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■属地主義


先週の金曜日(5月26日)に、下記のようなニュースがありました。

ITmedia NEWS
ドワンゴ、特許裁判でFC2に勝訴 一審から逆転勝訴となった決定打は?

ニコニコ動画を運営するドワンゴが、FC2動画を運営するアメリカネバダ州にあるFC2,Inc.を特許侵害で訴えていた控訴審で、知的財産高等裁判所が、一審の東京地裁の判決を覆して、ドワンゴ側勝訴の判決を言い渡したというニュースです。

訴えられていたのは、コメントが画面に流れるあのシステムに対してです。あのシステ厶は、実はドワンゴの特許だったのです。にもかかわらず、FC2動画にも同じシステムが使われているのでした。と言えば、FC2の侵害であることは誰が見てもあきらかで、議論の余地もないでしょう。

ところが、一審の東京地裁では、「特許権の侵害に当たらない」とドワンゴの訴えが退けられたのでした。何故そんなことになるのかと言えば、FC2の運営会社がアメリカの会社で、サーバーもアメリカにあるため、法律が及ぶのは自国内に限るという“属地主義”の原則に触れるからです。それぞれの国にはそれぞれの国の法律があるので、日本の法律は日本の国内に限る、というのは当たり前と言えば当たり前の話です。

特許を侵害しているかどうかという事実の認定の前に、そもそも法律が適用できるのかという“属地主義”の原則が立ちはだかったのでした。

しかし、FC2動画は日本のユーザー向けのサービスで、流れているコメントも日本語です。また、広告の管理も大阪にある関連会社が行っており、実質的にサイトを運営しているのはその関連会社と言われているのです。

高裁では、そういったドワンゴ側の主張が一転して認められ、流れるコメントの差し止めと1100万円の賠償金が言い渡されたのでした。

今までは、サーバーが海外にあれば日本の法律が及ばないという考えが一般的だったので、業界にとっては予想外の判決で、大きな衝撃を持って受け止められているそうです。法曹界でも、“属地主義”という法律の大原則を覆す判決だとして、物議を醸しているのでした。品性下劣な左派リベラルが言うような、ガーシーやNHK党と関係のあるエロ動画サイトの違法行為が認定されて「ざまあ」みたいな話ではないのです。

これは裁判には直接関係のない話ですが、もっとも、ニコ動はもうオワコンという声も多く、ニコ動とFC2の裁判も、負け犬同士のケンカのように思えなくもありません。

マーケティングアナリストの原田曜平氏(芝浦工大教授)は、SNSなどのネットサービスについて、TikTokのシェアは全年代では22.5%だけど、Z世代に限れば50%を占め、ダントツに若い年代から支持されている、と言っていました。それに対して、Twitterは下降気味で、YouTubeもほとんど伸びてないのだそうです。そして、フェイスブックとニコ動は「論外」と言っていました。

■FC2の生命線


私は、FC2ブログを利用していますので当然FC2の会員ですが、ユーザーの立場から見ると、FC2が悩ましい会社であるのは事実です。2013年には、大阪の関連会社の社長(FC2の創業者の高橋理洋氏の実弟)らが、わいせつ電磁的記録媒体陳列の容疑で逮捕され、2015年には高橋理洋氏自身も同容疑で「国際海空港手配」されたのでした。また、2021年にはFC2動画でわいせつ動画を流したとして、ユーザー7名が逮捕されています。

FC2ブログは非常に使いやすいし、サイトの自由度も高いので重宝しているのですが、ただ、FC2の収益の大半はFC2動画、それもアダルト動画(エロ動画)と言われています。つまり、FC2ブログは、エロ動画のお陰で成り立っているようなものです。このようにFC2にとって、エロ動画は生命線でもあるのです。でも、それは同時にアキレス腱とも言えるのです。実際に、警察の要請によって、昨年の6月からFC2の動画サイトでクレジットカードが使えなくなったために、投稿される動画も売上げも激減しているという記事もありました。そうなれば、当然会社の経営にも支障をきたすようになるでしょう。エロ動画におんぶにだっこされているブログも、ある日突然終了になるんじゃないかと懸念する声もありますが、それも杞憂とは言えないかもしれません。

■高橋理洋氏


高橋理洋氏の強気な発言を見ると、FC2は警察と対立しているので、情報開示にもなかなか応じないのではないかと思っていましたが、実際は逆で、FC2は素直に開示に応じる会社なのだそうです。そんな話を聞くと、益々嫌気が差して来るのでした。あの強気な発言もただの虚勢だったのかと思いました。

高橋理洋氏は今は経営から手を引いていると言われていますが、ガーシーの事件以後、仲間が増えて嬉しいのか、まるで亡霊のようにやたらネットに顔を出すようになりました。彼が参院選に立候補するに際して開設したYouTubeでも、思わず目を覆いたくなるような、成金趣味むき出しのはしゃぎぶりでした。FC2会員としては、そんな創業者の高橋理洋氏の存在が目障りでなりません。FC2のいかがわしいイメージをよけい増幅させている感じさえあります。ガーシーと一緒に「ドバイ来ない?」なんて言っている動画を見せつけられると、何とかしてくれよと言いたくなるのでした。


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『悪党 潜入300日 ドバイ・ガーシー一味』
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(イラストAC)


■格差という共通の問題


『ニューズウィーク』のウェブ版で、「デジタル権威主義とネット世論操作」というコラムを連載している作家の一田いちだ和樹氏が書いていた下記の記事は、非常に示唆に富んだものでした。

Newsweek(ニューズウィーク日本版)
陰謀論とロシアの世論操作を育てた欧米民主主義国の格差

一田氏は、国際的な陰謀論や世論操作などは、相手国に「分断と混乱」を招いている問題をターゲットする、と書いていました。

情報戦、フェイクニュース、偽情報、ナラティブ戦、認知戦、デジタル影響工作といったネットを介した世論操作は相手国の国内にある問題を狙うことが多い。その問題は相手国ですでに国内の問題として存在し、分断と混乱を生んでいる。そのためどこまでが他国からの世論操作によるものなのか、自国の国内問題なのかという判別は難しい。
(上記記事より。以下引用は同じ)


代表的なのは「格差」です。「格差」は、今や世界の「共通の問題」になっているのです。フェイクの標的になるのは、「格差」によって忘れられた存在になった社会的弱者たちです。彼らは、メディアや「政治の場で取り上げられることも少なく、不可視の状態になっている」と言います。そのため、社会的な共感を得ることも難しく、彼らを「共感弱者」と呼ぶのでした。

一田氏が書いているように、世界の人口の半数を占める貧困層が保有している資産は、僅か2%にすぎません。一方、世界の人口の10%の富裕層の人々が保有している資産は、全体の76%の資産を占めているのです。

インバウンドでは、中国や台湾やシンガポールは言わずもがなですが、タイやマレーシアやインドネシアやフィリピンやベトナムなどのアジアの国からやって来た観光客たちが、私たちが目を見張るような羽振りのよさを見せるのは、彼らがグローバル資本主義の勝ち組の富裕層だからです。私たちも口にできないような高価な和牛を次々と注文して、「安くて美味しい」と言い放つ彼らは、間違いなく私たちより豊かな生活をしているのです。でも、その背後には、海外旅行など想像すらできないような人々がその何倍も存在するのです。インバウンドばかりに目を奪われる私たちにとっても、彼らは「不可視な存在」になっているのです。

一田氏は、続けてこう書きます。

かつて欧米の民主主義国の左派政党は低学歴・低所得者層を支持母体としていたが、徐々に高学歴・高所得層へとシフトしていった。その結果、格差の下位にいる人々の声を政治の場に届けるのはポピュリストのみになった。(略)
民主党を支持の中心は、投票者の90%を占める低位の人々ではなく、上位10%の人々に変化している。同様の傾向は他の欧米の民主主義国でも見られる。
(略)
現在、格差の下位にいる人々がまとまって影響力を行使することは難しい。彼らは多様であり、まとまるためのイデオロギーもない。共通しているのは富裕層=エスタブリッシュメントへの反発である。また、共感弱者(男性、白人など)は共感強者(LGBT、移民など)に反感を持つ傾向がある。共感弱者とはさきほどの共感格差の下位にいる人々でメディアで取り上げられることが少なく、共感を得にくい。共感強者とはメディアに取り上げられ、結果として政治の場でも取り上げられやすい。


それを一田氏は、「ガソリンがまかれている状況=格差が放置されている状況」と言います。

もちろん、日本も例外ではありません。貧困対策より、子育て支援が優先されるのはその典型です。与党も野党も、中間層を厚くしなければならないとして、中間層向けの政策ばかりを掲げるのでした。

しかし、話はそれだけにとどまらないのです。

■スマートシティ


日本政府は、バイデンの要請に従って、今にも中国が台湾や沖縄に攻めて来るかのように言い募り、民主党のスポンサーである産軍複合体に奉仕するために軍拡に走っていますが(実態は型落ちの在庫品を割高な値段で買わされているだけですが)、その一方で、行政の効率化の名のもとに、中国式の“デジタル監視社会”をお手本にして、似たようなシステムを導入しようとしているのでした。

私たちの個人情報をマイナンバーカードに一元管理しようとする試みなどはその最たるものでしょう。また、公共空間における監視カメラと顔認証の普及も然りです。それらが紐付けされれば、中国のような便利で効率のいい、行政官が理想とする社会になるのです。にもかかわらず、パンデミックを経て、それがディストピアの社会であるというような声はほとんど聞かれなくなりました。『1984年』を書いたジョージ・オーウェルも、そのタイトルのとおり、完全に過去の人になってしまった感じです。

問題はガソリンがまかれている状況=格差が放置されている状況なのだから、格差を是正するか、徹底的に低所得層を抑圧して活動を制限するしかない。現時点でもっとも効果的なのは後者、つまり徹底した抑圧を実現するための統合社会管理システムになる。中国やインドが推し進めている監視、行動誘導、国民管理を一体化したシステムである。古い言葉で言えば高度監視社会であり最近の言葉で言えばスマートシティだ。中国はすでにこのシステムを他国に販売している。
(略)
格差を是正するよりは、格差を不可視のままにして、中露の世論操作への対策を口実に中国やインドのような統合社会管理システムを構築し、徹底した抑止を行う方がよい。
(略)
早期にシステムを作れば多くの国に販売・運用代行することも可能であり、産業振興にもつながる。アメリカ、特にSNSプラットフォーム企業は意図的にそうしている可能性が高い。


極端なことを言えば、僅か10万円の給付金のために私たちはみずからの自由を国家に差し出すことに何の抵抗もなくなったのです。そして、今度は「産めや増やせよ」の現代版である「異次元の少子化対策」の餌をぶら下げられ、一も二もなく”デジタル監視社会”への道に身を委ねているのでした。

もちろん、政治においても同様です。この「格差」の時代に、上か下かの視点をみずから放棄した左派リベラルの(階級的な)裏切りは万死に値しますが、それが今の翼賛的な野党なき、、、、政治を招来しているのは論を俟たないでしょう。国際的な陰謀論と連動したミニ政党が跋扈したり、まるで目の上のたん瘤だと言わんばかりに立憲民主党界隈かられいわ新選組に対する攻撃が激しさを増しているのも、その脈絡で考えれば腑に落ちるのでした。


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■メディアの環境の変化


前の記事の続きになりますが、ジャニー喜多川氏や市川猿之助氏の問題を考えるとき、やはり念頭に浮かぶのはメディアの問題です。

何度もくどいほど言いますが、ジャニー喜多川氏の問題ではテレビや週刊誌や新聞など既存のメディアは臭いものに蓋をしてきたのです。そして、テレビや週刊誌は、市川猿之助氏の問題においても、今なお、ポイントを外れた(外した)ような報道を続けているのです。市川猿之助氏の代役を務めた市川團子氏を絶賛し、市川團子氏は澤瀉おもだか屋の救世主になった、などと頓珍漢なことばかり言っているのでした。

ジャニー喜多川氏の問題では、既存メディアもやっと重い口を開くようになったのですが、ジャーナリストの青木理氏は、下記の番組で、ジャニーズ事務所がメディアをコントロールする力を失くしたのは、BBCという外圧だけでなく、「メディア環境の変化」によるところが大きいと言っていました。

Arc Times
ジャニーズ事務所凋落の1つの理由はメディア環境の変化にある 

私も何度も書いてきましたが、芸能界では芸能人が独立するとテレビで干されるのが常でした。芸能プロダクションとテレビ局が、そうやって芸能界をアンタッチャブルなものにしてきたのです。しかし、ネットが普及すると、大手メディアが介在しないところで“世論”が形成されるようになり、芸能プロダクションやテレビ局のコントロールが利かなくなったのでした。

番組では、ジャニーズ事務所の関連でSMAPの例をあげていましたが、私は女優ののん(能年玲奈)がその典型だと思います。彼女は、独立したためにテレビで干された(今も干されている)のですが、しかし、テレビ以外のところで大成功を収めて、事務所に所属していた頃とは比べものにならないくらいの収入を得ていると言われます。それを可能にしたのも、メディアの環境が大きく変わり、テレビに頼らなくてもいいようなシステムができたからです。ちなみに、のんの場合、能年玲奈は本名なのですが、本名を前の事務所で芸名として使っていたとして、裁判所で使用禁止の訴えが認められて、芸能活動を行う上では本名が使えないというアホみたいな話になっているのでした。まったく日本はどこまでヤクザな国なんだと思います。

■文春砲


そして、そのネットの“世論”を形成するのに大きな役割を果たしているのが“文春砲”です。政治家が今や怖れるのも、新聞ではなく“文春砲”だ言われているのでした。

しかし、青木氏は、「文春が元気なのは週刊誌ジャーナリズムの最後の輝き」だと言うのでした。どういうことかと言えば、文春があんなにスクープを連発できるのは、他の週刊誌にいた「ハイエナのような」記者たちが、最後の砦のように文春に集まっているからにほかならないからです。毀誉褒貶はあったにせよ、昔はフライデーでも週刊現代でも週刊ポストでもみんな元気でした。ところが、どこも路線変更してスキャンダリズムの旗を降ろしたのでした。それで、書く場を失ったフリーの記者たちが文春にやって来て、今の”文春砲”の担い手になっているというわけです。

週刊誌が元気だった頃、週刊誌で働くフリーライターたちが作った(名前は正確に覚えていませんが)「働く記者の会」とかいう労働組合みたいなものがありました。私も同会が主催する講演会に行ったことがありますが、そこには、竹中労が言うような「『えんぴつ無頼』の一匹狼のルポライターや記者たちが沢山いました。

青木氏は、文春も紙媒体としては恐らく赤字のはずだ、と言っていました。しかも、出版社の中で、デジタル化に成功したコミックの出版権を持ってない出版社はこれからはもっと苦しくなることが予想され、文春の母体の文藝春秋社も例外ではないのです。

そもそも文春などの週刊誌やネットメディアは、ファクトチェックをするだけで、一次ファクトを提示するような力を持ってないというのは、そのとおりでしょう。

■朝日の弱い者いじめ


一次ファクト、つまり、一次情報を取りに行くような(調査報道を担う)記者たちが減り続けている現状にこそ、ジャーナリズムの危機があるのです。

青木氏によれば、現在、朝日新聞には1900人近くの記者がいて、朝日以外の新聞社には1000人程度の記者がいるそうです。テレビはNHKを除くと、記者は大体100人くらいだそうです。しかし、あと10年もすれば半減するだろうと言われているのです。

たとえば、朝日新聞は、最盛期は800万部くらいの部数を誇っていましたが、今では400万部を切っていると言われています。デジタル会員も20~30万人にとどまっているそうで、その惨状は想像以上なのです。名物記者が次々と辞めているのも、故なきことではないのです。

一方、朝日と提携しているニューヨーク・タイムズは、クオリティ・ペーパーとしての評価は高かったものの、もともとはニューヨークの地方紙で発行部数も数10万部にすぎませんでした。それが今では、英字紙というメリットも生かしてデジタル化に成功し、デジタル会員が600万人を超え、紙と合わせると1千万部近くに増えているそうです。ただ、アメリカでも地方紙は壊滅状態だそうで、それがトランプ現象をもたらしたような陰謀論がはびこる要因になっているとも言っていました。

最近、朝日新聞が、足立区議選で初当選した女性議員に関して、立候補する前の今年3月に、アニエスベーのコピー商品をフリマアプリで転売した商標法違反で、東京簡裁から罰金刑を受けていたことを報じ、同議員が初登庁の日に辞職するというニュースがありました。言っていることが矛盾しているではないかと思われるかもしれませんが、私は朝日が火を点けたあのバッシングを見て、嫌な感じを受けました。朝日はスクープしたつもりなのかもしれませんが、国会には下着泥棒をしながら政権与党の要職に就いている議員もいるくらいで、むしろ弱い者いじめをしているようにしか見えませんでした。

たしかに、女性議員がやったことは法に触れることではありますが、ビジネスとして常習的にやっていたわけではなく、転売で得た収益(差額)は2115円です。「ニセモノとは認識していなかった」というのもホントだったかもしれません。件の議員は、Twitterに「情けないです」と投稿して、辞職したことをあきらかにしたのですが、可哀想に思えたくらいです。

しかも、朝日新聞系列のAERA dot.では、「他にも余罪の可能性がある」という”憶測記事”を書いて、Yahoo!ニュースで拡散しているのでした。そのため、ヤフコメの恰好の餌食になったのですが、しかし、立件されたのは、あくまで2115円の収益を得た1件だけなのです。何だかそこには”悪意”さえあるような気がしてなりません。反論できないことをいいことにして、水に落ちた犬をさらに叩くような、こういったメディアはホントに怖いなと思います。

重箱の隅をつつくのではなく、重箱に盛られた特大のうなぎの正体を暴けよと言いたくなりますが、今の朝日にこんなことを言っても、所詮馬の耳に念仏なのでしょう。総理大臣の記者会見も、最初から質問者も質問する内容も決められた「台本の読み合わせ」にすぎないと望月衣塑子氏は言っていましたが、記者クラブの大手メディアの記者たちは読者や視聴者を愚弄しているとしか思えません。質問もしないでパソコンを打っているだけなら、AIで充分でしょう。

元朝日記者の鮫島浩氏は、朝日が5月1日から再び値上げしたことに関して、急激な部数減に襲われている新聞は益々政府広告への依存を深め、政府広報紙のようになっていると批判した上で、次のように書いていました。

かつての同僚に聞くと、もはや「読者拡大」で経営を再建することや「政権を揺るがす大スクープ」を狙って報道機関の使命を果たすことよりも、公的機関や富裕な高齢層など上級国民の一部読者を囲い込みつつ、とにかくリストラを進めて会社を少しでも長く延命させることを志向しているという。

さらなる発行部数の減少はすでに織り込み済みなのだ。会社上層部の世代が逃げ切るための「緩やかに衰退していくソフトランディング路線」である。典型的な縮小再生産といっていい。

Samejima Times
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青木氏も言っていましたが、メディアにはさまざまなタブーが存在します。言論の自由なんて、病院の待合室に掲げられている「患者様の権利」と同じで、絵に描いた餅に過ぎないのです。竹中労は、「言論の自由なんてない。あるのは自由な言論だけだ」と言ったのですが、けだし「自由な言論」とは、記者個人の気概や資質の問題にほかならないのです。偉い人や偉そうな人を「この野郎」と思う気持があるかどうかなのです。一次情報を取りに行く記者の数が減るという問題もさることながら、その前に記者の質を問う必要もあるでしょう。

愛国ビジネスという言葉がありますが、YouTubeの広告を見てもわかるとおり、今やネットを中心に“陰謀論ビジネス”が雨後の筍のように登場しており、右派メディアの愛国ビジネスが、身過ぎ世過ぎのために“陰謀論ビジネス”と合体しているような現実もあります。ファクトチェックどころか、ファクト自体が存在しない中でのファクトチェックまがいのことがはじまっているのです。


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■幼稚と暴力


ジャニー喜多川氏や市川猿之助氏の性加害を考える上で、私は、北原みのり氏がアエラドットに書いていた下記の記事を興味を持って読みました。

AERAdot.
幼稚と暴力がガラパゴス化したジャパン 「日本の今」を記録したドイツ人女性ジャーナリストが混乱した

北原氏は、ドイツ人女性ジャーナリストたちが、日本に1ヶ月滞在して取材した際に同行したのだそうです。

ドイツ人ジャーナリストは、歌舞伎町の様子をカメラに収めながら、「男性が支配的な国で、なぜこんなに子供っぽいものが多いのか?」と疑問を抱くのでした。

 日本は美しく、日本人は優しく、日本は安全で、どの町にも24時間営業のコンビニがあり、電車が時刻通りにくる便利な国……という良いイメージがあるが、フェミニストの視点でのぞいてみると、まったく違う顔が見えてくる。なかでもドイツ人ジャーナリストを混乱させたのは、「日本のかわいさ」と「暴力性」だった。


 街中のポスターや、アダルトショップで販売されている幼稚なパッケージを前に何度もそう聞かれ、「幼稚」と「暴力」はこの国では1本の線でつながっているのだと気が付かされる。ここは成熟を求められない国。成人女性が高く幼い声で幼い仕草で幼い言葉で「自分を小さく見せる」ことに全力をかける社会。成人男性の性欲はありとあらゆる方法でエンタメ化され、「ほしいものは手に入れられる」と幼稚で尊大な自己肯定感を膨らませ続けられる社会。


ホストクラブは日本にしかない“風俗”だそうですが、ホストたちは、「『貧しい家庭で育ち、学歴もなく、社会的な信頼もないオレ』が、一気に『勝ち組』になれるシステム」だとして、ホストクラブを男の夢として語るのでした。

■こどおじ


週刊誌の記事がホントなら、市川猿之助氏は、両親が老々介護をしているのを尻目に、スタッフをひき連れてホテルで乱痴気パーティを開き、その席でまるで絶対君主のように有無を言わせずに性的行為を強要していたのです。

そして、彼は、そんな暴力的で子どもじみたふるまいをしながら、週刊誌に「あることないこと書かれた」のでもう「生きる意味がない」と言い、両親に「死んで生まれ変わろう」と提案するのでした。何だか甘やかされて育てられた一人息子のボンボンの、どうしようもない(目を覆いたくなるような)幼稚さが露呈されているような気がしてなりません。

そんな市川猿之助氏は、澤瀉おもだか屋の二枚看板の一つである「猿之助」の名跡を継ぎ、これからの歌舞伎界を担うホープとして将来を嘱望されていたのでした。もし今回の事件がなかったら、そのうち人間国宝の候補になったかもしれません。あと10年もすれば紫綬褒章くらいは授与されたでしょう。でも、一皮むけばこんな「こどおじ」みたいな人物だったのです。

■大人と成熟


ジャニー喜多川氏も然りで、まわりの人間たちは、ジャニー氏がやっていることが「ヤバい」というのはわかっていたはずです。しかし、ジャニー氏もまた絶対君主だったので、みんな「見て見ぬふり」をしてきたのでした。

ジャニー氏の被害に遭った少年たちも、芸能界にデビューしてアイドルとしてチヤホヤされるために、ジャニー氏の欲望を受け入れるしかなかったのでしょう。しかも、年端もいかない少年であるがゆえに、グルーミングによって手なずけられたのでした。「ジャニーさんは父親みたいな存在」、そう言うと、メディアはそんな話でないことはわかっていても、それを美談仕立てにして誤魔化して来たのでした。

そして、少年たちは長じると、ニュース番組のキャスターを務めるまでになったのでした。彼らを起用したテレビ局も、ジャニー氏がやって来た「ヤバい」ことを知らなったはずがないのです。ジャニー氏の寵愛を受けたその中のひとりは、番組の中で、真相を語ることなく、ジャニーズ事務所は名前を変えて再出発すればいいと、どこかのカルト宗教みたいなことを言ったのでした。

記事のタイトルの「幼稚と暴力がガラパゴス化したジャパン」とは言い得て妙で、これは芸能界だけの話ではないし、セクハラだけの話でもありません。サラリーマンたちだって、似たような経験をしているはずです。みんな同じように、家族のためとか、生活のためとか、将来の年金のためとかいった口実のもとに、「ヤバい」ことを「見て見ぬふり」して来たのです。私も上司からよく「大人になれ」と言われましたが、会社では「見て見ぬふり」をすることが「大人になる」ことだったのです。

北原氏は、日本を「成熟を求められない国」と書いていましたが、日本の社会では、「成熟する」というのは「大人になる」と同義語なのです。つまり、「大人」や「成熟」という言葉は、現実を肯定し(「見て見ぬふり」をして)自己を合理化する意味で使われているのでした。そういった日本語の多義性を利用した言葉の詐術も、日本的な保守思想の特徴と言えるものです。それは文学も然りで、江藤淳の「成熟」も「こどおじ」のそれでしかなかったのです。

保守派からLGBT法は日本の伝統にそぐわないという反対意見がありますが、その伝統こそがジャニー喜多川氏や市川猿之助氏のような存在を生んだのです。国家に庇護された伝統と人気が彼らの性加害の隠れ蓑になったのです。私たちは、LGBT法とは別に、伝統こそ疑わなければならないのです。

■話のすり替え


ところが、ここに来てワイドショーなどを中心に、市川猿之助氏の才能や人柄をヨイショする報道が目立って増えており、中には復帰することが前提になっているような報道さえ出始めています。さすがに、それは違うだろうと言わざるを得ません。何だか再び(性懲りもなく)「見て見ぬふり」が始まっているような気がしてなりません。

(本人の供述として報道されていることを前提に言えば)自殺未遂に関しても、不可解な点がいくつもあるのです。たとえば、自殺したと言っても、家族三人が枕を並べて一緒に心中したわけではなく、両親と猿之助氏との間でかなりのタイムラグが生じていると推測されるのです。タイムラグの間に、猿之助氏は、向精神薬を飲んで昏睡状態に陥った(と思われる)両親の顔にビニール袋を被せて、呼吸しているかどうかを確認したと供述しており、しかもそのあと、ご丁寧に向精神薬の薬包紙やビニール袋を処分しているのでした。さらに、座長を務める公演を体調が悪いので休むとわざわざ電話しているのでした。その上、自宅の鍵を開けたままにしているのです。

もう一つ忘れてはならないのは、市川猿之助氏が、歌舞伎の”家元制度”を背景にして、日常的にパワハラやセクハラ(性加害)を繰り返していたということです。その性加害はジャニー喜多川氏と同様に、同性に対するのだったのです。そのため、彼の性的指向についても言及せざるを得ないのです。

にもかかわらず、テレビのワイドショーは、性的指向にはひと言も触れずに、伝統ある歌舞伎役者としての側面ばかりを強調しているのでした。それは、どう見ても話のすり替えのように思えてなりません。自殺未遂に関しても、市川猿之助氏は澤瀉屋の後継者としての重圧を背負った犠牲者みたいな言い方がされていますが、目を向けるべきはそっちではないでしょう。

もしこれが国家に庇護された歌舞伎界のスターでなくて”一般人”だったら、それこそ疑問点をあることないことほじくり返して、自殺を偽装した殺人事件のように報じるはずなのです。
2023.05.25 Thu l 社会・メディア l top ▲
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■先客万来の虚構


観光地でゲストハウスや飲食店などを経営している友人から電話があったので、いつものように「景気はどうか?」と訊いたら、ゴールデンウィークの前半はよかったけど、「後半はダメだった」と言っていました。

「テレビは元に戻ったみたいな言い方をしているけど、元には戻ってないよ」と嘆いていました。
「結局、パンデミックの反動で一時的に戻っただけということか?」
「そうだよ。外国人観光客も完全に戻って来てないので、いい状態が続かないんだよ」

客単価も低くて、言われるほど千客万来の状態ではないと言います。

たしかに、コロナ禍前の2019年度の外国人観光客の「旅行消費額」4兆8135万円のうち、36.8%の1兆7704万円を占めていた中国人観光客は完全に戻って来てないのです。

今のような中国敵視政策が続けば、以前のようにドル箱の中国人観光客が戻って来るのか疑問です。核の脅威を謳いながら核戦争を煽っているG7サミットと同じで、中国を鬼畜のように敵視しながら観光客が来るのを首を長くして待っている矛盾を、矛盾と思ってないのが不思議でなりません。

メディアのいい加減さは、インバウンドでも、G7サミットでも、ジャニー喜多川問題でも同じです。たとえば、欧米の観光客はケチでショボいというのが定説でしたが、いつの間にか中国人観光客に代わる(言い方は変ですが)大名旅行をしているみたいな話になっているのでした。

もっとも、「外国人観光客が戻って来て大賑わい」というのも、外国人が日本の食べ物や景色や日本人の優しさに「感動した」「涙した」という、YouTubeでおなじみの動画の二番煎じのようなものです。その手の動画をあげているのはほとんどが在日の外国人で(その多くがロシア人で、最近は韓国人も増えてきた)、日本人の中にある「ニッポン、凄い!」の”愛国心”をくすぐって再生回数を稼ぎ、配信料を得るためにやっているのですが、テレビも視聴率を稼ぐために同じようなことをやっているだけです。

■被爆者の「憤り」


今回のサミットに対しては被爆者の間から批判が出ており、平岡敬元広島市も、次のように憤っていました。

朝日新聞デジタル
元広島市長「岸田首相、ヒロシマを利用するな」 核抑止力維持に憤り

平岡元市長は、「岸田(文雄)首相が、ヒロシマの願いを踏みにじった」「岸田首相は罪深い」と言います。

(略)本来は核が人間に与えた悲惨さを考えるべきです。核を全否定し、平和構築に向けた議論をすべきでした。

 加えて、19日に合意された「広島ビジョン」では、核抑止力維持の重要性が強調されました。

 戦後一貫して核と戦争を否定してきた広島が、その舞台として利用された形です。


 核を否定し、平和を訴えてきたヒロシマを、これ以上利用するなと言いたいです。

 広島を舞台にしてウクライナ戦争を議論するならば、一日も早い停戦と戦後復興について話し合われるべきでした。

 中国とロシアを非難するだけでは、緊張が高まるだけです。いかに対話をするか、和解のシグナルを発信する必要があります。

 戦争の種をなくし、平和を構築する。それが、岸田首相をはじめとするG7首脳たちに求められていることです。


しかし、翼賛体制下にある今の日本では、こんな発言もお花畑の理想論と一蹴されるだけです。

今回のG7サミットは、ゼレンスキー大統領の参加というお膳立てもあり、さながら第三次世界大戦の決起集会のようでした。どうすれば核戦争を回避し和平に導くことができるか、という議論ははなからありませんでした。とは言え、G7の拡大会議に出席したインドやブラジルの態度に見られるように、それも一枚岩とは言い難いものでした。

翼賛体制に身を委ねているのは、メディアだけでなく左派リベラルも同じです。彼らもウクライナVSロシアという戦時の発想に依拠するだけで、“戦争サミット”を批判する視点を持ってないのです。野党風な態度を取りながら、今の”戦争体制”を補完しているだけなのでした。

それは、新左翼も同じで、一部を除いてはロシアの侵略戦争というベタな視点しか持ちえず、アメリカの戦争政策に追随しているあり様です。そのため、前回のドイツ・エルマウのサミットのときのような、「戦争反対」のデモもまったく見られなかったのです。彼ら自称「革命的左翼」も完全に終わっているのです。

唯一行われた中核派系のデモも、下記の動画のように、警察によって徹底的に封じ込められたのでした。デモの様子は、日本のメディアではほとんど報じられませんでしたが、イギリスBBCによって、警察がデモ隊を暴力的に制圧するシーンが世界に拡散されるというオチまで付いてしまったのでした。また、現場となった商店街の市民が撮影した動画もネットにあげられ、それぞれ万単位の再生数を記録することになりました。こんなことを言うと叱られるかもしれませんが、ネットの時代のカンパニアとしては、大成功と言えるのかもしれません。

G7の首脳たちが円卓を囲んで微笑んでいるシーンや、ゼレンスキー大統領が各国首脳と握手しているシーンだけがG7ではないのです。こういったシーンも、G7広島サミットを記録する上で欠かせないものなのです。と言うか、唯一台本のないガチなシーンだったと言えるのかもしれません。


■資本主義の危機


ウクライナ戦争の天王山とも言われるバフ厶トを巡る攻防についても、一時はバフムトの陥落は近いと言われていました。しかし、最近は形勢が逆転して、ロシア軍が退却しているというような陥落を否定するニュースが出ていました。ところが、G7の最中に、ロシア国防省と軍事会社のワグネルがバフ厶トを掌握したと発表し、それに対して、ゼレンスキー大統領も、記者会見で、郊外で抵抗しているとか何とか言うだけで、完全に否定はしなかったのでした。どうやら当初の話のとおりバフ厶トの陥落は事実のようです。このように日本のメディアは、イギリス国防省やアメリカの国防総省のプロパガンダをそのまま垂れ流しているだけなのでした。そのため、ときどき「話が全然ちがうじゃないか」と思うようなことがあるのでした。

ウクライナ戦争や米中対立によって、西側の経済は大きな傷を負っています。そのことをいちばん痛感しているのは私たち自身です。資源高&エネルギー価格の高騰による物価高に見舞われ、生活苦も他人事ではなくなっています。その一方で、商社や金融機関や自動車メーカーなど大企業は相次いで好決算を発表しているのでした。つまり、大儲けしているのです。

財務省の法人企業統計によれば、大企業の内部留保は2021年度末で484.3兆円まで膨れ上がっているのですが、ウクライナ戦争を好機に、さらに積み増ししようとしているかのようです。この火事場泥棒のような現実こそ、資本主義の危機の表れとみなすことができるでしょう。

■中国抜きでは成り立たない現実


そもそも、国際的な分業体制が確立し、それを前提に成り立っている今のグローバル経済にとって、アメリカが言うような中国抜きのサプライチェーンなど絵に描いた餅にすぎないのです。

『週刊ダイヤモンド』の今週号(5月27日号)では、「半導体・電池『調達クライシス』」という記事の中で、中国ぬきでは成り立たないサプライチェーンの現実を次のように指摘していました。尚、記事の中のCATLというのは、世界最大の半導体メーカーである中国の寧徳時代新能源科技のことです。

 そもそも電池のサプライチェーンは、半導体とは全く異なる特殊性がある。半導体の場合は、設計、半導体材料、半導体製造装置、製造のあらゆる主要工程を米国、日本、台湾、オランダが握り、西側諸国でサプライチェーンを完結できる。だが電池の場合は、中国を介さずに調達できる国は一つとしてない。
 鉱物資源からレアメタルを取り出しす製錬工程が中国に完全に握られている他、日本に強みがある電池材料でも中国勢がコストや品質で猛追。さらに中核の電池製造では、日本と韓国を抑えて、中国電池メーカー2社が圧倒的だ。調査会社テクノ・システム・リサーチによると、22年(見込み値)で世界首位のCATLの出荷額は270GWh、シェアは46%に達する。
 すでにCATLは、中国EVメーカーだけにとどまらず、欧州各国、米テスラ、米ビックスリー、日系大手3社など世界中のEVに車載電池を供給している。「中国排除」のサプライチェーンなど成り立たないのは明白だ。
(『週刊ダイヤモンド』5月27日号)


また、今朝のNHKニュースでは、福岡の市場で競り落とされたノドグロやマナガツオ、アラカブ、タチウオといった高級魚が、香港や韓国や台湾などへ輸出されている現状を特集で伝えていました。そのために中国人の仲買人を雇っている仲卸会社もあるそうです。

NHK NEWSWEB
ビジネス特集・「日本人は金払えない」アジアの胃袋に向かう高級魚

番組によれば、市場に出入りする仲卸会社の大半が輸出に関わっており、既に売り上げの4割近くを輸出が占めている仲卸会社もあるそうです。

「もう国内だけではだめだと思います。われわれとしては、高く買ってくれるところに売るのが一番いいんです。今は海外のほうが確実にもうかります」という仲卸会社の社長の言葉が、今の日本を象徴しているように思います。

似たような話は、横浜橋の商店街でもありました。どこかのニュースでも取り上げられていましたが、横浜橋の商店街では中国人が経営する八百屋や魚屋や総菜屋が増えており、しかも、日本人経営の店より価格が安いので買い物客で賑わっているそうです。と言うと、ネトウヨと同じように、怪しい野菜や魚を売っているんだろうと言われるのがオチですが、しかし、実際は市場から正規のルートで仕入れているちゃんとした商品だそうです。要するに、日本人経営の店と違って、豊富な資金で大量に仕入れるため、その分仕入れ価格が安くなり安売りが可能になるというわけです。

中国が豊かになり、一方で日本が「安い国」になったので、ひと昔前だったら考えられないような”逆転現象”が起きているのでした。先の友人の話では、観光地のホテルや飲食店も、中国資本や韓国資本に次々と買収されているそうです。あそこもあそこもと私も知っているホテル名をあげて、みんな買収されたんだと言っていました。

■梯子を外される日本


米中対立も、超大国の座から転落したアメリカの悪あがきと言えなくもありません。日本はそんなアメリカの使い走りのようなことをやっているのですが、それはホントに国益に敵っていることなのだろうかと思ってしまいます。

昨年10月に国際決済銀行(BIS)が発表した、世界の外国為替取引高における通貨別シェアによれば、トップは言うまでもなくアメリカドルの88%で、第2位がユーロの31%、第3位が日本円の17%、第4位がイギリスポンドの13%で、中国の人民元は4%から7%に上昇したものの第5位でした。アメリカドルの圧倒的な強さは変わらないものの、アメリカが人民元のシェアが伸びていることに神経を尖らせているのは間違いないでしょう。言うまでもなく、今の通貨体制がアメリカの生命線でもあるからです。

一方で、中国は、BISとは別に独自の人民元国際決済システム(CIPS)を導入して、「一帯一路」沿線の国やいわゆるグローバルサウスと呼ばれる国を中心に人民元(それもデジタル人民元)での決済をすすめており、金融面においてもアメリカの覇権(アメリカドルの実質的な基軸通貨体制)に対抗しようとしているのでした。それが今の米中対立の要諦です。

ただ、深刻度を増す金融危機に見られるようにアメリカ経済も疲弊していますので、アメリカの対中政策が一転して軟化する可能性もあり、バイデンも最近、それらしきことをほのめかしているという指摘もあります。米中接近のときもそうでしたが、日本がいつアメリカに梯子を外されるかわからないのです。
2023.05.23 Tue l 社会・メディア l top ▲
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著作者:starline/出典:Freepik)


■パンデミックがもたらした大きな変化


今回のパンデミックでいろんなものが変わったのはたしかでしょう。後世になれば、そのひとつひとつが「歴史の証言」として記録されるに違いありません。

キャッシュレス化がいっきに進んだとか、マイナンバーカードのような個人情報の管理がいっそう進んだとか、ウクライナ戦争とそれに伴う世界の分断と経済の危機が益々顕著になったとか、そういったことが記録されるのかもしれません。

と同時に、パンデミックは個人の生き方にもさまざまな変化をもたらしたのですが、そういった私的な事柄は記録されることはないのです。せいぜいがその時代を特徴付ける風潮や価値観の中で触れられるくらいでしょう。

私の年上の知り合いで阪神大震災のとき、兵庫県西宮市に住んでいて被災した人がいました。家族で会社の社宅に住んでいたのですが、幸いにも社宅の倒壊は免れたものの、地震が収まったので外に出たら、外の風景が一変していて、思わずその場にへたり込みそうになったそうです。「考えてみろよ。目の前の風景が昨日までとはまったく違っているんだぞ。それを見て何もかも終わったと思ったよ」と言っていました。

彼が勤めていた会社は一部上場の大手企業で、既に年収も1千万円を超えていたそうですが、その翌年、会社を辞めて故郷に帰り、自分で小さな商売を始めたのでした。彼は、もし震災に遭わなかったら、会社を辞めてなかったかもしれないと言っていました。

「お前もそうかもしれないけど、俺たちは子どもの頃からお金より大事なものがあると教えられてきた。震災によってその言葉を思い出したんだ。仕事ばかりしていたので、もっと家族との時間も持ちたかったし、親も年を取ってきたので、親の傍にいることが親孝行になるんじゃないかと思ったんだ。そういうことがお金より大事なことだということに気付いたんだよ」

今回のパンデミックでも同じように思った人は多いのではないでしょうか。

私の知っている職場でも、パンデミックのあと、次々と人が辞めて人手不足で困っていると言っていました。その職場は公的な仕事を行なう非営利団体で、職員たちも公務員に準じた身分保障を与えられ、当然ながら定着率が非常にいい職場でした。ところが、パンデミックを経て辞めていく職員が続出しているのだそうです。私の知ってる元職員は、地方に移住して農業をやるつもりだと言っていました。故郷に帰った人間も何人もいます。

どうしてこれほど退職者が出ているのかと言えば、その団体がパンデミックに際して、COVID‑19に感染した生活困窮者をケアする仕事をしていたからです。中には充分なケアができずに亡くなった人も多く、職員たちが精神的なストレスを抱えることもあったようです。職員たちが目にしたのは、文字通り惨状と言ってもいいような光景だったのです。実際に精神的にきついと口にする元職員もいました。

戦争や自然災害においては、直接の被害者だけでなく、被害者をサポートした人たちもPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症するケースがあると言われますが、それと似たような話なのかもしれません。

■あるブログの閉鎖


私がここ数年愛読していたあるブログがありました。それは10年以上前から書き継がれていたブログで、山行(登山)を主なテーマにしていました。ブログ主は中年の女性で、初心者のときから徐々にステップアップして、北アルプスを縦走するまでになり、そして、再び奥多摩や奥武蔵(埼玉)の山に戻って、自分のペースで山歩きを楽しむ様子が綴られていました。

やがて、そんな日常に、地方に住む母親の遠距離介護がはじまるのでした。それでも、介護と仕事の合間に近辺の山に通っていました。実家に帰った際も、時間を見つけて故郷の山に登ったりしていたのでした。

ところが、そこにパンデミックがはじまったのです。実家で一人暮らしする母親を何としてでもコロナウイルスから守らなければならない、というような書き込みもありました。

遠距離介護は続いていましたが、おのずと山からは遠ざかっていきました。それまで月に2~3回は山に行っていましたが、半年に1回行くかどうかまでになり、そして、とうとう今年の春にブログも閉じてしまったのでした。山に行くのが生き甲斐みたいな生活でしたので、閉鎖すると聞いてショックでしたが、パンデミックによって山より大事なものがあることに気付いたのでしょう。

そんなに細かくチェックしているわけではありませんが、いわゆる登山系のユーチューバーの中でも、更新を停止する人がこのところ多くなっています。公式に停止を表明する人もいるし、停止したまま放置する人もいます。

更新を停止する理由を見ると、身内の不幸や転職や離婚などがあげられています。もちろん、配信料のシステムが変わり収入が減ったということもあるのかもしれませんが、ただ、もしパンデミックがなかったら、登山までやめるという決断はなかったのではないかと思ったりもするのです。人生の転機においても、パンデミックによって、それがより大きなものになったり切実なものになったということはあるのではないでしょうか。

■”お気楽な時代”の終わり


こんな言い方は誤解を招くかもしれませんが、何だか“お気楽な時代”は終わった、という気がしないでもありません。

パンデミックによって、ある日突然、感染したり命を落としたりすることが他人ひと事ではなくなり、自分の生活や生き方を見直すきっかけになったということはあるのではないか。入院もできずに自宅で一人苦しみながら死を迎える人の姿はたしかにショックでした。日本は先進国で豊かな国だとか言われていますが、これが先進国の国民の姿なのかと思いました。訪問して来た医者が、「どこか入院できるように手を尽くしたけど受け入れ先がないんですよ。ごめんなさい。申し訳ない」と患者に告げているのを見ながら、どこが先進国なんだと怒りを禁じ得ませんでした。

ちょうど2年前に、私は、このブログで次のように書きました。

昨日の昼間、窓際に立って、ぼんやりと表の通りを眺めていたときでした。舗道の上を夫婦とおぼしき高齢の男女が歩いていました。買物にでも行くのか、やや腰が曲がった二人は、おぼつかない足取りで一歩一歩をたしかめるようにゆっくりと歩いていました。特に、お婆さんの方がしんどいみたいで、数メートル歩いては立ち止まって息を整え、そして、また歩き出すということをくり返していました。

お婆さんが立ち止まるたびに、先を行くお爺さんも立ち止まってお婆さんの方を振り返り、お婆さんが再び歩き出すのを待っているのでした。

私は、そんな二人を見ていたら、なんだか胸にこみ上げてくるものがありました。二人はそうやって励まし合い、支え合いながら、コロナ禍の中を必死で生きているのでしょう。

関連記事:
『ペスト』とコロナ後の世界


まだこの先も感染拡大が起きる可能性はありますが、私は、個人的にこのパンデミックをよく生き延びることができたなと思っています。私自身が、受け入れ先もなく、一人で苦しみながら息を引き取ることだってあり得たかもしれないのです。感染もせずに何とか生き延びたのは、たまたま運がよかったにすぎないのです。

余談ですが、先日、横浜市に、姉妹都市であるウクライナのキーウから副市長らが訪れた際、横浜市長が「復興に役立てて貰いたい」として、コンテナを繋ぎ合わせて、その中にCTなどの医療機器や入院用のベットを設置することで、応急的な治療施設ができるシステムを紹介した、というニュースをテレビでやっていました。私はそれを観ながら、じゃあどうしてパンデミックのときにそれやらなかったんだ?と思いました。そんな応急的な施設があったなら、受け入れ先もなく適切な治療も受けずに亡くなった人たちの何人かは助かることができたでしょう。市民よりウクライナの方が大事なのか、と言ったら言いすぎになるでしょうが、何だか割り切れない気持になりました。

たしかに、パンデミックを経て、多くの人々はみずからの人権より給付金を貰うことを優先するような考えに囚われるようになったのは事実です。今の異次元の少子化対策もそうですが、わずかな給付金のために、国家にみずからの自由を差し出すことに何のためらいもなくなったように思います。ただ、その一方で、目先のお金よりもっと大事なものがある、といった考えに立ち戻った人々もいるのです。そういった価値の”分断”も、はじまったような気がしてなりません。
2023.05.22 Mon l 日常・その他 l top ▲
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(イラストAC)



■女性セブンの記事


今日、市川猿之助氏の自殺未遂のニュースが飛び込んできて、メディアはG7そっちのけで大騒ぎしています。

自宅の地下から遺書らしきメモも出てきたそうで、両親を道連れに無理心中したのでないか、と報じている一部メディアもありました。また、殺人か自殺幇助か自殺教唆のどれかで逮捕される可能性は高い、と伝えているメディアもありました。

市川猿之助氏に関しては、折しも昨日、『週刊女性セブン』がスクープと称してウェブサイトにアップした下記の記事が、自殺未遂と関連があるのではないかとして注目されています。今日は記事が掲載された『週刊女性セブン』の発売日でもあったのです。

NEWSポストセブン
【スクープ】市川猿之助が共演者やスタッフに“過剰な性的スキンシップ”のセクハラ・パワハラ「拒否した途端に外された」

この記事が事実であれば、文字通りジャニー喜多川氏の“二番煎じ”と言われても仕方ないと思います。記事はソフトな(というか曖昧な)表現で書かれていますが、内容自体は、ジャニー喜多川氏同様、歌舞伎の世界における絶対的な力を背景にした性加害とも言えるものです。

■歌舞伎とメディア


昔から芸能界にはゲイやバイセクシャルが多かったのですが、中でも歌舞伎の世界はその最たるものと言っていいのかもしれません。歌舞伎の語源の「かぶく」という言葉は、かたむく=ドロップアウトするというような意味があると言われ、歌舞伎者、つまり芸能の民は、元来は市民社会の埒外にいる(公序良俗からはみ出した)存在だったのです。

歌舞伎のはじまりはお寺の勧進興行だったと言われますが、寺社権力が衰退するのに伴い、寺の境内を追われた歌舞伎者たちは、当時不浄な場所と言われ、差別され一般社会から追われた人々が住んでいた河原で興行をはじめたのでした。そのため、河原乞食と呼ばれ蔑まされるようになったのです。

今の歌舞伎の伝統と言われるものがどこまで真正な(ホントの)伝統なのかわかりませんが、歌舞伎の世界は、その伝統を謳い文句に男尊女卑と同性愛が今もなお同居している、ガラパゴスのような世界を形成してきたのです。そんな世界を、着物で着飾ってお上品ぶっているおばさんたちが有難がって支えているのです。昔の河原乞食が、今では天皇制との絡みで国の宝みたいに遇されているのです。その大いなる誤魔化しと勘違いが、あのような梨園のバカ息子たちを次々と輩出する背景になっているのは間違いないでしょう。お上品なおばさんたちは、自分たちが上流階級だと勘違いしているのか、歌舞伎の世界に今なお残る”妾の文化”も芸の肥やしとして許容しているのですから、ある種のおぞましささえ覚えてなりません。

この21世紀のMeToo運動やLGBTQの時代に、芸能の民を”特別な存在”と見做すのは多分に無理があるのです。宮台真司氏のように、それを「加入儀礼」として捉える論理がトンチンカンに見えるのもむべなるかなという気がします。

しかし、市川猿之助氏のニュースでも、大半のメディアは奥歯にものがはさまったような言い方に終始しているのでした。夕方のニュース番組を観ていたら、スポーツ新聞の芸能担当記者が出ていて、歌舞伎の伝統と市川猿之助氏の人となりを語っていましたが、隔靴掻痒の感を禁じ得ませんでした。キャスターもゲストの記者も、肝心要なことは避けてどうでもいいような話でお茶を濁しているだけなのでした。

歌舞伎はたかだか松竹という民間会社の興行にすぎないのです。にもかかわらず、伝統を隠れ蓑にジャニーズ事務所と同じようなタブーが作られ、メディアは徹底的に管理され拝跪させられてきたのでした。

別の報道によれば、遺書は「知人」に宛てたもので、「愛している」とか「あの世で一緒になろう」と書かれていたそうです。私は、「おやじ涅槃で待つ」という某男優の遺書を思い出しました。

■LGBTQをどう考えるか


ゲイ自殺未遂の割合

これは、宝塚大学看護学部の日高庸晴教授らが2008年に実施した、街頭調査の資料の中に掲載されていた図を転載したものです(下記参照)。

「わが国における都会の若者の自殺未遂経験割合とその関連要因に関する研究―大阪の繁華街での街頭調査の結果からー」
https://www.health-issue.jp/suicide/index.html

この図を見ると一目瞭然ですが、同性愛者の男性の場合、異性愛者と比べて自殺未遂の割合が6倍近く高いことがわかります。しかも、それは、同じ異性愛者でも男性に限って見られる傾向なのでした。

ゲイで自殺する人間が多いというのは、昔からよく知られた話でした。それは、やはり、男らしくあれとか男のくせに女々しいとかいった、日本の社会に厳として存在するマッチョリズムによって生きづらさを人一倍抱える(抱えざるを得ない)からではないかと思うのです。あるいは、ジャニー喜多川氏のような犯罪と紙一重の”少年愛”などでは、罪の意識に苛められるということもあるのかもしれません。ゲイに詳しい人間は、ゲイは嫉妬深くて感情に走る人間が多いので、自分で自分をこじらせてしまうのではないかと言っていました。

織田信長と森蘭丸の話がよく知られていますが、武家社会では、男色は「衆道しゅどう」と呼ばれて半ば公然と存在したそうです。そのため、昔は男色に対して「寛容」であったという声もあります。でも、それは「寛容」と言うのとは違うような気がします。寺院の僧侶や武士など男社会の中で、女性の代用として若い男性のアヌスが利用されたという側面もあったのではないかと思うのです。つまり、「寛容」というより、それだけ動物的で放縦な時代であったということです。また、江戸時代には、歌舞伎者の周辺に「陰間かげま」と呼ばれる、女装して売春する少年までいたそうです。今で言う「ウリセン」です。

しかし、脱亜入欧のスローガンを掲げた近代国家の建設がはじまり、西欧文明が入ってくると、同性愛は”異常なもの”としてタブー視されるようになったのでした。ミッシェル・フーコーが言うように、キリスト教の道徳と市民法によって「倒錯」という概念が導入され、権力による性の管理が始まったのですが、日本でも近代化の過程でそういったキリスト教的な規範が輸入され、同性愛も私たちの視界から消えていったのでした。LGBTに対する理解増進を求めるLGBT法は、そんな日陰の身である性的指向を再び日向になたに連れ出すことになるのです。

LGBTQをどう考えるのか、どう共存して多様性のある社会を築いていくのか。私たちはその課題を突き付けられていると言えるでしょう。前も書きましたが、ドラマの「きのう何食べた?」のような浮薄なイメージや、リベラルであるならLGBT法に賛成しなければならないといった思考停止した中でLGBT法が成立するなら、仏作って魂入れずになるだけでしょう。

2019年に大阪市で行われた無作為抽出調査によれば、異性愛者は83.2%で異性愛者以外が16.8%だったそうです。経済界には、海外でビジネスを行う上で、性的マイノリティに対する国際基準を遵守する必要があるとしてLGBT法の早期成立を求める声があります。また、国内においても、LGBTQを新しい市場と捉えソロバン勘定する向きもあるようです。あのレインボーパレードに象徴されるような今のLGBTQが、換骨奪胎されて、強欲な資本の論理に取り込まれてしまう”危うさ”を持っていることもたしかでしょう。
2023.05.18 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
蒼ざめた馬


■金平茂紀氏の指摘


先日、YouTubeで「エアレボリューション」という番組を観ていたら、ゲストで出ていたジャーリストの金平茂紀氏の面白い、と言ったら語弊がありますが、番組に対する鋭い指摘があり、あらためて現実を「こする言葉」とは何か、ということを考えさせられました。

エアレボリューション
金平茂紀氏生出演! 「緊急提言!大政翼賛をいかに抜けだすか」(2023年1月29日放送・前半無料パート)

「エアレボリューション」というのは、ジョー横溝氏がMCを、島田雅彦氏と白井聡氏がレギュラーコメンテーターを務める、今年の1月にはじまった有料の番組です。金平茂紀氏が出演したのは第3回目でした。

尚、概要欄に書かれた番組のコンセプトは、次のようになっていました。

① 直訳「革命放送」!
② 理想の社会を実現するための手段を語る「空想革命」!
③ 作家・アーティストも呼び「空想革命」を想像できる右脳を鍛える刺激的な放送!

ニコ生でも、ジョー横溝氏をMCとして、宮台真司氏とダースレイダー氏をレギュラーコメンテーターとする有料番組の「ニコ生深掘TV」というのがありますが、それとどう違うのかという突っ込みはともかく、冒頭でいきなり金平氏がジョー横溝氏の言葉使いに異を唱えたのでした。

FMラジオでDJを務めているだけあって弁舌巧みなジョー横溝氏が、出演者のことを「演者さん」と呼んでいたのですが、それに対して、TBSの報道局記者である金平氏が「演者」というのはテレビのバラエティ番組の言葉で、YouTubeでその言葉を使うのは違和感があると噛みついたのです。

さらに、YouTubeは新しいメディアのはずなのに、結局テレビの真似をしているにすぎない、従来のテレビ的な枠を壊すような姿勢が見えない、というようなことを言って、冒頭から空気を凍り付かせるようなカウンターをかましたのでした。

私は、それを観て思わず膝を叩きたくなりました。たしかに、YouTubeはテレビの真似ばかりです。私も前に書きましたが、ユーチューバーが「撮れ高」とか「視聴者さん」という言葉を使っているのを見ると、それだけでどっちらけになるのでした。

Googleの持ち株会社のアルファベットの業績を見ると、利益の落ち込みが大きく、そのために人員削減などリストラを余儀なくされているのですが、その要因はひとえに「ネット広告」とカテゴライズされる(アルファベットでは「セグメント」と呼ばれる)YouTubeの広告の不振によるものです。

たしかに、最近のYouTubeの広告は怪しげなものも多く、また広告が集まらないのか、Googleの自社広告も多くなっています。それは、視聴時間をTikTokやインスタやTwitterのショート動画に奪われているからです。もちろん、Googleも手をこまねいて見ているわけではなく、その対策として、ショート動画のテコ入れや従来の配信料のシステムの見直しなどを既にあきらかにしています。

関連記事:
ユーチューバー・オワコン説

「エアレボリューション」と同じような、リベラルな主張をコンセプトに掲げる番組は他にもありますが、どれも似たような感じで、ゲストで登場する人物も重なっている場合も多く、企画のマンネリは否定できないのです。

今やニコ生のコアな視聴者は40代~50代だそうで、それはネトウヨの年齢層と重なるのですが、おそらくYouTubeも似たようなものではないかと思います。一方、左派リベラルは、それよりひとつ上の年代がボリュームゾーンです。

地上波のテレビの視聴者もいまや中高年が主流で、中高年向けのコンテンツが必須と言われています。それでは大塚英志氏が言う「旧メディアのネット世論への迎合」も当然という気がします。

■島田雅彦氏の発言と炎上


「エアレボリューション」では、先日、番組の中で、島田雅彦氏が(安倍元首相の)「暗殺が成功して良かった」と発言して炎上し、その余波が今も続いています。発言を受けて、フジサンケイグループなどの右派メディアやネトウヨたちが、まるで号令されたかのようにいっせいに島田叩きを始めたのでした。そこに、バズらせることを狙ったネットメディアの煽りが加わったのは言うまでもありません。

それに対して、「エアレボリューション」は発言した部分を削除し、島田氏も次のように謝罪したのでした。


軽率な発言? このどこが「革命放送」なんだと思いました。そのヘタレようはまさにテレビ並みと言えるでしょう。

この謝罪によって、右派メディアやネトウヨは益々勢いを増したのでした。そして、島田氏はさらに次のような弁明をするはめになったのでした。


まさに屋上屋を架した気がします。

何度も言いますが、今の日本に欠けているのは「闘技」の政治です。タコツボの中から首だけ出してちょっと勇ましいことを言ったら石を投げられて、あわてて首を引っ込める。こんなことを百万篇くり返しても何にもならないでしょう。

一方で、島田氏が首をひっこめたのは、本人も言っているように、YouTubeのガイドラインや利用規約の違反行為とみなされてBANされるのを怖れたということもあるかもしれません。当然、煽られた人間たちが、Googleに対してガイドライン違反の申し立てを行っているでしょう。

何度もくり返しますが、とどのつまりは、ネットの「言論・表現の自由」なるものも、一私企業であるプラットフォーマーによって担保されているにすぎないということです。しかも、プラットフォーマーはすべてアメリカの企業です。これでは「革命放送」なんて、悪い冗談のようにしか思えません。

また、法政大学の教授でもある島田雅彦氏は、「大学の講義で殺人やテロリズムを容認するような発言をした事実は一切ない」と弁明していましたが、でも、文学では殺人やテロリズムを容認することはあるでしょう。むしろ、そういったところから文学は生まれるのです。

私は、ロープシンの『蒼ざめた馬』が好きで、最近も読み返したばかりですが、東京外国語大のロシア語学科を出た島田氏は、テロリストが書いたこの小説をどう思っているのか、問い質したい気がします。何だか語るに落ちたという感じがしないでもありません。

■大衆に迎合するマーケティング


映像というのは残酷なもので、文章で書いた言葉とは違って、修辞のマジックが通用しない分その薄っぺらさがモロに透けて見えるということがあります。残念ながら、島田雅彦氏や白井聡氏も例外ではありません。

政治でも文学でも同じですが、今の時代に、感情をゆさぶるような、心が打ち震えるような、そんな私たちの心をこするような言葉を探すのは至難の業です。これは決して郷愁などではなく、昔はもっとヒリヒリするような、心をえぐられるような緊張感のある言葉がありました。でも、今あるのは、どこを見ても仲間内の駄弁と自己保身のための言葉ばかりです。それは、右も左も関係なく、大衆に迎合するマーケティングが優先され、「闘技」の政治や「闘技」の表現活動がなくなったからでしょう。


関連記事:
2発の銃弾が暴き出したもの
『ネットメディア覇権戦争』
2023.05.17 Wed l ネット l top ▲
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5月14日の夜、ジャニーズ事務所の公式サイトで動画が公開され、その中で藤島ジュリー景子社長が今回の問題に対して謝罪したというニュースがありました。しかし、事実関係については、明言を避け曖昧な態度に終始したままでした。そもそも記者会見ではなく、一方的に動画を配信し、外からの質問も一問一答形式の文書で答えるそのやり方に、ジャニーズ事務所の裸の王様ぶりが露呈された感じで、思わず目を覆いたくなりました。

不倫だったら、まるで百年の仇のようにあることないこと書き連ねて、アホな大衆を煽り、リンチの先頭に立つ芸能マスコミですが、不倫の比ではないジャニー喜多川氏の性加害=性暴力に対しては、ジャニーズ事務所の足下にかしづき、見ざる聞かざる言わざるを貫いてきたのです。しかも、ここに至ってもなお、ジャニーズ事務所の出方を伺うだけで、独自の取材に基づいた記事はいっさいありません。これでは、ゴミ以下と言われても仕方ないでしょう。

藤島ジュリー景子社長の謝罪も、そんな芸能マスコミと同様に、見て見ぬふりをしてきたみずからを弁解したものにすぎません。

週刊文春が言うように、事務所のスタッフが車で餌食になる少年をジャニー喜多川氏のマンションに送り届けていたわけで、それで「知らなかった」「気が付かなかった」はないでしょう。芸能マスコミと歩調を合わせた悪あがきは続いているのです。

中には、日本テレビの「news zero」でキャスターを務める櫻井翔が何を語るか、なんておめでたいことを言っているメディアもありますが、何を語るかではなく、櫻井翔がキャスターを務めていること自体が異常なのです。でも、それが異常なことだと誰も指摘しないのです。

この問題に救いがないのは、2002年にジャニー喜多川氏の性加害が東京高裁で認定されたにもかかわらず、メディアがほとんど報道せず隠蔽したことによって、さらにジャニーズ事務所が芸能界で絶対的な力を持ち、メディアを完全に支配するに至ったという事実です。そのために、ジャニー喜多川氏の性加害=性暴力はまったく止むことはなかったのです。むしろ、エスカレートしたのかもしれません。

その意味では、メディアの罪も極めて大きいと言えるでしょう。メディアは、藤島ジュリー景子社長の謝罪動画を他人ひと事のように報じていますが、開いた口が塞がらないとはこのことです。

たしかに、性被害を告発した元メンバーの背後にガーシーやひろゆきやいかがわしいユーチューバーの存在が囁やかれるなど、今どきの若者らしい”危うさ”や”軽さ”が垣間見えますし、芸能界が単に悪の反対語が善とは言えない、もしかしたら悪の反対語も悪であるような、一筋縄でいかない世界であることも頭の片隅に入れておく必要がありますが、それでもなお、長いものにまかれろという日本的な精神風土の中でタブーにされてきた、この前代未聞のスキャンダルが白日の下に晒される意味は大きいと言えます。同時にこの問題が、「独立した芸能人はどうして干されるのか?」という、”ドン”などと呼ばれるヤクザまがいの人物が調整役として跋扈する(テレビ局や芸能マスコミも一役買う)、「怖い怖い芸能界」からテイクオフするチャンスでもあることは言うまでもありません。

僭越ですが、この問題については下記の記事をご覧ください。

関連記事:
『噂の真相』とジャニーズ事務所
ジャニー喜多川の報道に見る日本のメディアの体質
2023.05.15 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
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(public domain)


■付け焼刃の対策


今日、加藤厚労相が、「マイナ保険証」において、マイナンバーカードに健康保険証を紐付ける際の入力ミスが、22年11月末までに全国で約7300件あったことをあきらかにしたそうです。そのため、受診した際、医療機関が別の人物の医療情報を閲覧したケースが3件発生していたということです。まったくお粗末なミスと言うしかありません。

マイナンバーカードでは、”売り”であるコンビニから住民票の写しや戸籍証明などの交付を受けるサービスにおいても、別人の証明書が発行される不具合が今年の3月以降、横浜市、川崎市、東京・足立区であわせて13件発生しています。そのため、河野デジタル大臣が、運営会社の富士通の子会社に対して、同サービスの一時停止を要請したそうです。

また、ペイペイ銀行のサイトには、次のような「お知らせ」が掲載されていました。

ペイペイ銀行
重要なお知らせ
当日指定の振り込みの一部変更について(5月12日更新)

当日指定の振り込みの一部変更について(5月11日更新)

フィッシング等被害防止の観点から、2023年5月10日(水曜日)18時より、一定の条件に当てはまる振り込みについては、当日指定ができなくなります。詳しくは以下の図をご確認ください。

ペイペイ銀行


つまり、これも既に被害が出ているので対策を講じたということなのでしょう。

全て付け焼刃で、ただ単に屋上屋を架すものでしかないのです。

そのために、ネットバンクでは、本人確認の方法が二重認証などと言ってどんどん面倒臭くなっているのでした。それだけイタチごっこで詐欺の被害も増えているからでしょう。一方で、窓口やATMの手数料をあり得ないほど大幅に引き上げて、(半ば強引に)ネットでの取引に移行するように勧めているのです。そして、挙句の果てには、「被害を蒙るのは自己責任ですよ」と言わんばかりに、顧客が自分で対策を講じるしかないような言い方をするのでした。

銀行やクレジットカードなどのサイトに入って、そこで送金などサービスを利用する際の本人確認の方法は、今やほとんどがスマホを使ったものです。ショートメッセージで送信された確認番号を入力したり、メールで送られてきたURLをクリックして確認するという方法が取られています。

また、最近のクレジットカードは、カードにカード番号が印字されてないナンバーレスのものも多くなっています。そのため、クレジットカード払いにするのに、カード番号や有効期限やセキュリティコードを入れなければならないときは、いちいち上記の方法でサイトにアクセスして確認しなければならず、非常に手間です。中には手間を省くために、紙にメモして保管しているユーザーも多いのではないかと思いますが、それでは本末転倒でしょう。

銀行口座の新規開設やクレジットカードの新規入会では、「即日開設」や「数分で発行」などと謳ってお手軽さをアピールしていますが、いざ使うとなると手間ばかりかかってひどく面倒なのでした。

スーパーでもセルフレジが普及しており、私も最初は時代の先端を歩いているような気になって利用していましたが、最近は、デジタル化に付いていけない老人向けに設置している有人レジの方を利用しています。有人レジの方が全然空いているし、買った商品のバーコードをひとつひとつスキャンしなければならない手間もはぶけるので楽チンです。それに、有人レジを利用する方が、レジ係のパートさんたちの雇用を守るためになるので、よっぽど利他的で「優しい」行為と言えるのです。

■SIMスワップ詐欺


ここ数日、メディアを賑わせている「SIMスワップ詐欺」も、銀行やクレジットカードのスマホを使った本人確認を逆手に取った、典型的なイタチごっこの手口と言えます。出て来るべくして出て来た犯罪と言えるかもしれません。

「SIMスワップ詐欺」は、今の本人確認の方法に対して根本から見直しを迫るような手口だと思いますが、しかし、銀行は、自分の住所氏名や電話番号やメールアドレスをむやにやたらと他人に教えないでください、と注意喚起するだけです。

「SIMスワップ詐欺」については、下記のように、Canonが2021年2月に、その手口と対策を警告しているのでした。

十分な情報を手に入れた詐欺師は、標的が契約している携帯電話会社に連絡し、標的になりすますことで顧客サポートの担当者を騙し、標的の電話番号を詐欺師が保有しているSIMカードへ移すよう仕向ける。その場合の口実の多くは、携帯電話が盗まれたか、失くしたため切り替えが必要になったというものだ。

一般的に、この種の攻撃の狙いは、被害者が保有するいくつかのオンラインアカウントへのアクセスを得ることだ。SIMスワップ詐欺を用いるサイバー犯罪者は、被害者が電話やテキストメッセージを二要素認証(2FA)に使用していることを前提としている。

Canon(2021.2.9)
サイバーセキュリティ情報局
SIMスワップ詐欺の手口とその対策


今になって被害が公けになったのは、SIMカードの再発行のために携帯電話の販売店に訪れた女が逮捕されたからですが、ただ、逮捕された女は「闇バイト」で応募した使い走りに過ぎないと言われています。

特殊詐欺や、資産家や宝飾店を狙った強盗もそうですが、この手の事件で逮捕されるのは「闇バイト」で応募したような末端の実行部隊ばかりで、犯罪の元締めが逮捕されたという話は聞いたことがありません。何度も言いますが、全てはイタチごっこで、捜査や対策も後手にまわっているのが現状なのです。

Canonが警告したのは2年前なのですから、既にかなり被害が広がっていると思った方がいいでしょう。

先月、「メルペイ」を不正使用した疑いで逮捕された中国人のパソコンなどから、メールアドレスが約1億件、クレジットカード情報が約1万7千件、IDとパスワードの組み合わせが約290万件など、大量の個人情報が見つかったというニュースがありました。そのニュースは、個人情報が私たちの想像を超える規模で漏洩している現実を示していると言えるでしょう。

メディアはフィッシングサイトで集めたようなことを言ってますが、フィッシングサイトで1億件のメールアドレスを集めるなんていくらなんでもあり得ないでしょう。

情報漏洩は、本人があずかり知らぬところで情報が漏洩するケースも多いのです。ネットを介して情報をやり取りする過程では、ハグなどによって漏洩することも充分考えられます。

ましてや、私たちの目に見えないところで、日々サイバー戦争は行われており、政府機関のサイトに侵入してサイトを改ざんしたり、情報を盗み出すような高度なハッキングの技術を見せつけられると、私たちの個人情報が如何に危うい状態にあるのか(丸裸のような状態でネットに晒されているのか)ということを痛感させられるのでした。

■仮想のフロンティア


チャットボットなんて前からあったのに、突然、チャットGTPのような対話型AIが世紀の大発見のようにセンセーショナルに報じられ、政府まで巻き込んで大騒ぎしています。しかし、水野和夫氏が言うように、デジタルという“電子空間”は、地上のフロンティアがなくなった資本主義が新たに作り出した、仮想のフロンティアにすぎないのです。

しかも、(「アメリカの議会予算局」がレポートしているそうですが)技術革新イノベーションとしても、今のIT革命が経済の成長を押し上げる力は、エジソン・フォードの時代に比べれば半分程度にすぎない、と水野氏は言っていました。つまり、IT革命も資本主義を一時的に延命するものでしかないということです。たしかに、自動車や電話や電球などの便利さに比べれば、デジタルの便利さなんてたかが知れているのです。

現にIT革命とか言われても、革命の祖国であるアメリカは超大国の座から転落して没落する一方だし、GAFAの植民地のようになっている日本もどんどん貧しくなるばかりです。まったくと言っていいほど、経済を持ち上げる力にはなってないのです。

ただ、FAXがメールに代わり、帰るコールがLINEに代わり、卓上計算機がエクセルの関数に代わり、現金が電子マネーに代わったに過ぎないのです。それを凄いことのように言っているだけです。

「今度は凄い」と永遠に来ない「今度」のためにアドバルーンを上げてあぶく銭を稼ぐ、いかがわしいセールスプロモーションの典型と言っていいかもしれません。で、今度の「今度」は、生成型AI、対話型AIというわけです。プロモーションに乗せられて浮足立っている人たちは、たとえばGoogle翻訳のショボさを思い起こして一度頭を冷やした方がいいでしょう。

シンギュラリティなどという言葉がまことしやかに流布されていますが、人間の自由な思考や自由な表現にAIが追いつくことは永遠にないでしょう。AIというのは演算と記憶の集積回路ICチップに過ぎないので、テストの解答や将棋の対戦では人間を凌駕することはあるかもしれませんが、ただそれだけのことです。

そう考えると、デジタルの時代という喧伝は多分に上げ底のような気がします。デジタルの時代とかIT革命というのは、羊頭狗肉のタイトル詐欺のように思えてくるのでした。
2023.05.12 Fri l ネット l top ▲
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■年上の知人


昔、仕事で知り合いだった年上の人と久しぶりに会いました。その人は、自分の仕事をやめて、以後10年以上、とある公益法人で嘱託職員として働いていたそうです。

しかし、1年前の70歳になる直前に、足を痛めて退職。この1年間は年金と貯金を切り崩して暮らしていたのだとか。

嘱託職員と言っても、ほぼ正職員と同じような仕事をしていたので、それなりの収入もあり、それに加えて65歳から年金を貰っていたので、毎月貯金ができるほどの余裕はあったそうです。

ところが、数ヶ月休んで足もよくなったので、再び働こうと思ったら、年齢制限にひっかかりどこも雇ってくれず困っていると言っていました。もちろん、探しているのはアルバイトです。既に30社近く履歴書を送ったけど、いづれも面接さえ至らず断りの手紙が送られてくるだけで、さすがに滅入っていると言っていました。

働きたいのは、生活のためだけでないとも言っていました。この1年間、何もしないで過ごしていると、見るからに体力も衰えて急激に老けていく自分を感じ、危機感を抱くようになったそうです。

■高齢者講習


70歳を越えると、運転免許証の更新の際は高齢者講習が義務付けられるそうで、そのために6450円の受講料を払って自動車学校で講習を受けなければならないのだそうです。何だか「あなたたち高齢者は社会のお荷物なのですよ」と言われているような気がして、よけい自分が老けたような気持になると言っていました。

高齢者の交通事故が増えたので、(建前上は)その対策として講習が義務付けられたのでしょうが、6450円とは法外な気がします。講習を受けないと免許証の更新はできないのです。更新の手数料を含めると、70歳以上の高齢者たちは、免許証を更新するのに1万円近くの出費を余儀なくされるのです。

聞けば、通常、更新の際に行われる講習とそんなに変わらず、要するに免許証の返上を勧めるような内容だったと言っていました。また、自動車学校のコースを使った実車によるテストも行なわれたけど、認知度や運動神経などを調べるのなら、もっと簡便な方法があるのではないかと思ったそうです。

警備会社と同じように、自動車学校の校長の多くも元警察署長などの天下りです。言うなれば、警察にとっては子飼いの業界なのです。少子高齢化で自動車学校も生徒集めに苦労していますので、警察庁が自動車学校に新たな“収益源”を与えた、という側面もあるような気がしないでもありません。

もちろん、高齢者の交通事故対策が必要なのはわかりますが、このように新しい施策が行われると、まるで火事場泥棒のように役人たちは自分たちの権益の拡大をはかるのでした。文字通り、地頭は転んでもただでは起きないのです。

70歳からの高齢者講習の義務化は去年から始まったばかりだそうです。その審議の過程で、講習の問題点を野党が指摘したという話は聞いたことがありません。メディアも、高齢者の交通事故をそら見たことかと言わんばかりに大々的に報じるだけで、問題点を指摘する声はありませんでした。

講習の実効性どころか、爪に火を点すようにして、乏しい年金で暮らしている高齢者を食いものにするような制度と言ってもいいでしょう。

資本主義の本質はぼったくりにあり、今の異次元の物価高も資源価格の高騰を奇貨にした資本のぼったくり以外の何物でもありませんが、これは(決して冗談で言っているのではなく)高齢化社会を奇貨にしたぼったくりとも言えます。”シルバー民主主義”で高齢者は優遇されていると言われますが、このどこに”シルバー民主主義”があるんだ、と言いたくなります。今の日本では、高齢者をおおう貧困が明日の自分の姿だという最低限の認識さえないのです。

■労働力不足のからくり


年上の知人は、仕事を探すのも免許証を更新するのも、「お前は年寄りなんだ」と言われているような気がして、否が応でも社会から退場させられているような気がすると言っていました。

彼も1年前まではバリバリに働いていたのです。今の70歳は昔の70歳とは違うとか、これからは70歳になっても働かなければならないとか言われますが、現実は全然そうなってないのです。

私の父親は自営業だったので、70歳でも現役でバリバリ働いていました。もちろん、車も運転していました。そして、現役のまま病気で亡くなりました。祖父もそうでした。昔は自営業の割合が高かったので、高齢になっても普通に仕事をしていた人が多くいました。

でも、今はサラリーマンの定年退職を基準にするのが主流になっているので、65歳を過ぎると高齢者と言われて、労働の現場から排除され、さまざまな制約を受けるようになるのです。だからと言って、豊かな老後を過ごせるように年金制度が充実しているわけではありません。むしろ逆です。フランスでは年金制度の改正に反対して、火炎瓶を使ったような過激な街頭闘争まで繰り広げられていますが、それでも日本の年金と比べると夢のような充実ぶりで、フランスと比べると日本はまるで奴隸の国に思えるくらいです。

日本が戦後経済発展をしたのは、ある意味で当然だったと言ってもいいでしょう。資本にとって、これほどコストの安い国はないのです。まるで資本が国家の上位概念であるかのように、社会保障は二の次にできるだけコストを安くして、高い国際競争力を持つように政治もバックアップして来たのです。にもかかわらず、高度成長を経てバブルが到来したのもつかの間で、その後は低下の一途を辿り、今やタイやフィリピンの観光客からも「日本は安い」と言われ、喜ばれるような国になってしまったのでした。そして、年金制度などの社会保障は、二の次になったまま放置されたのでした。その結果、今の格差社会が生まれたのです。にもかかわらず、高齢化社会だから年金が目減りするのは当然だ、というような論理が当たり前のようにまかり通っているのです。

消費税は社会保障のため、そのための目的税だとされていますが、実際は所得税や法人税と同じ一般財源に入れられ、それらといっしょにされて歳出に使われているのです。それでは、消費税が法人税減税の補填に使われているという批判が出て来てもおかしくないでしょう。実際に、消費税導入前の1988年度の国民年金(基礎年金)の保険料は、月額7700円でした。それが、消費税が10%になった2020年度は16610円になっているのです。もちろん、その分支給額が上がっているわけではありません。何度も言いますが、むしろ逆です。これでは何のための消費税かと言いたくなるでしょう。

少子高齢化で労働力不足が深刻だとか言われていますが、それは若くて賃金が安い若年労働力が不足しているという話にすぎず、中高年の失業者が職探しに苦労している現実は何ら変わらないのです。しかも、若くて賃金が安い若年労働力を補うために、発展途上国からの労働者にさらに門戸を広げようとしているのでした。

でも、彼らはあくまで低賃金の出稼ぎ労働者にすぎません。低賃金の外国人労働者の存在が、3Kの現場などにおいて、日本人の労働者の賃金が低く抑えられる要因になっているという指摘は以前からありました。しかし、問題はそれだけでないのです。中高年の労働者が労働市場から排除されるという、もうひとつの負の側面も生まれているのでした。

左派リベラルなどは、「万国の労働者団結せよ」というようなインターナショナリズムや民族排外主義に反対する立場から、門戸開放にはもろ手を挙げて賛成していますが、でも、そこにあるのは、資本の論理と国家を食いものにする役人の論理だけです。資本や国家は、「万国の労働者団結せよ」というインターナショナリズムで門戸開放するわけではないのです。

年上の知人のように、年金に頼るのではなくバリバリ働いて充実した人生を送りたいと思っても、社会がそれを許さないのです。「あなたは年寄りだから社会のお荷物にならないようにしなさい」と言われて、「お荷物扱い」されるのです。

私は、年上の知人の話を聞きながら、何が異次元の少子化対策だ、何が外国人労働者の門戸開放だ、と思いました。誰もその陰にある部分を見ようとしないのです。


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2023.05.10 Wed l 社会・メディア l top ▲
谷戸
(歩いたルート) ※クリックして拡大画像してください


■谷戸


先週の土曜日(5月6日)に同じところを散歩したのですが、谷戸やとと呼ばれる地形のことが気になったので、昨日、同じ場所を再び歩きました。

谷戸というのは、主に静岡以東の呼び方だそうです。私もこちらに来て谷戸という呼び方を初めて知りました。

横浜は谷戸が多く、横浜市のサイトでも「谷戸のまち横浜」というページがあるくらいです。それによれば、次のように説明されています。

 「谷戸」とは、丘陵大地の雨水や湧水等の浸食による開析谷を指し、三方(両側、後背)に丘陵台地部、樹林地を抱え、湿地、湧水、水路、水田等の農耕地、ため池などを構成要素に形成される地形のことです。
 「谷戸」という語源を辿ると、次のように言われています。
「静岡以東、主に関東に分布する東言葉で、古い時代に、主として稲作をしていた処ところの小地名である。だから山中には無いし、広い平坦地にも殆どない。その平坦地から山合いにはいりこんだ土地の名である。」
(谷戸のまち横浜)


開析谷かいせきこくと言うのは、私たちが普段イメージするような急峻な谷ではなく、どちらかと言えば、台地、あるいは登山で言うコル(鞍部)を広くしたもの、というようなイメージの方が近いかもしれません。

サイトにも書いていますが、横浜には谷戸が付いた地名が多く、昨日歩いた環状2号線沿いにも、「表谷戸」と「仲谷戸」というバス停があります。

ちなみに、九州では谷戸のことをさこと呼ぶみたいです。そう言えば、私の田舎にも「芋の迫」や「下迫しもざこ」という地名がありました。

住所で言えば、港北区師岡と鶴見区獅子ヶ谷の境界にあたる一帯です。私が住んでいるところから南に歩いて綱島街道に出ると、正面の丘の上にマンションや住宅が立ち並んでいるのを見渡すことができます。また、綱島街道沿いにある区役所の前の大きな交差点では、磯子区から鶴見区までの25キロ近くを結ぶ環状2号線が、綱島街道と交差して丘の上に向けて坂を上っているのでした。

私は、丘の上の住宅群がずっと気になっていました。それで、先週は環状2号線を通ってトレッサの横から迂回して行ったのですが、昨日は綱島街道から脇道に入り、直接上ろうと思いました。

前にホームセンターがあった場所にマンションが建設中で、その囲いの横にある狭い路地を進み、いったん裏の車道に出て、さらに住宅の横にある路地を奥に進むと丘の下に突き当り、そこに鉄の手すりが設置された石段がありました。石段を見上げていると、上からちょうど中年の男性が下りてきたのでした。

「すいません。これを上って行くと上の道に出るのですか?」
「そうですよ。尾根に出ますよ」

「尾根」と言われて思わず苦笑しそうになりました。昔の地形ではそうかもしれませんが、しかし、今は住宅地として開発され、崖の上にはマンションのコンクリートの建物が聳えているのでした。

石段を上って行くと、マンションの直下に樹木に囲まれた祠がありました。見ると、「大豆戸不動尊」という小さな柱がありました。崖の下から新横浜にかけての一帯は大豆戸おおまめどという町名です。昔は、丘の上に登り、さらに尾根を通って山の反対側の鶴見に行ったり、あるいはこの地域の守護神である師岡熊野神社に参拝したのでしょう。奥多摩の登山道などと同じように、そのためにショートカットする道だったのでしょう。

丘の上に登り、マンションの横を通りぬけると、先週歩いた見覚えのある道に出ました。地図で言えば、西から東の方へ上った格好になります。

見ると、台地の両端にはこんもりと木が茂った小山があり、典型的な谷戸の風景が広がっています。恐らく私が上って来た側にも昔は小山があったのだろうと思いますが、今は切り崩されて住宅地になっているのでした。

そこから斜度の一部が50度を超すような急坂を下りて、台地の西側にある横浜市指定有形文化財の「旧横溝家住宅」という古民家をめざすことにしました。

道沿いには鉄塔が建っていました。昭和の頃までは畑や田んぼが広がる田園地帯だったそうですが、今は台地の端は住宅地になっていて、中心部の畑や田んぼが広がっていた一帯は、建設会社の資材置き場や車庫、あるいはトタン板で囲われた産廃施設のようなものに変わっていました。

台地の先にあるトレッサ横浜は、トヨタ自動車のグループ会社が運営する商業施設で、フルオープンしたのは2008年(平成20年)ですが、それまでは新車を一時保管するプール(置き場)だったそうです。

■旧横溝家住宅と獅子ヶ谷市民の森


旧横溝家は、昔の名主の家で、江戸後期から明治中期に建てられた古民家です。1987年(昭和62年)に横浜市に寄贈され、1989年(平成元年)から公開されているそうです。

旧横溝家は、昔の典型的な農家の建物で、私も懐かしい気持で見学しました。土間のことを「にわ」と呼んだというのも、九州と同じでした。残された本棚の中の本を見ると、それまで住んでいた戸主は短歌を好んでいたことがわかります。また、旧横溝家の裏山には、小机城の支城の獅子ヶ谷城があったのではないかと言われているそうです。

台地の両端に残っている小山は、「獅子ヶ谷市民の森」として保存されていて、ハイキングコースになっており、旧横溝家を見たあとは鶴見区の方にある市民の森の一部を歩きました。

余談ですが、台地の上に家を買った人たちはどうやって通勤しているんだろうと思いました。環状2号線沿いには、鶴見駅や綱島駅や菊名駅や新横浜駅に行くバスが通っていますが、それでも駅まではかなりの時間を要します。歩くとなると時間がかかる上に急な坂道を上ったり下りたりしなければならなりません。途中、下まで買い物に行って帰宅中とおぼしき人たちに遭遇しましたが、皆さん、それこそ登山のように前かがみになって息を整えながらゆっくりゆっくりと歩いているのでした。

ただ、横浜はこういった駅から離れた”不便なところ”は多く、むしろそれが当たり前みたいな感じさえあります。環状2号線沿いの住宅などは、法面に専用の階段が作られているような崖の上の家も多いのでした。

しかも意外だったのは、谷戸の台地の端に、少なくない数のアパートが建っていることでした。通勤通学するのにさぞや不便だろうと思いますが、住人たちは車を所有しているのかもしれません。でなけばとてもじゃないけど、生活できないように思いました。ただ、このブログにも書いたことがありますが、私自身は、運動会のときにひっそりと静まり返った校舎の裏に行ったり、家の裏山で一人で遊ぶのが好きだったし、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』で、ジョバンニが牧場の裏の丘の上から、遠くに見える町の灯りを眺めながら物思いに耽る冒頭のシーンに自分を重ねるような子どもだったので、そういった表の喧騒と隔絶されたような場所はもともと嫌いではないのです。

獅子ヶ谷市民の森は、ハイキングと言うにはちょっと短い距離ですが、昔の自然が残されていて、山歩きのプチ体験ができるようになっていました。

帰りは、先週と逆コースの環状2号線を歩いて帰りました。

吉行淳之介に『街角の煙草屋までの旅』というエッセイ集がありましたが、これも僅か数時間の丘の上までの旅だったように思いました。

距離は8キロ弱、歩数は13000歩でした。


※拡大画像はサムネイルをクリックしてください。

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マンション建設現場の囲いでおおわれた路地を進む

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階段を上る

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大豆戸不動尊

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同上

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台地の上からの眺望

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急坂

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鉄塔

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鶴見大学師岡グランド

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旧横溝屋敷

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1847年(弘化4年)に建てられた長屋門

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母屋

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蔵の中に展示されている農具

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同上

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母屋の中の様子

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土間(当時は「にわ」と言っていた)

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台所(九州ではかまどのことを「おくど」と言っていた)

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文書蔵(耐火性のある造りになっていて、大事な書き物などを保管していた)

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内側から見る長屋門

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右が農具が展示されている蔵

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西谷広場から登る

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西谷広場

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上からの眺望

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ピンクテープもある

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下谷広場に下りる

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2023.05.10 Wed l 横浜 l top ▲
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■鶴見川の土手


昨日も昼前から散歩に出かけました。いつもの代わり映えのしないコースで、鶴見川の土手を新横浜まで歩いて、そのあとは駅ビルに寄って本を購入して環状2号線を通って帰って来ました。

登山で使う地図アプリでトラック(歩いた軌跡)を記録しましたが、歩いた距離は7キロ弱でした。

ただ、昨日はゴールデンウィークの真っ只中だったので、いつもと様子が違っていました。

土手に上がる前に通る遊歩道には小さな公園がいくつかあって、休日は子どもたちで賑わっているのですが、ひとつの公園は、兄妹とおぼしき小学校低学年くらいの子どもが二人いるだけでした。さらに、もうひとつの公園は、乳飲み子を抱えたお母さんが、小さな子どもが一人で砂遊びしているのを見守っているだけでした。

鶴見川の土手もいつもの休日に比べると、ジョギングや散歩をしている人たちの姿も少なく閑散としていました。

横浜労災病院の先の新横浜の外れまで歩いて、ベンチに座ってコンビニで買ったおにぎりを食べていたら、一人の女性がやって来て隣のベンチに座ったのでした。そして、同じようにおにぎりを食べはじめたのでした。さらに、そのあとはショルダーバックから文庫本を出してそれを読み始めていました。

■新横浜の駅ビルと消えゆく書店の運命


新横浜の街に戻ると、駅に向かって人の波が続いていました。見ると女性が多いのですが、年齢層が若者から中高年まで幅広く、それもどちらかと言えば地味な服装の女性たちが多いのでした。横浜アリーナは反対側だし、コンサートの帰りには見えません。

私は宗教団体の集まりでも行われたのかと思いました。駅に向かう人たちを見ると、勧誘のためにグループで個別訪問している信者たちと似ている感じがしないでもありません。

気になったのでスマホで調べたら、近くにスケート場があり、そこでアイスショーが行われていたことがわかりました。昔は新横浜プリンスホテルスケートセンターと呼ばれていたのですが、今はコーセー化粧品が命名権を獲得して、「KOSÉ新横浜スケートセンター」と呼ばれているそうです。私もフィギュアスケートの大会などで、新横浜プリンスホテルスケートセンターという名前は知っていましたが、どこにあるのか場所は知りませんでした。アイスショーのファンはあんな感じなんだ、と思いました。

相鉄線と東横線の乗り入れにより、相鉄線の西谷駅から東横線の新綱島駅まで新たに新横浜線が敷設され、それに伴って新横浜駅にも新しい地下鉄の駅ができたばかりです。ところが、駅ビルのオープンとともに15年間テナントとして、駅ビルの3階と4階のフロアを占めていた高島屋のフードセンターが2月1日に閉店したのでした。高島屋のフードセンターは、デパ地下のコンテンツを地上階で展開したものです。そのため、新横浜周辺に住んでいる人たちには衝撃を持って受け止められているのでした。しかも、次のテナントは未定とかで、未だにベニヤ板で囲いがされたままです。

アフターコロナで観光地が賑わっているとか言われていますが、新横浜のような観光資源の乏しい、どちらかと言えばビジネス街のような街は関係ないのです。もっとも観光地にしても、インバウンドが頼りなので、ロンリープラネットで紹介されて外国人観光客が訪れないと、その恩恵に浴することはできないのでした。それが現実なのです。

階下の新幹線の改札口は多くの乗客で賑わっていましたが、やはり、途中の階のフードセンターが撤退した影響は大きいようで、最上階にある書店も前に比べて人は少なく淋しい光景が広がっていました。ただその中で、場違いに女性たちが群がっている一角がありました。見るとジャニーズ云々の文字が見えました。どうやらジャニーズ事務所のタレントたちの写真集やブロマイドなど関連グッズを売っているようでした。

それで再びスマホで調べたら、案の定、5月3日から6日まで横浜アリーナでKAT-TUNのコンサートが行われていたのでした。

前は駅前にあった書店が、横浜アリーナで開催されるコンサートに合わせて、アイドルのグッズを売っていましたが、その書店もとっくに閉店してしまいました。それで今度は駅ビルの書店が扱っているようです。ちなみに、駅前にあった書店は、神奈川に本社があるチェーン店で、私は昔、関東一円の店に文房具を卸していたことがあります。

このブログでも書いたことがありますが、横浜アリーナでアイドルのコンサートが行われたときなどは、駅前の書店はグッズを買い求めるファンたちでごった返すほどでした。しかし、それでも採算が合わずに閉店したのです。

これはみなとみらいなどのビルに入っている書店も同じですが、とてもじゃないけど採算が取れているようには思えません。外から見ても、年々来店者が減っているのがわかります。個人経営の小さな書店だけでなく、大型のチェーン店もやがて消えていく運命にあるのは間違いないように思います。

書店で未知なる本と出合えるのは読書家の喜び、というのはよくわかる話ですが、しかし、書店のシビアな経営にとって、そんな話は気休めでしかないのです。

■物価高騰と愚民社会


帰りに夕飯のおかずを買うためにスーパーにも寄りましたが、スーパーも人がまばらでした。まだ夕方の早い時間だったのですが、早くもトンカツが値引きされていましたので、それを買って帰りました。

私は家ではもっぱら伊藤園の濃いお茶を飲んでいるのですが、最近は2リットル入りのペットボトルが170円とか180円とか行くたびに値段が上がっています。如何にも「お得だ」と言わんばかりに「2本で350円」とか貼り紙が出ていることがありますが、冷静になって考えれば全然安くないのでした。

今の物価高騰こそ”異次元”と呼ぶべきだと思いますが、日本人の習性で、いつの間にか喉元過ぎれば熱さを忘れて、慣れっこになった感じすらあります。

大風呂敷を広げれば、今の状況は、危機に瀕するグローバル資本主義が制御不能になり、かつて経験したことがない世界的な物価高騰を招いていると解釈することができるでしょう。

今の物価高騰のきっかけが、ウクライナ戦争に伴う資源(エネルギー)価格の高騰にあり、その背景に世界の多極化という覇権の移譲が伏在していることを考えれば、アメリカが中国の台頭を牽制し、どう中国の脅威を喧伝しようとも、この流れを止めることはできないように思います。グローバルサウスと呼ばれる第三世界の国々が、アメリカの支配から脱して中国に乗り移ろうとしているのも当然なのです。

一方で、対米従属を国是とするこの国の政権の腰巾着ぶりを見ると、グローバル資本主義の危機に連動した私たちの生活が、これからもっと苦難を強いられるのは避けられない気がします。革命のDNAがない日本では、みずからの自由を国家に差し出して、さらに盲目的に国家に頼るのがオチですが、でもそれは、地獄への案内人に手を差し出すことでしかないのです。平均年収や最低賃金や相対的貧困率など、私たちの生活に関連する指標を見ても、既に日本はOECDの中で下位に位置するようになっています。それだけグローバル資本主義の危機によって、私たちの生活が圧迫されているのです。にもかかわらず、肝心な国民にはその危機感があまりに希薄です。

それどころか、中身は単なるバラマキ(あとで税金で回収)でしかない異次元の少子化対策なるものが打ち出されると、「ラッキー! これで住宅ローンの支払いが楽になる」と言わんばかりに、内閣の支持率が急上昇する始末です。そんな一片の留保もない動物的な反応を見ると、私は、福島第一原発の事故のあと、大塚英志と宮台真司が出した『愚民社会』(太田出版)という本のタイトルを思い出さざるを得ないのでした。

子どもをめぐる問題を貧困問題(上か下かの問題)として捉える視点がない与野党も含めた今の政治は、この格差社会において政治の責任を放棄し、完全に当事者能力を失っているとしか思えませんが、そういった声もまったく聞かれません。これでは、政治家たちは、大衆なんてチョロいと高笑いして、危機感もなく国会でうたた寝をするだけでしょう。

エマニュエル・トッドではないですが、現在は大衆社会の閾値を超えるような高学歴の社会になったのです。だからこそ、愚民批判は、ためらうことなく、もっと苛烈に行われるべきだと思います。中野重治の『村の家』のような、インテリゲンチャと大衆という区分けはとっくになくなったのです。もうインテリゲンチャも大衆もいないのです。

「それ、あなたの意見ですよね」という”ひろゆき語”だけでなく、「上から目線」という言い方や、YouTubeでアンチに対して「だったら見なければいい」というような身も蓋もない言い方がネットを中心に流通していますが、要するに、そうやって思考停止する自分に開き直ることが当たり前になっているのです。「上から目線」という言い方に対しては、逆に何様なんだ?と言いたくなりますが、昔だったら、そんな言い方は、とても恥ずかしくて口に出して言えませんでした。でも、今は恥ずかしいという感覚はなく、むしろ”論破”したつもりになっているのです。そういったネット特有の夜郎自大について、「孤立」しているからだという見方がありますが、私は、必ずしも「孤立」しているのではないように思います。ネットの時代になり、同類項の人間たちが可視化されたことで、恥ずかしい言語を共有する仲間トライブができたのです。そして、その中でみずからを合理化できるようになったのです。

ひろゆきにしても、どう見ても”痛いおっさん”にしか見えません。ひと昔前なら嘲笑の対象だったでしょう。でも、彼は「論破王」などと言われて持て囃され、社会問題についてコメントまでするようになったのです。文字通り愚民社会のスターになったのでした。

メディアは言わずもがなですが、左派リベラル界隈の言説にしても、まったく現実をこすらないような空疎な(屁のような)言葉ばかりです。どうしてこすらないのかと言えば、愚民批判のような”闘技”を避けているからです。シャンタル・ムフの言葉を借りれば、今こそ(カール・シュミットが言う)「友敵関係」を明確にした”闘技”の政治、つまり、感情をゆさぶるようなラジカルな政治が求められているのだと言いたいのです。

政治家たちは、勝手に高笑いしてうたた寝をしているのではないのです。愚民社会がそうさせているのです。


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ペスト


■新型コロナウイルス


先日、きっこがTwitterに次のように投稿していました。

国民の命など二の次の岸田政権は、すでに新型コロナを過去のものとして無対策を加速しているが、専門家によると現在の国内の感染者の9割は死亡率の高い変異株であり、連休後には世界各国から帰国する邦人が持ち込んだ新たな変異株により、この夏は10万人規模の死者が出る第9派の恐れもあるという。

きっこ
@kikko_no_blog


これを単に狼少年(狼女?)の戯言と一笑することができるでしょうか。

メディアにおいても、新型コロナウイルスは既に終わったかのような雰囲気で、どこもゴールデンウィークに日本中が浮かれているようなニュースばかりです。喉元過ぎれば熱さを忘れるのは日本人の習性ですが、政府の方針が変わると、みんな一斉に右へ倣えしてガラッと空気も変わるのでした。

これも既出ですが、カミュの『ペスト』の最後では、ペストを撃退したとして花火が上がり、街の至るところで歓喜の声が上がる中で、語り手のリウーは次のように呟くのでした。

(略)――ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、そしておろらくいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうということを。

宮崎嶺雄訳『ペスト』(新潮文庫)


ペストは、抗生物質の開発で死に至る感染症ではなくなりましたし、先進国では検疫(防疫)の普及でほぼ”撲滅”されましたが、新型コロナウイルスは、この3年間で少なくとも10億人を超すであろう人々の体内に定着したのです。私たちの身体には380兆個のウイルスが生存していると言われていますが、新型コロナウイルスもその中に加わったのです。ウイルスは、宿主とともに生き続けますが、しかし、新型コロナウイルスは、宿主の遺伝情報を利用して変異株(子孫ウイルス)を作るやっかいな存在です。それどころか、似たようなウイルスは自然界に無数に存在しており、自然破壊によって人間と中間宿主である野生動物との距離が近くなったことで、今後も別のウイルスによる感染爆発が懸念されているのでした。

新型コロナウイルスは、5月8日より感染法上の位置付けが、これまでの「2類」相当から、季節性インフルエンザと同じ「5類感染症」の扱いになります。その移行に伴い、今までのように全ての医療機関が毎日感染者の数などを報告する「全数把握」は終わり、週に1回全国5000の指定医療機関のデータを集計した報告になり、死者数は月に1回発表されるだけになります。これでは、感染に対する関心も薄れ、その対策もなきに等しいものになるので、今後、新たな変異株の感染が発生すれば、今までとは比べものにならないくらい爆発的に拡大するのは目に見えているでしょう。

■外国人観光客を羨ましがる日本人


日本人は、ついこの前まで、外国人、特に欧米人はケチでお金を使わないと言っていたのに、今や様相が一変し、彼らを救いの神のように崇め、その散財ぶりを羨ましがるようになっているのでした。

観光地でゲストハウスを所有している友人は、ゲストハウスの運営は専門の会社に任せているそうですが、まだ入国制限が行われて全国旅行支援の日本人観光客が主であった頃は、「全国旅行支援の分宿泊料が高くなっているので、お客の負担はほとんど変わらない。全国旅行支援は観光業者の利益になっているんだよ」と(近畿日本ツーリストの不正請求に見られるような)観光業者のぬけめないやり方を指摘していました。そして、入国制限が緩和して外国人観光客がどっと押し寄せるようになったら、「オレはありがたいけどな」と前置きして、「びっくりするくらい宿泊料を高く設定していて、あれじゃ日本人は泊まれないだろう」と言っていました。実際に、最近は宿泊客のほぼ百パーセントが外国人観光客だそうです。そうやってここぞとばかりに荒稼ぎしているのです。

それでも外国人観光客から見れば、日本は安い国なのです。「オーストラリアの昼食1回分のお金で、日本では夕食を3回食べることができる。金持ちになった気分だよ」とインタービューで答えていた観光客がいました。

築地の場外市場に外国人観光客が押しかけて、押すな押すなの賑わいというニュースを見ていたら、友達と観光に訪れたという日本の女子大生が、「(外国人観光客は)みんな高いものを食べているので凄いですね」と言っていましたが、そこには今の日本の姿が映し出されているように思いました。

■ウクライナ戦争と核の時代


よく陰謀論の権化のように言われる田中宇氏は、「決着ついたウクライナ戦争。今後どうなる?」という有料記事のリードに、次のように書いていました。

もうウクライナが勝てないことは確定している。事態を軟着陸させて漁夫の利を得るために和平提案した習近平が勝ち組に入っているのも確定的だ。ウクライナが西部だけ残ってポーランドの傘下に入る可能性も高い。米国と西欧の崩壊が顕在化し、東欧は非米側に転じ、NATOが解体する。ウクライナの国家名はたぶん残る(その方が和平が成功した感じを醸成できる)。ゼレンスキーが生き残れるかどうかは怪しい。EUも解体感が強まるが、国権や通貨の統合を解消して元に戻すのは困難だ。EUは再編して存続する可能性がある。

田中宇の国際ニュース解説
https://tanakanews.com/


やや突飛な感じがしないでもありませんが、これを単なる陰謀論として一蹴することができるでしょうか。私たちは、普段、イギリス国防省やアメリカのペンタゴンから発せられる“大本営発表”しか接してないので、こういった記事を目にするとトンデモ話のように受け取ってしまいます。しかし、たとえば、アメリカが唯一の超大国の座から転落して世界が多極化するという話も、最初はトンデモ話のように言われて、ネットで嘲笑されていたことを忘れてはならないでしょう。それどころか、政治の専門家やメディアも歯牙にもかけなかったのです。

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それは今も同じです。日本のメディアでは、ウクライナ戦争はロシアの敗北で終わるような話になっていますが、中国が言うように「核戦争に勝者はいない」のです。ホントに敗北するような事態になれば、ロシアはためらうことなく核を使用するでしょう。米英の“大本営発表”をただオウム返しに垂れ流すだけの日本のメディアには、勝者なき核戦争に対する認識がまったく欠落しているのです。それは驚くべきことだし、怖ろしいことです。

ウクライナ戦争に対しては、「核戦争には勝者はいない」という視点で考えるべきだし、そのために和平の働きかけが何より優先されるべきです。そんな当たり前のことさえ行われてないのです。そこにこの戦争の真の危機があるのだと思います。

先日、中国で「反スパイ法」が改正され、スパイの定義が拡大されたとして、日本のメディアでは、中国に駐在する日本人がアステラス製薬の社員と同じように狙い撃ちされるのではないか、というような話が盛んに流されています。これだけアメリカ主導で、今にも(2年以内に?)中国が台湾に侵攻するというような宣伝が行われ、周辺国が軍備増強を進めれば、中国が警戒心を強め国内の締め付けを強化するのは、ある意味で当然と言っていいでしょう。アメリカは、ロシアと同じように、中国が追い詰められて軍事的な行動を起こすように挑発している感じさえあるのです。

しかし一方で、現在のところ、どんな思惑があれ、「核戦争に勝者はいない」としてウクライナ戦争の停戦に乗り出しているのは中国だけです。欧米や日本は、民主主義が優位ですぐれた理念だと自画自賛し、中国やロシアを「権威主義国家」と呼んで敵対視していますが、しかし、戦争を煽り、核戦争の危機を招来しているのは、優位ですぐれた理念を掲げているはずの「民主主義国家」の方です。

欧米の「民主主義国家」は、”終末戦争”と言ってもいいような過激な玉砕戦を主張するゼレンスキーを節操もなく支援するだけです。どこの「民主主義国家」も、ゼレンスキーを説得しようとしないのです。まるで一緒になって”終末戦争”に突き進んでいる感じです。

ウクライナ戦争は対岸の火事などではなく、世界中が戦争の当事者でもあるのです。築地でウニを食べて浮かれているような観光客も当事者です。それが核の時代の日常なのです。

■核戦争を煽る岸田首相


岸田首相は、5月1日からグローバルサウスと呼ばれるアフリカのエジプト、ガーナ、ケニア、モザンビークへの歴訪を行っていますが、グローバルサウスというのは、欧米主導の世界秩序に異を唱える第三世界の国々のことです。しかし、いつの間にか第三世界ではなく「第三極」という言い方に変わっているのでした。

国連のロシア制裁決議においても、グローバルサウスの国々の大半は、反対もしくは棄権をして、欧米主導の決議案に反旗を翻したのでした。

岸田首相は、ウクライナ戦争の和平の道を探るために、そのカギを握るグローバルサウスを訪れたのかと思ったら、そうではなく、中国やロシアの影響力が増している彼の国々に対して、ともに反中国・反ロシアの列に加わるようにオルグするためだったのです。中国からの援助を「援助の罠」と呼び、それに対抗して数百億円というとてつもない金額の援助をチラつかせながら、「こっちの水は甘いぞ」と誘っているのでした。

1千万人を優に越える人々が年収130万円以下で生活しているような国内の貧困(格差)問題はそっちのけに、アメリカの手下になって花咲か爺さんのように大盤振る舞いを行っているのでした。

これでは、「核戦争に勝利はない」という考えなどどこ吹く風で、むしろ核戦争を煽っていると言っても言いすぎではないでしょう。まったく狂っているとしか思えませんが、しかし、それを指摘するメディアは皆無です。

一方、平和・護憲を謳い文句にしてきたいわゆる左派リベラルも、ウクライナがどんな国なのかという検証もなしに、ただ徒に侵攻したロシアを糾弾するだけで、バイデン政権の戦争政策に同伴しているのでした。そんな彼らを見るにつけ、戦後憲法が掲げる平和主義やその理念が如何に脆く、いい加減なものだったのかということを、あらためて痛感させられるのでした。彼らが掲げる”護憲”なるものは、現実の戦争に直面すると、単なる建前と化すような空疎なものでしかなかったのです。左派リベラルの”護憲”や”平和”の論理は、完全に破綻したと言っていいでしょう。口では翼賛体制に反対するようなことを言いながら、みずから進んで翼賛体制に加わっているのですから、戦前の社会大衆党と同じです。”鬼畜中ロ”においては、与党も野党も、右も左もないのです。まさに歴史は喜劇として再び繰り返しているのでした。
2023.05.03 Wed l 社会・メディア l top ▲