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こんなことばかり書いても仕方ないのですが、最近、世情を賑わせているビッグモーターの不正問題と札幌ススキノの頭部切断遺棄事件についても、メディアのまわりくどい報道に、何だか隔靴掻痒の感を覚えてなりません。どうしてもっとシンプルに考えることができないんだろうと思います。

■保険金不正請求の深層


昔ディラーで働いていて、その後損保の代理店に転職した知人にビッグモーターの問題を訊いたら、中古車業界や車の修理工場の根深い体質もさることながら、主因は損保会社の不作為にあると言っていました。

「保険金詐欺」とも言っていいようなビッグモーターの不正請求があれほどまかり通ったのは、損保会社が修理金額をチェックする査定を事実上棚上げしてビッグモーターのやりたい放題を黙認した上に、さらに不正行為に手を貸すかのように修理車両をビックモーターに紹介していたからです。

わざと傷を付けて修理代金を上乗せした事故車の多くは、別にビックモーターから中古車を買ったユーザーの車ではないのです。損保ジャパンをはじめとする損保会社が紹介(修理を依頼)した保険契約者の車なのです。

私も昔、車を当て逃げされた経験がありますが、翌日、当て逃げした「犯人」が名乗り出たので、保険会社に紹介された修理工場に修理を出したことがありました。修理が出来上がり、後日、送られてきた明細を見てびっくりしました。「保険だからいいようにぼったくっているな」と思いましたが、自分が支払うわけではないので苦笑するだけでした。

パーツを取り替えるより板金塗装した方が工賃が高く、修理工場が儲かるのかもしれませんが、ビッグモーターがやっていたことは、いくら高くても車の持ち主からクレームが来ることはないという、保険のシステムを悪用した手口で、業界では別に珍しいことではないのでしょう。

保険会社にしても、過大な修理代金は保険から支払い、その分は保険料の料率の改定に反映されるだけなので、自分たちの懐が痛むわけではないのです。だから、大手の代理店であるビッグモーターの売上げに手を貸すことで保険契約(特に自賠責保険)のシェアを拡大するという、”悪手”とも言うべき持ちつ持たれつの関係を築いたのでしょう。

「保険制度の根幹をゆるがす大問題」とホントに思っているなら、ビックモーターよりむしろ不正に手を貸した損保会社に対して、会社のあり方そのものを問い直すような大ナタを振るうべきでしょう。でも、所詮はトカゲの尻尾切りで終わるのは目に見えています。

■トランスジェンダーを隠れ蓑にした性犯罪のデジャビュ


一方、札幌の頭部切断遺棄事件では、小学校の頃から不登校であったという29歳の娘は、自分の性に対して定まらない、いわゆる「ノンバイナリー」の側面があったと言われています。しかもメンヘラだったのか、責任能力がないと見做されて罪を問われない可能性があるとも言われているのです。

また、被害者の男性は女装してクラブのパーティなどに出没していたそうですが、実は女装は女性をナンパするための手段だったという話も出ているのです。そのため、ススキノのいくつかの店では女性とトラブルを起こして出入り禁止になっていたそうです。

そして、究極の箱入り娘とも言える29歳の娘との間でもトラブルが生じ、スマホで撮影した娘の動画をネタに自宅にまで押しかけていたという話があります。

断片的な情報しかなく事件の概要が掴みにくいのですが、計画を主導(提案)したのは、娘ではなく父親だったと言われているのも、一家をまきこむトラブルが背景にあったからでしょう。メンヘラでトランスジェンダーの一人娘が、それこそ女装して女性トイレに忍び込む性犯罪者と紙一重のような男の魔の手に落ちたことで、世間知らずの代名詞でもあるような医者の一家が追いつめられて、あのような猟奇的と言うのか稚拙な完全犯罪と言うのかわからないような犯行に至ったというのが真相なのではないか。ここにもLGBTQで指摘されていた、トランスジェンダーを隠れ蓑にした性犯罪の問題が露呈されているように思えてなりません。

このように二つの事件に共通しているのは、被害者が単純な、、、被害者ではないということです。加害者VS被害者という単純な、、、図式で事件を見ると、事件の本質が見えなくなってしまうのです。


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2023.07.28 Fri l 社会・メディア l top ▲
たそがれの御堂筋


YouTubeで1980年代のJポップを検索していたら、坂本スミ子の「たそがれの御堂筋」の動画が出て来ました。私にとって御堂筋は、欧陽菲菲の「雨の御堂筋」ではなく、坂本スミ子の「たそがれの御堂筋」なのでした。

YouTube
たそがれの御堂筋~坂本スミ子

考えて見れば、「たそがれの御堂筋」を聴いたのは、もう30年もそれ以上も前です。今聴くと如何にも昭和の歌謡曲っぽいメロディと歌詞に、逆にしんみりとした気持になりました。

■関西汽船


私は、九州の大分県出身ですが、昔の大分は大阪の経済圏の中にありました。当時の交通手段は、今のように飛行機ではなく船でした。別府から神戸や大阪を結ぶ航路が主要な交通手段だったのです。観光客も商売人も別府と阪神間を結ぶ関西汽船に乗ってやって来ていたのです。

別府には、関汽タクシーという関西汽船系列のタクシー会社があったし、近鉄タクシーや近鉄デパートもありました。

私が出た中学は大分県でも熊本との県境にある山奥の学校でしたので、私の頃は同級生の3分の1は中学を出て集団就職をしていました。彼らの就職先は、阪神工業地帯と呼ばれていた大阪や兵庫の工場でした。

■修学旅行の思い出


中学の修学旅行も、別府から関西汽船に乗って京都・奈良に行きました。当時は小学校でもそうでしたが、修学旅行に行くと、旅行先に住んでいる親戚が面会に来るのが習わしでした。私も、神戸に伯母(母親の実姉)が嫁いでいたので、母親から「おばちゃんに連絡しようか?」「小さいときしか会ってないので喜ぶよ」と言われたのですが、恥ずかしいので「連絡しなくていいよ」と断ったのでした。

宿泊先の旅館では、親戚が面会にやって来た場合に限り、一緒に外出していいという決まりになっていました。関西には先に就職した兄姉や叔父叔母がいるケースが多いので、そういった親戚がやって来て、同級生たちは一緒に外出するのでした。

近所の幼馴染にも、大阪かどこかで働いているお姉さんがやって来ました。しかし、私たちとは年が離れているので、私もお姉さんにはまったく記憶がなく初めて会うような感じでした。幼馴染からは、「一緒に行こうよ」と言われたのですが、私は断って旅館に残ったのでした。

数時間後に外出から戻って来た幼馴染は、「御堂筋に行ってケーキを食べた」と言うのです。そのとき、坂本スミ子の「たそがれの御堂筋」が浮かんで来て、御堂筋はどんなにネオンが瞬く華やかな通りだったんだろう、と想像をめぐらしたのでした。

■御堂筋のイメージ


後年、東京の会社に勤めるようになってから、大阪にも何度か出張で行ったことがありますし、プライベートでも関西を旅行した際に寄ったことがありますが、しかし、営業所があった江坂の東急ホテルに泊まったという記憶くらいしかなく、あとはまったく印象に残ってないのでした。大阪に高校時代の同級生がいたので、出張した際、彼とどこかに食事に行ったことは覚えていますが、どこに行ったのかも覚えてないのです。私の中では、中学の修学旅行のときに頭に浮かんだ「たそがれの御堂筋」しか残ってないのでした。

東京は、仕事でも車を使っていましたので、それこそタクシーの運転手もできるくらい道に詳しいのですが、私にとって大阪はまったくの未知の世界です。未だに「たそがれの御堂筋」のイメージしかないのでした。

そして、昔の思い出に耽っていたら、脈略もなく、いよいよホンモノの黄昏がやって来たなと思ったのでした。さみしい話ですが、これから先、こんな心に残るような思い出エピソードに出会うことはもうないだろうなと思うのでした。


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■クックパッドのリストラ


私はまったく利用しないので知らなかったのですが、クックパッドが6月に今年3度目となるリストラを発表したそうです。

2月に一部事業の停止に伴い46名の希望退職者を募集し、その翌月の3月には、海外レシピ事業からの撤退を発表して73名のリストラを断行したばかりで.した。ところが、6月には、さらに海外子会社を含むグループ全体で110人削減すると発表したのでした。

クックパットは、2022年12月期通期の連結決算では売上高が前年比9.2%減の90億8,600万円、営業損益も前年26億3,200万円から35億2,000万円の赤字拡大に陥っているのでした。

クックパッドの収益の柱は、サイトの広告とプレミア(有料)会員の会費ですが、そのプレミアム会員も2018年に200万人だったのが2022年には168万人に減少しているのだそうです。

要因としては、競合サイトの乱立や料理系ユーチューバーの台頭があると言われています。とりわけ、動画コンテンツに乗り遅れたことが大きいと指摘する声が多いのです。

■集合知の末路


しかし、私は、次のようなユーザーの声にいちばんの要因が示されているような気がしてなりません。

サイト利用者からの投稿によって掲載レシピ数を増やしてきたクックパッドだが、逆にレシピの数が増えすぎたために、利用者の間からはレシピのチョイスに迷ってしまうといった声が上がっていたようだ。

また同時に、レシピのクオリティも基本的には素人による投稿なだけに玉石混交、ぶっちゃけていえば“ゴミレシピ”と呼ばれるような、あまり役に立たないレシピが増えたにも関わらず、その状況を半ば放置したのも悪手だったとの指摘も。特に酷いケースだと、離乳食レシピにも関わらず、はちみつが入ったものも以前は多くあったようで、そのことが大いに叩かれたことも過去にはあった。

さらに、そういった“ゴミレシピ”が、普通に検索サイトなどでレシピを探している時に“サジェスト汚染”よろしく多く引っかかることも、クックパッドへの嫌厭に繋がったようで、そういった層は、食品メーカーや調味料メーカーなどが運営するレシピサイトなどに流れたようだ。

MONEY VOICE
クックパッド、今年3度目となるリストラ断行の異常事態。増殖する“ゴミレシピ”放置と動画対応への遅れが致命傷に?


つまり、ここに示されているのは、Googleがウェブ2.0で華々しく唱えた「集合知」の末路とも言うべきものです。

誰もがネットを利用するようになるにつれ、ネットが「常に水は低い方に流れる」ようになり、「集合知」と言っても玉石混交で、それを見分ける手間とリテラシーが求められるようになったのです。ネットを覆ったのは、「集合知」ならぬ「集合」だったのです。

動画に乗り遅れたという話も、YouTubeがアルファベット(Googleの持株会社)の収益の足を引っ張っていることに象徴されるように、タムパやコスパの風潮の中で、動画投稿も頭打ちになりつつあります。その意味では、クックパッドは二周遅れているとも言えるでしょう。

■ネットの錬金術の終わり


それどころか、検索さえ、チャットGTPのようなAIによるチャットボットに代わるのではないかと言われているのです。そうなれば、検索対象とダイレクトにつながるので、今のように検索エンジンで表示される、広告と検索がごっちゃになったような検索結果の候補リストなど、誰も見向きもしなくなるでしょう。

ネットを支配してきたGoogleが用済みになったら痛快ですが、それもあり得ない話ではないのです。

このように、クックパッドの苦境は、(スマホ以来の)大きな転換期を迎えたネットの今の状況を体現していると言っていいのかもしれません。それは、タダで集めた口コミ(ゴミ)に広告を付けて宝にするという、ネットの錬金術とも言うべき典型的なビジネスモデルが終わりつつあるということでもあります。そのビジネスモデルによって広告に依存したネットの”無料経済”が成り立っていたのですが、既に”無料経済”も遠い昔の話になっています。だからと言って、サブスクに移行するのも簡単ではなく、まるで雨後の筍のように乱立してお金と時間の取り合いをすれば、収益化のハードルが高くなるのは当然でしょう。

「先行者利益」という言葉がありますが、クックパットはネットの黎明期から事業を始めた「料理レシピのコミュニティウェブサイト」(Wikipediaより)の文字通り先行者だったのです。でも、わずか20年足らずで苦境に立たされているのです。
2023.07.16 Sun l ネット l top ▲
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■痛ましいという言葉しか見つからない


ryuchell の自殺のニュースを聞いたとき、男性の同性愛者は、異性愛者と比べて自殺未遂の割合が6倍近く高いという統計を思い出しました。ゲイとトランスジェンダーを一緒くたにするのは批判があるとは思いますが、SNSの誹謗中傷も含めて、ryuchell は私たちが想像する以上に生きづらさを抱えていたのでしょう。

ryuchell の生きづらさを考える上で、下記のカルーセル麻紀の言葉が参考になるように思いました。

集英社オンライン
〈ryuchellさんを偲んで〉カルーセル麻紀、自らも苦しんだホルモンバランスの崩れと誹謗中傷「昔は見世物、コンプライアンスはあったもんじゃなかった」「男が女に生まれ変わるには想像を超える痛みと苦しみが待ってるのよ」

ryuchell もまた、森鴎外と同じように、「夜中、忽然として座す。無言にして空しく涕洟」していたのかもしれません。

年を取ると、世の中から邪魔扱いをされているような気がして、いっそう孤立感を抱くようになりますが、27歳という若さで家庭を持ち子どもさえいながら、それでも生きづらさを抱えて自死を選ばざるを得ないというのは、痛ましいという言葉しか見つかりません。

それにしても、この所詮は他人事、、、、、、の大合唱は何なんだと思います。ネットの時代になり、有名人の悲劇について、一般の人々がSNSを使ってさまざまな(勝手な)意見や感想を公開するようになったのですが、しかし、それは所詮は他人事、、、、、、が公けになりさらに輪を広げて拡散すること以上の意味はないのです。ありていに言えば、有名人の宿命とは言え、単に晒し者にされているだけです。

もうひとつ、SNSなどで誹謗中傷した人間たちがやり玉に上がっていますが、そういった「バカと暇人」を煽った者たちがいるということも忘れてはならないでしょう。

コメント欄を使ってバズらせ、ニュースをマネタイズすることしか考えてないYahoo!ニュースのようなネットメディア。自社サイトへ誘導するために、コタツ記事で過剰に劣情を煽る週刊誌やスポーツ新聞などのオワコンメディア。末端の実行犯ばかりが叩かれていますが、彼らこそが指示役なのです。そんな彼らは、今になって口を拭いきれいごとを並べているのでした。

■濃褐色の血尿


昨日の朝、起きてトイレに行ったら、白い便器の中に濃褐色の尿が流れ出ました。今までも何度も経験していますが、やはり少なからずショックを受けました。

夜中には右足が攣って目が覚めたのでした。いつもだとふくらはぎが攣ることが多いのですが、今回は関節の裏あたりが攣って足を動かすこともできないほどでした。何とか片足でベットから起き上がり、痛み止めを飲んで再び寝たのでした。

そして、朝の濃褐色の血尿です。夜はエアコンを点けずに、窓を開け放して扇風機をかけて寝たのですが、そのためか全身は汗びっしょりで、トイレから戻っても汗が止まりませんでした。しかも、右脇腹が痛く、冷や汗さえ出るようになったのでした。

再びベットに横になったものの、右脇腹の痛みが増し身もだえするようになっていました。私は、何の根拠もなく、これはもしかしたら熱中症かもしれない、と思いました。山で熱中症になり、夢遊病者のようにフラフラになって、やっとの思いで下りてきたという話をこのブログでも書いていますが、吐き気はなかったものの、汗が止まらないのは似ているような気がしたのです。

でも、あとで冷静になって考えれば、熱中症で脇腹が痛くなるはずはないのです。

とりあえず、もう一度痛み止めの薬を飲み、同時に経口補水液を水に溶かして、それを飲みました。そして、浴槽にお湯を入れて風呂に入ったのでした。前に尿管結石になったとき、風呂に入ったら痛みが和らぐことを学習していたからです。

このように、私の中では熱中症と尿管結石がごっちゃになり、支離滅裂なことをしていたのでした。

風呂に浸かると、睡眠不足ということもあってか、睡魔に襲われ、いつの間にか湯舟の中で眠ってしまいました。1時間くらい眠って目が覚めたのですが、脇腹の痛みもかなり収まっていました。

風呂から上がると、ネットを観る余裕も出ていました。それで、椅子に座ってネットをチェックしていたら、いつの間にか脇腹の痛みが消えていたことに気付いたのでした。

痛みも取れ、やっと落ち着いたら、今年の初め、かかりつけの病院で、尿検査をしたら血が混じっている、と指摘されたことを思い出したのでした。その半月前に、今回と同じように濃褐色の血尿が出て、そのあと茶こしで尿を確認していたら石がポロリと出たことがあり、私は、体内の石が全て排出され、これで暫くは尿管結石から解放されると勝手に思っていたのですが、そうではなかったのです。しかし、何故か、昨日の朝は病院で指摘されたことをすっかり忘れ、熱中症かもしれないなどと思って、支離滅裂なひとり芝居を演じたのでした。

最近はこのように冷静さを失って勘違いすることも多くなっています。私はもともとネガティブな人間で、ものごとを悪い方に解釈する傾向がありますが、それは対人関係においても同じです。人当たりはすごくよくて愛想もいいので、誰も私が”人間嫌い”だと露ほども思ってないと思いますが、しかし、心の中はまったく逆なのです。いつも疑心暗鬼にとらわれ、他人を信用することはありません。そして、年を取れば取るほど、その傾向が強くなっているのでした。

■身体は文化を内蔵する


それにしても、人間というのは現金なもので、肉体的な不調や痛みがあると、何とかしてその不調や痛みから逃れたいという気持ばかりが強くなり、悩みなどはどっかに行ってしまうのでした。

山に登っていると、よけいなものが削ぎ取られて考えることがシンプルになると言いますが、〈身体的〉というのはそういうことでしょう。

「健全なる精神は健全なる身体に宿る」というのは、極めて不適切で反動的な言葉ですが、ただ、精神と身体が不可分の関係にあるという意味においては、私たちの身体の本質を衝いているとも言えるのです。

「身体は文化を内蔵する」と言ったのは、身体論で有名な哲学者の市川浩ですが、ryuchell の生きづらさもそこから来ていたのではないかと思ったりもするのでした。文字通り身を裂かれるような気持だったのかもしれません。私たちの身体からだは、頭で割り切ればいいというような、そんな簡単なものではないのです。
2023.07.15 Sat l 訃報・死 l top ▲
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(イラストAC)



■ETCからも排除される暴力団員


今年の2月、産経新聞に次のような記事が出ていました。

産経新聞 THE SANKEI NEWS
ETC不正利用容疑で 山口組直系組長3人ら計11人逮捕

つまり、家族や親族名義のETCカードを使って高速道路を走行したことで、ETCを使って割引になった分をだまし取ったとして、電子計算機使用詐欺の疑いで逮捕されたという、目を疑うようなニュースです。

暴力団員の話なので、ざまあと言いたくなりますが、しかし、こういった権力の言いがかりが通用するような社会は怖いなと思いました。何でもありというのはこういうことで、その言いがかりがいつ自分たちに向かってくるやもしれないのです。

この記事は家族や親族名義のカードを使ったという話ですが、クレジットカードを持つことができない暴力団員は、普通はクレジットカードと紐づけてないデポジット式のETCパーソナルカード(パソナ)を使っているケースが多いそうです。「パソナ」の利用規約の中にも暴力団員の申し込みを拒めるとは明記されてなかったのだとか。

ところが、今年の3月から、高速道路6社は、暴力団員が「パソナ」の申し込みができなくなるように規約を改定したそうです。よって今年の3月以降、暴力団員は実質的に高速道路を利用することができなくなったのです。上記の摘発は2月なので、事前に警告する狙いもあったのかもしれません。

■金融庁の「通達」


そもそも暴力団員が銀行口座やクレジットカードを持つことができなくなったのは、1992年に施行された暴対法(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律)を根拠に、監督官庁である金融庁が、金融機関に暴力団を排除するように「通達」を出したからです。銀行口座やクレジットカードの禁止は、法律に定められているわけではなく、一官庁の「通達」によって行われているのです。

もちろん、ヤクザの肩を持つ義理も由縁もありませんし、それどころか、ヤクザは私たちの日常生活においても、時と場合によってはいつ牙を向けてくるかもしれないような迷惑な存在ですが、それはそれです。ヤクザであれ何であれ、基本的な人権である生存権を奪うようなことが一官庁の「通達」でまかり通ってしまうことには、法治国家として首を傾げざるを得ません。

暴対法に従って全国の自治体で制定された暴排条例(暴力団排除条例)では、暴力団員は市営住宅や県営住宅など公営住宅にも入居できないように定められています。それどころか、賃貸契約に暴力団排除条項が入っていれば、民間住宅の賃貸契約も禁止(もしくは解除)されるのです。もちろん、土地や家屋の売買も同様です。暴力団員は日本国籍を持つ日本国民でありながら、制度的には日本国内に住む家を持つことができないのです。

もちろん、ETCや住宅だけではありません。前も書きましたが、暴排条例の「利益供与の禁止」によって、葬式もできない、宅配も利用できない、何もできないのです。

でも、(ここからが不思議ですが)現実には彼らは普通に生活しています。ホームレスになっているわけではないのです。それどころか、私たちよりいい生活をしています。

■暴対法や暴排条例の当然の帰結


昔、知っている女の子が不動産会社に就職したら、あとでその会社がフロント企業だったことがわかったという話がありました。それで、辞めるときのトラブルを怖れて、親の伝手で警察の幹部に頼んで辞めたのですが(でも、実際は女の子の取り越し苦労で普通に辞めることができたそうですが)、その女の子が言うには、事務所には普段から刑事がよく訪れていたそうです。用事もないのにふらりとやって来て、ソファに座って新聞を読んだり、お茶を飲んでバカ話をしたりしていたのだとか。女の子の目には、警察とヤクザの“癒着”に映ったようですが、担当者の刑事はそうやって情報収集を行っていたのでしょう。しかし、暴対法以降、そういったこともなくなったはずです。そのため、警察の情報収集能力が格段に落ちたと言われているのでした。

フィリピンを拠点にしたルフィ一味による特殊詐欺や強盗などが、暴対法以後の状況を象徴しているように思いますが、暴対法と暴排条例でがんじがらめに縛られた彼らは、直接手を下すのではなく、周辺にいる悪ガキたちを使って“裏稼業”を行なうようになったのでした。ルフィなんてただの使い走りのチンピラにすぎないのです。

彼らは暴対法に対応するために、あのようなSNSを駆使した巧妙なシステムを作って地下に潜ってしまったのでした。そのため、捕まるのは末端のチンピラだけで、元締めには手が伸びることはなくなり、警察は無能みたいに言われるようになったのでした。メディアは、チンピラを指示役だと言っていますが、指示役の上にはさらに指示役がいるのです。警察も金融庁も所詮は公務員なので、ヤクザは公務員の事なかれ主義の体質を逆手に取っているような気がしないでもありません。

YouTubeが新しいシノギになっているという話も同じです。彼らにとって、Googleの建前や本音とYouTubeのいかがわしさは格好のターゲットと言えるでしょう。

ルフィ一味の犯罪も、センセーショナルに報道されたわりには、結局、大山鳴動して鼠一匹に終わる公算が大ですが、それは役人的発想にすぎない暴対法や暴排条例の当然の帰結と言えなくもないのです。

■「駅前やくざは、もういない」


坂口安吾が『堕落論』で書いていたように、人間というのは社会制度の粗い網の目からこぼれ落ちる存在なのですが、況やヤクザにおいてをやという気がします。

猪野健治は、名著!『戦後水滸伝』(現代評論社・1985年)の中で、戦後の混乱期に出現した「新興アウトロー集団」が、博徒やテキヤと言った伝統的なヤクザ組織とは一線を画す”戦後ヤクザ”の基礎を作った、と書いていました。そういった新興の”戦後ヤクザ”が、暴対法やSNSに対応する現代のアウトローの系譜に連なっているのです。

 占領軍による軍政下に展望を失った政治権力とおよび腰、、、、の共産党――その間隙にたくましく芽ぶいていたのが、大小無数のアウトロー集団だった。
 それらのアウトロー集団は、戦前の博徒やテキヤとは、無縁の実力部隊であった。その構成層も、戦前のそれとはまるでちがっていた。復員軍人、特攻くずれ、元官史、ボクサー、旧制大学生、農民、土方の現場監督、元博徒、旧制中学の番長、現職新聞記者、引揚者、元共産党員、元教師、元テキヤ、元銀行員、漁夫、船員あがり‥‥などあらゆる階級の出身者が加わっていた。
 だから彼らは伝統や習慣にとらわれることなく、力のおもむくまま、露店、賭博、集団強盗、詐欺、強奪、恐喝、用心棒、債権とりたてなどありとあらゆる分野に手を出した。
 もてる者から奪い、仲間で分配すること――それが彼らの行動論理だった。
(『戦後水滸伝』・序章 ヤクザ維新)


「この『義侠の血』は、日本のアウトロー独自の情念的なもの」だ、と猪野健治は書いていました。

メディアは、暴対法や暴排条例によって、ヤクザはシノギができなくなり青息吐息だとか、若い組員たちは「ヤクザになったことを後悔している」などと言っていますが、それは権力にベッタリのメディアが暴対法や暴排条例の効果を宣伝しているだけです。

竹中労は、「駅前やくざは、もういない」と書いていましたが、たしかに駅前からヤクザの姿は消えたけど、しかし、彼らは今様に姿かたちを変え、ネットやSNSの奥でしたたかに生き延びているのです。


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「ヤクザと憲法」
2023.07.13 Thu l 社会・メディア l top ▲
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(山下公園)



■政治なんてものはない


前の記事からの続きになりますが、年金だけでは生活できないのでアルバイトを探しているけど、アルバイト探しにも苦労しているという70歳の知り合いのせつない話を聞くにつけ、私は〈政治〉というものについて考えさせられました。そして、吉本隆明の「政治なんてものはない」(『重層的な非決定へ』所収)という言葉を思い出したのでした。

指導者の論理と支配者の論理というのは、自分の目先の生活のことばかり考えているやつは一番駄目なやつで、国家社会、公共のことを考えてるのがそれよりいいんだみたいな価値観の序列があるんですよね。ところが僕は違うんです。僕は反対なんです。自分の生活のことを第一義として、それにもう24時間とられて、他のことは全部関心がないんだって、そういう人が価値観の原型だって僕は考えている。


これは、前も紹介しましたが、NHK・Eテレの吉本隆明を特集した番組(戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2014年度「知の巨人たち」「第5回 自らの言葉で立つ 思想家~吉本隆明~」)の中で取り上げられていた吉本隆明の発言です。

高齢のためにアルバイトすらなかなか見つけることができない。見つかっても警備員のような薄給で体力的にきつい仕事しかない。アルバイトの現場では、外国人の若者の方がはるかに労働力として重宝され、彼らができない仕事を落穂拾いのように与えられるだけ。

そんな現実の中で出会った(出会いつつある)のが、「外国人排斥」に繋がりかねないような〈政治〉です。「自分の生活のことを第一義として、それにもう24時間とられて、他のことは全部関心がない」彼にとっての〈政治〉がそれなのです。

昨日(7月8日)は安倍銃撃からちょうど1年でしたが、親ガチャで過酷な人生を歩むことを余儀なくされた山上徹也容疑者にとっての〈政治〉は、安倍晋三であり旧統一教会だったのでしょう。

■革命は胃袋の問題


日々の生活に追われ、自分の生活を一義に考えていく中で、阻害要因として目の前に立ちはだかるのが〈政治〉なのです。与党か野党かとか、政党支持率がどうかとか、投票率がどうとかいったことは二義的なことで、日々の生活に追われ、自分の生活を一義に考えている人々にとっては、どうでもいいことなのです。

でも、メディアに出ている識者やジャーナリストは、そんな「どうでもいいこと」を政治としてあげつらい、大事なもののように言うのです。生活者が無関心なのは当たり前なことなのに、無関心ではダメだ、だから政治がよくならないのだ、と説教するのでした。

日々の生活に追われる人々にとって、もっとも切実で大事な問題は今日のパンを手に入れることです。そして、パンが手に入らないとき、初めて〈政治〉と出会うのです。竹中労は、革命は胃袋の問題だと言ったのですが、とどのつまりそういうことでしょう。

ちなみに、吉本隆明は、埴谷雄高との論争の過程で書かれた「政治なんてものはない」という文章の中で、「革命」について、次のように書いていました。

「革命」とは「現在」の市民社会の内部に厖大な質量でせり上がってきた消費としての賃労働者〈階級〉の大衆的理念が、いかにして生産労働としての自己階級と自己階級の理念(およびそれを収奪している理念と現実の権力――その権力が保守党であれ革新党であれ――)を超えてゆくか、という課題だと考えております。
(『重層的な非決定へ』・埴谷雄高への返信)


しかし、これは、新旧左翼と同じように、大いなる錯誤だとしか言いようがありません。何だかシャレみたいに上げたり下げたりしていると思うかもしれませんが、吉本隆明もまた、上か下かの視点が欠如した市民的価値意識に囚われた人なのです。

武蔵小杉や有明のタワマンの住人に向かって、「子育て大変ですよね」「私たちは皆さんの経済的負担を軽減したいと考えています」「皆さんの味方になりたいのです」と演説している、左派リベラルの政党なんて「敵だ」「クソだ」と思われても仕方ないでしょう。”下”の人々にとって、そんなものは〈政治〉でもなんでもないのです。

宗教二世に限らず、多くの”下”の人々が山上徹也容疑者に共感するのも、彼の生活や人生に自分と重なるものがあるからでしょう。


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二発の銃弾が暴き出したもの
2023.07.09 Sun l 社会・メディア l top ▲
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■労働市場から弾き出される中高年


70歳になる知り合いがいて、年金だけでは生活できないのでアルバイトを探しているけどなかなか見つからず苦労している、という話をしたことがありますが、昨日、その知り合いと久しぶりに会って中華街で食事をしました。

彼は、自分たちにまわって来る仕事は、20年も30年も前からまったく時給も上がってないような底辺の仕事しかない、と嘆いていました。たとえば、警備員などがその典型で、警備員になるには本籍地の役所が発行する身分証明書が必要なので、実際は日本国籍の人間しかできない仕組みになっているそうですが、そのため、いつまで経っても時給が上がらない、と言っていました。

どういうことかと言えば、今の非正規の労働市場は、「若ければなんでもいい、国籍を問わない」という感じなのだそうです。外国人労働者の流入によって、今まで日本人の中高年がやっていたような仕事も、とにかく若い人材を求めるようになっているのだとか。そのため、年齢の高い非正規の労働者が労働市場から弾き出されるようになっていると言うのです。

しかも、警備員に見られるように、日本人に限定される(若い外国人を雇用できない)仕事は、逆に低賃金のまま据え置かれるという“逆転現象”さえ生まれているのです。ありていに言えば、単純労働の市場では、年老いた日本人より若い外国人の方が付加価値が高いという、身も蓋もない市場原理がはたらきはじめているのです。

彼の話を聞きながら、何だかこっちまでつらい気持になりました。そして、以前、高齢化社会を扱ったNHKの番組の中で流れていた、「歳をとることは罪なのか」という言葉を思い出したのでした。

要は、日本の過酷な老後の現実と照らし合わせた上で、外国人労働者の問題をどう考えるかでしょう。その問題を資本の論理に任せるだけでホントにいいのか、ということです。

■資本の論理


今日、近所の「まいばすけっと」というイオンが展開しているミニスーパーに行って外に出たら、そこに納品のトラックがやって来ました。トラックを見ると、助手席には黒人の青年が首にタオルを巻いて乗っていたのでした。それは、運送業界の「2024年問題」が取り沙汰される中で、助手を付けて運転手の負担を少しでも軽減しようという付け焼刃の対策なのかもしれませんが、納品の補助をするのも、今や外国人労働者が起用されるようになっているのでした。それともう一つは、ゆくゆくは彼らのような若い外国人を運転手として育成しようという思惑もあるではないかと思いました。

人手不足と言っても、それは若い人材が不足しているという話にすぎません。高齢の労働者は、人手不足だと騒がれている中でも、相変わらず仕事探しに苦労しているのです。人手不足ではないのに、人手不足にされているのです。そうやって労働市場の埒外に置かれているのでした。

知り合いは駐車場の係員の面接に行って、「愕然とした」という話をしていました。けんもほろろに断られて、帰りに駐車場を見ると、そこにはパキスタンかネパールの40代くらいの男性が二人働いていたそうです。特別の技能も知識も必要ない単純労働では、国籍は二の次で、とにかく若けりゃいいという、身も蓋もない考えがまかり通っているのです。それが、資本の論理なのです。

■重宝される若い移民たち


これでは、日本でも早晩、ヨーロッパと同じように移民排斥の声が大きくなっていくでしょう。移民を入れるかどうかという論議自体がナンセンスなほど、既に日本はなし崩し的に“移民大国”になっているのですが、「若けりゃなんでもいい、国籍を問わない」という資本の論理によって、若い移民たちが今後益々重宝されるようになるでしょう。国連の自由権規約委員会の調査報告で、「人身取引き」と指摘された技能実習制度の見直しもはじまっていますが、しかし、それは、必ずしも人権尊重やヒューマニズムから外国人労働者の待遇の「改善」がはかられているわけではないのです。土木建設や農業や漁業や介護だけでなく、あらゆる単純労働の現場に若い人材がほしいという、資本の要請によるものが大きいことを忘れてはなりません。それを、左派リベラルがあたかも自分たちの運動の成果であるかのように言い募っているだけです。そこに大いなる錯誤と誤魔化しがあるのです。

ヨーロッパでは、移民反対の先頭に立っているのは、移民として先にやって来たマイノリティーたちだと言われています。つまり、自分たちの仕事があとから来た若い移民たちに奪われるからです。

でも、日本の場合は、ヨーロッパと比べて社会保障制度が遅れているので、年金のレベルも低く、年金を受給しながら生活のために働かなければならない高齢者が多く存在します。そのあたりがヨーロッパと事情が異なるし、問題はもっと深刻だと言えます。

日本で移民排斥の声が高まれば、中国や韓国に対する民族排外主義とは比べものにならないくらい、極右の台頭と社会の分断をもたらすことになるでしょう。

「爺さんや婆さんに仕事がないのは当たり前。早く死んで楽になれよ」なんて悪態を吐いているネットの(頭の弱い)若者たちにしても、やがて外国人労働者との間で職の奪い合いをしなければならないのです。そして、年を取って夫子自身が「爺さん」や「婆さん」になれば、若い外国人労働者に職を奪われることになるのです。資本主義社会では、「共生」など絵に描いた餅にすぎないのです。

生き延びるために資本は国家を易々と乗り越えるけど、私たち個人は〈国民〉という概念や身分に縛られたまま、国家の中で(そして、その理不尽さの中で)一生を送るしかないのです。

■観念の先を行く現実


観念的に「差別は悪い」「移民排斥は間違っている」と言っても、現実は既に観念の先を行っているのです。「万国の労働者団結せよ」というスローガンも、(昔から言われていたことですが)めぐまれた本工の話にすぎません。まぎれもない労働者でありながら、左派の運動の中でも排除されてきた底辺の労働者たちが、移民排斥に動員されファシズム運動に組織されるのは杞憂とは言えないでしょう。

左派リベラルには、「ざまあみろ」「笑わば笑え」という気持しかありません。「差別は悪い」「移民排斥は間違っている」と言っても、負の感情に支配された人々からは冷笑されるだけでしょう。シャンタル・ムフではないですが、「闘技」の政治を回避してひたすら中道化して行った彼らには、もはやどこにも出番はないのです。それどころか、〈革命〉はファシストに簒奪され、右派の政治の代名詞にさえなってしまったのでした。


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2023.07.04 Tue l 社会・メディア l top ▲
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■同級会の案内状


地元にいる高校時代の同級生から、同級会の案内状が届きました。私の出た高校には各地に同窓会があって、関東地区の同窓会の世話役も同級生がやっているのですが、それとは別に、地元の同級生が個人的に計画した同級会のようです。

今回の同級会については、私も事前に知っていました。地元にいる別の同級生から電話があった際、「同級生の○○知っているやろ。あいつが中心になって同級会を計画しているらしい。この前会ったときそう言っていた」という話を聞いていたからです。

ただ、会場を探すのに苦労していると言っていました。と言うのも、観光地なのでホテルなど会場になる施設はいくらでもあるのですが、どこのホテルも人手不足で宴会を受け入れることができないと断られるのだとか。特に仲居さん不足が深刻なのだそうです。

■観光地の勢力図


私が知っている頃は、大きな観光ホテルには「副支配人」や「営業部長」などという肩書の名刺を持った専属の営業マンがいて、宴会や団体旅行の勧誘のために県内の役所や企業などを回っていました。

昔は役場や農協などに関連する団体がお得意さんだったのです。また、会社も忘年会などは泊まり込みで行くことが多かったのでした。

もちろん、ホテルと言っても全国チェーンのホテルではなく、昔からやっている地元の温泉ホテルです。温泉地なので、働いている人も、(言い方は悪いですが)いろんな事情を抱えて「流れて来た」人も多かったのです。

でも、今はそんな地元のホテルや旅館はどこも苦戦しており、廃業したり買収されたところも多いようです。その一方で、まるでハゲタカのように全国的に名の知れたホテルチェーンなどが進出してきて、観光地の勢力図は大きく塗り替えられているのでした。

因みに、同級会の案内状を送って来た同級生の実家も温泉ホテルでしたが、既に廃業しているそうです。同級生の中には何人かホテルや旅館の息子がいましたが、いづれも廃業していると言っていました。

■みんな買収された


昭和の終わり頃から、団体旅行や社員旅行などがだんだん姿を消していったのでした。このブログで何度も書いていますが、私は、山奥の過疎の町から親元を離れて観光地にある高校に入ったのですが、年に何回か父親が団体旅行でやって来るので、そのたびに旅館を訪ねて小遣いを貰ったりしていました。父親だけでなく母親も、婦人会の旅行でときどき来ていました。

旅行と言っても、実際はただ宴会するために訪れるにすぎません。私の田舎も旅館が10軒くらいある山奥の温泉場だったので、わざわざよその温泉場に行く必要もないだろうと思いますが、昔はそうやって街に出ることが楽しみでもあったのでしょう。しかも、利用する旅館も決まっていたのでした。それぞれの町や村にはご用達みたいな旅館があったのです。

もっとも、今をときめく湯布院温泉や黒川温泉も、昔は鼻の下を伸ばした男たちが行くピンク色の温泉地でした。前も書いたかもしれませんが、近所のおいさん、、、、(おじさんのこと)が、黒川の枕芸者に会うために、夜毎、高原の道をバイクを走らせていたのは子どもの間でも有名でした(親の噂話を盗み聞きしてみんなに触れ回っただけですが)。しかし、湯布院や黒川は、小さな温泉地で小回りが利いたので、時代の波にうまく乗って従来のイメージを一新することに成功したのでした。

そして、瀕死の状態にある温泉地にトドメを刺したのが、今回の新型コロナウイルスだったと言えるでしょう。友達も言っていましたが、地元の温泉ホテルは韓国や中国の資本に買収されているそうです。私が知っているホテルの名前を次々にあげて、「みんな買収された」と言っていました。

■ポン引きのおばさん


仲居さん不足をもたらしたのは、昔からの仲居さんが高齢化して、引退したことが大きいのかもしれません。仲居さんもまた、「流れて来た」人が多かったのです。

前に帰省した折、飲食店をやっている友達の店に行こうとしたら、道がわからなくなり、たまたま路地の角で客引きをしていたお婆さんに店の場所を訊いたら、何と店まで案内してくれたことがありました。

友達にその話をしたら、「ああ、あの婆さんにはときどき小遣い銭を渡しているんだ」と言っていました。そうすると、観光客を連れて来てくれるのだそうです。

で、この前電話があった際、「あのポン引きのお婆さんはまだ元気か?」と訊いたら、生活保護を受給して施設に入ったと言っていました。友達の話によれば、(多分離婚して)若い頃「流れて来て」、飲み屋で働いたり仲居をしたりしているうちに、旦那を見つけて「二号さん」になり面倒を見て貰っていたそうです。そして、旦那亡きあとは街頭に立って客引きで生活費を稼いでいたのです。ポン引きは、余所者が集まる色街において、相互扶助みたいな側面もあったのです。

高校生の頃、友達の家に行くのにポン引きが立ち並ぶ裏通りを歩いていると、私は体格がよかったので、「お兄ちゃん、遊んで行かない。安くするよ」と次々と声がかかるのでした。でも、高校生の私には、ズボンのポケットに100円玉や10円玉が数個しか入っていません。そのため、「申し訳ございません」というような恐縮した気持で通ったことを覚えています。

今のように社会が整序化されシステム化される前の時代は、たしかに暴力が身近にあり人の欲望もむき出しになった荒っぽい社会だったけど、しかし一方で、そのように人の温もりのようなものがあったし、お互いに助け合う精神も健在だったのでした。

私が高校生の頃は繁華街の路地はポン引きだらけで、温泉街の風物詩と言ってもいいような光景がありましたが、今はポン引きのおばさんを見かけることもほとんどなくなりました。

■インバウンドのもう一つの顔


とは言え、韓国などから来るおっさんたちの目的が、ゴルフと買春であることには変わりがありません。中国政府の方針でまだ復活していませんが、中国からやって来るおっさんたちの団体も同じです。それは、テレビが決して伝えることがないインバウンドのもう一つの顔なのです。昔は、日本人がゴルフと買春のために韓国に行っていましたが、いつの間にか逆になっているのでした。

東京などには外国人観光客専門の風俗も多いそうで、東京の若い女性の間に梅毒が流行しているのも、それと無関係ではないと指摘する人もいるくらいです。

日本は、いつの間にか「安い国」「買われる国」になったのです。しかも、テレビやYouTubeなどは、それをさも自慢であるかのように「ニッポン凄い!」と伝えているのでした。
2023.07.01 Sat l 社会・メディア l top ▲