 60%
長崎県 60%

ワクチン接種状況も、デジタル庁が発表した接種率を見ても、3回目以降の接種率が大きく落ちているのがわかります。12月21日現在の数字は以下のとおりです。

※全人口に対する割合
1回目 77.81%
2回目 77.30%
3回目 67.54%
4回目 42.73%
5回目 16.44%

一方、ゼロコロナ政策を転換した中国では、転換した途端に感染が急拡大しており、朝日新聞は、「中国政府が21日に開いた内部会議の議事録が出回り、12月1~20日の国内の新型コロナ感染者数が2億4,800万人に達するとの推計が示された」と伝えていました。

朝日新聞デジタル
コロナ感染、20日間で2.5億人? 中国政府、内部会議で推計

また、別の記事では、「コロナによるとみられる死者が増え続けて」おり、「北京では火葬場の予約が埋まり、お別れが滞る事態も始まった」と伝えていました。「敷地内の火葬場に向かう道にも、ひつぎをのせた車の行列が出来ていた」そうです。

朝日新聞デジタル
中国で統計に表れぬ死、次々と 渋滞の火葬場、遺影の行列は1時間超

何だか習近平の「ざまあみろ」という声が聞こえてきそうです。「愚かな人民の要求を受け入れるとこのざまだ」「思い知るがいい」とでも思っているのかもしれません。

中国がどうしてこんなに感染が急拡大しているのかと言えば、隔離優先でワクチン接種が疎かにされたからだという見方があります。

日本でも日本版Qアノンや参政党のような反ワクチン派がいつの間にか市民権を得たかのように、「オミクロンは風邪と同じ(風邪よりリスクは低い)」「ワクチンなんか不要(無駄)」の風潮が広がっていますが、個人として重症化リスクを回避するためにはやはりワクチンは無駄ではなく、中国が置かれている状況から学ぶべきものはあるでしょう。

一方、入国制限の(事実上の)撤廃によって、外国人観光客も徐々に増えており、また、全国旅行支援などによって、国内旅行も大幅に回復、観光地は千客万来とまではいかないまでも、久々に賑わいが戻っているそうです。観光庁が発表した宿泊旅行統計調査でも、10月の宿泊者数は前年同月比38%増でした。

ところが、観光地ではせっかくの書き入れどきなのに、人出不足が深刻だそうで、ついこの前まで閑古鳥が鳴いていると嘆いていたことを考えれば、180度様変わりしているのでした。

産経ニュース
人手不足でホテルや旅館が悲鳴 「稼ぎ時なのに」予約や夕食中止に 外国人活用の動きも

記事ではこう書いていました。

本来なら稼ぎ時だが、人手不足のため宴会や夕食の受付をストップして朝食のみにしたり、客室の稼働を減らしたりしているといい、「清掃やベッドメイキングも、午後3時に終わらせるように、みんなで大慌てでやっている」と語る。


(略)需要急増に人材確保が追いつかず、帝国データバンクが全国2万6752社(有効回答企業数は 1 万1632社)を対象に行った調査「人手不足に対する企業の動向調査」(10月18~31日)によると、旅館・ホテル業では、65・4%が正社員が不足していると回答し、75・0%が非正社員が不足していると答えた。時間外労働が増加した企業は66・7%に及ぶという。


また、先日のテレビのニュースでも、人出不足のため、部屋食をやめてバイキングにしたり、浴衣やアメニティなどもお客が各自で持って部屋に入るなど、セルフサービスに切り替えて対応している温泉ホテルの「苦肉の策」が放送されていました。

でも、ひと言言いたいのは、今の人出不足は、従業員が自主的に離職からではなく、雇用助成金を手にしながら、最終的にはリストラして辞めさせたからでしょう。仕方ない事情があったとは言え、何をいまさらと言えないこともないのです。

しかも、話はそれだけにとどまらないのでないか。私は、以前、山で会った会社経営者だという人が言っていた、「コロナによって今まで10人でやっていた仕事が実は5人でもできるんだということに気づかされたんですよ」という言葉が思い出されてなりません。

アメリカのように、レイオフ(離職)された労働者に手厚い支援策があれば、職場に戻ってくる人間が少ないというのはわかりますが、日本の場合そうではないので、「職場に戻って来ない」のではなく、「戻れない」のではないか。あるいは他の業種に移ってしまったのではないか。

上記の観光ホテルにしても、「困っている」というのは建前で、これを機会に人件費を削って省力化したサービスに転換する、というのが本音かもしれません。日本人が集まらないので外国人を「活用」するというのも、賃金の安い方にシフトするのをそう言っているだけようにしか聞こえません。

もちろん、完全にコロナが終息したわけではなく、またいつ前に戻るかもわからないので積極的に雇用できないという事情もあるでしょう。

今の物価高にしも同じです。円安だからという理由でいっせいに値上げしたにもかかわらず、今のように再び円高に戻っても、価格を戻すわけではないのです。それどころか、今度はエネルギー価格の高騰を理由に、第二弾第三弾の値上げもはじまっています。まるで円安やエネルギー価格の高騰を奇貨に、横並びでいっせいに値上げするという、「赤信号みんなで渡れば怖くない」”暗黙の談合”の旨味を知ったかのようです。この際だからと値上げラッシュを演じているような気がしないでもありません。でも、資本主義の法則に従えば、それは最終的には自分たちの首を絞めることになるのです。

今まで日本の企業は、原価が上がっていたにもかかわらず、消費者の買い控えと低価格志向によって価格に転嫁できなかったと言われていました。そのため、賃上げもできず、いわゆるデフレスパイラルの負の連鎖に陥ったと言われていたのです。しかし、一方で、企業の内部留保は拡大の一途を辿っていました。

岸田首相が経団連に賃上げを要請しても、経団連に加盟しているのは僅か275社で、誰でも知っているような大企業ばかりです。日本では、大企業に勤める労働者は約30%で、残りの70%は賃上げなど望めない中小企業の労働者です。しかも、賃労働者は4,794万人しかいません。年金生活者や自営業者など、最初から賃上げとは関係ない人たちも多いのです。そんな中で、今のように生活必需品に至るまで横並びの値上げが進めば、貧困や格差がいっそう広がって深刻化するのは目に見えています。

折しも、昨日、11月の消費者物価指数が3.7%上昇し、これは40年11カ月ぶりの水準だった、というニュースがありました。前も書きましたが、これでは貧乏人は死ねと言われているようなものです。ところが、帝国データバンクの調査によれば、来年の1月から4月までに値上げが決まっている食品は、既に7,152品目にのぼるそうです。年が明ければ、さらなる値上げラッシュが待ち受けているのです。

このように、資本が臆面もなく、半ば暴力的に、欲望(本音)をむき出しにするようになっているところに、私は、資本主義の危機が表われているような気がしてなりません。

仮に負のスパイラルに陥っているのであれば、まず今の貧困や格差社会の問題を改善することが先決でしょう。たとえば、低所得者に毎月現金を支給するとか、全体的に底上げして購買力を上げない限り、エコノミストたちが言うように、企業も価格転嫁できないし、価格転嫁できなければ賃上げもできないでしょう。そういう循環が生まれないのは誰でもわかる話です。

収入が増えないのに物価だけが上がれば、多くの国民が追い詰められ、社会に亀裂が生じるのは火を見るよりあきらかです。この異次元の物価高=資本主義の危機に対して、世界各地では大衆蜂起とも言えるような抗議デモが起きていますが、ワールドカップの会場でゴミ拾いしてお行儀のよさをアピールするような日本ではその兆候すらありません。それどころか、逆に軍拡のために増税や社会保障費の削減が取り沙汰されているあり様です。このままでは座して死を待つしかないでしょう。

くり返しになりますが、今まで価格転嫁できなかったからと、万単位の品目がいっせいに値上げされ、そのくせ、大企業は史上最高の516兆円(2021年)の内部留保を溜め込んでいるのです。その一方で、相対的貧困率は15.4%にも達し、約1,800万人の国民が、単身者世帯で約124万円、2人世帯で約175万円、3人世帯で約215万円、4人世帯で約248万円の貧困線以下で生活しているのです。

最後に再び『対論 1968』から引用します。と言って、私は、『対論 1968』を無定見に首肯しているわけではありません。むしろ、後ろの世代としては違和感を覚える部分も多いのです。ただ、いくつになっても愚直なまでに青臭い彼らの”状況論”には、耳を傾けるべきものがあると思っています。本土決戦を回避してのうのうと生き延びた親たちへのアンチ・テーゼとして新左翼の暴力があった、という解釈などは彼らにしかできないものでしょう。それは感動ですらあります。

笠井 (略)アメリカでは、階級脱落デクラセ化した産業労働者のアイデンティティ回復運動が、現時点ではトランプ支持派として顕在化している。そうした力は右にも左にも行きうるし、”68年”には日本でも全共闘として左翼的な方向に進んだ。しかし今の日本には、仮にそういった動きが現れたところで、左翼側にそれを組織できるヘゲモニー力は存在しないから、アメリカと同じで排外主義的な方向に流れる可能性の方が高い。


笠井 ”主権国家の解体”は、我々がそれを望もうと望むまいと、従来のそれがどんどん穴だらけになって弱体化していくし、あとは単にどういう崩れ方をするかというだけの問題になってきている。ナショナリズムが声高に主張されたり、国家による管理の強化がおこなわれたりするのは、そういう解体過程における過渡的な逆行現象の一つにすぎないと思う。



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『3.11後の叛乱』
2022.12.24 Sat l 社会・メディア l top ▲
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(2022年11月)


毎年同じことを書いていますが、年の瀬が押し迫るとどうしてこんなにしんみりした気持になるんだろうと思います。

飛び込みで電車が停まったというニュースも多くなるし、メディアも今年亡くなった人の特集を行なったりするので、否が応でも死について考えざるを得ません。

このブログでも、「訃報・死」というカテゴリーで亡くなった人について記事を書いていますが、今年取り上げたのは(敬称略)、津原康水(作家)、佐野眞一(ノンフィクションライター)、森崎和江(作家・評論家)、山下惣一(農民作家)、鈴木志郎康(詩人)、ジャンリュック・ゴダール(映画監督)、上島竜平(お笑い芸人)、S(高校時代の同級生)、西村賢太(作家)でした。

他にも、記事では触れなかったけど、『噂の真相』に「無資本主義商品論」というコラムを長いこと連載していた小田嶋隆(コラムニスト)も65歳の若さで亡くなりました。

『突破者』の宮崎学(ノンフィクションライター)も76歳で亡くなりました。驚いたのは、Wikipediaに「老衰のため、群馬県の高齢者施設で死去」と書いていたことです。76歳で「老衰」なんてあるのかと思いました。

石原慎太郎やアントニオ猪木やオリビア・ニュートン・ジョンや仲本工事などおなじみの名前も鬼籍に入りました。

昨日は、タレントの高見知佳が急死したというニュースもありました。4年前に離婚したのをきっかけに、高齢の母親の介護をするために、一人息子を連れてそれまで住んでいた沖縄から愛媛に帰郷。今年7月の参院選には立憲民主党から立候補(落選)したばかりです。

ニュースによれば、参院選後、身体のだるさを訴えていたそうです。そして、11月に病院で診察を受けると子宮癌であることが判明、癌は既に他の箇所に転移しており、僅か1ヶ月で亡くなったのでした。最後は周りの人たちに「ありがとう」という言葉を残して旅立って行ったそうです。人の死はあっけないものだ、とあらためて思い知らされます。

石牟礼道子と詩人の伊藤比呂美の対談集『死を想う』(2007年刊・平凡社新書)の中で、石牟礼道子(2018年没)は、1歳年下の弟が29歳のときに「汽車に轢かれて死んだ」ときの心境を語っていました。彼女は、「これで弟も楽になったな」「不幸な一生だったな」と思ったそうです。弟は既に結婚して3歳くらいの娘もいたそうですが、死は「人間の運命」だと思ったのだと。

たしかに、人生を考えるとき、冷たいようですが、諦念も大事な気がします。よくメンタルを病んだ人間に対して、「がんばれ」と言うと益々追い込まれていくので、「がんばれ」という言葉は禁句だと言われますが、「がんばれ」というのは、ワールドカップの代表や災害の被害者などに向けて「感動した」「元気を貰った」「勇気を貰った」などと言う言葉と同じで、ただ思考停止した、それでいて傲慢な常套句にすぎないのです。むしろ、諦念のあり様を考えた方が、人生にとってはよほど意義があるでしょう。

『死を想う』では、伊藤比呂美も次のような話をしていました。

伊藤 私の父や母が今死にかけてますでしょう。「死にかけている」と言っても、まだまだ「あと十年生きる」と言ってますけれど、年取っていますよね。感じるのは、父も母も、どこにも行く場所がなくて老いていってるなということ。拠り所がないと言いますか。父はいろんな経験のある、とっても面白い人だったんです。私は娘として、本当に父が好きだった。でも、ここに来て、何もかも投げ出しちゃったというか、何もすることがなくて。一日家の中で、何をしているんでしょう。時代小説を読んでいるくらいなんですよ。で、「つまらない、つまらない」といつも言うんです。寄りかかるものが何もない。母は母で病院でそんな感じでしょう。本も読めない、テレビも見たくない、なんにもしないで、ただ中空にぽかんと漂っている、ぽかんと。
(略)
 老いてみたらなんにもない。あの、あまりの何もなさに、見てて恐ろしくなるくらい。


伊藤比呂美は、「ここにもし信仰みたいなものがあれば、ずいぶん楽なんだろうなと思う」と言っていましたが、「生老病死の苦」に翻弄され、アイデンティティを失くした人間の最期の拠り所が、「信仰」だというのはよくわかります。

平成元年に父親が亡くなったとき、母親は地元の県立病院に寝泊まりして、入院している父親を介護していました。当時はそういったことが可能でした。また、我が家では父親の病気以外にも難題が持ち上がっており、母親はそれを一人で背負って苦悩していました。

正月に帰省した私は、実家に帰っても誰もいないので、県立病院にずっと詰めて、夜は近くのビジネスホテルに泊まっていました。

正月が明けて、東京に戻るとき、病院の廊下の椅子に母親と二人で座って話をしていたら、母親が突然泣き出して今の苦悩を切々と訴えはじめたのでした。

上野千鶴子が言う「母に期待されながら期待に添うことのできないふがいない息子」の典型のような私は、半ば戸惑いながら、母親の話を聞いていました。

そして、母親の話が途切れたとき、私は、「何か宗教でも信仰した方がいいんじゃね。そうしたらいくらか楽になるかもな」と言ったのでした。すると、母親は「エッ」というように急に真顔になり、涙で濡れた両目を見開いて私の方をまじまじと見たのでした。まさか私の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかったのでしょう。でも、目の前で泣き崩れている母親に声をかけるとしたら、もうそんな言葉しかないのです。

それも30年近く前の話です。母親も既にこの世にいません。いよいよ今度は私が「生老病死の苦」を背負う番なのです。
2022.12.23 Fri l 訃報・死 l top ▲
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(20代の頃)

この季節になると、いろんなところから定番のクリスマスソングが流れてきます。

仕事で渋谷に日参していた頃は、駅前のスクランブル交差点を囲うように設置されている電光掲示板から流れていたのは、山下達郎の「クリスマス・イブ」、稲垣潤一の「クリスマスキャロルの頃には」、ジョン・レノン&ヨーコ・オノ「ハッピー・クリスマス」などでした。それからクリスマスソングではないですが、TRFの「寒い夜だから」もよく流れていました。

その後、渋谷に行くこともなくなり、クリスマスとも無縁になってしまい、街中でクリスマスソングを聴くこともなくなりました。むしろ、ここ数年のクリスマスは、山に行って山の中を一人で歩いていたくらいです。

クリスマスと無縁になると、街を歩いていてもそういった年末の華やかなイベントから疎外されている自分を感じていましたが、最近は疎外感さえ感じることがなくなりました。

そんな中、スマホでラジコを聞いていたら、BOAの「メリクリ」が流れて来て、何だかわけもなく私の心の中に染み入ってきたのでした。もちろん、「メリクリ」が発売されたのは2004年の12月ですので、私が渋谷に日参していた頃よりずっとあとです。だから、渋谷の駅前の電光掲示板から流れていたのを聴いたわけではありません。

でも、何故か、BOAの歌声が、当時の私の心情をよみがえらせてくれるようなところがありました。

BOAメリクリ

「メリクリ」とはそぐわない話かも知れませんが、人生は断念の果てにあるのだ、ということをしみじみ感じてなりません。私たちはそんな切ない思い出を抱えて最後の日々を生きていくしかないのです。老いるというのは残酷なものです。

今日の朝日新聞に評論家の川本三郎氏が「思い出して生きること」という記事を寄稿していました。

朝日新聞デジタル
(寄稿)思い出して生きること 評論家・川本三郎

川本三郎氏と言えば、『朝日ジャーナル』の記者時代、取材で知り合った京浜安保共闘の活動家が起こした朝霞自衛官殺害事件を思い出します。川本氏は、事件に連座して、証拠隠滅罪で逮捕・起訴されて朝日新聞を懲戒免職になりました。その体験は、のちに『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』という本で書かれていますが、朝日を辞めたあとは小説や映画や旅や散歩などとテーマにした文章を書いて、フリーで仕事をしていました。私は、『マイ・バック・ページ』以後は、永井荷風について書かれた文章などをときどき雑誌で読む程度でした。

その川本氏も既に78歳だそうです。朝日を退社したあと、当時美大生だった奥さんと結婚したのですが、その7歳年下の奥さんも2008年に癌で亡くなり、現在は荷風と同じように一人暮らしをしているそうです。「悲しみや寂しさは消えることはないが、もう慣れた」と書いていました。

そして、柳宗悦の「悲しみのみが悲しみを慰めてくれる。淋しさのみが淋しさを癒してくれる」(「妹の死」)という言葉を引いて、次のように書いていました。

 悲しみや寂しさを無理に振り払うことはないのだと思う。

 家内の死のあと、保険会社の女性に言われたことがある。

 一般的に夫に死なれた妻は長生きするが、妻に先立たれた夫は長く持たない、と。だから、長生き出来ないと覚悟した。

 それでもこの14年間なんとか一人で生きている。悲しみや寂しさと共にあったからではないかと思っている。


記事では、家事が苦手なので外食ばかりしていたら、ある日、酒の席で倒れて病院に運ばれ、医者から「栄養失調です」と告げられてショックを受けたとか、おしゃれすることもなくなり洋服はもっぱらユニクロと無印良品で済ませているとか、猫が好きだったけどもう猫を飼うこともできなくなった、というようなことが書かれていました。

そして、記事は次のような文章で終わっていました。

 「私は生きることより思い出すことのほうが好きだ。結局は同じことなのだけれど」

 フェリーニ監督の遺作「ボイス・オブ・ムーン」(90年)の中の印象に残る言葉だが、年を取ることの良さのひとつは、「思い出」が増えることだろうか。

 ベルイマン監督「野いちご」(57年)の主人公は、いまの私と同じ78歳の老人だったが、最後、一日の旅のあと眠りにつくとき、若い頃のことを思い出しながら心を穏やかにした。

 78歳になるいま、私も入眠儀式として、亡き家内とともに猫たちと一緒に暮らしたあの穏やかな日々を思い出している。思い出は老いの身の宝物である。


川本氏がどうして、京浜安保共闘の革命戦争にシンパシーを抱いたのか、私の記憶も定かではありませんが、『マイ・バック・ページ』でもそのことは明確に書いてなかったように思います(もう一度確認しようと本棚を探したのですが、『マイ・バック・ページ』は見つかりませんでした)。言うまでもなく、京浜安保共闘は、のちに赤軍派と連合赤軍を結成して、群馬の山岳ベースでの同志殺し(連合赤軍事件)へと暴走し、日本の新左翼運動に大きな(と言うか致命的な)汚点を残したのでした。

当時、革命戦争を声高に叫んでいた新左翼の思想について、既出の『対論 1968』(集英社新書)の中で、笠井潔氏は、「“革命戦争”とは、本土決戦を日和って生き延びることで繁栄を謳歌おうかするにいたった戦後社会を破壊することだった」「本土決戦を日和って延命した親たちに、革命戦争を対置したわけです」と言っていました。

川本三郎氏の場合、取材の過程で事件に巻き込まれて、心ならずも手を貸してしまったというのが真相なのかもしれません。ただ、その一方で、「本土決戦を日和って延命した親たち」に対置した革命戦争の思想に対して、どこか”引け目”を感じていたのではないか、と思ったりもするのです。だったら、世代的にはまったくあとの世代である私にもわかるのでした。

『対論 1968』でけちょんけちょんに批判されていた白井聡氏は、『永続敗戦論』の中で、(既出ですが)本土決戦を回避した無条件降伏について、次のような歴史学者の河原宏氏の言葉を紹介していました。

日本人が国民的に体験しこそなったのは、各人が自らの命をかけても護るべきものを見いだし、そのために戦うと自主的に決めること、同様に個人が自己の命をかけても戦わないと自主的に決意することの意味を体験することだった。
(『日本人の「戦争」──古典と死生の間で』講談社学術文庫)
※『永続敗戦論』より孫引き


「近衛上奏文」に示されたような「革命より敗戦がまし」という無条件降伏の欺瞞。その上に築かれた虚妄の戦後民主主義。

新左翼の若者たちは、そういった戦後の「平和と民主主義」に革命戦争=暴力を対置することで、無条件降伏の欺瞞性を私たちに突き付けたのです。当時、新左翼党派の幹部であった笠井氏は、「暴力は戦術有効性ではなく、ある意味で思想や倫理の問題として受け止められた」と言っていましたが、新左翼の暴力があれほど私たちに衝撃を与えたのも、そういった暴力に内在したエートスによって、“引け目”や”負い目”を抱いたからではないか(“引け目”や”負い目”を強いられたからではないか)と思います。

でも、年を取ると、革命に対するシンパシーも切ない恋愛も一緒くたになって、「悲しみや寂しさ」をもたらすものになっていくのです。

1971年の大衆蜂起(渋谷暴動)の現場になった渋谷の駅前では、20年後、私たちは電光掲示板から流れるクリスマスソングをBGMにして、恋人と手を取り合ってデートに向かっていたのでした。あるいは、輸入雑貨の会社に勤めていた私は、人混みをかき分けて最後の追い込みに入ったクリスマスカードの納品に先を急いでいたのでした。先行世代が提示した革命戦争の「思想や倫理」は、欠片も残っていませんでした。私は、自分の仕事と恋愛のことで頭がいっぱいでした。

最近、ふと、倒れるまでどこまでも歩いて、「夜中、忽然として座す。無言にして空しく涕洟す」と日記に書いた森鴎外のように、山の中で人知れずめいっぱい泣きたい、と思うことがあります。年甲斐もなく、しかも、突然に、BOAの「メリクリ」にしんみりとしたのも、そんな心情と関係があるのかもしれません。最後に残るのは、やはり、「悲しみや寂しさ」の思い出だけなのです。
2022.12.22 Thu l 日常・その他 l top ▲
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(public domain)


今回のワールドカップは、暇だったということもあったし、ABEMAが全試合を(しかも無料で)放送したということもあって、ほぼ全試合観ることができました。

結局、アルゼンチンが36年振りにワールドカップを手にすることになったのですが、実は私は延長戦の後半早々に、ゴール前のこぼれ球をメッシが入れた時点で、テレビを消してふて寝したのでした。「ニワカ」ですので、それもありなのです。

ところが、朝起きてテレビのスイッチを入れると、そのあとエンバペがPKを入れて同点に追いついて、最終的にはPK戦になってアルゼンチンが勝ったことを知ったのでした。

どうしてふて寝したのかと言えば、フランスを応援していたということもありますが、メッシが好きではないからです。小柳ルミ子が歓喜のあまり号泣したという記事が出ていましたが、私はその反対です。

メッシの背後にはアルゼンチンの汚いサッカーがあります。自分たちのラフプレーは棚にあげて、すぐ倒れて仰々しくのたうちまわり、そして、審判に文句ばかり言う。アルゼンチンのおなじみのシーンには、毎度のことながらうんざりさせられます。

オランダ戦ほどではなかったものの、アルゼンチンとフランス戦を見ても、マナーの違いは歴然としていました。手段を選ばず「勝てば官軍」という考えは、別の意味で、日本と似たものがあります。メッシは、そんなアルゼンチンのサッカーのヒーローにすぎないのです。

翌日の日本のテレビには、「神の子・メッシ」などという恥ずかしいような賛辞が飛び交い、ここはアルゼンチンかと思うくらい小柳ルミ子ばりの「勝てば官軍」の歓喜に沸いていましたが、何をか言わんやと思いました。

たしかに、メッシのキックの精度は目を見張るものがあったし、こぼれ球などに対する反応は抜きん出ていたと思います。しかし、動きは相変わらず交通整理の警察官みたいだったし、ボールが渡っても奪われるシーンも多くありました。メッシがいることで、アルゼンチンは10人半のサッカーを強いられた感じがありました。

MVPは、むしろメッシ以外のアルゼンチンの選手たちに与えるべきでしょう。彼らは、メッシを盛り上げるために、半人足りないサッカーに徹して勝ち進んで行ったのです。それはそれで凄いことです。

FIFAの不透明な金銭のやり取りや出稼ぎ労働者が置かれた劣悪な労働環境やLGBTに対する差別などに、目を向けて抗議の声をあげたのはヨーロッパの選手たちでした。そんなものは関係ない、「勝てば官軍」なんだと言って目をつぶったのは、日本をはじめ他の国の選手たちでした。

カタール大会の負の部分などどこ吹く風とばかりに、カタールのタミル首長とFIFAのジャンニ・インファンティーノ会長からトロフィを渡されて満面の笑みを浮かべるメッシの姿は、全てをなかったことにするよこしまな儀式のようにしか見えませんでした。

また、アルゼンチンの優勝を自国のそれのように報道する日本のメディアは、ハイパーインフレに見舞われているアルゼンチンが、サッカーどころではない状況にあることに対しては目を背けたままです。アルゼンチンからカタールまで遠路はるばるやって来て応援しているサポーターは、インフレなどものともしない超セレブか全財産を注ぎ込んでやって来たサッカー狂かどっちかでしょう。いくらサッカーが貧者のスポーツだからと言って、その日の生活もままならず、それこそ泥棒か強盗でもしなければ腹を満たすこともできないような下層な人々はサッカーどころじゃないのです。

チェ・ゲバラとフィデル・カストロの入れ墨を入れたマラドーナは、そんな下層の虐げられた人々に常に寄り添う姿勢がありました。だから、アルゼンチンのみならずラテンアメリカの民衆の英雄ヒーローたり得たのです。しかし、メッシはアルゼンチンのサッカーのヒーローではあるけれど、マラドーナのようなサッカーを越えるカリスマ性はありません。それが決定的に違うところです。

もしマラドーナが生きていたら、今回のカタール大会に対しても、サン・ピエトロ大聖堂を訪問したときと同じように、痛烈な皮肉を浴びせたに違いありません。

一方、日本では、本田圭佑のような道化師ピエロを持て囃すことで、全てなかったことにされ、サッカー協会の思惑通り森保続投が既定路線になっているようです。小柳ルミ子が出場するのかどうか知りませんが、森保監督は大晦日の紅白歌合戦にも審査員として出演するそうなので、これで監督交代はまずないでしょう。検証など形ばかりで、いつものように「感動をありがとう!」の常套句にすべて収斂されて幕が引かれようとしているのです。

日本のサッカーはついに世界に追いついた、などと言うのは片腹痛いのです。どうして日本のサッカーには批評がないのか、批評が生まれないのか、と思います。それは、選手の選定や起用にまでスポンサーが口出しするほど、スポンサーの力が強いということもあるでしょう。でも、それはとりもなおさず、日本サッカー協会の体質に問題があるからです。批評させない、批評を許さない、目に見えない圧力があるのではないか。

高校時代にちょっとサッカーを囓っただけで”サッカーフリーク”を自称するお笑い芸人たち(ホントは吉本興業がそういったキャラクターで売り込んでいるだけでしょう)にサッカーを語らせる、バラエティ番組とみまごうばかりのサッカー専門番組。また、一緒に番組に出ているJリーグのOBたちも、所詮は協会の意向を代弁する協会の子飼いにすぎません。相撲などと同じように、如何にも日本的な”サッカー村”が既に形成されているのです。こんなカラ騒ぎでは、「ワールドカップが終わったらサッカー熱が冷める」のは当然でしょう。
2022.12.20 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
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同じような話のくり返しですが、政府が「反撃能力」(敵基地攻撃能力)の保有を明記し、2024年度から5年間で防衛費を16兆円(1.5倍)増額して43兆円にする方針などを示した新しい安全保障関連3文書を閣議決定しました。それによって、日本の防衛政策は「歴史的な大転換」が行われたと言われています。

それを受けて週末(17・18日)、各メディアによって世論調査が行われ、その結果が報じられています。

毎日新聞の世論調査では、防衛費増額について、賛成が48%、反対が41%、わからないが10%だったそうです。

また、財源の増税については、賛成が23%、反対が69%。国債の発行については、賛成が33%、反対が52%でした。「社会保障費などほかの政策経費を削る」ことについては、賛成が20%で、反対が73%でした。

Yahoo!ニュース
毎日新聞
岸田内閣支持率25% 政権発足以降で最低 毎日新聞世論調査

一方、朝日新聞の世論調査でも、防衛費増額について、賛成が46%、反対が48%と「賛否が分かれた」そうです。「敵基地攻撃能力」の保有については、賛成56%、反対38%でした。

財源の1兆円増税については、賛成29%、反対66%で、国債の発行についても、賛成27%、反対67%でした。

朝日新聞デジタル
内閣支持率が過去最低31%、防衛費拡大は賛否割れる 朝日世論調査

これを見て、為政者たちは「じゃあどうすればいんだ?」と思ったことでしょう。防衛費増額については賛否が分かれたものの、「敵基地攻撃能力」の保有は賛成が多く、費用については増税も国債もどれも反対が大幅に上回っているのです。

ということは、防衛費増額(防衛力の拡大)に賛成しながら、増税も国債の発行も反対という回答も多くあるわけで、そういった矛盾した回答には口をあんぐりせざるを得ません。

日本は軍拡競争というルビコンの橋を渡る「防衛政策の歴史的大転換」に踏み切ったのです。安保3文書で示された2027年までの「中期防衛力整備計画」は、ホンの始まりにすぎません。常識的に考えても、装備を増やせばその維持管理費も増えるので、さらに新しい武器を揃えるとなると、その分予算を積み増ししなければなりません。1%の増税で済むはずがないのです。もちろん、毎年3兆円、私たちに向けられた予算が削られて防衛費に転用することも決まったのですが、それも増えることになるでしょう。これは、あくまで軍拡の入口にすぎないのです。

この世論調査の回答からも、自分たちは関係ない、汚れ仕事は自衛隊に任せておけばいいという、国民の本音が垣間見えるような気がします。為政者ならずとも「勝手なもんだ」と言いたくなります。そんな勝手が通用するはずがないのです。

先の戦争では、国民は、東條英機の自宅に「早く戦争をやれ!」「戦争が恐いのか」「卑怯者!」「非国民め!」というような手紙を段ボール箱に何箱も書いて送り、戦争を熱望したのです。そのため、東條英機らは清水の舞台から飛び降りるつもりで開戦を決断したのです。ところが、敗戦になった途端、国民は、自分たちは「軍部に騙された」「被害者だ」と言い始めて、一夜にして民主主義者や社会主義者に変身したのです。

私は、その話を想起せざるを得ません。

だったら、徴兵制と大増税で、傍観者ではなく当事者であることを嫌というほど思い知ればいいのだと思います。「敵基地攻撃能力」(先制攻撃)の保有によって、中国や北朝鮮からの挑発も今後さらに激しくなってくるでしょう。一触即発までエスカレートするかもしれません。そうなれば、当然徴兵制復活の声も出て来るに違いありません。「中国が」「ロシアが」「韓国が」と言っている若者たちも、徴兵されて「愛国」がなんたるかを身を持って体験すればいいのだと思います。

一方で、徴兵制について、次のような捉え方もあります。たまたま出たばかりの笠井潔と絓(すが)秀実の対談集(聞き手・外山恒一)『対論 1968』(集英社新書)を読んでいたら、連合赤軍の同志殺しについて、笠井潔が次のように語っているのが目に止まりました。

笠井 (略)赤軍派の前乃園紀男(花園紀男)の言葉があるよね。「狭いけど千尋の谷があって、普通の脚力があれば、思い切って跳べば跳べる程度の距離なんだから、跳べばよかったのに、いざ千尋の谷を目の前にすると体がすくんで、とりあえず跳ぶ訓練をしようと言い出し、総括の連続で自滅していった」、つまり「そもそも”訓練”なんか必要なかった。単に”跳んで”いれば連合赤軍みたいなことは起きなかった」といった趣旨の。まったくの正論ですが、その上で”投石”と”銃撃戦”の間に”千尋の谷”が存在した理由を考えなければいけない。ベトナム戦争の戦時中だったアメリカはもちろん、イタリアやドイツにも当時は徴兵制があったし、学生の多くは徴兵制は免除されたにしても、同年代に軍隊経験のある友達はいくらでもいた。
 徴兵制の有無は大きいですよ。


若者が軍隊経験を持つ=暴力を身に付けることによって、その暴力が政治の手段に転化し得る可能性があるということです。徴兵制は、”政治暴力”とそれをコントロールするすべを学ぶ絶好の機会チャンスにもなるのです。もちろん、「千尋の谷」を跳ぶ必要もなくなります。

徴兵制というのは、日常や政治に暴力を呼び込むということであり、国家権力にとっても両刃の剣でもあるのです。最近では、安倍晋三元首相銃撃事件が好例です。山上容疑者が自衛隊で暴力の訓練を受けてなければ、少なくとも銃殺するという発想を持つことはなかったでしょう。

とまれ、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と思っているなら、みんなで戦争への道に突き進めばいいのです。加速主義というのは、平たく言えば、そういう話でしょう。このどうしようもない国民の意識は、加速主義による「創造的破壊」によってしか直しようがないのではないかと思います。

現在、世界を覆っている未曽有の資源インフレに示されているように、資本主義が臨界点に達しようとしているのはたしかで、政治と経済が共振して資本主義の危機がより深化しているのは否定しようがない気がします。

アメリカが唯一の超大国の座から転落して世界は間違いなく多極化する、と前からしつこいほど言ってきましたが、アメリカの凋落と国内の分断、ロシアや中国の台頭など、ますますそれがはっきりしてきたのです。ロシアがあれほどの蛮行を行っても、西側のメディアが報じるほどロシアは世界で孤立しているわけではないのです。

ウクライナが可哀そうと言っても、従来のようにアメリカが直接軍事介入を行うことはできないのです。ウクライナがNATO加盟国ではないからとか、核戦争を回避するためだとか言われていますが、しかし、ベトナム戦争のときでもソ連は核を持っていました。でも、アメリカは直接軍事介入したのです(できたのです)。

戦後、アメリカは戦争して一度も勝ったことがないと言われていますが、たしかに考えてみればそうです。それでいい加減トラウマができて、国内世論も軍事介入することに反対の声が大きくなったということもあるかもしれません。しかし、それ以上に、アメリカがもはや他国に軍事介入するほどの力がなくなったということの方が大きいのではないか。言うなれば、毛沢東が言った「アメリカ帝国主義は張り子の虎である」ことが現実になった、と言っていいかもしれません。今回の日本の「防衛政策の歴史的大転換」もその脈絡で見るべきでしょう。
2022.12.19 Mon l 社会・メディア l top ▲
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(2018年大船山)

先日、ユーチューブを観ていたら、ある女性ユーチューバーが祖母山や傾山に登っている動画がアップされていました。

彼女は、大分県と宮崎県にまたがる祖母山・傾山・大崩山が、ユネスコエコパーク(生物圏保存地域)に指定されているので、そのPR活動のために動画を依頼されて訪れたようです。

ちなみに、ユネスコエコパークとは、次のようなものです。

ユネスコエコパーク(生物圏保存地域)は、生物多様性の保護を目的に、ユネスコ人間と生物圏(MAB)計画(1971年に開始した、自然及び天然資源の持続可能な利用と保護に関する科学的研究を行う政府間共同事業)の一環として1976年に開始されました。
ユネスコエコパークは、豊かな生態系を有し、地域の自然資源を活用した持続可能な経済活動を進めるモデル地域です。(認定地域数:134か国738地域。うち国内は10地域。)※2022年6月現在
世界自然遺産が、顕著な普遍的価値を有する自然を厳格に保護することを主目的とするのに対し、ユネスコエコパークは自然保護と地域の人々の生活(人間の干渉を含む生態系の保全と経済社会活動)とが両立した持続的な発展を目指しています。

文部科学省
生物圏保存地域(ユネスコエコパーク)


国内で指定されているのは、以下の10ヶ所です。

白山
大台ヶ原・大峯山・大杉谷
志賀高原
屋久島・口永良部島
綾(宮崎県綾町)
只見
南アルプス
祖母・傾・大崩
みなかみ(群馬県みなかみ町)
甲武信

私は、祖母・傾山が大崩山とともに、ユネスコエコパークに指定されていることはまったく知りませんでした。

前に何度も書きましたが、私はくじゅう(久住)連山の麓にある温泉町で生まれました。祖母・傾山の登山口は、山をはさんだ南側の町にあります。山をはさんで北側にあるのが湯布院です。

北側の湯布院には久留米と大分を結ぶ久大線が走っており、南側には熊本と大分を結ぶ豊肥線が走っています。しかし、真ん中にある私の町には鉄道が走っていません。そのため、私の田舎は由布院とは対極にあるようなひなびた温泉地でした。

最寄り駅は、西側の山をひとつ越えた隣町にあるのですが、隣町とは平成の大合併によって同じ市になったのでした。ただ、大昔は同じ郡だったので、言うなれば離婚した夫婦が復縁したようなものです。その最寄り駅から祖母・傾山の登山口に行く登山バスが運行されているのですが、それを知ったのも最近でした。ユネスコエコパークに指定されたのは2017年だそうなので、指定を受けて運行されるようになったのかもしれません。

ただ、私たちの田舎の山はあくまで久住連山(大船山)で、私たちの田舎から祖母・傾山に登る人はほとんどいませんでした。そもそも昔は登山口に行く交通手段もなかったのです。

これも何度も書いていますが、私は若い頃勤めていた会社の関係で、山を越えた南側の町(現在は合併して市)の営業所に5年間勤務していたことがあるのですが、祖母・傾山に登るならそっちの方が全然近いのです。大分県側の登山口も南側の町にあります。山開きのときもその町の人たちは祖母山に登っていました。ただ、祖母山の山頂が私たちの市に帰属しているので、そういった関係から私たちの市の最寄り駅からバスが運行されることになったのだと思います。

つまり、私たちの市には、九州の屋根を呼ばれる久住連山と祖母山があるのです。傾山は私が営業所に勤務していた南側の市に帰属しています。祖母山と傾山の大分県側の登山口も、その市にあります。

祖母山には、営業所に勤務していたとき、よく行っていた喫茶店で知り合った地元の登山グループと一緒に登ったことがあります。私たちは、「祖母・傾山」というように一括りした言い方をしていましたが、ただ、大半の人たちは祖母山に登っていました。動画を観ると、たしかに傾山は距離も長いし登山道も難度が高いみたいなので、大分県側では敬遠されていたのかもしれません。宮崎側へ行けば山行時間の短いお手軽なコースがあるそうです。

昔、傾山で野営していた女性ハイカーが、九州では絶滅したはずの”熊”を見たと言って話題になったことがありましたが、そのときも大分側で遭遇したと言われていました。”熊”はともかく、あんなに距離が長いと野営したくなる気持もわかるような気がします。

祖母山や傾山の登山口がある町も、私は仕事で担当していた地区だったのでよく知っています。ただ、動画に出ていた神原登山口が立派に整備されていたのにはびっくりしました。昔はあんなトイレも駐車場もありませんでした。山を越えた宮崎県側には、地元の教師たちによってヒ素による公害が告発された土呂久鉱山があり、私も車で峠越えを試みたことがありましたが、道が荒れていて途中で断念したことを覚えています。

傾山に登っている途中に出てきた指導標(道案内)に「上畑」という地名がありましたが、そういった地名を見ただけでなつかしい気持になるのでした。

また、ユーチューバーが休憩中に食べていた地元のお菓子も、先日、田舎の友人が上京した際にお土産に貰ったばかりだったので、わけもなく嬉しくなりました。小さい頃からよく食べていたお菓子で、父親の葬儀で帰省した際、香典返しにそのお菓子を東京の会社に送ったこともありました。

これも何度も書いていますが、私は実家にいたのは中学までで、高校は親元を離れて街の学校に行きました。それで、休みで帰省して再び列車で下宿先に向かう際、そのお菓子を買うために店に行ったら、店のおばさんから「どこの高校?」と訊かれたのです。それで、「○○の××高校です」と答えたら、「エー、そんな遠くの学校に行っているんだ?」とびっくりされたことがありました。何故かそのときのことを今でも覚えていて、先日、友人にその話をしたら、「ああ、△△のおばちゃんか。もうとっくに死んだよ」と言っていました。

ユーチューバーは、登山の前日と翌日に最寄り駅がある町に宿泊したようで、町の観光名所やうら寂れた通りの様子が動画で紹介されていました。旅の宿でもそうで、まったくの山間僻地より中途半端な田舎町の方が妙に旅愁をそそられるところがあります。山間の小さな城下町だったので、地元の人間にはよけい栄枯盛衰のわびしさが偲ばれるのでした。

合併した現在でも人口2万人足らずですが、城下町だったので文化資本は豊かで、昔は著名な日本画家や軍人や学者や作家などを輩出し、私が若い頃勤めていた会社もそうでしたが、町の出身者で東京の上場企業の社長になった人も何人かいます。しかし、今はその面影をさがすことはできません。

年を取ると、あれほど嫌っていた故郷なのに、やたら昔のことが思い出され、望郷の念を抱くようになるものです。しかし、坂口安吾が、「ふるさとに寄する賛歌」で「夢の総量は空気であった」と書いていたように、いつの間にか自分がふるさとから疎外され「エトランゼ」になっていたことを思い知らされるのでした。それはむごいほど哀しくせつない気持です。

脚色されたテレビの番組と違って個人の動画なので、動画から伝わる素朴でゆったりした空気感のようなものが、私の心情によけい染み入るところがありました。ユーチューブでそんな気持になったのも初めてでした。


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防衛費の増額分の財源をめぐって、自民党の税制調査会が紛糾しているというニュースがありました。

2023年4月から2027年3月までの次の「中期防衛力整備計画」では、防衛費が今(2019年4月~2023年3月)の27兆円から43兆円へと大幅に増額される予定で、そのためには毎年あらたに4兆円の財源が必要になると言われています。そのうち3兆円は他の予算を削ったり余剰金を使ったりして賄う予定だけど、1兆円の財源が不足すると言うのです。税制調査会では、その財源をどうするか、増税するかどうかという議論が行われたのでした。

岸田首相が表明したのが、復興特別取得税を充てるという案です。復興特別所得税は、2011年の東日本大震災の復興費用の財源を確保するために創設した特別税で、2013年から2037年までの25年間、個人が払う所得税額の2.1%分を加算するようになっています。岸田首相は、2024年以降に2.1%のうち1%を防衛費に充てて、さらに期間も2037年から20年(14年という説もある)延長するという案をあきらかにしたのでした。

しかし、昨日(14日)開かれた自民党の税制調査会では、この岸田首相の案に対して異論が噴出、結論を今日以降に持ち越したのでした。岸田首相の増税案に対して、強硬に反対しているのは安倍元首相に近いと言われる清話会の議員たちです。彼らが主張しているのは、萩生田政調会長に代表されるように、増税ではなく国債を発行するという案です。

ここでも、旧宏池会+財務省VS清話会という、緊縮財政派と積極財政派の自民党内の対立が表面化しているのでした。そして、その先に、消費税増税を視野に入れた旧宏池会+財務省+立憲民主党など野党の増税翼賛体制が構想されている、というのが鮫島浩氏の見立てですが、たしかに税制調査会でも、岸田首相の復興所得税を充てる案は「財務省の陰謀だ」という声が出たそうです。

一方、税制調査会の幹部たちは、法人税・所得税・たばこ税3税を増税して充てるという、復興所得税を転用した案で大筋合意し、それを叩き台として午後の会合に提案したのですが、やはり異論が噴出して合意に至らなかったということでした。

もっとも、1兆円が不足するというのも、机上の計算にすぎません。政府は3兆円強は歳出改革等で賄うと言ってますが、ホントに歳出改革が予定どおりいくのか保障はありません。

いづれにしても、防衛費の大幅増額は既定路線になっており、現在、議論されているのは財源の問題なのです。防衛費の大幅増額がホントに必要なのか、という手前の議論ではないのです。

政府は、”反撃能力”の保有に伴い、敵基地攻撃の発動要件についても検討に入ったそうです。でも、敵基地攻撃に転換すれば、逆に先制攻撃を含めた反撃の標的になるでしょう。

忘れてはならないのは、防衛費増額がアメリカの要請に基づくものだということです。バイデン大統領が軍需産業とつながりが深いのは有名な話ですが、しかし、アフガンからの惨めな撤退に象徴されるように、アメリカはもはや「世界の警察官」ではなくなったのです。そこでバイデンが新たに編み出したのが”ウクライナ方式”です。今の中国による台湾侵攻の危機は、そのアジア版とも言えるものです。

防衛費(軍事予算)がGDPの2%を超えると、日本はアメリカ・中国につづく軍事大国になるそうですが、バイデン政権は、そうやって日本に世界でトップクラスの軍備増強を求め、大量の武器を売りつけようとしているのです。それが向こう5年間で16兆円増額するという、途方もない整備計画につながっているのでした。

”反撃能力”というのは言葉の綾で、本来は先制攻撃能力と言うべきです。日本が先制攻撃能力を保有すれば、専守防衛という憲法の理念に反するだけでなく、周辺国との間に軍事的緊張を高めることになります。にもかかわらず、「防衛政策の大転換」に踏み切ったのは、アメリカのトマホークを買うためだという話もあり、さもありなんと思いました。まさに対米従属が日本の国是だと言われる所以です。

軍備増強に関連して、次のような記事もありました。

47NEWS
共同通信
防衛省、世論工作の研究に着手 AI活用、SNSで誘導

 防衛省が人工知能(AI)技術を使い、交流サイト(SNS)で国内世論を誘導する工作の研究に着手したことが9日、複数の政府関係者への取材で分かった。インターネットで影響力がある「インフルエンサー」が、無意識のうちに同省に有利な情報を発信するように仕向け、防衛政策への支持を広げたり、有事で特定国への敵対心を醸成、国民の反戦・厭戦の機運を払拭したりするネット空間でのトレンドづくりを目標としている。


下のようなイメージした図もありました。

防衛省世論誘導

前に、防衛省の機関である防衛研究所の研究員が、連日テレビに出演して、ロシアのウクライナ侵攻の解説を行っているのは、戦時の言葉を流布するプロパガンダの怖れがあるのではないか、と書いたことがありましたが、彼ら戦争屋は、まるで火事場泥棒のように、ヤフコメやツイッターやユーチューブを舞台に、AIを利用した挙国一致の世論作りを画策しているのです。文字通り、デジタル・ファシズムを地で行く企みと言っていいでしょう。「中国が」「ロシアが」と言いながら、中国やロシアがやっていることと同じものを志向しているのです。敵・味方を峻別しながら、中身は双面のヤヌスのように同じで、だからいっそう敵・味方を暴力に峻別したがるという、戦争屋=全体主義者にありがちな二枚舌が露呈されているように思えてなりません。

もっともその前に、メディアの「中国が攻めて来る」という報道が功を奏したのか、読売新聞が今月4日に実施した世論調査では、防衛費増額に対して、賛成が51%で反対の42%を上回ったという結果が出ていました。さすが「報道の自由度ランキング」71位(2022年度)の国の面目躍如たるものがあると思いました。

読売新聞オンライン
防衛費増額「賛成」51%、原発延長「賛成」51%…読売世論調査

また、立憲民主党も、軍備増強の流れに掉さすように、近々「反撃能力の一部」を容認する方針だ、という記事もありました。

47NEWS
共同通信
反撃能力保有、立民が一部容認へ 談話案判明、着手段階の一撃否定

 政府が安全保障関連3文書を16日にも閣議決定する際、立憲民主党が発表する談話の原案が判明した。敵の射程圏外から攻撃可能な「スタンド・オフ・ミサイル」について「防衛上容認せざるを得ない」と明記し、反撃能力の保有を一部認めた。


まさに野党ならざる野党の正体見たり枯れ尾花といった感じです。

でも、防衛費(国防費)の増大が国家にとって大きな負担になり、経済が疲弊して国民生活が犠牲を強いられるようになるのは、世の東西を問わず歴史が立証していることです。

厚生労働省が発表した2018年の貧困線(国民の等価可処分所得の中央値の半分の額)は、単身者世帯で約124万円、2人世帯で約175万円、3人世帯で約215万円、4人世帯で約248万円となっています。貧困線以下で生活している人の割合、つまり、相対的貧困率は15.4%です。日本の人口の15.4%は約1800万人です。

一般会計予算の中でいちばん多いのは、社会保障関係費で、40兆円近くあり全体の35%近くを占めていますので、防衛費を捻出するために、社会保障関係費が削減の対象になる可能性は大きいでしょう。前に書いた生活保護の捕捉率を見てもわかるとおり、日本は社会保障後進国なのですが、防衛力強化と引き換えに益々社会保障が後退する恐れがあるのです。

ましてや、日本は韓国にもぬかれ、経済的にアジアでも存在感が薄らいでいく一方の下り坂にある国なのです。戦争になれば、さらに最大の貿易相手国を失うことになるのです。そんな国に戦争する余力があるとはとても思えません。

「中国と戦争するぞ、負けないぞ」と威勢のいいことを言っても、所詮はやせ我慢にすぎないのです。中国が日本に対して、「あまり調子に乗らない方が身のためだぞ」というような、やけに上から目線でものを言うのも、とっくにそれを見透かされているからでしょう。

軍備増強によって、国力が削がれ益々没落していくのが目に見えているのに、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」みたいな同調圧力による「集団極化現象」によって、とうとう軍拡というルビコンの橋を渡るまでエスカレートしていったのでした。いわゆる軽武装経済重点主義で、戦後の経済成長を手に入れたことなどすっかり忘れて、再び戦争の亡霊に取り憑かれているのです。その先に待っているのは、軍拡競争という無間地獄です。

装備は分割で購入するそうなので、装備を増やせばローン代も含めて維持管理費も増えるので、新たな装備を買おうとすれば、さらに予算を積み増ししなければなりません。そうやって経済的な負担が際限もなく膨らんでいくのです。

まだ発売になっていませんが(近日発売)、安倍元首相を「お父さま」と慕うネトウヨが安倍元首相を殺害するという、「安倍晋三元首相暗殺を予言した小説」として話題になった奇書『中野正彦の昭和九十二年』(イースト・プレス)の帯に、「本当の本音を言うと、みんな戦争がやりたいのだ」という惹句がありましたが、防衛費増額に対する国民の反応を見るとそうかもしれないと思うことがあります。

国民の大方の反応は、防衛力強化は必要だけど、増税は嫌だという勝手なものです。もちろん、自分たちが銃を持って戦う気なんてさらさらありません。汚れ仕事は自衛隊にやらせればいいと思っているのです。

しかし、いくら軍事費を増やしても自衛隊だけでは戦争は完遂できないので、いづれ幅広い予備役の制度(つまり徴兵制)が必要になるでしょう。だから、防衛省も世論工作の必要を感じているのだと思います。

仮に百歩譲って軍備増強が抑止力になるという説に立っても、装備だけでは片手落ちでマンパワーが重要であるのは言うまでもありません。現在の日本の兵士数は26万人弱で、世界で24番目の規模です。装備とともに訓練された兵士も増やさなければ、画竜点睛を欠くことになるでしょう。このまま行けば当然、徴兵制の議論も俎上にのぼってくるはずです。

白井聡氏の『永続敗戦論』の中に、家畜人ヤプーの喩えが出ていましたが、たしかに、日本の指導者たちは、アメリカの足下に跪き、恍惚の表情を浮かべながら上目遣いでご主人様を仰ぎ見る家畜人ヤプーのようです。一方、国民は、所詮は他人事とタカを括り、対米従属愛国主義の被虐プレイを観客席から高みの見学をしてやんやの喝采を送るだけです。今回の軍備増強=「防衛政策の大転換」に対しては、そんな世も末のような自滅する日本のイメージしか持てないのです。


追記:(12月16日)
上記の『中野正彦の昭和九十二年』は、発売日前日に「ヘイト本だ」という社内外の懸念の声を受けて急遽発売中止が決定。版元が既に搬入していた本を書店から回収するという事態に陥り、購入が難しくなりました。でも、「ヘイト本」であるかどうかを判断するのは読者でしょう。
2022.12.15 Thu l 社会・メディア l top ▲
国会議事堂
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世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の被害者救済を目的とした「救済法」(法人等による寄付の不当な勧誘の防止等に関する法律)と改正消費者契約法が昨日(10日)、参院本会議で与党などの賛成多数で可決、成立しました。採決では、自民・公明の与党と、立憲民主・日本維新の会・国民民主が賛成し、共産とれいわ新選組は反対したそうです。

でも、前も書いたように、この法律が今国会で成立するのは、与野党の間では合意済みと言われていました。会期末ギリギリに成立したのも筋書きどおりなのかもしれません。

この法律に対しては、宗教二世や被害対策の弁護団などからは、「ザル法」「ほとんど役に立たない」という声がありました。また、野党も当初は同じようなことを言っていました。

実際に今回のような法律では、法の不遡及の原則により、「救済」の対象はあくまでこれから発生する「被害」に対してであって、過去の「被害」は対象外なのです。また、「被害」の認定にしても、法案では「配慮義務」という曖昧な文言が使われているだけです。「禁止」という明確な言葉はないのです。それでは「被害」の認定が難しい「ザル法」で、実効性に乏しいと言われても仕方ないでしょう。

ところが、国会の会期末が近づくと、立憲民主党など野党は、「充分ではないがないよりまし」「一定の抑止効果はある」などと言い出して、このチャンスを逃すと被害者救済は遠のくと言わんばかりの口調に変わったのでした。すると、救済を訴えてきた宗教二世からも、「ザル法」などという言葉は影をひそめ、法案の成立は「奇跡に近い」、尽力してくれた与野党に「感謝する」というような発言が飛び出したのです。私は、その発言にびっくりしました。と同時に、そう言わざるを得ない宗教二世たちの心情を考えると、何だかせつない気持にならざるを得ませんでした。

9日には、宗教二世と全国霊感商法対策弁護士連絡会の弁護士が、参院の消費者問題特別委員会に参考人招致され、意見陳述したのですが、そのときは、国会の会期は延長せず、翌日10日の参院本会議で採決し成立させることが既に決定していたのです。何のことはない、参考人招致は、形式的な儀式にすぎなかったのです。

国会での審議は僅か5日でした。立憲民主党は、みずからの主張と政府与党が提出した法案とは「大きな隔たりがある」と言いながら、会期延長を求めるわけではなく、会期末の成立に合意したのです。

「救済法」には2年後を目処に見直すという付帯事項が入っており、岸田首相も、賛成した野党も、盛んにそれを強調しています。何だか法律が「役に立たない」ことを暗に認めているんじゃないかと思ってしまいます。宗教二世は、「被害者を忘れずに議論を続けてほしい」と言っていましたが、そういった言葉も空しく響くばかりです。

宗教二世たちは、結局、与野党合作の猿芝居に振りまわされただけのような気がしてなりません。彼らの切実な訴えより”国対政治”が優先される、政治の冷酷さをあらためて考えざるを得ないのでした。

ジャーナリストの片岡亮氏は、『紙の爆弾』(1月号)の「旧統一教会と自民党 現在も続く癒着」という記事で、「救済法」の国会論議に関連して、自民党議員の若手秘書の次のような発言を紹介していました。

 自民党の若手秘書は「議員はみんな、公明党がいるから宗教法人法には手をつけられないと口を揃えている」と話す。
「それこそ自公政権自体が政教分離違反ですよね。本来、公明党は統一教会との違いをハッキリ示すべきなのに、ただ規制強化に反対しているのですから、これでは同じ穴のムジナ」
 旧統一教会の問題とは、言ってしまえば、社会的に問題のある団体があった場合、政治がどう対処するのか、ということだ。その方法には大別して「攻めと守りがある」と、同秘書は続ける。
「攻めとは悪質な宗教団体の取り締まりです。統一教会であれば解散で、宗教団体という認定を外すこと。法人格や税優遇を取り消せます。公的な認定がなくなれば、自然と信者の脱会も促せるでしょう。実際、それを提案して、脱会信者の専門サポート体制も作ろうとした人は自民党にもいましたが、大きな反発を受けています。一方、守りは被害者の保護。契約法改正や献金規制で、被害を食い止めること。ただ、あくまで被害があった場合の救済措置なので、被害自体をなくす作業ではありません。いま自民党は教団を繋がっている議員ばかりなので、攻めには反対が多く、守りだけで世間の批判を収めようという流れになっています」
(『紙の爆弾』1月号・片岡亮「旧統一教会と自民党 現在も続く癒着」)


記事のタイトルにあるように、自民党の政治家たちと旧統一教会との関係は今も続いている、と指摘する声も多くあります。政権の中枢に浸透するくらいのズブズブの関係だったのですから、そう簡単に手が切れるわけがないのです。今回の法案の与党側の調整役だったのは、旧統一教会の信者から「家族も同然」と言われ、信者の集まりで「一緒に日本を神様の国にしましょう」と挨拶したあの萩生田光一自民党政調会長でした。文字通り泥棒に縄をわせるようなもので、悪い冗談みたいな話です。

また、片岡氏は、同じ記事で、「ステルス信者」の問題も取り上げていました。「ステルス信者」というのは、言うなれば隠れキリスタンのようなもので、「信者であることを隠して信仰し、特定の政治家を応援」している信者たちのことです。と言うのも、旧統一教会には正式な入信制度がないそうで、そのため、他の教団と違って「組織が非常に曖昧」で、信者数も「不明瞭」なのだとか。報道されているように、関連団体が無数に存在するのもそれ故です。「ステルス信者」は、「彼らが隠密に政治や行政に取り入るための方法」なのですが、今回の騒動で、ステルス、つまり、信者であることを隠す行為がいっそう「加速」されるようになった、と片岡氏は書いていました。カルトは何でもありなので、今までも脱会運動を行っていたのが実は教団寄りの人物だったということもありましたが、今後偽装脱会も多くなるかもしれません。

今の流れから行けば、宗教法人法に基づいて解散命令の請求が行われるのは間違いないでしょう。それと今回の「救済法」の二点セットで、旧統一教会の問題の幕引きがはかられる可能性が大です。実際に、メディアの報道も目立って減っており、彼らの関心もこのニ点に絞られています。

ただ、教団の抵抗で最高裁まで審理が持ち込まれるのは間違いないので、最終的な決定が出るまでかなり時間がかかるでしょう。それまで、「他人ひとの噂も四十九日」のこの国の世論が関心を持ち続けることができるかですが、今のメディアの様子から見てもほとんど期待はできないでしょう。下手すれば、姿かたちを変えて、再び(三度)ゾンビのように復活する可能性だってあるかもしれません。

旧統一教会の問題は、「信教の自由」や「政教分離」のあり方などを根本から問い直すいい機会だったのですが、結局、それらの問題も脇に追いやられたまま、まるで臭いものに蓋をするようにピリオドが打たれようとしているのです。

泥棒に縄をわせるやり方もそうですが、”鶴タブー”をそのままにして旧統一教会の問題を論じること自体、ものごとの本質から目を背けたその場凌ぎの誤魔化しでしかないのです。


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サッカーボール


スペインが、決勝トーナメントの初戦で、PK戦の末モロッコに敗れましたが、モロッコ戦のスペインは日本戦のときと同じでした。スペインは決勝トーナメントを見据えて日本戦で手をぬいた、というような話がありましたが、それは誇大妄想だったのです。そもそもスペインには、そんな“強者の余裕”などはな 、、からなかったのです。あれがスペインの今の力だったのです。

日本のメディアでは、「日本サッカーの歴史が変わった」などと「勝てば官軍」のバカ騒ぎが続いていますが、そんな中で、まるで自画自賛の浮かれた空気に冷水を浴びせるように、セルジオ越後氏が下記のような感想を述べていました。

日刊スポーツ
【セルジオ越後】早い段階からブラボーブラボー…弱いチームが快進撃続けた時の典型的なパターン

もうブラボーって言えなくなったな。早い段階から日本はブラボー、ブラボーと騒ぎすぎた。喜ぶのはいいことだが、日本国内も現地カタールでも、すべてを得たような騒ぎだった。弱いチームが快進撃を続けた時の典型的なパターン。結局、世界の中で日本の立ち位置はまだ低いということだね。決勝トーナメントに入ってからが本当の勝負なのに、その前に満足したのかな。クリスマスの前に騒ぎすぎて、いざクリスマスの時は酔っぱらいすぎて疲れてしまったって感じだな。


攻め手がなく、みんな守り疲れて、スイッチを入れるタイミングでは足が動かなかった。ロングボールを前線に蹴り込んで、何とかしてくれ、と言われても何とかならない。


カウンターに頼るのが弱いチームの常套戦術であるのは、「ニワカ」の私でも知っています。私もたまたま観ていて、思わず膝を叩いたのですが、内田篤人も、クロアチア戦のあとの「報道ステーション」で、選手の声として、次のように伝えていました。

「このスタイルがこの先の日本の方向性を決めるスタイルなのかな。僕たちがやりたいサッカーって何なのかな。これは強いチームに対してしっかり守ってカウンター。それは日本のやりたいことなのかなっていう声も選手の中では聞こえてきました」(ディリースポーツの記事より)


ホントに日本のサッカーは進歩したのか。11月9日の国内組の出発の際は、数十人が見送っただけだったのに、今日は約650人のファンと約190人の報道陣が、成田空港の到着ロビーに出迎えたそうです。こんな安直な手のひら返しの現実を前にして、「日本サッカーの歴史が変わった」と言われても鼻白むしかありません。

終わりよければ全てよしで、森保監督の続投も取り沙汰されていますが、何だかサッカーまでが野球や相撲と同じパラダイス鎖国のスポーツになりつつあるような気がしてなりません。日本では、テストマッチや選手の起用などにスポンサーが関与することが前から指摘され、問題視されていました。日本のサッカーが世界のレベルに近づくためには、まず日本サッカー協会が前時代的な”ボス支配”から脱皮することが必要なのです。そういった改革を求める声も、いつの間にかどこかに飛んで行った感じです。

「勇気をもらった」「元気をもらった」「感動をありがとう」などという、お馴染みの情緒的な言葉によって思考停止に陥り全てをチャラにする没論理的な精算主義は、日本人お得意の精神的な習性とも言えるものですが、あにはからんや、森保監督の「和」を尊ぶ対話路線が「歴史を変えた」みたいな話が出て、この4年間の検証はそれで済まされるような空気さえあります。そうやって全員野球ならぬ”全員サッカー”の日本的美徳が言挙げされ、結局また元の木阿弥になってしまうのかもしれません。

ワールドカップなんて、国内リーグの「おまけ」「お祭り」みたいなものと言う人もいるくらいで、たしかに海外の強豪国のサッカーは個々の選手のパフォーマンスの競演みたいな感じがあります。一方、日本は「和」を重んじる”全員サッカー”で、選手の個性があまり表に出て来ません。「オレが」「オレが」というのは嫌われ、「出る杭は打たれる」のが日本の精神的風土ですが、しかし、(遊びでも実際にサッカーをするとわかりますが)サッカーというのは「オレが」「オレが」のスポーツなのです。そういった精神性もサッカー選手にとって大事な要素であるのはたしかでしょう。たまたまかもしれませんが、今大会で唯一個性が出ていたのは三苫薫くらいです。だから、彼は高い評価を得たのでしょう。

いつまで「日本人の魂」や「日本人の誇り」でサッカーを語るつもりなのか、と言いたくなります。スポーツライターの杉山茂樹氏いわく、「海外にも、適任者はたくさんいるが、こう言っては何だが、そのキャリアを捨て日本代表監督になろうとする人物はけっして多くない」(Web Sportiva)そうなので、外国人監督を招聘するのも大変なのかもしれませんが、子飼いの日本人監督だったら誰がなっても同じだと思います。彼らのサッカーは、丸山眞男が言う「番頭政治」みたいなものです。日本の選手たちがせっかくこれだけ海外のクラブでプレーして、世界レベルのサッカーで揉まれて、それなりのパーフォーマンスを身に付けているにもかかわらず、内田篤人が言うように、自己を犠牲にした守りに徹した上に、ロングボールでカウンターではあまりに芸がなさすぎる、と「ニワカ」は思うのでした。
2022.12.07 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
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自民党へすり寄る立民と国民民主。立憲民主党は、国民民主党や連合に先を越されて焦っているのかもしれません。

野田佳彦のようなゾンビが未だに徘徊している立憲民主党は、国民民主党とどう違うのか、それを説明できる人なんていないでしょう。

浅田彰は、田中康夫との対談で、野田佳彦の安倍追悼演説は「噴飯ものだった」と、次のようにこき下ろしていました。

現代ビジネス
「憂国呆談」第5回 Part1
安倍追悼演説で野田がダメダメだった理由を、改めて明かそう《田中康夫・浅田彰》

浅田 (略)「再びこの議場で、あなたと、言葉と言葉、魂と魂をぶつけ合い、火花散るような真剣勝負を戦いたかった」とか言って自分で感動してたけど、安倍との最後の党首討論では一方的に押しまくられて衆議院解散・総選挙に追い込まれ、結果、安倍自民党に政権を譲り渡しただけ。あの醜態のどこが「言葉と言葉、魂と魂をぶつけ合う真剣勝負」なの?


一方、田中康夫は、「追悼演説はとても素晴らしかった」と礼賛した『週刊朝日』の室井佑月のコラムを、次のようにやり玉に上げていました。

田中 (略)「『勝ちっ放しはないでしょう、安倍さん』という言葉に、微(かす)かに勝てる兆しが見えた気がした。野党というか、野田さんはまだ諦めていない。野党を応援しているあたしも、『よっしゃまだまだこれから』という気分になった。一部、野党の偉い人が、野田さんの演説に対し『とても男性のホモソーシャル的な演説だと思った』といっていたが、足を引っ張るのはやめていただきたい」との文章には絶句したよ。


翼賛体制へと突き進む野党ならざる野党の醜悪は、政党の問題だけではないのです。彼らに随伴する「野党共闘」の市民団体も同じです。

田中のやり玉は続きます。

田中 (略)それにしても、「れいわとかあんなもん野党じゃない」と大宮駅前の街頭演説で絶叫する動画が話題となった枝野幸男は、「総選挙で時限的とは言え『消費税減税』を言ったのは政治的に間違いだった。2度と『減税』は言わない」と自分のYouTubeで平然と“広言”した(略)。
それを山口二郎チルドレンのような存在の千葉商科大学の田中信一郎が、「野党全体に立ち位置と戦略の再考を突き付けた。その意味を各党が受け止められるかどうかで、今後の日本が変わる」と牽強付会(けんきょうふかい)な見出しを付けて朝日新聞の「論座」で、「自民党とは異なる経済認識に基づく、経済政策の選択肢を明確に打ち出す」 「枝野発言は『個人重視・支え合い』の国家方針に拠る」と語るに至っては、イヤハヤだ。


私も、「論座」の田中信一郎氏の投稿を読みましたが、「語るに落ちた」という感想しか持てませんでした。

家庭用電気料金は、NHKの調べでは昨年の秋以降、既に20%上がっているそうですが、さらに電力各社は、来年の1月以降30%以上の値上げを申請しています。政府が支給する「支援金」で、1月から料金が下がると言われていますが、その一方でさらなる値上げも予定されているのです。

さらに、防衛費の増額も私たちの生活に大きくのしかかろうとしています。また、次の2023年4月~2027年3月の「中期防衛力整備計画」では、2019年4月~2023年3月までの27兆円から大幅に増額され、最大43兆円になると言われています。財源については「当面先送り」となっていますが、「国民が広く負担する」消費税増税で賄われるのは既定路線です。所得税や法人税は、あくまでめくらましにすぎません。本音は消費税増税なのです。そのために(翼賛的な増税体制を作るために)、自民党は立民や国民民主を取り込もうとしているのでしょう。

生活必需品を含む物価の高騰もとどまるところを知りません。これでは、弱者はもう「死ね」と言われているようなものです。日本の生活保護の捕捉率(受給資格がある人の中で実際に受給している人の割合)は20%程度で、受給者は人口の1.6%にすぎません。残りの1千万人近い人たちは、生活保護の基準以下の生活で何とか生を繋いでいるのです。

しかも、メディアや世論は、生活保護を「我慢」しているのが偉くて、生活保護を受給するのは「甘え」のように言い、心理的に申請のハードルを高くしているのでした。僅か0.7%程度の不正受給を大々的に報道して、生活保護を受けるのが”罪”であるかのようなイメージさえふりまいているのでした。それが孤独死や自殺などの遠因になっていると言われているのです。メディアや世論の生活保護叩きは、もはや犯罪ださえ言えます。

ちなみに、日弁連の「今、ニッポンの生活保護制度はどうなっているの?」というパンフレットには、次のような各国の比較表が載っていました。ちょっと古い資料ですが、これを見ると、日本が福祉後進国であることがよくわかります(クリックで拡大)。

生活保護捕捉率

この物価高の中で、貧困に喘ぐ人々は今後益々苦境に陥るでしょう。それは“格差”なんていう生易しいものではないのです。文字通り生きるか死ぬかなのです。

日本は30年間給料が上がらず、そのためデフレスパイラルに陥り、”空白の30年”を招いたと言われていましたが、さすがに最近は大企業を中心に賃上げの動きが出ています。でも、それは一部の人の話なのです。賃上げに無縁な人たちにとって、物価高は真綿で首を絞められているようなものです。

国税庁の令和3年(2021年)の「民間給与実態統計調査」によれば、給与所得者の平均は433万円です。その中で、正規(正社員)は508万円、非正規は197万円ですが、正規(正社員)が占める割合は令和2年で僅か37.1%にすぎません。

何度もしつこく言いますが、右か左かではないのです。上か下かなのです。それが今の政治のリアルなのです。“下”を代弁する政党、党派の登場が今こそ待ち望まれているときはないのです。

「世界内戦」の時代は民衆蜂起の時代でもある、と笠井潔は言ったのですが、文字通り「世界内戦」の間隙をぬって、イランや中国では民衆が果敢に立ち上がっているのでした。また、ミャンマーでは、軍事政権に対して、若者たちが銃を持って抵抗しています。他には、モロッコやモンゴルでも、物価高に対して大規模な抗議デモが発生しています。

イランや中国の民衆が「Non」を突き付けているのは、「ヒジャブ」や「ゼロコロナ政策」ですが、しかし、それはきっかけアイコンにすぎません。一見、巨像に蟻が挑むような無謀な戦いのように見えますし、欧米のメディアもそういった見方が一般的でした。日本の”中国通”の識者たちも、習近平政権は、デモが起きたからと言って、共産党のメンツに賭けても政策を変えることあり得ない、としたり顔で言っていました。ところが、イランのイスラム政権も中国の習近平政権も、予想に反して「道徳警察」の廃止やゼロコロナ政策の緩和など、一部の”妥協”を余儀なくされているのでした。まるで肩透かしを食らったような感じですが、それは、独裁者たちがデモの背後にある民衆のネットワークを怖れているからでしょう。中国で立ち上がったのは、習近平が言うように学生たちが中心ですが、しかし、学生の背後にネットを通して一般の民衆が存在することを習近平もわかっているからでしょう。

民衆の離反が瞬く間に広がって行くネットの時代では、私たちが思っている以上に、独裁政権はもろいのかもしれません。暴力装置による恐怖政治も、前の時代ほど効果がないのではないか。ネットを媒介にした民衆の連帯の前では、文字通り張り子の虎にすぎないのではないか。

今のようなグローバルな時代では、海外に出ることが当たり前のようになっています。日本だけでなくアメリカやヨーロッパに留学した学生たちは、ネットを通して中国本土の学生たちとリアルタイムに連帯することも可能になったのです。香港の民主化運動で話題になった、中心のない分散型の抵抗運動「Be Water」もネットの時代だからこそ生まれたスタイルですが、今回の中国の民衆蜂起でも、国の内外を問わずそれが生かされているのでした。

それは、イランも同じです。先日、在日イラン人たちが「イスラム体制打倒」を掲げてデモをしたというニュースがありましたが、イラン人たちが国の根幹であるイスラム教シーア派による神権政治を「否定」するなど、本来あり得ないことです。でも、海外に出たイラン人たちは、さまざまな価値観に触れることで、絶対的価値による”思考停止”を拒否したのです。そうやって拷問や死刑になるのも厭わずに、「自由」を求めて本国で蜂起した同胞に連帯しているのです。それもネットの時代だからです。

厚生労働省の「2019年国民生活基礎調査」によれば、2018年の貧困線は127万円で、日本の相対的貧困率は15.4%と報告されています。1千万人という数字は、決してオーバーではないのです。

イランや中国の人々は、「自由」という言うなれば形而上の問題で蜂起したのですが、日本にあるのは身も蓋もない胃袋の問題です。「起て、飢えたる者よ」というのは、決して過去の話ではないのです。


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日本がスペインを破って決勝トーナメントに進出を決めたことで、日本中が地鳴りが起こるような大騒ぎになっています。メディアの「勝てば官軍」はエスカレートするばかりです。

まるで真珠湾攻撃のあとの大日本帝国のように、国中が戦勝ムードに浮かれているのを見ると、天邪鬼の私は、気色の悪さを覚えてなりません。

私はただの「ニワカ」ですが、もちろん、みながみなサッカーに関心があるわけではないでしょう。サッカーで騒いでいるのは一部と言っていいかもしれません。でも、メディアの手にかかれば、まるで国中が歓喜に沸いているような話になるのです。

また、Jリーグのクラブチームの熱烈なサポーターの中には、代表戦にはまったく興味がないという人間もいるのです。それは、日本だけではなくヨーロッパなども同じで、サポーターの間ではそういったことは半ば常識でさえあるそうです。私の知り合いで、スペインリーグの熱烈なファンがいて、年に何度か現地に応援に行っていましたが、彼も代表戦にはまったく興味がないと言っていました。

だから、彼らは、代表戦のときだけサッカーファンになって騒ぐ人間のことを「ニワカ」と呼んでバカにするのですが、たしかに日頃からスタジアムに足を運んで、地元のチームを応援している人間からすれば、代表戦のときだけユニフォームを着てお祭り騒ぎをしている「ニワカ」たちをバカにしたくなる気持はわからないでもありません。

ところが、そんな代表戦を醒めた目で見ていたサッカー通のサポーターでも、スペインに勝った途端、「こんな日が来るとは思わなかった」「隔世の感がある」なんてツイートするあり様なのでした。これではどっちが「ニワカ」かわからなくなってしまいます。

今回のワールドカップで印象的なのは、ヨーロッパや南米のチームが相対的に力が落ちてきた(ように見える)ということです。

日本戦でも、前半のスペインは、まるで日本をおちょくっているかのような、緊張感のないパス回しに終始していました。巧みなパス回しは「ティキ・タカ」と言われスペインサッカーの特徴だそうですが、その先にあるはずの波状攻撃がほとんどありませんでした。パス回しを披露する曲芸大会ではないのですから、今になればあれは何だったんだと思ってしまいます。後半に立て続けに日本に点を入れられてからのあたふたぶりやおざなりなパスミスも、今までのスペインには見られなかったことです。

スペインは、日本が0対1で負けたコスタリカには7対0で圧勝しているのです。サッカーはそんなものと言えばそうかもしれませんが、日本戦ではコスタリカ戦で見せたような迫力に欠けていたのはたしかでしょう。

メディアが言うように、日本の力がホントにスペインやドイツを打ち負かすほど上がってきたのか。でも、ワールドカップの前までは、日本のサッカーはまったく進化してない、そのためワールドカップも関心が薄い、と散々言われていたのです。それが、今度は手の平を返したようなことを言っているのです。

それに、今のバカ騒ぎを見ていると、コロナ禍もあって、どこのクラブも経営が悪化していることが嘘のようです。今年の3月にはお茶ノ水の本郷通りから入ったところにある日本サッカー協会の自社ビル(JFAビル)が、JFAの財政悪化で三井不動産に売却されることが発表され衝撃を与えました。私は、JFAが渋谷の道玄坂の野村ビルにあった頃から知っていますが(その横にいつも路上駐車していたので)、今調べたらお茶の水に自社ビルを建てて移転したのは1993年だそうです。あれから僅か30年で再び賃貸生活に戻るのです。「ニワカ」たちは、日本のサッカーが置かれている厳しい現実に目を向けることも忘れてはならないでしょう。

交通整理の警察官みたいなメッシに頼るだけのアルゼンチンがサウジに負けたのは、小柳ルミ子と違って私は別に驚きませんでしたが、ポルトガルも韓国に負けたし、ブラジルもカメルーンに、ベルギーもモロッコに、フランスもチュニジアに負けました。ドイツに至っては前回大会に続いてグループリーグ敗退なのです。

決勝トーナメントに進出した16ヶ国のうち、ヨーロッパは半分の8ヶ国を占めて一応面目を保ちましたが、南米はブラジルとアルゼンチンの2ヶ国だけでした。たしかに、サッカーも、ヨーロッパや南米が特出した時代は終わり、世界が拮抗しつつあるのかもしれません。

森保監督は、決勝トーナメント第一戦のクロアチア戦への意気込みを問われて、「日本人の魂を持って、日本人の誇りを持って、日本のために戦うということは絶対的に胸に刻んでいかないといけない」と、まるで戦争中の校長先生の訓辞のようなことを言っていましたが、それを聞いて、私は、この監督の底の浅さを見た気がしました。登山もそうですが、スポーツは戦争とは違うのです。森保監督は、スポーツを戦争と重ねるような貧しい言葉しか持ってないのでないか。

日本の代表メンバー27人のうち国内組は7人にすぎず、あとは海外のクラブに所属しています。多くの選手は、普段は海外でプレーしており、代表戦のときだけジャパンブルーのユニフォームを着て、肩を組んで君が代を歌っているにすぎないのです。

サッカーは偶然の要素が大きいスポーツですが、そうそう偶然が続くとは思えないので、日本のサッカーのレベルが上がったのかもしれませんが、そうだとしても、「日本人の魂」や「日本人の誇り」は関係ないでしょう。日本代表のレベルが上がったのなら、多くの選手が海外のクラブに所属して、世界レベルのサッカーを経験したからです。強調すべき(問われるべき)は、「日本人の魂」や「日本人の誇り」ではなく、海外で培われた(はずの)ひとりひとりの選手のパフォーマンスでしょう。

それにしても、メディアの「勝てば官軍」には、恥ずかしささえ覚えるほどです。ヨーロッパでは、カタール大会に批判的な声が多く、それに抗議するためにパブリックビューイングをとりやめたり、スポーツバーなども応援イベントを中止したりして、今までの大会のような熱気は見られないと言われています。中にはいっさい報道しないという新聞もあるくらいです。ところが、日本のメディアの手にかかれば、それは負けて意気消沈してお通夜のように静まりかえっている、という話になるのです。戦争中の大本営発表か、と言いたくなりました。

ワールドカップの関連施設の建設に従事した同じアジアからの出稼ぎ労働者6500人が、過酷な労働で亡くなった問題などどこ吹く風のようなはしゃぎようです。ブラジルの応援団の男性が、虹が描かれたブラジルの州旗を持ってスタジアムの近くを歩いていたら、カタールの警察に取り囲まれて旗を取り上げられたという出来事もあったそうですが、そんな国でワールドカップが開催されているのです。カタールは、同性愛者は逮捕され、拷問を受けたり死刑にされたりする国なのです。

日本はそういった問題にあまりにも鈍感なのですが、もっとも、日本でも外国人技能実習制度が人権侵害の疑いがあるとして、国連の人種差別撤廃委員会から是正の勧告がなされていますし、レインボーカラーに対しても、LGBTに反対する杉田水脈のような日本会議や旧統一教会系の右派議員から反日の象徴みたいに呪詛されており、カタールと似た部分がないとは言えないのです。

JFA(日本サッカー協会)の田嶋幸三会長は、大会前に、カタールの人権侵害に抗議の声が上がっていることについて、「今この段階でサッカー以外のことでいろいろ話題にするのは好ましくないと思う」「あくまでサッカーに集中すること、差別や人権の問題は当然のごとく協会としていい方向に持っていきたいと思っているが、協会としては今はサッカーに集中するときだと思っている。ほかのチームもそうであってほしい」とコメントしたそうですが、それこそスポーツウォッシング(スポーツでごまかす行為)の見本のようなコメントと言っていいでしょう。ヨーロッパのサッカー協会に比べて、田嶋幸三会長の認識はきわめてお粗末で下等と言わねばなりません。それがまた、日本のメディアの臆面のない「勝てば官軍」を生んでいるのだと思います。

もっとも、前も書きましたが、「勝てば官軍」=ぬけがけ・・・・の思想においては韓国も同じです。ここでも、日本と韓国は同じ穴のムジナと言っていいほどよく似ているのでした。
2022.12.03 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
東京都八王子市の東京都立大南大沢キャンパスの構内で、宮台真司氏が何者かに襲われ、重傷を負うという事件がありました。

報道によれば、事件が起きたのは29日の午後4時15分過ぎで、宮台氏は4限目の講義を終えたあと、次のリモート講義のために、自宅に帰宅しようと駐車場方向に歩いていたときに背後から襲われたそうです。

現在、宮台氏の講義が大学で行われるのは火曜日のみで、犯人は、そういった宮台氏のスケジュールを把握していた可能性があるという、警察の見方を伝えている報道もありました。ただ、大学の構内と言っても、都立大の南大沢キャンパスは、地元民が普段から近道として自由に行き来していたようなところで、実際に犯人も、宮台氏を襲ったあと、植え込みを越えて駅と反対側の住宅街の方へ小走りで逃走したことが近辺のカメラの映像で確認されているそうです。

「宮台真司」という固有名詞を狙ったというより、「人を刺してみたかった」とか「殺してみたかった」というような、カミュの『異邦人』のような動機による事件と考えられなくもないのです。

もし、言論封殺を狙った思想的な背景によるものであれば、「赤報隊事件」や筑波大学の「悪魔の詩訳者殺人事件」のように、”難事件”などと言われ迷宮入りになる可能性はあるでしょう。通り魔や個人的な恨みによる犯罪であれば、早晩、犯人は捕まるような気がします。警察とはそんなものです。

事件後、ヤフコメなどには、遠回しに「宮台はやられて当然」みたいな書き込みが結構見られました。ミャンマー国軍に拘束され、先頃解放された映像作家の久保田徹氏についても、「自己責任」「自業自得」という書き込みがありましたが、もしかしたら、投稿した人間のかなりの部分は重なっているのかもしれません。

ヤフーは、先日、ヤフコメに投稿する際に携帯番号の登録を必須にしたことで、不適切な投稿が目に見えて減ったと自画自賛していましたが、ヤフコメが相変わらず下衆なネット民の痰壺、負の感情のはけ口であることにはいささかも変わりがないのです。水は常に低い方に流れるコメント欄を設置している限り、どんな対策を取っても同じです。不適切投稿の対策というのは、ヤフーの「やってますよ」というアリバイ作りにすぎないのです。

そんな中、公正取引員会が、ネットに記事を配信している新聞やテレビや雑誌などのメディアと、ヤフーやGoogleやLINEなどのポータルサイトやアプリの運営事業者との間で、適切な取り引きが行われているか、実態調査に乗り出すことになった、というニュースがありました。まず国内の新聞社やテレビ局、出版社など300社にアンケート調査を行い、今月7日までの回答を求めているそうです。

杉田水脈議員と同じような「ヘイトスピーチのデパート」(日刊ゲンダイ)と化しているヤフコメの背景に、ニュースをバズらせてページビューを稼ぎ、広告収入を稼ぐというヤフーの方針があるのはあきらかです。不適切な投稿を根絶するにはコメント欄を閉鎖するしかないのですが、ヤフーがコメント欄を閉鎖することは天地がひっくり返っても絶対にあり得ないでしょう。孫正義氏の”拝金思想”がそれを許すはずがないのです。

芦田愛菜が、ネットのCMで、ワイモバだと「5Gは無料です」とか「SIMはそのままで乗り換えできます」(eSIMの場合)とか「余ったデータを翌月に繰り越すことができます」などとアピールしていますが、そんなのは当たり前です。どこの会社でもやっていることです。むしろ、翌月繰り越しなどはワイモバが一番遅かったくらいです。それをあたかもワイモバイルのウリのようにCMで強調するところに、ヤフーという会社の体質がよく表れているように思います。

プラットフォーマーがユーザーに無断でネットの閲覧履歴などを収集し、それを個人の属性と紐づけて利用していることが問題視され、現在は一応、(有無を言わせないかたちで)ユーザーの承諾を得るようになっていますが、その閲覧履歴を自分で削除しようとしても、ヤフーの場合はほとんど不可能です。

Google(chrome)だと一括して削除することが可能ですが、ヤフーの場合は、1回にチェックを入れて削除できるのは30件だけです。

削除できるのは過去1年分のデータですが、たとえば、私の場合、「サイト閲覧履歴」は30万件ありました。全部削除しようと思うと、1件つづチェックを入れて削除する作業を1万回くり返さなければならないのです。「広告クリック履歴」は、6万件でした。こんなユーザーをバカにしたシステムはないでしょう。ヤフーに比べれば、Googleの方がまだしも良心的に思えるほどです。

ヤフコメはTwitterなどのSNSと比べて敷居が低く、その分低劣な投稿が集まりやすいのは事実でしょう。相互批判がないので、かつての2ちゃんねると比べても夜郎自大になりやすく、文字通り克己のない「バカと暇人」の巣窟になっているような気がします。

そもそもコメント欄に巣食う人間たちはただの・・・ユーザーなのか、という問題もあります。カルト宗教の信者たちが巣食っているのではないか、という指摘さえあるくらいです。

ヤフーの担当者が見ているのは、アクセス数だけです。彼らにとっては、アクセス数の多い記事ほどニュースの価値があるのです。彼らは、「もっとアクセスが多くなる記事を並べろ」「もっとバズらせろ」とハッパをかけられて、ニュースサイトを運営しているのです。そうやってニュースをマネタイズすることが仕事なのです。

記事を書いている記者たちは、自分たちが苦労して取材して書いた記事が、こんな扱いを受けていることに何も思わないのだろうかと思います。Yahoo!ニュースでは、記事の配信料もPV(閲覧数)などに基づいて計算されているそうです。記事をバズらせてPVを上げるためには、コメント欄はなくてはならないものです。「便所の落書き」という言葉がありましたが、記者たちが書いた記事は、まるで便所の尻ふきみたいに使われているのです。

一方で、前も書いたように、少しでもPVを稼ぐために、週刊誌やスポーツ新聞は、「便所の落書き」をまとめた”コタツ記事”を量産しています。炎上目的で書いているような”コタツ記事”も多いのです。

最近はさすがに、全国紙の記事にはコメントが投稿できないようになっていますが、ミソもクソも一緒にされることで、ネットの「バカと暇人」にオモチャにされ、いいように愚弄されていることには変わりがありません。ヤフーに記事を提供することで、記事の価値を貶め、その結果、読者離れを招いて、みずから首を絞めていることにどうして気が付かないのかと思います。

ウトロの放火事件のように、ヤフコメの中から英雄気取りの”突破者”が湧いて出ることだって当然あるでしょう。宮台真司氏は、「感情の劣化」ということを盛んに言っていましたが、GoogleがWeb2.0で提唱した「総表現社会」の行き着く先にあったのは、このようなネットで勘違いしたり、勘違いさせられた人間たちの、散々たる「感情の劣化」の光景なのです。しかも、それは、ネット特有の夜郎自大と結びついた、下衆の極みみたいなものになっているのです。


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