週刊東洋経済2023年1月28日号


NHKが4月1日から、テレビの設置後、翌々月の末日までの期限内に受信契約の申し込みをしなかった人間に対して、受信料の2倍の「割増金」を請求できる制度を導入するというニュースがありました。これは、昨年10月に施行された改正放送法に基づくものです。

「割増金」の導入は、現行の受信料制度に対する国民の目が年々厳しくなっている中で、まるで国民の神経を逆なでするような強気の姿勢と言わざるを得ません。

NHKの受信料に対して、特に若者の間で、「強制サブクス」であり、スクランブルをかけて受信料を払った人だけ(NHKを見たい人だけ)解除すればいい、という声が多くあります。

それでなくてもテレビ(地上波)離れが進んでおり、視聴者の志向も地上波からネット動画へと移行しているのです。若者の車離れが言われていますが、テレビ離れはもっと進んでいます。実際、テレビを持ってない若者も多いのです。その流れを受けて、ドン・キホーテは、テレビチューナーを外したネット動画専用のスマートテレビを発売して大ヒットしているのでした。

しかし、NHKの姿勢は、それに真っ向から対決するかのように、現行の受信料制度を何がなんでも守るんだと言わんばかりの「割増金」という強硬姿勢に打って出たのでした。

もちろん、それにお墨付きを与えたのは、NHKの意向を受けて放送法を改正した政治です。そこには、権力監視のジャーナリズムの「独立性」などどこ吹く風の、政治とNHKの持ちつ持たれつの関係が示されているのでした。

与党はもちろんですが、野党の中にも現行の受信料制度に疑義を唱える声は皆無です。前に書きましたが、その結果、NHKの問題をNHK党の専売特許のようにしてしまったのです。昔はNHKの放送に疑問を持つ左派系の不払い運動がありました。しかし、いつの間にか不払い運動がNHK党に簒奪され換骨奪胎されて、理念もくそもない不払いだけに特化した”払いたくない運動”に矮小化されてしまったのでした。上のようなスクランブルの導入を主張しているのも、NHK党だけです。

もっとも、「割増金」制度を導入する背景には、受信料徴収に関するNHKの大きな方針転換が関係しているのです。と言うのも、NHKは、契約や収納代行を外部に委託していた従来のやり方を今年の9月をもって廃止することを決定からです。これで怪しげな勧誘員が自宅を訪れ、ドアに足をはさんでしつこく契約を迫るというようなことはなくなるでしょう。

しかし一方で、テレビ離れによって、受信料収入が2018年の7122億円で頭打ちになり、2019年から減少しているという現実があります。契約件数も2019年に4212万件あったものが、2021年は4155件と減少し、2022年も上半期だけで20万件も減少しているそうです。そのため、2023年度の受信料収入の見込み額も、当初の6690億円から6240億円へと下方修正を余儀なくされているのでした。

一説によれば、NHKは、徴収業務に利用するために、住民基本台帳の転入と転出のデータの提供を求めたそうです。しかし、総務省が拒否したので、割増金や外部委託の廃止に舵を切ったという話があります。

だからと言って、もちろん、今の事態を座視しているわけではありません。NHKは地上波からネットに本格参入しようとしているのです。そして、受信料の支払い対象をテレビ離れした層にも広げようと画策しているのでした。

そういったえげつないNHKの「受信料ビジネス」について、『週刊東洋経済』(2023年1月28日号)が「NHKの正体」と題して特集を組んでいました。特集には、「暴走する『受信料ビジネス』」「『強制サブスク』と化す公共放送のまやかし」というサブタイトルが付けられていました。

もちろん、NHKは放送法によって、本来の業務はテレビ・ラジオと規定されており、本格的にネットに進出するには、放送法の改正が必要です。ただ、既にネット事業に対して、「21年にはそれまで受信料の2.1%としていた上限を事実上引き上げ、上限200億円とすることを総務省が認め」ているのでした。それにより「事業費は177億円(21年度)から、22年度は190億円に増加。23年度は197億円の計画で、この3年で33%増となる見込み」(同上)だそうです。

このように、NHKがネット事業に本格的に参入する地固めが、着々と進んでいるのです。『週刊東洋経済』の記事も次のように書いていました。

 総務省の公共放送ワーキンググループ(WG)委員である、青山学院大学の内山隆教授(経済学)は「受信料をわが国に放送業界とネット映像配信業者の投資と公益のために使えるようにするべきだ。NHKがこういった業界を引っ張っていけるように、受信料制度を変えていく発想が必要ではないか」と話す。
 受信料制度をめぐる現在の最大の論点がネット受信料だ。NHKのネット事業を「補完業務」から「本格業務」に格上げするための業務が総務省で進む。
(同特集「絶対に死守したい受信料収入」)



NHKネット受信料
(同特集「絶対に死守したい受信料収入」より)

上は、NHKが目論む「ネット受信料」の「徴収シナリオ」を図にしたものです。NHKが求めているのが、右端のスマホ所有者から一律に徴収するという案だそうです。

そのために(NHKの意図通りに放送法が改正されるために)、NHKが与野党を含む政治に対していっそう接近するのは目に見えており、言論機関としての「独立性」や「中立性」の問題が今以上に懸念されるのでした。もちろん、NHK党にNHKの「独立性」や「中立性」を問うような視点はありません。それは、八百屋で魚を求めるようなものです。

もうひとつ、NHKと政治の関係を考える上で無視できないのは、NHKの選挙報道です。「開票日、NHKが当選確実を出すまで候補者は万歳しないことが不文律になっている」ほど、政治家はNHKの情報を信頼しているのですが、当然、その情報は理事や政治部記者をとおして、事前に政治家に提供されており、選挙戦略を練る上で欠かせないものになっているのです。

そのために、末端の記者は、選挙期間中は文字通り寝る間を惜しんで取材に走りまわらなければなりません。2013年に31歳の女性記者が、2019年には40代の管理職の男性が過労死したのも、いづれも選挙取材のあとだったそうです。

では、NHKの財政がひっ迫しているかと言えば、まったく逆です。NHKの2022年9月末の連結剰余金残高は5132億円です。それに加えて、金融資産残高が剰余金残高の1.7倍近くに上る8674億円もあるのです。NHKの連結事業キャッシュフローは、東京五輪のような特別な事情を除いて、毎年ほぼ1000億円を超えるレベルを維持しているそうです。

特集では、「NHKの『溜めこみ』が加速している」として、次のように書いていました。

 そしてその半分強が設備投資などに回り、残りは余資となり国債など公共債の運用に回されてきた。その結果として積み上がったのが、7360億円もの有価証券である。これに現預金を加えた金融資産の残高が、冒頭で紹介した数字(引用者註:8674億円)になる。金融資産は、総資産の6割を占めており、このほかに保有不動産の含み益が136億円ある。まるで資産運用をなりわいとしているファンドのようなバランスシートだ。
(伊藤歩「金融資産が急膨張 まるで投資ファンド」)


このような「芸当」を可能にしているのが、番組制作費の削減と公益性を御旗にした非課税の”特権”です。子会社は株式会社なので法人税の納税義務がありますが、NHK本体は、上記のような投資で得た莫大な金融資産を保有していても、いっさい税金がかからないのです。放送法で免除されているからです。

しかも、総工費1700億円を使って、2035年に完成予定の渋谷の放送センターの建て替えが昨年からはじまっているのでした。その費用も既に積立て済みだそうです。

NHKの問題をNHK党の専売特許ではなく、国民の問題として考える必要があるのです。政治に期待できなければ、国民自身がもっと声を上げる必要があるのです。NHKの思い上がった「受信料ビジネス」を支えているのは私たちの受信料なのです。NHKをどうするかという問題を、国民的議論になるように広く提起することが求められているのです。でないと、政治と癒着して半ばブラックボックスと化したNHKの“暴走”を止めることはできないでしょう。このままでは、国民にさらなる負担を求めてくるのは間違いないのです。

しかも、それは受信料の問題だけでなく、私たちの個人情報が勝手放題に使われるという問題にも関わって来るのです。杉並区の住基ネットから漏洩した個人情報が、振り込め詐欺や広域連続強盗事件に使われたのではないかと言われていますが、そこには国民の個人情報を役所が一元的に管理する怖さを示しているのです。NHKは、住民基本台帳の転入と転出のデータの提供を求めたくらいですから、ネット受信料が始まれば、当然そこにも触手を伸ばして来るでしょう。
2023.01.30 Mon l 社会・メディア l top ▲
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(鈴木邦男をぶっとばせ!より)


鈴木邦男氏が亡くなったというニュースがありました。79歳だったそうです。今日は、詩人の天沢退二郎氏の訃報も伝えられました。

私が、鈴木邦男氏の名前を初めて知ったのは、『現代の眼』の対談記事でした。鈴木氏自身も、みずからのブログ「鈴木邦男をぶっとばせ!」で、その記事について書いていました(2010年の記事です)。

鈴木邦男をぶっとばせ!
34年前の『現代の眼』が全ての発端だった!

私もよく覚えていますが、車の免許を取るために自動車教習所に泊まり込んでいたとき(昔はそういった合宿型の教習所があったのです)、寝泊まりする大部屋の片隅で横になって買って来たばかりの『現代の眼』を開いたら、「反共右翼からの脱却」という記事が目に飛び込んで来て、頭をどつかれたような気持になったのでした。鈴木氏のブログによれば、記事が載ったのは1976年の2月号だそうです。

当時は運動は既に衰退したものの、まだ残り火のように”新左翼文化”が幅をきかせていた時代で、ジャンルを問わず、新左翼的な言説で埋められた雑誌が多くありました。その中で、『現代の眼』や『流動』や『新評』や『キネマ旬報』や『噂の真相』の前身の『マスコミ評論』や今の『創』の前身の旧『創』などが、“総会屋雑誌”と呼ばれていました。いづれも発行人が、主に児玉誉士夫系の総会屋だったからです。

当時の言論界の雰囲気について、「アクセスジャーナル」で「田沢竜次の昭和カルチャー甦り」というコラムを連載している田沢竜次氏が、次のように書いていました(記事は2012年です)。

30年前は1982年、この年に何があったかというと、ライターや編集界隈にはピンとくるかも知れない、そうです、総会屋追放の商法改正のあった年。そこで消えていったのが、いわゆる総会屋系の雑誌や新聞、特に『現代の眼』とか『流動』『新評』『日本読書新聞』なんてあたりは、新左翼系の文化人、評論家、活動家、ルポライターが活躍する媒体として賑わっていたのだ。
 面白いのは、革命や反権力を論じる文章の横に、三菱重工や住友生命、三井物産などの広告が載っているんだもん。まあ、おかげでその手の書き手(かつては「売文業者」とか「えんぴつ無頼」なんて言い方もあった)が食えたわけだし、基本的には何を書いてもよかったんだから、アバウトな良い時代だったと言えるかも知れない。

アクセスジャーナル
『田沢竜次の昭和カルチャー甦り』第38回
「総会屋媒体が健在だった30年前」


実は私も、虎ノ門の雑居ビルの中にあった総会屋の事務所でアルバイトをしたことがあります。右翼の評論家の本などを上場企業や役所などに高価な金額で売りつける仕事です。自民党の政治家の名前を出して電話で注文を取ると、一張羅の背広を着たアルバイトの私たちが、風呂敷に包んだ本を持って届けるのでした。行き帰りはタクシーでした。それこそ名だたる一流企業の受付に行って名刺を渡すと、総務課の応接室に通されて、担当者から封筒に入った“本代”を渡されるのでした。

もっとも、私たちはあくまで配達要員で、電話で注文を取るのは、50代くらいの事務所の責任者と70歳を優に越している毎日新聞に勤めていたとかいう老人でした。配達要員のアルバイトは、私と東大を出て就職浪人しているというやや年上の男の二人でした。就職浪人の彼は、朝日新聞を受けて落ちたのだと言っていました。それで、元毎日新聞の老人と、どこどこの社の誰々の文章はいいとか何とか、そんなマニアックな話をよくしていました。

孫文の扁額がかけられた事務所で、そうやって四人で資金集めをしていたのです。資金が集まったら、雑誌を出すんだと言っていました。記事にする予定の対談のテープを聞かされましたが、そこで喋っているのは新左翼系の評論家でした。

売りつける本は右翼の評論集の他に何種類かあり、在庫がなくなると、どこからともなくおっさんが自転車で本を持って来るのでした。「毎度!」と大きな声で言って部屋に入って来る、やけに明るいおっさんでした。

「誰ですか?」と訊いたら、「ああ見えて出版社の社長だよ」と言っていました。会社は飯田橋にあり、「飯田橋から自転車でやって来るんだよ」と言っていましたが、のちにその会社はある雑誌がヒットして自社ビルを建てるほど大きくなっていたことを知るのでした。

上の鈴木氏のブログで書かれていたように、作家の車谷長吉も『現代の眼』の編集部にいて、彼の『贋世捨人』 (文春文庫)というわたくし小説に、当時の編集部の様子がシニカルに描かれています。車谷長吉は、同じ編集部に在籍していた高橋義夫氏が辞めた後釜で入り、席も高橋氏が使っていた席を与えられたのでした。そして、のちに二人とも直木賞を受賞するのです。『贋世捨人』 に詳しく描かれていますが、『現代の眼』の編集部や同誌を発行する現代評論社には、今の仕事を大学教員や文芸評論家などの職を得るまでの腰掛のように考える、新左翼崩れのインテリたちが「吹き溜まり」のように集まっていたのでした。

『贋世捨人』には、『現代の眼』の沖縄特集に関連して、『沖縄ノート』(岩波新書)を書いていた大江健三郎に、「随筆」を依頼するために電話したときの話が出てきます。

(略)いきなり大江氏に電話を掛けた。すると偶然、大江氏自身が電話口に出た。
用件を述べると、
「ぼ、ぼ、僕は新潮社と講談社と、ぶ、ぶ、文藝春秋と岩波書店、それから朝日新聞以外には、げ、げ、原稿を書きません。」
 と言うた。この五社はすべて一流の出版社・新聞社だった。何と言う抜け目のない、思い上がった男だろう、と思うた。現代評論社のような三流出版社は、相手にしないと言う。糞、おのれ、と思うた。


「反共右翼の脱却」を読んでから、私自身も竹中労の「左右を弁別せざる思想」という言葉を口真似するようになりました。鈴木氏が大杉栄や竹中労などアナーキストのことによく言及していたのも、「左右を弁別せざる思想」にシンパシーを抱いていたからでしょう。

『現代の眼』の記事によって、「新右翼」という言葉も生まれたのですが、当然、既成右翼からの反発はすさまじく、真偽は不明ですが、鈴木氏が住んでいたアパートが放火されたという話を聞いたことがあります。左翼も、かつては既成左翼と新左翼は激しく対立して、両者の間にゲバルトもあったのです。

しかし、今はすべてがごっちゃになっており、本来なら、全共闘運動華やかなりし頃に民青でいたのは”黒歴史”と言ってもいいような老人たちまでもが、臆面もなく「学生運動」の自慢話をするようになっているのでした。しかも、「それは新左翼の話だろう」と思わず突っ込みたくなるような「いいとこどり」さえしているのでした。

誤解を怖れずに言えば、対立するというのは決して“悪い”ことではないのです。現在は、対立より分断の時代ですが、それよりよほどマシな気がします。対立には間違いなく身体がありましたが、今の分断には身体性は希薄です。

鈴木邦男氏らの登場は、「新左翼」と「新右翼」がまわりまわって背中合わせになったような時代の走りでもあったと言えるのかもしれません。しかし、それは功罪相半ばするもので、言論においては、左や右だけでなく新も旧もごちゃになり、全てが不毛に帰した感は否めません。その一方で、お互いに丸山眞男が言う「タコツボ」の中に閉じこもり、分断だけが進むという、「左右を弁別せざる思想」とは似ても似つかない、ただ徒に同義反復をくり返すだけの身も蓋もない時代になってしまったのです。

言うなれば、異論や反論をけしかけても、アンチ呼ばわりされレッテルを貼られた挙句、低俗な謀略論を浴びせられて排除パージされる、ユーチューバーをめぐる信者とアンチのようなイメージです。そこには最低限な会話も成り立たない分断があるだけです。宮台真司などもネットから浴びせられる罵言に苛立っていましたが、苛立ってもどうなるものでもないのです。
2023.01.27 Fri l 訃報・死 l top ▲
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(ヌカザス尾根)


私が最近、ネットで「お気に入り」に入れてチェックしているのは、下記のサイトです。

奥多摩尾根歩き
https://www.okutama-one.com/

サイト主は、奥多摩の人が少ない山の、しかもバリエーションルートを使って尾根を歩くという、他人ひととは違う登山スタイルを持つハイカーです。記事によれば、奥多摩に通ううちに顔見知りになった、同じようなデンジャラスなハイカーが他にも何人かいるみたいです。

余談ですが、奥多摩の山域は狭く、電車だと大概奥多摩駅か武蔵五日市駅を利用するので、私も何度か遭遇するうちに顔見知りになった高齢のハイカーがいました。あるときは、行きの電車で会って、帰りの電車でも会ったことがありました。山に詳しいなと思っていたら、のちにその方が登山関係者の間では高名な登山家で、本も出していることを知りました。奥多摩に通っているとそんなこともあるのです。

東京都の最高峰は雲取山で、標高は2017メートルですので、奥多摩には森林限界を越える山はありません。しかし、たとえば、川苔山の標高は1363.3メートルですが、鳩ノ巣駅からのルートだと単純標高差が1000メートルを越えます。埼玉もそうですが、奥多摩も関東平野の端にあるので、登山口の標高はそんなに高く、そのため低山の割には標高差が大きい山が多いのです。当然、急登が多いので、樹林帯の中の急登を息を切らして登らなければならず、「修行」などと言う人もいます。挙句の果てにはツキノワグマの生息地なので、クマの痕跡は至るところにあり、クマの生態に対する基本的な知識は必須です。

そんな奥多摩では、一般のハイカーが登るのは一部の山に限られています。それ以外の山は、東京の後背地にありながらハイカーが少なく、1日歩いても誰にも会わないこともめずらしくありません。

記事の中には、私が知っている尾根も多く出てきますが、しかし、サイト主が登るのはその尾根ではなく、周辺の登山道がない尾根から登って、私たちが歩いている尾根に合流するのでした。登山道の外れにある支尾根や斜面から突然、人が現れるのを想像すると痛快でもあります。

実際に私も、そんなハイカーに遭遇したことがありました。突然、前方の斜面から現れて、「あれっ、こんなところに出て来たのか」とでも言いたげに首をひねっていました。「どうしたんですか?」と訊いたら、「いえ、いえ」と言って笑いながら去って行きました。

そういった登山スタイルにはあこがれますが、しかし、私には、体力的にも技術的にもとても叶わぬ夢です。ただ、人のいない山が好き(ひとり遊びが好き)だという点では共通するものがあり、親近感とともにあこがれの念を覚えてならないのでした。

奥多摩は、上にあげたような特徴から、登山関係者の間では遭難が多いことでも知られています。

ちなみに、2021年の主要各県別の遭難者件数は以下のとおりです。主に警察がまとめていますが、2022年の集計がまだ出揃ってないので、2021年の件数を比較しました。

東京都
遭難件数 157件
遭難者数 195人
死亡・行方不明者 10人

長野県
遭難件数 257件
遭難者数 276人
死亡・行方不明者 47人

山梨県
遭難件数 116件
遭難者数 134人
死亡・行方不明者 12人

富山県
遭難件数 104件
遭難者数 110人
死亡・行方不明者 7人

また、『山と渓谷』の記事によれば、奥多摩では、他県に比べて若いハイカーの遭難が多いのも特徴だそうです。東京都の年齢別の割合は、以下のようになっています。

2021年
10代 20.7%※
20代 13.0%
30代 11.7%
40代 10.4%
50代 9.1%
60代 16.9%
70代 15.6%
※10代が多いのは2021年に小学生の集団遭難があったためです。
(参照:『山と渓谷』2023年2月号・「奥多摩遭難マップ21」)


このように東京都(奥多摩)の遭難件数は、南アルプスや八ヶ岳や奥秩父の山域を擁する山梨県より全然多いのです。先に書いたように、奥多摩は一般のハイカーが登る山は数えるほどしかありません。そう考えると、遭難の多さは“異常”と言ってもいいくらいです。

ただ、『山と渓谷』の「遭難マップ」などを見ると、大山がいい例ですが、初心者向けと言われる山での遭難が多く、若いハイカーの遭難が多いというもうひとつの特徴と合わせると、登山歴の浅いハイカーが初心者向けの山で遭難するケースが多いことがわかります。初心者向けの山でも、疲れて足がガクガクしていると、道迷いや滑落が生じやすい箇所があったりするのです。「あんなのたいしたことないよ、初心者向けだよ」というネットの書き込みを信じて登ると、思いっきり裏切られた気持になる、それが奥多摩の山なのです。

奥多摩は低山の集まりなので、尾根歩きには持ってこいです。しかし、上記のサイトを見ればわかるとおり、難度は高く、文字通りデンジャラスな山歩きと言えます。

一方で、奥多摩は、山で暮らしを営んでいた人々の痕跡を至るところで見ることができる、生活に隣接した山という側面もあります。「奥多摩尾根歩き」でも、林業に従事する人たちが利用していた作業道や小屋跡などがよく出てきますが、「こんなところに」と思うような山の奥にわさび田やわさび小屋の跡があったりします。また、東京都の水源でもあるので、水源巡視路もいろんなところに通っています。そういった道を見ると、山で仕事をしていた人たちは、私たちの登山とほとんど変わらない山歩きを日常的に行っていたことがわかるのでした。

山田哲哉氏は、小学生の頃から50数年奥多摩に通っている山岳ガイドですが、おなじみの『奥多摩 山、谷、峠、そして人』(山と渓谷社)で、奥多摩について、次のように書いていました。

 奥多摩は、より高く、より激しい山へ登るための練習場所でなければ、訓練の山でもない。この一見、地味な山塊は、夢や希望を与えてくれる。人間が本来あるべき姿、自然と格闘するからこそ共生する、人が人らしく生きる術や、不思議な魅力がギッシリと詰まった場所なのだ。


同時に、「自分が暮らす東京の片隅に、こんなに美しくワクワクと人を魅了する場所があるとは、その場に立つまで信じられなかった」として、次のようにも書いていました。

 どれだけ多くの人が、この奥多摩で山登りのすばらしさ、楽しさを知ったことだろう。僕が子どもから少年へと成長したように、たとえば退職して時間のできた初老の男が、ちょっとした好奇心で登り始めた山のおかげで、今までの自分とは違う「登山者」というアイデンティティをもつ人へと生まれ変わることもある。山に登るために生活習慣を改め、時には筋トレをし、つまり「昨日までの自分とは違う何者か」になるため、意識的に生きるはつらつとした人生を獲得した人もいる。それらの人々にとっての「最初の山」は、きっと多くが奥多摩だったはずだ。


山田氏が書いているように、「奥多摩の山々には無数の楽しみ方があり、訪れた者に毎回、必ず新たな発見をもたらしてくれる」のです。そういった思い入れを誘うような魅力があります。

また、これは既出ですが、田部重治は、100年前に書かれた「高山趣味と低山趣味」 (ヤマケイ文庫『山と渓谷 田部重治選集』所収)の中で、奥多摩や奥秩父などの山に登るハイカーについて、次のように書いていました。

 私は特に、都会生活の忙しい間から、一日二日のひまをぬすんで、附近の五、六千尺(引用者注:1尺=約30cm)の山に登攀を試みる人々に敬意を表する。これらの人々の都会附近の山に対する研究は、微に入り細を究め、一つの岩にも樹にも、自然美の体現を認め、伝説をもききもらすことなく、そうすることにより彼等は大自然の動きを認め人間の足跡をとらえるように努力している。私はその意味に於て、彼らの真剣さを認め、ある点に於て彼らに追従せんことを浴している。


ネットの時代になり、コンプラなるものを水戸黄門の印籠みたいに振りかざす、反知性主義的な風潮が蔓延していますが、それは登山も例外ではありません。コロナ禍で登山の自粛を呼びかけた山岳会や一部の「登山者」が、世の風潮に迎合して”遭難者叩き”のお先棒を担いでいる腹立たしい現実さえあります(そのくせ金集めのために、登山道を荒らすトレランの大会を主催したりしているのです)。

そんな中で、田部重治が言う日本の伝統的登山に連なる「静観派」登山の系譜は、デンジャラスな尾根歩きというかたちで今も受け継がれていると言っていいのかもしれません。


関連記事:
田部重治「高山趣味と低山趣味」
2023.01.25 Wed l l top ▲
グレイスレス


最近は芥川賞にもまったく興味がなかったので知らなかったのですが、鈴木涼美が最新作の「グレイスレス」で芥川賞の候補になっていたみたいです。それで『文學界』の2022年11月号に載っていた同作を読みました。

私は、このブログでも書いていますが、鈴木涼美が最初に書いた『身体を売ったらサヨウナラ』を読んで、まずその疾走感のある文章に「一発パンチを食らったような感覚」になりました。再掲ですが、『身体を売ったらサヨウナラ』は、次のような文章ではじまっています。

 広いお家に広い庭、愛情と栄養満点のご飯、愛に疑問を抱かせない家族、静かな午後、夕食後の文化的な会話、リビングにならぶ画集と百科事典、素敵で成功した大人たちとの交流、唇を噛まずに済む経済的な余裕、日舞と乗馬とそこそこのピアノ、学校の授業に不自由しない脳みそ、ぬいぐるみにシルバニアのお家にバービー人形、毎シーズンの海外旅行、世界各国の絵本に質のいい音楽、バレエに芝居にオペラ鑑賞、最新の家電に女らしい肉体、私立の小学校の制服、帰国子女アイデンティティ、特殊なコンプレックスなしでいきられるカオ、そんなのは全部、生まれて3秒でもう持っていた。
 シャンパンにシャネルに洒落たレストラン、くいこみ気味の下着とそれに興奮するオトコ、慶應ブランドに東大ブランドに大企業ブランド、ギャル雑誌の街角スナップ、キャバクラのナンバーワン、カルティエのネックレスとエルメスの時計、小脇に抱えるボードリヤール、別れるのが面倒なほど惚れてくる彼氏、やる気のない昼に会える女友達、クラブのインビテーション・カード、好きなことができる週末、Fカップの胸、誰にも干渉されないマンションの一室、一晩30万円のお酒が飲める体質、文句なしの年収のオトコとの合コン・デート、プーケット旅行、高い服を着る自由と着ない自由。それも全部、20代までには手に入れた。
(略)
 でも、全然満たされていない。ワタシはこんなところでは終われないの。1億円のダイヤとか持ってないし、マリリン・モンローとか綾瀬はるかより全然ブスだし、素因数分解とかぶっちゃけよくわかんないし、二重あごで足は太いしむだ毛も生えてくる。
 ワタシたちは、思想だけで熱くなれるほど古くも、合理性だけで安らげるほど新しくもない。狂っていることがファッションになるような世代にも、社会貢献がステータスになるような世代にも生まれおちなかった。それなりに冷めてそれなりにロマンチックで、意味も欲しいけど無意味も欲しかった。カンバセーション自体を目的化する親たちの話を聞き流し、何でも相対化したがる妹たちに頭を抱える。
 何がワタシたちを救ってくれるんだろう、と時々思う。


あれから8年。彼女が小説を書いているのは知っていましたが、私は、まだ読んでいませんでした。ちなみに、「グレイスレス」は二作目の創作です。

ブログでも書きましたが、鈴木いづみを彷彿とするような文章なので、さぞや小説もと思いましたが、しかし、小説の文体はやや異なり、鈴木いづみのようなアンニュイな感じはありませんでした。『身体を売ったらサヨウナラ』に比べると小説向きに(?)抑制されたものになっており、宮台真司の言葉を借りれば「叙事的」です。やはり、鈴木いづみの文体は、あの時代が生んだものだということをあらためて思わされたのでした。

AV業界でフリーの化粧師(メイクアップアーティスト)として働く主人公。彼女は、鎌倉の古い洋館に祖母と二人で暮らししています。

小説はAVの撮影現場で遭遇する女たちとの刹那的な関りと、鎌倉の家を通した家族との関わりの二つの物語が同時進行していきます。それは刹那と宿命の対照的な関りと言ってもいいものです。しかし、それらを見る主人公の目は、如何にも今どきな感じで、どこか突き放したような冷めた感じがあります。AV業界をAV女優ではなく、化粧師の目を通して描いているというのもそうでしょう。

AVの現場での仕事は、その役柄に応じて映像に見栄えるように化粧を施すだけではありません。AV女優の顔面や頭髪に放出された精液を落とす作業もあります。しかし、主人公には嫌悪感など微塵もありません。むしろ、その仕事に職人的な誇りさえ持っているかのようです。AV業界での化粧師という仕事に、みずからのレーゾンデートルを見出しているようにさえ見えるのでした。

鎌倉の洋館は、父方の祖父が住んでいた家で、両親が離婚する際に母親が父親から譲り受けたものです。ところが、現在、両親はイギリスで元の鞘に収まったような生活をしているのでした。そこには、上野千鶴子が言った「みじめな父親に仕えるいらだつ母親」も、「母親のようになるしかない」という「不機嫌な娘」も、もはや存在しないのでした。

母親も祖母も自由奔放に生きて来たような人物です。その影響を受けているはずの主人公は、しかし、彼女たちの生き方とは一線を引いているように見えます。鎌倉の洋館も、祖母は一階で暮らし、主人公は二階で暮らしているのですが、祖母は二階に上がって来ることはないのでした。

小説の最後に仕事を「やめる」ような場面があるのですが、しかし、主人公は、イギリスに住む母親との電話で、「いや、また気が向いたらいつでもやるよ」と答えるのでした。「やめる」に至った経緯も含めて、そこに、この小説のエッセンスが含まれているように思いました。

私は意地が悪い人間なので、もってまわったような稚拙な描写の部分にマーカーを引いて悪口を言ってやろうと思っていたのですが、最後まで読み終えたら、そんな意地の悪さも消えていました。久しぶりに小説を読みましたが、「やっぱり、小説っていいなあ」と思えたのでした。

小説の言葉は、私たちの心の襞に沁み込んで来るのです。私は、同時にノーム・チョムスキーの『壊れゆく世界のしるべ』(NHK出版新書)という本を読んでいたのですが、インタビューをまとめた本で、しかも翻訳されているということもあるのでしょうが、チョムスキーの言葉がひどく平板なものに思えたくらいです。

偉そうに言えば、『身体を売ったらサヨウナラ』の鈴木涼美は、読者の期待を裏切ることなく見事にホンモノの小説家になっていたのです。山に登るとき、きつくて「心が折れそうになる」と言いますが、私自身、最近は生きていくのに心が折れそうになっていました。ありきたりな言い方ですが、なんだか生きていく勇気を与えてくれるような小説だと思いました。いい小説を読むと、そんな救われたような気持になるのです。この小説にも、孤独と死という人生の永遠のテーマが、副旋律のように奏でられているのでした。


関連記事:
『身体を売ったらサヨウナラ』
ふたつの世界
2023.01.22 Sun l 本・文芸 l top ▲
週刊ダイヤモンド2023年1月21日号


時事通信が13日~16日に実施した1月の世論調査で、立憲民主党の支持率が前回(12月)の5.5%から2.5%に下落したと伝えられています。

時事通信ニュース
内閣支持最低26.5%=4カ月連続で「危険水域」―立民も下落・時事世論調査

ちなみに、各党の支持率は以下のとおりです。

自民党 24.6%(1.8増)
維新 3.6%(0.2減)
公明党 3.4%(0.3減)
立憲民主 2.5%(3.0減)
共産党 1.8%
国民民主 1.5%
れいわ 0.7%
参政党 0.7%
NHK党 0.4%
社民党 0.1%
支持政党なし 58.7%

このように立憲民主党の支持率だけが際立って落ちています。5.5%の支持率が半分以下の2.5%に落ちているのですから、すさまじい下落率と言えるでしょう。立憲民主党は、支持率においても、もはや野党第一党とは言えないほど凋落しているのでした。

維新との連携がこのような支持離れをもたらすのはわかっていたはずです。にもかかわらず、連合などの右バネがはたらいたのか、立憲民主党はみずからのバーゲンセールに舵を切ったのでした。泉健太代表が獅子身中の虫であるのは誰が見てもあきらかですが、しかし、党内にはそういった危機感さえ不在のようです。それも驚くばかりです。

で、立憲民主党が片思いする維新ですが、昨日、次のようなニュースがありました。

ytv news(読売テレビ)
維新・吉村代表 自民・茂木幹事長と会談

 泉大津市内の飲食店で約2時間にわたって行われた会談では、両党が推進する憲法改正をめぐり、反対する野党と議論をどのように進めるか意見を交わしたほか、維新が重視する国会改革についても協力していくことで一致したということです。


私は、「立憲民主党が野党第一党である不幸」ということを常々言ってきました。立憲民主党は野党ですらないと。維新との連携の先には、連合と手を携えて自民党にすり寄る立憲民主党の本音が隠されているように思えてなりません。

一方で、維新との連携を受けて、立憲民主党にはほとほと愛想が尽きた、というような声がSNSなどに飛び交っていますが、私はそういった声に対しても、匙を投げるときに匙を投げなくて、今更何を言っているんだ、という気持しかありません。

立憲民主党のテイタラクは、同時に、立憲民主党に随伴してきた左派リベラルのテイタラクでもあります。今更「立憲民主は終わった」はないでしょう。

フランスでは、年金開始年齢の引き上げをめぐって、労働総同盟(CGT)などの呼びかけで大規模なストが行われているそうです。今の日本では、想像だにできない話です。

朝日新聞デジタル
「64歳からの年金受給は遅すぎ」 フランスで改革反対の大規模スト

フランスの年金制度は、政府の改革案でも、最低支給額が約1200ユーロ(約17万円)で、支給開始年齢が64歳と、日本の年金と比較すると夢のような好条件です。それでもこれほどの激しい反発を招いているのです。

前から何度も言っているように、ヨーロッパやアメリカの左派には、60年代の新左翼運動のDNAが引き継がれています。しかし、日本では、「内ゲバ」や「連合赤軍事件」などもあって、新左翼は「過激派」(最近で言えば「限界系」)のひと言で総否定されています。そのため、ソンビのような”革新幻想”に未だに憑りつかれた、トンチンカンな左派リベラルを延命させることになっているのでしょう。

『週刊ダイヤモンド』の今週号(1/21号)は、「超階級社会 貧困ニッポンの断末魔」という、もはや恒例とも言える特集を組んでいましたが、その中に下のような図がありました(クリックで拡大可)。

超階級社会2
(『週刊ダイヤモンド』2023年1月21日号より)

特集では、「もはや、日本は経済大国ではなく、貧困大国に成り下がってしまった」と書いていました。

 中国、シンガポール、オマーン ─── 都心の超高級タワーマンションの上層階に居を構えるのは、実はこうした国の人々だ。もちろん、10億円を超える高級物件を所有する日本人もいるが、彼らはごくごく限られた「上級国民」。平均的な日本人にとって、雲上人といえる存在だ。
 もっとも平均的な日本人が「真ん中」というのは、幻想にすぎない。かっては存在した分厚い中間層は総崩れとなり、格差が急拡大。日本は”一億総下流社会“へと変貎を遂げた。そして新型コロナウイルスの感染拡大やインフレが引金となって、拡大した格差が完全に固定化する「超・階級社会」を迎えようとしている。

  超・階級社会を招くのは、「低成長」「低賃金」「弱過ぎる円」「貿易赤字の常態化」の四重苦だ。


2012年末からはじまった第2次安倍政権が提唱したアベノミクス。それに伴う日本銀行の「異次元の大規模金融緩和」、つまり、「弱い円」への誘導がこれに輪をかけたのでした。

「日本売り」「買い負け」が常態化したのです。今、都心のマンションが異常な高値になっていますが、それは不動産市場が活況を呈してきたというような単純な話ではなく、都心のマンションが海外の富裕層に買い漁られているからです。不動産会社も、日本人客より高くても売れる外国人客にシフトしているのです。そのため、一部の不動産価格がメチャクチャになっているのです。

もっとも、私も以前、都心の高級マンションの上層階や角部屋などの”いい部屋”は中国人などの外国人に買われているという、不動産関係の仕事をしている知人の話をしたことがありますが、それは最近の話ではなく、アベノミクスの円安誘導によってはじまった現象でした。ただ、最近の急激な円安によって価格が急上昇したので、特に目に付くようになっただけです。

 アベノミクスの厳しい現実を突き付けたのは、野村総合研究所が年に実施したアンケート調査に基づく推計だ。上級国民に当たる準富裕層以上は資産を増やした一方で、中級国民、下級国民であるアッパーマス層、マス層は資産を減らした。富める者はより富み、貧しい者はより貧しくなったのだ。


しかし、アベノミクスの負の遺産というのは一面にすぎません。その背後には、資本主義の死に至る病=矛盾が広がっているのです。

折しも今日、東京電力が、来週にも家庭向けの電気料金を3割程度引き上げる旨、経済産業省に申請する方針だというニュースがありました。私たちにとっては、もはや恐怖でしかない今の資源高&物価高が、臨界点に達した資本主義の矛盾をこれでもかと言わんばかりに示しているのです。

これもくり返し言っていることですが、今求められているのは、右か左かではなく上か下かの政治です。階級的な視点を入れなければ、現実は見えて来ないのです。好むと好まざるとにかかわらず、階級闘争こそがもっともリアルな政治的テーマなのです。でも、その階級闘争を担う下に依拠する政党がない。だから、デモもストもないおめでたい国になってしまったのでした。


関連記事:
立憲民主党への弔辞
『新・日本の階級社会』
2023.01.20 Fri l 社会・メディア l top ▲
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(public domain)


昨日(18日)、YouTubeに関して、「ディリー新潮」に興味深い記事が出ていました。

Yahoo!ニュース
ディリー新潮
人気ユーチューバーの広告収入が激減 専門家は「今年は例外なく全員が“解雇”状態に」

ディリー新潮の記事は、巷の一部でささやかれていたYouTubeの“苦境”(というか、まだ”路線変更”のレベルですが)をあきらかにしたものと言えるでしょう。

YouTubeの“苦境”を端的に表しているのが、ユーチューバーたちです。再生回数が落ちたことによって、Googleからの広告料の配当が減少し、中には「ユーチューバー・オワコン説」さえ出ているあり様なのでした。

YouTubeが“苦境”に陥った要因は、相次ぐライバルの出現です。

記事では、ITジャーナリストの井上トシユキ氏の次のような指摘を伝えていました。

「『1日に何時間、ネットの動画を視聴しているのか』について、複数の調査結果が発表されています。それによると、世界平均は1日に1時間から3時間だそうです。2005年に誕生したYouTubeは、長年この時間を独占してきました。ところが近年、強力なライバルが登場し、視聴時間を巡って激しい争奪戦が繰り広げられるようになりました」


「『1日に最大3時間』という視聴時間を巡って、YouTube、TikTok、Netflix、Amazon Prime Video、Huluといった企業が激しく争っています。これまでYouTubeはブルーオーシャン(競争のない未開拓市場)のメリットを存分に享受してきました。ところが突然、レッドオーシャン(競争の激しい市場)に叩き込まれてしまったのです」


その結果、YouTubeは広告収益の鈍化に見舞われたのでした。動画の質の低下に合わせて、大手企業の広告の撤退が相次ぎ、「怪しげな美容商品や陰謀史観を主張する書籍、借金を合法的に踏み倒す方法──などなど、眉をひそめたくなるような広告が目立つ」ようになったのでした。それで、益々炎上系や陰謀史観やヘイトな動画ばかりが目立つようになるという悪循環に陥っているのです。

ただ、もともとYouTubeはそういった怪しげな動画投稿サイトでした。それをGoogleが買収して、現在のようなシステムに作り替えたにすぎないのです。違法動画や炎上系や陰謀史観やヘイト動画は、YouTubeのお家芸のようなものです。

YouTubeは、「“打倒TikTok”、“打倒Netflix、Amazon Prime”が急務」となっており、ユーチューバーに対して、「『ライバルの3社から視聴者を取り戻すような動画を作ってくれれば改めて厚遇するし、そうでなければ辞めてもらう』というメッセージを発した」(井上氏)のだと言います。

とりわけ、YouTubeが主敵としているのはTikTokです。そして、その切り札としているのがYouTubeショートだとか。しかし、TikTokやYouTubeショートも、既に炎上系やいじめの動画が目立つようになっています。

記事は、最後に次のような言葉で結んでいました。

「今年、YouTubeは荒療治を断行するようです。荒療治なので、ユーチューバーにきめ細やかなケアを行う余裕はありません。トップクラスのユーチューバーといえども、一度は“解雇”の状態にする。その上で『自分たちは新しいルールを提示する。それに則って動画を配信するかどうか決めろ』と要求してくると考えられます」(同・井上氏)

 もともと「ユーチューバーでは食えない」という傾向が指摘されてきたが、2023年は一層、厳しい年になりそうだ。


ユーチューバーにとっていちばんいい時代は2017年頃だったそうですが、たしかに登山系ユーチューバーが登場したのもその頃でした。まるで雨後の筍のように、いろんなジャンルでユーチューバーが出て来たのでした。

あれから僅か5年。ユーチューバーをとりまく環境は大きく変わろうとしているのです。それは、YouTubeがレッドオーシャンに「叩きこまれた」だけではありません。芸能人が次々と参入してきたことも、ユーチューバーにとって”大きな脅威”となっています。視聴時間をめぐって、さらにYouTubeの中での奪い合いも熾烈になってきたのです。

もとより、ネットというのはそういうものでしょう。TikTokの”我が世の春”も、いつまで続くかわかりません。

しかし、多くのユーチューバーは、放置されて水膨れした登録者数や、「信者」とヤユされる常連視聴者のお追従コメントに勘違いして、例えは古いですが、現実から目をそむけ「サンクコストの呪縛」に囚われたままのような気がします。それはTwitterのユーザーなども同じです。オレにはこれだけ登録者=シンパがいるなんて、トンマな幻想に浸っているのかもしれません。

これも何度も言っていますが、Twitterの「言論の自由」にしろ、YouTubeの「広告収入」にしろ、単に一私企業に担保されたものにすぎないのです。そんなものに「公共性」を求めるのはお門違いで、企業の都合でいくらでも変わるのは当然なのです。
2023.01.19 Thu l ネット l top ▲
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たまたまネットをチェックしていたら、最近、元TBSアナウンサーの国山ハセンの転職先として話題になったPIVOTのYouTubeチャンネルで、宮台真司氏とYAMAPの春山慶彦社長が3回に渡って対談しているのが目に止まりました。

YouTube
PIVOT公式チャンネル
【宮台真司がシンクロした起業家】登山アプリYAMAP創業者/日本の起業家では珍しい身体性の持ち主/イヌイットとクジラ漁の経験/ビジネスパーソンに必須な「自然観」とは
https://www.youtube.com/watch?v=89cIyZX2Ch8

【宮台真司「現代人は身体を使え」】自然は単なる“癒やし”ではない/流域で生命圏を作り出す/キャンプの本質を考える/思考を研ぎ澄ませたい時にこそ山に行く【YAMAP 春山慶彦CEO】
https://www.youtube.com/watch?v=u3ESOfgfh0k

【宮台真司「仲間を誘惑せよ」】NISAなどの投資教育はインチキ/生き方を変えた人が資本主義にコミットせよ、そして少しずつ仲間を誘え【YAMAP 春山慶彦CEO 最終回】
https://www.youtube.com/watch?v=aKbyG-oxk2Y&t=0s

PIVOTでは本田圭佑がメインのように扱われ、企業の経営や投資に関して、独りよがりな付け焼刃の知識を開陳していますが、PIVOTは本田圭佑を推しているのかと思いました。

他に落合陽一や成田悠輔が出ている動画を観ましたが、最後まで観る気になりませんでした。

余談ですが、私は、成田悠輔の『22世紀の民主主義』を読みはじめたものの、途中で投げ出してしまいました。

文章は非常に優しく書かれていましたが、論理の前提になっているデータが極めて恣意的なもので、牽強付会にもほどがあると思いました。現状認識も粗雑で、コロナ禍のパンデミックを唯一くぐり抜けたのが権威主義国家の中国だと断定していましたが、今の状況を見ればとんだ早とちりだということがわかります。

権威主義に比べると民主主義はシステムが非効率なので、権威主義国家より民主主義国家の方が経済成長が鈍化している(だからAIでブラッシュアップしなければならない)、という主張にしても、それはキャッチアップする国とされる国の違いにすぎないことくらい、少しでも考えればわかるはずです。どこが「天才」なんだと思いました。

PIVOTと宮台真司氏の関わりも不思議ですが、出演者の顔ぶれをみると、国山ハセンは遠からずみずからの「決断」を後悔することになるような気がします。

宮台真司氏と春山慶彦氏の対談の肝は、ひと言で言えば、”身体性の復権”ということです。それは登山をしている人間であれば腑に落ちる話です。

システムに依存するのでなく、感情や感性といった身体感覚を取り戻すことが大事だと言います。テクノロジーがめざしているのは「身体性の自動化」であって、であるがゆえに感情や感覚の能力を失う(奪われる)ことになるというのも、わかりすぎるくらいわかりやすい話でしょう。

春山氏は、東日本大震災の原発事故がきっかけで、YAMAPを発想したと言っていました。電気が止まると、トイレも使えないような脆弱な都市システムの中に生きていることに気付かされた、と言っていましたが、しかし、それは皮相的な見方だと思いました。

都市で暮らすには、まず電気代を払えるだけの収入が必要です。電気代を払うお金がなければ、システムを享受することもできないのです。資本主義というのは、そういう社会です。その根本のところを飛ばして脆弱なシステムと言われても鼻白むしかありません。

しかも、電気代を払うことができる豊かさや平等も、もはや前提にすらならないような時代に私たちは生きているのです。システムの脆弱さを言うなら、そういった貧国や格差の現実をどうするかというのも大きな課題のはずです。

春山氏は、今の高度なテクノロジーに囲まれた社会では、逆に技術を使わないという「英知」が必要だとも言っていました。そういった倫理観や哲学や自然観が求められているのだと。

私は、登山アプリは「スーパー地形」を使っています。YAMAPやヤマレコを使っていた時期もありましたが、「スーパー地形」に変えました。

どうしてかと言えば、YAMAPやヤマレコの地図上のポイントをクリックするとルートが自動的に設定できる便利な(!)システムが嫌だったからです。それと、あの自己顕示の塊のような山行記録が鼻もちならなかったということもあります。

「スーパー地形」の場合、ルートは設定されていませんので、紙地図と睨み合いながら自分で描いていかなければなりません。ルート上の情報やポイントなども自分で設定しなければなりません。言うなれば、自分で登山用の地図を作るような作業が必要です。それは非常に面倒くさい作業でもあります。しかし、登山において、そういった作業も大事なことなのです。何より紙地図の重要性も再認識させられますし、山行には紙地図とコンパスを携行するのが必須になります。想像する楽しみだけでなく、山に登るリスクや不安を知ることにもなるのです。

身も蓋もないないことを言えば、”集合知”なる他人のベタな体験(の集積)に導かれて山に登って、何が楽しいんだろうと思います。未知に対する不安があるから楽しみもあるし、危険リスクに対する怖れがあるから喜びもあるのです。

YAMAPやヤマレコにこそ、「身体性の自動化」につながるような反動的な技術テックが含まれていると言わざるを得ません。文字通り本来の登山とは真逆な「安全、安心、便利、快適」の幻想をふりまく、「歩かされる」だけのアプリのように思えてなりません。道迷いのリスクを減らすと言いますが、登山に道迷いのリスクがあるのは当たり前です。そのリスクを、アプリではなく自分の知識や経験や感覚で回避するのが登山でしょう。アプリで「歩かされる」だけでは、危険を回避するスキルはいつまで経っても身に付かないでしょう。

もとより、登山において地図読みのスキルは大事な要素なのです。アプリがなくて紙地図だけで山を歩けるかというのは基本中の基本です。万一、スマホが故障したり電池がなくなったりした場合、紙地図で山行を続けなければならないのです。そのために、本来ならYMAPやヤマレコは、「登山の安全のため、紙地図も持って行きましょう」と呼び掛けるべきだと思いますが、しかし、そうすると自己矛盾になるのです。

その結果、紙地図も持たずスマホだけで山に来て、常にスマホと見比べながら山を歩くような、危機意識の欠片もないハイカーを大量に生んでしまったのです。それこそシステムへの盲目的な依存と言うべきで、彼らがコースタイム至上主義に陥るのは理の当然でしょう。

山ですれ違う際、「にんにちわ」と挨拶するだけでなく、これから行くルートの状態や難易度を尋ねたりすることがあります。しかし、登山アプリによって、そういった情報交換のコミニュケーションも減ったように思います。私はよく話しかけますが、コロナ禍ということも相俟って、最近は迷惑そうな顔をされることが多くなりました(それでも話しかけるけど)。

前も書きましたが、車で峠まで行くのと、自分の足で息を切らせながら行くのとでは全然意味合いが違うように、他人の体験をアプリで押し付けられるのと、直接コミュニケーションを取りながら他者の体験から学ぶのとでは、身体性という意味合いにおいて、天と地ほども違うのです。二人も対談の中で言っているように、大事なのはコミュニケーションなのです。

ただ、山に行ってものを考えると、余分なものが削ぎ落されるので、シンプルにものを考えることができるという春山氏の話は同意できました。私も前に、パソコンの前に座ってものを考えるのと、散歩に行って歩きながらものを考えることは全然違うというようなことを書いた覚えがありますが、そこに身体性の本質が示されているように思います。

もちろん、私も「スーパー地形」を使っていますので、登山アプリを全否定するわけではありません。技術テックに関して、ものは使いようというのはよくわかります。アプリで大事なのは、これから歩くルートではなく、歩いて来た軌跡だと言った人がいましたが、それはすごくわかります。つまり、道迷いしたら正しいルートの地点まで戻るのが基本ですが、その際、アプリの軌跡が役に立つからです。

ただ、登山アプリによって身体感覚がなおざりにされ鈍磨させられたり、登山の体験が「安全、安心、便利、快適」(の幻想)に収斂されるような、システムに依存した通りいっぺんなものになるなら元も子もないでしょう。何より山に来る意味も、山を歩く楽しみもないように思うのです。それこそ、”身体性の復権”とは真逆なものと言うべきなのです。


関連記事:
「数馬の夜」
2023.01.18 Wed l l top ▲
広島拘置所より
(『紙の爆弾』2023年1月号・上田美由紀「広島拘置所より」)


YMOのドラム奏者の高橋幸宏氏が、今月の11日に誤えん性肺炎で亡くなっていたというニュースがありました。高橋氏は、2020年に脳腫瘍の手術した後、療養中だったそうで.す。享年71歳、早すぎる死と言わねばなりません。

若い頃、初めてYMOを聴いたとき、その”電子音楽”に度肝を抜かれました。人民服を着て「東風」や「中国女」を演奏しているのを見て、一瞬、毛沢東思想マオイズムか、はたまたポスト・モダンに媚びるオリエンタリズムかと思いました。「テクノポップ」なんて、むしろ悪い冗談みたいにしか思えませんでした。でも、今ではいろんな意味で「テクノポップ」が当たり前になっています。YMOは時代の一歩先を行っていたと言えるのかもしれません。ただ、長じて「テクノポップ」がYMOのオリジナルではないことを知るのでした。

高橋幸宏氏は、昨年の6月にTwitterで「みんな、本当にありがとう」とツイートしていたそうですが、癌で闘病している坂本龍一も、先月配信されたソロコンサートで、「これが最後になるかもしれない」とコメントしていたそうです。

前も書いたように、みんな死んでいくんだな、という気持をあらためて抱かざるを得ません。

また、いわゆる「鳥取連続不審死事件」の犯人とされ、2017年に死刑が確定した上田美由紀死刑囚が、14日、収容先の広島拘置所で「窒息死」したというニュースもあり、驚きました。

Yahoo!ニュースに下記のような記事が転載されていますが、Yahoo!ニュースはすぐに記事が削除されて読めなくなりますので、主要な部分を引用しておきます。

Yahoo!ニュース
TBSテレビ
鳥取連続不審死事件 広島拘置所に収容の上田美由紀死刑囚(49)が14日に死亡 窒息死 法務省が発表

法務省によりますと、上田死刑囚はきのう午後4時過ぎ、収容先の広島拘置所の居室で食べ物をのどに詰まらせむせた後、倒れたということです。

職員が口から食べ物を取り除くなどしたものの意識がなく、救急車で外部の病院に搬送されましたが、およそ2時間後、死亡が確認されました。死因は窒息でした。

遺書などは見つかっていないということで、法務省は、自殺ではなくのどに食べ物を詰まらせたことが原因とみています。


上田美由紀は、月刊誌『紙の爆弾』に2014年10月号から8年以上手記を連載していました。今月7日に発売された2月号の同誌には、法学者で関東学院大学名誉教授の足立昌勝氏の「中世の残滓 絞首刑は直ちに廃止すべきである」という記事が掲載されていましたが、上田死刑囚の手記は休載になっていました。

先月発売された2023年1月号の「第82回」の手記が最後になりましたが、その中では次のようなことが書かれていました。

 官の売店の物も、次々と値上げです。トイレなどにも使うティッシュも、108円だったのが116円になったのはとても大変なことです。官の支給のチリ紙と違い、量も多く、8円は大きな差です。官の支給ではとても足りず、この生活で、チリ紙はお金と同じくらい大切なものです。この数ヶ月、値上げの告知を月に何回も受け、そのたびにゾッとしています。


自殺ではなく食べたものを喉に詰まらせた窒息死だそうですが、上田死刑囚はまだ49歳です。そんなことがあるのかと思いました。

私は、2014年にこのブログで、青木理氏が事件について書いた『誘蛾灯』(講談社)の感想文を書いています。それは、二審で死刑の判決が言い渡された直後でした。

関連記事:
『誘蛾灯』

事件そのものは、青木氏も書いているように、女性が一人で実行するのは無理があるし、検察が描いた事件の構図も矛盾が多いのですが、しかし、上田死刑囚には弁護費用がなかったため、国選弁護人が担当していました。青木氏は、「大物刑事裁判の被告弁護にふさわしい技量を備えた弁護団」とは言い難く、「相当にレベルの低い」「お粗末な代物」だったと書いていました。上田死刑囚は、無罪を主張していたのですが、その後、最高裁でも上告が却下され死刑が確定したのでした。

上の関連記事とダブりますが、私は、記事の中で次のように書きました。

(略)上田被告は、死刑判決が下された法廷でも、閉廷の際、「ありがとう、ございました」と言って、裁判長と裁判員にぺこりと頭を下げたのだそうです。著者は、そんな被告の態度に「目と耳を疑った」と書いていました。上田被告は、そういった礼儀正しさも併せ持っているのだそうで、その姿を想像するになんだかせつなさのようなものさえ覚えてなりません。

これで二審も死刑判決が出たわけですが、青木理氏が言うように、「遅きに失した」感は否めません。事件の真相はどこにあるのか。無罪を主張する被告の声は、あまりにも突飛で拙いため、まともに耳を傾けようする者もいません。被告に「無知の涙」(永山則夫)を見る者は誰もいないのです。そして、刑事裁判のイロハも理解してない素人裁判員が下した極刑が控訴審でも踏襲されてしまったのでした。そう思うと、よけい読後のやりきれなさが募ってなりませんでした。


そして、予期せぬ死去のニュースに、再びやりきれない思いを抱いているのでした。
2023.01.15 Sun l 訃報・死 l top ▲
FIFAがワールドカップで優勝したアルゼンチンに対して、決勝戦において「規定違反」があったとして、処分の手続きを開始したというニュースがありました。

AFP
FIFA、アルゼンチンの処分手続き開始 W杯決勝で規定違反か

記事は次のように伝えています。

 FIFAは、アルゼンチンに「攻撃的な振る舞いやフェアプレーの原則への違反」や「選手と関係者の不適切行為」のほか、メディアとマーケティングに関する規定違反があった可能性を指摘している。


私は、それみたことかと言いたくなりました。手前味噌になりますが、私は、ワールドカップでアルゼンチンが嫌いだとして、このブログで下記のような記事を書きました。

関連記事:
「ニワカ」のワールドカップ総括

しかし、日本のメディアは、アルゼンチンの優勝を我が事のように喜び、「勝てば官軍」のような称賛の記事のオンパレードだったのです。サッカー専門のメディアも含めて、アルゼンチンの「汚いサッカー」を指摘する声は皆無でした。

それは、カタール大会のいかがわしさに対しても同じでした。一片の見識もないのです。疑問を呈する声はいっさいシャットアウトして、「勝てば官軍」の報道一色に塗られたのでした。

この思考停止した“日本的な光景”は、サッカーだけの話ではありません。ウクライナ侵攻についても、中国脅威論についても同じです。そこにあるのは、寄らば大樹の陰の浅ましい心根だけです。

「国境なき記者団」による2022年の「世界報道の自由度ランキング」で、日本は180ヶ国中、前年の67位からさらにランクを落として71位だったのですが、そのことについても、メディアも国民も危機感などはまったく見られません。ちなみに、アジアでは台湾が38位、韓国が43位です。

「世界報道の自由度ランキング」が71位という、既に独裁国家並みの報道の自由しかない日本のメディアのテイタラクは、たとえば、(わかりやすい例を上げれば)ガーシーの問題にもよく表れています。

警視庁が強制捜査に乗り出したことについても、メディアは盛んに著名人に対する名誉棄損や脅迫を上げていますが、警視庁のホントの狙いはもっと深いところにある、と「アクセスジャーナル」が書いていました。

アクセスジャーナル
<芸能ミニ情報>第108回「警視庁は、ガーシー議員とZをセットで狙っている?」

ガーシーがドバイに「逃亡」したのもそうですが、「身の安全のために」日本に帰国しないと主張していたのは、最初から不自然でした。現在は、著名人に対する名誉棄損などのために逮捕されたくないからという主張に変わっていますが、当初はそうではなかったのです。

”何か”に怯えていたのです。裏カジノに手を出して莫大な借金を抱えていたことは知られていましたので、反社の闇金融から追い込みをかけられているのではないかと思っていましたが、それだけだったのか。

「アクセスジャーナル」は、「特殊詐欺集団の大物元締」との関係を指摘しています。「興味深い情報」として、二人は「汚れ仕事を手を染めているだけでなく、連携していると聞いていた」と書いていました。警視庁は、YouTubeからの収入などを管理する「合名会社」やその関係者宅を家宅捜索し、一部では捜査の過程で新たな「投資トラブルがあったことも発覚した」と伝えられています。

「アクセスジャーナル」が言う「汚れ仕事」が、著名人に対する「常習的脅迫」だけ・・を指しているとはとても思えません。捜査は、YouTubeによる著名人への名誉棄損や脅迫から、別の方向に進んでいるような気がしてなりません。

国会議員に対する強制捜査に着手したというのは、国会議員には国会開会中は逮捕されないという「不逮捕特権」がありますので、当然国会との調整もついた上のことでしょう。

と思ったら、案の定、参議院の石井準一議院運営委員長が、ガーシーに対して、今月の23日に召集される通常国会も欠席が続けば「懲罰に相当する」との認識を示したという報道がありました。

ガーシーは3月の上旬に帰国すると答えていますが、石井議院運営委員長は今月の通常国会と言っているのです。警視庁が国会の処分を視野に強制捜査に着手したのは間違いない気がします。誰かも言っていましたが、たしかに「詰んできた」ように思います。

芸能人に女性をアテンドし、裏カジノに手を出して、既に和解したとは言え”BTS詐欺(まがい)”まではたらき、それで芸能界の周辺にたむろするいかがわしい人間達と関係がないというのは、どう考えても無理があるでしょう。

だからと言って、ガーシーの標的になった芸能人がまったくの被害者なのかと言えば、そうも言えないのが芸能界が芸能界たる所以です。吉本隆明ではないですが、芸能界は普通のお嬢ちゃんやお坊ちゃんでは務まらない”特殊な世界”なのです。言うなれば、美男美女の不良ワルが集まったところなのです。当然、脛に傷を持つ不良ワルも掃いて棄てるほどいるでしょう。

名誉棄損や脅迫といった”軽犯罪”で、どうして関係者宅まで家宅捜索されるのか。そもそも「合名会社」や関係者というのは何なのか。疑問は尽きませんが、メディアは右へ倣いしたようなおざなりな報道をくり返すだけです。

私は、ここに至って、再びみずからの動画でガーシーに弁明させた田村淳に対しても、何をそんなに怯えているのかと思いました。「ワイドナショー」でも田村淳はガーシーを擁護していたようですが、それは単なる逆張りとは思えません。
2023.01.15 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
昨日、午後から久しぶりにみなとみらい界隈を散歩しました。歩数を稼ぐために隣駅まで歩いて、東横線・みなとみらい線で馬車道まで行き、馬車道から汽車道、汽車道から赤レンガ倉庫、赤レンガ倉庫から象の鼻パーク、象の鼻パークから山下公園まで歩きました。帰りは山下公園から遊歩道で赤レンガ倉庫まで戻り、そのあと大観覧車の横を通ってみなとみらいのクイーンズスクエアまで歩いて、みなとみらい駅から電車に乗って帰りました。

帰ってスマホを見たら、1万5千歩を越えていました。大体今まで月平均で12万〜15万歩は歩いていたのですが、最近はその半分くらいしか歩いていません。それで、月10万歩を目標に歩こうと思ったのでした。今月はこれで6万歩近く歩いていますので、今のところ順調です。

もちろん、山に行けば1回で少なくて2万歩、多いときは3万歩を歩きますので、10万歩なんて軽くクリアするのですが、最近は膝のこともあって、山に行くのがおっくうになっているのでした。

昨日は正月明けで、しかも曇天で夜から雨の予報だったということもあってか、赤レンガ倉庫や山下公園も人はそれほど多くありませんでした。やはり若者が目立ちました。(昔風に言えば)アベックだけでなく、如何にも仲が良さそうな女性同士のカップルも目に付きました。韓国に行くと女の子同士が手をつないで歩いていますが、韓流文化の影響なのか、はたまた結婚だけでなく恋愛に対する幻想もなくなった今の時代を反映しているのか、さすがに手はつないでないものの、最近は若い女性同士のカップルがやたら多くなったような気がします。

結婚だけでなく、若者たちの生き方を窮屈なものにしていた恋愛至上主義が瓦解したのはとてもいいことだと思います。少子化対策なんてクソくらえなのです。あれはあくまで国家の論理にすぎません。あんなものに惑わされずに、若者たちは好きなように自由に生きていけばいいのです。恋人より友達というのも全然ありだと、おじさんは思うのでした。

汽車道の対岸の船員アパートがあったあたりは、タワマンやアパの高層ホテルや32階建ての横浜市庁舎が建っていました。そうやって港町の”記憶の積層”が消し去られて、横浜の魅力であったゆとりの空間があたりを睥睨するような愚劣な建物に奪われているのでした。私は、万国橋からの風景が好きだったのですが、それらの建物が視界を邪魔して、つまらない風景になっていました。

最近読んだ八木澤高明著『裏横浜』(ちくま新書)によれば、現在、「象の鼻パーク」と呼ばれ整備されている堤防のあたりは、ペリーが来航した際に、日米和親条約を結ぶためにぺーリー艦隊と江戸幕府との会談が行われた場所だそうです。今の風景の中で、その痕跡を探すのはとても無理な相談です。

赤レンガ倉庫も、明治末期から大正時代にかけて、当時の日本では重要な輸出品であった生糸を保管するために造られたものです。生糸は、『女工哀史』や『あゝ野麦峠』で有名な信州や、官営の富岡製糸場があった上州などの生産地からいったん八王子に集められ、八王子から輸出港である横浜に運ばれたそうです。その運搬用に敷設されたのが今のJR横浜線です。

山下公園に行くと、「インド水塔」の改修工事が行われていました。「インド水塔」は、関東大震災の際に避難してきた多数のインド人を横浜市民が「救済」したとして、横浜市民への感謝と同胞の慰霊のために昭和14年12月に在日インド人協会が建立したのだそうです。朝鮮人に対しては斧や鉈で襲い掛かった日本人が、インド人を助けたというのは驚きですが、そう言えば山下公園では毎年首都圏在住のインド人が集まる、インド人の祭りも開催されています。ただ、横浜の住民がインド人を「救済」したのは、当時、生糸の主要な輸出国がインドだったということも無関係ではないように思います。

私も昔、横浜のシルク業者からシルクのスカーフなどを仕入れて、都内の雑貨店に卸していたことがありました。その業者も若い頃は地元の貿易会社に勤めていたと言っていました。カナダやアメリカからステッカーを輸入していたのも横浜の会社でしたし、中国から横流しされた安売りのシールを輸入していたのも横浜の若い業者でした。いづれも既に廃業していますが、横浜にはそういった港町の系譜を汲む貿易商のような人たちも多くいたのです。

1884年(明治17年)に勃発した秩父事件も、国際的な生糸価格の暴落という背景があります。秩父地方もまた生糸の生産地だったのですが、秩父事件は、生糸価格の暴落により困窮した民衆が高利貸に借金の棒引きなどを要求して武装蜂起し、僅かな期間ながら秩父に”自治政府”を樹立したという、日本の近代史上特筆すべき出来事なのです。赤レンガ倉庫の背後には、そういった歴史も伏在しているのでした。

「メリケン波止場」と呼ばれた大さん橋も、現在はクルーズ船のターミナル港(寄港地)になっていますが、昔はブラジルなど南米への移民船の出港地で、『裏横浜』にも、「横浜から旅立った人々のうち一番多かったのは、旅客ではなく、移民である。その数は100万人ともいわれている」と書かれていました。その中には、横浜の鶴見からブラジルに旅立った当時中学生のアントニオ猪木の一家も含まれていたのでした。


※拡大画像はサムネイルをクリックしてください。


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汽車道沿いの運河の上を「ヨコハマエアーキャビン」という観光用のロープウェイ”が架けられていました。

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汽車道

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「エアキャビン」と反対側の風景

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万国橋から

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赤レンガ倉庫

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射的の出店

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恒例のイベント・スケートリンク

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多くの移民が向かった大さん橋への道

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山下公園

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写真を撮っている横は、一時よく通っていた「万葉倶楽部」
2023.01.14 Sat l 横浜 l top ▲
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(2022年12月・奥多摩)


あのジェフ・ベックが亡くなったというニュースがありました。若い頃仰ぎ見ていた上の世代の人たちが次々と旅立っています。

ジェフ・ベックについて、音楽評論家の萩原健太氏が、朝日新聞のインタビュー記事の中で次のように語っていました。

朝日新聞デジタル
「ギターは歌う」 本気でそう思わせたジェフ・ベック 萩原健太さん

 そんな彼が革新的だったのは、音楽的におかしな音を平気で弾いちゃうこと。「ブロウ・バイ・ブロウ」でも、ビートルズの曲をカバーしていますが、コード進行から外れてしまう音に平気で行くんですよね。多分、「これがいけない」とかじゃなくて、「こういう風に歌いたい」っていう気持ちがすごく強いんだと思う。

 予定調和も嫌う。たどり着くべき正解なんていうのは元々なくて、1回演奏したら、次の演奏では違うことをしたい、という気持ちがすごく強い人だったんじゃないかな。不協和音も、彼にとってはたぶん全然不協和音ではなくて、「ここでこっちに行きたいよね」っていう気持ちが、ギターに伝わってそのまま音になって出てくる、みたいな感じだった。


そうなんです。昔、「予定調和」を嫌う時代があったのです。「予定調和」という言葉は”軽蔑語”のように使われていました。

でも、最近毒ついているように、ネットの時代になり、「予定調和」こそ正道、あるべき姿みたいな風潮が強くなっています。「不協和音」を激しく排斥しようとする、文字通り同調圧力が強くなっている感じです。

SNSは一見言いたいことを言う百家争鳴みたいに見えるけど、それはただのノイズでしかないのです。ノイズは、むしろ同調圧力を高めるための燃料のような感じでさえあります。

自分と反対の意見にどうしてあんなに感情的に反発するのか。しかも、それは「自分」の意見ではないのです。「自分たち」の意見にすぎないのです。何が何でも「予定調和」で終わらなければならないとでも言いたげです。萩原健太氏が言うように、何だか最初から「正解」が用意されているかのようです。

言うなれば、ジェフ・ベックはへそ曲がり、天邪鬼だったと言えるのかもしれません。それが彼の個性であり、彼の音楽性だったのです。ジェフ・ベックも今だったら、「へたくそ」「邪道」なんて言われたでしょう。

話は飛びますが、ウクライナ侵攻についても、メディアに流通しているのは「予定調和」の言葉ばかりです。それがあたかも真実であるかのようにです。私も何度も書いているように、防衛省付属の防衛研究所の研究員がしたり顔でメディアで戦況を解説していますが、それはもはや大本営発表と同じようなものでしょう。でも、誰も疑問を持たずに、いつの間にかウクライナは味方VSロシアは敵という戦時の言葉に動員されているのでした。

誰が戦争を欲しているのか。誰が世界大に戦争を拡大させようとしているのか。誰が私たちを戦争に巻き込もうとしているのか。それを「予定調和」の言葉でなく、もう一度自分たちの言葉で考えるべきでしょう。

と、今更言っても空しい気もしますが、そんな中で、次のようなツイートは「予定調和」の言葉に抗するものとして貴重な気がしました。

アジア記者クラブ(APC) (@2018_apc) · Twitter




2023.01.13 Fri l ウクライナ侵攻 l top ▲
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知り合いから新年の挨拶の電話がかかってきたのですが、その中で昨年、可愛がっていた犬が亡くなり、未だショックが収まらず気持が沈んだままだ、と言っていました。喪中のハガキを出そうかと思ったそうです。「おい、おい」と思いました。

12歳だったそうですが、糖尿病で薬を飲んでいたのだとか。私の家でも犬を二代に渡って飼っていましたが、最初の犬の餌は、ご飯にイリコを入れて味噌汁をぶっかけたいわゆる(言い方が変ですが)“猫飯”でした。今は「餌」なんて言い方も反発を招くそうですが、そんな時代でしたので、犬が(血糖値を下げる?)糖尿病の薬を飲むという話に驚きました。聞けば、人間と同じ薬だそうです。同じ哺乳類とは言え、犬のような体重の軽い個体に、人間用の薬を処方してホントに大丈夫なのかと思いました。

愛犬はいつも玄関に座って帰りを待っていたそうで、「忠犬ハチ公みたいな感じだった」と言っていました。でも、そうすれば頭を撫でられて餌を貰えることを学習したからでしょう。犬がそうしたのではなく、飼い主がそうしむけただけです。

実家で飼っていた最初の犬は、近くの山で拾って来た野犬の子どもでした。小学生のとき作文にも書いて、結構評判になり賞を貰いました。さすがに最近は見なくなりましたが、しばらくは夢にも出て来ました。

次の犬は、他所から貰ってきた柴犬で、そのときは既にペットフードに代わっていました。世話していた母親は、半生の餌しか食べないと言っていました。

亡くなったのは、私が二度目の上京をしたあとで、早朝4時くらいに突然、母親から「今××(犬の名前)が死んだんだよ」と半泣きの声で電話がかかってきたのを覚えています。

最初の犬の死骸は、(はっきりした記憶はないのですが)おそらく裏の柿の木の下に埋めたのではないかと思います。次の犬はペット専用の火葬屋に頼んで火葬して、その骨をやはり柿の木の下に埋めたみたいです。でも、そこは既に人手に渡り今は駐車場になっています。

犬が家族の一員で、いつまでも思い出の中に残るというのはよくわかります。私は子どもの頃、犬に追いかけられ木に登って難を逃れたトラウマがあるので、他人の犬は噛みつかれるようで怖いのですが、しかし、自分の家の犬は可愛いと思ったし、よく可愛がっていました。

知り合いは、愛犬が亡くなって以来、YouTubeで犬の動画を観て心を癒しているそうです。

と、私は、YouTubeと聞いて、まるで心の糸が切れたように、突然、ウエストランドの井口みたいな口調で、まくし立てはじめたのでした。

「あんなのはヤラセみたいなもんだろ」と私。
「エエッ、そんなことはないよ」
「だってよ、猫を拾って来て『こんなに変わった』『今や家族の一員』『いつまでも一緒』なんてタイトルでYouTubeに上げると、すぐ百万回再生するんだぜ。コメント欄も『ありがとうございます』『ネコちゃんも好い人に巡り会えて幸せですね』なんてコメントで溢れる。こんな美味しいコンテンツはないだろ」
「そんな‥‥」
「登山系ユーチューバーなんか見て見ろよ。あんなにお金をかけて、スキルもないのに無理して山に登っても、よくて数万しか行かない。ほとんどは数千、数百のクラスだ。それが猫を拾ってくれば百万も夢じゃない」
「たしかに猫を保護したという動画がやたら多いけど‥‥」
「猫だけじゃない保護犬の動画も多い」

「今やYouTubeは趣味じゃない。Googleから広告料の配当を得るためにやっている。お金のためだよ」
「‥‥」
「素人は盗品やニセモノをメルカリで平気で売る。お金のためなら何でもするのが素人だ」
「炎上系は論外としても、たとえば、外国人が日本の食べ物や景色に感動した、『恋した』『涙した』という一連の動画がある。あれもテレビの『ニッポン行きたい人応援団』のような『ニッポン、凄い!』の延長上にあるもので、単細胞な日本人を相手にするのにこれほど手っ取り早く美味しいコンテンツはない。したたかな外国人にいいように利用されているだけだよ。犬・猫もそれと似たようなもんだろ」

そこまで話したら、「忙しいから」と電話を切られてしまいました。
2023.01.12 Thu l ネット l top ▲
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岸田首相が4日に伊勢神宮を参拝した際の記者会見で、今年の春闘においてインフレ率を超える賃上げの実現を訴えたことで、「インフレ率を超える賃上げ」という言葉がまるで流行語のようにメディアに飛び交うようになりました。

日本経済新聞
首相、インフレ率超える賃上げ要請 6月に労働移動指針

「この30年間、企業収益が伸びても期待されたほどに賃金は伸びず、想定されたトリクルダウンは起きなかった」と話した。最低賃金の引き上げに加え、公的機関でインフレ率を上回る賃上げをめざすと表明した。

「リスキリング(学び直し)の支援や職務給の確立、成長分野への雇用の移動を三位一体で進め構造的な賃上げを実現する」と強調した。労働移動を円滑にするための指針を6月までに策定するとも明らかにした。


ときの総理大臣が、この30年間、企業収益が伸びても賃金が上がらなかったと明言しているのです。しかも、賃金が上がらないのに、大企業は大儲けして、史上空前の規模にまで内部留保が膨らんでいると、総理大臣自身が暗に認めているのです。

このような岸田首相の発言は、とりもなおさず日本の労働運動のテイタラクを示していると言えるでしょう。たとえば、欧米や中南米などでは、賃上げを要求して労働者が大規模なストライキをしたり、政府の政策に抗議して暴動まがいの過激なデモをするのはめずらしいことではありません。そんなニュースを観ると、日本は中国や北朝鮮と同じグループに入った方がいいんじゃないかと思うくらいです。

昔、大手企業で労働組合の役員をしていた友人がいたのですが、彼は、連合の大会に行ったら、会場に次々と黒塗りのハイヤーがやって来るのでびっくりしたと言っていました。ハイヤーに乗ってやって来るのは、各産別のナショナルセンターの幹部たちです。友人が役員をしていた組合も、何年か役員を務めると、そのあとは会社で出世コースが用意されるという典型的な御用組合で、彼自身も私とは正反対のきわめて保守的な考えの持ち主でしたが、そんな彼でも「あいつらはどうしうようもないよ」「労働運動を食いものにするダラ幹の典型だよ」と言っていました。

友人は連合の会長室にも行ったことがあるそうですが、「うちの会社の社長室より広くて立派でぶったまげたよ」と言っていました。「あいつらは学歴もない叩き上げの人間なので、会社で出世できない代わりに、組合をもうひとつの会社のようにして出世の真似事をしているんだよ」と吐き捨てるように言っていましたが、当たらずといえども遠からじという気がしました。そんな「出世の真似事」をしているダラ幹たちが、日本をストもデモもない国にしたのです。

彼らは岸田首相から、「あなたたちがだらしがないから、私たちがあなたたちに代わって経済界に賃上げをお願いしているのですよ」と言われているようなものです。連合なんてもはや存在価値がないと言っても言いすぎではないでしょう。

にもかかわらず、連合のサザエさんこと芳野友子会長は、まるで我が意を得たとばかりに、年頭の記者会見で次のように語ったそうです。

NHK
連合 芳野会長「実質賃上げ 経済回すことが今まで以上に重要」

ことしの春闘について、連合の芳野会長は、年頭の記者会見で「物価が上がる中で、実質賃金を上げて経済に回していくことが今まで以上に重要となるターニングポイントだ」と指摘し、賃上げの実現に全力を挙げると強調しました。

ことしの春闘で、連合は「ベースアップ」相当分と定期昇給分とを合わせて5%程度という、平成7年以来の水準となる賃上げを求めています。

そのうえで「賃上げは労働組合だけでは実現できず、使用者側の理解や協力のほか、賃上げしやすい環境づくりという点では政府の理解や協力も必要だ」と述べ、政府と経済界、労働界の代表による「政労使会議」の開催を呼びかけていく考えを示しました。


「恥知らず」「厚顔無恥」という言葉は、この人のためにあるのではないかと思ってしまいます。

同時に、岸田首相は、少子化問題についても、「異次元の対策に挑戦すると打ち出」し、「経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)を決定する6月頃までに、子ども予算の倍増に向けた大枠を提示すると述べた」(上記日経の記事より)そうです。

それを受けて、松野官房長官も児童手当の「恒久的な財源」を検討すると表明し、また、東京都の小池都知事も、2023年度から所得制限を設けず、「18歳以下の都民に1人あたり月5000円程度の給付を始める方針を明らかにした」のでした。

しかし、これらはホントに困窮している人たちに向けた施策ではありません。私は、鄧小平の「先富論」の真似ではないのかと思ったほどです。もとより、児童手当の拡充や支援金の給付が、防衛費の増額と併せて、いづれ増税の口実に使われるのは火を見るようにあきらかです。賃上げや少子化と無縁な人たちにとっては、ただ負担が増すばかりなのです。

賃上げに対して、企業のトップも意欲を示し、「賃上げ機運が高まってきた」という記事がありましたが、それは経済3団体の新年祝賀会で取材した際の話で、いづれも名だたる大企業のトップの発言にすぎません。

中小企業庁によると、2016年の中小企業・小規模事業者は357.8万で企業全体の99.7%を占めています。また、中小企業で働いている労働者は約3,200万人で、これは全労働者の約70%になります。

ちなみに、中小企業基本法による「中小企業」の定義は、以下のとおりです。

「製造業その他」は、資本金の額又は出資の総額が3億円以下の会社又は常時使用する従業員の数が300人以下の会社及び個人。
「卸売業」は、資本金の額又は出資の総額が1億円以下の会社又は常時使用する従業員の数が100人以下の会社及び個人。
「小売業」は、資本金の額又は出資の総額が5千万円以下の会社又は常時使用する従業員の数が50人以下の会社及び個人。
「サービス業」は、資本金の額又は出資の総額が5千万円以下の会社又は常時使用する従業員の数が100人以下の会社及び個人。

これらの「中小企業」では、賃上げなどとても望めない企業も多いのです。まして、非正規雇用や個人事業者や年金暮らしなどの人たちは、賃上げとは無縁です。

高齢者の生活保護受給者の多くは、単身所帯、つまり、一人暮らしです。年金も二人分だと何とかやり繰りすることができるけど、一人分だと生活に困窮するケースが多いのです。

しかも、「インフレ率を上回る賃上げ」という岸田首相の言葉にあるように、賃上げもインフレ、つまり、物価高が前提なのです。ありていに言えば、「商品の値段を上げてもいいので、その代わり賃上げもして下さいね」という話なのです。そして、そこには、国民に向けての「賃上げもするけど(児童手当も拡充するけど)税金も上げますよ」という話も含まれているのです。それを「経済の好循環」と呼んでいるのです。

岸田首相が麗々しくぶち上げた賃上げや「異次元の少子化対策」は、”下”の人々にさらに負担を強いる「弱者切り捨て」とも言えるものです。

しかも、メディアも野党も労働界も左派リベラルも、そういった上か下かの視点が皆無です。それは驚くべきことと言わねばなりません。

一昨年の衆院選で岐阜5区で立憲民主党から出馬し、小選挙区では全国最年少候補として戦った今井瑠々氏が、今春の統一地方選では、自民党の推薦で県議選に立候補することを視野に立憲民主党に離党届を提出した、というニュースがありました。

それに伴い彼女の支援団体も解散した、という記事がハフポストに出ていました。

HUFFPOST
「今井さんごめんね。苦しい中支えきれなくて」今井瑠々氏の自民接近で支援団体が解散

支援団体「今井るるサポーターズ」は、声明の中で、「今井さんごめんね。苦しい中支えきれなくて」と苦渋の思いを吐露していたそうです。私が記事を読んでまず思ったのは、そんなおセンチな「苦渋」などより、支援者たちがみんなミドルクラスの恵まれた(ように見える)女性たちだということです。つまり、立憲民主党と自民党は、同じ階層クラスの中で票の奪い合いをしているだけなのです。だったら、候補者が自民党に鞍替えしても何ら不思議はないでしょう。倫理的な問題に目を瞑れば政治的信条でのハードルはないに等しいのです。

何度もくり返し言いますが、今こそ求められているのは上か下かの政治です。右か左かではなく上か下かなのです。突飛な言い方に聞こえるかもしれませんが、”階級闘争”こそが現代におけるすぐれた政治的テーマなのです。

トランプを熱狂的に支持しているのは、ラストベルトに象徴されるような、「ホワイト・トラッシュ(白いクズ)」と呼ばれる没落した白人の労働者階級ですが、「分断」と言われているものの根底にあるのも、持つ者と持たざる者との「階級」の問題です。

”階級闘争”をアメリカやフランスやイタリアのように、ファシストに簒奪されないためにも、下層の人々に依拠した(どこかの能天気な政治学者が言う)「限界系」の闘う政治が待ち望まれるのです。
2023.01.10 Tue l 社会・メディア l top ▲
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同じことのくり返しになりますが、私は、昨年の10月に書いたフリーライターの佐野眞一氏の死去に関する記事の中で、故竹中労が昔、テレビ番組の中で紹介していた17世紀のイギリスの詩人・ジョン・ミルトンの次のような言葉を引用しました。

「言論は言論とのみ戦うべきであり、必ずやセルフライティングプロセス(自動調律性)がはたらいて、正しい言論だけが生き残り、間違った言論は死滅するであろう。私たちものを書く人間が依って立つべきところは他にない」
(『アレオパジティカ』より)


また、同じ番組で竹中労が紹介していた、フランスの劇作家のジャン・ジロドゥの言葉も引用しました。

「鳥どもは嘘は害があるとさえずるのではなく、自分に害があるものは嘘だと謡うのだ」
(『オンディーヌ』より)


これも記事の中で書いたのですが、昨年の10月1日からプロバイダ責任制限法が改正、施行されて、SNS等の発信者情報の開示が非訟手続になり、手続きが簡略化されました。

発信者情報開示の簡略化は、フジテレビの「テラスハウス」に出演したことで、ネットで誹謗中傷を受け、それが原因で自殺した女子プロレスラーの家族などが求めたネット規制の声を受けて変更されたものです。

ネット規制に関しては、自殺した家族だけではなく、ヘイトな書き込みなどで被害を受けていた在日コリアンや性的少数者なども、同様に規制を求める声がありました。

しかし、それ以後、ネットでは意見が異なる相手に対して、二言目には「発信者情報の開示」をチラつかせて、発言を封殺するようなふるまいが横行するようになっています。

さらには、それまでヘイトな言論を振り撒いていた者たちが、ネット規制を逆手にとって、自分たちを批判する発言を嫌がらせのように名誉棄損で訴えるという行為も多くなりました。

ジャン・ジロドゥが言うような「鳥どもは嘘は害があるとさえずるのではなく、自分に害があるものは嘘だと謡う」風潮が蔓延するようになったのでした。

言論には言論で対抗するのではなく、安易に国家に判断を委ねるようになったのです。つまり、国家を盾に相手を委縮させる手段として、ネット規制が使われるようになったのです。そうやって国家が私たちの発言にまでどんどん踏み込んで来る、その(さらに強力な)道筋を造ったと言っていいでしょう。今のような風潮は、とりわけSNSなどで自分の考えや意見を発信している個人には大きな圧力に感じるでしょう。

「自由にも責任がある」という言い方がありますが、ただ、それもきわめて曖昧な概念です。自由と責任の間に明確な線引きがあるわけではないし、そもそも線引きができるわけではないのです。もっとも、「自由にも責任がある」という言い方は、自由を規制する口実に使われる場合がほとんどです。

私は、言論には言論で対抗するということの中には、ときに街角(ストリート)で怒鳴り合ったり、殴り合ったりすることもありだと思っています。言論には、それくらい”幅広い”考えが必要なのです。

民主主義はアルゴリズムで最適化されて、自動的に導きだされるという、成田悠輔の「無意識データ民主主義」に対しては、「世界内戦の時代は民衆蜂起の時代である」という笠井潔の言葉を対置するだけで充分でしょう。それが世界の現実であり、抑圧された人々の声なのです。

成田悠輔がたまごっちと同じような一時の”流行はやり”にすぎないことはあきらかですが、成田悠輔や、YouTubeの視聴者と同じように彼にお追従コメントを送る読者たちは、ただ世界の現実から目をそむけ耳を塞いでいるだけです。その一語で済むような取るに足りない言葉遊びの”流行”にすぎません。

今の資源高に伴う世界的なインフレに対して、世界各地で民衆蜂起と言ってもいいような抗議の声が上がっていますが、本来、民主主義というのはそういった地べたの運動の先にあるものでしょう。私は、むしろ、生身の”暴力”や”身体(性)”に対する考えを復権すべきだとさえ思っているくらいです。

「今どきSNSを『利用してやる』くらいの考えを持たなければ、社会運動も時代から取り残されるだけだ」などと言っていた左派リベラルは、被害者家族の要求に便乗してネット規制を求めたのですが、結局、みずから墓穴を掘ることになったのです。そうやって自分たちで自由を毀損しみずからの首を絞めることになったのです。

地べたの運動に依拠しない、口先三寸主義の左派リベラルが辿る当然の帰結と言えますが、彼らもまた、自由の敵であると言われても仕方ないでしょう。何度も言いますが、前門の虎だけでなく後門にも狼がいることを忘れてはならないのです。


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追悼・佐野眞一
2023.01.08 Sun l ネット l top ▲
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近所の食べ物屋が「美味しい」というネットの投稿を見たので行ってみました。それも一人だけではなく、何人からも「高評価」の投稿があったからです。その店は開店してまだ半年くらいで、私も開店したことは知っていました。

その結果は‥‥。あれほどネットを批判しながら、ネットの投稿を信じた自分を恥じました。不味くはないけど、言われるほど「美味しい」とは思いませんでした。どこが「高評価」になるのかわかりませんでした。立地条件がいいわけではないので、あの程度では生き残るのは難しい気がしました。

私はこの街に住んで10年以上になりますが、駅前の商店街で生き残るのが至難の業であることはよくわかります。地元の店以外で、10年前から続いている店があるのか考えても、思い付かないほどです。それくらい出入りが激しいのです。

お気に入りのから揚げ店があったのですが、それも1年くらいで撤退しました。コンビニにしても出店と撤退をくり返しています。それでも東急東横線の駅前商店街であれば、あらたに出店する店がひきもきらないのです。

考えてみれば、「美味しい」と投稿した人間たちも、別に食に通じているわけではなく、軽い気持で投稿しているだけなのでしょう。

昔から投稿マニアというのはいましたが、ネットの時代になりその敷居が格段に低くなったのです。ネットの「バカと暇人」たちにとって、ネットに投稿することが恰好の時間つぶしになっているような気もします。もしかしたら、承認欲求で投稿しているのかもしれません。

以前、知り合いが都内のいわゆる「高級住宅街」と呼ばれる街でレストランをやっていたことがありました。雑誌にも取り上げられたことがあり、知り合いに訊くと、ヤラセではなくちゃんとした取材だったそうです。もちろん、グルメサイトから広告を出せば「おすすめ」で上位に表示できますよという営業があったり、怪しげな会社からグルメサイトへの「高評価」の投稿を請け負いますよとかいった勧誘もあったそうですが、バカバカしいのでいづれも断ったと言っていました。

そんな某日、席に付くや否や、いきなりテーブルの上でパソコンを開いて、何やらガヤガヤと“批評”し合うような30代から40代の「異様なグループ」が来店したのだそうです。あまりに行儀が悪いので、「他のお客さんに迷惑なりますので、そういったことはやめていただきますか?」と注意したのだとか。

すると、後日、ネットに「低評価」の投稿が次々に上げられたのでした。知り合いはネットに疎かったので、たまたまそれを見つけた私が「どうなっているんだ?」と連絡したら、「ああ、あいつらだな」と言っていました。

私たちは、いつの間にか、そんなネットの「バカと暇人」に振りまわされるようになっているのではないか。テレビのニュースでも、「ネットではこんな意見があります」というように、ネットの投稿を紹介したりしていますが、その投稿はホントに取り上げるべき意見なのかと思ったりします。

現在いまは、報道でもバラエティでも、ネタをネットで検索して探すのが当たり前になっているのかもしれませんが、そういったお手軽さが無責任を蔓延することになっているような気がします。

昔、五木寛之だったかが、編集のチェックが入ってないネットの記事は信じないことにしている、と書いているのを読んだことがあります。プロによる「真贋」=ファクトチェックというのは非常に大事で、私たちはネットが日常的なものになるにつれ、「真贋を問わない」ことにあまりに慣れ過ぎているように思います。

リテラシーという言葉だけは盛んに使われるようになりましたが、だからと言って、「真贋を見極める」リテラシーを身に付けることはないのです。あくまで私たちにあるのは「真贋を問わない」安易な姿勢だけです。

前の記事で書いたようなYouTubeのコメント欄のバカバカしさも、それがバカバカしいものだと思わなくなり、それどころかいつの間にかバカバカしいコメントを「評価」として受け入れている(そうさせられている)私たちがいます。

Googleは、「総表現社会」とか「集合知」とかいった甘言で、「真贋を問わない」社会をマネタイズして、私たちの上に君臨するようになったのでした。マネタイズするためには、「真贋」なんてどうだっていいのです。むしろ、「真贋を問わない」方が御しやすいと言えるかもしれません。

一見”百家争鳴”や”談論風発”に見えるものも、決して自由を意味しているわけではないのです。「集合知」と言っても、実際は「水は常に低い方に流れる」謂いにすぎないのです。

「総表現社会」や「集合知」という幻想によって、私たちは「真贋を問わない」ことに慣れ、同時に「総表現社会」や「集合知」のために個人データを差し出すことに、ためらいがなくなったのでした。それは、マイナンバーカードが、「健康保険証や運転免許証と一緒になるので便利ですよ」「銀行口座と紐付ければ給付金の振込みなどもスムーズに行われますよ」という、(便利なだけじゃない)”お得な利便性”の幻想を与えられて強制されるのと同じです。

Googleの先兵になって、「Googleは凄い」と宣伝してきたネット通たちの責任は極めて大きいと言わねばなりません。

今更ファクトチェックと言っても、無間ループのような作業が必要です。しかも、「真贋を問わない」情報の洪水の中で、ファクトチェックもその中に埋没させられ、冗談ではなく、ファクトチェックのファクトチェックさえ必要な感じです。

正義も、評価も、真理も、Googleという私企業の手のひらの上で操られ、いいように利用されているだけなのです。深刻に受け止めてもどうなるものではないかもしれませんが、せめてそんな世も末のような現実の中に生きているのだということくらいは、認識してもいいのではないでしょうか。

先日、朝日新聞に次のような記事が出ていました。

朝日新聞デジタル
AIに政治を任せる? 「データ教」の不気味さ、人生の最適解とは

 家の中や街で発せられた言葉、表情、心拍数などあらゆる情報をインターネットや監視カメラで吸い上げる。無数の民意データを集め、民衆が何を重視しているかを探る。そのうえで、GDPや失業率、健康寿命といった目標を考慮に入れながら、アルゴリズム(計算手順)が最適な政策を選択する。

 経済学者、成田悠輔さんは2022年に出した著書「22世紀の民主主義」(SB新書)でそんな「無意識データ民主主義」を主張した。


手っ取り早く言えば、これはGoogleが言う「集合知」を「無意識データ民主主義」と言い換えているだけではないのか。

こういった太平楽なネット信奉者が、卒業論文で、旧労農派のマルクス経済学者の名を冠した「大内兵衛賞」を受賞し、「天才」だとか言われてマスコミの寵児になる時代の怖さは、「真贋を問わない」時代とパラレルな関係にあるように思えてなりません。

「真贋」があらかじめ国家によって決められる中国のような社会と、「真贋を問わない」Googleに支配された社会は、権威主義vs民主主義と言われるほどの違いはなく、単にデジタル全体主義ファシズムの方法論の違いにすぎないように思います。
2023.01.07 Sat l ネット l top ▲
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ジャガー横田が家族で配信していたYouTubeチャンネルを突然終了した、という記事がありました。

ディリースポーツ
ジャガー横田、家族で配信のYouTubeチャンネルを突然終了「今回の一件を通して」

私は、ジャガー横田のチャンネルを観たことはありませんので、その間の事情には疎いのですが、どうやら一人息子の嘘に対して批判するコメントが殺到したのが原因のようです。

通常、YouTubeのコメント欄は、芸能人のブログやTwitterやインスタなどと同じように、ファンからのお追従コメントで溢れるものです。それは、ユーチューバーなども同様です。私などは気色が悪いというか、バカバカしいという気持しか抱きませんが、しかし、世の中はそういった空気の中でしか生きることができない人間も多いのです。そこにあるのは、言うまでもなく同調圧力です。同調圧力に身を委ねることによってしか確認できないスカスカの自分。

ところが、ジャガー横田一家のように、何か意に沿わないことがあると、途端にお追従コメントが坊主憎けりゃ袈裟まで憎い中傷コメントに一変するのでした。それもまた、ただ風向きが変わっただけの同調圧力にすぎません。

でも、私は、ジャガー横田にとって、今回の手のひら返しは返ってよかったのではないかと思います。YouTubeで何ほどかの収益を得ていたのかもしれませんが、SNSのバカバカしい世界から手を切るきっかけを得たことは、YouTubeの収益を失っても余りある大きな収穫だったと思います。

最近、とみにユーチューバーの寿命が短くなったように思います。それは、Googleをとりまく環境の変化によってYouTubeが大きな曲がり角を迎えているとか、参入の増加で競争(再生回数の奪い合い)が激しくなったとかいった理由だけではないような気がします。突然「お知らせがあります」と切り出すような、いわゆる「お知らせ」動画というのがありますが、ユーチューバーがコンテンツと関係なく、芸能人まがいのプライバシーを切り売るするような現象さえ見られるようになっているのです。

つまり、コメント欄のお追従コメントによって、ユーチューバー自身が勘違いし、独りよがりになっているということも、寿命を縮める要因になっているのではないか。そのため、生身のユーチューバーの薄っぺらさが透けて見え、結果としてユーチューバーにありがちなあざとさが目に付くようになるのです。素人の浅知恵と言ったら身も蓋もないのですが、それは、個人の能力の限界と言っていいのかもしれません。

一部の若者たちの間には、「社畜になりたくなければユーチューバーになれ」というような考えがあるみたいですが、そもそも社畜(会社員)とユーチューバーを対比すること自体がトンチンカンの極みと言えるでしょう。身も蓋もないことを言えば、それはネットに張りついたニートのような人生を送っている人間たちの現実逃避の謂いでしかないのです。

私たちの世代で言えば、”夢の印税生活”へのあこがれと同じようなものかもしれません。ただ、私たちの頃はそれはあくまで”夢”でしかありませんでした。しかし、今はすぐ手が届くような幻想が付与されているのです。それがネットの時代の特徴でしょう。社畜にならないためにユーチューバーになる、というのは一見自由な生き方のように思いますが、実際はまったく逆で、Googleの奴隷になるだけです。

YouTubeで視聴者が投げ銭しても、その30パーセントがGoogleにかすめ取られるという、えげつないシステムの中で”善意”が利用されているネットの現実。それは、寄付の20%近くが手数料として運営会社にかすめ取られるクラウドファンディングも同じです。

ユーチューバーや寄付を集める人たちは、元手がかからないので、手数料に関しては能天気なところがありますが、しかし、身銭を切って投げ銭したり寄付したりする人間からすれば、割り切れない気持になるのは当然でしょう。

あんなものは浮利=悪銭だ、という声がどうして出てこないのか、不思議でなりません。便利であれば、どんなあくどい商売も許されるのか。

このように私たちの”善意”や”正義”も、所詮は営利を求める一私企業の手のひらの上で踊らされ、利用され、搾取されているにすぎないのです。にもかかわらず、TwitterやYouTubeに公共性を求めたり、あるいはTwitterやYouTubeで公共性を訴えたりするのは、おめでたすぎるくらいおめでたい言説だとしか言えません。

今どきSNSを「利用してやる」くらいの考えを持たなければ、社会運動も時代から取り残されるだけだ、というような声もよく耳にしますが、Twitter騒動でのあの慌てぶりを見ると、とても「利用してやる」というような姿勢には見えません。

私たちに求められているのは、ネットをどれだけ客観的に(冷めた目で)見ることができるかというリテラシーなのです。ネットが自分を敵視して襲い掛かって来るのは、お追従コメントなどより自分を見直すいいチャンスだと考えるくらいの余裕が必要なのです。

それは、水は常に低い方に流れるネットとどう付き合っていくかという、基本的な姿勢や考え方の問題だと思います。

「タコツボ(化)」という言葉を最初に使ったのは丸山眞男で、1957年のことでした。丸山眞男は、「とかくメダカは群れたがる」日本の社会を特徴付ける精神的なふるまいをそう名付けたのでした。現代では、とりわけネットのトライブに対して、その言葉が使われています。とどのつまり、「信者」であろうが「アンチ」であろうが、たかがネットの「タコツボ」の中の話にすぎないということです。

丸山眞男は、『日本の思想』(岩波新書)の中で、自分たちの世界でしか通用しない「隠語」や「インズの了解事項」によって、本来議論すべきことが「いまさらの議論の余地がないと思われ」、それが集団意識の中に厚い層となって沈殿することで、最終的に外の世界への偏見を生むことになる、と書いていました。「タコツボ(化)」と同調圧力が背中合わせであることは今更言うまでもありませんが、その「タコツボ(化)」がネットの時代にもっとも低俗なかたちで表れているのが、YouTubeなどのお追従コメントや正反対の坊主憎けりゃ袈裟まで憎い中傷コメントだと言えるでしょう。

前の記事でも言ったように、それは、ネットの時代になり、思考停止した「頭の悪い人たち」が都合のいいユーザーとして、ネットを支配するGoogleなどに持ち上げられたからです。でも、彼らは、ユーチューバーも含めて、所詮は消費される(使い捨てられる)べき存在でしかないのです。
2023.01.04 Wed l ネット l top ▲
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私は、今年も「紅白歌合戦」は観ませんでした。

前の記事で書いたように、子どもの頃は、大晦日と言えば「年取り」のあと、家族そろって「紅白歌合戦」を観るのが慣例でした。

昔は、テレビというか、受像機自体がお茶の間では欠かすことのできない大きな存在で、テレビを観ないときは芝居の緞帳のような布製の覆いをかぶせていました。それくらい大事なものだったのです。

また、カラー放送が始まる前は、上から赤・青・緑(?)の三色が付いたプラスティック製のテレビ用の眼鏡のようなものを取り付けて、カラー放送を観たつもりになっていました。テレビ用の眼鏡には拡大鏡のようなものもあり、それを取り付けて、14インチのテレビで20インチのテレビを観ているような気分になったりもしていました。

ところが、あの拡大鏡のようなものは何と呼んでいたんだろうと思って、ネットで検索したら、今も「テレビ拡大鏡」という名前で売られていることがわかり、びっくりしました。何とあれはロングセラーの商品になっていたのです。

でも、現在、家族そろってコタツに入り、テーブルの上に置かれたみかんを食べながら(みかんも箱ごと買っていた)、「紅白歌合戦」を“観戦”するというのは想像しづらくなっています。

受像機自体は、昔の拡大鏡で観ていた頃に比べると、信じられないくらい巨大化していますが、しかし、もう昔のような存在感はありません。木製の家具調テレビというのもなくなったし、ましてや芝居の緞帳のような布で覆うこともなくなりました。そもそも家族がそろってみかんを食べるお茶の間というイメージも希薄になっています。いや、一家団欒さえ今や風前の灯なのです。

聞くところによれば、地上波は中高年がターゲットだそうです。若者は、PCやスマホでAmebaやYouTubeを観るのが主流になっており、ひとり暮らしだと、テレビ(受像機)を持ってない若者も多いのだとか。ケーブルテレビを契約している家庭では、地上波の番組よりカテゴリーに特化したケーブルテレビのチャンネルを観ることが多いそうです。

私自身も、いつの間にか「紅白歌合戦」を観ることはなくなり、「紅白歌合戦」を観なくても正月はやって来るようになりました。

平岡正明が採点しながら「紅白歌合戦」を観ていると言われていたのも、今は昔なのです。当時、平岡正明は、朝日新聞に“歌謡曲評”を書いていました。今で言う「昭和歌謡」ですが、あの頃は「歌は世に連れ、世は歌に連れ」などと言われ、歌謡曲が時代を映す鏡だなどと言われていました。

五木寛之が藤圭子をモデルに書いたと言われる『怨歌の誕生』をはじめ、彼の一連の歌謡曲とその背後でうごめく世界をテーマにした小説なども、私は高校時代からむさぼるように読んでいました。平岡正明も五木寛之もそうですが、ジャズの視点で歌謡曲を語るというのも斬新で、インテリの間では歌謡曲を語ることがある種のスノビズムのように流行っていました。 

しかし、今は私自身が歳を取ったということもあるのでしょうが、時間の観念もまったく違ってしまい、まるでタイムラインを見ているように移り変わりが激しく、それにAIみたいなデータでつくられたような歌も多いので、私のような人間は心に留める余裕すら持てません。ヒャダインの分析や批評は秀逸で面白いと思いますが、昔のように世代や属性を越えた「国民的ヒット」が生まれるような社会構造もとっくに消え失せ、もう「誰もが知っている歌」の時代ではなくなったのでした。

では、歌謡曲に代わるのが、現在、テレビを席捲しているお笑いなのかと思ったりもしますが、それもずいぶん危いのです。地上波のメインターゲットが中高年だとすれば、お笑いがそんなに中高年に受け入れられているとは思えません。

大晦日は、日本テレビでやっていた「笑って年越し!世代対決 昭和芸人vs平成・令和芸人」という番組を観ましたが、新世代の芸人だけでなく、「世代対決」と銘打って「昭和芸人」も持って来たところに、中高年をターゲットにする地上波のテレビの苦心が伺える気がしました。しかし、ぶっつけ本番のライブが裏目に出た感じで、余計笑えない芸ばかりが続くので、私はいつの間にか眠ってしまい、目が覚めたら番組は終わっていました。

現在、テレビを席捲しているお笑いは、吉本興業などによって捏造されたテレビ用のコンテンツにすぎません。大衆の欲望や嗜好で自然発生的に生まれたものブームではないのです。だから、大衆や時代との乖離が益々謙虚になってきているように思います。人為的につくられたお笑いブームもぼつぼつ終わりが見えてきた気がしないでもありません。

お笑いにとって、今のような「もの言えば唇寒し」の時代は、あまりに制約が多くやりにくいというか、お笑いが成り立ちにくいのはたしかでしょう。昔のように、歌謡曲で革命を語るような(とんでもない)時代だったら、もっと自由にお笑いが生まれたはずです。

M-1グランプリでウエストランドが優勝して、私も彼らの漫才は最近では唯一笑えましたが、しかし、ウエストランドのような漫才さえも、悪口かどうかと賛否が分かれているというのですから、驚くばかりです。悪口だったらNGだと言うのでしょうか。

今やお笑いをほとんどやめてしまった、タモリ・明石家さんま・ビートたけしの御三家をはじめ、ダウンタウンや爆笑問題やナインティナインが、お笑い芸人のロールモデルであることは、お笑い芸人にとってこれ以上不幸なことはないでしょう。彼等こそ、お笑いをテレビ向けに換骨奪胎してつまらなくした元凶とも言うべき存在だからです。今の彼らはトンチンカンの極みと言うしかないような、貧弱なお笑いの感覚しか持っていません。歌を忘れたカナリアが歌を語るみじめさしかないのです。

ウエストランドのお手本があの爆笑問題であれば、彼らの先は見えていると言えるでしょう。今のお笑いのシステムの中でいいように消費され、たけしや爆笑問題のようなつまらない毒舌になっていくのは火を見るよりあきらかです。

「ごーまんかましてよかですか?」みたいな話になりますが、昔は発言の機会も与えられることがなかった「頭の悪い人たち」が、ネットの時代になり、SNSなどで発言の機会を得て、社会をこのように自分たちで自分たちの首を絞めるような不自由なものにしてしまったのです。

それがGoogleの言う“総表現社会”の成れの果てです。もっとも、「Don't be evil」と宣ったGoogle自身も、今や「Is Google the new devil?」とヤユされるように、偽善者の裏に俗悪な本性が隠されていたことが知られたのでした。”総表現社会”なるものは、「水は低い方に流れる」身も蓋もない社会でしかなかったのです。そのことははっきり言うべきでしょう。

テレビがお茶の間の王様ではなくなったのに、そうであればあるほどテレビは、過去の栄光を取り戻そうとするかのように、「頭の悪い人たち」に迎合して、「水が低い方に流れる」時代の訓導であろうとしているのです。それに随伴するお笑いのコングロマリットが捏造した今のお笑いが、文字通り噴飯ものでしかないのは当然と言えば当然でしょう。

ウエストランドがネタにしていたYouTubeも、広告費の伸び悩みや参入者 の増加による再生回数の奪い合いなどによって、ユーチューバーが謳歌していた”我が世の春”も大きな曲がり角を迎えようとしていますが、皮肉なことにそれは、お笑いにとっても他人事ではないのです。

Twitterの問題に関して、一私企業の営利に担保された「言論の自由」なんて本来あり得ないと言いましたが、それはYouTubeもお笑いも同じなのです。
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