メディアミックス化する日本


既に「ネットの『責任』と『倫理』」でも触れましたが、大塚英志著・『メディアミックス化する日本』(イースト新書)を読みました。「あとがき」によれば、本書は、今年の夏に東京大学大学院情報学環で開かれた「角川文化振興財団寄付講座」のなかで、受講のために来日した外国人向けにおこなった「裏ゼミ」の講義を書き起こしたものだそうです。

KADOKAWAとドワンゴの合併によってますます進化するメディアミックス。しかし、同じ角川でもかつて角川春樹がおこなったものと今のKADOKAWAの総帥・角川歴彦がおこなっているものは、似て非なるものだと著者は言います。角川春樹がおこなったのは、まず「原作」があって、それを映画化し相乗効果を狙う典型的なタイアップ商法でした。それは、メディアミックスではなく「トランスメディア」だと言います。

一方、角川歴彦のそれは、一つの「世界観」を作り、そこから多様な作品を生み出すTRPGの考え方に基づいたものです。ゆえに「角川歴彦型メディアミックス」はポストモダン的と言われるのですが、しかし、著者によれば、この「多元的なストーリーテリングの仕組み」は、中世の「説教師」の口頭構成法や江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃や能や講談など、大衆文化にもともと内在していたのだとか。講談速記本を出版することから出発した(大日本雄弁会)講談社の成り立ちに示されるように、「固有の作者」や「著作権」というのは、近代の大衆メディアから派生的に生まれたものにすぎないのです。

江戸時代の大衆表現には『世界網目』という「世界観」の種本があり、そこから「趣向」に沿ってさまざまな物語が立ちあげられたのです。さらに受け手もそれに参画し、「生産」と「消費」が溶け合っていくシステムを著者は「物語消費」と呼ぶのでした。現代におけるその典型例がアニメや音楽などの「二次創作」です。KADOKAWAとドワンゴの合併は、ユーザー(ファン)の「二次創作」への課金を企む(つまり、プラットフォームを提供することで、ロイヤリティを取ってコンテンツを作成させる)、「吐き気もする」ようなシステムだと著者は批判するのでした。

KADOKAWAでは、「著者」と「編集者」が、KADOKAWAに内在したある種の物語消費論的なシステムの中で「メディアミックス」の名の元にコンテンツをこれまで制作してきたが、そこにユーザーのコンテンツを吸い上げる「ニコ動」が一体化した時、そこに成立するのは、より大きなプロもアマも包摂する巨大なコンテンツの生成システムである。なるほど、これまでも制作は見えない制度によって呪縛されてきた。そしてその呪縛の所在を示すのが批評であり、格闘するのが文学でもあった。しかしこの不可視の制度が外部化し、ユーザーサービスとしての装いを施すことで、ユーザーの些細な水準での徹底した快適さが提供され、その環境の中で人は消費行動としての創造性を「快適に」発露することになる。


そして、KADOKAWAとドワンゴの合併がもたらすのは、「『快適』に想像力が管理された未来である」と言います。そんな「趣向」の変化は、「若者の『教養』がマルクス主義からアニメおたく的文化に急激に変化した」ことと無縁ではないでしょう。今の若者たちが政治や宗教や文学や社会などにコンタクトする際、そのベースになるのはアニメやRPGなどによって培われた「サブカルチャー的想像力」なのです。純文学や左翼的言説が見向きもされなくなったのもむべなるかなです。

それはまた、現在(いま)の反知性主義が跋扈する風潮においても同様です。偽史カルト(歴史修正主義)は、ネトウヨだけの話ではないのです。安倍首相のFacebookでの発言などを見るにつけ、安倍内閣が「ネトウヨ内閣」と言われるのはあながち的外れではないような気さえします。安倍首相に代表されるような、中国や韓国によって正しい歴史が歪められたと主張する「被害者史観」(その裏返しとしての「慰撫史観」)とオウム真理教は地つづきなのです。彼らに共通するのが偽史カルトです。

著者は、「受け手側の創作性を発動させて自発的に<大きな物語>に回収していく仕組み、つまり角川歴彦型メディアミックスとしてオウムはあった」と言います。

 少し前までなら、作家になるためには新人賞などを経由して「小説家」としてメディアに参画する権利を有する必要があり、その基準の妥当性はさておき、完全なコピーアンドペーストではない程度の創作性は認められていました。しかし、物語消費的なメディアミックスというものがあれば、そこに広く誰でも参加でき、擬似的な創作というものを行う環境が与えられるのです。
 このような擬似的な創作をしながら世界の中に参入していくことは、「固有の私になりたい」と「大きな物語の中に抱かれたい」という、近代的な二つの欲望を何らかのやり方で満たすことなのだと言えます。


でも、これはあくまで「擬似的な創作」にすぎないのです。「物語消費的なメディアミックス」は、そうやって消費しながらひとつの世界観に回収していく装置なのです。

もちろん、それは、YouTubeやニコ動の「二次創作」だけでなく、ネットの書き込み全般に言えることです。彼らが政治や社会に対して主張するその根拠に、本を読んだり勉強したりして得たいわゆる「古典的な教養」は皆無です。すべてはネットのパクリ(口真似)でしかないのです。だからこそ彼らはカルト化していかざるを得ないのだとも言えるのです。オウムがしたことは、「架空の歴史と本当の歴史を交換しようとするテロ」であったと著者は言いますが、もし今のネット住人たちが80年代にタイムスリップしたなら、オウムが捏造する「大きな物語」にからめとられるのは間違いないでしょう。

ヘイト・スピーチの団体の幹部がニューエイジ系の雑誌の編集者であった事実や、幹部たちが知り合ったのは自己改造セミナーだったという噂などを知るにつけ、ヘイト・スピーチはカルト宗教の問題でもあるのだということをあらためて痛感させられるのでした。もちろんそこには、口真似しかできない「架空の私」が伏在しているはずです。

「ニューエイジ」や「自己改造セミナー」とヘイト・スピーチ、それらを架橋しているのが偽史カルトであり「サブカルチャー的想像力」です。「架空の私」を「架空の歴史」に飛躍させる、それが「セカイ系」なるものの内実です。その装置(仕掛け)として「おたく騙し」の「角川歴彦型(物語消費的)メディアミックス」があるのだと著者は言うのでした。「角川歴彦型メディアミック」が政治や宗教の動員ツールとしていくらでも転用が可能だと言うのは、そのとおりでしょう。

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2014.11.14 Fri l 本・文芸 l top ▲