信濃町駅(写真AC)■池田氏の功績と神格化
メディアにおいて戦後のタブーに「鶴タブー」と言われるものがあります。言うまでもなく、創価学会のタブーです。今は絶縁していますが、創価学会がかつて信仰していた日蓮正宗の紋が鶴だったことから、そう言われているのだそうです。
創価学会は、東京都から認可を受けた「宗教法人」ではあるものの、もともとは日蓮正宗という日蓮宗から派生した新興宗教の門徒の団体だったのです。
1930年(昭和5年)に、日蓮正宗の信徒であった牧口常三郎氏と戸田城聖氏が中心になって、「創価教育学会」として創立されたのがはじまりです。「創価教育学会」に集まったのは、「教育信徒」と呼ばれるコアな信者たちでした。
牧口氏と戸田氏はともに苦学して教師になった人物で、「創価教育学会」は人生哲学の勉強会の性格が強く、当初は宗派を問わず誰でも入会できたそうです。しかし、二人が日蓮正宗の信徒であったことから、のちに日蓮正宗の信徒であることが入会資格になったそうですが、宗教学者の中には、どうして日蓮正宗の信仰が入会条件になったのか未だに理解できないと言う人もいるそうです。つまり、彼らが究める人生哲学と日蓮正宗の教学には、それほどの関連性がなかったということです。
二人ともに元教師ですが、牧口氏は学究肌、戸田氏は山っ気の多い事業家といった感じで、その気風はまったく違っていたそうです。
なお、創価学会では伝道のことを「折伏(しゃくふく)」と言って、かなり過激で執拗なものだったそうで、特に戦後、なりふり構わず組織拡大をめざした戸田・池田時代の「折伏」は世間からも恐れられ、それが未だに残っている”創価学会アレルギー”の一因になったことはたしかでしょう。
戦前の日本は、今の靖国神社に象徴されるように、天皇を神と崇めるための国家神道の体制だったのですが、そのために国家神道を認めない「創価教育学会」は、戦時中にほかの神道系の新興宗教やキリスト教などとともに淫祠邪教と見做され、治安維持法違反で弾圧されたのでした。牧口常三郎氏も戸田城聖氏も不敬罪で逮捕され、そして、初代会長の牧口常三郎氏が高齢ということあって獄死するのでした。
創価学会と名乗るのは戦後で、敗戦後の1946年(昭和21年)、二代目の会長になった戸田城聖氏が「創価教育学会」を創価学会と名称を改めて、信徒団体として再出発してからです。
戸田城聖氏は、1958年(昭和33年)に亡くなったのですが、そのあとを継いで1960年(昭和35年)に32歳で第三代会長に就任したのが池田大作氏です。
池田大作氏は、1928年(昭和3年)1月2日、東京府荏原郡入新井町大字
不入斗で、海苔製造業者(海苔漁師)の池田
子之吉・
一の五男として生を受けました。
出生地の東京府荏原郡入新井町大字不入斗は、現在の東京都大田区大森北です。JR大森駅東口から京急の大森海岸駅に向かって歩いたあたりだそうです。しかし、2歳のとき、一家は羽田町大字
糀谷に移転しています。
池田大作氏は、6人きょうだいの五男として生まれたのですが、その後も家族が増え、最終的には養子も含めて池田家は10子になったそうです。文字通り、貧乏人の子沢山を地で行ったのでした。
しかも、池田氏が尋常小学校2年のときに、父親がリウマチで寝たきりになり、一家の生活を支える働き手を失うことになります。さらに、日中戦争が拡大の一途を辿ったことで、既に社会に出ていた池田氏の上の4人の兄が相次いで招集され、一家の生活は貧窮を極めるのでした。
そのため、池田氏は高等小学校(現在の中学校)に入学したときから、家業の手伝いだけでなく新聞配達のアルバイトを始めるのでした。ところが、生来の虚弱体質に加えて栄養失調と過労によって、池田氏自身も「肋膜」(結核)にかかるのでした。まさに踏んだり蹴ったりの少年時代ですが、ただ、学業は優秀とは言えなかったものの、真面目な性格であったのは事実のようです。
後述する『池田大作「権力者」の構造』(1981年三一書房)の中で著者の溝口敦氏は、次のように書いていました。
少年時代から彼は稼ぐに追いつく貧乏なしという哲学の実践者であることを強いられ、貧乏への彼の対応は、ひたすら労働と親孝行だけであった。彼は遊びざかりを労働で過ごした。
※以下、「ディリー新潮」の記事に関連した部分は後日付け足しましたので、為念。
下記の「ディリー新潮」の記事によれば、池田氏が創価学会の中で頭角を現すのは、戸田城聖氏が東京都建設信用組合を破綻させ、そのあと昭和25年に愛人らを役員にした大蔵商事という小口金融の会社(今で言うサラ金の走りのような会社)を設立してからです。東京都建設信用組合の頃から「カバン持ち」として戸田氏と行動を共にしていた池田氏は、大蔵商事では営業部長として辣腕をふるって戸田城聖氏の信頼を得、創価学会内でも出世の階段をいっきに駆け上っていくのでした。そして、戸田氏亡きあと、32歳で第三代の会長にまで上り詰めたのでした。
デイリー新潮【池田大作の履歴書】かつては高利貸しの営業部長だった…神格化のために行われた大袈裟な演出とは池田大作氏の功績は何と言っても、創価学会の組織拡大です。戸田城聖氏が二代目会長に就任した1946年当時、創価学会の会員数は3千人程度だったそうです。それで、戸田城聖氏は「折伏大行進」なるものを掲げて、かなり過激な布教活動を進めるのでした。そして、戸田氏が亡くなる前年の1957年には75万世帯を達成したと言われています。
さらに池田大作氏は、戸田氏の「折伏大行進」を受け継いで布教活動を拡大し、1964年には500万世帯、1970年には750万世帯を達成したのです。創価学会にとって、戸田城聖氏が中興の祖であれば、池田大作氏は躍進の立役者と言えるでしょう。
大蔵商事に関して言えば、同社は手形の割引と個人向けの貸付を行っていたそうです。ただ、当時の法定金利は年利109.5%(1日当たり0.30%)で、「
十一」と呼ばれる10日で1割という高利も当たり前の時代でしたので、かなりえげつないことが行われていたのは想像に難くありません。実際に病人の布団を剥いで取り立てたこともあるそうで、池田氏自身が「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どうしてこんないやな仕事をするのかと思った」(継命新聞社・『社長会全記録 人間・池田大作の野望』)と述懐しているくらいです。その”体験”が「折伏大行進」に生かされたのではないか。そう思われても仕方ないでしょう。サラ金で社員にハッパをかけるのと同じように、「折伏」の進軍ラッパが鳴らされていたのかもしれません。
もっとも、この会員数はあくまで学会が公称した数字にすぎず、宗教学者の島田裕巳氏は、実際の会員数は2020年現在で177万人くらいではないかと言っていました。
組織の拡大を受けて、「国立戒壇」の悲願を達成するために政界進出をめざした池田氏は、1961年に創設された公明政治連盟を発展解消させて、1964年に公明党を作り、創価学会みずからが国会に議席を持つに至ったのでした。
躍進の立役者の池田大作氏は、その功績で神格化していきます。外部の人たちの中には、創価学会が日蓮正宗の信徒団体だと知らなかった人も多いのではないかと思いますが、それくらい学会の中では池田大作氏が教祖のように偶像視されていくのでした。
それに伴い、日蓮正宗本山との軋轢も表面化し、そして、1991年(平成3年)に創価学会は日蓮正宗から破門されるのでした。
では、現在の創価学会が信仰の対象にする「ご本尊」は何なのか。創価学会のサイトには次のように書かれていました。
創価学会では、日蓮大聖人が現した南無妙法蓮華経の文字曼荼羅を本尊としています。「曼荼羅」とは、サンスクリット語「マンダラ」(maṇḍala)の音写で、仏が覚った場(道場)、法を説く集いを表現したものです。
御本尊は、法華経に説かれる「虚空会の儀式」の姿を用いて現されています。
創価学会
創価学会とは(ご本尊)
■創価学会の”罪”と関連本
池田大作氏の死去に際して、岸田首相はみずからのX(旧ツイッター)に「御逝去の報に接し、深い悲しみにたえません。池田氏は、国内外で、平和、文化、教育の推進などに尽力し、重要な役割を果たされ、歴史に大きな足跡を残されました。ここに謹んで御冥福をお祈りするとともに、御遺族の方々および御関係の方々に対し衷心より哀悼の意を表します」と投稿したそうです。それに対して、ときの総理大臣が総理大臣名で一宗教団体の指導者の死に哀悼の意を表明するのは政教分離の原則に反するのではないかという声もありますが、彼らにそんなことを言っても馬の耳に念仏でしょう。もっとも、メディアの報道も、おおむね岸田首相の投稿と似たようなものなのです。
日本には、死者を鞭打つのは慎むべしという考えがありますが、それにしても、池田氏が率いた創価学会や公明党の”
罪”に関して、一片の言及もないのは異常です。創価学会の顧問弁護士を務めていた山崎正友氏(故人)らが暴露した、日本共産党の宮本顕治宅盗聴事件をはじめとする、創価学会が敵対する団体や個人に行った数々の謀略や工作にまったく触れてないのは、(あえてメディアの禁止用語を使えば)片手落ちと言わねばなりません。
手元の本の山の中から創価学会関連の本を探したら、『噂の真相』元編集長だった岡留安則氏(故人)の『武器としてのスキャンダル』(パシフィカ、のちにちくま文庫)と、『現代の眼』の編集長だった丸山実氏(故人)の『「月刊ペン」事件の内幕-狙われた創価学会』(幸洋出版)と、”池田批判”の嚆矢とも言うべき溝口敦氏の『池田大作「権力者」の構造』(三一書房、のちに講談社α文庫)が出てきました。
『武器としてのスキャンダル』には、公明党の初代委員長だった原島宏治氏の息子で、学会の教学部長を務め「学会きっての理論派といわれた」(同書より)原島崇氏(故人)が、山崎正友氏(故人)と組んで暴露した創価学会のスキャンダルと、それに伴って池田氏の国会喚問が与党内で浮上したことをきっかけに、公明党が自民党に接近した経緯などが書かれていました。
『「月刊ペン」事件の内幕-狙われた創価学会』(幸洋出版)では、創価学会を擁護する視点から、創価学会が行った言論弾圧事件のひとつである「『月刊ペン』事件」について書かれていますし、『池田大作「権力者」の構造』(三一書房)は、地道な取材に基づいて学会の“公式本”とは異なる視点から池田氏の半生を描いており、同書は上記のディリー新潮の記事の下敷きにもなっているのでした。
いづれまとめて(もう一度読み返して)紹介したいと思います。
また、竹中労氏も、創価学会系の総合雑誌『潮』に、牧口常三郎初代会長の生涯を描いた「牧口常三郎とその時代」を連載していて、それをまとめた『聞書庶民列伝/牧口常三郎とその時代』の4部作も持っていたのですが、それは引っ越しの際に散逸(処分?)してしまったようです。
ちなみに、竹中労氏は、『現代の眼』1983年3月号に書いた「駅前やくざは、もういない」(『左右を斬る』所収)という文章の中で、次のように書いています。
竹中氏は、「昭和33年の夏から34年の暮れにかけて、京浜蒲田から穴森線がカーブする、その線路際の六畳一間きりに棲んで」いたそうです。
今日といえども、このあたりは東京都内では一、二を争う窮民街の様相を呈しています。小生の居住していたアパートは、すでに取り壊されて建てなおされ、それが早くもボロとなり果てている! さて、向こう三軒両隣のなんと四軒までが創価学会員でありまして(略)、しかも同じ工場に勤務していた。わが家の大家・差配も学会員、表に出るとてえと中華ソバ屋の若夫婦も、信心深き日蓮正宗なのです。
とうぜん、夜討ち朝駆けの折伏です。マルクス・レーニン信じているとなどと言っても、許してくれるもんじゃない。「それが貧乏の原因だ」とおっしゃる、まことにその通り。
(略)けっきょく、折伏はうやむやになり、「学があるのに運がないんだワ」と、しまいには同情を集める身の上となりました。メシも喰わず(喰えず)、金に換える当てのない原稿を書いているところへ、稲荷ずしや菓子を差し入れてくれる。「ご本尊様にお願いしておきましたよ。きっと売れますよ」と声をかけて。涙がこぼれました、ホント。
中華ソバ屋に至っては、小半年も出世払いにして貰ったのです。(略)もしこの親切を通りこした仏のごとき夫婦が存在しなかったら、小生は餓えて志を屈していたにちがいありません。
(『左右を斬る』幸洋出版)
また、別の箇所では、創価学会を擁護したみずからに寄せられた左派からの批判に、感情的とも言えるような反論をしている文章もありました。私も似たような経験がありますので、この文章に込められたヴナロードのような竹中労氏の気持もよくわかるのですが、ただ、個人的には”買い被り”という気がしないでもありませんでした。
上記の丸山実氏の本もそうですが、創価学会に対するネガティブな記事に対して、いわゆる”総会屋雑誌”でありながら新左翼系の総合誌という性格を持っていた『現代の眼』界隈では、まるで敵の敵は味方と言わんばかりに創価学会を擁護する(アクロバティックな)論調が展開されていたのは事実です。それを”奇妙な光景”とヤユする人もいたそうですが、しかし、岡留安則氏も竹中労氏も丸山実氏も既に鬼籍に入っています。もう今は昔なのです。
■身近にいた学会員たち
このブログでも何度も書いているように、私の田舎は九州の久住連山の麓にある山間の町ですが、中学の頃、クラスメートが夏休みに家族で富士山に登山すると言うのでびっくりしたことがありました。
今と違って、九州の片田舎から遠路はるばる富士山に登るというのは経済的な負担だけでも大変なことです。九州の山奥で暮らすクラスメートの家は決して裕福とは言えず、彼自身も中学を卒業すると関西方面に集団就職したくらいです。
山だったら、近くに久住連山や祖母傾山があるのに、どうしてわざわざ富士山に登りに行くのか。家に帰って親にその話をしたら、彼の家が創価学会の熱心な信者なので、それと関係があるんじゃないかと言っていました。今思えば、富士山ではなく、富士山の麓の富士宮市にある日蓮正宗の総本山の大石寺に参拝するということだったのかもしれませんが、何だか学校で習ったばかりのメッカ巡礼みたいな話だなと思いました。でも、日蓮正宗と絶縁した現在、創価学会の信者たちにとって、富士山はもう特別な山ではなくなったのでしょう。
九州の地元の会社に勤めていた頃、販売した商品のローンが滞った顧客の家を夜間に訪問したことがありました。その顧客は、自営で建築業だかをしていていました。国道から脇に入った田舎道を進み、さらに私道に分け入ると行き止まりの山の中腹に家がありました。しかし、家の外も中も、ゴミ屋敷とは言わないまでも思わず目を背けたくなるような荒れようでした。そんな家の中の裸電球の下に小学生くらいの子どもが3人がいるだけでした。
「お父さんは?」と訊いたら、出かけていると言うのです。「お母さんも出かけているの?」と訊いたら、急に表情が暗くなり「お母さんはいない」とポツリと言ったのでした。それで、「これをお父さんに渡してね」と言って、名刺を渡して帰りました。
同じ集落の人に聞いたら、創価学会の活動にのめり込み、「あんな風になった」と言っていました。奥さんは、宗教活動が原因かどうかわからないけど家を出て行ったそうです。一方で、創価学会の会員の人に聞くと(と言っても会社の事務員の親ですが)、「あの方は凄い人ですよ」と言っていました。何でも地区のリーダーみたいな人だそうで、事務員の親も「先生」と呼んでいました。
竹中労氏が書いているような話も事実なら、この「地区のリーダー」の話も事実なのです。と言うか、こういう話は当時はめずらしくなかったのです。世間ではそれを「宗教にのめり込む」というような言い方をしていました。
■会員の高齢化と創価学会の正念場
今から20年以上前に、仕事で新宿の四谷三丁目によく行っていたのですが、四谷三丁目の交差点には、いつもイヤホンをした男性が立ってあたりに鋭い視線を放っていました。私は公安の刑事なのかと思ったのですが、取引先の会社の人に聞くと創価学会の職員なのだそうです。知り合いは、信濃町の舗道で写真を撮っていたら、創価学会の職員らしき人物から「どうして写真を撮っているんだ?」と詰問されたそうです。「ここは天下の公道だろうが!」と怒鳴りつけたら、睨みつけながら去って行ったと言っていました。
また、別の知り合いの女の子が信濃町の路地の奥のマンションに住んでいたのですが、深夜、車で女の子を送って行くと、あちこちの路地の暗がりに揃いのジャンパーを着た男が立っているのです。「あれは誰?」と訊いたら、やはり、創価学会の職員だということでした。女の子は「あの人たちが警備しているから安心よ。助かっているわ」と呑気なことを言っていましたが、私は薄気味悪く感じてなりませんでした。
四谷三丁目のあたりには、信濃町の創価学会の本部を訪れた信徒の女性たちがよくグループで地下鉄の駅に向かって歩いていましたが、当時でも40~60代くらいの中高年の女性が多かったので、今はもっと高齢になっているに違いありません。公明党の選挙で一番手足となって動くのは婦人部だそうで、婦人部の高齢化が公明党の集票力の衰退の要因になっているという指摘もあります。
2019年と2022年の参院選の比例の得票数を比べると、2019年は653万票で2022年は618万票です。比例のピークは2005年の衆院選の898万票で、以後減少傾向を辿っているのでした。あと10年もすれば公明党の存立そのものに関わるほど、さらに深刻化しているかもしれません。
ユダヤ人と同じで、創価学会の信者が社会のさまざまな組織の中枢にいますので、未だに「鶴タブー」が存在しているのでしょうが、しかし、時代が変わり世代交代が進めば、ジャニーズや宝塚歌劇団と同じように、「鶴タブー」もタブーでなくなる日が来るかもしれません。バカバカしい話ですが、メディアなんて所詮はそんなものです。
タブーがなくなれば、創価学会は正念場を迎えるはずです。それとともに、池田大作氏も”ただの人”になっていくのかもしれません。
■創価学会の原点
人々が宗教にすがるのは、貧困と病気と家庭の不和だと言われますが、とりわけ創価学会には貧困と病気と家庭の不和に直面した地べたの人たちが多く、そのため共産党と競合し、単にイデオロギーからだけでなく日常活動においてもしのぎを削るライバルになったのだという指摘があります。
竹中労氏が言うように、牧口常三郎氏にはそんな創価学会の原点とも言える”下”の視点があり、宗教家としてのカリスマ性がありました。しかし、池田氏の場合は、大蔵商事時代の「取り立て屋」としての”成功体験”が信仰上のエポックメイキングになっているような気がしてなりません。そのため、宗教家というよりオルガナイザーといった感じで、溝口敦氏も『池田大作「権力者」の構造』の中で、池田氏は「宗教者に見られる精神の高貴さや気品に欠ける」と書いていましたが、ときに「痛く」見えるほど成金で俗っぽいイメージが強いのはたしかです。そんな池田氏も信者からは「先生」と呼ばれていたのでした。
ただ、断っておきたいのは、戸田城聖氏も長女と妻を相次いで亡くした上に自分も結核に冒され、宗教に(最初はキリスト教に)救いを求めたのは事実だし、池田大作氏も貧困と病気の中で絶望的な10代を送りながら、親孝行するために真面目に必死に生きてきた中で、宗教に救いを求めたのは事実なのです。そのことは否定できないのです。
そして、戸田氏は30歳のときに牧口常三郎氏とともに創価学会を設立し、池田氏は19歳でその創価学会と出会うのでした。それは、日蓮正宗の教学とは異なる、彼ら自身が作り上げた人生哲学(生きる
導べ)ともいうべきものです。彼らは、それに不幸を絵に描いたような、みずからの人生の救いをみずからで求めたのです。創価学会が下層の人々の信仰を集めたのも
宣べなるかなと言うべきでしょう。